果てなき犠牲と願望の上にそれは成りたつ。
Bloody Oath -1
午前六時、凛は冬木市の長閑な風景にはそぐわぬ、荘厳な協会に居た。
相対するは、彼女の弟弟子であり、後見人であるエセ聖職者、言峰綺礼その人だった。漆黒のカソックに身を包み、食えない笑みを浮かべるこの男は、この度再び行われる成敗戦争の監督役も務めている。そして、凛にとってはある意味この世で最も警戒している人物である。
「昨日留守電で、聖杯戦争のマスター登録は今日が最終日だと告知はしたが、まさか君がそれを知らないとは言うまい?」
開口一番、そう問いただした神父に、凛は無言で答えた。獣のような昏い眼をした男は、静かに言葉を続けた。
「聞けば、希少な触媒の大半を無駄に消費したらしいではないか。」
ぎりり、と奥歯を噛みしめる。一体どこでそんな情報を仕入れたのか。不思議ではあったが、それは納得できるものでもあった。仮にも監督者の彼が、今回のイレギュラー如き、察していないはずもない。
「召喚の儀は正常に執り行われたわ」
やっとのことで、凛はそのセリフを絞り出した。そうだ、確かに儀式それ自体は成功だったのだ。それは間違いない。だが――
「だが、失敗した。我々監督者の仕事上、サーヴァントが現界したのであれば、すぐにわかる仕組みになっている」
そういわれてしまうと、凛にはもう反論のしようがない。小動物を嬲る猫のように目を細め、男はさらに畳みかけた。
「とは言え、君に令呪が顕現したのも事実だ。それは否定しようがない。永遠に色付くことのない
芝居かかった調子で、男は大げさにため息をついた。
「君の後見人としても、聖杯戦争から退いて教会の庇護下に居ることを、強く勧めたいのだがね。何せ我が師の大切な娘だ。みすみす死なせるわけにも行かぬ。
その眼を見る限り、棄権する気は無いようだな」
「当たり前よ。サーヴァントが居ようが居まいか、聖杯を手に入れるのはこの遠坂凛、ただ一人に他ならないわ」
見つめ返す大きな瞳が湛える強い光に、思わず背筋がぞくりとする。この度の聖杯戦争も、退屈な余生を彩る面白い芝居が観れそうだ。堪らず口角が吊り上りそうなのを必死で堪えながら、さも同情的な表情で胡散臭い聖職者は問うた。
「それは残念だ。だが、サーヴァントなくしてどう戦う?
はっきり言おう。第七騎の主が誰になるかは分からないが、現状、君が最弱のマスターだ。
己を守る盾を持たず、己の代わりに振るう剣も無く、
「うるさいわね。それも覚悟の上よ」
「大胆なのは君の長所だが、その蛮勇が首を絞めることになるだろうよ。まあいい。そこまで言うなら、ここに正式にマスターとして登録しよう。これで一先ず最低限の権限は確保できた。無理だと思ったら、迷わずここへ駆け込むがいい。教会は君を歓迎しよう」
一先ず参加資格を得たことに胸を撫で下ろす。だが本題はここからだ。自分はまだ、あの奇妙な令呪のことを聞いていない。
「まだ話は終わりじゃないわ。これのこと、貴方なら何か知っているんじゃないの?参加者に最低限必要情報を開示することも、確か教会の役目でしょ」
くるりと背を向け、すでに聖堂を出ようとしていた綺礼が振り返り、徒に模様が刻まれただけの、凛の左手を眺めた。
「確かに。君の質問に私は答える義務がある。だが残念ながら、それについては本当に何も知らない。
君も知っての通り、聖杯戦争には200年以上の歴史がある。我々聖堂教会には、繰り返される戦いを監督するうえで、過去の記録・思念を含め、聖杯に関する凡そすべての記憶媒体を受け継いでいる。それでも、そのようなものを見たことは一度もない。
君の存在は間違いなくイレギュラーだ。
これはただの忠告だが、殺し合いを甘く見ない方がいい。マスター登録を済ませた以上、他のマスターも君の異質さに気付いているはずだ。これから君は真っ先に狙われることとなる。
君は気づいていないかもしれないが、中途半端に召喚が成功し、令呪がある状態では、他のサーヴァントと再契約することもままならない。しかも、君の頼りの綱である魔力も、今ではだいぶ扱いづらいのではないかね。
下手に動き回らず、生き延びることだけを念頭に入れた方がいいだろう」
それ以上何も言うことはないと言わんばかりに、聖職者は再度少女に背を向けた。無意識にペンダントを握り絞め、凛は教会を離れた。
その日一日、凛は学園での生活が手に付かなかった。あの神父の言うことに間違いはなかった。確かに昨日の一件から、凛の魔術回路には大きな変化が訪れていた。サーヴァントを召喚出来ていないのにかかわらず、絶えず何かに魔力を吸い取られているのだ。
凛の魔術回路はメインで四十、サブで各三十ずつある。サーヴァント一騎どころか、場合によっては数騎養っても余りある潤沢な魔力のはずだ。それが今、まるで強制的に放水バルブをこじ開けられたが如く、満るそばから擦り減っていく。不思議と底をつくことはないが、常時70%~80%は浪費され続けている。
更に事態を悪くしたのは、他のマスターの存在だった。どうもこの学園の中にいるらしい。証拠に、学園全体がそれの狩場になるよう、大掛かりな魔法が施されていた。
そう、その術式は魔法ともいうべき神秘の塊だった。昼にざっと確かめただけでも五か所以上は基点がある。神秘の薄れた現代の魔術師では、到底再現できない代物だった。
となれば、サーヴァントの仕業か。
ともかく、一刻も早く解除せねば。凛とて戦争において手段を選ぶべきではないことなど百も承知だが、こんな趣味の悪い物は許せなかった。特に遠坂家が代々守り続けたこの地で、閉じ込めた関係のない一般人を一斉に溶かして血肉にするなどという、野蛮極まりない仕掛けなど、看過できない。
放課後、人気が無くなった校舎を、凛は一人見回っていた。相手が隠しもしなかったおかげで、基点はすぐに見つかった。
「
残り少ない魔力をやりくりして何とか基点をすべて破壊した。しかし、このやり方ではささやかな妨害にしかならない。なんせ今凛は万全ではなかった。古代の魔法レベルの術に対抗する術は到底持ち得なかった。
「何だ。消しちまうのか。勿体ねぇ」
ふと、背後からそんな声が聞こえた。やや粗野な若い男性の声。隠しもしない殺気が、身に刺さる。血塗れた瞳と同じ色の槍を持ち、一歩ずつ、こちらへ詰め寄る。
――ランサー!
