お待ちいただいていた方は申し訳ありません。アホウ囲村です。
屋上から飛ぶ話。
わたしの本物に連れられて訪れた部屋には、奇妙な三角形が描かれていた。
それは不格好で、どこかおかしくて、なにか足りない。
それを隠すように、取り繕うように、見ない振りするように、それでも一緒にいた歪の。
あの人たちと出会ったばっかりに、わたしの世界は前ほど簡単じゃなくなってしまった。
知らなきゃよかったよ、バイバイサヨナラ、歪の先輩。
特別な何かを求めている。いつもいつもいつもそうだ。幼稚園児の時だって小学生の時だって中学生にも高校生になってもまだ諦めてはいない。多分大人になったって諦めない。死んだってそれこそ化けて出るほどには諦めない。というほどの断固たる意志はない。死んだら終わりだけどそれでも普通なんかじゃ嫌だ、皆と同じなんてまっぴらだ。血の種類で人類が四分割されちゃたまらない。生まれた日にちで今日の運勢が分かるなら今日が世界平和だ。どいつもこいつもフレームに当てはめやがって、もう人類全員生きろ。テンプレートもデフォルトも美味しくない。
アルフォートは美味しいから大好きだ。
「おもしろいなあ」
最近読みだした小説のそんな部分を読んでくだらない妄想に耽っていた私は、いつの間にか教室に一人でいた。ひとりぼっちだった。五月のこれから暑くなる予感のめいた風が、開けた窓から私の頬を撫でる。
ふと急激に寂しさを感じたので、リュックを引っ掴んで教室を出ることにした。放課後の廊下は過疎状態だ。生徒たちは皆帰ったか部活に勤しんでいるか。
ウサギとウサギ系女子は寂しいと死んでしまうというのは明らか嘘っぽいけれど、寂しいと死にたくなる気持ちは分かる。でも放課後の教室と
寂しくて死にそう。
たしかに、うん、うそっぽい。
階段を降りて、一階のとある部屋を目指す。生徒会室だ。多分きっと先輩は今そこにいる。生徒会は今日、あるわけじゃないけど…
廊下の窓からはグラウンドで活発に動く生徒たちが見える。窓の向こう側で発散されている青春エネルギーを体内に取り込めるとしたら、私はもうちょっと本物らしくなれるのだろうか?そんな希望的観測を胸に抱いて天体観測してみたい。でもそれでも見えないものは見えないだろうけど。
砂だらけになりながらボールを蹴りあうサッカー部の様子を、何とはなしに伺う。実は、生まれながらのインドア派の私にはサッカーのことはよく分からない。てへぺろ。もっと言うと球技全般のルール自体も分かったためしがない。てへぺろ。
発見。私にはできないことが、結構ある。
ちぇ、と一人でふて腐れていると、向こうから平塚先生がやってきた。いつものパンツルックがそのスタイルの良さを強調している。喋らなければ憧れの大人の女性って感じなんだけどな。喋らない平塚先生なんてマネキンよか酷いけど。
ちょうどよかった、と平塚先生は私の前に立ち塞がると、抱えていた書類の束から一枚の紙をぐいぐい押し付けてきた。
「え、なんですかぁ」
「はぁ…もういい加減、相手するのも疲れるからこういうのはやめたまえ」
呆れ顔で溜息をつかれてしまった。紙を受け取って確認する。「職場見学希望調査書」。
「…あー、すみません。あはは」
思わず笑ってしまう。四つ折りにして制服のポケットにしまい込んだ。先生もつられて少し笑っている。少しひきつったやつだけど。
「あははじゃない!まったくどいつもこいつも…」
「冗談ですって。ちょっとネタに走ってみようかなって」
