漆黒のイカロスの翼を展開させると、鍛え上げられた男の背中がしなり、腕の中の少女の体重を感じないとばかりに、ふわりと上昇し、風を切って宙を舞った。静かな湖面を湛えたゲートを抜けた先には、女神の加護を失い、タイタン族に攻め落とされようとするオリュンポスの街があった。
――目的を忘れないでクレイトス。ゼウスの死こそ、私たちの唯一の希望
あの時、素直に感謝し、律儀にも約束を果たそうとするクレイトスに、少女は何の言葉も差し挟むことができなかった。この男は残酷無比だが、根は実直でどこまでも真っすぐなのだ。自分にできることは、せいぜい見届けることである。最も、女神から身を隠そうと、ハーデスの兜を被っていたのだから、もとより言葉を発するわけにも行かなかったが。
「前進せよ―――――――――」
燃える車輪のチャリオットを引き、雄々しい号令とともに天馬が空を駆ける。存外に若い声なのねと妙に感心した凛が見つめる先では、土煙を巻き上げながら、巨人という言葉でくくるにはあまりにも大きすぎたタイタン神たちがオリュンポス山へと進攻しようしているところだった。そしてそれを相手取り、太陽神ヘリオスが美しい炎の軌跡を描き、流星のように突撃を繰り返している。まさに神話の一幕である。
「何を呆けている?この程度で怖気づいたか」
「っさいわね。神様同士の戦いなんて見れたこと自体が奇跡なのよ。黙って観戦させなさいよ」
一方のクレイトスはというと、道を塞いでいたガイアを谷底へと突き落とし、オリンピアの扉の前で宝箱を漁り終わったところだった。
「…と言いたいところだけど、そうとも行かないようね。囲まれているわ」
「丁度いい。雑兵相手に鍛えておけ。ただしこれは没収だ」
「ちょっと、返しなさいよ!チッ」
「安心しろ。ここで見ていてやる」
扉を守るようにして這いでた雑兵を捌きながら、凛が振り返ると、いつの間にかクレイトスがハーデスの兜を片手に立っていた。それでは敵に動きが丸見えだが、どうも冥界から抜けて以来、ハーデスは凛の師を気取り、鍛えようとしている魂胆がある。自力で敵を屠らない限り、この男は死んでもかの宝器を返してはくれないだろう。
『|έκρηξη≪爆発せよ≫」
小さく言霊を呟けば、いとも容易く巻き上がる死そのものの粒子が貫いた敵を内部から寸断し、その命を霧散させる。そして流れる剣戟で次の相手を横なぎに横断し、岩場を足掛かりに飛び上がり、背後まで迫っていた兵を頭上から切り伏せる。もとより加重と加速により身体能力を引き上げているのだ。この程度の兵士では経験不足な凛でも易々と倒せる。とは言え、このようにキリが無いものだとは思わなかった。積み上げられた屍はうず高くなっているが、さすがの少女も疲労の色が濃い。
「筋はいいが無駄が多い。そうむやみやたらと体力を使えば、貴様が先に死ぬぞ」
大粒の汗を浮かべ、肩で息をする凛を他所に、先ほどからアドバイスをするでもなく、淡々と評価を下しては、男は言葉通り横で見ているだけだった。ぎりりと歯噛みし、少女がふらつく段になって、ようやく男は手ずから雑兵を一掃し、ゲートを開いた。曰く、戦い方は教えるものではなく、限界に直面して自ら身につけるものだということだ。
ゲートの先に待っていたのは、回廊に飛び交うハーピーと、広間で敵を待つケンタウロスだった。いずれもオリュンポスの守衛だった。ハーピーに刃を突き立て、無理やり飛ばすことで移動するクレイトスとは対照的に、凛は兜で姿を隠し、さりげなくハーピーにぶら下がるという比較的に平和な手段で向こう側へとたどり着いた。最終的には始末したものの、である。
閑話休題。
依然と太陽神ヘリオスがタイタン神を相手取り、飛び火というには大きすぎる炎が降り注ぐ中、二人は背中合わせで獅子と山羊と蛇の三つの顔を持った化け物と対峙していた。伝承上の幻想種でもとりわけ凶暴さで有名なキマイラである。しかもその成獣が5体もぞろぞろとお出ましと来ては、目も当てられない。枯渇寸前の魔力では心もとなかったが、立ち向かうほかはないようだ。ちなみに、頼みの綱である兜は、ここに来て以来、再びクレイトスに取り上げられてしまった。我らが戦神の辞書に、「容赦」の二文字はないらしい。
「ホアッ…!!」
「――
先に動いたのはやはりというべきか、クレイトスの方だった。生臭い息を吐き、こちらを伺う化け物に正面から駆け寄り、その頭上へ飛び上がると、空中から変幻自在の双刃を放つ。赤い軌跡が一閃、かすれた悲鳴とともに獲物が引き寄せられ、部ちりと嫌な音を立て、尻尾を切り取られた。返す手でオリュンポスの大剣に持ち替え、怒り狂い、立ち上がった獣の腹にブスリと刃先は吸い込まれる。体中に降り注ぐ血しぶきとともに、なおも断末魔を挙げて苦しむ獅子面から狂ったように火の玉が吐き出されるが、それをものともせず、男は羊頭を捻り、縊り殺してしまった。
