大学院卒業後、八坂一太郎はマホロバ株式会社に就職した。
マホロバ株式会社とは日本を代表とする大手電子機器メーカー、電機メーカーである。中でもAV機器分野では最大手で、音響・映像・放送機材においては屈指の高い技術力を誇り、抜きん出た技術に裏打ちされたブランド力で世界を席巻し、海外でも高い人気と信頼を勝ち得ている。長引く不況下でも一兆円近い売上高を叩き出す大企業だ。
そんなマホロバ社になぜ一太郎が就職できたかというと、眼の知識を買われての事だ。3D映像技術を開発する過程で、どうしても機械技術だけではなく人間の眼の構造や総合的な視覚の働きについての深い専門知識も必要になったらしい。その道の第一人者である一太郎の大学の教授が勧誘を受け、その教授が一太郎を強く推薦した事でお鉢が回ってきた形になる。
マホロバ社の研究室に配属された一太郎は、素晴らしい飲み込みの良さと発想力、培った知識を存分に生かし、入社一年目にして早くも技術開発に大きく貢献し、同僚の信頼を勝ち得ている。
マホロバ社は大企業なだけあって給料も良く、一太郎の初年度の年収は、月収60×12+ボーナス180で900万。みるみる増える通帳残高を見るたびに未だ軽く手が震える。
学生時代では考えられない大金を手にした一太郎が最初にした事は、借りていた屋敷を正式に買い取る事だった。
東京の屋敷庭付きの土地とはいえ、郊外で、日当たりが悪く、事故物件。大家との交渉の末、月25万、十年払いのローンで購入できた。保証人になった叔父は苦笑いである。結婚もしていない二十六歳の若造が持つような家ではない。が、屋敷に住み着いている甥の友人が頻繁に仲間を呼び込んでいるのは知っていたので、広い屋敷を腐らせるような事はあるまいと納得していた。
未弧蔵は学長のカツラをアフロにすり替えたのが発覚して大学の掃除人をクビになり、現在は韮崎について調べていた時に知り合った骨董屋で働いている。古物知識は素人に毛が生えた程度だが、口八丁で客を言いくるめて安く買い取り、高く売るため、重宝されているようだ。
八坂屋敷には最近未弧蔵が買ってくる骨董品が増えており、急須が無駄に年季の入った風格のあるものになったり(有名な工匠の贋作らしい)、玄関に水墨画が飾られていたり(有名な絵師の模倣らしい)、居間にコツメカワウソの剥製(ニホンカワウソと称して持ち込まれたらしい)が置かれたりしている。本当に価値のある物は一つもないのに、一見して価値がありそうなものばかりを集めてくるのが未弧蔵らしいと言える。おかげで八坂屋敷の内装には特に意味もなく格式や風格といったものが出てきている。骨董品に造詣が深い人物には一発で看破される程度のハリボテだが。
韮崎の事件後、五年以上も遭遇する事なく、青春の思い出として風化し始めていた名状しがたき怪異は、呼んでもいないのにまたもや八坂一太郎の前に現れる事になった。
街路樹の緑が勢いを増し、自販機の冷たい飲み物の売れ行きも増してきた、初夏の事である。仕事を終えて退社した一太郎は、夕方のラッシュでごった返す新宿駅から京王新線に乗り、すし詰めの車内に閉口しつつも自宅を目指していた。新宿を出た各駅停車の電車は、初台駅、幡ヶ谷駅を過ぎるまでは地下を走り、その次の笹塚駅以降は地上を走る。
新宿駅を発車して二分ほど、初台駅に到着する寸前。一太郎が窓の外を過ぎ去っていく地下鉄構内の壁を見るともなく見ていると、「車両点検のため緊急停車します」というアナウンスとともに、いきなり列車が停止した。みっちり詰まった人が前方に慣性を受けて更に押しつぶされ、車内にはうめき声や悪態、不平不満の声が溢れる。
人身事故だろうか。勘弁して欲しい。
イライラしながら腕時計を見ようとするが、人に挟まれて腕が抜けない。体の向きを変える事すら困難な有様だ。車内の明かりに薄らと照らされる地下鉄構内の壁を馬鹿みたいに見続けるしかない。
ふと、一太郎の目が窓の外に奇妙なものを捉えた。暗い地下鉄構内に、もぞもぞとうごめく人影のようなものが一瞬見えたのだ。
轢死体を回収する駅員だろうか。
怖いもの見たさで「透視」を使う。暗闇の中から浮かびあがったものは、駅員ではなく、人間ですらなかった。
猫背で、手足はヒョロ長く、赤く爛々と光る眼を持ち、土気色の肌を剥き出しにした獣じみた奇怪な生物である。
ゾッとした。生物はすぐに視界から外れてしまったが、人間の仮装や影の陰影がもたらす錯覚ではなく、紛れもなく、非日常の存在である事は理解できた。
脳裏に久々に魚流田紅人や無形の落し子の姿と、それに連なる恐怖の記憶が蘇る。一太郎は全力で見なかった事にした。
乗客の何人かも同じモノを目撃したのか、興奮したり悲鳴を上げたりしている。しかし大多数のざわめきや、話し声に紛れて目立たず、ほとんどの乗客は無関心のままだった。
列車の停止と生物が無関係である事を希望的に祈っていると、列車の外の後方からタタタッと何かが破裂するような音がした。続けざまに何度か連続して聞こえ、静かになる。何か聞き覚えがあるような無いような音だった。少なくとも日常的に耳をする音ではなく、すぐには思い出せない。映画か何かで聞いたような。
一太郎が思い出そうと首を捻っていると、「点検終了。発車します」というアナウンスと共に電車は動き始め、すぐに初台駅に到着した。一太郎は他の乗客と一緒にどっと吐き出される。こっそり引き返し、現場を再確認しようかと躊躇ったが、電車に轢かれるかも知れないし、理由も無いのにわざわざ自分から怪異に飛び込む事もあるまい、とやめておいた。君子、危うきに近寄らず、である。
しかし理不尽な事に、君子が危うきに近寄らずとも、危うきの方からやってくるものだ。
一太郎が八坂屋敷に帰宅し、ネクタイを緩めてスーツを脱ぎながら居間に入ると、ソファに座った未弧蔵が沈痛な顔をしていた。
「……おう、八坂」
「……何かあったのか」
未弧蔵の声に怒りと悲しみが入り混じったらしくない色を感じ取った一太郎は、嫌な予感を感じつつも聞かざるを得ない。
「同里の爺さん、覚えてんだろ。橋の下に住んでる。たまに屋敷に呼んでた」
「ああ」
言われてすぐに思い出した。魚流田の事件の時に、魚流田について話を聞いた老人だ。未弧蔵は一太郎と出会う前によく世話になったらしい。
「それが?」
「殺された。射殺だ」
「殺っ、射殺? 現代日本で? そんなまさか……いや、本当に、まさか」
一太郎は、地下鉄で聞いた音が、戦争やアクション系の映画で耳にする銃声とそっくりだった事に思い当たった。こんなに早くこんな風に記憶が繋がるとは全くもって嬉しくない。
「それはまさか初台駅のあたりの話か?」
「知ってるのか!?」
未弧蔵が目の色を変えて立ち上がり、一太郎に詰め寄った。一太郎はあまりの剣幕に引き気味に答える
「今日帰る時にそこで銃声を聞いた。無関係ではないはずだ。おい待て根津、初台駅に行くつもりか?」
「ったりめぇだろ!? 爺さんを殺した奴がまだうろついてんなら、俺がこの手でぶちのめしてボロ雑巾にしてやる!」
「落ち着け、相手の正体も分からないし、最低でも銃を持ってるんだ。最悪お前も蜂の巣だぞ。俺も手伝うから一度情報をまとめよう」
「……………………………………………………わあったよ」
長い沈黙の後、未弧蔵はソファに戻り、どっかりと座った。一太郎は紅茶とパソコンを持ってきて、未弧蔵に話を聞きながら情報をまとめた。
未弧蔵の話によると、同里が射殺されたのは二日前の夜の事らしい。ホームレスの伝から未弧蔵に話が来たのは今朝の事だ。
その日、いつものように都内を回って廃品回収(ゴミ漁り)をしていた同里は、深夜の人気の無い初台駅の構内を、他のホームレスと共にうろついていた。すると銃で武装した謎の集団が突然現れ、地下鉄の奥から獣じみた怪物を追い立ててきた。
怪物と銃という二重の恐怖にホームレスは逃げ惑ったのだが、同里は怪物と誤認されて射殺されてしまったという。自販機の影に隠れて震えていたホームレスの証言によると、同里の死体はそのまま武装集団が回収していってしまったらしい。
それからホームレス達はツテを辿って銃を持っていそうな警察、ヤクザ、自衛隊に同里の死体の行方を問い合わせたのだが、一様にそんな死体は知らないとシラを切られた。弱ったホームレス達は、同里の死の報告がてら未弧蔵に頼ったのだ。
そこに今夜の一太郎の目撃である。同里を殺した犯人は、初台駅周辺で未だ活動しているらしい。
一太郎にとっても同里老人は知らない仲ではない。仇討ちをするのにやぶさかではなかった。使っていなかった有給を纏めて消化して事に当たる用意がある。
しかし怪物要素を抜きにしても、なかなか難しい案件だった。
「問題は三つある」
情報をまとめ終わった一太郎は静かに言った。
「一つ。自明な事だが、相手は銃を持っている集団だ。力づくの報復は簡単ではない。二つ。社会的地位の低いホームレスとはいえ、人を殺してそれを隠蔽する権力がある。三つ、怪物の正体が分からない。銃で追われるぐらいだからツァトゥグァのような神格クラスの存在ではないだろうが、不確定要素として不安は残る」
「怪物はどうでもいい。銃持った奴らに自分のやった事を地獄の底で後悔させてやれりゃあそれでいい」
「殺すつもりか?」
「いんや。そうしてやりたいところだが、きっと爺さんは喜ばねぇ。丸一年ベッドの上で呻かせるぐらいで済ませてやるさ」
未弧蔵は肩を竦めた。未だ眼に灯る火は静かに燃えているが、話して情報をまとめているうちにだいぶ落ち着いたようだ。
一太郎はパソコンでネットの検索画面を開きながら言った。
「今日はもう寝るといい。冷静じゃないだろう。今夜は俺が通り一遍の情報は集めておくから、本格的に動くのは明日にしよう」
「ああ。仕事で疲れてるとこ悪いな」
「構わんさ。懐かしいな、こういうのも。今回は人間相手だが」
「分からんぜ、獣じみた怪物ってヤツが横槍入れてくるかも知んねぇし」
ひひ、とイタズラっぽく笑い、未弧蔵は寝室へ消えていった。
翌朝、二人はコンビニ弁当で朝食を取りながらネットで拾い集めた情報を熟読していた。
本命の武装集団については全くと言っていいほど情報がなく、情報統制の気配を伺わせたのだが、ついでに調べた地下鉄の怪物については噂話程度のものではあるがかなりの量の話が転がっていた。愚にもつかない掲示板やオカルトまとめサイトを回って話を統合したところ、東京の地下に巣食う亜人の噂はかなり前からある事がわかった。話には尾ひれ尻ビレがついているものばかりだったが、どれもこれも赤い眼と猫背は共通していて、一太郎が目撃したモノを思わせる。この怪物は凶暴な性格で、猫や犬、ネズミを捕まえて貪り食うのだが、ホームレスが食われそうになったという話もある。目撃情報は初台駅を含めた地下鉄、下水道、大規模な工事現場、青山霊園に多い。他にある目撃情報も薄暗い場所ばかりで、決まって夕暮れか夜である。
