*僕と君*
この世に不変なるものが本当にあるとしたら、血のつながりというものはその候補の一角になるだろう。
好きでも嫌いでもどんな感情を抱いていたとしても、父であろうと母であろうと兄であろうと、そして妹であろうと、血のつながりは消えない。
血についてはおそらく中学生程度の知識しかないけれど、未だ解明されていないことがあるくらいのことは理解できる。
家族だから血がつながっているのか、血がつながっているから家族なのか。
生き別れになった肉親と不思議に通じ合い、再会する。あるいは血のつながりを知らずに不思議と惹きつけ合い、やがてきょうだいであると発覚する。なかにはその惹きつけ合いを恋愛の情であると錯覚し、結婚までしてしまう異性のきょうだいの例もあるらしい。結婚してから、実は血のつながりがあることが明らかになったのだとか。
「つまり何が言いたいかっていうと、もし俺とお前が血のつながりを知らずに出会ってしまったとしたら、俺はお前に求婚していたかもしんないってことだ」
玄関の前に立ち塞がって動かない少女はそれを聞いて小首を傾げ、
「お兄ちゃんは本当にバカだねえ」
俺の自転車は長く冷たい冬の間に錆びついてしまったようで、ペダルをこぐたびに奇妙な動物の鳴き声に似た音を出す。追い詰められた弱弱しい鳴き声で、それがなんだかどうしようもなく情けなく聞こえた。
まだまだ肌寒い早春の候、白い朝の光が自転車に乗る俺たちを優しく撫でる。ハンドルを握る指先は冷たいけれど、後ろに乗る妹の体がじんわりと背中を温めていた。
「いくらお見送りされるのが嫌だからってこーんな朝に一人でこそこそ行かなくたっていいじゃん」
「うるせえな…親父とお袋には一応言っといたんだから良いじゃねえか。止められなかったし。お前には…まあ、後から言えばいいかなっと…」
静まりかえった家をそっと出ようと息を殺して玄関に向かった俺なりの気遣いをあっさり無にしたのが、今自転車の荷台に乗ってぶつくさ言っている妹、小町である。
仁王像のように玄関に立ちはだかっていた小町は、呆れ顔を隠さずに、少しだけ笑った。
なぜ気づいたし。妹だからねえ。なるほどそれもそうだな。納得するんだね。
で、寝てりゃーいいのに何故か小町は俺についていくと言ってきかなかった。
「どうせこんな事だろうと思ったからね、せめて小町だけは見送ってあげようと思って」
「だからいらねっつの」
「本当は小町もついて行ってあげられたらいいんだけどね、ごめんねお兄ちゃん。お兄ちゃんは一人で行かなきゃいけないんだよー」
「だから一人で行くっつの」
「お兄ちゃんには全くやれやれだよ。言えば多分みんな来てくれるよ、多分ね」
「来ねえよ」
小さく嘘を吐いた。本当は違う。多分小町の言うことが正しいんだろう。
正しくないのは俺だけだ。
いつだってそうだった。
自転車をこぎこぎ、線路沿いまでたどり着いた。この坂を越えれば駅だ。
坂の手前でブレーキをかけ、後ろを振り返った。
「降りろ、小町」
「えーなんでー?」
「お前とボストンバッグを乗せたままこの坂を上りきる自信は俺にはない」
「やってみてよー」
「やっても、俺にはどうせできないだろ。分かってんだよ」
小町は俺を胡乱げな視線で射た。へらり、と口の端だけで笑みを見せても、小町の堅い表情は変わらない。
「拒否します」
「は?」
溜息をつくように小町は言った。聞き間違いかと思った。
「頑張ってみてよ」
「いや、でも…」
「やってみてから諦めようよ、お兄ちゃん」
小町はきょろきょろとあたりを見回した。春眠は暁を覚えないのか、人っ子一人出歩いていない。というより、こんな早朝に人がいたら逆に警戒するかもしれない。例えば可愛い女の子を荷台に乗せて連れまわしている淀んだ目の不審者とか。
ともあれ俺の自転車の荷台にまたがるこの可愛い女の子は、大げさに両手を広げて見せた。
「ほら、まだみんな寝てる。誰もお兄ちゃんの事なんか見てないよ。今この世界にはお兄ちゃんと小町しかいないよ。だから、失敗したって恥ずかしくないよ、ね。できなくても笑わないでいてあげる」
手厳しい。俺は諦めて、目の前の坂に向き直った。前に坂、後ろに妹。背水の陣ならぬ背妹の陣の心持で俺は右足のペダルを思い切り踏んづけた。
ぐん、と車輪が地面を掴み、自転車は不器用ながらも坂を上り始めた。歯を食いしばって足の筋肉に力を込め、なんとか体勢を持っていこうと奮闘する。ハンドルでバランスを取りながら行くので、お世辞にもまっすぐとは言えないけれど、それでも自転車は進んだ。
