黄金樹の一枝  リヒャルト・フォン・ヴュルテンベルク大公記   作:四條楸

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第26話   Der Rosenkavalier

「455年? 13年も前の日付けですね。何でしょう」

 

 夫人は首を傾げると、それを立体テレビに差し込んだ。画面が途端にパッと変わり映し出されたのは、紋章があしらわれた大きな緞帳のある舞台だった。

 

「まあ、ヴュルテンベルクの紋章ですわ」

 

 そういえばそうか。俺の紋章だ。幕が開き、ステージが現れた。ステージ上にある大きな天蓋付き寝台には横たわる女性と、その腕に絡みつく青年がいる。情事の後だね。彼らは情熱的に歌いだした。

 

『あなたがどのようだったか! あなたがどのようか! 一人として知らない、誰も思いもつきもしない!』

『文句があって? カンカン? 皆が私がどのようだったか知っていた方がよろしくて? 』

 

「ああ! 思い出したわ。ルイーゼさまが貴族女学院を卒業した年に、ヴュルテンベルクで開催されたオペラだわ。私も招待されましたもの」

「オペラ? 何故リッテンハイムどのがそのようなディスクを私に?」

「うふふ。もう少し進むと解るわよ」

 

 侯爵夫人の説明によると、ステージ上の二人は不倫関係らしい。

 女は元帥夫人マルシャリン、青年は彼女の年若い愛人でオクタヴィアン、通称カンカンというらしい。

 やがて夫が帰ってきたと誤解した二人が慌てふためき、オクタヴィアンはとっさに女装する。しかしそれは客人であり、元帥夫人の従兄、オックス男爵という者だった。彼は女装したオクタヴィアンを口説きながら、婚約した女性、ゾフィーへの婚約申し込みのための使者を紹介して欲しいと元帥夫人に願う。夫人は悪戯心を起こして、オクタヴィアンに使者の役目をさせると約束する。

 

「オクタヴィアン役は女装が似合っていますね」

「……少しは芸術方面にも力を入れなさい、リヒャルト。オクタヴィアンはズボン役、つまり女性が男装して演じるのです」

 

 ……オペラなんて一回も見たことないもん。見なくたって人生に支障ないさ。

 

 その後、舞台では来客が入れ替わり立ち替わり現れては消え、最後に元帥夫人が、いずれは自分も年を取らねばならず、いつかは愛人であるオクタヴィアンも自分の元を去るだろうと語る。オクタヴィアンがそれを慰め、元帥夫人への愛を情熱的に語る。……まあ、濡れ場だね。そんな感じで一幕は終わった。

 

「あの、義母上。何が解るんですか?」

「第二幕よ、第二幕。夕食を頂きながら見ましょう」

 

 普段は立体テレビを点けたまま食事なんて、作法に反すること、夫人は許さないんだけれどね。俺は運ばれた食事を摂りながら、画面を見る。

 やがて第二幕が始まった。今度の場所は、オックス男爵の婚約者、ゾフィーの屋敷の居間であるらしい。花嫁とその父が、婚約申し込みの使者とまだ見ぬ婚約者を待って、ソワソワと落ち着かない様子だ。やがて婚約者役、ゾフィーが歌いだす。

 

『この荘厳なる試練の時、おお我が主よ、私の価値以上に私を高め、聖なる婚姻に導いてくださるこの時に……』

 

「あっ」

「ふふ、解った? ルイーゼさまよ」

 

 舞台上のヒロイン、ゾフィーは、濃い化粧をしているが、確かに母だった。しかし記憶にある母とはまるで別人、初々しくも艶やかで、そしてふっくらとした身体付きだ。高いリリックソプラノを駆使して、夢見る乙女を語っている。

 

「……舞台に立ったことがあったんですね」

「卒業記念に、父君の伯爵が開催したとお聞きしましたわ」

 

 歌手として舞台に立ったことがあると知ることができて、少し嬉しかった。母の夢は叶っていたんだな。継続は出来なくても。

 

 舞台では、全身銀の服装で現れたオクタヴィアンが、古来からの儀礼に則って、オックス男爵からの婚約申し込みの証しである銀の薔薇を手渡した。第二幕の見せ場、銀の薔薇の献呈の場面だそうだ。母、いやゾフィーはそれを受け取るが、若い二人は互いに一目で恋に落ちてしまう。

 ゾフィーはやがて現れた自分の婚約者、オックス男爵の傲慢で無作法な態度に驚き、彼を嫌い、オクタヴィアンに助けを求める。彼はそれに応じ、色々あって、剣での決闘騒ぎとなる。

 

「略奪愛ですね」

「そんな言葉、どこで知ったの!?」

 

