1
初めて乗ってみたが、京介の運転の荒さには、正直辟易する想いだった。
狭い山道を猛スピードで駆け抜け、カーブをドリフトし、木々に側面を擦りつけながら、一切、速度を緩めることなく駆け去って行く。
案外、戦艦の艦長よりも戦闘機のパイロットあたりにでもなった方が良かったのではないだろうか?
それでも、彰人はまだいい方である。
後部座席に座る姫神と黒姫は互いに抱き合い、振り子のようになった車内で必死になって堪えている。
助手席の響はもっと大変で、シートベルトをしているにも拘らず、その小さな体が左右上下に振り回されている。後ろに座っている彰人が肩を支えてやらなければ、そのまま放り出されてしまいそうだった。
だが、その荒っぽい運転のおかげで、街中に入る頃には、どうにか追っ手を撒く事に成功していた。
ようやくスピードを緩めたところで、京介は笑みを含んだ声で言った。
「よし、ここまで来れば安心ですね」
「判ったから、次はもっと穏やかにお願いするよ」
笑みを浮かべる京介に対し、彰人はそう言ってぼやく。
とは言え、「次」がある事など、想像すらしたくないのだが。思わず、あの場に残っていた方が、まだ安全だったのでは、と天秤に掛けたほどである。
「二度と乗りたくないです・・・・・・・・・・・・」
「も、漏らすかと思ったよ・・・・・・・・・・・・」
姫神と黒姫の巡戦姉妹も、口々に不満を漏らす。
「た、助かったから良いだろ」
旗色が悪い京介は、ハンドルを握りながら反論する。
「響は大丈夫?」
「ん、何とか・・・・・・あ、ありがとう、提督」
問いかける彰人に対し、やや青い顔をしながら答える響。
姫神に並んで物静かで動じる事の少ない性格の少女だが、そんな響でも、京介の荒っぽすぎる運転には参ってしまっている様子だった。
とは言え、こうして彰人も姫神も揃って助かった以上、愚痴ばかりを言っても始まらないだろう。
彰人としても確認しておきたい事があったし。
「それで成瀬、これはどういう事なの? なぜ君達が?」
愛国志士団を名乗る暴漢の群れに囲まれ、絶体絶命だった彰人と姫神を救った京介たち。
しかし、どうして3人が、あのタイミングで助けに入る事が出来たのだろう?
「連絡があったんだよ」
答えたのは黒姫だった。
「連絡?」
「うん。横須賀工廠にいたあたし達にね。提督とお姉ちゃんが連れ去られたからすぐに向かえって。場所まで示してさ」
「それで、指示された場所に行ってみると大きな屋敷があって、暫く物陰で待機していたら、提督とヒメが車に乗せられて出てくるところが見えたから、慌てて追いかけて来たんだ」
黒姫と響の説明を聞き、彰人は考え込む。
その話を総合すると、その人物は彰人と姫神の素性を知り、且つ富士宮ともつながりがある人物と言う事になる。
とは言え、そのような人物には一切心当たりは無い。
謎が謎を呼ぶ事態に、彰人と姫神は揃って首をかしげるのだった。
その頃、
彰人と姫神が去った富士宮邸に、1人の女性が客として招き入れられていた。
古風な着物に身を包んだ清楚な物腰の女性は、しかし同時に何物にも侵し難い眼光と存在感でもって、富士宮と対峙していた。
対して、
夜半の来客であるにもかかわらず、富士宮はその女性の来客を断りもせず、先程、彰人と姫神との会見に使った応接室にて向かい合っていた。
「まさか、お前の方から尋ねて来るとはな・・・・・・・・・・・・」
富士宮は女性をジロリと睨みながら口を開く。
「公園で博物館をやるのも飽きたか?」
対して、女性の方も富士宮の眼光を真っ向から受け止める。
「三笠」
女性の名を口にする富士宮。
それは帝国海軍の象徴とも言うべき人物であり、日露戦争の折、連合艦隊旗艦として歴史に残る大勝利を飾った戦艦「三笠」。その艦娘たる存在である。
そして、それは横須賀の講演で、彰人と姫神の写真を取った女性でもあった。
