小太郎が里を出る前に住んでいた家は誰にも管理されないまま五年以上風雨に曝された事に耐え切れなかったらしく、昨年の内に取り壊されたらしかった。元来、小太郎の性質から住居というものに執着がなく、加えて取り立てて重要な物が置いてあった訳でもないのもあって、それを知らされた時の小太郎の反応も淡々としたものだった。恐らく「そうか」と小さく頷いた次の瞬間には、小太郎の頭の中から既に家の事などは消え去っていたに違いない。
次の予定を特に決めてある訳ではないが、然りとて里に腰を落ち着ける心算もない。一月程で出て行こうと思っていると弥彦に告げた小太郎の今の住処は、里長の屋敷の南側角部屋。丁度ナルトと正反対に位置する部屋だ。
第四話 情交
今までナルトしかいなかった先生業に、任務がなく暇を持て余している小太郎が加わるらしい。
その噂は小さな里内を一気に駆け抜け、翌日には某受付所内に「伝説の忍希望用紙」が置かれたブースが新しく設置されていた。勿論何でも先生とは別枠である。伝説の忍コースで小太郎が受け持つのは実践的な戦闘のみ。その上、一定の実力を有する者に限られる。
そんな条件が設けられているにも関わらず、これには戦忍見習いの子供だけでなく何処から聞き付けたのか現役の戦忍(しかも上忍)まで受付に殺到して現場は一時騒然とした。さながら格安スーパーのタイムセールに突撃するおば様方の如き迫力だった、とはそれを目撃したナルトの言である。半壊された受付所も、今は何とか落ち着きを取り戻していた。
結論から言うと、伝説の忍コースに人数調整及び時間調整の類は不要だった。何故なら順番さえ決めておけば、後は小太郎が受講者を千切っては投げ、千切っては投げと指導してくれるからだ。最早指導でも何でもない。
それでも本当に殺す気で掛かっても構わない小太郎の存在は普段の鍛錬では中々死ぬ気になれない上忍にとって貴重な鍛錬相手らしく、「この歳でも技のキレが増した」とか「動きが速くなった」などと評判は専ら上々である。そしてまだ歳若い小太郎に対する対抗心や向上心と言ったものが、更なる相乗効果を生み出しているようだ。
「小太郎ォ、覚悟ー!!」
こうした野太い怒声が上がる度、横で観戦している敗者達が投げ飛ばされた受講者の巻き添えを食らう、という光景が早くも日常化し始めている。平和だった。
「やっぱ、伝説の忍ってスゲーよ! な、喜助。お前もそう思うだろ?」
憧れを前面に押し出してキラキラと輝く瞳を弟である喜助に向けて、仙蔵は拳を握った。
肯定を求められた喜助は改めて小太郎に目を向ける。朝から二刻以上も休みなく大人達を相手にしている筈だが、小太郎に疲れた様子は見れない。確かに、強い。生きている内に伝説と呼ばれる理由がそこにはある。
そう思うのだが、でも、と喜助は視線を未だ興奮の冷めやらない兄に戻す。
「凄いけどさ。……兄ちゃん、あんなのになれるの?」
上忍の人にもまだ勝てないのに?
