ある日妹が増えまして   作:暁英琉

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お兄ちゃんはお兄ちゃんであろうとする

 私にとってのせんぱいのイメージを一言で表すなら、たぶんお兄ちゃんみたいという言葉が正しい。ぶっきらぼうで遠慮がなくて、けれど私が大変な時にはさりげなく手伝ってくれて、優しく接してくれる。きっと、一人っ子の私にとって、せんぱいというお兄ちゃん像は一種の憧れだった。

 いや、憧れではなく、好きになっていたのだ。最初あった時はよくわからない変なせんぱいで、生徒会選挙やクリスマスイベントでよく関わるうちにだんだんと興味が湧いた。そして、きっときっかけになったのはあの言葉。

 

 俺は、本物が欲しい。

 

偶然聞いてしまったせんぱいの絞り出すような叫びは、私の中に電流を走らせた。

本物って何だろう。

 わからない、わからないけど……きっと私はそれを持っていなかった。

 葉山先輩に抱いていた感情も楽しいと思っていた他の男の子たちとの遊びも、押入れの奥にしまってしまったおもちゃのように無味乾燥なものに感じた。けれど、それを認めたら私のいままでを否定するようで、それが怖くて。だからあの日、ディスティニーランドで葉山先輩に告白した。

 

 ――君は周りを気にせず、自分で選んだものを手にするといい。

 

 私の告白を断った後に葉山先輩に言われた。その時、私は一色いろはと葉山隼人が同質のもののように感じた。周りの印象を気にしてあざとい少女を演じる私と誰にでも優しくある義務感を持つ葉山先輩。どっちも自分の意思はなく、からっぽ。けれど、私を諭すような葉山先輩の目には羨望のような光が混じっていた。

 

――君は選べるから。

 

 そう言われているようだった。選べない彼と選べる私。ならばきっと、私は選ぶべきなのだ。いつの間にか私が走っていた道の先には少し猫背のあの人の姿があったから。

 そんなせんぱいがお兄ちゃんになった。お兄ちゃんは私に本物の妹のように接してくれる。私が寂しくないように、私が孤独に潰されないように。それが優しくて、うれしくて……けれど悲しかった。

 それはきっと、偽物に向けられる優しさだから。

 

 

*   *   *

 

 

 いろはがうちにきてから二週間が経った。養子縁組も済み、正式に比企谷いろはになった時は多少学校中が騒然としたが、いろはがいままでと変わらない態度なのでそこまで尾を引くことはなかった。

 俺はいろはを妹のように、いや妹として接していた。一度妹と認識すれば勘違いもしないので気が楽だった。

「おに~ちゃん! はい、アーン」

「そんなことやらんぞ?」

「けど小町ちゃんには前やったって……」

「それは罰ゲームでだな」

「私じゃ……だめですか?」

「だから……はあ、一回だけだぞ」

「わ~い! お兄ちゃん大好き!」

「はいはい」

 だからと言って昼休みにこんなことをするのは恥ずかしいんですが、しかも教室で。ここ一週間ほどは俺の教室でいろはと一緒に昼食をとっていた。最初の頃はクラス中の視線を集めてしまって、ぼっち的に死にそうだったが、最近はもうみんな気にしなくなったようだ。このクラス順応するのはやすぎ。後ろからなんか視線を感じるのは無視だ無視、振り向いたら死ぬ。

 名字が変わったその日からこんな調子なので、学校でのいろはと俺は「仲のいい兄妹」と認知された。実際これだけ「仲良くみせて」いることや、いろは自身が全く苦を感じさせないおかげで、当初想像していた黒い噂はほとんど流れなかった。

 しかし、家では――

「ただいま」

「ただいまです……」

 「仲良くみせる」必要がない家ではいろはの声のトーンは落ちる。最初の頃ほどではないがやはり表情には陰が落ち、しかし俺の袖をぎゅっと掴んで離さない姿は見ていて痛々しい。夜だって未だ毎日、泣き声が漏れ聞こえてくるのだ。学校だけでも外面を維持するのに、どれだけ精神を摩耗させているのだろう。