「退屈にもなろうと言う物ですよ」
富士宮の物言いに対し、三笠は可笑しそうにクスクスと笑いながら言う。
「何しろ、昔は頻繁に足を運んでくれた人が、最近では何の陰謀を巡らせているのか知りませんが、全く顔を見せなくなってしまったのですから」
皮肉交じりの三笠の言葉に対し、富士宮は腕を組んだまま黙り込む。
そこに悪意が無い事は判っていても、富士宮にとっては痛い所を突かれた思いであった。
「・・・・・・・・・・・・誰にだって立場はある。戦局が急を要する昨今、そうそう軽々しく公園に足を運ぶ事もできまい」
それは、聊か苦しい言い訳だった。
だが、富士宮の言葉に対し、三笠は全て了解しているように、笑顔を浮かべたまま何も言わなかった。
「元より、私は既に引退した身。海軍のあり方について、口を出すべき立場にはありません」
そう言い置いてから、三笠は真っ向から富士宮を見る。
「しかし殿下。今回の件は聊か以上に座視できないと思いましたので、こちらから足を運ばせてもらいました」
「・・・・・・・・・・・・ひょっとして、水上大佐たちの件か?」
思い当たる節がある富士宮は、そのように問いかける。
そう言えば、富士宮の部下が水上大佐たちを拉致したのは「三笠」が鎮座している海浜公園である事を思い出した。
どうやら、事前に面識があったようだ。
「殿下」
三笠は静かに告げる。
「殿下に何がしかのお考えがあるのは知っています。しかし、それに他人を巻き込むのは感心しませんよ」
「私に考えがあるとすれば、それはたった一つだ」
三笠の言葉に対し、富士宮は揺るがぬ信念のもとに言い放つ。
「帝国を発展させ、西欧列強と伍するアジアの王道楽土を築き上げる事。それだけだ」
彰人に語った自身の理想を、再び口にする富士宮。
対して、三笠は少し顔を俯かせ、悲しそうな表情をする。
「殿下・・・・・・いえ・・・・・・」
言葉にしてから、言い直す三笠。
「康弘・・・・・・あなたはやはりまだ、引きずっているのですね。日露戦役を」
富士宮の言葉を聞き、三笠は彼の心の中に何があるのかを悟る。
対して、富士宮は憮然としたまま腕を組む。
「康弘、か・・・・・・もう、私を下の名で呼ぶ者はほとんどおらん。皆、いなくなってしまった」
富士宮の言葉にも、どこか昔を懐かしむような色合いがこもった。
あれはまだ、自分が若き海軍士官だったころ。
目の前にいる三笠の後部砲塔指揮官として乗組み、ロシア海軍相手に大立ち回りを演じた。
今にして思えば、あの頃が一番楽しかった気がする。
勿論、危険と隣り合わせであった事は確かだが、気の置けない仲間達と共に戦い、戦火が無い時はともに酒を酌み交わしながら、夜が明けるまで、海軍や帝国の未来について、熱く語り合った物である。
そして、そうした集まりの時には、必ずと言って良い程、三笠も顔を出していた。
青春、と呼べる時代があるなら、あれこそが富士宮や三笠の青春時代だった。
「楽しかったですね、あの頃は」
微笑を浮かべる三笠。
それに対して、富士宮は僅かに身じろぎしつつも、固い口調で続ける。
「だが、全てが変わってしまった。あの条約のせいで・・・・・・・・・・・・」
ポーツマス条約。
日露戦争の講和条約であり。富士宮にとっては、ある意味で全ての始まりでもあった。
当時のアメリカ大統領の仲介により始まったこの講和会議は、しかし帝国にとって必ず意に沿う形で結ばれたわけではなかった。
帝国は確かに、戦闘には勝利した。
陸軍は奉天会戦でロシア極東軍を押し戻し、海軍はバルチック艦隊を完膚なきまでに撃破した。
まさに快挙と言っても良い大戦果を上げた帝国軍であったが、その一連の戦闘行動によって、全ての力を使い果たしたと言って良かった。
既に国力は限界を超え、国庫は戦線を維持する事は難しくなっていた。