そう言外に言われた気がして仙蔵は固まった。
「……」
あんな強さ、オレなんかに手に入るのか。
そんな思いが一瞬頭を過ぎる。否、日頃から抱えていた不安が弟の言葉に触発されて顔を出しただけだ。だがその不安は閉めた筈の蓋を抉じ開け、今にも表に出ようとしている。それを押さえ込む術を、今の仙蔵は持ち合わせていなかった。
今まで見た小太郎の強さが走馬灯のように浮かんでは消えていく。
「……それ、は……」
仙蔵が何でも先生の個人指導を受けていたあの日、小太郎の強さは目の前で見たのだ。仙蔵を背に庇いながらも、里にいる上忍以上の力を持つ朔夜と同等に渡り合う小太郎の力を間近で目撃した仙蔵こそ知っている。
彼が目指す目標の高さを、またそれを一番理解しているのも、仙蔵だ。
「何、お前その程度の気持ちで"小太郎"になろうとしてたのか?」
「朔夜さん!」
突然現れたナルトに驚きつつも満面の笑みで駆け寄ってくる喜助の頭を撫でながら、不安で押し潰されそうになっている仙蔵を見遣る。
彼の瞳は揺れていた。
恐らくは希望を握り締めながら、不安に振り回されているだけなのだ。わざわざ手を貸さずとも、彼は強いから自力で立ち上がるだろう。幼くても一人で立てる男だとは分かっているが、偶には先生らしい事もしてみるかとナルトは口を開いた。
今の仙蔵ならばこれだけで事足りると思われる台詞を吐き出す。
「仙蔵、お前なんで"小太郎"を目指すんだ?」
「……」
何でも先生の言葉はいつも的確だと、泣きそうになりながら仙蔵は"あの日"を思い出す。
「なんでそんなに強くなりたい」
「……たい、から」
一番最初に目指そうと思った、きっかけ。
思い出されるのは、傷付いた父の姿。死への恐怖。そして悔しさ。
「強くなって、それからどうする」
「っ守るんだ! 誰よりも強くなって、自分も傷付かないように皆を守るんだ!」
自分を守ってくれた父はもういない。
自分の無力さを嘆き、父が亡くなった後は残される者の気持ちを知った。
そして父の仇を討ったのが"小太郎"だと聞き、仙蔵はその名が示す力を欲した。
「"小太郎"は! それが出来る!!」
初任務の前日、個人指導のあの日、小太郎は敵と見做した朔夜を相手に圧倒的な力を見せ付けて仙蔵を守ったのだ。それは間違いだったが、背中を見せられる事に自分が"あの日"から成長していない事を知り、強い焦燥感と無力感を覚えた。
その時だ、畏怖という感情を初めて知ったのは。そして同時に「超えてやる」という苛烈な思いが胸を焦がした。
仙蔵の思いはまだ消えていない。
視線に力が戻った。気が昂っている仙蔵は肩で荒く息をして、気持ちが定まったのだろう、睨み付けるようにナルトを見詰めている。
己の仕事の出来にナルトは口角を上げた。仙蔵には面の所為で伝わらないだろうが。
「分かってンなら、端から迷うんじゃねェよ」
「うっせー! あんな強さ見たら誰だって不安になるだろ!?」
「兄ちゃん、やっぱりあんなのになるつもりなの?」
「……いいか、弟よ。夢は大きく目標は高く、だ。小太郎さんだって人間なんだ。だったらオレにも出来るはず! ……分かるな?」
「目標、高過ぎるんじゃない? そういうの、無謀な挑戦って言うんだよ」
「……言うね、お前」
兄弟の立場が逆転したかのような遣り取りに、ナルトは思わず噴出した。その爆笑ぶりに、少し離れた所にいる小太郎グループの視線も集まる。観戦者だけでなく今し方、男を一人投げ飛ばした小太郎さえ何事かと視線を飛ばしてきて、ナルトは己に課せられた任務を思い出した。
「ま、兄弟仲が良いに越した事はねェよな。じゃあ俺、行くわ。修行に励めよ若人! 小太郎ー」
言葉の端々に堪え切れない笑いを漏らしながら、ナルトは小太郎に向けて片手を挙げる。
「昼にしようぜ。――ああ、それから受講生の皆さん。小太郎、今日はもう店仕舞いなんで、物足りない方は明け方とか奇襲掛けるなり何なりして下さいって事で、ハイ、解散」
「奇襲だとー!?」
「朔夜のお許しが出た!? おい、作戦練るぞ!」
奇襲とは相手の不意を衝いて行うもので、決して奇襲があると知らせて行うものではなかった筈だが……と思いつつ、何だかとても喜んでいるみたいなのでナルトは敢えて口を噤んだ。ついでに横から小太郎の物言いたげな視線が突き刺さるが、それも綺麗に無視を決め込む。奇襲があると分かっているのだから、小太郎ならば何とかするだろう。
「今日の午前中、料理教室でさ。くノ一の子達と一緒に作った奴が出るから間違っても不味いとか言うなよ。いくらお前でもフルボッコだからな。俺は助けてやれないからな」