「希望する職業「お嫁さん☆」ってお前バカやろぉ!!冗談にならないぞ!!私が希望するわ!!私が希望したいわ!!」
ヒールを勢いよく廊下に叩きつけて吠える聖職者♀。文字通り反面教師だなぁ。
このまま平塚先生は小言と文句を垂れ続けしまいにはわたしになにか仕事も押し付けてきそうな気配がしたので、私は目いっぱいの愛嬌を振りまいて(煙に巻いての意義)さっさと退散した。
冗談は冗談にするから面白いのであって、それ以外の用途に使われるのは問題だ。
「もう大丈夫、何故って?私が来た!」
平塚先生に影響されたのか、遅れてやってくるヒーローのような熱い登場シーンを演出した私は勢いよく生徒会室の扉を開ける。ことは出来なくて、地味めにノックして、そっと扉を開けた。
思った通り先輩はそこにいた。部屋に置かれた長方形の会議用テーブルの上座。その椅子に今日もいた。
「こんにちはー…」
ぺこりと頭を下げて部屋に入る。先輩は頬杖をついて、物憂げな様子で何か書き物をしているようだった。近寄る私の姿を認めると、ふっと小さく笑う。
「天使が来たのか…」
「いやだな先輩ったら。褒めても何も出ませんよ!」
「毎朝オレの味噌汁を作ってくれ」
「先輩…それって本気にしても良いんですか?」
「ああ、もちろんだ」
「そんなこと言われたら…私、私…」
ああこれが恋。齢17にして初めて知る蜜の味。先輩と熱い視線を交わしあう。しばらく見つめ合って、そして一緒にふき出した。
「あははははっ、小町ちゃんノリ良過ぎでしょ!」
「いえいえ、先輩には負けますって」
年上とは思えないほどに屈託なく笑うのは現総武高校生徒会長、一色いろは。彼女こそギガ可愛い生徒会長として名を馳せる、私の一つ上の先輩だ。
「小町ちゃん、今日は生徒会ないよ?」
「いろはす先輩に会いに来たのですよ」
「あれ、続きしちゃう?」
蠱惑的な笑みを浮かべ首を傾げるいろは先輩にハグしたくなる。先輩から見て右手の椅子に腰かけて、リュックを降ろした。テーブルの上に広げられている参考書とルーズリーフを見て、私は思わず声をあげた。
「うわ、先輩、勉強ちゃんとやるんですね」
そういえばもうすぐ中間試験だ。嫌なこと思い出しちゃったな…。
「そうですよ。生徒会長は3年生ですからね。受験勉強も兼ねてるのだ」
ふふん、と先輩はドヤ顔で手に持ったシャーペンをくるくる回す。
「じぇじぇ、まだ春なのに…」
「とはいっても梅雨が過ぎればもう夏になるよ?最近暑いし…」
家に帰ってもいいんだけど、ここは妙に落ち着くからと先輩は言い訳するように続けた。いえいえ、どうぞ、ご自由に。
「やっぱ行きたい大学とかもう決めてるんですか?」
「ん?…うーん、そうだね。どうしよっかなーってとこ」
「ちなみに行くとしたらどこです?」
「それはー…ひみつ」
「まじすか」
「受かったら教えたげるゥ」
「落ちたらわたしの胸で泣いてもいいですよォ」
ひとしきり笑って、再び参考書に目を落とすいろは先輩。綺麗な亜麻色の髪がさらさらと肩からこぼれる。先輩の髪、枝毛とか全然ないし良い匂いするし最強なんだよな…私も髪、伸ばそうかしらん。
「…じゃあ私、帰りますね」
「え、なんで?」
なんでって。
「さすがに受験勉強してる人の邪魔できるほど私はバカじゃあないですよ」
てか私も勉強しなきゃだし。私の成績はお世辞にも良いとは言えない。いや、お世辞では何とでも言えるかもしれない。ただ悪いことは悪い。良いは悪い、悪いは良い。アレッ、私の成績が良くなった!?