「青山霊園の話は俺聞いた事あるわ」
「へえ?」
「あのヘンに住んでる廃品回収系自営業の人がたまに話してんだ。昔っからちらちら見かけたらしーけど、ここ数年急によく見るようになって、みんな不気味がって寝床変えたとか。そうか、地下鉄のヤツと同じヤツなのか」
「この手首から糸を出して夜のビル街を飛び回るって話は?」
「それニューヨーク在住のスパイダーな人だろ。デマだデマ」
言いながらプリントアウトされた紙を並べていた未弧蔵は眉を潜めた。
「これ、最近になって急に噂増えてんな」
「ん? …………ああ、確かに。五、六ヶ月前ぐらいからか」
言われて一太郎も情報の時期の偏りに気付いた。少し長めに半年前までの情報に絞って更に項目別に纏めてリストアップする。地図上に目撃地点の印をつけていくと、地下鉄と青山霊園に集中し、大規模な工事現場に幾つかにもパラパラと印がついた。
「で、これ何の意味があるんだ? 俺達が探してるのは怪物じゃねぇぞ」
「武装集団は怪物を追ってたんだろ。怪物を探し出せば武装集団とかち合う可能性は高い」
「あ、なるほどにゃあ。あったまいー」
「いやこれぐらいは気づけよ」
作業をしている内に昼時になり、玄関のチャイムが鳴った。続いてノック四回。未弧蔵の知り合いが使う合図だ。
未弧蔵は一度席を外し、すぐに薄汚い男を三人つれて戻ってきた。
「こんちは若旦那」
「お久しぶりっす。話があるそうで」
「あっしらで良けりゃ力になりますぜ」
三人は食事をたかりに来たらしい。一太郎は良い情報か案を出せば風呂と酒も付けると請け合い、俄然やる気を出したホームレス達に事情を説明した。
一通り話を聞いた三人は、最近同じような事を聞いて回っている探偵がいる、と言った。
「探偵?」
「そうです。宮本翠っつぅ、えれェ美人な嬢ちゃんでさあ。みーんな鼻の下伸ばしてペラペラ喋ってやんの」
「念のため聞きますけど、その探偵は銃を持ってたり武装してたりは」
「とんでもねえ! 手土産に日持ちする美味いモン持ってきて、話上手でさあ。ありゃ分かってる娘だな」
「二十後半くらいだったか?」
「結婚してんのかねぇ」
「そりゃあの器量よし、周りがほっとかねぇよ。俺ももう二十も若けりゃなぁ」
「やめとけやめとけ、奇跡で結婚できてもまた二週間で逃げられらあ」
「前の嫁の事は言うな!」
話によれば、その探偵は人探しをしているらしい。
「姉だったかな。妹だったか。なんでもみ、宮本? 葵とかいう――――」
「え、マジかあの人行方不明?」
雑炊を持って部屋に入ってきた未弧蔵が驚く。一太郎も思わぬ名前にメモを取る手が止まった。
「その宮本葵はムエタイをやってる?」
「ああ、そんな事言ってました。若旦那のお知り合いで?」
「友人です。そうか、あの人が消息を絶つような事件なのか……ヤバいな」
そんじょそこらのヤクザなら一蹴できる葵が行方不明となると、穏やかな話ではない。事件との関連性ははっきりしないが、無関係とも思えない。銃を持った武装集団という話を聞いた時よりも現実的な驚異を突きつけられた気分だった。同時に心配でもある。武装集団にやられたのか、怪物にやられたのか。どちらがマシかは分からない。ただ、生きていて欲しい。仇討ちだけではない、引けない理由ができた。
探偵が初台駅のあたりを調べに行くという話をしていた、という事を聞き、事情聴衆は終えた。ホームレスに約束通り食事と風呂と酒を出し、午後三時頃にホームレスを返した後、一太郎と未弧蔵は車で初台駅へ向かった。
初台駅のコインパーキングに車を止め、駅へ向かう。人ごみを歩きながら未弧蔵が聞く。
「計画は?」
「とりあえず下見だな」
「OK。っと、おい待てあれ宮本さんじゃね? 行方不明になってねぇ、あ、違った」
未弧蔵に釣られて駅の入口を見ると、葵によく似た女性が四十代後半ぐらいのくたびれた灰色のスーツの男と話していた。二人が見ていたのに気付き、女性が目を向けてくる。男も顔を向けてきた。
どちらからとも無く近づき、ぎこちなく挨拶を交わす。
「あー、探偵の宮本翠さん?」
一太郎が尋ねると、女性は目を瞬かせた。一太郎の顔の火傷の跡をちらっと見て、サングラスと帽子でますます怪しさをました未弧蔵に目を移し、訝しげにする。
「そうですけど。すみません、どこかでお会いしました?」
「私達は葵さんの知り合いで――――」
「ああ! 妹が話していました。ひょっとして八坂さんと根津さん?」
「そうです。宮本さん……葵さんが行方不明になったという噂を聞いたのですが、本当ですか」
「そうなんです、五日前から音信不通で、家に行っても仕事場に行ってもいなくて、実家に連絡しても来てないって言うし、心配になって調べたらこの辺りで最後の目撃情報があったから。お二人も?」
「いえ、私達は別件ですが、もちろん葵さんの捜索にも手を貸しますよ」
「もしもーし」
そこで黙って見ていた男が口を挟んできた。
「すみませんが私にも紹介いただけますかね」
「あ、はい。と言っても紹介できるほど深い知り合いではないですけど。えーと、こちら妹の友人の八坂さんと、根津さんです」
「八坂一太郎です」
「ども、根津っす」
男は手馴れた仕草で警察手帳を出して見せながら、低いどっしりとした声で言った。
「公安の亀海(かめみ)です」
「え、公安って言っちゃっていいんすか」
「公安が名前を伏せて調査するというのはデマですよ」
警察手帳には「亀海 左京」と書かれていた。まじまじと見てみるが、写真写りが悪いという事ぐらいしか分からない。
「亀海さんは大丈夫ですよ。仕事の関係で何度か協力した事ありますし、信頼できる人です」
と、翠が保証した。
「公安の方がどうしてここに?」
銃器を持ち、殺人をもみ消す権力がある、というのは公安も該当する。翠の保証ではシロと断定するには弱い。未弧蔵も警戒の目で見ている。
「それはもちろん仕事ですよ。詳しくは機密上言えませんがね、彼女の妹さんの件もどうやら関わっているようで。話を聞かせていただいていたところです。そういう二人は初台駅になんの御用で? 電車に乗ってぶらり旅ってぇ雰囲気ではなさそうですが」
「……地下鉄構内の発砲事件と、秘匿された殺人事件の調査に」
一太郎が「透視」を使いながら言うと、左京のオーラが「発砲事件」の部分で揺れた。心当たりがあるようだ。
「それは物騒な話で。話を聞かせてもらえれば力になれますが」
「とか言って知られちゃマズイ事嗅ぎまわってるネズミから話引き出してひっそり始末すんじゃねーの? 同里の爺さんみたいによぉ」
「いやですねぇ、警察は公の下僕、公の下僕は市民の下僕、善良な市民様に悪いようにはしませんよ」
「本当に、やましい所は何もないと?」
「仕事柄隠し事があるのは否定しませんがね。私は勤続二十ウン年真面目に働いてきたくたびれたおっさんですよ。これからもそうです。おっさんが爺さんになるぐらいしか変わる予定はありません」
「嘘くせー」
「いや、根津、大丈夫だ」
飄々としていた左京だが、「透視」と心理学的観察を駆使して感情を読んでいた一太郎にはシロである事が分かった。さしずめ発砲事件について調べている、といったところか。考えてみれば、銃器で怪物を追い回し、殺人を犯しておいてもみ消すような集団が非合法であれば、警察が動かないわけがない。警察の中でも公安が動いているという事は、警察内部でも武装集団について揉めているのか、内通者が疑われているのか。根は深そうだ。しかし公的権力側にその根を切ろうとする動きがあるのは救いだった。
その後近くのファミリーレストランに移動してからの情報交換で、左京は自分の捜査目的は語らなかったが、一緒に捜査する事は否定しなかった。人が多い方がどちらにとっても便利だろう、との事である。警察はもっと頭が固いと思っていた一太郎は意外に思った。
翠がこっそり囁いたところによると、左京は若い頃に無茶をして出世コースを外れ、公安の中でも閑職に回されているのだという。警察の中でも比較的異端な人物らしい。融通が利くのはありがたいが、少し不安になった。
「でも左京さんは葵と同じ人種だから。それだけでも頼りになるでしょ?」
「ゴリラ系すか?」
「葵見つけたら告げ口しとくね」
「ヤメテ!」
「冗談冗談。左京さんは空手やっててね、部署別の武道大会で毎回担ぎ出されるんだって。で、毎回優勝か準優勝っていう凄腕」
「え、左京さんもうけっこういい歳じゃないんすか」
「四十六か七だったかな」
「それで優勝かよ。ヒューッ!」
未弧蔵と翠はさっそく砕けた話し方で雑談をしていた。誰とでも仲良くなる奴だ、と感心しながら、一太郎はミルクをたっぷり入れたコーヒーを啜った。
四人はファミリーレストランで時間を潰し、駅が閉まる時間になってから初台駅に戻った。
左京はシャッターを閉めていた駅員を捕まえ、警察手帳を出し、捜査を理由に構内を案内する事を要求した。しかし駅員はすげなく断った。ほとんど即答である。
「申し訳ありません、お通しするのは無理です」
「なぜですか?」
「なぜって、まあ危険ですし……」
「危険も何も、今からなら朝まで電車は通らないでしょう」
「いえ、あの、車両整備が」
「整備は車庫でやるもんでしょう。まさか走らせながら整備するとでも? それはそれで見てみたい気もしますがねぇ」
「と、とにかく今はまずいんです」
しどろもどろである。はっきりしない口ぶりからして、事情も知らされないまま上から誰も入れるなとでも指示が出ているのかも知れない。らちがあかない。
左京も一太郎と同じ考えだったのか、駅員を問い詰めながら後ろ手にちょいちょいと駅の構内を指さした。
それを見た翠は足を忍ばせてそっと構内に降りて行き、一太郎も続く。未弧蔵はいつの間にか線路に降りて手招きしていた。
線路に降りた一太郎が振り返ると、左京がまた後ろ手にハンドサインを送ってきた。指を三本立て、親指を立てる。その後に駅員の背中を押して去っていった。
一太郎は声を潜めて二人に言った。
「三時間は稼いでくれるらしい。行こう」
「あのサインは三十分じゃねーの?」
「三十分なら指三本の後に丸作るだろ」
「にゃるほど」
翠がペンライトを点け、線路沿いの側溝にある従業員通路を先導した。
数分何事もなく歩くと、廃駅になったホーム――――旧初台駅に到着した。いかにも廃墟然としたガランとした場所で、地上への階段はコンクリートで塞がれ、駅名板や時刻表は取り外されている。その付近の壁の古びた色合いに一太郎は見覚えがあった。
「昨日の夜に怪物を見たのはこのあたりです。たぶん」
「じゃあこの辺りを探そうか。些細なものでもとりあえず確保して」