何故か神妙に頷く小太郎に昼食のメニューを口頭で伝えながら、そう言えばと前々から考えていた事を切り出す。サンダルを脱いで裸足で歩く廊下はひんやりとしていた。
「明日、城下町行かねェ? 確か小田原が直ぐそこだったよな。実は俺、まだ町に下りた事なくてさぁ」
「……一度も?」
お前ほどの脚があれば何処にでも行けるのに? と小太郎の赤銅色の瞳が語る。
確かにそうだ。ナルトが初めてこの世界に落ちてきた時も影を奔らせて各地を偵察しているのだから、影を通してならばナルトもどのようなものかは知っている。だが、それはナルト本人の体験ではない。
「一度も。入用な物もあるし小太郎がいるお蔭でちょっと時間出来たし、丁度良い時機だし。小太郎が付き合ってくれると助かるんだけど、どう?」
見上げて答えを促せば、小太郎が首を縦に振る。
その返事にナルトはふっと頬を緩んだのを即座に引き締め直してから大広間への襖を開け、三つ並んだ膳の真ん中に座っている弥彦の隣に腰を下ろす。小太郎はその反対側だ。
「待ってるんじゃなかったのかよ、ジジイ」
「お主が遅過ぎるんじゃよ。待ち草臥れてしもうたわ」
「三人で食べたいとか我が儘ぬかしたのはテメェだろ? 何、先に食ってんだ」
「小太郎! 朔夜がか弱い老人を虐めるぞ!」
「……」
「小太郎に振るな! ああ、小太郎でもう一つ思い出した。これ食べたら俺の相手な」
「なにっ!? 小太郎はこの後、儂と一緒に囲碁をする予定じゃぞ!?」
「囲碁!? 伝説の忍に囲碁!? ジジイはジジイらしく、縁側で茶でも啜ってろよ!」
「まあ、朔夜が相手でも構わんがのう」
「おいコラなんだテメェ、その妥協しましたみたいな顔は!」
* * *
朔夜が相手の鍛錬は、小太郎にとっても有意義なものだった。武器なしの体術のみだったが、いつもの倍は動いたし頭も使って戦った。それ程、彼の攻撃は緻密に計算された隙のない攻撃なのだ。
小太郎の拳が掠り彼の面が外れた時は優越感や達成感に似た、しかし何処か違う小さな何かが胸を過ぎったものだ。お蔭で彼の顔を拝む事が出来たのだが、その後はまるで仕返しと言わんばかりの反撃を受けた。息吐く暇もない遣り取り。そうしている内に、己の知らぬ間に彼の目的は小太郎の顔を見る事になっていたらしく、隙を衝かれた最後には華麗な跳躍で兜を奪われた。長い前髪の間から窺い見る彼の顔は、正しく「してやったり」と得意気だった。
日の暮れと共に組み手を終え、一旦朔夜と別れた小太郎は風呂で軽く汗を流して、今は与えられた部屋へと向かっているところだ。
夕餉までまだ時間があるし、呼ばれるまでは武器の手入れでもしていようかと予定を考えていると、背後から声が掛かる。人がいるのは気付いていた。弥彦だ。
「小太郎や。すまんが、朔夜を呼んできてくれ」
当主の言に小さく頷いて了承の意を示す。
「今なら月花ノ泉におる筈じゃ」
月花ノ泉とは森の奥で隠されるように存在する、湖のようにそれなりに大きな泉の事だ。そこには月花藻と呼ばれる小さな白い水中花が咲いているので、そのままその名が付けられたのだ。
組み手の後、確かに朔夜はそちらの方向へと歩いて行ったのを覚えている。
そろそろ気温が下がってきた今時分に、泉など何の用があるのだろうか。その周辺に何か目ぼしい薬草でも生えていたかと記憶を探るが、その類のものはなかったように思う。
まさか風呂が待ち切れなくて水浴びかとも考えるが、それこそ「まさか」だろう。繰り返すが、気温は来たる冬に向けて着実に下がり続けている。昨日よりも今日、今日よりも明日、日毎に寒くなっているのだ。今日も今日とて昼間は汗ばむ陽気だったが、日が落ちた今はかなり冷える。風呂上がりの小太郎も今こそ湯冷ましに丁度良いくらいだが、帰りを思うと羽織を一枚持ってくるべきだったと考える気温だ。身体を鍛えているとは言え、あるなら欲しい。
「……?」
草木の葉音に交じって、何か聞こえた。
今度は集中して耳を澄ませる。
(これは……)
「まさか」
聞こえるのは、水音。音源は、正に泉の方角。
嘘だろうと疑いつつ、想像する水温ならば耐えられない事はないとも考える。どちらにせよ、確かめない事には始まらない。そう思い直して足を速めた。泉は目の前だ。
「朔夜……」
人影一つ見当たらない泉。なのに波打つ水面。それを見て、小太郎は己の予想が当たった事を知った。透き通った水面の下には人影が映っている。
泉の淵から少し離れた岩の上に手拭いと狐の面、朔夜が身に付けていた黒の忍装束を見付けて、この水面の下にいるのが朔夜なのだと確信した。
(何をしてるんだ、朔夜は!)
