黄金樹の一枝 リヒャルト・フォン・ヴュルテンベルク大公記 作:四條楸
リヒャルトです。産まれて二十日が立ちました。
この前の侯爵夫人襲来事件(笑)から、色々なことが変わりましたよ。
侯爵夫人が、この部屋に毎日訪ねてくるようになったんだ。十一時くらいにやってきて、俺に乳をくれて子守唄を歌ってくれて、ベッドで伏せている母を気遣いながら一緒に昼食をして、お茶をしたり貴族っぽい噂話を(一方的に)したりして、十六時頃に帰っていく。一応出産直後のはずなのにすごく元気だよね。母とはえらい違いだよ。
俺は、なるべく侯爵夫人に気に入られるようにふるまった。
乳母が乳をくれようとしても、夫人がいる時は彼女の乳をねだったり、子守唄を歌ってくれないとぐずったり、夫人が帰るときは「いやいや、行っちゃいや」みたいな振りをしたりして。
おかげで夫人の機嫌のいいこと。「あらまあ、リヒャルトは私には甘えん坊さんなのねv」とか「私のお乳じゃないと嫌だなんて、困った子ね。胸の形が悪くなってしまうわvv」なんて感じだ。本来貴族女性は、子育ても授乳も乳母まかせなはずだが、彼女は母性本能が強い女性らしい。『育児の喜び』に目覚めちゃってるよ。
その上、母ともすっかり仲良くなってしまった。あ、彼女がいない時は母に一生懸命甘えることにも努めましたよ。実母に寂しい思いをさせる訳にはいかないし、侯爵夫人に媚売っているのは、半分は母のためなんだから。
両方に日中気遣いしているため、新生児ゆえに睡眠時間足りないらしくて夜は爆睡です。
おかげで乳母に言われてしまいましたよ。
「夜泣きはまったくしないし、産まれたばかりなのに聞分けもいいし、こんなに手のかからない赤ちゃんは始めてだ」ってね。子育て経験のある人には、ちょっと不審な赤ん坊だろうね、さすがに。
ところで侯爵夫人は毎日のように訪れてくれるのに、『陛下』のお成りがまったくないんだが。
産まれたばかりの可愛い息子に会いたいとは思わんのか? もう赤猿じゃないぜ? 母付きの侍女たちまで、この頃は「侯爵夫人が引き止めている」とは言わなくなったくらいだし、そんなに政務が忙しいんだろうか。しかしその割には侯爵夫人の館には頻繁に訪れているようだが。
……一番ありうる可能性としては、それだけ母への寵愛が薄いってとこなんだが……。母から産まれてきた俺も別にいらない子だったとか。ああ、ありえそうだ、すごく……。
「ユーディットさま。お願いがございます」
いきなり、母が決然とした顔で侯爵夫人を見据えた。ユーディットっていうのは侯爵夫人の名前だ。フルネームは、ユーディット・フォン・シュヴァーベン侯爵夫人というらしい。まあ、他にもミドルネームとかあるのかもしれないけど、そのスゴイ名前も俺同様、何かのフラグなのか? ちなみに、母の名はルイーゼ・フォン・ヴュルテンベルク伯爵夫人だそうだ。いよいよドイツだね、こりゃ。過去の公国とかの名前が姓に入っているんだもん。
「私にもしものことがあった時は、どうかリヒャルトの母となっていただきたいのです」
「なんて不吉なことを仰るの! ルイーゼ様!」
「でも自分でも解るのです。回復は望めないのではと。ユーディットさまほどリヒャルトを愛して下さる方はおりません。どうか私の頼みを聞いていただきたいのです」
母の心配は杞憂とは言えない。普通の食事がなかなか摂れなくなっているし、顔色も悪い。細かった身体が、今は薄っぺらく感じてしまうほど小さく、儚くなっているのだ。
産後の肥立ちが悪いってヤツかな。……だとすると俺のせいか。
その夜、俺は皆が寝静まるのを睡魔と戦いながら待っていた。詩の神が言った言葉『一度だけ神の力で助けよう ━━━━ 』 俺は母の生命を助けてもらうことを決意したのだ。奴の真名を心の中で三回唱えた。
しかし、その夜、あの詩の神が現れることはなかったし、その後何度呼んでも祈っても、母の健康が戻ることはなかった。母はやがて別室に移され、治療を受けることになった。
だが、俺が産まれてちょうど二ヶ月後、母は快復することなく、天に召された。
葬儀はしめやかに行われた。伯爵夫人として恥ずかしくない葬列で、多くの貴族らしい男女が列席し、母の侍女だった者は例外なく涙を零していた。でも、列席者たちは、彼女達のように、本当に母を悼んでいるとは限らない。
「……あれが伯爵夫人の」
「死ぬ前に跡継ぎを残し、ヴュルテンベルクの血を絶やさなかったという訳ですな」
「意地ですわ。陛下のご寵愛はとっくにシュヴァーベン夫人の掌中にありましたし、最後のお渡りで御子を身篭られるとは、ヴュルテンベルク伯家にとっては、却って運が良いとも言えますわね」
「でもシュヴァーベン夫人が御子を抱いておられる。噂では母親代わりとなられてお育てになるとか。お優しさゆえか、陛下を惹きつけるための一手か」
俺が聞こえてるってことは、俺を抱いている侯爵夫人にもこの会話が聞こえているはずだが、彼女は毅然とした態度を崩さない。一歩間違えれば彼女への揶揄とも聞こえるのだが……。それにしても、貴族たちよ。そんな会話は屋敷に帰ってサロンででもやってろよ。葬儀に参列している間だけでも、悲しむフリでもいいからしてくれ。
棺は黒塗りの馬車 ━━━━ ではなく黒塗りの乗用車で運ばれていく。俺はそれを見て驚愕した。
『ストレッチ・リムジン!? 車がある時代かよ。中世じゃなかったんだ。しかもこの車の内装……』
後続の車に乗り込んだ俺は、また驚愕せずには得られなかった。オートマチック車でさえ無い。運転手はいるが、彼は殆ど何もしていない。ハンドルさえないし、アクセルもブレーキも操作していない。しかも走行中にも関わらず、時折パネル操作をするのでヒヤヒヤするが、それはどうやら車内を快適にするため、温度操作や音楽を流したりしているらしい。
『冷房は効いているのに、音も風も全く感じない。エンジン音もタイヤの摩擦音も駆動音も、振動さえしない。何より自動で車が勝手に運転している……。運転手なんて飾りだ。ここは現代でさえない、未来だ。少なくとも俺が知っていた世界より、遥かに優れた科学力がある世界だ……』
……墓地で母の棺が土中に埋められたときには、上空に巨大な船がいくつも飛んでいくのが見えた ━━━━ 。