1
千島列島北端 幌筵島。
帝国軍が保有する拠点の中では最北端に位置し、殆どソ連領に接している場所である。
かつて、「奇跡の作戦」と謳われたキスカ島守備隊撤収作戦の根拠地となった栄光の地であり、今も尚、北方に睨みを利かせる為の重要な拠点である。
しかし今、この幌筵全体が慌ただしく動き出そうとしていた。
駐留する輸送船に兵士達が乗り込み、殺気立った様子で出港準備が整えられていく。
後に残るのは、空になった施設や倉庫ばかりとなる。
その様子を、木村正臣少将は険しい顔つきで眺めていた。
見事な八の字髭を口元に蓄えたこの提督は、キスカ島撤収作戦の立役者であり、現在、帝国北部守護を担う第5艦隊の司令官でもある。
「作業は順調か?」
木村に尋ねられた少女は、やはり難しい表情で首を振った。
木村と共にキスカ島守備隊撤収作戦を行った阿武隈は、変わらずに彼の旗艦として第5艦隊を率いる立場にあった。
その阿武隈も、自分達に迫りつつある危機を前に緊張を隠せない様子である。
「少し遅れてるって、司令部の方から報告があった」
「急がせてくれ。もう、あまり時間が無い」
木村は、彼にしては珍しく、焦りを含んだ調子で命じる。
既に満州での悲惨な様子は、この幌筵にも聞こえてきている。
猶予は一刻たりとも、残されていなかった。
「・・・・・・・・・・・・頼むぞ、水上」
木村は、かつて共に、あの痛快な救出作戦を実行した若き提督の事を思い浮かべる。
状況は控えめに言っても絶望的。
しかし木村は、まだ諦めるのは早いと考えていた。
帝国海軍は一時期の力を失ったとは言え、まだ完全に消滅した訳ではない。
それに、必ずやあの青年が、逆転の一手を刻んでくれるはず。
木村はそう、固く信じていた。
地鳴りを響かせ、怒涛の如く国境を侵犯する巨大な暴力の群れ。
その様は、まるで押し寄せる津波のようだった。
1945年7月26日未明。
ソ満国境線付近に集結したソ連軍主力部隊は、モスクワからの命令を受けると満を持して3方向から満州帝国へと雪崩れ込んだ。
その数、総勢で150万に及ぶ大軍勢である。
しかも最新鋭の戦車を持つ機甲師団を有し、精強な空軍に掩護された精鋭部隊である。
これに対し、主力軍の大半を既に南方へ異動させていた帝国軍の抵抗は、無力に等しかった。
ソビエト連邦元首スターリンは、今回の日ソ不可侵条約破棄、及び対日宣戦布告を「連合国からの要請に基づき、未だに戦争状態を継続し、世界平和を阻害し続ける悪逆非道なる帝国を討伐する為止む無く」と発表している。
しかし、合衆国の勢力が後退し、帝国も昔日の力を失った今になっての参戦である。誰がどう見ても、その背後に下心があるのは明白だった。
そもそもソ連は、占領した東欧諸国の大半を衛星国家として自国の領土に組み込み、勢力拡大を図っている。
ならば、極東においても同じ事を考えたとしてもおかしくは無い。
合衆国軍の勢力が減衰した今なら満州を、事に寄れば帝国の本土その物を手に入れる事も不可能ではない。
スターリンはそのように考えたのだ。
スターリンは対日参戦を行う前、側近に対し「満州、朝鮮、樺太、千島、北海道は最低限手に入れる」と言っている。
その言葉を、有言実行する心算なのだ。
そして、正にその言葉は現実の物となりつつある。
スターリングラードをはじめとした多くの激戦地において、精強を誇ったドイツ陸軍を撃破したソ連軍に対し、2線級の部隊しか配備していなかった帝国軍に、対抗する術は無かった。
そもそも、豊富な財源を元手に近代的な機甲師団を多数所有するソ連軍と、未だに歩兵中心の部隊編成をしている帝国陸軍とでは、戦力に雲泥の差がある。
勝機など、初めからひとかけらもありはしなかった。
帝国陸軍国境守備隊は勇敢に戦ったが、わずか数刻の戦闘で壊滅状態に陥り、敗走の憂き目を見た。
これにより、怒涛の進撃を行うソ連軍を阻止できる物は何も無くなったのである。
ソ連軍主力は、遮る物の無くなった満州野になだれ込み、暴虐の限りを尽くした。
主要都市の多くはソ連軍によって占領され、悲劇は一気に拡大する。
虐殺、略奪、婦女暴行。