水に手の平を突っ込んで水温を確かめた小太郎は、その冷たさに眉を顰めた。冷たい、なんてものではない。暫らく浸けているだけで痛くなってくるのだ。そこで小太郎は思い出した。ここは、湧き水だったと。冷たい筈だ。凍る一歩手前の温度なのだから。
すると突然、盛大な水飛沫が飛び散った。
「……」
やっと出て来たのだと気付き、姿を現した朔夜に一言忠言してやろうと、口を開いた。が、
「さく、っ……!?」
小太郎は言葉を失くした。
小太郎に向けている背中は男のものではない。月光に照らされた髪は黒ではない。身体の線は細く、美しい曲線を描いて水中に消えている。
誰だ。
腰まで伸びた輝く金色。垣間見える胸の膨らみ。くびれた腰は折れそうな程に細く、そこからなだらかな山を描くだろうその下は、幸か不幸か、水の下。
それらが示すのは、――女。
「……、あぁ」
零された声も、女のものだった。
高くなく、かと言って低くもない。落ち着いていて、深みと艶のある声。
聞いた事がない声だ。
「小太郎か」
不規則に波立つ湖面に、女が振り返るのだと気付いた。
「っ」
慌てて女に背を向ける。何処の誰だか知らないが、相手は小太郎の事を知っているらしい。だが、無用心だと思わずにはいられない。
突然の出来事に、相手がくノ一である可能性もすっかり頭の中から抜け落ちている。
小太郎がその可能性に思い至ったのは女が続けて言葉を発した時だった。
「バレたなら仕方がない」
「? ばれ、た……?」
つい振り向きたくなる誘惑を必死で耐える。何処に向かわせたら良いのか分からない視線をうろうろと彷徨わせて、最終的には狐の面に落ち着いた。狐の面。此処に置いてあるという事は此処に持ち主である朔夜が居るという事である。しかし、居るのは一人の女。しかも女は小太郎を知っている。
まさか、と。本日二度目の「まさか」を呟いた。
「悪ィね。騙す心算はなかったんだけどさ」
その言葉が意味するところは。
「……朔、夜……なのか?」
「こっちが本来の姿。本当はナルトっての。朔夜は男名で、お前も見ただろ? 黒髪金瞳の時はその名前を使ってる。ああ、面被ってる時も」
流石にもう上がる心算なのだろう。ざばざばと音を立てて近付いてくる。
小太郎は自分でも笑える程に思考が停止しているのを感じていた。
「……ナル、ト……」
「ん」
「ナルト、か……」
話し始めた赤子のように、覚えたての名前を何度も繰り返して口の中で転がすと、それは不思議なほど簡単に舌に馴染んだ。
「使い分けてくれよ?」
「ああ」
答え、頷く。
初めて知った彼、いや彼女の一つの真実は驚くほど熱くて、凍えきった己の心には熱過ぎるくらいで慣れるまで何度も動かし、やがてある場所に収まる。そうすると、小さくなった熱の塊は心の片隅でじんわりと暖かくなり、次第に広がっていった。
「それから、悪いんだけど手拭い取ってくれない? あと、着物も」
「これか?」
手拭いと、装束とは別に置いてあった黒っぽい着物を持ち上げて確かめると背後から「そうそう」と返事がある。頼まれ物が分かったはいいが、これからどうやって手渡そうか。そう思案している事に気付いたのだろう、「背中向けてるから」と、どっちがどっちなのか分からなくなるような発言をされて小太郎は眉尻を下げた。
背中と言えど、なるべく見ないように視線を斜め下に落としながら、まず手拭いをナルトに手渡す。どうしても視界に入ってしまう彼女の体は雪のように純白かった。
身体を拭う音がする。
きらきらと彼女の髪がチラつく。
「着物を」
腕を袖に通してやる。
衣擦れの音。
濡れた髪を持ち上げて、手伝った。
「ありがと」
細い肩を着物が覆う。
濃い色の着物。
肌の白さが際立つ。
誘われている。――と思うより先に、淡く発光しているかのような雪色の項に口付けていた。