「いやいや、いていいよ。というか、いてよ」
「えっ、告白ですか?」
「違うよこまっちゃん!」
「すみません私には心に決めた人がっ」
「そんなのわたしにもいるよっ」
「え」
「あ、いや、冗談だよ?」
釈然としないけれどうなずいた。感銘を受けるまではいかない。冗談は面白い。
冗談で思い出して、私は職場見学の希望書をテーブルに置いた。ひとまずこれを片づけよう。流石にネタに走り過ぎた。このままでは職場のストレスによって平塚先生の老化が加速スイッチ。意気揚々と書いた「お嫁さん☆」を消しゴムでごしごし消していく。
でも実際女の子なら悪くない職場だと思うんだけどな。第一先生も言ってたし。女の子ならね。男がそんなこと言ってたら正直引くどころの騒ぎじゃない。まるでうちの愚兄だ。
良い男を見つけて、家庭に入る。それが本音の女の子も少なくないと思う。ふむ、そういう意味では良い会社に入ることはあながち間違いじゃない、というかむしろ正規ルートか…
正規ルートが「正しい」とは限らないけれど、ならなにが正しいのだろう?
…いや、深く考えすぎだ。頭がハツカネズミだ。んん、職場見学か…みんななんて言ってたっけ?適当に話し合わせてたから忘れちゃったな。もういいや、明日聞けばいいか。
私は生来、諦めは良い方なので、綺麗になった希望書を再びポケットに突っ込んだ。それから先輩の観察を始める。勉強なんかしない。するもんか!泣くもんか!先輩が目の前にいるというのに先輩を眺めないなんて先輩に失礼でしょう。勉強なんて夜すりゃいいのさ。
先輩は時々唸りながら参考書と取っ組み合いをしている。先輩は勉強してても可愛いんだなァ。ずっこい。
いかんいかん、目が濁っていきそうな予感。あかんあかん、私が
おもしろいなあ。
やがて先輩は参考書をぱたりと閉じた。握っていたシャーペンをテーブルに転がして、背もたれにもたれかかった。シャーペンになりたい気がした。
「いらいらしてきた」
ぽつりととんでもないことを呟く先輩。うつむいて参考書を見つめる目が怖い。私は身の危険を感じて部屋からの脱出ルートを幾通りも考え出す。
やっぱりお邪魔でしたねと立ち上がりかけたとき、先輩は額をテーブルに勢いよくぶつけた。ゴン、という狐の名前のような鈍い音が響く。おまいだったのか…。
先輩は頭をテーブルに乗せたまま、顔だけこちらに向けた。なんだかこわい。
「個性って言うのは大事だと思うんだよ」
唐突に話し出すいろは先輩。俺の話を聞けということでしょうか。
「勉強が苦手なのも、個性ですよね!」
「キャラクターとか、位置づけ、とか。集団の中での居場所的な?」
「…いや、どうしたんですか先輩。頭でも打ちました?あ、打ちましたね」
「つまりさー、皆できることとできないことがあるから、できないことは人に任せて、できることをすればいい、よね?」
なにがつまりなんだろう…けれど、私もちょっと先輩の哲学ごっこに付き合うことにした。暇だから。
「…言い方を変えると、できないことは諦めて、できることにこだわればいいってことです?」
「そうそう。や、違うかな…ん、求められていることと求められていないことがあるって感じ」
「…求められていないことはしちゃいけなくて、求められていることをしなくちゃいけない…的な?」
どんな世界にも明確なルールがあって、まぁレールでもいいけど、とにかくそれを守ればいい。笑顔で笑ってうなずいて。
いろは先輩は要約するとそんなようなことを言った。頬杖をついて溜息をつく。
