「なんっなのよ、ここ!!」
開口一番、凛は絶叫した。
あの時、光の粒子となって消えうせようとするクレイトスに咄嗟にしがみついたは良いが、視界が暗転し、妙な浮遊感を味わったと思えば、クレイトスとはぐれて1人河の中に落とされていた。
しかもこの河、矢鱈と汚い。水自体は黒色とは言え澄んでいたが、問題はそこでは無い。中で泳いでいるのが、触手の生えた水死体のような気持ち悪い生き物だったのだ。反射的に「
そして、冒頭の絶叫へ戻る。何とか辿り着いた岸辺では、亡者の群れと、骸骨兵が
凛の中にふつふつとした怒りが湧く。トンネルを抜けたら雪国ならぬ、暗闇に落ちたらステュクスである。そのせいでこんな不気味な場所でのっけからずぶ濡れにされた。レディには余りにもな扱いである。さる女神に殺意が湧いた瞬間だった。
「ーー
魔力の温存も兼ねて、恐るべき精度と速さで物理攻撃呪文を撃ちながら、凛は移動する。神代の生物に対して現代の魔術師の力など到底叶う物ではなかったが、僅かながらもクレイトスの手ほどきを受けていた凛は、あらゆる意味で凡百の魔術師とは異なっていた。
幸い、冥府の道筋は驚くほどわかりやすい一本道だ。恐らく
最後の門番たちを倒し切ると、すぐに地下王国の扉は開かれた。道の代わりに掛けられた鎖を伝って、ギリシャ兵の一個小隊が向かってくる。
「
――
面倒な仕掛けを作るものだと眉をしかめる。ただでさえ凛は機嫌が悪かったのだ。悪魔的な閃きの元、凛は鎖を伝う、武装した兵士たちに重量制御を掛け、鎖の上に並べた。あえて殺しはしない。彼らの体にはこれから用立てしてもらわないと困るのだ。元が生身の人間だけあって、彼らの魔術耐性は驚くほど低い。どよめきながら強制的に整列させられた彼らに、凛は無慈悲に指を鳴らした。
「
子供だましのような低級魔法だったが、敵の動きを止めるには十分だった。鎖の上に一列に並べられたまま、彼らは凍らされる。そしてそれを橋代わりにして、赤い少女は悠然と歩いた。時が来れば魔法の効力は切れ、霜氷で滑る彼らは恐らくはるか下の
そうしていくつかの扉を潜り抜けたのち、凛は広場に出た。三竦みで中心を取り囲うように、裁きの三神であるアイアコス、ラダマンテュス、ミーノースの像がある。自分に一番近いのは、蛇の冠をしたラダマンテュス王であった。少女が中心へと進むと、三神の目が青く輝いた。どことなくから声が聞こえる。
「「「願い聞きとめたり。行い見届けたり。行け人の子、さすれば道は開かん」」」
荘厳な宣言とともに、ラダマンテュス王の隣の柵が解放される。ラダマンテュスは三王の中でも、エリュシオンの長とされている。どうしたものかと思案した後、少女は青い光の通り道に吸い込まれた。
「お母様!!」
晴れ渡った野原を駆け抜け、花摘みをしていた小さな女の子が凛に駆け寄る。年は七歳前後だろうか、利発そうな目をして、腰に短い横笛を括り付けていた。凛の近くまで来て、女の子は年にそぐわず大人びた表情で謝った。
「あら。お母様だと思ったけど、ごめんなさい。人違いのようだわ」
「貴女、ずっとここに?」
「ええ。次の生を受けることの出来ない純粋な魂だけがここに来れると言われたわ。本当はずっとお父様を待っていたの」
悲しげに目を伏せた彼女に、思わず桜を思い出す。今頃元気にしているだろうか。慣れない手つきで女の子の髪を梳き、凛は笑う。
「大丈夫。きっといつか…」
「やっぱり。優しいのね、凛」
「どうして私を?」
途端に、凛の心を疑念が満たす。あり得ない。この世界では、誰も自分の事など――。
「驚かせてごめんなさい。私、カリオペなの。凛が探しているのは、私のお父さん。私の魂の一部は今でも灰となってお父さんと一緒にいるの。だから、貴方のことも何となくわかるわ。
…お父さんね、一度だけ私に会いに来てくれたけど、すぐにまた行ってしまったわ。でもそれは仕方ないことなの。だって、お父さんが力を求めなければ、私も、世界もめちゃくちゃになってたから」
「カリオペ……」
「そんな顔をしないで、凛。それ――」
カリオペの小さな手が、凛の手を指差す。人差し指には緑の宝石が埋め込まれた、金色の指輪があった。
「それね、お父さんがお母さんにあげたものなの」
「ごめんなさい、私…」
「ううん、いいの。それは凛が持っていて。母はもうどこにも居ないし、私ももうすぐ消えちゃうから」
「どう言うこと?」
「例え
「これは?」
「お父さんが削ってくれた横笛。愛してるって伝えて。さあ、旅立ちの時間よ、凛。
「カリオペ」
突如、耳障りな音と共に青く輝く空に
「きっとお父さんだわ。さあ行って、凛。お父さんを頼んだわ」
とん、と背中を押されて、少女は楽園を後にする。最後に見たのは、どこまでも満ち足りた子供の笑顔だった。
カリオペに言われた通り隠し廊下を進むと、冥府でも一際異様なところに出た。足元の大地は裂け、マグマが流れている。まるで炉心にいるかのような暑さが伝わってくる。そしてこちらを背にしゃがむ老人。しぼんで萎えた手足が真横に見える。その目は片方が白く濁り、もう片方がぐにゃりとおかしな形状になっている。
「貴方がヘファエストスね」