「――!」
肌理細やかな肌、だが、己の熱で溶けてしまうと小太郎は危ぶんだ。
それ程にその冷たさがナルトの存在を酷く曖昧にしていた。
「……ァ」
小太郎が我に返るのは直ぐだった。
振り向きつつ真っ直ぐと射抜くナルトの蒼い瞳が動きを止めた己の姿を映し出すのを見て、無意識の内に仕出かした行動の内容が蘇る。口付けたのだ、彼女の細い首筋に。考えなしのその行動は、ある意味本能に近い。
「……っ」
それを機に、今まで見た事が溢れ返る。
水飛沫を弾く細い肩。
月光に輝く金の髪。
端に置かれた狐の面。
二の腕の向こうに覗く柔らかな膨らみ。
水滴が作る滑らかな線。
「っ!」
鍛えられた忍の眼が、瞬間を捉えて逃さない。細部まで事細かに再現された映像に、己の卑しさを衝き付けられた気がした。
様々な光景が脳裏を駆け巡る中で強烈な印象を残すのは、突き刺すような冷たさ。
(……冷たさ?)
はた、と小太郎は思い返す。
小太郎が口付けたナルトの首筋。恐ろしく冷たかった。
そこで思い出す、何をしに此処へ来たのかを。しかし優先順位は二番目になった。
「戻るぞ……!」
「あ、え……ちょ、ぅわっ!?」
面と一緒にナルトが持ってきたらしい物を一掴みして、緩く合わされただけの着物で取り敢えずナルトを包み、荷物と一緒に細い身体を抱き上げる。突発的な出来事にどうにも反応しきれていないナルトの意識は放置を決め込んで、兎にも角にも里へと急いだ。
着物越しのナルトの身体。そう薄い布ではないとは言え、小太郎の腕に熱が全く感じられない。それどころか冷たくさえ感じる。それ程冷え切っているのだ、彼女の身体は。
いくら忍と言えど女子の身体。あまり感心されるような行為ではないと、小太郎は我が事のように口を引き結んだ。
「ちょ、っと! どうしたんだよ、小太郎!?」
「"どうした"? どうしたもこうしたも、ナルトこそこんなに冷え切った身体でどうする心算だ?」
初めてかもしれない長文に、ナルトは只ならぬ何かを感じて口を閉じる。だが、それは最早手遅れの上に痛恨の判断ミスだ。とっくの昔に、そして現在進行形でナルトは小太郎の逆鱗に触れている。
身体が冷たい。
小太郎の腕に抱かれて尚、暖かさを取り戻さない。
そして当の本人は、本人であるが故に気付けない。
ナルトは、反論でもするフリで喚くなり何なりして兎に角体温を上げるべきだった。
「今の季節は冬が間近の秋だ。最近夜が冷えると気付いていないのか? 昨日女中が火鉢を持ってきただろうが。大体何故この時期に水浴びなんだ、まさかあそこが風呂場だとでも思っているんじゃないだろうな? そもそも湧き水が冷たい事も水が体温を奪う事も体温を下げ過ぎれば死に至る事も常識だろう、そんな事も知らないのかお前は。馬鹿に馬鹿と言っても仕方ないが、一体何を考えているんだこの馬鹿」
「……」
息継ぎなし、かつ嫌味だらけの口上に、ナルトは口答え出来なくなった。坦々とした口調が余計に恐怖を煽る。
それでも小太郎の長文は危険信号だと認識した今日という日を「小太郎ぷっちん記念日」にしよう! ……という冗談を内心で零す余裕はある。そしてこれ以上何かをすると、間違いなく地獄を見る破目になるというナルトの予想は、恐らく当たっている。当たっているだろうが、確認する術はない。「小太郎マジギレ記念日」など一生作りたくない、いや絶対に作らないとナルトはこっそり心に誓った。
「風呂に入れ」
最後は大きな溜め息で締め括る小太郎相手に大人しく首肯する以外の答えはなかった。
それから間もなくして浴場の前に降ろされたナルトは、「百数えるまで出てくるな」という子供に使うような言葉で送り出され、あまつさえナルトの姿が戸で隠れるまで監視は続いた。どうやらこの一件でナルトの信用は御破算したらしい。
