自宅の大きなバスタブに沈みながら、遠坂凛は幾分寛いだきもちになった。召喚開始から丸一日。漸く英霊を手に入れたのだ。念願のセイバーではなく、名もクラスすら不明なサーヴァントだが、あの戦闘能力。寧ろセイバーと契約するより幸運だったかもしれない。何せ、三大クラスのランサーを圧倒していたのだから。
今更ながら歓喜と興奮で背筋がぶるりと震えた。うっとりと左手に刻まれた赤い令呪を眺める。
しかし、あの英霊のクラスは一体なんだろう。武器はあの双剣ではあったが、あれは剣というより短刀だった。飛び道具と言う意味ではアサシンだが、気配を隠そうともしない暗殺者など聞いたこともない。遠距離射撃どころか、あのランサーを素手で殴っていた男だ。そう言う意味でキャスターやアーチャーも論外。バーサーカーにしては話が通じすぎるし、何より、ランサーから奪い取った槍の扱いもそつなかった。強いて言えば、
「そろそろ上がれか、逆上せるぞ」
「はーい」
命令口調だが、声が暖かい。気の無い返事をして、凛は立ち上がった。あの大男は存外に過保護だった。あれから2人でランサーの後を追ったのだが、衛宮士郎の蘇生に気を取られるうちに逃げられてしまった。と言うより、足に呪いの槍を受けた凛から離れようとしなかったのだ、あの男は。蘇生中ずっと周囲を警戒していたし、一度も下ろしてくれず、凛を抱えて移動していた。
それにあの眼差し、あれは娘を気にかける父親のそれだった。
ふと顔が熱くなって、凛はさっさと風呂場を出た。このままでは本当に逆上せてしまう。ぴしゃりと頬を叩いて、凛はまだ痛む足を引きずりながらリビングへと向かった。
「…何しているの?」
ほっと一息ついたのも束の間、彼女が見たのは、引き出しと言う引き出しを開けられ、まるで空き巣にでも入られた我が家の惨状だった。大凡推測ができるだけあって、怒りよりも呆れが勝った。件の英霊とは言うと、乱雑に解いた包帯の束と、高そうな酒瓶を持って凛を待ち構えていた。
「仮にも戦の傷だ。早めに手当てした方がいい」
「ぷっ、くくくくく…あははははは……げほっ」
予想通りの答えに、凛は思わず足の痛みも忘れて、笑いこけた。背中からクッションの効いたソファーに沈み込み、はしたなく足をバタバタさせ、そして盛大にむせた。男はと言うと、むすっとした顔でアルコールを含み、掴んだ足首にかける。
「…っ、いったぁ〜」
「笑うからそうなる。子供よ」
見た目によらず器用な手つきで包帯を巻かれる。傷は割と深いらしい。真剣すぎて険しさの滲み出る表情に、在りし日の父を思い出す。
偉大な魔術師だった父もこうだった。まだ凛が幼かった時のことである。庭で花を摘んで指を切った凛に、書斎にいた父が大騒ぎで、あちこちの引き出しをひっくり返しては、絆創膏一枚を求めててんやわんやしていた。常に優雅たれ、と常に口にしていたのも形無しである。火のついたように泣いた凛に、魔術などすっかり忘れて四苦八苦していた覚えがある。
「ごめんなさい、バカにするつもりはないわ。ちょっと思い出し笑いしただけ。あと、私は子供じゃない。遠坂凛と言う名前があるわ」
「ふん。出来たぞ、凛。これで当面は問題ない」
「ありがとう。貴方の真名は?」
「クレイトスだ」
「クレイトス?あの、マケドニアの?」
「いや、スパルタ人だ」
はてな、と凛が首を傾げた。スパルタ人で伝説になった存在など、聞いたことがなかった。そんな英雄いたかしら?それより、何か大切なものを忘れている気がする。
「あの槍兵は今頃、主の下へ逃げ帰っているだろう」
凛の心中を見透かしたように、クレイトスは言う。違う。そうじゃない。何か見落としがあるはずだ。