ほんの数か月前、ドイツの首都ベルリンで現出した地獄が、規模を拡大して満州で再現されたのだ。
なお、犠牲になった多くは、民間人である。
政府関係者や軍人達は、ソ連軍の侵攻が確実になったと見るや、民間人を置き去りにして自分達だけが満州を脱出したのである。
民間人に対して情報開示を行う事無く、密かに脱出した事から考えても、意図的に民間人を置き去りにして、ソ連軍に対する「撒き餌」に利用したのは明らかであった。
取り残された民間人は悲惨だった。
彼等は自らの運命を、盗賊の群れに差し出すしかなかったのである。
一方、ソ連軍は捕虜にした帝国軍兵士や民間人たちをシベリア鉄道の列車に乗せ、自分達の本国へと連行していった。
後世に悪名高き「スターリンの奴隷狩り」。
即ち、「シベリア抑留」の始まりである。
彼等は凍てつくシベリアの凍土に送り込まれ、この先、長い者で11年にもわたる強制労働に従事する事になる。
中には生きて祖国の土を踏む事が叶わなかった者達も、数万人に及ぶほどである。
当然、味方である筈の連合国からも非難の声が殺到した。
スターリンはこれに対し「長きに渡る非道なドイツとの戦いで多くの兵士達の命が失われ、我がソ連は深刻な労働力不足に陥っている。労働力の早急な回復は、我が国の急務である」と強弁し、自国の行為を正当化。後々まで撤回することは無かった。
更に、スターリンは周到だった。
満州に向けて大軍を進める一方、別働隊をカムチャッカ半島とウラジオストクの港へと集結させたのである。
彼等の狙いは、帝国軍が領有する、南樺太、千島、そして北海道の占領である。
これを支援する為に、戦艦3隻、巡洋艦3隻、駆逐艦8隻から成るソ連太平洋艦隊が出撃、防備の手薄な帝国北方地域に襲い掛かった。
ウラジオストクの部隊が南樺太に上陸する一方、カムチャッカに集結した部隊は島伝いに千島への侵攻を開始したのである。
こうして、帝国全土がソ連軍侵攻に衝撃を受ける中、
横須賀に集結した連合艦隊にも、出撃命令が下ろうとしていた。
2
「恐れていた事が、ついに起きてしまったか・・・・・・・・・・・・」
連合艦隊司令長官の小沢治俊は、険しい表情で呟きを漏らす。
一方的な条約破棄。
そしてソ連軍による満州、樺太、千島への侵攻。
帝国軍の対応は全てにおいて後手に回っていた。
「そもそも帝国海軍の戦力は、南から攻めてくる敵を迎え撃つように配備されてきました。北からの敵軍侵攻は、殆ど考慮されていなかったのが現状ですからね・・・・・・」
彰人も嘆息交じりに応じる。
戦力の半分以上を南に振り分けた結果、北への備えが疎かになっていた事実は否めない。そもそも、そうならない為の不可侵条約だったのだが、こうなっては最早、如何ともしがたかった。
「過去の事を悔やんでも始まらん。問題はこれからだ」
小沢は、殊更に明るい口調で言った。そうでもしないと、際限なく沈み込んで行きそうになるからである。
既に出撃命令を受け取った連合艦隊各艦は、補給作業を始めている。
それと同時に、北方警護を担当する第5艦隊にも合流を命じていた。
この命令を受け、第5艦隊司令官 木村正臣少将は幌筵駐留の陸軍部隊と共に同地を脱出。もう間もなく大湊警備府に到着する予定だった。
「問題は、樺太、千島を占領しながら迫ってくる敵部隊です。満州を攻めている部隊が本土に辿りつくまでにはまだ時間がかかりますし、仮に彼等が来るにしても、それまでには国内の部隊を集結させる時間は稼げます」
つまり、北から来る部隊さえ撃退する事ができれば、どうにか光明が見えて来ると言う訳だ。
因みに、
この時、彰人はあえて、満州の戦線で犠牲になる人々の事を、頭の中で切り捨てた。
自分の非道さについては認識している。彼等は本来、自分達が救わなくてはならない人々である事も、痛い程に判っている。
しかし最早、事態はそこまで気に掛けていられるほどの余裕は無く、更に言えば満州の内陸部で行われている戦闘に、海軍が介入する事は難しい。せいぜい、基地航空隊の運用について検討する以外、する事が無いのだ。
