思わず笑っちゃう話。
黒い雲が夜空を次第に覆っていくさまなんかは、まるで凄い絶望だ。
「けっこ、本格的に降って来たな」
それは花火大会の帰り道だった。唐突な雨は驟雨と言ったか、駅へと歩いていた俺たちはそれに追い立てられるように歩みを速めた。俺だけなら走れば良かったが、きみは浴衣を着ていた。走るわけにはいかなかった。
駅の構内に辿り着いたときには雨は勢いを増し、誰かの不満をぶちまけるかのように降っていた。雨の粒が見えた。多分世界の丸洗いだった。
きみは怒っていた。俺にはそれが分からなかったのだ。
降りしきる雨のお蔭で、二人の沈黙の距離が消えていたことだけが、救いだった。
無言の二人は雨の音を聴く。あの花は確かに綺麗だったのに。
雨に色はない。
雨に色はなかった。
「何にもできない奴が、何かしようなんて馬鹿みたい」
きみは吐き捨てるようにそう言った。
そして空には稲妻が走るのだ。
小さいころからおとぎ話が好きだった。日本昔話のアニメを録画して見返すほどよく見ていたし、世界の名作童話集等々をお小遣いで集めては本棚に並べて楽しんでいた。桃太郎、三匹の子豚、シンデレラ、花さか爺さん、イソップ物語、かぐや姫、マッチ売りの少女。
信じていたハッピーエンドが確立されたその世界は眺めていてとても幸せで、だから信じられた。信じているから、ハッピーエンドは幸せだ。信じているループがあるから、読んでいて幸せだった。
いつだってハッピーエンドを信じている。
「ハッピーエンド、ですか」
隣の吊革につかまる
「会社員にもな、ハッピーエンドは残されていると思うんだよ」
「そりゃ、なくはないかもしれないですけど。でも、多分僕にはないような気がします」
デカい体を卑屈にすぼめて(それでも二人分ほどのスペースを占領している)、石清水は言った。
流石に定時とは言えないものの、いつもにしては少なめの残業を終えて帰路についた俺たちは、比較的すいている電車に揺られていた。当然、車窓から見えるのはとっぷりとした夜の闇だ。
「というか、ハッピーエンドがあるとしたら、多分大学の卒業…いや、部活の引退…いや、大学の入学式ですかね、僕の場合」
「そりゃ悲観ってもんだぜ、いわしー」
「ハッピーエンドと言うのは、その物語はそこで終わっていてほしいっていう願望じゃないですか。捻くれた言い方をすると」
「考え方の問題だと思うぜ。例えば今日の残業は少なかった。ビール飲んでテレビ見て寝よう。ああ今日は良い一日だった。ハッピーエンド」
「なるほど」
石清水はちょっと笑った。
「じゃあ、
「悪いな、今日はこれから予定があるんだ。また今度な」
そう言う流れじゃなかったんですか、と石清水が肩を落とす。大きな熊が情けないような顔をしているようだった。
「彼女ですか?」
「だったらよかったのにな。先輩の家だよ、大学時代の。前言ったろ」
「ああ、あの社長の友達って言う…」
「そうそう」
「…家帰ったら年上の彼女が愚痴聞いてくれる展開ってどこに落ちてますか?」
「ぶははっ、いわしー、結構面白いよな」
「富山さんほどじゃないです…」
へへへ、と大の大人が二人で怪しげに笑う。俺たちの向かいで吊革につかまっている三人組の女の子がちらりとこちらを見たので少し気まずくなった。三人とも浴衣を着ている。
ああ、そうか、と思った。そう言えば中つりには満開に咲く大きな花の広告だ。
「…花火大会ですか」
石清水も気づいたようで、ぼそっと呟く。
「夏ですねえ」
電車が止まって、開いたドアから人がなだれ込んでくる。なるほど確かに、浴衣や甚平姿がちらほら見られる。
そう言った人たちのお蔭で一気に車内が華やかな雰囲気と変わる。
花火は好きだ。
多分、今でも。
吊革を持つ手に力がこもる。嘘だ、力はちょっと抜けた。
通っていた大学近くの川沿いで毎年行われる花火大会に行ったのは、大学生活2年目の夏だった。
ちょうどテスト期間、暑い日がずっと続いて心身ともに疲労しつつも、これから始まる夏休みへの期待が胸の内で膨らんでいくのをひしひしと感じていた。
5つ目のテストが終わった日のお昼、俺は消費したエネルギーを取り戻そうと食堂へと向かった。経済学棟に一番近い広い食堂はテスト期間と言えどお昼時、混雑はピークに近かった。比較的人の少ない丼類の列に並ぶ。鰹のたたき丼にでもしようか。ざるそばなんかあったらもっと嬉しかったかもしれないけど、ないものねだりをしてもしようがない。
日本人よろしく大人しく並んでいると、背中にイヤに視線を感じる。振り返ると亜麻色の髪の光沢に目を取られた。綺麗な色だ。いつも思う―――忘れていた何かを思い出しそうな色だ。
「…」
「…」
俺と同じく経営学部二年生である、一色いろはという名前のその女の子は、上目遣いでこちらを威嚇するように目を細めている。いわゆるひとつのジト目だった。
「…あー、えと、おっす、一色」
「…おっす、
挨拶を返してもなお、咎めるような視線を外してはくれない。可愛い女の子は怒ったような顔も可愛いのだから世の中は不公平だ。
「…」
「…」
隣に来たのにもかかわらず、一色は何も言葉を発しない。どうしたことか。怖い。
「…なんか、機嫌悪い?」
「べつに」
ものの見事に不機嫌である。それきり一色は黙ったまま視線を前に固定する。
困った。
食堂の列は着実に進んでいるのに、一色がどうして不機嫌なのかとんと見当がつかない。考えられる理由としてはまず大きく分けて二つだ。
一つ目は俺がなにかしたか。二つ目は俺以外の要因か。
一つ目はない気がする。というのも、そもそもここ1週間ほどずっとテスト勉強をしていて一色とはあまり絡んでいないからだ。なら、二つ目か?