「単純な逃走なら、あの不利な状況で目撃者をわざわざ殺したりしないわ。とすると、マスターの命令でしょう。あっ、いけないっ」
「再襲撃か」
「ええ、あのマスターのことだから、きっと私が蘇生させた彼のことを放っておけないわ!ああもうっ、油断した!」
「行くか、凛」
「ええ、お願い、クレイトス」
ひょいと少女を片手に抱いた直後、一陣の暴風が遠坂邸を吹き抜けた。イカロスの黒い翼が月を横切り、ただ一枚の羽根が残された。
同刻。衛宮士郎はようやく行きついた我が家で、恐るべき追跡者と一人、対峙していた。かろうじて魔術を使うことができたものの、少年は強化の魔術でさえまともに使えない半端ものだった。稀代の天才である凛でさえ、辛うじて逃げ
「おいおいおい、どこまで逃げる気だ、坊主。ったく、興ざめだぜ」
蔵に逃げ込み、強化したポスターでランサーの一撃を防ぐ。英霊の一撃に、少年はいとも簡単に吹き飛ばされ、壁に激突する。
「詰めだ。変わった芸風だが、相手を選ぶんだったな」
少年は動かない。死の恐怖ではなく、確かな怒りを灯して、何かを叫んだ。そしてその左手に顕現する印。一介の人間風情である彼が唯一行使できる剣が、舞い降りる。
「問おう。貴方が私のマスターか」
何処までも軽やかに、騎士の王は現世へと降り立った。不可視の剣を携え、銀の鎧を纏った、美しい少女。年の頃は少年とさして変わらないが、どこか神聖で侵すことのできない威厳を纏っていた。そのせいか、その姿が余計に寂しげに見えた。月明かりの下、戦の真っただ中であることも忘れさせる、一枚の美しい絵のような光景。
「サーヴァントセイバー、召喚に応じて参上した。これより我が剣は汝と共にあり、貴方の運命は私と共にある―― ここに、契約は完了した」
かくして、戦いは再開される。神速の槍を操る青い男は、じりじりと高まる苛立ちに舌打ちした。自ら繰り出される一撃は無論最高である。それが剣使い相手ならなおさらだった。だが、不可視の魔法を帯びた兵装に対してでは、間合いが図りきれず、長所を生かせない。加えて先ほどの傷である。少女に対し、ランサーは明らかに劣勢だった。
「危ないっ!!」
ソレに気づいた途端、赤髪の少年は思わず叫んでいた。ランサーを中心に空気が渦巻き、凄まじい早さで
「がはっ…呪い、いや、因果の逆転か」
「貴様、俺の槍を躱しやがったな」
槍先を下げて繰り出された一撃は、赤い閃光となって少女に付きまとい、いく度その切っ先を払われようと、心臓を刺し貫くと言う、不動の事実を生む。絶えず、小さな騎士王が膝を折る。だがランサーは不機嫌だった。青筋を浮かべ、憤怒の形相で吠える彼の言うとおり、済んでのところで、心臓への直撃は免れていた。
「その目つき、そしてその槍。御身は、アイルランドの光の御子か」
「やれやれ。有名すぎるってのも考え物だな。出すからには、躱される訳にはいかねぇってのによ」
肩で息をするセイバーに、素性をバラされたランサーは溜息をつきながら、おどけた表情で言い放った。すっと殺気が解かれ、槍兵の体が光の粒子となって消えて行く。
「逃げる気か、ランサー!」
「生憎うちの雇い主は臆病でな。槍を外したら帰って来いだとよ」
歯噛みし、不可視の剣を正眼に構えたまま、騎士王はランサーから目を離さない。おどけたように両手を広げて言い放つ男に、セイバーは本能的に一歩後ろへ下がった。次いで、ランサーの体が炎に包まれた。セイバーが先ほど立っていた場所に刺さっていた光の矢は霧散し、太陽から分け与えられた炎を払いながら、ランサーの体が掻き消える。
「貴様っ…次は殺してやる」
「ほざけ。犬風情が」
吐き捨てるように言い放ち、屋根から飛び降りた男に、かの高名な騎士王は息を飲んだ。それはどのような敵にも憶さなかった彼女が抱いた本能的な恐怖だった。彼女には元来荒れ狂う