それに負けじと、少女もまた魔力によって増強された優れた跳躍力で壁をつたい、見事な宙返りで突進してきた獣の背に飛び乗った。螺旋を描く見事な角をがっしりと捕まえ、絶えずのけ反るように立ち上がった獣の尻尾を横なぎに切り落とす。悶え、前足を着いた獣は滅茶苦茶な軌道で他の獣を吹き飛ばす。振り落とされぬよう耐えながら、少女は逆手に持ち直した剣で、山羊面の首に何度も刃を突き立てた。正直魔術師の家系といえども、こんな血なまぐさい所業は正気の沙汰ではなかったが、単純に、殺さなければ、こちらが殺されるのだ。
崩れ落ちるキメラから投げ出され、うまく横転しながら別の一頭のファイヤーボールを避けた先では、すでにクレイトスが3頭目の首をもぎ取っているところだった。その背に爪を立てようとする4頭目に加重したタナトスの剣を投げ、そのままの勢いで、突き立てられた刃の柄に飛び乗るようにして体重をかけると、空を掻きながら地に伏せたその背骨を折り、見事に心臓を刺し貫いた。抜き取った刃はそのまま最後の一頭の尾を寸断し、痛みに立ち上がったがら空きの胸部を、クレイトスの刃が捉えた。
「初めてにしてはなかなか悪くない。が――」
「っ……!?」
頬の血を拭う凛が頭の真後ろに吐きかけられた生暖かい息を感じ、振り返ると、すでにクレイトスが放ったアポロンの火矢が、大口を開けた獅子顔の上あごを貫通していた。目元ぎりぎりを通る矢の軌跡に、思わず足が竦み、少女はきゅっと目を閉じた。再び目を開くと、目の前に楽しそうに笑う大男の姿があった。血がべっとりついた手が無遠慮に凛の頭をなでる。
「詰めが甘いぞ、凛。急所を突くのは正しいが、放心するのは心臓か脳髄を潰してからにしろ」
「な、何よ!別に、怖かったわけじゃっ…」
「その割には膝が笑っているように見えるぞ、子供よ」
皮肉げに笑いながら戦神は積みあがったキメラの肉を器用に捌き、あろうことかヘリオスが落とした火を使い、焼き始めた。
「長い旅になる。喜べ、今日は羊肉だ」
「ま、まさかそんな化け物を食べる気じゃ…」ぐぎゅるうぅぅ…「やっぱ食べる」
キメラを羊肉を称するなどたまったものではないとばかりに、反論しようとしたが、それも己の盛大に鳴った腹の音に阻まれた。顔を真っ赤にして凛はどかりと腰を下ろした男の傍に寄り、本当に焼いただけの、羊肉と称された肉の塊を受け取った。確かに腹が減ってはなんとやら、とは言うものの、この男のせいで一々自分の
「何か…復讐の旅の割には、妙に緊張感がないわね。すぐそばでは見たことのないような巨人とオリュンポスの神が戦っているというのに、私たちはのんきに食事だもの」
「食える時に食っておくのはむしろ戦場の常識だ。そもそも子連れの時点で戦場らしさなど皆無だがな。今から逃げ惑うオリンピア人どもと逃げてもよいのだぞ?」
こちらに飛んで以来、初めて感じる安息にホッとしつつ、凛が問いかけると、クレイトスは肉を咀嚼しながら事もなげに軽口で返した。
「そんなの今更よ。やることもないし、最後まで見届けるわ。で、結局クレイトスの敵はどちらなのよ」
「種族などどうでも良いことだ。私を阻むものは死の他ない」
「決まりね」
そう言って、少女は裾の埃を払って立ち上がった。神話の戦いを特等席で拝めるこの展望台には、おあつらえ向きに弓の発射台があった。同感だと呟き、男もまたその発射台に近づく。食事で少しばかり魔力を回復した少女は、発射台に手を翳し、成分凝固と質量固定の魔法をかけた。頑丈さを増した石矢は、男の鋼のような腕力で、まっすぐにヘリオスのチャリオットを貫通し、丁度旋回したペガサスの足を挫いた。狼煙とともに弧を描いて落下するヘリオスは巨人の手で岩壁に投げつけられ、ゴム人形のようにバウンドした。
先ほどの展望台からオリュンポス山を挟んで丁度反対側に、天より撃ち落とされた光は横たわっていた。彼を守る雑兵の姿はない。基、すでに悉くただの肉塊と成り下がっている。死に瀕してなおヘリオスの姿は眩い光を纏い、流れ出る鮮血さえも黄金の輝きを湛えていた。一枚の絵のような美しい死に際を、しかしスパルタの戦士は武骨な足取りでかき乱した。
「クレイトス…お前に受けた恩義は一度も忘れたことはない。かつてアトラスから私を救ってくれたように、今も私を助けてくれ。借りは必ずすべて返すと約束しよう」
「借りを返したくば、聖火の在り処を答えよ」
「オリュンポスの聖火だと?ケホッ…お前はゼウスを倒せはしない。その命は徒労のうちに摩耗し、朽ち果てるだろう」
「フッ、私の命を心配している場合かヘリオス」
「太陽の力を思い知れっ!!」
「見るな、凛!」
太陽神が最後の雄たけびを上げた瞬間、目を焼かんばかりのまばゆい光が視界を覆い尽くした。クレイトスの指令でとっさに腕で顔を覆う。数度の暴力的な打撃音と、この世のものとは思えない悲鳴。こちらの世界に来て数度目に耳にした断末魔である。光が収縮している。ぶちぶちと血管が切れる嫌な音がする。本能がまだだ、まだ目を開けるべきではないと叫んでいる。だが、それでも絶えず、瞼を開けば…