大体一色は精神的に結構落ち着いた女の子だと俺は思っている。というかこんな感じで不機嫌さを表に出すことがあまりない。結構、わりと、だいぶ、レアケース。
まあ先輩と二人きりの時はどうなのか知らないけど。
列が進む。生協のおばちゃんから鰹のたたき丼を獲得してお金を払うと、運のいいことにちょうど空いたテーブルに滑り込んだ。一色はカツカレーをトレーに乗せていた。特盛サイズだった。二度見する。やっぱり特盛サイズだった。
俺の向かいに座り、一色は猛然とスプーンをでっかいカレー皿に突っ込み、カレーを食べ始めた。カレー皿は横に丼二つ並べたほどの大きさである。
どうしよう。やべーなんだこの状況。
とりあえず彼女にならい俺もたたき丼を食べる。かつおがちょっと温い。
一色は最初こそ凄い勢いでもぐもぐしていたが、俺が食べ終わる頃には見るからに失速していた。カレー皿はまだ半分以上残っている。汗をだくだく流し、頬を赤らめて(決して羞恥心からとかそんなのではないというのははっきり認識できる)口元を拭っている。
見かねて、コップに水を入れて持って行ってやる。
「さんきゅう」
汗だくの彼女はごくごくごくと飲み干す。今度はコップを四つ持って行った。
「正直ミスった」
「なにしてんの」
しばらく一色は奮闘したものの、やがてお腹を押さえてカレー皿をこっちに押しやった。
カレー皿にはまだ3分の1ほど残っている。カツも未だ三切れほど健在である。丼をたった今平らげた俺にこれを寄こすとは。
この量を平らげるには勇気が必要だ。勇気使用許可申請を出せ。
いいだろう。まかせろ。許可が下りたらしい。勇気を使うときが来た。俺は使っていた箸で引き継ぎを行った。がつがつ。うまーい。がつがつ。うまーい。がつがつ。うっぷ。
「喧嘩した」
残り物に福があると信じて頑張っていると、じっと俺を見つめていた一色が呟くようにぽつりと言った。ハイ了解でぃーす、かしこまりー。
「やっぱり?先輩が何かしたの?」
「先輩は、屁理屈ばっかり言う」
「先輩」とは、
去年の冬、教室での一色の状態を先輩に話したあと、先輩は急に俺たちの講義にやってきた。
ずっと一色の方を見ていた先輩は、講義が終わるとすぐさま一色を連れて外に出て行った。気になったからあとから二人を探し回って、やっと見つけた公園のベンチで――――二人は子供のように泣いていた。
詳しいことは聞いていないけど、二人には高校時代色々とあって―――こう表現するとまるで恋愛関係にあったみたいだけど、そうではなかったらしい。というより先輩の方に色々と問題があったようなんだけど…
――――なんとかして、先輩の鼻っ面をぶん殴ってやりたかったんだよね。
あとから、一色はそんな風に言っていた。
一色は一年生の最初の飲み会での揉め事が起きた時、努めて悪役を演じた。それがなぜ先輩の
そして、夏、真っ盛りである。サマーヌードである。恋仲である。好きな人がいることである。
「ハッサンは屁理屈製造機だからなァ」
「うんちょっと待ってごめん、“発散”ってなに?」
「ハッサンはハッサンだけど」
「…まさかとは思うけどさ、先輩のこと言ってんの?」
「いや、まさかって言うほどじゃないでしょ。分かりやすいニックネームじゃない?」
「いやいや、意味わかんない」
「意味わかんない?比企谷センパイの下は八幡じゃん?だから――――」
「いや、由来に関して説明を求めたわけじゃなし…」
一色が呆れたように手を額にやる。今の会話のどこに呆れる要素が在ったろう?一色のニックネームも考えた方が良いだろうか?