「わたしはずっとそうだったんだよ。なのにさぁ…」
先輩は「なのにさぁ…」の続きは言わなかった。先輩の目に光彩がにじむ。オレンジが揺れて、揺れて、きょろりと窓の外の方を向いた。今日の天気はからっぱれ。
「…いや、私もそう思いますけどね」
おずおずと言うと、先輩は何故か私をふくれっ面で睨みつけた。
「だからそのはずなんだって。不服も不満もないし、それが唯一って感じじゃん。間違いない…間違いがなさそう」
ウソかどうかは鏡を見れば分かる。愛されたかったらルールを守るんだよ。
いろは先輩の何に対してか、あるいは誰に対してかの文句を、私は黙って聞いていた。
ルールは守るためにあるに決まっている。私はここで先輩の話を聞くだけなのもそれは私がルールに従っているからだ。
ルールは守られている。だから私は冗談を吐くし、いろは先輩はいらいらする。
ルールは時々破られる。だから聞こえない悲鳴が聞こえるし、忘れた唄も思い出す。
「なんでわたしが」
不服そうに不満げに、いろは先輩は呟いた。動きにくそうに、もぞもぞと体をよじる。
聞こえない悲鳴が聞こえた気がしたので、私はそっと部屋を出た。
印刷機から生地がぬるぬる出てくるので、それをそのままシュレッダーにかけると、うどんの麺ができていく。そんな妄想をする分にはお腹が減っていた。
購買に行って、生クリーム入りメロンパンと、少し考えてアルフォートも買う。太るかなー、でも、そう、今夜勉強するからその分糖分蓄えとかないとだからね。質量保存の…アレだ。
私は自分がおバカであることは重々承知であるので、おバカの習性に則って行くべき場所へと足を運んだ。
つまり、屋上だ。
屋上の鍵は閉まっているようで実は開いている。鍵というものは閉じるためにあるのか、開くためにあるのか。閉じるか開くか、鍵にどちらか一つだけの機能をつけるとしたら、どちらを選ぶのが正しいのだろう。
どちらが優しいのだろう。
屋上に続く扉を開くと、まだまだゴキゲンの太陽が空を支配しているのが見えた。五月晴れの空はとても遠い。屋上では風が時折強く吹きつける。
絶対届かないよなあ。
手すりに寄りかかってぼんやり空を眺める。届かない届かない。青い空を見て感じるのはひたすらに無力感だ。私が手を伸ばしたところでつかめるものなんて―――――
ふと右手が、購買でもらったレシートをずっと握りしめていることに気づき、手のひらを開いてみる。―――――つかめるものなんて、このレシートくらいなものだ。清算した結果の紙をつかんだところで得るものなんてないけど。
瞬間、一陣の風が舞い、手のひらのレシートは私の手の届かない空に昇っていく。あーあ。最後に買ってもらった入場券を思い出す。遠くに行っちゃった錆びついたアレ。
口笛を吹きたくなるね。
レシートは搭屋の高さまで一気に上がり、さらに上へと昇った。と思ったら、にょきっと伸びた腕が不意にそのレシートをつかんだ。私は驚いて目を瞬く。
梯子を上った給水塔の上、一人の男子生徒がそこでレシートを眺めているようだった。
彼もこちらに気付いたようで、小さく口を開け、落っこちそうなほど勢いづいてこちらに身を乗り出してきた。目を見開いている様子が小動物を思わせる不思議。
「おっす」
軽く手を挙げて微笑む。あわあわと口を開け、彼は
「ひ、ひきぎぎゃやさ……!」
私の苗字の原形をかろうじて残す呪文を唱える。不憫に思って、私はもう一度手を挙げた。リプレイ。人生は一度きりだから、何回でも失敗できるのさ。なんでもネガティブに考えちゃあいけないよ!