「了解です」
「りょ」
三人はバラバラに探索を開始した。レール、壁、ホームの上と、しらみつぶしにつぶさに探す。
一太郎は何も見つけられなかったが、辺り一帯に漂う腐った肉のような、獣臭いような酷い匂いが、昔魚流田の祟りの時に嗅いだ異臭に微妙に似ている事を思い出した。そっち系統の怪物が居た事に間違いはないだろう。
「薬莢みっけた。サビてねーし新しい奴じゃね」
未弧蔵が目ざとく薬莢を拾って二人に見せたが、銃とは無縁の生活をしている一行にはそれが新しいのか古いのか、どんな銃の薬莢なのか、見当もつかなかった。地上に戻ったら左京に見せようという事でとりあえず未弧蔵がポケットに入れておく。
翠はホーム周辺に薄らと残った奇妙な足跡を発見した。大きさや大雑把な形状こそ大人の裸足と似ているが、どれも奇妙に歪んでいて、人間のものではない事が見て取れる。同じあたりに堅い靴の足跡も幾つかあり、足跡の間隔、重なり方などから、翠は堅い靴が奇妙な裸足を追い回していたのだと推測した。
更に手がかりは無いかとうろついていると、突如「動くな!」と暗がりから鋭く命じられた。
思わぬ第三者の声にびくりとした三人が恐る恐る振り返ると、戦争映画でしか見たことが無いような砲身の長い銃を持ち、ヘルメット、暗視ゴーグル、都市迷彩の軍服で身を固めた兵士が数名、自分たちに銃口を向けていた。
「……自衛隊?」
「制服違う。在日米軍でもSATでもないね」
ホールドアップして唇を動かさないようにして尋ねた一太郎に、同じく翠がひっそりと答えた。
明らかに訓練された素早い動きで扇状に展開して包囲を固めた兵士達の中から、頬に傷のある、猟犬を思わせる隊長らしき男が進み出た。
「ここで何を「うらあ!」」
台詞に被せて未弧蔵が飛び出し、傷の男に殴りかかった。一太郎は心臓が止まりそうになった。同里の仇あるいはその一味である事は確定的だが、武装した兵士を相手に短絡的過ぎる。
やるか!? と体を緊張させたが、乱闘にはならなかった。傷の男はいとも容易く未弧蔵の拳を受け流すと、顎を掠めるようにカウンターを入れ、次の瞬間には地面に引き倒して背中を踏みつけていた。未弧蔵はビクンビクンと痙攣している。ノックアウトされたらしい。
傷の男は未弧蔵の背中をぐりぐりと踏みにじりながらタバコを出し、口に咥えて火を点けた。
「全く礼儀のなってねぇガキだ……」
人を踏んだまま悠々と紫煙を吐き出し一服する方も相当礼儀知らずだと思ったが、それを口にするほど命知らずではない。一太郎は他の兵士に銃を突きつけられ、壁に手を突かされ、抵抗せずに乱暴な身体検査を受けた。隣で翠も体を無遠慮にまさぐられ、背中にムカデを入れられたような顔をしている。
「隊長、全員人間です」
「ちっ、面白くもねぇ」
「隊長。こんなものが」
「ああ? ……回収しておけ」
未弧蔵の身体検査をしていた兵士がポケットから薬莢を見つけ、隊長に伺いを立てる。隊長は面倒そうに言うと、タバコの火を一太郎の背中に押し付けて消した。
「いいか、ドブネズミども。命が惜しけりゃここで見たこと聞いた事、全て忘れてさっさと失せろ。ぺらぺら言いふらせば後悔する事になるぞ」
隊長はドスの効いた低い声でそう脅すと、未弧蔵の顔に唾を吐きかけて去っていった。兵士達も最後に三人に銃を向け、それに追従して地下鉄の奥に消えていった。
兵士達の姿が消え、足音が聞こえなくなってからも五分ほどその場で凍りついたように動けなかった翠と一太郎だが、未弧蔵のみじろぎと共に解凍された。無言で二人で未弧蔵を抱え起こし、肩を左右から支え、初台駅まで戻った。日本はいつからあんなチンピラまがいの男達が銃を片手にうろつく国になってしまったのか。
初台駅の線路からホームによじ登る頃には、未弧蔵も目を覚ましていた。流石にカッとなって殴りかかったのは後悔しているようだったので、一太郎も何も言わない。
うんざりした顔の駅員と不毛な問答をしていた左京と合流し、また近くのファミリーレストランに入る。店員はまた一瞬またこいつらはフリードリンクだけで三時間居座るつもりかというような嫌な顔をしたが、すぐに営業スマイルを浮かべて席に案内した。
思い思いの飲み物を飲みながら、三人は左京に戦果を報告する。ついでに一太郎は三千円したYシャツの背中に焦げ穴ができているのを確認して暗い目になった。
「結局、その連中の所属は分からずじまいって訳かい?」
「薬莢があれば銃の種類から正体を辿れたと思うんですが」
「面目ねぇ、面目ねぇ」
「ふむ。翠君、覚えてないかな?」
「覚えてますよー」
左京に話を振られると、翠は店のテーブルのアンケート用紙の裏にサラサラと薬莢のスケッチを始めた。ペンの運びに迷いがなく、細部まで線がはっきりしていて見やすい、相当な技量を感じる模写だ。
「すげっ! 絵ぇ上手いってか、よくこんな覚えてますね」
「記憶力には自信あるんだよね。模写は得意なんだけどそれしかできなくてね、美大出ても探偵に転職する事になったわけ。やってみたら合ってたし良いんだけどさ」
「似顔絵師とか儲かりそうじゃないっすか」
「デフォルメもできないんだよね、困った事に。あ、これ実寸大です」
翠が描いた絵を左京に見せると、左京は少し記憶を探って言った。
「89式の……5.56mm、か?」
「いや疑問形で言われても。このメンバーで一番銃器に詳しいのは左京さんなんですから」
「その89式なんとかって言うのはどんな銃なんですか?」
「てか銃なん?」
「わかりやすく言えばアサルトライフルだ。少なくとも警察に配備されるシロモノじゃあない。最近の自衛隊や各国の軍隊が正式採用するようなものだ」
「あいつらは自衛隊なんて上品な感じはしませんでしたが」
「俺らが人間で面白くねーとか言ってたよな。ってぇ事は怪物の方が嬉しかったって事だ。あいつら怪物ハントでもしてるつもりだったのか?」
「猟犬みたいだったしね」
「どうあがいてもありゃクソ犬だけどな」
「ふむ」
しばし沈黙が下りる。
人間ではなく、怪物を狩猟しているというのなら、人間である一行にとって非難する理由はない。既に怪物由来の事件に巻き込まれた経験のある未弧蔵と一太郎にしてみれば、どんどんやっちゃって、といった心持ちだ。
とはいえ一連の怪しい要素がある。同里老人を殺害して隠蔽したのがそれだし、とても正義側とは思えないような、未弧蔵の言葉を借りれば「クソ犬」めいた行動もそれだ。
どう捉えたものかと悩む三人に、左京がこれは独り言だが、と前置きして言った。
「最近自衛隊内部に対都市テロ特殊部隊が秘密裏に設立されたらしい。一部の国会議員の手引きによるもので、既に何度か実戦経験もある、と。公安も調査に動き始めている……おっと今考え事がついうっかり口から漏れた気がするが、聞こえてしまったかな」
「聞こえてない」
「何か言ったの?」
「俺のログには何も無いな」
三人が口々に白々しい台詞を返すと、左京は満足げにオレンジジュースをストローで啜った。
「よろしい。それはさておき、私としてはもう少し突っ込んだところまで調べ無いとデスクに戻れなくてねぇ。勤勉なおまわりさんを助けてくれる善意の民間協力者はどこかにいないものかな」
「左京さんよ、最近じゃ善意もギブ&テイクなんだぜ?」
「もちろん協力には相応の見返りは保証するさ」
「乗った。病院送りより豚箱送りのがダメージでかそうだ」
「ちょっと待って、ややこしくなってきたし一度まとめよ?」
翠がペンの先で額を叩きながら言った。
「根津さんは同里さんの仇をとりたい」
「八坂さんは根津さんと同じ」
「亀海さんは自衛隊特殊部隊、違った、謎の武装集団にもっと探りを入れたい」
「三人は利害の一致で手を組む」
「それで私は葵を見つけたい……私だけ浮いてるんですけど。謎の武装集団も怪しいけど、どちらかっていうと怪物が攫ったセンの方が怪しいし」
翠は葵が同里と同じように射殺・隠蔽された可能性は極力考えないようにしながら言った。
一太郎が考えを纏めながらそれに答える。
「怪物の方を追うのは有効だと思います。武装集団は目撃されて即口封じに走るほど凶暴では無いようですが、控えめに言ってチンピラが銃持ってる感じでしたし、直接嗅ぎ回ると危険そうです。怪物を追うのも危険ですが、怪物は武装集団に追われているようです。敵の敵は味方理論で近づいて武装集団の情報を引き出すないしは共闘するというのも不可能ではないかと。翠さんにとっても怪物側を探るのは意に沿っているでしょう」
「なるほど。八坂君は折衷案を出すのが上手いな」
「恐縮です。問題は怪物に言葉が通じるかって所なんですけどね」
「それな。八坂は通じると思ってんの?」
「五分五分だな。俺が地下鉄で見た怪物の見た目は人間に近かったし、発声器官は似ていると思う。それに東京の地下で活動してるなら人間の言葉を学習していても不思議はない」
「通じなかったらどうするの?」
「襲われる前に逃げます」
「逃げ切れんのか?」
「それも五分五分」
「言葉通じなくて逃げ切れない可能性25%もあるじゃねーか」
「ふむ。私が近場の同僚に声をかけておこう。正直私は上司からいい目で見られていなくてね、あまり期待はしないでもらいたいが、個人的なツテで数人に近くで警邏してもらう程度はできるだろう。怪物とやらとの接触は初台駅で?」
「いえ……ここです」
一太郎は懐から地図を出し、大量の印がつけられた青山霊園を指した。
一度解散し、仮眠を取り、思い思いの準備をした四人は、翌日の深夜、怪物の目撃情報が一番多い時間帯に青山霊園前に集合した。
青山霊園は青山墓地とも呼ばれ、都心のほぼ真ん中にある。六本木や南青山といった繁華街や高級住宅街からもほど近い、広大な都立共同墓地である。園内の65%が樹木で占められ、都心にぽっかりと浮かぶ緑の森を作っている。
青山霊園の門は当然ながら閉まっていた。左京が門の横の管理人室をノックし、窓を開けて顔を出した管理人に警察手帳を見せながら声をかけた。
「こんばんは、どうも夜分遅くにすみませんね。公安の亀海と申します。詳しくは話せませんが、犯人がここに逃げ込んだかも知れないという話がありましてねぇ。入れてはくれませんかね? ああ、後ろは目撃者の方々です」
「はあ……そういう事なら構いませんが。園内は広いですし、こんな夜中ですと迷うかも知れませんよ。案内をつけましょうか」
「いえ、大丈夫です。その代わりに犯人が出てこないか見張っていて頂けると助かります。犯人も迷って途方に暮れているといいんですがねぇ」
左京のとぼけた言葉に苦笑いしながら、管理人は門の鍵を開けてくれた。
お気をつけて、という言葉を背中に受けながら、四人は難なく青山霊園に侵入を果たした。