そして何より痛かったのは、帝国軍のそんな窮状を、ロシア側にほぼ把握されていた事だった。
ロシアは自国の領土が全く侵されていない事を理由に賠償金の支払いを拒否。更に、領土についても帝国側の主張よりも大幅に縮小された物となった。
対して、帝国側はその譲歩案を飲まざるを得なかった。もう、帝国には戦って勝つだけの力は残されていなかったのだ。これ以上戦えば負けると判っている以上、そこで手打ちにするしかなかった。
この事を機に、不満を持った国民が一部の煽動家たちにそそのかされ「日比谷焼打ち事件」を起こすなど、暫く帝国の内情は荒れる事になった。
戦いに勝って戦争に負ける。
実際に戦った富士宮達にとって、これ程までの屈辱は無かった。
全ては、帝国の力が弱かったからに他ならない。
何より富士宮を激怒させたのは、そのような帝国の動きに対する、欧米列強の反応だった。
とある大新聞は、このような見出しの記事を堂々と書いたりした。
曰く「日本人は血で商売をしている」。
要するに「尊い白人の血を大量に流したのだから、それで満足しろ」と言う事だ。尚、ある意味で当然の事だが、その「流れた血」の中には、戦場で死んだ「帝国軍兵士の血」は含まれていない。
結局のところ、欧米人にとって今なお、東洋人は格下だと言う事なのだ。
「あの屈辱、忘れたとは言わせんぞ、三笠」
語気を強めて富士宮は三笠を睨む。
当時の屈辱は、全ての帝国軍人が共有するところである。
自分達は勝っていた筈。それなのになぜ、このような屈辱的な条約を結ばねばならないのか。
誰もがそう思った。
「勿論です。私も、あの戦争で戦った者の1人。あの悔しさは忘れられません」
静かに答える三笠。
日露戦争と、その終結に伴うポーツマス条約。
あのような屈辱を受けたのは、全て帝国が弱く、西欧列強から見れば「遅れた民族」と思われていたからに他ならない。
だが、力が無いなら力を持てばいい。弱いなら強くなればいい。
そして、全ての国々が帝国の前に膝を突き、日本人を見たら頭を下げずにはいられないような世界を作り出す。
そう思ったからこそ、富士宮は海軍を拡張し、国土を今以上に広げようと考えたのだ。
広大な国土を持つ事こそが、帝国の力を世界に示す唯一の手段であると信じて。
「しかし殿下」
三笠は口調を改めて言う。
「ならば尚の事、優秀な人材を大切にしなくてはいけないのでは?」
「それは・・・・・・水上大佐たちの事だな」
ここでようやく、話が元に戻った。
「殿下の言う国づくりに最も必要な物。それは何より、優秀な人材であると、私は思います。『人』を大切にしない国が、果たして大きく発展するでしょうか?」
「・・・・・・・・・・・・私を脅す気か、三笠?」
真っ向から睨みあう、三笠と富士宮。
ややあって、
富士宮の方が目を逸らした。
「まあ良い。旧知のお前の頼みだ。聞いてやらないでもない」
そう言うと、富士宮は三笠を睨む。
「だが、私は私の理想を諦める気はないぞ。この帝国を先年栄える理想の国とする為には、戦って勝つ以外に無いのだからな」
「私も『元』とは言え、連合艦隊旗艦だった身。その事は充分に承知しています。しかし、その為に、自分と異なる意見を切り捨てようとするやり方には賛成できません」
言ってから、三笠はどこか安堵するように告げる。
「まあ、あちらはどうにか、間一髪で間に合ったみたいですけど」
「・・・・・・永野か。余計な事を」
三笠の短い言葉から何が起きたのかを察した富士宮は、小さく舌打ちする。
永野修は富士宮にとって一番の腹心であり、富士宮の考えをよく理解している者の1人だが、そんな彼でも、必ず意に沿うような行動ができるわけではない。
実際のところ、愛国志士団を動かしたのは永野の独断であった。
富士宮は立ち上がり、三笠に背を向ける。