 おっと危ない。舞台ではオクタヴィアンが計略をもって、男爵を陥れようとするところで幕が降りた。第二幕の終了だ。

 

「おかしいですわね」

「何がですか? 義母上」

「このディスクの日付です。この舞台は夏に行われたはずではありませんよ。秋、いえ、冬……そうだわ! アドベント第四主日のお祝いを兼ねていましたもの。12月の終わり頃に開催されたはずですわ! ええ、毛皮を着ていったはずですよ、私は」

「? では何でしょうね。この五ヶ月も前の日付は」

 

 疑問を語り合っているうちに、幕が開いた。第三幕だ。

 オクタヴィアンは再び女装し、オックス男爵を誘惑して、ゾフィーの父親の前で彼の面目を散々につぶし、婚約を反故にさせる。

 しかし突如元帥夫人が現れ、しかも自分と元帥夫人との不倫までゾフィーにばれ、大いに狼狽する。元帥夫人は先日予期した愛人との別れの時がやってきたことを悲しみつつ、若い二人を潔く祝福し、身を引く決意をする。

 

 ゾフィーを愛しながらも元帥夫人に未練を持つオクタヴィアン、愛した人が元帥夫人と不倫関係にあると知り悲しむゾフィー、愛人を諦め、若い二人を結びつけようとする元帥夫人、この三人の複雑な心境が三重唱でわれる。この三重唱が、このオペラでは一番の名場面だそうだ。オペラを知らない俺でさえ、特に元帥夫人の歌う諦念は見事だと解る。

 

『今日か明日かまたその次の日か。自分で自分にそう言い聞かせたでしょう? すべての女性に訪れることなのよ。知らなかったとでもいうの? 誓いを立てたはずでしょう? 完全に冷静な心で耐えると』

『私は固く誓ったわ。彼を正しく愛すると、他の女に対する彼の愛でさえ愛すると! でもそのことがこんなにすぐに私に課されるとは思ってもいなかった』

 

「……主役は元帥夫人ですね」

「ええ、他の三役に比べて、ゾフィー役は一段下ですわ。この頃のルイーゼさまは、20歳にもお成りでなかったのですから、マルシャリン役は無理だったでしょう。マルシャリンはソプラノ歌手の夢とまで言われる大役です。ゾフィー役は初々しさが求められますから、お若いルイーゼさまにはピッタリですね」

 

 やがて若い二人は愛を確かめ合い、短い二重唱を歌い、幕は降りた。三時間以上もの舞台だった。当然食事はとっくに終わっている。

 

「……母の歌を聞くことが出来たのは嬉しかったですが、このディスクの日付けの謎は解けませんね」

「ふふ、もしかしてその謎を解いてみろという、ウィルヘルム殿の挑戦かもしれませんね」

 

 そんな遊び心のある人かなあ?

 

「では謎を解いてみましょうか……。義母上、このオペラの題名は何と言うのですか?」

「もう! そんなことも知らないの? 『Der Rosenkavalier』よ。オクタヴィアンが劇中で行なった役目よ」

 

 ローゼンカヴァリエ? へえ、何か符牒みたい。いや、何の関係も無いよな、ここは同盟じゃないし。

 

「えーと、オペラの作曲者は?」

「リヒャルト・シュトラウスよ。古代の音楽家だそうね。あら、あなたの名前と同じだわ」

 

 古代ね。優れた芸術は、やはり何千年も後でも残るんだな。俺と同名なのは、それこそ偶然だし。

 

「解りませんね。では出演者はどうなのでしょう。義母上の知っておられる歌手はいらっしゃいましたか?」

「主要人物四人の内、ルイーゼさま以外は、今も第一線で活躍されておりますわね。マルシャリン役はアガーテ・フォン・ヘルツベルク、オックス役はフランツ・カーン、オクタヴィアン役はローゼマリー・フォン・シェーンコップ、他の登場人物までは解らないわ。ファニナル役は誰だったかしら、このバリトンは聞き覚えが……」

 

 ……いや、もういいです! 必要ありません!

 俺は侯爵夫人に一晩考えてみると告げ、就寝の挨拶をすると、急いで自室に向かって、リッテンハイムから渡されたもう一つの土産、小箱を開いた。

 

 中からは小さな緑の印章指輪が現れた。どう見ても子供サイズ。俺にピッタリなくらいだ。この指輪は毎日見ている。何故なら俺の右手薬指にも同じ物が嵌っているからだ。

 しかし違うのは、ヴュルテンベルクの紋章の横に、見たことのない紋章が浮き彫りにされていることだ。

 

 そして指輪の内側には、小さな装飾文字で、『ワルター・フォン・シェーンコップ』と彫られてあった。


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