「おっす、大志君」
「…お、おっす!」
大志君――――川崎大志はレシートを握った手を挙げ、ほっとしたようにニカッと笑った。ごめん大志君、なんか結構わんちゃんっぽい。
「そんなところでなにしてるの?煙なの?それとも私なの?」
「は?あ、いや、…ん?いや、なんでもないよ!」
何故か頬を赤らめて、大志君はいそいそと梯子を下りだした。最後は飛び降りて私の隣へと着地。それと同時に、大志君の制服のポケットからカシャン、と何かが落ちた。
「あ」
咄嗟に手を伸ばし拾って、それを手のひらにのせてしげしげと見つめる。
ピンクのプラスチックの100円ライターだ。
「…大志君」
説明を求む、と視線を送る。大志君は頬の赤みを広げつつ、口をパクパクさせる。
「…っ、いやっ、違う違う!拾ったんだよ!廊下で!先生に届けるのもちょっと大ごとになりそうだったからさ、どうしたもんかなって、いやほんと、信じて!」
「…」
「そのしらっとした目つきやめて!違うって!てかやっぱちょっと似てんね、じゃなくて、まじで俺はなんにもしてないんだって!プリーズ、ビリーブ、ミー!」
弁解を続ける大志君は耳まで真っ赤になっていた。最早大志君の方がこの100円ライターよりもライターらしいまである。人間ライター川崎大志!…人間ライター大志!…仮面ライタータイシ!…なん…だと。
「なるほど!つまりこれは大志君の変身道具ってわけだ!」
「え」
ぽけっとする大志君に、ライターを渡してサムズアップ。代わりに私はさっきのレシートをもらった。すごくいらない。
「私としたことが、てっきりあの純真な大志君が非行に走っちゃったのかと思っちゃったぜ!ほら、だって、ちょうど今頃じゃなかっ……ぅ」
ぐっ、と言葉を飲み込んだ。飲み込んだ言葉は食道の真ん中あたりで詰まって、息が苦しくなる。プリーズ、ギブミー、ウォーター。
「…確かに、今頃だったね」
私が
「懐かしいな、ちょうど二年前だ。っていうかもうあれから二年?」
あの時は姉弟お世話になりました、とぺこり。いやいや、私取り立てて何もしてないし。大志君に相談されたのをお兄ちゃんにも話しただけ。
「…懐かしいね」
私も大志君の真似をして呟く。うつむくと、校舎の影が思ったよりも暗くて驚く。
大志君はそんな私を横目で見つめ、
「別に笑ってくれなくてもいいんだけどな」
はっとして私は顔を上げる。大志君は片手でライターをもてあそび、ぼんやりと覇気のない表情をしていた。けれどそれは一瞬で、私の視線に、大志君は照れたように笑った。
自分の考え方で世界は変わるか?
世界を変えたいなら僕じゃない誰かにお願いすることだ。
不意に屋上の扉が勢いよく開け放たれた。驚いて私と大志君が顔を向けると、眼鏡をかけた男子生徒が妙に思いつめた様子で飛び出してきたのが見えた。私と大志君がいるのを認めぎょっとし、私たちとは逆方向に走って行く。
「
大志君の知り合いのようで、大志君は困惑した様子だ。
するともう一人、おさげの女子生徒が扉から出てきた。手にノートのようなものを抱えている。私たちには目もくれず、眼鏡の男子生徒の後を追って駆けていく。
「く、来るなぁ!!」
私たちがいるところとは反対側の手すりに到達した眼鏡の―――宇佐君が大声を上げた。おさげの女子生徒がはたと足を止める。あ――――私は気付く。おさげの子は
「き、来たらぼ、僕はここから飛び降りる!!」
「宇佐君!!」
白川さんが悲鳴のように名前を呼ぶ。
「ちょ…おいおい」