「…………」

「…………」

 痛々しい姿を見せながらも、いろははなにも話さない。だから、俺もなにも話さない。ちょっとしたどうでもいい話なんかはするが、肝心なことは、話せない。俺にはなにもできないから。

 ソファの隣までついてきたいろはの頭をただなにをするでもなく撫でてやる。やはり俺達の間に会話はない。俺からこれ以上踏み込むのは、きっとタブーだから。

 それにしても、今日はやけに静かな気がする。いつも金曜の夕方というやつは近所の子供が遊び疲れて帰ってくる声や学校の終わった小町が……。

「あ……」

 すっかり忘れていた。そういえば今日から“受験追いこみ合宿”なるものをするから小町はいないんだっけ。親も帰り遅いだろうし、食事は二人分でいいのか。

 家に二人きり。けれど相手は妹、家族だ。なにか特別な感情を抱くこともない。いや、抱いたとしても、比企谷八幡という人間性はそれを許さないだろう。だから、なにも問題はない。

「飯の用意するから風呂入ってこいよ」

「はい……」

 いろはを風呂に促し、夕食の用意をする。かすかに聞こえてくる水音もさほど気にならない。

 静かに食事を済ませ、洗い物などを終わらせて風呂から出るころには、もうだいぶいい時間になっていた。そろそろ寝ようと布団に入って目を閉じる。別に眠いわけではないが、ただ寝る体勢をとる。目を閉じて横になるだけでも睡眠時の八割ほどの効果があると聞くし、そのうち眠れるだろう。

 夜更かしをしないのは逃げるためだった。なにかの拍子にいろはの泣き声を聞いてしまえば、途端に俺の中にはどす黒い何かが湧きでてしまいそうだし、衝動的になにかをしようとして場を引っかき回しかねない。ならば、なにもしないべきなのだ。

 電波時計しかない部屋は静かだ。冬の今は虫の声も聞こえない。だからだろうか、完全な静寂は逆に耳鳴りのようにうるさくて、なかなか俺を寝かせてくれない。耳鳴りを無視しながら目を閉じ続ける。なにも考えないようにして一定のリズムで呼吸を行う。

 どれくらい経っただろうか。相変わらず寝付けない俺の部屋の扉が、キィっと控えめな音を立てて開いた。思わずそちらに目をやると、パジャマ姿のいろはが立っていた。

「あ、お兄ちゃん。ごめんなさい、起こしちゃいましたか?」

「いや、まだ寝ついてなかったし気にしなくていい。どうした?」

「ぁ……いえ、えっと……」

 いろはは口ごもる。何か言いたげに口の中をもごもごさせて、舌の上で言葉を転がしてから、声に変えてきた。

「あの……一緒に寝ちゃ、ダメですか?」

「え……いやそれは……」

 兄妹と頭では認識していても、まだなってから一月も経っていないのだ。そんな年頃の男女が一緒に寝ると言うのは……。

 しかし、そんな俺の逡巡も、彼女の瞳に浮かんでいる不安を感じ取ると意味をなさない。個室という空間は人間にとってある種必須のものといえる。どんなに友達や家族といるのが楽しい人間でも、一人になる時間は必要だ。しかし、一人ということはつまり孤独であり、人は時にたった一枚の扉を隔てた状態でも孤独に苛まれる。孤独とは人の思考を負の感情で満たしてしまう。考えないようにしても、悪い方へ悪い方へ、考えてしまうのだ。

