黄金樹の一枝 リヒャルト・フォン・ヴュルテンベルク大公記 作:四條楸
部屋の扉がノックされ、執事が顔を見せた。彼は『皇帝陛下のお来しでございます』と告げた。
「おお、ルードヴィヒが来ていると聞いたが、まだいてくれたな」
「父上」
この館に訪問するのであれば、夕食時間になる頃訪れることの多い父が、俺の部屋に姿を見せたのだ。時計を見ると6時を回っている。兄と随分と話し込んでいたようだ。
「何の話をしていたのじゃ?」
「戦没者遺族救済基金についてです、父上」
「救済基金?」
この三人だけで話をするなど初めてだ。兄はこの館を訪れても、大体、午後6時には皇太子宮に帰ってしまうし、父は原則として7時頃に訪れる。何となく、ここで顔を合わせるのを避けているのかな、と思われるフシがある。そりゃ、父とその愛妾が並んでいる姿など、兄が見たいはずが無い。
侯爵夫人と兄は別に悪い関係ではないが、俺だって皇后陛下を蔑ろにする父には、たまに一言云いたくなることがあるくらいなんだから、実の息子である兄では尚更だろう。まあ、侯爵夫人は権勢に驕って、皇后を軽視したり見下したりするような方では無い。皇帝夫妻が同席する場には必要以上に行かないし、もしタイミング悪く三人がかち合った場合は、必ず下がって、皇后に臣下の礼を取り、父にも話しかけないそうだ。賢い態度だと思う。
「随分と難しい話をしておるのだな」
「我が帝国のために、その身を捧げてくれた兵士たちの、残された家族が気になるのは当然ではありませんか、父上」
気になったのはつい先程でしょう、兄上。何か突っかかっているね。
「確かにその通りじゃ。遺族の中には生活が立ち行かなくなって、農奴に堕ちる者もおる。痛ましいことじゃ」
「その状況に追い詰めたのは、帝国ではありませんか。せめて戦死者の遺族を農奴にすることは禁じるべきです」
「禁じたからといって、遺族の生活は成り立つのか? 農奴になれば領主の所有物となる。少なくとも餓死だけは免れるのじゃ。勿論すべての権利や自由を代償とするが」
「そんな! 帝国が彼らの働き手を奪ったというのに、我らはその遺族に何も出来ぬのですか! 父上、何のための皇帝の権力です!」
兄は憤慨するが、為政者が被支配者の犠牲と献身を求めるのは当然のことだ。専制主義は外国の脅威と愛国を訴え、被支配者を欺瞞して忠節を求める。最も簡単で、しかも名分の立つやり方だ。それに遺族救済は権力があるからといって簡単に出来るものでは無い。必要なのは金だ。
「救済基金のことならば、皇后に話をしてもらえば良いではないか」
「母上でございますか?」
「なんじゃ、知らぬのか。皇后は立后した当初から、そういう活動に力を入れておる。基金の役員に名を連ねておるし、毎年自分の皇族費の余剰分を基金に回したりしておる。他にも、戦没者遺児等育英基金の規模を、倍にしたのは皇后じゃぞ」
「母上がそのような活動を……」
兄は嬉しさと誇らしさと、そして戸惑いと羞恥が混じったような複雑な表情をしている。母親がそのような慈善活動をしていたことは誇らしいが、それを知らなかった自分が恥ずかしいということだな。
晴眼帝の后、ジークリンデ皇后の例にもれず、歴代の皇后の中には、医療や教育、福祉の活動を行なっている者は幾人もいた。勿論、名前を連ねるだけの方が多かったが、中にはそういう活動に積極的に関わる皇后や寵姫、貴族はいたのだ。人気取りであったかも知れないが、少なくとも、その行為によって救済された者は多かったのだ。
「アマーリエやクリスティーネも、着なくなったドレスや不要となった宝飾品を、基金集めのバザーやオークションで売って母の活動を手助けしておる。儂も皇后が救済基金の資金集めパーティを開けば、率先して寄付をするようにしておる。そうすれば、他の貴族からも資金を集めやすくなるからな。ルードヴィヒ、お前は興味が無いようだったが」
「それは……貴夫人達のお祭りのようなものと思っていたので、そういう理由があると知っていれば、私だとて……」
兄の顔は傍目にも解るくらいに真っ赤になった。遺族のことを、この家族の中で最も考えていなかったのは、自分だということを理解したらしい。
「まあよい。別に責めている訳では無い。興味が出たのなら、考えることじゃ。それよりも、今日はこの三人で夕食を摂ろうではないか」
「いえ、私は……」
「ユーディットは同席せぬ。珍しく我が家の男家族だけが揃ったのじゃな。女たちに言えぬ話も存分に語ろうではないか」
それってワイ談? まさかね。6歳には刺激が強すぎるよ。
食堂に移動すると、カトラリーも既にセットしてあった。いつも以上に侍従や給仕がビシッとした姿勢で立っている。そりゃ、皇室二大巨頭の同席だもんね。
夕食のメインは鯛と帆立とカニのキャベツ包みだった。シュヴァーベン館の食事は、フランス料理風でも家庭的だ。オードブルだってキノコのテリーヌで、秋の香り漂う物だったし、サラダやスープには、必ず旬の野菜がふんだんに使われている。
そして三人が囲んだテーブルの中央に、アルコールコンロと柔らかな色合いの鍋が一つ置かれた。
「チーズフォンデュ……ですか?」
「リヒャルトが好きなのじゃ。牛乳は嫌うくせに、チーズには目がない。カルシウムを摂らせるために、ユーディットは夕食には毎日チーズフォンデュを出すそうじゃ」
「牛乳が嫌い? そんなことを言っていると、背が伸びなくなるぞ、リヒャルト」
「大丈夫ですよ、兄上。朝はヨーグルト、夜はチーズを食べています。十分、乳製品を摂っているハズです!」
強調しておかなければ! 「毎日一杯は牛乳を飲みなさい!」と言う侯爵夫人の味方が増えないように!
「私も昔は牛乳は苦手だった。しかし眠る前に頑張って飲んでいたぞ。お前もちゃんと……」
俺が兄の忠告を無視して、フォークに刺したパンを鍋に差し入れると、兄はブロッコリーを刺して、鍋に入れた。おいおい、俺がフォークを突っ込んでいるのに、と思ったら、父までヴルストを刺して、同じように鍋に入れる。三人の回すフォークが鍋の中でぶつかって、フォークの回転は止まる。俺たちは顔を見合わせて苦笑した。
何だか幸せな時間だった。