「ぁ、っつ」
湯桶に入れた指を引っ込める。お湯の温度はそれほど熱くない筈だから、きっと身体の方が対応出来ないくらい冷え切っているのだ。これは怒られて当然かもしれないと、苦笑した。
何度か手を入れ、少しずつ身体に掛けて慣らしていく。十回ほど繰り返せば、何とか湯船に浸かる事が出来るようになった。足から順番に沈めていく。肩が浸かった頃にはもう熱過ぎる事はなくなっていた。
「……ナルト」
くぐもって聞こえる小太郎の声。浴室の向こうにいるようだ。わざわざ監視に来たのだろうかと、ナルトが応じるより先に小太郎の言葉が続く。
「上がったら当主の元へ」
「了解」
その指令に、何故小太郎が態々泉まで来たのかという謎が解明した。多分、それを伝えにナルトを探して泉まで来たものの、というところか。随分と手間を掛けさせたようだ。
「それから」
「うん?」
弥彦からの呼び出しについて考えていたナルトはストレッチする手を止めて、見えないと分かっていながらも首を傾げて続きを促す。
「しっかり数える事」
それだけ言い残して遠ざかっていく小太郎の気配に、ナルトは小さく噴き出した。本題が逆な気がしてならない。いや、当主からの伝言の方が重要だろうが、小太郎にとって優先順位の高い方は後者で間違っていないだろう。
「ふふっ」
こういうのも悪くない。
* * *
部屋の窓から覗いた青空には雲の一つも見当たらない。朝日が燦々と大地を照らし、色が深くなった木々の枝葉が緩やかな風に揺られて、これぞ正しく清々しい一日の始まりに相応しい光景である。
午前中はいつものように生徒の指導に励んでいたナルトだが、午後になるとその姿は小田原の城下町に見付けられた。昨日の今日だからせめて一日は安静にしろと、風邪でもないのに渋る小太郎を宥め賺して引き摺って、やって来たナルトの表情も朝日のように清々しい。普段の美貌も相俟って、時折店を冷やかすナルトにはいつも以上に町娘達の秋波が送られている。町人に扮した小太郎も連れ立って歩いているものだから、その数は更に膨れ上がった。
あまりの視線の多さに、小太郎は思わず米神を揉み解す。男二人でこの店はつらいと感じる小太郎の感覚が普通の筈だ。いや、今のナルトは朔夜だけど、実際は女子なのでこの場合、男二人という表現は正しいのかそうでないのか。事態は思った以上に複雑怪奇だと、壊れ掛けた思考を小太郎はとうとう放棄した。考えても仕方がない。此処は所謂小間物屋で、自分は男だが横にはナルトがいるし(この際性別はどちらでも良い)、品物を見ているのはナルトの方で自分は只の付き添い人。そう、それだけだ。事件は万事解決した。
「小太郎、これとこれ、どっちが良いと思う?」
今にも心頭を滅却すべしと考えていたら、お声が掛かった。しかしその内容に心の中で首を捻る。男の、しかも忍以外では役立たずに成り下がる己にわざわざ尋ねているのかと、小太郎は改めて首を傾げた。捻ったり傾げたり、大忙しだ。
「だから右と左、どっちが良いか聞いてんの。ちなみに求めるのは、『質素ながらも品があり、かつ華やかに見えるもの』。さて、どっち?」
両方とも同じ金色の松葉簪で、細工も似ている。違うとしたら花の形や装飾の色か。しかし残念ながら小太郎の目にはどちらも同じように見えてしまう。唯一つ小太郎に言える事があるとしたら、ナルトの金の髪に同色の簪は映えない、という事くらいだ。
「ああ、黒髪に映えりゃいいんだよ」
相変わらず素晴らしい洞察力である。思わずそうかと頷いた。
答えてもらったのに自分が答えないのもどうかと思い、小太郎は適当に左を指差す。深い意図はない。ただ、花が大きくかつ右の物より豪華なら、色が多少控えめでも華やかに見えるのではないかという至極単純な考えであったが、ナルトが「お前もそう思うか」と言ったので間違ってはいなかったのだと安堵した。