そのただならぬ雰囲気に、大志君が二人の元へ走り、おさげの子のところで足を止めた。私も後を追う。
「お、おい!宇佐!なにしてんだよ!?」
宇佐君は額の汗を拭って、大志君を拒絶するように手のひらをこちらに向けた。
「くるなよ川崎!僕はもうだめだ!」
「はあ!?だめってなんだよ!?」
「宇佐君!こんなことやめて!!」
叫ぶ白川さんの肩を叩いて振り向かせた。
「
「あ、比企谷さん…その、こ、これは…えっと」
しかし白川さんはその黒っぽいノートを抱えたまま、しどろもどろで要領を得ない。そうするうちに誰かが走ってくる足音がしたので振り返ると、いろは先輩、それからもう一人、天然パーマの男子生徒が扉から現れた。二人とも走って来たのか、息が上がっている。
この天然パーマの男子生徒のことも私は知っていた。
とすると、宇佐君、も文芸部か。
「宇佐!!生徒会長を連れてきたぞ!馬鹿な真似はやめろ!!」
鶴岡君は白川さんの横に立つと、大声を上げて拳を振った。
「小説を白川さんに見られたくらいで、こんな!!」
「う、うるさい!!鶴岡に何が分かるんだ!!!誰にも見せたことなかったんだぞ!!」
「宇佐君、わ、わたし、なにも気にしないよ!」
「僕が気にするんだよおおおおおおおっ!!」
「…な、なんかカオスなんだけど」
「あ、一色先輩!こ、これどうしましょう!?」
若干呆れ顔な先輩と対照的に、大志君は焦り顔だ。
「えーっと、とりあえずそのノートっていうのは、きみが持ってるそれ?ちょっと見せてもらっていい?」
「え、…あっ」
白川さんが声を上げるのにも構わず、先輩は白川さんの手からノートを奪い、開く。私と大志君も覗き込んだ。
『
「俺の名は人呼んで
「うわあああああっ!!やめてえええええええ!!」
耳を塞いで絶叫する宇佐君。
「「…」」
先輩と顔を見合わせる。なんだ、これ。
「つまり彼はいわゆるあの病気だね」
「そういうことですねえ」
しかも微妙にダサい。
「だ、誰にも見せたことなかったのに!!!!」
一人でヘッドバンギングし始める宇佐君。こう表現すると滑稽かもだけど、かなり悲痛な表情だ。
どうやら宇佐君の書いた小説のようだった。ぱらぱらとノートをめくると、最後の方までぎっしりと小さな文字が書き連なっている。
誰にも見せることなく一人で書いていた作品を、多分、偶然か何かで白川さんが見てしまった。大方そんなところだろうと、わたしは見当をつけた。
いや、それとも――――――
「…お、おい!宇佐!お前文芸部ってことは知ってたけど小説なんか書けるのかよ!す、すげえじゃん!だ、ダークネスとか…」
「やめろバカ川崎このバカ!僕はもうこれを知られたからには生きては行けない!」
宇佐君は腕をぶんぶん振り回すと、手すりの向こう側へと足をかけた。ひゅっ、と息が止まる。場の空気がひやっと瞬間冷却された気がした。なのに、じわりと脇汗をかく。
「あ、危ない!!」
「よるなァ!近づいたら本気で飛び降りるぞ!!!?」
手すりを跨いでわめく宇佐君。近づこうとした鶴岡君は拳を握って止まった。
「う、嘘だろ…こんな…本気で?」
鶴岡君が愕然として呟く。宇佐君の顔は興奮と羞恥で真っ赤になっている。人間ライターだ。
なんて、言ってる場合でもないかもしれない。宇佐君の目は今、ちょっと危ない。冷静な判断力が失われている。
大志君が私の隣でごくり、と生唾を飲み込む。
「…みんなで、一斉に飛び掛かれば」
私の言葉に、先輩は首を横に振った。