明らかに人外のそれに相対した恐怖が、足をすくませる。ここはほぼ一直線の長廊下。あまりにも分が悪すぎる。これでは、まともに反撃すらできない。
「
ギリギリ五感を引き上げ、凛は一目散に逃げ出した。本来、サーヴァント最速と言われるランサーの槍撃に相対して背を向けるなど、愚行でしかないが、凛とて伊達にこの日のために準備したわけではない。間髪入れず、宝石を投げつける。
当然ながら、その一撃は、ランサーによって弾かれた。
「魔術師か。俺もかわいこちゃんを殺したくねぇが、マスターの命令なもんでな。ま、運がなかったかと思え」
「
しかし、凛の狙いはそこにあった。強力な物理攻撃。その一撃は、廊下の両脇に設置されていた、合計4基の消火器を巻き込んだ。
「なっ!?」
子供だましとは言え、子供だましだが、現代知識に欠ける古代の英霊には、効果てきめんのようだった。
「
その隙に、凛は3階の窓をぶち破り、校庭へと垂直に落下していく。そのまま重力に身を任せ、更に詠唱を重ねる。
「
自重を素早く減らし、軽やかに着地する。そしてすぐにグラウンドの砂を蹴って大きく後退。と同時に、轟音。先ほど立っていた地面は大きくえぐれ、全身を青の装身具で覆った英霊が立っていた。身体には先ほどの消火器噴射に付与した、氷の結晶が張り付いている。
「やるじゃねえか、嬢ちゃん」
興奮したのか、瞳孔が開いている。飢えた獣のようなまなざしに、隆起した筋肉。こちらを狩るつもりか。
「ほら来いよ。遊んでやる。」
そう言って致死の槍が先ほどと比べ物にならない速さで迫った。限界まで引き上げた五感でも追いつけるかつけないかというレベルの攻勢。だが、今の魔力量ではまだ大魔術を行使するわけにはいかなかった。加えて宝石の残りも少ない。
「つぅっ…
浅く浅く、何度も何度も、肌が切りつけられる。その隙に、小さく詠唱した統計呪文のは計15回。新たに3つの希少なサファイヤを消費した。
「おちょくってんのか?さっきの威勢はどうした?オラァッ」
血に興奮したかのように、槍が凛の足を切りつけた。こんなことは目くらましにもならないのは分かっていた。もう逃げ場はない。それこそが、凛の狙いであったのだが。
「
無言でつぶやく。もっと、もっと近づけ。
「興ざめだぜ。恨むなよ、嬢ちゃん」
ランサーが構えた途端、血の色をたたえたそれを、凛はつかんだ。
「終わるのは貴方よ」
「あ?」
「
轟音と共にランサーの体を貫く稲妻。槍を媒介に至近距離で放たれた一撃。術者の手によってゼロ距離の接触から行使されていれば、いくら最速の英霊とは言え、避けようがない。加えて不純物を含んだ霜氷は電気を通しやすい。怪我した足で数歩後退し、様子を静観する。
「やっ…た…?」
いくらサーヴァント強しと言えども、あれだけの高圧電流を流しこんだのだ、ひとたまりもないだろう。
「こいつぁ、殺さなきゃ行けねえのが、惜しいってもんだ。だが、あんたにはもうちっと力を出しても良さそうだな!」
「っ!?」
舞い起きる土煙の中、槍兵は悠然と立ち上がった。
「なあに、俺も少しばかりはルーンの心得があるってもんだ、ったく、あのしけた野郎より、嬢ちゃんと契約したかったぜ」
独り言ちて、ギラリと赤い双眸がこちらを向く。縫いとめられたように、その場から動けない。さっきまでは獣の戯れだったが、今は違う。喰われる。
ここまでか
ーーあがけ。
いいえ、まだよ。まだ、やらなきゃ
ーーあがけ
動悸が止まらない。
ーーあがけ
息もすでに上がっている。さっきの決死の一撃で、魔力もすでに底をついた。
ーーあがけ
そうだ、まだ自分は死ねない。何一つなしていない。こんなところでーー
「みたせ、みたせ、みたせ…」
「っ!?」
「…抑止の輪より来れ、天秤の守り手よ」
知らずのうちに、失敗したあの詠唱を口にしていた。消耗し切ったその身を開き、魔術回路を明け渡し、ただの虚ろな器に成る。赤い槍は一直線にこちらへ向かう。心臓へ真っ直ぐと。
「私を眠りから起こしたのは、貴様か?」
思ったより長かった。