 きっといろはは不安と恐怖、悲しみに押しつぶされそうになっているのだろう。それなら、そういうとき“お兄ちゃん”なら……。

「俺背中向けて寝るから、あんまりくっつくなよ」

「はい……ありがとうございます」

 壁を向いて身体を寄せる。視線を外す一瞬、いろはの顔にさっきとは別の悲しみが見えた気がしたが、その意図は俺にはわからない。

 もぞもぞといろはがベッドに入ってきて、ぽすっと俺の背中に顔を埋める。くっつくなと言ったはずなのだが、これで少しでもいろはが安心できるというなら払いのける理由はない。いろはの体温と吐息を背中にかすかに感じながら、目を閉じる。多少落ち着いたのかしばらくすると呼吸が一定になり、押し付けられる感触も少し和らいだ。

「おに、ちゃ……き……」

 いろはが寝言か何かをつぶやいたが、少しくぐもった声を聞き取ることはできなかった。

 いろはが家族を失ってから三週間ほど、思えば学校以外でいろははほとんど外に出ていない。それはつまり一人で考える時間が増えてしまうということであり、今のいろはにはあまりよくないことのように思えた。

 何かしてやらないとな。

 妹が苦しんでいるなら手助けをする。それが、兄の務めだから。

 

 

*   *   *

 

 

「おはようございます……」

「おはよ」

 朝、朝食の用意をしているといろはが起きてきた。いろはは朝が極端に弱い。俺も小町と比べれば強くはないが、いろはは起きてから覚醒までに一時間近くかかるようだった。というか、どうでもいいけどその着崩れたパジャマどうにかしてくれませんかね。全然どうでもよくなかった。レディとしてどうでもよくない。

 二人で食事をとるのはこれが初めてだ。いつもは小町がいるし、時々お袋もいた。まあ、その時も今日の天気の話とか当たり触りのない話しかしていないし、ましてや俺と話すことはほとんどない。

「なあ、いろは」

「ふぁい?」

 だから、俺から話を切り出すのはなかなかイレギュラーなのだが、まだ頭に靄のかかっているいろはは特に気にしていない。もふもふとトーストに齧りつきながら視線を向けてくる。

「今日遊びに行こうぜ」

「ふぁい……ふぁい?」

 なに君「ふぁい」しか話せないの? なぜか固まってしまったいろはは手からトーストを落とし、ポスッと平皿に受け止められる。

「どうした? いやか?」

「い、いえ……嫌ではないんですが、お兄ちゃんから遊びのお誘いとか天変地異の前触れかと……」

 なにそれ酷くない? 俺が誘っただけで地球の危機とかそこまで珍しいわけ……いや、珍しいわ。小町誘うのも動物イベントの時くらいだもんな。

 なんか改めて考えると超らしくない。お兄ちゃん死にそう。だから、ちょっと対応もぶっきらぼうになってしまう。

「そこまで言うなら別に行かなくていいぞ」

「いえ! 行きます!」

 珍しく家で張り上げられた声に少しうれしくなる。

「じゃあ、十時ごろに出るから準備しとけよ」

「は、はい」

 食事を終えて身支度を済ませてリビングで本を読んでいると、バタバタといろはが下りてきた。白ニットにダッフルコートに身を包んだファッションはかわいらしい。少し頬が染まっているのは化粧でチークでも使ったのだろうか。

「お、おまたせしました」

「おう、かわいいなその服」

「そ、そうですか……?」

 恥ずかしそうに照れるいろは。その表情に無理をしている様子は見られない。小町のスパルタ特訓によって相手の服装を褒める癖がついてしまった。小町色に染まっちゃう! ところで、妹の服装を褒めることに意味はあるのだろうか、なさそう。いやけど褒めないと怒られるし。

「じゃ、行くか」

「はい……」

 必要な荷物を持って、俺達は玄関を出た。

 




いまさらですが、時系列的には二月頭ごろからストーリーが始まっています

バレンタインイベントなんてなかったから、はるのんの介入もなかった
だから奉仕部はのんびりまったりぬるま湯状態

あと、保険だの後見人だの弁護士だの、そういうのは今のところ書く気はありません
書きたいのはそういうことじゃないからね

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