きっとこれからも俺はこうだ。
会いに来た。
なんとなく、そう思った。
小町が俺の背中を見つめているような気がする。
振り向くわけにはいかなかった。
「流した涙の分だけ強くなれるとしたら、お兄ちゃんは最強かもね」
「だからそんなの、嘘なんだよ」
くぁ、と小町が後ろで小さく欠伸をして、「眠い」と呟く。
会いに行く。
*君と僕*
帰りは小町が乗って帰るから。そう言って、お兄ちゃんから自転車の鍵をもらった。私がいなかったらお兄ちゃんはこの自転車、ずっと駅に放置しておくつもりだったのかな。鍵をかけていても悪い人にとられちゃうかもしれないし、錆びついて動かなくなっちゃうかもしれないのに。そもそも駅員さんに撤去されることだって考えられる。全くお兄ちゃんはそう言うところが甘い。
お兄ちゃんは甘い。マッ缶なんか爆飲みしてるからだ。
駅に入ると、私はお兄ちゃんを連れて奥の方にある券売機に向かった。大きな駅じゃないから、券売機は二つあるだけだった。でも二つの券売機は壁を背にして並んで仲が良さそうで、なんだか少し羨ましかった。
「お兄ちゃん、入場券買ってー。小町、財布無い」
おねだりすると、お兄ちゃんは意外にもすぐに買ってくれた。いつもならもっと文句を言ったり屁理屈をこねたりしてから買ってくれるのに、諦めたのかな。
もらった入場券をパーカーのポケットにしっかりと入れてにっこり笑うと、お兄ちゃんはつられたように微かに笑った。
最近、お兄ちゃんは泣くように笑う。
この春、総武高校を卒業したお兄ちゃんは何か思うところがあるのか、よく考え事をしている。お兄ちゃんは泣いているようで笑っている。その逆かも。
そりゃあ、お兄ちゃんの高校生活は全ての人には受け入れられないかもしれないけどさ、でも、だからって、そんな顔しなくていいのに、と私は思う。
お兄ちゃんは昔からそうだった。
だから私くらいは分かってあげていたかった。
でも、お兄ちゃん、もう、一人で行かないとね。
頭をぽりぽりと掻き、そのまま改札に向かうお兄ちゃん。一拍遅れて私もついていく。
「切符買ってあるの?」
「ん、ああ。結構高くついた」
言いつつ、財布から切符を取り出して見せる。お兄ちゃんは改札口にそれを入れた。
途端にエラーが出てお兄ちゃんは通行止め、駅員さんがやって来てこの切符使えませんよ。そしたらお兄ちゃんは行かずに済むのかなぁなんて考えている自分に気づいて、そんな自分自身に私はあきれた。
お兄ちゃんがいれた切符は何のお咎めもなく向こう側に出た。
お兄ちゃんが改札を進む。お兄ちゃんの肩にかついだボストンバッグの紐よ、改札にひっかかってお兄ちゃんを足止めしろと念じても、そんなことにまるで意味はなかった。私も大概だ。流石お兄ちゃんの妹。
私も入場券を入れて続く。
「向こうに行ったらバイトしなきゃだね」
お兄ちゃんは思った通り、うぇーと嫌そうな顔をした。
「まあわかっちゃいるんだが…面倒だな」
「そんなん、自分で選んだ道じゃん」
「いや、そうだけどさ…」
「お兄ちゃんはお金を払って、逃げるんだよ。ここから」
遠くに行きたいんでしょ、お兄ちゃん。
遠くに行ってどうするつもりなの。
遠くへなんか行くのやめなよ。
「…手厳しくないか、小町?お兄ちゃんつらいぞ」
「もうここから先、小町はいないよ。だからそう言うのは他の人に言うんだよ」
ため込んじゃだめだよ、お兄ちゃん。聞いてくれる人が絶対にいるから、その人にちゃんと言うんだよ。
多分そう遠くない未来に会えるその人に、ちゃんと言うんだよ。
お兄ちゃんは答えなかった。
駅のホームも人は少なかったけれど、街中よりはまだ多い方だった。こんな朝早くにスーツを着ていそいそとホームを歩くサラリーマンを見て、私は社会人のお兄ちゃんを想像してみたけれど、上手くはいかない。
お兄ちゃんの乗る電車はまだ来ていなかった。私とお兄ちゃんは木製のベンチに座って、とりとめのない、とてもくだらない話をした。お兄ちゃんは自分の話題、学校の話題を避けていたし、私も無理に水を向けることはしなかった。
「お兄ちゃん、髪染めたりする予定あるの?」
「あるわけねえだろ、なぜ金を払って男にとって貴重な髪を痛めつけなけりゃならないんだよ。意味がねえよ」
「大学デビューだよ」