目の前の狭い空間に挟まるようにして身じろぐ巨人に声をかける。工匠ヘファエストス。異彩を放つ彼は、確かオリュンポスの扱いが悪かったため、他の神とは折り合いが悪かった。まさかここに囚われて居るとは思わ無かったが、話してみる価値はありそうだ。
「おお、珍しい客だな、人の子よ。大方審判から逃れてきた…いや、君は死人ではない。これは驚いた。生きながらにしてここに来る酔狂なものなど、あのスパルタ人だけかと思っていたが…」
「クレイトスを知ってるの?」
「知ってるとも。奴は有名人だ。人として生き、神として死に、幾度となく冥界を抜けて生き返った挙句、人の身で戦神を屠った男だ。今オリュンポスで一番恐れられて居る男だよ」
「そう…私彼に用があるの。行方を知らない?」
「ハッハ、あの残酷無比なスパルタ人に女子供の知り合いがいたとは知らなんだ、いやはや。あのスパルタ人ならハーデスのところだ。今頃
事もなげにヘファエストスが笑う。ハーデスと言えば、ギリシャ神話の主神ゼウスの兄で、人の生死を扱う冥界の王だ。伝承は少ないものの、ギガントマキアーで巨人を倒した彼の逸話は有名すぎるほどだ。居ても立ってもられず、凛は駆け出そうとする。
「待て、人の子よ。まさかあのスパルタ人を追うつもりか?奴の行く先は死が付きまとうぞ。人だろうと神だろうと、全て奴に滅ぼされる」
「…それでも行くわ。彼が何なのか見極めるために」
引き止めたヘファエストスの問いに、凛は一瞬躊躇したが、それでも工匠の目を見て言い切った。ヘファエストスは思案顔で何かブツブツと呟いて居たが、やがて2種類の武具を凛の足元に投げ寄越した。
「私は工匠の神だ。誰であれ戦う者に武器を与えるのが仕事だ。戦士が徒手空拳ではいけない」
「これは?」
「ハーデスの隠れ兜と、タナトスの剣だ。まあお古だがな。幽閉された腹いせに足元に隠しておいたんだ。まあ、手持ち無沙汰でちょちょいと弄ってしまったがな」
「え?」
「そう警戒するな。弄ったと言っても改良だ。兜は被れば見た目どころか気配まで隠してくれる。歴戦の戦士なら経験で分かるかもしれんが、まあまず無理だろう。
タナトスの剣は本来神の血を持たねばただの鋭い剣だが、人間用に軽量化してタナトスの粒子を纏わせている。平たく言えば刺した対象を中から爆ぜさせることも可能だ。まあ、自分自身の魔力が代償になるがな。持って行きなさい」
「いいの?そんな貴重なもの」
「作品は皆我が子のようなものだ。その最たるが愛しのパンドラだが…それは関係ない話だったな。ともかくそれはもうお前の物だ、人の子よ。好きに使ってくれ」
そう言ったきり、世界一の工匠は再び手元の作業に戻った。ありがとうと言って去り行く少女の背中を、老人はいつまでも眺めて居た。
隠れ兜の力を借り、凛は敵に見つかることなく先へと進む。先ほど冥府全体に響く男の咆哮が聞こえた。きっとハーデスだろう。凛には確信があった。あれはきっとクレイトスがトドメを刺した声だ。
冥府の中央。ちょうどエリュシオンの大木とついになる樹がある場所に、ハーデスの宮はかつてあった。それが今や大きな亀裂となって、グロテスクな巨人がそこから半身を乗り出して居た。身を守る鎧も、敵をうち滅ぼすための武器も既にクレイトスに奪われて居る。
所構わず振り回される拳を巧妙に避け、紫電を纏った鍵爪状の鎌が巨人の頭蓋へと食い込む。腐肉と棘を纏った醜い身体がしなり、ハーデスの魂が、夥しい量の
これが神代の戦い。巨大な
勝敗は決した。男の放つ鍵爪がついに冥界の王の巨大な魂さえ吸い付くし、巨人の体に閉じ込められていた無数の亡霊が解放される。歓喜の奇声をあげる怪物たちが天へと敏達姿はあまりにも奇怪で壮絶だった。急に力を無くした膝に引きずられるようにして、少女は地に伏せて喘ぐ。貪欲に酸素を吸い込むと、懐かしい男の声が聞こえた。
「誰だッ」
「私よ。遠坂凛よ」
凛はとっさに兜を取り、クレイトスに駆け寄る。
「また子供か?ここは貴様の来る場所ではない」
期待に輝く少女の瞳が一瞬にして絶望に塗りつぶされる。彼はあろうことか自分のことは知らないと言った。二人で共に戦い、歩んできた道は幻だったとでも言うのか。確かにここは神代、現世の存在とは時間軸からしてかい離している。それでも彼女は少なからず信じていた。クレイトスなら、きっと自分に気づいてくれると。
「クレイ…トス?」
「……それをなぜ貴様が持っている?」
「違っこれは…っ」
「娘に何をした!!!」
だが事態は彼女が考えていたより更に悪かった。無関心な視線が彼女の手元に移った途端、獰猛な獣の光を宿した。その眼の先にあるのは、彼が娘のために削ったという横笛。地を這う低音と共に溢れ出る殺気が身を指す。だが閾値を超えた怯えは、急速にやり場のない怒りへと変換される。ああもう、この分からず屋!心で罵倒しながら、兜を被る。
感情のまま不可視の呪いを身にまとった凛がクレイトスに剣を振りかざし、しかし間を置かずそれはクレイトスが手にした鍵爪に防がれた。耳障りな金属音が耳を刺し、凛は舌打ちする。神の遣わした防具さえ意味を成さないとは、なるほど、流石自分が召喚した最強の戦士だ。怒りに身を委ね、少女の無謀な戦が始まった。