「よし、じゃあ俺、これ買ってくるわ」
小太郎に一言断ってからそのまま店の奥に消えていくナルトの背を視線で追うと、棚の端に意識が引っ掛かる。近付いて見ると、燻銀(いぶしぎん)で蔓草の細工が施された精巧な漆塗りの簪だった。
一点の曇りもない、漆黒。
思い浮かべたのは昨夜見た黄金色。
漠然と、似合うと思った。この闇色は、あの髪に映える。
「おや、お連れさん。それがお気に召しましたかな」
好々爺然とした若い老人が小太郎の手元を覗き込んで、笑みを浮かべた。
「気に入って頂けたなら安くお譲りしますよ。何しろ一目惚れして置いたはいいが、似合うお方が中々現れなくてねぇ。こんな爺じゃ使うわけにもいかないし、近々孫娘に譲ってしまおうかとも考えていたんですよ」
そう言って老人は手馴れた指先で算盤を弾く。
「お兄さんの選ぶ女性ならこの簪を生かしてくれそうですな。……これくらいで如何でしょう?」
弾き出された値段は安くなかった。しかし職人技が光る簪に注ぎ込まれた技術と手間を考慮すると、その値段は決して高いものではない。案ずるに殆ど原価と変わらないのではないだろうか。
「有難う御座いました!」
気付けば代金を支払っていた。
店主と同じく一目惚れの簪は、今は透き紙に包まれた上で桐箱の中に納まっている。
懐に入れた箱の感覚に小太郎は段々と、あの値段が原価を切っている気がしてきた。安いとは言えない値段だが、それでも桐箱が誂えられているような値段でもなかったのだ。
今度何かある時は、是非あの店を利用しようと密かに心に決めた。
「いやー、簪なんて持ってなかったから買えて良かったよ。付き合ってくれてありがとな。居心地悪かったろ」
店の奥から戻ってくるナルトは目当ての物が購入出来たからか、ホクホクとした表情で小太郎の横に立つ。言葉の最後にさり気なく込められた気遣いに、口角を僅かに持ち上げながら首を横に振った。
「じゃあ団子屋で一休みして、それから戻ろうか」
晴天で始まった一日が満天の星で終わろうとしていた。
風呂から上がって、ふと気紛れに購入した簪の事を思い出した小太郎は桐箱を片手にナルトを探して外に出た。そっと目を閉じて気配を探る。ナルトの気配は隣に居ても掻き消されてしまうくらい本当に微弱なものなので、如何に小太郎と言えど集中しなければ見付けられない。一つ二つと浮かび上がるそれらを慎重に読み、漸く一つの気配を捉える。今日一日で慣れ親しんだ、薄いそれ。すぐ側に居た。
「ナルト」
こちらも風呂から出たばかりらしい。
大木の太い枝に腰を下ろして、殆ど円に近い満月を見上げている。
「おう小太郎、どうし――あっ、これはだな。只今絶賛湯冷まし中であって、決して冷たくなろうとしてるんじゃないからな! ホントに冷えてないから! ほらっ」
小太郎を目にした途端、言い訳するかのような言葉と共に、身体の前で広げた白い手の平を焦ったように振り続けるナルトは余程昨夜の説教が堪えているらしい。
軽い動作で隣に立てば、嘘はついていないと確認させるように手を伸ばしてきた。
「な?」
その言葉の通り、手の平はまだ熱かった。
小太郎が頷いてやるとナルトはほっと息を吐く。
「それで? 俺に何か用だった?」
「……ああ」
そう答えて、小太郎はナルトを見詰めた。誰も見ていないからか、常備している狐の面は腰のところで結ばれて、今はその役目を果たしていない。
月に照らされた顔は朔夜のそれで、薄手の着物に包まれた身体も男のそれ。露わになったナルトの全てが偽のものだ。
一体いつ、女子に戻るのか。否、戻れる時などあるのだろうか。
「小太郎?」