怪物に襲われた時のために、散開せずにまとまって行動する。月明かりに照らされた墓石と樹木に遮られて都会の喧騒は遠のき、木々のざわめきとひんやりとした冷気が体に染み込んでくる。別世界、とまではいえないが、別の国に来たようだった。
「……見られているな」
しばらく辺りを見回しながら歩いていると、突然左京が呟いた。
「そっすね。都心でもフクロウなんているんすね。あ、もう一匹みっけ」
「いやフクロウじゃないでしょ。月と星に見られてる的な」
「翠さんまで何言ってるんですか。管理人がつけてきたんじゃないですか?」
「違う、そうじゃない」
三人の的外れな返しに、左京はため息を吐いた。
「赤い眼が茂みの陰や墓石の合間を遠巻きに動き回ってこちらを伺っている。二十一……いや、また増えたな。二十二匹か」
「マジで?」
改めて見回すと赤く光る眼に遠巻きに包囲されている事が分かった。しかも包囲網はじりじりと狭まっている。
四人は足を止め、背中合わせに固まった。未弧蔵が魔法のナイフに手を伸ばし、翠は懐のスタンガンをいつでも抜けるように身構え、左京はポケットの中で携帯電話の短縮ダイヤルに指を置いた。
一太郎はごくりと唾を飲み、声を張り上げた。
「我々に敵意は無い! 話がしたい! 言葉が分かるなら、代表者を前に出してくれ! ただしこちらを襲うなら抵抗する!」
言葉を無視して、包囲網が更に狭まる。四人は、自分たちを囲む、犬に似た顔を持つ酷い猫背の亜人間達の姿を見た。爛々と光る数十個の赤い眼が、舐めまわすように四人を見ている。
言葉が通じなかったか、と逃げの姿勢に入りかけたところで、亜人間達は動きを止め、群れのリーダー格と思しき一人の亜人間が進み出た。そして、きしるような耳障りな声ではあるが、明瞭な日本語で返答した。
「人間よ、我々も諸君らに話と、頼みがある……敵意は無い」
リーダーが片手を上げると、亜人間達は少し距離をとった。怪物らしからぬ統率のとれた動きに唖然とする一同の前で、リーダーは悠然と墓石に腰掛けて話し始めた。
「私から話しても構わないかね? ……ありがとう。さて、早速だが、まずは本題の前に我々の正体と意図を正確に知ってもらいたい。
我々は食屍鬼(グール)という。見ての通り人間ではない。しかし私も以前は諸君らと同じように、日の光のしたで暮らしていた事があるのだ。人間であった時の名は……そう、仮にキミタケとしておこうか。しかし人間としての死を迎えた後、幸か不幸かこのようにして地下でひっそり暮らす影の存在と成り果てた……ここにいる者の大半はそうだ」
キミタケはその恐ろしい風貌とは裏腹に、非常に理知的に話した。会話のアドバンテージはとられてしまったが、興味をそそられる話でもある事だし、ひとまず話し終わるまで一太郎は口を挟まない事にした。キミタケは続けた。
「我々は東京の地底に棲み、闇に紛れて人間の死骸を貪り食う卑しい存在だ。しかし普通死体は火葬され、容易に骸は手に入らない。故に我々は自殺志願者の後を尾行し、最後の瞬間を待ち受けたり、それさえも困難ならばカラスや犬猫の死体で妥協している。諸君らは我々について不穏な情報を得ているだろう、しかし基本的に我々から生きている人間を襲って殺したりはしていない事は明言しておく」
「では最近、この子を攫った事は?」
話の切れ目に、翠が葵の写真を出し、キミタケに見せた。キミタケは目を細めて写真を見たが、首を横に振る。
「いいや、そのような記憶はない。仮にその女性が自殺志願者であったとしても、同胞も近頃は人間の尾行をする余裕もないのだ。我々の仕業では無い」
「…………」
翠の目線を受けて、一太郎は「透視」を使い、キミタケを観察した。
キミタケのオーラは逆に気味が悪いほど禍々しさが薄く、人間のものと変わらなかった。キミタケが元々人間であったという事に説得力を感じる。翠が更に幾つか質問したが、キミタケのオーラと態度は終始落ち着いていて、犬めいた表情からも動揺は感じられない。嘘は言っていないらしい。一太郎は翠に頷いた。
「さて、ここからが本論だ」
一通り翠の追求が終わると、キミタケは居住まいを正した。
「先程我々食屍鬼は東京の地底に棲むと言ったが、近年の地下開発以前より、東京には地下道や地下空洞がいくつもあったのだ。その最深部には廃墟と化した古代遺跡があり、我々はそこを根城としていた。ところが開発の手が伸びるにつれ根城も人間に発見され、我々は生活を変えざるを得なくなった。それのみならば時代の流れの一つであり、諸君らに今こうして語る事も無かったであろうが、ここ数ヶ月で事情が変わった。銃で武装した兵士が我々の掃討作戦を始めたのだ。彼らは明らかに我々の存在を認識し、我々の避けがたい習性についても熟知しているようなのだ。恐らくは、防衛省ないし政権上層部の地下開発計画に携わる人間が、我々食屍鬼の存在を知り、計画の邪魔に思い徹底的に殲滅しようと考えたのであろう。
諸君らに頼みたい事とは、この兵士達を裏から操る首魁の討伐である」
「諸君らはこう考えているであろう。人間を害する事こそあれ、利する事無き食屍鬼に手を貸すのはむしろ利敵行為であると。その懸念を払拭するために、もう幾許かの時間を取らせてもらいたい。
実は兵士達が我々を追い出し占拠し、不自然なまでの厳重な警備と管理を行っている場所というのが、尽く古代遺跡の跡地であるのだ。以前遺跡群の奇怪な文字や記号の解読を試みた事があるのだが、私見に依れば遺跡はどうやら『ヴァルーシアのヘビ人間』の神殿であるらしい。ヘビ人間とは人類以前に地上にはびこっていた、直立する爬虫類のような姿を持つ邪悪な神話的種族だ。彼らは人間のみならず我々食屍鬼でさえ想像も及ばないような邪悪な神性を崇拝していたという。
単なる開発の過程で遺跡を見つけ、学術的探究心でもって確保したのならばまだしも、狙ったが如く邪悪なヘビ人間の神殿を抑えるとなれば、これは尋常ではない。我々を掃討し、遺跡を確保して回る兵士達の裏にいる者とは、もしやヘビ人間の末裔そのものなのではないか、と私は懸念する。
人間に忘れ去られるほど衰退し、数を減らしたヘビ人間どもが、神殿を確保する事でかつての栄華を取り戻そうとしているのならば、人間、即ち諸君らにとっても決して良い結果とはならないであろう」
「……そのヘビ人間の末裔が日本政府の上層部に食い込んで兵士を操れるほどの魔術なり頭脳なりを持っているのなら、どうして今までそうしなかったんですか?」
他の三人は話についていくのに精一杯だったが、最も神話的知識を持つ一太郎には質問する思考的余裕があった。
一太郎の疑問を受け、キミタケが答える。
「衰退しきり、退化したヘビ人間の中には、時折先祖返りを起こす者がいるのだ。そうした先祖返りは毒液を分泌し、人心を操る事を得意とするという。そちらのお嬢さんの探し人も、ヘビ人間に操られているか、捉えられ奴らの毒薬の被験者となっているのやも知れん」
「兵士の手に落ちていない神殿は、もはや一ヶ所、初台駅深部の遺跡のみ。それらも数日のうちには敵の手に渡るだろう。我々は既にだいぶ仲間を減らしてしまった。無論、最後まで戦いはするが、破滅は時間の問題だ。そこで恥を忍んで諸君らに頼む。我々が時間を稼いでいる間に、恐らくは敵の背後にいるヘビ人間の目論見を暴き、その陰謀を挫いてはくれないか?」
語るべき事を語り尽くしたキミタケは、口をつぐみ、四人をじっと見つめた。
キミタケの話は筋が通っているが、鵜呑みにする訳にもいかない。言葉以外にはっきりとした証拠は無いのだ。ヘビ人間の実在も定かではないし、仮に実在しているとしても、ヘビ人間ではなく食屍鬼こそが神殿を確保し人類を陥れようとしている真に邪悪な存在で、一太郎達を唆し、正義側のヘビ人間の組織を排除しようとしているのかも知れない。旧初台駅で遭遇した兵士を思えば、確かに正義側であるとは思えないが、どのような組織にもはみ出し者や粗野なはぐれ者はいるものだ。
よしんばキミタケが嘘をついていないにしても、邪推が過ぎただけで、ヘビ人間は強引な手段に訴えてでも故郷の神殿に帰り、ひっそり暮らしたいだけ、というオチも有り得る。
四人の躊躇と懐疑を見透かしたキミタケは、墓石から重々しく腰を上げた。
「諸君らの迷いは当然だ。だが、覚えておきたまえ。我々が滅んだ後は、必ず諸君ら人間の番だ。その時、東京の繁栄は終わるだろう……」
不吉な言葉を残し、キミタケは他の食屍鬼を伴い、暗がりへ溶けるように去っていった。
食屍鬼の足音と漂っていた腐臭が消え、いつの間にか消えていた虫の音が戻る。一太郎は左京に聞いた。
「……キミタケの話を信じるなら、随分と大事のようですが。左京さん、上に掛け合ってどうにかできないんすか?」
「それなんだがね」
と、左京はタバコを咥え、火をつけながら言った。
「実は今夜ここに来る前に、上司にこの件はこれ以上調べるな、と釘を刺されていてねぇ」
「え?」
「は?」
「わっつ?」
「いやはや、予想以上に根の深い問題のようだね。援軍を呼ぶどころか、いつの間にか味方が敵に回っていたよ、はっはっは」
笑い事ではないが、笑うしかないといった風に左京は口の端を歪めた。
「これから先、警察のバックアップは期待しないで欲しい。これからキミタケ氏の情報の裏取りはするが、上司の変節と合致するキミタケ氏の話の信憑性は高いと私は考える。個人の手には余る、都市、ひいては国家の存続を左右しかねん大事ではあるが、それだけに私はこの事件を降りるつもりはない。ここまで手伝ってもらっておいてすまないが、君達はほどほどの所で手を引く事を薦めるよ」
そう言って左京は踵を返し、元来た道を戻っていく。三人も頭を悩ませながら重い足取りでそれに続いた。
衝撃的な邂逅から夜が明け、四人は一度解散し、それぞれのツテでキミタケの話の裏を取っていた。ただし未弧蔵は食屍鬼の思惑に関係なく食屍鬼側について武装集団に一泡吹かせるつもりなので、特に調査はせずに自分の部屋で爆睡している。
一太郎は「エイボンの書」にキミタケの話に似た記述があった事を思い出し、ページを捲っていた。
ラテン語辞書を片手に午前中いっぱいをかけて調べたところ、肝心な所は破損していて読めなかったが、確かに過去にヘビ人間という種族が存在し、その興亡に一国を容易く滅ぼしうる邪悪な神性が関係していた事に間違いはない事が分かった。キミタケの話の裏付けになる。少なくとも嘘八百で一太郎達を煙に巻こうとしているわけではないらしい。
昼頃になると、一太郎の携帯電話に翠から、次いで左京から裏取りの結果報告が入り、情報を共有した。
