この世界でもっとも、人を殺しているのは、一体なんなのか分かるだろうか。考えたこともないだろう。それは、もっとも身近にあり、もっとも自分から遠いところにあるものだ。それに比べたら、俺なんざ優しいもんだと思う。
「東!両手を頭上に挙げて、膝を床に着け!」
狭い室内で、背中を叩いた警官の怒号は、明らかな虚勢を含んでいる。その声にひどく退屈な時間が訪れたのだと察すると、途端、胸に穴が空いたような例えがたい空しさを覚えてしまう。こんな感覚を味わった経験はあるだろうか。
ゆるりと振り返り、そこに立つ数名の警官へ向けて、唾を吐き捨てた。
「ずいぶんと身勝手な振る舞いだな?それとも、そんなに俺のことが恐いのかよ」
じりっ、と足を出せば、同じ歩幅だけ警官が下がる。同調行動というやつだろう。つまり、この場の主導を担っているのは、この俺だ。では、なぜこうなってしまっているのか。答えは世間に根付いたイメージだ。
ここで、さきほどの問いかけに対する解を教えてやる。世界で一番の殺人鬼、それは、世の中に蔓延する情報という名の化け物だ。容易に人を操り、容易く殺してしまう。毎日、どこかで起きている殺人を例にするとすれば、虐待やイジメが分かりやすい。これらは、もっともメディアの影響を受けやすい部類に入るだろう。歴史として刻まれ、それを知ることにより、心の奥底で罪悪感が薄れていく。一つの物差しでしか、物事を捉えることしか出来ない人間を、巧みに操る見えない魔手、それがメディアの正体だ。間接的な殺人、けれども、急所を貫くことを躊躇わない正確無比な刃を、こいつらは常に喉元に当てられていることに気づいていない。
「なあ......警察官、テメエらはどこを見てんだ?俺は、ここにいるんだぜ?」
ガチガチの拘束具は、とても外れそうにない。それでも、警察官は透明人間にでも出くわしたような顔をする。透けているのか、はっきりと捉えているのに、見えないふりをしているのか。
だから、見えない魔手が忍び寄ろうと無警戒なんだ。
「やっぱ、理解はできねえか?そうだろう、そうだろうな。テメエらじゃ無理だろうさ」
俺は、一度、腰を落ち着けると天井を仰ぎ、警察官達へと両手を持ち上げた。怪訝そうに目を剥いた壮年の警官へ一言加えてやる。
「なんだよ。もう、話は終わりだろうが......それとも、ここが俺にとっての留置所になるのか?だとすれば、ずいぶんと退屈なとこだな、おい」
くくくっ......と低く喉を震わせてやれば、面白いほどに身を引いた。冷徹な殺人鬼と呼ばれる俺のからかうような短い微笑でだ。分かるだろうか。これが、メディアの力というやつだ。
何故かと問われれば、俺はこう答えてやる。
「それは、俺が人間だからだ」
「......そうです。貴方は、誰よりも人間であり、とても人を理解している」
不意に耳へ入ってきた声に、俺は振り返った。
そこに立っていた長身の男は、とても特徴的な身なりをしていた。胸から下げた十字架にスーダン、右手には辞書のように厚い一冊の本を持っている。一つ睨みを利かせてやるが、全く動じた様子もなく、眼鏡を指で押し上げると、失礼、と挟んで俺と向き合う。
「安部孝之と申します」
「......そいつは、ご丁寧にどうも」
椅子に座りつつ、安部と名乗った男は一息吐き出す。その間、警官達を一瞥してみたが、随分な狼狽をみせていた。突然の来訪者ということだろう。この時、俺は脱獄の計画をたてることを決めたが、そんな考えは、硝子という壁を隔てた先にいる男の一声で霧散することになる。
「......東さん、貴方は神の存在を望んでいますか?」