「…私たちから宇佐君まで、3m以上はある。それに仮に捕まえられたとして、あんなところで揉み合ったら誰かが危険な目に合うとも限らない」
「あの、わたし、職員室に…」
白川さんがおずおずと申し出る。先輩はうなずいて、手を挙げて注目を促した。
「あー、生徒会長の一色だ。きみ、宇佐君、おふくろさんが見ているぞ。こんなことは―――――」
「いい加減にしろ宇佐、お前、こんなところで本気で死ぬつもりかよ!!」
が、大志君がそれを遮って怒鳴る。それまでとは違う本気の怒声に、私たちだけではなく、宇佐君までぎょっとした様子だった。けれどすぐに持ち直し、噛みつく。
「一番知られたくないことを知られた!こんな気持ち、分かるわけないくせに!」
「分かるわけないだろ!俺はこんなのできない、お前みたいに特別じゃないんだ!」
大志君は先輩からノートをぶんどり、見せつけるように表紙を宇佐君に向けた。宇佐君は鞭で打たれたようにぎくっとして、目を逸らす。
「や、やめろ!そんな黒歴史もう捨ててくれ!」
「これはお前が特別の証だろ!捨てろなんて言うなっ」
「もうやめてくれ!もう…ほんとに!なにが特別だ!なにも特別じゃない!もうこんな僕は嫌なんだ!恥ずかしい僕…気持ち悪い僕が!」
「だからって死んだって来世は多分、またきみだけどね」
ぼそっと低い声で言う先輩。その先輩らしかぬ尖った言葉にどきりとして、思わずその綺麗な横顔を見つめる。
死んだって来世はまた自分?最悪の輪廻じゃないですか、それ。
「は、恥ずかしいと思う僕が嫌だ!特別なんかじゃないと思ってしまう僕が嫌だ!分かりきってしまう僕が嫌なんだ!僕は本物にはなれない!きっとこのままどこにも…」
擦り切れ寸前のかすれ声の悲鳴。
自分の考え方で世界は変わるか?
世界を変えたいなら僕じゃない誰かにお願いすることだ。
私たち全員はその場から全く動けなくなった。
大志君以外は。
「えっ?」
大志君はノートをつまんでぶら下げ、もう片方の手にはさっきの100円ライター。
仮面ライタータイシ、最悪な登場シーンだな。
今、ライターから火花が散る。
オレンジが風に舞い、特別な何かが焦げる。
私たちは唖然としてそれを見つめた。
私たち全員はその場から全く動けなくなった。
宇佐君以外は。
「な…っに、してんっ…だよ!!??」
端っこに火のついたノートから視線を移した私が見たものは、ライターを放り投げた大志君の頬を思い切り殴りつける宇佐君の姿だった。
尻餅をつく大志君。宇佐君は慌ててノートを捕まえると、叩いて消火を試みた。
完全に火が消え、ほっとしたのか宇佐君は大きなため息をついて座り込んだ。
それから自分が囲まれていることに気づき、小さく声を上げた。
白川さんも宇佐君の隣に座り泣き始め、鶴岡君が額の汗をごしごし拭った。
先輩が大志君をじっと見つめ、その大志君は大の字になって寝そべっていた。
…ひどいドラマを見せられた気がした。
「信号が青になったから」
誰かがそうつぶやいた。
「ご迷惑をおかけしました」
文芸部の三人は私たちに散々謝り倒して(特に大志君に)、部室に帰って行った。いろは先輩は彼らに厳重注意と反省文提出を命じて、さっさと生徒会室に戻って行った。大志君の頬の怪我はそれほどひどいものではなかったけれど、少し腫れたので保健室で冷やすものをもらった。
保健室の先生は呆れ顔である。
転びました。
転んでそんなことになるわけないでしょうが。
実は殴られました。恋愛のもつれです。
やっぱり。で、勝ったの?