翠の調査によると、最近の東京地下開発に関わった工事現場作業員は、作業中に突然ぽっかりと謎の地下空洞が現れた事があると証言した。そこには石造りの神殿のようなものがあり、文字とも絵ともつかないレリーフのようなものが刻まれていたらしい。それから半日もしない内に、政府関係者を名乗る男が武装した自衛隊らしい隊員を連れて現れ、辺りを封鎖。以後、なんの音沙汰も無いという。翠が旧初台駅で会った武装集団の絵を描いて見せると、同じ集団だとの証言も取れた。
左京は武装集団について調べたのだが、その名前は《シールド》というらしい。防衛大臣補佐官の増山敬一郎という人物が設立した、半分私兵じみた対テロ特殊部隊だという。増山は左翼グループと繋がりが強い過激派として省内では有名である。
ヘビ人間の気配は無いかと増山の交友関係を調べたところ、「木曜会」という政治サークルに最近出入りしている事が分かった。出入りが始まった時期は、ほぼ《シールド》設立時期と重なる。それ以上の事は調査中である。
《シールド》とヘビ人間側の調査は翠と左京に任せ、一太郎は食屍鬼側を探る事にした。《シールド》とヘビ人間を相手取る事に決まったとしても、食屍鬼を信用してよいか分からない。最悪、《シールド》、ヘビ人間、食屍鬼の全てを相手に無謀な戦いをする事も視野に入れなければならない。いよいよ不味くなったら東京の外に逃げる手もあるが、日本の中核たる東京が破滅すれば、どこにいてもいずれ同じ結末を辿るだろう。
一太郎は惰眠を貪っていた未弧蔵叩き起こし、再度青山霊園へ向かった。
青山霊園は食屍鬼の根城になっているが、ほんの少し前まではホームレスの格好のねぐらでもあった。双方、接点は多かったはずだ。昨夜、食屍鬼が四人の前でお行儀よく取り繕っていたとしても、長年間近で生活してきたホームレスの証言ならば本性を暴く事ができる。
たっぷり眠って活力が有り余っている未弧蔵は、青山霊園周辺のホームレスに声をかけて周り、最も食屍鬼について詳しいホームレスを呼んできてもらった。
二人は、薄汚れた髭を伸ばしたホームレスが連れてきた件のホームレスと、青山霊園近くの路地裏で会った。
「こいつが?」
「へえ、そうですが。何か?」
「……幼女じゃん」
二人の前にいるのは紛れもなく幼女だった。汚れて変色した灰色の布切れを身にまとい、子供らしからぬスレた眼に警戒を隠そうともしていない。七歳ぐらいだろうか、顔には痛々しい火傷の痕がある。細かい傷の目立つ裸足が、幼女が家出少女ではなくホームレスである事を物語っていた。
幼女はじろじろと二人を見ていたが、一太郎の顔の火傷を見つけると、とことこと歩いてきて、一太郎の袖を掴み、黙って顔を見上げた。
「あー、こんにちは」
「……こんにちは」
一太郎が困惑しながら挨拶すると、幼女はぎこちなく返した。目線は火傷から離さない。醜い火傷のせいで、子供に近寄られた経験の無い一太郎は途方に暮れた。
「根津、なんとかしてくれ」
「いいぜ。よーしお姫様、お兄さんとお話しようか。いいものあげるから」
「…………」
未弧蔵がしゃがんで目線を合わせ、飴を出して誘拐犯のような台詞を吐くと、幼女はさっと一太郎の後ろに隠れた。
「八坂がいいってよ、このロリコン」
「冤罪だ」
一太郎が抗議したが、未弧蔵はニヤニヤ笑うと、幼女を連れてきたホームレスと肩を組んで去っていった。二人だけが取り残される。
一太郎がため息を吐いて転がっていたビールケースに腰掛けると、幼女が膝に登って火傷の痕を触ってきた。したいようにさせながら話し始める。
「君の名前は?」
「れん。お兄さんも、いえ、もえたの」
「ああ、まあね。れん……ちゃんと同じぐらいの時にね」
「れんでいい。みんなそういう」
「そっか。そのみんなっていうのは食屍鬼(グール)の事かな、ホームレスの人の事かな」
レンは火傷の痕を触る手を止め、じっと一太郎の眼を見つめた。
「ぐーるの人たちのこと。キミタケおじさん、トミタケおじさん、とたけけおじさん」
「キミタケおじさん、か。食屍鬼の人たちといつもどんな事してるのかな」
「んー……キミタケおじさんに、こくごとか、さんすうとか、おしえてもらってる。わたしくらいの子は、べんきょうしないとだめなんだって。これ、キミタケおじさんにもらったの。もじはちゃんとかけるようにって」
レンは服のポケットから一本の古い万年筆を取り出した。掠れた文字で「平岡 公威」と印字してある。
レンは足をぶらぶらさせ、その万年筆を見ながら寂しそうに言った。
「でも、さいきん、みんないそがしそう。キミタケおじさん、わたしはにげろって。ずっとずっと、とおくに。こわいこと、おこるから」
「…………」
レンがこの言葉をキミタケに言わされているとしたら、人類史上最高の役者だろう。幼女好きに悪い奴はいない、などと嘯くつもりはないが、一太郎達をハメて人間を陥れようとするような者が、ホームレスの少女に時間を割いて勉強を教えるとも思えない。悪人どころか、人間の中でも珍しい善人だった。
疑って悪かった、と一太郎は心の中でキミタケに謝った。
「ねえ、お兄さん、キミタケおじさんのともだち?」
「……ああ」
「おじさんをたすけてあげて」
「ああ。もちろんだ」
それから二日かけて、更に情報が集まった。
レンの万年筆に印字されていた「平岡 公威」という名前を調べたところ、昭和の小説家・劇作家である「三島由紀夫」が該当した。一太郎も名前ぐらいは知っている有名人だ。平岡公威は三島由紀夫の本名である。彼は1970年に自衛隊基地内でクーデターを呼びかけた挙句、これに失敗。愛刀で割腹自殺を遂げた。三島は生前「楯の会」という思想民兵組織を率い、日本を改革し、天皇を中心とした理想社会を目指していたらしい。「楯の会」という名前は《シールド》と通じる部分がある。
三島由紀夫=平岡公威=食屍鬼のキミタケで間違いない。
三島も右翼の人間だったはずだが、同じ右翼の増山率いる《シールド》と断固とした対決の姿勢を見せているのは、ヘビ人間云々以外にも何か因縁でもあるのだろう。三島は生前各界著名人と広い交流のある社交家であり、論客でもあった。死後まで抱えていくような因縁ぐらい山ほどあるに違いない。
左京は幾つか危ない橋を渡ったようで、「木曜会」についての追加情報を仕入れていた。
《シールド》の設立者である増山が近頃出入りしているという政治サークル「木曜会」だが、そのメンバーは「突然、それまでとは政治信条が変わったような行動をとる」事があるらしい。キミタケが話していた、ヘビ人間の人心を操る能力を匂わせる話だ。
その木曜会のメンバーは「白蛇の家」という宗教団体のビルに、毎週木曜日に定期的に通っているという。
翠は知り合いの弁護士に頼み込み、「白蛇の家」の宗教法人の資料を調べて送ってもらった。
それによると、「白蛇の家」は都内に本拠地を持つ神道系の新興宗教団体で、「いきがみさま」と呼ばれる教祖を頂点に据えている。教祖は若い頃に「白蛇さま」という神性が憑依するという神秘体験をした事があり、類稀なる奇跡の力を持つらしい。入信者は週に一度木曜日の夜に開かれる定例会に必ず参加する義務がある。その時、なんらかの宗教儀式が行われるらしい。
……真っ黒である。儀式のついでに一服盛るなり催眠術をかけるなりしているに違いない。白蛇の家という名称からも、ヘビ人間の関与が色濃く疑われる。
裏付けが取れた一同は、再び深夜に青山霊園に侵入した。キミタケはヘビ人間の野望が達成されるまでの猶予は残り少ないと言っていた。敵の本拠地も白蛇の家でほぼ確定した以上、あまりちんたらしていると食屍鬼が《シールド》に敗北し、東京がヘビ人間の天下になってしまう。食屍鬼と手を組めるのなら、早急に手を組んで事態の打開を図らなければならない。
「人間よ、答えは出たのか」
キミタケは三日前と同じように食屍鬼を引き連れて現れたが、食屍鬼の数は半減し、十体足らずになっていた。残る食屍鬼の体にはちらほらと銃創らしき傷が見える。
前に出たキミタケに応え、一太郎も四人の代表として一歩前に出た。
「はい。我々はあなた方と共闘します」
「それは重畳。しかし本当に良いのだね?」
「全て覚悟の上です。それにあなたを助けて欲しいと頼まれているので」
「……なるほど、レンに会ったのか。君に懐いただろう?」
「やはり火傷が理由ですか。あの子も火事に?」
「うむ。二年ほど前に大火災に巻き込まれてね。何か魔術的な素養があったようで、火傷を負うだけで生還したのだ。不気味がった親類に施設に入れられたが、火傷が原因で他の子供に虐げられ、逃げ出したと聞く。人間不信でね、ホームレスの仲間では無くよりにもよって我々に好んで近寄るものだから、今まで世話をしていたが……事が終わった暁には、私は地下に隠棲するつもりだ。重ね重ねすまないが、レンが人の世で暮らせるよう取り計らって欲しい。その方が幸せだろう」
「……配慮しましょう。それで、これからの計画などは?」
一太郎が尋ねると、キミタケは首を横に振った。
「情けないが、遺跡の防衛に手一杯でね。とてもではないが調査や計画を練る余裕はなかったのだ。だからこそ諸君らの力を借りる事になったのだが」
「それなら私に案があります」
「ふむ。是非聞かせて欲しい」
一太郎はキミタケに練ってきた計画を語った。
元凶が先祖返りをしたヘビ人間ならば、そいつを始末すれば事態は収束する。一応確認すると、二匹も三匹も先祖返りした強力なヘビ人間がいる事はないだろう、とキミタケは請け合った。
定例会のある木曜日ならば、教祖である先祖返りのヘビ人間、「いきがみさま」は間違いなく白蛇の家のビル――――白蛇ビルにいるだろう。それに合わせて襲撃する。できれば潜入が望ましい。
情報解析役の一太郎と、戦闘役の左京は「いきがみさま」の討伐を担当。
未弧蔵は、《シールド》が白蛇ビルの警護に就いていた場合、これに対処。
翠はビルの内部を探索し、万一「いきがみさま」を逃した場合に勢力を失脚させる証拠を掴むと共に、捕らえられているかも知れない妹を探す。
食屍鬼には付近で騒ぎを起こし、陽動を任せる。
現在は水曜日なので、襲撃は約24時間後になる。
以上のような作戦を語ると、キミタケは白蛇ビルへの侵入経路について意見を述べた。
「白蛇ビルであれば、ビルの地下に通じる排水溝がある。そこを通り、内部に侵入すると良い。案内をつけよう。陽動は……そうだな、同胞を二人向かわせよう。騒ぎに乗じると良い」
「ありがとうございます。一応キミタケさん達にも「いきがみさま」の写真は渡しておきます。隙があれば殺ってしまって下さい」
「心得た」
翠は食屍鬼達に宗教法人の資料から引っ張ってきた写真を渡した。写っているのは三十歳ほどに見える日本人女性だ。正体はヘビ人間だというが、特に爬虫類的特徴は見られない。
「ヘビ人間って割には人間そっくりなんですよね」
「いや、ヘビ人間は人間に擬態する機能のある衣……服を着ているのだ。衣に傷をつければヘビの正体を表すだろう」