ごつごつと岩壁のように盛り上がる筋肉。無駄なく引き締まったそれと、無数の傷跡は、男が歴戦の戦士だと告げていた。それだけではない。肉食獣を思わせる瞳と、男が纏う白い灰からは、男が屠ってきたであろう無数の死の匂いが付きまとっていた。
「貴様っ何者だ」
咄嗟に主である少年の前に立ち、庇うように剣を構える。それが、最も優れたサーヴァントと謳われたセイバーの精一杯だった。
「貴様に告げる名前などない。竜の娘よ」
「ちっ」
ランサーにつけられた傷が痛む。本能に逆らい、小さな騎士王は、驚くスピードで切り込んだ。片手に少女を抱いたまま、男はその太刀筋を始めから知っていたように、切りかかる剣を携えた両手を掴み、そのまま放り投げた。土煙が上がり、騎士は膝をつく。
「クレイトス。下して」
「凛?」「遠坂!?」
奇しくも、男と少年の声が重なった。
「別に戦いに来たわけじゃないのよ、セイバー。それに、今の貴女じゃ彼には対抗できない」
「くっ」
「まあ、という訳で中に入って話しましょう。行くわよ」
勝手知ったる様子で衛宮邸へ入る少女に、男は無言で付き従う。剣を収めた金髪の少女に肩を貸しながら、少年は疑問を禁じ得なかった。ここ、俺の家だよな?
かくして、深夜の衛宮邸は
「さて、どこから話しましょうかね。残念だけどセイバー、貴女を呼び出したそこのでくの坊は、聖杯戦争どころか、魔術師が何たるかも碌に知らない半端ものよ。前提知識を植え付けてから、決断を下しても遅くないと思うの。説明は私からでいいかしら?」
「
「ありがとう。それじゃ一度しか言わないから、よく聞きなさいね、衛宮君…」
場の主導権は、完全に遠坂凛に握られていた。簡潔そして明解に説明が続く途中、クレイトスは相変わらず湯呑の中の薄緑の物体を飲むか迷っていた。そして横から、悪くなかったですよ、と騎士王が薦めている。
「…というわけ。少しは自分の立場が分かった?」
「ああ、要は勝手に血腥い殺し合いに巻き込まれ「なかなかだ、坊主。だが器が小さすぎる」…なんでさ」
いつの間にか日本茶を飲んでいたクレイトスは、少年の話を折る形で、空の湯呑を差し出していた。何故か金髪の騎士王もそれに便乗している。セイバーには普通のお代わりを、男には通学時に持って行っている水筒に茶を注いで渡してから、少年は再び言葉をつづけた。
「状況は分かった。だけど遠坂も参加者なのに、俺にこんなことペラペラ喋っちまって良いのか?」
「ええ、確かに私達はいずれ敵対する。でもね、聖杯戦争を有利に勝ち進むためには、今貴方たちをつぶすより、手を組んだ方が良いと判断したの。我々は最優のサーヴァントの助けを借りられるし、貴方たちは優秀な魔術師のバックアップを受けられる。いい話だと思わない?」
「そうしましょう。少なくとも傷が完治するまで、貴方がたと対抗するのは得策ではないでしょう」
「ちょ、ちょっと待った。俺はともかく、なんでセイバーは初対面の相手を信用しているんだ?」
「無論私も不安です。だけど、最初から選択肢は無いのでしょう?凛」
「ええ。拒否すれば、クレイトスが黙っていないと思うわ」
その一言に、少年は押し黙る。少し前に校庭で見た光景が蘇る。セイバーと互角に切りあっていたランサーを、そう言えばこの男は素手で圧倒していた。あの英霊がぼろ雑巾のようにいとも容易く傷を負わされていたのだ。ここで逆らえば、死ぬ。
「決まりね。まあ、聖杯戦争に詳しいやつが教会に居るから。まずはそこへ行きましょ」
「お、おい。教会って隣町じゃないか」
「善は急げって言うでしょ。通学の時間には間に合うわよ」
凛を抱き上げて先導する大男と、黙って従う騎士王の背を追い、少年は駆け出した。