気持ちは誰にも負けない、そんな所存です。
大志君と先生のやり取りを聞いていて、私たちはつくづく先生と言う生き物に呆れられ続けるのだろう、とそんなことを考えた。
「恋愛のもつれとは、自分でもよく言ったもんだ」
保健室を出て、二人で廊下を歩く。
「あ、気づいてたんだ、大志君」
「…ってことは当たりなんだ?予想してただけなんだけど」
顔に氷嚢をのせたまま、大志君は困ったように笑う。私は口を歪めてうなずいた。
そもそもの事の発端は宇佐君のノートが白川さんに見られてしまったというところだ。でもまずおかしいのが、宇佐君が人に見られるのを
ただ、私たちはその現場を見たわけじゃないから、本当に何かの弾みで、あるいは宇佐君のミス、あるいは偶然。そんな言葉で片付けられなくもない。
でも、「見てしまった」、「見られた」、の二人のほかにもう一人登場人物がいる。
鶴岡君だ。
「あの人、
ようするに、宇佐君も鶴岡君も白川さんのことが好きなんだろうな。
「こんなことになるとは思ってなかった。二人に謝るし、もう二度としない…だって」
「みっともない、とは思えないな、俺の立場としては……」
私の視線を受け、大志君はついと視線をずらした。誤魔化すように慌てて、
「ま、まあ、白川さん、可愛いもんな」
そんな大志君に、なぜか急に私の嗜虐心が頭をもたげる。
「ふうーん。あれ、大志君。私は?」
「いや、比企谷さんはギガ可愛いから比べるのは…ってあ、いや、今のナシ!あ、ナシってわけでもなくて、むしろアリだけどほら、いや…えーっと」
氷嚢を取り落してわたわたとコミカルに動く大志君が可笑しくて可笑しくて愛しくて、私は大きな声で笑った。
「どの子もその子も三角形ばかりだねえ」
「俺はそんなの割と真剣に、嫌だけどね」
さて、大志君と別れた後、私は生徒会室に再び向かった。今日の放課後は特に長かった。あんなにゴキゲンだった太陽も沈み始めている。毎日毎日ご苦労様だ。
いろは先輩はまだいるか、いないか。
「特別な人が自分の旗を隠すところなんか、見てられなかったんだ」
大志君は自分の行動について、こんな言葉を置いて行った。
自分の考え方で世界は変わるか?
世界を変えたいなら僕じゃない誰かにお願いすることだ。
なら、誰に?
やっぱり地味めにノックして、そっと扉を開けた。
水があふれ出て、廊下に流れた。
やっぱり先輩はそこにいた。部屋に置かれた長方形の会議用テーブルの上座。その椅子に今もいた。
ただ、
先輩は泣いていた。
しくしくしくしく、泣いていた。
驟雨を降らせ、生徒会室を水没させようとしている。
「なんで」
先輩がなんで泣くんですか。
見てはいけないものを見ているようだった。
メイクはぐちゃぐちゃ、髪はぼさぼさ、笑ってるのか泣いてるのかもうよく分からない。
まったく、私が知ってる先輩はどこ行ったんですか。
らしくない。
誰かのために泣くなんて、まったく、らしくないですよ。
「声を上げても誰にも聞こえなかったら…ちょっと寂しいな、とか、さ」
そういうこと考えたら、と先輩は嗚咽する。
この水はきっと。
じゃぶじゃぶ、水をかき分けて先輩の元に進む。水面がきらきら光って、波が千切れて飛んで行く。ひらひら飛んで涙の向こう側へ。
「屈折した光でもさ、なんというか…こう、反射角とか…その、上手い具合に調節して」
先輩はなかなか泣き止まない。足首が水没した。このままじゃ私たちは溺れてしまう。
誰もかれも溺れてしまう。
そんなの嫌だから私は懸命に足を動かして、先輩に近づいていく。
ほら、あと少しだ。
私は言わなきゃいけない。
手鏡が必要ですね、先輩。
私が偽物の愛情が知りたくて入り浸る部屋には、奇妙な三角形が描かれていた。
それは不格好で、どこかおかしくて、なにか足りない。
それを隠すように、取り繕うように、見ない振りするように、それでも一緒にいた歪の。
あの人たちと出会っても、私の世界は前と変わらず、厄介で面倒くさかった。
涙はきっと綺麗だよ、バイバイサヨナラ、お兄ちゃん。
というわけで、いかがでしたでしょうか。一応、これは「Butterfly」をイメージして作りました。小町もいろはもボカァ大好きだ。もちろん仮面ライターも。
いくつか、前の話から引用した台詞などがあります。上手い言葉が見つからなかったからとかじゃござりません。本当です。
ご意見ご感想、おまちしております。