総花的な作戦を取れる程、帝国軍にもはや余力は残されてい。やるならば、残された兵力を一点に集中し、敵に大打撃を与える以外に方法は無い。
勿論、犠牲は大きな物になるだろう。
その事を考えるだけでも、目眩がするようだ。
しかし、もはやその事を気にしている余裕はない。事態はそこまでひっ迫しているのだ。
いずれ、この事の償いはしなくてはならない。
彰人はそう思わずにはいられなかった。
「だが、具体的にはどうする? 情報ではすでに敵は南樺太と千島への侵攻を開始している。今から我々が急行しても、これらの地域を救援する事はできん」
小沢の言う通りである。
ソ連軍の勢いは凄まじく、樺太や千島の帝国軍は碌な抵抗もできずに粉砕されている。
悔しいが、今から出撃しても樺太、千島を救援する事も、これらの拠点を取り戻す事も出来ないだろう。
それどころか、敵の矛先が本土へ向けられるのも、時間の問題だった。
「海軍力では我が軍が上です。海上で奴等を迎撃し、殲滅すれば、それ以上の損害は防げるはず」
参謀の1人が、勢い込んで言い放った。
確かに、的を射た意見ではある。
ソ連は基本的に陸軍国家であり、海軍はそれほど強力とは言い難い。日露戦争当時のロシアは世界第2位の海軍力を誇っていたが、東郷提督率いる帝国海軍に太平洋艦隊とバルチック艦隊を殲滅された結果、海軍国としては3流に転落したのだ。
ソ連艦隊のみが相手なら、今の消耗しきった連合艦隊でも充分に勝機はあった。
だが、そこには一つ、大きな問題があった。
「燃料が、不足を来し始めています」
戦務参謀の、誰もが息を飲む。
レイテ沖海戦に勝利し、南方と本土を結ぶシーレーンは辛うじて維持されているが、それでも合衆国は執拗に潜水艦部隊を派遣し、通商破壊戦を繰り広げている。
帝国海軍も海上護衛総隊が奮戦する一方、構築に成功した対潜機雷堰が効果を発揮し、潜水艦による被害は局限されている。
しかし数の少ない海上護衛総隊の戦いには限界があり、潜水艦による輸送船被害はじわりじわりと効きはじめているのが現状だった。
勿論、合衆国との停戦が行為すれば、それらの心配も解消される事になるだろうが、状況的に両国は、未だに「交戦状態」にある。その為、潜水艦による攻撃も頻発しているのが現状だった。
「取りあえず、今回出撃分の燃料は確保できています。しかし今後となりますと・・・・・・・・・・・・」
言葉を濁す戦務参謀の言葉に、彰人は帝国海軍を取り巻く窮状を想わずにはいられなかった。
チラッと、傍らにいる姫神を見る。
燃料が無ければ、いかに世界最速巡戦の彼女と言えど、ただの鉄屑に成り果てる。
開戦以来、彰人と姫神は殆どの期間を共に戦い、太平洋を縦横に駆け巡って来たのだ。彰人には、港に繋がれて動けなくなった「姫神」の姿を、想像する事はできなかった。
「今は、目の前の事に集中しよう。先の事を考えても始まらん」
小沢の言葉で一同は思考を、北から迫るソ連軍の迎撃へと向け直す。
確かに、足元に火がついている状況で、先々の貯蓄について考えている余裕などありはしなかった。
問題は、敵を迎撃する地点である。
既に千島、樺太を救う事が不可能。となると、次は北海道、つまり本土が戦場になる事は明白である。
「敵が本土に取りつく前、海上で何としても迎撃しましょうッ 本土に敵を入れる訳には参りません」
発言した幕僚の言葉に、居並ぶ何人かは頷いて見せる。
確かに、本土に敵を入れたくないと言う気持ちは判る。しかし聞いている彰人は、険しい表情を崩そうとしなかった。
正直、千島・樺太と北海道は、あまりにも距離が近すぎる。こちらが出撃して敵軍に取りつくよりも、敵が本土に上陸する方が早いように思えるのだ。
「彰人?」
そんな彰人を、気遣うように見つめてくる姫神。
と、そんな彰人の様子に気付いたのだろう、小沢が視線を向けて来た。
「水上、何を考えている?」
どこか不穏な空気を漂わせている彰人の様子を感じ取ったのだろう。小沢の声にも、明らかな緊張が見て取れた。
今、彰人の腹中には、一つの作戦が出来上がっている。
ただ、それは帝国軍にとって、到底看過し得ない類の物であるのは確かだった。