「あ、なるほどそういう感じなんだ」
それからしばらく計画をつめ、襲撃に向けて英気を養うべく解散の運びとなった。去り際にキミタケが放った「お互い生きて帰れる事を祈る」という言葉がかえって不安を煽った。
決戦の一時間前、一太郎は屋敷の居間のソファーに深々と身をもたせかけ、鉄製のダガーを手の中で弄んでいた。未弧蔵が買っていた骨董品のダガーで、《空鬼の召喚/従属》使用の媒介に使うものだ。一太郎が習得している魔術である《空鬼の召喚/従属》は、次元を移動できる怪物を召喚し、一つだけ命令を実行させる事ができる。ただし詠唱後数分~十数分後に現れるため、一秒を争うような危機に陥ってから喚んだのでは間に合わない。
魚流田事件や韮崎事件と違い、今回は解決に失敗すれば大災害になる。出し惜しみはできない。使ったほうが良い状況では躊躇せず使う決意を固めていた。ただでさえヘビ人間、食屍鬼、人間の混戦になっている更に怪物を投入する事になるが、制御できれば心強い戦力になるだろう。
未弧蔵も魔法のナイフを磨き、腰にスパナをぶら下げている。他にもピッキングツール、ガムテープ、ICレコーダーなど小細工道具をポーチに詰め込んでいた。未弧蔵流の本気である。
「行くか」
「っし!」
時間になり、二人は覚悟を決めて合流地点に向かった。
合流地点――――白蛇ビルから少し離れた、人気のない路地裏のマンホールの前では、既に左京と翠、一匹の食屍鬼が待っていた。ちなみにこの食屍鬼はトミタケといい、生前はフリーのカメラマンだったらしい。
「行クぞ」
四人が揃うと、トミタケは耳障りな喋り方で言い、マンホールの蓋をずらしてするりと中に入っていった。
トミタケに続いて下水道を進む一太郎は酷い悪臭に鼻をつまんだ。足元には汚水が流れ、明かり一つ無い。歩いているうちに、映画でよくあるように背後の濁った汚水から何か名状し難い怪物が体を伸び上がらせるのではないかという妄想に囚われたが、そういう事をしそうな怪物は今目の前で懐中電灯を手に道案内をしている。ホラーもクソもない。
数分も歩くと、目的地に着いた。食屍鬼がはしごを上り、頭上の蓋をそっと開けて外の様子を伺ったが、ケホケホとむせながらすぐに蓋を閉めて降りてきた。
「すまナい、こコから先にハ同行できないよウだ。何カ、我々を苦シめる香いが充満しテいる。人間には害は無さそうだガ」
「対策取られてんじゃねーか。まあそりゃ食屍鬼相手取るならメタ張るよな」
「……それでは表の陽動役の食屍鬼も突入できないという事かね?」
「恐らク」
「OK、任せてくれ。空鬼を召喚して陽動させる」
あっさりとラストウェポン発動に踏み切った一太郎に、未弧蔵は目を剥いた。
「マジかよ躊躇いねーな。他の手ねーの?」
「考えている時間が惜しい。定例会の時刻が過ぎれば「いきがみさま」を逃すかも知れない」
一太郎は呪文を詠唱し、手のひらに掲げ持った鉄製のダガーに魔力を込めた。すぐに呪文に呼応し、近いようで遠い、人間の空間認識能力を超越した多次元の角度とも言うべき形容し難い彼方から空鬼が近づいてくるのが感じ取れた。
「空鬼ってのもどうせ気っ色悪い怪物なんだろ? あんま見たくねーなぁ」
「ふむ。決戦の前に怪物を見て神経をすり減らす事もないだろうね。八坂君、すまないが少し離れたところに喚んでくれないかね」
「もう喚んじゃいましたけど。まあ少し位置をずらすぐらいなら……向こうでやってきます」
数分後、一太郎他の三人とトミタケから離れた下水道の暗がりで空鬼を喚びだした。
召喚主であり、「透視」も使っていた一太郎には、微かな輪郭の瞬きと共に虚空から滲み出るように現れた空鬼の姿がはっきりと見えた。
その下水道の天井に届こうかという巨体は猿に似ているが、関節や骨格には昆虫のような特徴もある。体の皮膚はだらしなく垂れ下がり、頭には鍾乳洞や深海に棲む生き物のように退化した目の痕跡と口だけしかない頭はゆらゆらと左右に揺れていた。だらりと垂れ下がった長い前脚の手についた残忍な鉤爪が、隙あらば一太郎を切り裂こうとしているようにすり合わされカチカチと音を鳴らしている。
この召喚術を習得する際に読んだ記述によって特徴を既に知っていた一太郎は、実際に目にしても自分でも驚くほど恐怖を感じなかった。幸いな事に、知識がそのまま感覚として理解できていたようで、取り乱す事なく冷静に命令を下す事ができた。
「この上にあるビルに侵入し、できるだけ大きな騒ぎを起こせ。人間は可能な限り殺すな。死ぬまで……いや、死にそうになったら元の世界に退却しろ」
死ぬまで陽動を続けろ、と言いかけた瞬間に強い抵抗の意思を感じたため、言い換えて命令をした。空鬼は受諾したような意思を発し、またチカチカと瞬いて消えた。
ほっとため息を吐く。空鬼の抵抗の意思をねじ伏せて無理やり命令を聞かせる事も不可能ではなさそうだったが、無駄に危ない橋は渡りたくなかった。怪物と言っても、死ねば死体は残る。前向きに考えるなら、殺されて死体を残すより、死ぬ前に退却した方が、またいつ襲われるか、という警戒心を与えられ、陽動の効果は長く続くだろう。
一太郎は三人とトミタケの前に戻り、陽動を始めた事を告げる。未弧蔵が一太郎にサムズアップしてはしごに手をかけると、未弧蔵の手に左京が手を重ねて言った。
「ここからはこれまでより段違いに深刻な命の危機に晒される。一般市民は警官に任せて引くのが賢明ではないかね? 君達は私が死……行動不能になった場合のバックアップとして待機していてくれると助かるんだがね」
「八坂、今何か聞こえたか?」
「聞こえてない」
「私のログには何もないね」
ひよった事を言い出した左京を置いて、未弧蔵、一太郎、翠はひょいひょいとはしごを登って地下水道の外に出た。左京は苦笑いして肩をすくめ、それに続いた。ここまで来て引くわけが無い。
四人が地上に上がったのを確認したトミタケは、ひっそりと暗がりに溶け込み、脱出路の確保のために待機した。
床の排水用マンホールから出た四人は、そこがボイラー室である事に気付いた。低い腹に響く音を断続的に立てる太い配管と機械が並んでいる。この騒音ならばマンホールから出た時の物音は紛れて聞こえなかっただろう。
「まず全員固まって動きましょう。陽動がどの程度効いているか次第でその後バラけるか固まったままか決めます。最悪陽動が見破られていた場合撤退も視野に入れるのでそのつもりで」
年齢と立場からすると左京が指揮に回るのが妥当だが、一太郎が指示をするのを誰もがすんなりと受け入れていた。体は弱いが、頭の回転が早く、怪異の知識の豊富な一太郎は最もこういう状況に強い。
ボイラー室から廊下に出ると、そこは無人だった。すぐ近くの壁に「B1F」とあったので、地下一階らしい。遠巻きにビルの外観を見た限りでは四階建てだったが、地下があったようだ。廊下には人っ子一人、ヘビの子一匹いない。機械の稼動音の煩いボイラー室から出た未弧蔵が耳を澄ませると、微かに階上から人の叫び声や発砲音、破壊音が聞こえてきた。
「やってるやってる、上で暴れてるみたいだ。これもう陽動効いてるって考えていいだろ。どうする八坂、バラけるか?」
「そうしよう。ただし流石にビルの間取りも敵の配置も分からないのに単独行動はまずそうだから、翠さんと根津、俺と左京さんで」
「分かった」
「よろしく、八坂君」
地下一階にはボイラー室以外に部屋が四つあった。部屋にプレートはかけられておらず、どれが何の部屋か分からないので、適当に入ってみるしかない。
一太郎と左京が入った部屋には、壁一面に本棚があり、カビ臭い本がぎっしりと詰まっていた。本の背表紙に書かれたタイトルの大半はなんとなく見覚えはあるがどこの国の言葉か思い出せない言語で、パッと見渡しただけではどんなジャンルの図書が集められているのか分からない。
「資料室か。興味深いが、本の裏に「いきがみさま」が隠れているわけでもないようだね」
左京が床に積まれた本を捲って下を見ながら冗談めかして言う。一太郎は頷きながら、念のため「透視」を使って本棚を見回した。一太郎がかつて発見した魔道書「エイボンの書」は、微弱なオーラを纏っていた。ここがヘビ人間の書庫ならば、魔道書の一冊や二冊あるかも知れない。
果たして推測は当たり、本棚の二箇所に弱いオーラが視えた。オーラを発していた二冊の本を抜き取り、タイトルをチラ見して懐にしまう。一冊は驚いた事に、一太郎の持っている「エイボンの書」だった。ただし、破損が無く保存状態が良好である。もう一冊は「Cultes des Goules」という本だった。英語では無さそうだが、「カルト」「グール」はなんとなく読み取れた。恐らくヘビ人間はこの本で食屍鬼(グール)について調べ、情報を《シールド》に流していたのだろう。
さらりと火事場泥棒をした一太郎を咎める事なく、左京は次の部屋に向かった。
二つ目の部屋を開けると、そこには二体の直立した人間大のヘビが服を着て、作業台の上でフラスコを揺らしたり天秤で粉末を軽量したりしていた。
ドアを開ける音に振り返ったヘビ人間が、鱗に覆われた顔を驚愕に歪め、縦長の瞳孔を見開いた。
話には聞いていても、実際に見るヘビ人間は部屋に漂う爬虫類独特の生臭さ、CGや着ぐるみとは決定的に異なる生々しい生物感があり、一太郎と左京も生理的嫌悪を抑えられなかった。とはいえ突然現れた予期せぬ人間に動揺しているヘビ人間に比べれば、ある程度気構えができていた二人の方が立ち直りが早い。
「は!」
声だけで叩きのめすような気合一声と共に、素早く踏み込んだ左京の前蹴りが右のヘビ人間の腹に突き刺さる。鱗と細い骨が何十本と割れる音がして、ヘビ人間は赤い血を吐き出しながら吹き飛び、壁に叩きつけられた。壁に血痕をつけながらずるずると床に落ち、動かなくなる。
一撃死した仲間に理解が追いついていない左のヘビ人間に一太郎が殴りかかる。が、顔を力いっぱい殴り飛ばしはしたものの、堅い鱗に阻まれて軽くよろめかせる事しかできなかった。
殴られてようやく事態を飲み込んだのか、ヘビ人間は長い舌を動かし擦過音を出しながら慌てて逃げようとする。ヘビ人間の衣が薄く発光し、ホログラムを纏うように人間の姿に切り替わった。
逃げるヘビ人間は出口を塞ぐ一太郎を突き飛ばそうとしたが、横から左京の強烈な前蹴りを喰らい、仲間の死に様を繰り返すように血を噴き出し壁に叩きつけられて死んだ。一太郎は小さく口笛を吹いた。流石は肉体派現職警官。強い。
残心を終えた左京は首をかしげる。
「弱いな。怪物的な見た目は見かけ倒しか」
「左京さんが強いんです。それに衰退して退化してるって話ですし、奇襲でしたから」
「念のため聞いておくが、この二体のどちらかが「いきがみさま」だとは?」