押し黙ったまま中々用件を言わない小太郎を訝しみ、ナルトが身を屈めて覗き込む。
頬を滑る髪の毛も、今は闇に馴染んで何だか少し物足りない。目に鮮やかだったあの色が、もう一度見たかった。
「元の姿には戻らないのか?」
そんな事を言われるとは予想だにしなかったのだろう。金色の瞳が見開かれた。
「何故、その姿に拘る」
その問いかけは――小太郎は知らないだろうが――ナルトの根本に係わっている。
幼少の頃より腹の中の物ゆえに存在を忌み嫌われてきたナルトが、絶大な力を得てもなお生き延びる為に作り出した、もう一人の自分。それが『朔夜』だ。ナルトは"ナルト"であると同時に"朔夜"でもあり、認められたのは当然の如く"朔夜"の方である。
ナルトにとって"ナルト"は『愚かで弱い存在』であり、それは何も有さず何の権利も許されない完全なる弱者で在らねばならなかった。反対に"朔夜"とは『聡明で強い存在』であり、力も権利も持ち合わせた絶対的強者――何より、己が己らしく在れた"自分"だった。
要するにナルトにとって元の姿とは"無力者"である。いや、そう"だった"。
此処は、ナルトを知らない世界なのだとたった今、思い出した。
「その姿でなければならない理由があるのか?」
ない。
まさに今、この瞬間、その理由がなくなったのだ。
緩慢な仕草でナルトは首を振る。ぱさぱさと短い黒髪が頬を叩いた。
「なら――」
下を向いていた視線の先に、細長い木箱が差し出される。
「え?」
「……」
訳も分からず受け取った木箱の説明はないらしい。中身が何なのかを確かめるべく、ナルトはそっと蓋を持ち上げた。金箔の散りばめられた高級な透き紙を破かないよう丁寧に除けると、それが中から姿を見せる。
「これは……」
手に取ってみる。漆塗りの簪。鈍い輝きを放つ銀色の蔦が少し太めの軸に巻き付いた先に同じ銀細工で縁取られた桔梗が二つ並んでおり、その花の下には青を基調とした七宝珠がそれぞれ二個ずつ垂れ下がり紗羅々々と涼しい音を立てる細い銀鎖の根元を束ねている。
手の込んだ、それでいて繊細な意匠。
物に興味のないナルトだが、――見惚れた。
「ナルトに」
「こんな、高い物……」
困惑した眼差しを向けても小太郎は頑なに譲らず、そればかりか、月光を交えた赤銅色の瞳が強請っていた。
「……」
その瞳にナルトは勝てた試しがない。
はあ、と溜め息を一つ吐き出して、今にも桐の箱に納めようとしていた簪を目の前まで持ち上げた。俄かに立ち上る香気。まるで天上を思わせる上品な甘さと少しばかりの苦味が絶妙に混ざり合い、得も言われぬ高貴な香りがふわりと広がる。
(しかも伽羅かよ、これ)
軸の正体に気が付いて、それから果たして小太郎はこの簪の持つ価値を本当に知っているのかと疑問に思った。まあ、それはどうでも良い事だ。
「付ければいいのか?」
素直に頷く小太郎に苦笑を一つだけ零す。
簪を箱に戻して膝の上に置き、変化を解いて腰まで伸びた髪を後ろで結い上げる。櫛も何もないので簡単にしか出来ないが、簪を挿す分には問題なかろう。
取り出した簪の花が前を向くように気を付けながら、ゆっくりと挿し込む。
「どうだ?」
小太郎の方を向いて彼の反応を伺うナルトはその時、初めて小太郎の微笑みを目の当たりにした。
口角を優しく持ち上げて少し、ほんの少しだけ目元を緩めるその微笑は、何処か儚い。
「似合う……とても」
浸透する、静かな声がナルトの中の凝り固まった澱とも言える固定観念をゆっくりと融かしだす。
心が軽くなったような、息がしやすくなったような、そんな心地がしてナルトは自然と柔らかく頬を緩める。こんな笑い方は知らない。けれどそう思いながら、
「……ありがと」
笑みを深めて、小太郎の愛撫を受け止めた。
「ナルトはその方がずっと良い」