「今日はもう遅い。床の支度をさせるから泊まって行くが良い」
「ええ」
短く頷く三笠に対し、富士宮は振り返ることなく部屋を出ていく。
後には、
1人残された三笠が、小さく息をつくのだった。
2
京介たちの活躍によって何とか窮地を逃れた彰人と姫神は、そのまま横須賀港の工廠で改装作業中の「姫神」へと戻ってきた。
下宿へ帰らなかったのは、愛国志士団の再襲撃を警戒しての事だった。
艦長室に入って身支度を整え、暫くすると、黒姫、響を伴って京介が艦へやってきた。
「今回は災難でしたね先輩」
「まったくだね。最近、本土じゃああいうのが流行っているのかな?」
冗談めかした彰人の言葉に対し、
京介は少し真剣な表情を作って言った。
「風紀の締め付けは厳しくなってきていますね。どこもかしこも、ちょっとでも戦争に対して批判めいた事を言おうものなら、即非国民呼ばわりですよ」
「ひどいのになると、『売国奴』なんてのもあるね」
響が静かな声で説明する。
その言葉に、彰人は嘆息した。
戦争をするのは良いとして、自国の国民にまで負担を強いるのは明らかに間違いだと思うだが。
彰人はつい先程まで会っていた、海軍のトップの事を思い浮かべる。
彼は戦争に勝ち、領土を広げる事は帝国の発展につながると説いた。
だが、それによって国民を困窮させては、本末転倒も甚だしかった。
「そんな中でも、あの愛国志士団とかいう連中は、最近になって随分と幅を利かせている連中ですよ。何でも噂じゃ、軍人とは関係ない、華族とか財界人、政府高官なんかの二男、三男あたりが集まって結成されたらしいです。そんで今回みたいに、自分達の思想に会わないって判断した連中を、片っ端からリンチに掛けているって話ですよ」
「発覚はしていないけど、死者も出ていると言う噂もあるね」
京介と響の説明に、彰人は難しい顔で考え込む。
言論統制など、したところで百害あって一利も無い。一時的に反対意見を抑え込んだとしても、国民は不満を撃ちにため込む事になる。そうして膨らむだけ膨らんだ不満は風船のようにパンパンになり、やがては弾ける事になるだろう。
「その愛国志士団の活動に関して、富士宮殿下は知っているのかな?」
「さあ、そこまでは・・・・・・ただ、海軍の黒幕とまで言われている人物ですよ。知らないって事は無いんじゃないですかね」
問いかける彰人に対し、京介は肩を竦めながら答える。
もし把握しているとしたら、愛国志士団は事実上、富士宮の私兵に近いと言う認識ができる。
勿論、本職の軍人に勝てる程の連中ではないだろうが、素人であるだけに却って「手加減」と言う物を理解していない節がある。現に先程も、本来なら決して手出ししてはならないはずの艦娘にまで手を出そうとした。
自らの思想に酔い、その思想の為なら他者を害する事も許されると考える危険な奴等が力を持った時、それはプロの軍人をも上回る脅威となる場合がある。
危険な兆候だった。
もし愛国志士団のバックに富士宮がいるとすれば、彼等は権力と言う、ある意味、最大の力を得ている事になる。自分達の思想に恃み、その為なら他者を傷付ける事も厭わない連中が、である。
これは、前線で戦っている方がよほど楽なのでは、と思えるようになっていた。
そこでふと、思い出したように黒姫が口を開いた。
「ところで提督、お姉ちゃんは?」
先程から、姫神の姿が見えない事が疑問だった。
「ああ、お風呂に行っているよ。今日の事で疲れちゃったみたいだから」
その頃、
銭湯に来た姫神は、湯船に肩まで浸かりながら、先程の事を考えていた。
上気した細い裸身を湯船に浮かべながら、姫神の脳裏にフラッシュバックが起こる。
生まれて初めて、生身で受ける狂気の暴力。
海の上で敵戦艦を相手にした時とは、また別の意味での恐怖感に溢れていた。
もし、彼等の暴力によって自分が殺されていたら、どうなっていただろう?