「ばっかお前、俺はもうデビューしたから。なんならずっとデビューしてるまであるから」
「またよく分からないことを言う」
「よく分からないのは…ああ、俺か」
本当に喋りたいことはなんだっけ。
電車がホームに滑り込んでくる。お兄ちゃんの乗る電車だ。これを乗り換えて新幹線に乗るらしい。
お兄ちゃんは立ち上がって、ボストンバッグを肩にかけて私を見た。何か言いかけるのを遮って、私はもうしばらくは叩けないかもしれない軽口を叩く。
「どうしても寂しくなったらね、小町に電話しても良いよ。1年に1回だけ、3分以内ならね」
「んだそれは。サンタクロースのウルトラマンかよお前は」
「ウルトラマンはお兄ちゃんじゃないの」
「俺はどっちかっつーと怪獣の方だな…あれっ、おい、あの人ちょっと戸塚に似てないか」
「あのねえお兄ちゃん、なんでそこで戸塚さんなの…」
「本能的に求めているんだなあ」
「ポイント低いよ、お兄ちゃん」
「んじゃ、行くわ」
「ん」
一歩、お兄ちゃんは電車の中に入って、振り返って私を見つめる。もうそれだけで、なんだかもう手を伸ばしてもお兄ちゃんには届かないような。
斜に構えたお兄ちゃんの笑顔。さっきまで元気よく出ていた言葉がまるきり出てこない。
お兄ちゃんはね、本当は凄いんだよ。とっても優しいんだよ。
本当は甘えてるのは、小町の方だよ。分かってあげたいんだよ。
1人で行くのなんか寂しいよ。小町は本当は本当に寂しいんだよ。
いくらだって何度だって電話して良いよ。いつだって帰ってきなよ。
お兄ちゃんは怪獣なんかじゃないよ。もっと自分を労わってあげてよ。
「じゃあな、小町。元気でな」
ドアを挟んでお兄ちゃんと私は向き合う。調子外れの機械人形のようにへらへら笑いながら。
「お兄ちゃん泣かないで」
「いや泣いてねえよ。泣くとか恥ずかしいだろ」
「あのね、お兄ちゃん。小町がお兄ちゃんのふるさとになったげるよ」
「は?」
怪訝な表情を浮かべるお兄ちゃんに、私は特大の笑みをプレゼントする。ここに鏡なんてないから確認しようがないけれど、多分ちゃんと、笑えているはずだ。
小さな手鏡でも見せつけられたら、その自信はなくなるかもしれないけれど。でもそれはお兄ちゃんだって一緒だ。お兄ちゃんなんて誰かにそう言われちゃえばいいんだ。そうでもしなきゃ、お兄ちゃんは気付いてくれない。
「べつに泣くことで強くなれるわけじゃないけど、でも、忘れないでね」
何を、と訊かずにお兄ちゃんは
「…忘れるわけ、ないだろ」
お兄ちゃんのその小さな声を合図にしたかのように無機質な電車のベルが鳴り響き、扉が閉まって私たちを隔てた。
お兄ちゃんは扉の向こうでうつむいている。表情はうかがい知れなかった。
私はきっと、皆が思っているほど、器用じゃない。
器用に、器用なふりをしているだけだ。
私のたった一人の兄を乗せて、電車はホームを滑るように出ていこうとする。
ひょっとしたら、まだ間に合うかな。
不意にそんな考えが頭をよぎる。
あの坂のところでなら、下り坂だし、追いつけるんじゃないだろうか。
迷っている暇はなかった。
やってみてから諦めようよ。小町が言ったんだったね、お兄ちゃん。
私は電車が出ていくのを見届ける前に、背を向け、踵を返した。
お兄ちゃんがやってくれたみたいに一生懸命足を動かして、走って走って走って、駅を飛び出す。
走りながらパーカーのポケットから自転車の鍵を取り出して、ぎゅっと握りしめる。
外の町は長い溜息をついて、目を覚ましそうだった。
けれどもう私を見ていてくれたお兄ちゃんはここにはいない。
お兄ちゃんがいないから、まるでひとりぼっちみたいだ。
ねえ、お兄ちゃん。小町は頭が悪いから、お兄ちゃんにとって何が一番良いのかは分からないけれど、せめて、せめて、忘れないでね。
小町はここにいるよ、お兄ちゃん。
お兄ちゃんみたいなその自転車のサドルは私にはちょっぴり高かったけれど、でも、まだ少しだけあたたかかった。
はい。というわけで10作目でした。今回は「車輪の唄」という曲に「涙のふるさと」という曲を加えて和えてみました。「車輪の唄」はそれだけでちょっとした小説のような曲で、いつか書きたいなと思っていました。もう一つの「涙のふるさと」は読者様のご感想からいただきました。ありがとうございました。
ご意見ご感想、いただけましたら幸いです。どんな曲が好きだとか、俺はこいつのことはこう思ってるとか、なんでもください。ほんとに。