「考えられません。想定通りなら、今「いきがみさま」は定例の儀式の最中に空鬼の襲撃を受けて対応に追われているはず。こんなところで呑気にフラスコを揺らしているわけがない」
どうやらヘビ人間の調合室だったらしい部屋は、吹き飛んだヘビ人間が棚や作業机を巻き込んだせいで薬の瓶や試験管が割れて散乱し、酷い有様になっている。部屋にいたヘビ人間は二体だけで、何か有用なものを探せるような状態でもない。二人は割れてこぼれた薬品から何か有害なガスでも発生するかも知れないと危惧し、さっさと部屋を出てドアを閉めた。
ドアを閉めて振り返った二人は、廊下を挟んだ反対側の部屋のドアから頭を出し、不思議そうな顔できょろきょろしているヘビ人間と目が合った。
今度のヘビ人間は理解が早かった。すぐさま口をすぼめて舌を出し、仲間に警告を発しようとする。
しかし一太郎は慌てず、ヘビ人間から視線を横にずらし、親指を立てて握った手を下に向けた。
「おら!」
「 」
ちょうどヘビ人間の死角にいた未弧蔵が蹴り飛ばしたドアに首を挟まれたヘビ人間は声にならない声を上げ、その場に崩れ落ちた。
痙攣するヘビ人間を念入りに踏み越えながら、翠が未弧蔵にハイタッチして部屋の中に入っていく。三人もそれに続こうとして、中から翠の制止を受けた。
「三人ともストップ!」
「罠か!? 任せろ今助ける!」
中に飛び込もうとした未弧蔵に、翠が内側からドアを押さえながら急いで言う。
「違う違う! 葵がいたの! でもね、なんていうか、社会的じゃない格好っていうか、シャワースタイルっていうか。何か着せるからちょっと待って」
やっぱり飛び込もうとした未弧蔵を、一太郎と左京は左右から掴んでドアの前から引き離した。
数分後、翠の許可が出たので三人も入室した。
部屋の中には一辺が数メートルもある分厚いガラスのケースが幾つかあり、その内一つに大穴が空いていた。大穴を開けるのに使ったらしい椅子が横倒しになって転がり、翠のコートを着た葵がやつれ果てた顔で壁にもたれかかっている。腕には何箇所も真新しい注射の跡があった。
「良かった、葵さん無事だったか! いやあんま無事って感じじゃねーけど生きてて良かったぜ!」
未弧蔵が駆け寄っても、葵は虚ろな目で弱々しく見返すばかりだ。ゴリラというよりも手乗り猿だった。
翠は反応が薄くなすがままの葵を苦労して背負い、三人にすまなそうに頭を下げた。
「ごめん、私はここで抜けるね。葵をここに置いていけない。病院に連れて行かないと」
「謝らなくてもいいですよ。早く病院へ」
「ここで引き止めるほど鬼畜じゃあないよ」
「後は男共に任せろーバリバリ」
「……ありがとう」
最後にもう一度頭を下げ、翠は葵と共にボイラー室に戻っていった。
それを見送った未弧蔵は、耳を澄ませて階上の音を探る。破壊音は侵入直後よりも散発的になっていた。もたもたし過ぎたかも知れない。
「ヘイボーイズ、ちょっと急ごうぜ。陽動効果切れそうだ」
「B1Fは全て調べた事だ、そろそろ上に上がろう」
「了解です」
一太郎は部屋を出る前に、ふと思ってガラスケース脇のサイドテーブルに並べられていた数本の薬瓶をまとめてポケットに突っ込んだ。毒の扱いに優れたヘビ人間のものなのだから、どうせロクなものではないだろうが、後々役立つかも知れない。
悪党の物とはいえ、強盗に躊躇いがわかないあたり根津に染められてきたかな、と軽く落ち込みながら、左京に続いてエレベーターに入る。エレベーターには親切にも白蛇ビルの見取り図があった。ざっと見た左京が眉を潜める。
「怪しいのは2Fの修練場だが……4Fの地図がないな。エレベーターのボタンも3Fまでしかない。このビルは地上四階建てだと思っていたんだがね」
「3Fから上に繋がる階段描いてありますよ。修練場よりこっちが怪しいと思います」
「ふむ。二手に別れると1、2か。陽動が切れかけているなら単独行動は危険だろう。どちらかに絞った方が良いな。多数決をとろう、「いきがみさま」が修練場にいると思う者」
誰も手を上げない。左京はナイスチームワーク、と呟き、3Fのボタンを押した。
三回のエレベーターが開くや、三人は廊下を階段に向けて駆け出した。廊下には植木鉢が倒れ、銃痕で穴だらけの扉が転がり、血まみれのヘビ人間が一体事切れている。激しい戦闘があったようだ。
三人が四階への階段の下に差し掛かったところで、階段の下から銃声がして、鮮血の滴る長く鋭い鉤爪を持った巨大な怪物が這うようで飛び跳ねるような奇怪な動きで駆け上ってきた。口には鋭利な切断面を見せる人間の足を咥えている。
「うおっ!? なんだアレ! ヤベェの来たぞ!」
「ああ、あれが空鬼だ」
「え、マジで? 八坂あんなん召喚したのか」
「……心底アレが味方で良かったと思うよ」
空鬼の後ろから銃を構えて駆け上ってきたのは一人だけだった。頬に傷のある、猟犬を思わせる顔をした都市迷彩装備の男だ。旧初台駅で未弧蔵を返り討ちにした《シールド》の隊長だった。
隊長は空鬼が一太郎達を襲わず、じりじりと自分に近寄って来るのを見て事情を察したようだった。
「けっ、食屍鬼共に寝返った人間のクズどもが。そこの怪物とまとめて始末してやる。クソもらして震えながら順番待ちしてろ!」
叫びながら隊長が発砲すると、空鬼はひょいと避け、弾丸が背後にいた一太郎の頬を掠めていった。
心臓が止まりかけた一太郎が睨みつけると、空鬼は鼻のないのっぺりとした顔を歪めて残忍に哂った。命令には従うが、従順というわけでもないらしい。
改めて空鬼を見ると、体のあちこちに撃たれた跡があった。強靭な皮膚に遮られ、一ヶ所の傷はそう大きくないが、いかんせん数が多い。空鬼は出血死するような構造の生物ではないものの、ダメージがかさめば死ぬ。
隊長の背後から増援が来る様子はない。現在白蛇ビルにいる《シールド》や他の戦力はひとまず無いと考えて良いだろう。
後顧の憂いを絶つために、一太郎は再び《空鬼の召喚/従属》の呪文を唱え、命令を下した。
「重ねて空鬼に命じる。今すぐその男をさらい、この惑星の未踏の地に置き去りにしたのち、元の次元に帰還せよ」
命令を聞くと、空鬼は喜々として隊長に飛びかかった。隊長は後退しながら銃を撃ち逃れようとするが、未弧蔵が飛ばした魔法のナイフが足に突き刺さり、階段を転げ落ちた。
空鬼に組み付かれた隊長は、もがきながら空鬼と共にチカチカと瞬いた後、溶けるようにして消えていった。それきり、静寂が訪れる。
あっけないと言えば、あっけない最後だった。未踏の地がどこかまでは指定しなかったが、運が良ければ生き残る事もあるだろう。
一太郎が持っている魔力(MP)のほとんどを空鬼の召喚と命令に費やしたおかげで、実質味方の被害は皆無で《シールド》を排除できた。しかし根本的な解決にはなっていない。「いきがみさま」を倒さない限り、何度でも似たような組織が編成され、一層苛烈に邪魔な食屍鬼と一太郎を殺しに来るだろう。
戦闘ともいえない戦闘の余韻もそこそこに階段を上った左京は、締め切られた扉に備え付けられたセキュリティロックの前で呻いた。
「あー、セキュリティか。怪物相手にするのとはまた別の意味で厄介だな」
「左京さん、銃でロック壊せませんか?」
「どうかな。セキュリティのタイプによっては破壊しても開かないが」
解除のためにセキュリティキーを探しに戻るのは大きくタイムロスになる。そのロスの間に「いきがみさま」に逃げられるかも知れない。
一太郎と左京が躊躇っていると、未弧蔵がニヤリと笑い、胸ポケットから小さなカード形の電子キーを出した。
「てれれてっててー! セキュリティーキ~」
「おお!? ナイスだ。でもどうして持ってるんだ」
「死体漁りは基本」
「……ヘビ人間から盗ってたのか。相変わらず手癖悪いな」
「根津君には後で窃盗容疑で国民栄誉賞を打診しておこう」
「あざす!」
未弧蔵が電子キーをセキュリティロックの溝に滑らせると、軽い電子音がして、扉が滑るように開いた。
そこは窓一つない、一辺が30mほどもある広大な部屋だった。床は板張りで、まるで寺院の大講堂を思わせる。部屋の四隅には篝火が焚かれ、部屋全体をぼんやりと照らし出している。
その中央に、巫女服の女性が座り、一心に何かを唱えていた。扉の開く音に振り返ったその女性は、写真通りの人間の女性の顔をした「いきがみさま」だった。
「いきがみさま」は静かに立ち上がり、恨みがましく吐き捨てた。
「まさか、我らの悲願が人間如きに邪魔されようとは。実に不愉快じゃ」
自分が人外の存在である事を隠そうともしない「いきがみさま」の言葉に、左京は銃を抜いて銃口を向けた。
「悪いが怪物に人権は無くてねぇ。裁判は省略だ。国家転覆の現行犯で死刑を執行させてもらおうか」
「ふん、人権など。この世が人間のものであるのも今夜までの事。世界の真の支配者に無礼を働いた報い、死を以て償うが良い」
「戯言は地獄で好きなだけってね。さよならだ、ヘビ人間」
左京が銃の引き金を引くと同時に、天井からぼたりと黒い大きな塊が落ちてきた。弾丸はその塊に命中し、ぶちゅりと嫌な音を立てて飛沫を散らす。
床に広がった黒い塊は意思を持ったように蠢き、より集まり、伸び上がる。
その巨大な口、木の杭のような歯、体のあちこりでぎょろりと動く無数の目に、一太郎と未弧蔵は見覚えがあった。
韮崎の事件で戦った、無形の落し子である。
「ちょっ! まぁーたコイツかよ! 石像探せ、石像!」
巨体と不格好な体からは考えられないような速度で突進してくる無形の落し子を前にして、一太郎と未弧蔵は即座に部屋を横切るように走って逃げた。一拍遅れて左京も追従する。
「おいおい、また新しい怪物が出てきたぞ! 君達は知っているようだが、今度のあれはなんだ!?」
「要点だけ言えば物理攻撃を全て無効にする奴です! 攻撃力も洒落にならないですが、どこかにある石像を壊せば退散するはずです」
「分かった、石像だな!」
左京の威嚇射撃を挟みつつ、三人は部屋をぐるぐる走り回りながら見回したが、どこにもそれらしいものは見当たらなかった。「いきがみさま」が持っているのかと思って見ても、「いきがみさま」は巫女服一枚で何かを隠しているような膨らみは無いし、その場にじっと立ってぶつぶつ何か呟いているだけで、石像を掲げ持っているわけでもない。一太郎が残りわずかな魔力を振り絞って「透視」を使って視ても、「いきがみさま」が一太郎を数段凌駕する強力なオーラを持っている事が分かっただけだった。
「石像ねーぞ!」
「床下か天井裏にでも隠しているんじゃないか!?」
「いや待て、さっきから俺の頬の切り傷から出る血が床に落ちて染みたまま不自然な動きをしていない。石像があったら吸っているはずだ。もしかしてアイツは韮崎より高位の魔術師なのかもしれん」