否、
実際に姫神が恐怖したのは、その事ではない。
あの時、姫神は彰人が殺されるのを恐れたのだ。
もし、彰人が、あそこで殺されていたら。
「・・・・・・・・・・・・」
お湯の中で、ギュッと自分の肩を抱くような仕草をする。
今更になって、恐怖に体が震えて来た。
だが同時に、姫神は自分の中にあるほのかな温もりを感じていた。
愛国志士団のメンバーに襲われそうになった姫神。
その姫神を、彰人は身を挺して庇ってくれた。
「・・・・・・・・・・・・彰人」
自身の提督の名を呟く姫神。
と、
ドクンッ
「ッ!?」
思わず声を上げ、自分の胸を押さえる姫神。
彰人の事を思い浮かべた瞬間、
姫神は自分の鼓動が、不自然に強く叩いたのを悟った。
「な、何・・・・・・これは・・・・・・」
自分に起きた変化に、戸惑いを覚える姫神。
これが何なのか、心の幼い少女にはまだ、理解できなかった。
「姫神」の昼戦艦橋に上がり、彰人は前部甲板を見下ろす。
そこには、本来ある筈の4連装砲塔の姿は無かった。
姫神型巡洋戦艦を特定する上で識別目標となる50口径30センチ4連装砲塔2基は、今は取り外され、ターレットリングが鎮座する円形の空洞が顔をのぞかせている。
現在、姫神型巡戦の、ある意味、最大の弱点とされている砲撃力不足を解消するための改装を施している最中である。
30センチ砲と言うのは、戦艦の主砲としてはあまりにも小さすぎる。と言う事は姫神型が起工される前から言われていた事である。
しかし、本来の目的が通商破壊戦だし、その場合の主敵は輸送船と言う事になる。仮に戦闘艦艇と戦う場合でも、相手をするのはせいぜい巡洋艦程度であり、戦艦が相手なら35ノットの最高速度に物を言わせて逃げてしまえば良い。と言うのが姫神型の建造コンセプトだった。
しかし、いざふたを開けてみると、なかなか机上の計画通りにはいかない事が判る。
これまで「姫神」と「黒姫」が撃沈した戦艦は「コロラド」「メリーランド」「サウスダコタ」「インディアナ」の4隻。ミッドウェー海戦では「ワシントン」とも交戦している。
これ程、敵戦艦と交戦を経験した戦艦は、他には存在しない。前線に出ればそれだけ、敵戦艦と戦う機会も増えると言う事だ。
この事を危惧した帝国海軍上層部も、姫神型巡戦の強化に乗り出したと言う訳だ。
この改装が完了すれば、「姫神」と「黒姫」は、敵の大型戦艦にも充分に対抗可能な戦艦として生まれ変わる事になる。
今後、敵の攻勢が激しくなり、拠点を防衛するための戦いも増える事となると、彰人は予測している。
そうなった時、砲撃力を強化した姫神型巡戦の存在は、大きなものとなる筈だった。
と、
「あれ?」
視線を感じて、振り返る彰人。
そこには、壁の陰に隠れて、じっとこちらを見ている姫神の姿があった。
だが、何を思ったのか、姫神は彰人の視線に気付くと、さっと物陰に隠れてしまった。
訝る彰人。
「おかえり姫神。お風呂、どうだった?」
問いかける彰人。
しかし、姫神は声が聞こえていないのか、じっとこちらを見たまま立ち尽くしている。
「姫神?」
「・・・・・・・・・・・・何でもありません」
ややあって、ようやく答えると、姫神はトコトコと彰人の傍らまでやってきた。
だが、その足取りはどこかぎこちない。
首をかしげる彰人。
しかし、姫神は何も言わずに彰人の傍らに立つと、そっと身体を寄せてくる。
その仕草に、少し驚く彰人。
だが、それについて何も言う事無く、ただ黙って、彼女の頭を撫でてやるのだった。
こうして、本土では波乱に満たされながらも、各人がそれぞれの生活の中で少しずつ、自分達の中にある変化を自覚し始めていた。
だが、
この時、
最前線において、恐るべき事態が進行しようとしている事には、まだ彰人も姫神も、気付いてはいないのだった。
第50話「妄執の根源」 終わり