だが、
「・・・・・・・・・・・・」
眦を決して、顔を上げる彰人。
ソ連の侵攻から帝国を守り、敵の二度と侵攻意図が起きないようにさせる程の大損害を与える。
その為には、これしか作戦が無いように思えた。
3
それから、僅か数日後の事だった。
満州では未だに砲火と悲鳴の嵐が吹き荒れる中、ソ連軍は、新たなる軍事行動を起こした。
千島列島と樺太を完全制圧下に置いたソ連軍別働隊2隊は、樺太で合流を果たし、その凶暴な牙をいよいよ北海道へと向けたのである。
極東艦隊の支援を受けたソ連軍の大部隊は、700隻近い大輸送船団に分乗、一気に宗谷海峡を押し渡って来た。
彼等は上陸地点を石狩湾に定めると、全軍をそこへ殺到させたのである。
3隻の戦艦を中心にして極東艦隊の支援砲撃の後、上陸を開始するソ連軍。
その圧倒的な戦力を持って瞬く間に橋頭堡を確保すると、ソ連軍は更に内陸部へと侵攻を開始、各街で略奪を繰り返しながら、徐々に勢力圏を広げていく。
帝国軍も北海道駐留の守備隊を差し向ける一方、本州からも増援部隊を派遣し迎撃に当てる。
更に東北地方に集結した航空部隊も支援攻撃を開始する。
しかし、ソ連軍は機甲師団を中心にした強力な陸軍に加えて、空軍の大部隊も投入してきた。
かつてヨーロッパの空を支配した
そのような状況の中、明るい材料も存在した。
ソ連軍の北海道侵攻を前にして、横須賀を出港した連合艦隊が青森県の北東海上に到達。ソ連軍に対する迎撃行動を開始したのである。
海上を覆い尽くす闇の中。
視界の先に、明らかな人工物と思われる発光体が姿を現した。
一同が目を凝らす中、
艦隊の先頭を進む駆逐艦「島風」から、発光信号が送られた。
《我、「島風」・・・・・・誰?》
問いかける視界の先。
反応が返った。
《我、「阿武隈」。合流を歓迎する》
その答えに、艦隊の誰もが安堵の息を漏らした。
前方から接近してくるのは帝国海軍に所属する軽巡洋艦「阿武隈」。
第5艦隊が、合流を果たしたのだ。
「阿武隈」の艦橋において、木村正臣少将は顔を綻ばせながら、前方から近付いて来る艦隊を見詰めていた。
「これでようやく、共に戦う事ができるな」
艦隊を指揮しているであろう青年の事を思い浮かべる木村。
その横顔を、阿武隈は不思議そうな表情で見詰める。
「嬉しそうだね、提督」
「そうか?」
言われて、木村は自慢の髭を撫でながら考える。
ややあって振り返り、阿武隈に微笑みかけた。
「確かに、そうかもしれんな」
かつてキスカ島撤収作戦の折、共に戦って以来、木村は彰人と共に戦う事を待ち望んで過ごしてきた。
しかし木村は北方守備の第5艦隊を任された関係上、南方での作戦に従事していた彰人と共に戦う機会はこれまで恵まれなかった。
その機会が、ようやく訪れたのだ。しかも、祖国を蹂躙する敵の大軍相手に戦う一大舞台である。これ以上のシチュエーションは他にあるまい。
水上彰人と共に戦えば、きっと面白い戦ができる筈。
木村の中に流れる「武人の血」が、確かな奔流を見せようとしていた。
一方、第2艦隊旗艦「姫神」においても、前方に黒々と浮かぶ第5艦隊の姿は確認できていた。
「第5艦隊旗艦『阿武隈』より発光信号。《我、これより貴艦隊の前衛を務める。共に征かん》!!」
見張り員の報告と共に、前方の灯火に動きが生じる。
木村の指揮に合わせ、第5艦隊各艦が反転、第2艦隊の前方へと占位しているのだ。
第2、第5両艦隊。
そして後方からは、小沢連合艦隊司令長官が直率する第3艦隊が続行する。
今ここに、連合艦隊の全戦力が集結した事になる。
昔日と比べて大きく打ち減らされた敗残の艦隊。
しかし、その威風堂々とした姿は、かつての光輝ある姿と比べても、聊かの遜色も有りはしなかった。
それを受け、彰人は帽子の下で眦を上げる。
「全艦に通達。これより我が艦隊は、石狩湾に上陸したソ連軍橋頭堡殲滅の為、進軍を開始する!!」
彰人の声と共に、巡洋戦艦「姫神」の機関は唸りを上げる。
全ては、暴虐なる敵軍を打ち砕き、祖国の人々を守る為。
連合艦隊は北を目指して航行を開始した。
第107話「北へ」