「つまりどういう事だってばよ?」
「石像無しで無形の落し子を現界させられるんだ」
「ファー! んだそれ強すぎィ! じゃあもう「いきがみさま」ぶっ殺そうぜ! あいつが操ってんだろ!? どうせ殺るんだし、それで消えるの祈るしかねー!」
「待て、術者を殺したら暴走するんじゃないか」
「もう暴走してるようなもんじゃねーか! これ以上悪くなんねーよ!」
「確かに!」
左京が急停止し、銃口を「いきがみさま」に向けると、すかさず無形の落し子が射線を遮った。
弾丸は外れて無形の落し子の足元の床に木片を飛び散らせたが、注意は引けたらしい。左京に向けて突進してくる。
その隙に無形の落し子を迂回した未弧蔵が魔法のナイフを飛ばし、「いきがみさま」の腹部に深々と突き刺す。途端に「いきがみさま」の衣の擬態機能が消失し、ヘビの本性を現した。縦に割れた瞳孔を忌々しげに見開き、未弧蔵を睨みつける。横から殴りかかった一太郎のこぶしは、人間の骨格では有り得ない、爬虫類独特のしなるような動きで避けられた。
「いきがみさま」が手振りを交えながらぶつぶつ唱えると、無形の落し子が未弧蔵へ向かった。左京が再度発砲するも、今度は意に介さない。
「くっそ、ナイフ抜けねえ!」
「根津! 避けろ!」
「いきがみさま」にナイフが勢いよく刺さりすぎたらしく、未弧蔵は意識をそちらに集中して抜こうとしていた。
一太郎の声に振り返った未弧蔵は、突進の勢いをつけた野太い鞭のような触手を頭部にモロに受け、頭を吹き飛ばされた。
「え」
一太郎は動きを止め、呆然と立ち尽くした。脳が麻痺したように、上手く現実を認識できない。
未弧蔵の頭が無くなっている。首から血を吹き出す頭の無い体が、床に倒れた。つまりこれはどういう事なのだろう。
あれだけ命の危機を脱してきた未弧蔵が、こんなにもあっけなく。そんな馬鹿な。きっと今すぐにでも暗がりからニヤリと笑いながら出てきて、変わり身の術を使ったのさ、なんて言って……
左京は全身をガタガタ震わせながら棒立ちになっている一太郎に何度も呼びかけたが、耳に届いていない。
舌打ちした左京は無形の落し子をギリギリまで引きつけてから紙一重で回避し、一瞬射線が通った隙に最後の弾丸を放った。乾いた銃声が響き、「いきがみさま」の胸に赤い花が咲く。よろめき、足をもつれさせ、「いきがみさま」が倒れ込む。そのままぴくりとも動かない。じわじわと床に広がる血が血だまりを作り始めると、無形の落し子はするすると暗がりに染み込むように退散していった。
葵は助け出され、《シールド》は壊滅し、元凶たる「いきがみさま」も死亡した。これで事件は解決だ。東京の、日本の、もしかすれば人類の危機は去った。事が公になるのなら、人類史に残るべき偉業だ。
しかし、とりかえしのつかない犠牲が出てしまった。
「八坂君……」
刑事歴の長い左京も、親しい同期の同僚が目の前で殉職した事がある。一太郎の気持ちは痛いほど分かった。ショックから立ち直れず、精神を病む者も多い。
未弧蔵の亡骸に背広をかけて黙祷を捧げた左京は、焦点の合わない目でぶつぶつと呟き続ける一太郎と共に、翌朝になってようやく警察が踏み込んでくるまで、ずっとそこに佇んでいた。
結局、事態は闇から闇へ葬られる事になった。
ヘビ人間によって操られていた政治家達は我に返り、《シールド》の設立者である増山は白蛇ビルの中で拳銃で自決しているのが発見された。《シールド》は解散。食屍鬼達は再び東京の地下へ姿を消した。何体かヘビ人間の生き残りが散り散りに逃げ去ったようだが、先祖返りが死んだ以上、再起は難しいだろう。
白蛇ビルの銃撃戦は、一般市民には警察と自衛隊による市街戦の共同訓練という事で報じられた。事前の告知なく行われた体になったためマスコミに叩かれ、数日は紙面を賑わせる事となったが、やがて他の目新しい事件に埋もれて消えていった。一般市民は自分達が窮地に立たされていた事に気付く事もなく、神話的生物や陰謀とは無縁の日常を謳歌している。
公安としての職務を全うし、ヘビ人間の野望を挫いた亀海左京は、昇進の話が持ち上がったが、一人の一般市民を救えなかった事を理由に本人が辞退。無名大学出の左京を気に入らない学閥やエリート派閥の思惑や、とても公にはできない事件の性質もあり、今回の件によって新しく設立された対神話的生物組織ともいえる警視庁特命係の部長に配属される事になった。
左京は二度と神話的驚異が市民に犠牲を出さないよう、精力的に働いている。
宮本翠は一度妹と共に実家に戻り、事件の後遺症に悩む葵と共に長めの休養をとっている。
葵はヘビ人間の「成長血清」という薬の実験台になっていた。
「成長血清」は先祖返りしたヘビ人間の血液から作り出された血清で、これを処方された人間は、細胞が刺激され、体質を爬虫類の性質へと変化させていく。どうやらこれによって人間をヘビ人間化し、一気に数を増やそうと企んでいたらしい。
捉えられ、薬を処方されていた間、高熱と悪夢に苦しんでいた葵の体は、皮膚の下に薄らと鱗ができ、骨格も爬虫類らしい柔軟なものに微妙に変化していた。身長もどこかヘビを思わせるひょろりとした感じに引き伸ばされ、顔立ちも少し変わった。
一太郎のツテで外部にもれないように精密検査をした結果、DNAレベルで爬虫類に近づいてしまっている事が分かったため、治療の方法はない。葵は皮膚の下の鱗を隠すために、夏でも厚着を好むようになったが、姉の献身的な助けもあり、社会復帰は遠くない。
八坂一太郎は親友の死により、心に深い傷を負った。普段の生活に障りはないが、心の底で未弧蔵の死を完全に乗り越えられず、どういうわけか興奮すると自分が未弧蔵であるかのような言動や行動を取るようになった。一種の二重人格である。
未弧蔵がいなくなり、来客も減り、火の消えたように静かになった八坂屋敷には、ホームレスの少女レンが新しく住む事になった。レンが親戚や孤児院に戻る事を猛烈に拒否したため、左京がツテを使い、一番懐いている一太郎の養子としてねじ込んだのだ。レンは「八坂 蓮」という名前になり、一太郎と共に新しい生活を歩み始めている。
一太郎は蓮が学校に通う前に、まずはまっとうな人間社会に戻れるよう、普通の服を着せたり、風呂に入る習慣をつけさせたり、残飯ではなく家庭料理を食べさせたりしながら、多くの時間を魔術の研究に費やした。もっと魔術や神話的生物への理解があれば、より有効な対策を取り、未弧蔵も死なせずに済んだのではないかと考えたのだ。白蛇ビルで入手した二冊の魔道書、完全な「エイボンの書」と「屍食経典儀(Cultes des Goules)」を夜な夜な読みふけり、使い方によっては身を滅ぼす致死の猛毒にもなる危険な知識を身につけている。
研究に没頭する一太郎が忘れていた事であるが、深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている、というニーチェの言葉は、一太郎が関わるそれには特によく当てはまる。
危機について知る事は、危機に近づく事でもある。
一太郎が再び神話的事件に巻き込まれる日は近い。
――――【八坂 一太郎(26歳)】リザルト
STR8 DEX10 INT18
CON9 APP7 POW19
SIZ14 SAN61 EDU18
耐久力12
所有物:
損傷の激しいエイボンの書(ラテン語版)
エイボンの書(ラテン語版)
屍食経典儀(フランス語原版)
コービットの日記
魔法のダガー……命中率=現在MP×5%、ダメージ=1d6+2、コスト=1ラウンド毎に1MP
成長血清
呪文:
透視、空鬼の召喚/従属、萎縮、被害をそらす
技能:
医学 65%、オカルト 29%、生物学 71%、化学 51%、聞き耳 55%、信用 45%、
心理学 56%、精神分析 33%、説得 41%、図書館 85%、目星 85%、薬学 61% 英語 21%
こぶし 56%、ラテン語 22%、フランス語 11%、クトゥルフ神話 39%
――――【根津 未弧蔵(28歳)】死亡
STR12 DEX16 INT9
CON12 APP13 POW11
SIZ13 SAN44 EDU14
耐久力13 db+1d4
技能:
言いくるめ 79%、応急手当 40%、回避 42%、鍵開け 71%、隠す 65%、聞き耳 45%、忍び歩き 50%、跳躍 31%、目星 55%、いやらしい手つき 52%
こぶし 58%、古物鑑定 13%、クトゥルフ神話 9%
――――【亀海 左京(47歳)】リザルト
STR14 DEX10 INT13
CON13 APP10 POW12
SIZ15 SAN51 EDU17
耐久力14 db+1d4
技能:
運転 50%、オカルト 22%、回避 44%、聞き耳 45%、信用 70%、説得 61%、追跡 60%、図書館 45%
目星 65%、拳銃 58%、キック 85%、組み付き 45%、こぶし 60%、武道:立ち技系(空手) 81%
クトゥルフ神話 5%
――――【宮本 翠(29歳)】リザルト
STR11 DEX9 INT17
CON11 APP15 POW13
SIZ10 SAN66 EDU16
耐久力11
技能:
言いくるめ 75%、応急手当 40%、オカルト 15%、鍵開け 61%、隠れる 50%、聞き耳 45%、経理 20%、
忍び歩き 50%、信用 75%、追跡 72%、図書館 65%、変装 51%、法律 15%、目星 75%、芸術:模写 85%、瞬間記憶術 80%
クトゥルフ神話 5%
――――【宮本 葵(27歳)】NPC/リザルト
STR23 DEX13 INT11
CON10 APP14 POW8
SIZ12 SAN41 EDU16
耐久力11 db+1d6
装甲:
柔軟な骨格と皮膚の下の鱗により、物理ダメージを1軽減する
技能:
応急手当 70%、回避 86%、聞き耳 50%、説得 55%、跳躍 65%、信用 75%、目星 55%、武道:立ち技系(ムエタイ)86%、キック 85%
精神分析 8%、クトゥルフ神話 7%
――――【八坂 蓮(7歳)】NPC/リザルト
STR5 DEX10 INT16
CON7 APP11 POW16
SIZ7 SAN51 EDU4
耐久力7 db-1d6
所有物:
キミタケの万年筆
呪文:
血仙蟲(※)
技能:
応急手当 50%、回避 40%、隠れる 60%、聞き耳 65%、忍び歩き 50%、登攀 60%、目星 50%、食屍鬼語 25%、クトゥルフ神話 1%
※
《血仙蟲》……「比叡山炎上」に収録。1d10SANを消費し、死亡した状態から1d10耐久力を回復し、復活する。この効果で全ての正気度ポイントを失った場合、食屍鬼になる。