「話し戻すけど富山祐樹くん、きみ、先輩に最近何か余計な事言わなかったかい」
「余計な事ってなに?」
「それはなんというか、…いわゆる…」
目を泳がせて口ごもる一色。一色いろは…いっしきいろは…いろは…はっちゃん、とか。センスないか?いや、あるね。それある。
「たとえばわたしのことについて、とか…」
「え、ハッサンに何か言われたの?」
「………言われたと言えば言われたし、言われなかったと言えば言われなかった」
「えらくややこしいな」
俺が笑うと、一色も思わず、と言った風に頬を緩ませた。
「そもそも、なんか最近妙なんだよね。先輩」
「妙って」
「動きが怪しい」
「ハッサンは基本的に、怪しい」
「まあ、そうなんだけど」
そういえばこの間は愛想笑いができないって悩んでいた。その日のバイト中、俺をお客として愛想笑いのデモンストレーションを繰り返しやった。終始笑かしてもらったのはこっちの方だった。
「でも相当レアだけど、素直に笑っているハッサンを見るのは好きだな」
俺が何の気なしにそう言うと、一色は完全に引いていた。うわぁ…と言う顔をつくり自分の身体を抱き締めている。慌てて弁明に走る。
「いやいやいや、今のは別に深い意味は無いからね!?」
「う…うん、大丈夫、わたし気にしない…」
「目を逸らさないで!こっち見て!俺は女の子大好きだよ!」
思わず声を上げてしまった。周りの学生が一斉にこちらに注目し、俺は顔が赤らむのを感じた。
きゃらきゃらした女の子の集団が俺たちのテーブルの傍を通り過ぎていく。同じ学年の同じ学科の集団だ。俺に軽く挨拶をして行ったけれど、一色のことはまるきり無視していた。
でも、侮蔑や嘲笑よりもまだマシだ、と思う。
一色に対して一年ほど続いた敵意も悪意も、今ではすっかり薄れつつある。
持続しない。
気持ちも、記憶も、風化していくのだ。
あの時、比企谷先輩が一色を連れ出してくれて良かったと、心から思う。
俺は時の経過を只見ていることしかできなかった。今も、昔も。
―――――ね、祐樹。
俺の中には小さなコンポがあって、そこにはCDが一枚入っている。
「…女の子大好きなのかー、富山は」
にやにやして先ほどの話をぶり返す、一色のその笑顔はどこか小悪魔めいている。
「…そ、そりゃあ人並みにはな」
俺の向かい側に座った彼女はずずいとこちらに身を乗り出した。
「聞いたことなかったけどさ、高校ん時とか、彼女いたの?」
目がぴかぴかりと輝いている。俺はその輝きに少し辟易し、誤魔化すように笑ってみせた。
―――――できればこのまま曖昧でいたいってだけでしょ?
そのCDの中には録音されたあの子の声が入っていて、繰り返しリピートされるのだ。
「いや、まあ、いなかった―――かな。つーかそっちはどうだったんだよ」
「わたし?そりゃあもうとっかえひっかえ」
「ウソばっかし…」
「嘘じゃないしぃー」
「じゃ、ハッサンのことはいつから好きだったの」
危うく飲んでいた水を噴き出しそうになって慌てて口をふさぐ一色。頑張って飲み込んで、
「いやいやいや、す、す?いや、何言ってんの?」
口早に言ってわたわたと手を振る。
「てか先輩とかまじでないから。アウトオブ眼中だから。ほんとありえないから。屁理屈製造機だし」
「わざわざ大学まで追いかけてきたくせに何言ってんの?」
「ちがあああう!それはっ!てか先輩がここの大学だったとか知らなかったし!」
「ウソにしてはバレバレだし、言い訳にしては苦し過ぎるぜ」
頬を赤くしてなおもぶつぶつ弁解と先輩への悪口のようなものを言い続ける一色。今までの行動と言動が矛盾しまくりだけど、わざと言ってンのか、こいつは。
ふと気づくと、一色はスプーンを片手でもて遊びながら、妙に沈んだ顔をしていた。
「…でも、ホントのところ、わたしはそういうんじゃないんだよ。先輩の中で」
「……」
「わたしと先輩は、そう言う風にはならないんだ」
先輩には、もっと他に考えなきゃならないことがある。
どこか憂鬱で寂しげな笑みを浮かべて、一色はそんなことを言った。
いったいどんなことがあったら、この人たちはこんな風にこじれるんだろう?
この人たちの物語のかけらをひとつひとつ知っていきたい、と思った。
今までどうしようもなく全自動で続いてきたのだとしたら、手動に切り替えて。
俺の中のコンポは鳴り止まない。だからまた眺めるだけ。
それなら俺は。
「……今週末」
「え?」
「今週末さ、花火大会あるだろ」
「うん」
「暇だったら、行こうぜ」
正面の綺麗な顔が、ぽかんとしているようだ。
それなら俺は、今度こそ、やるんだ。
間違いのないように。
これはクソ何にもできない俺の贖罪なのだ。
「どうなってんすか、ハッサン」
「だからその呼び方はやめろ…」
駅前を少し歩くと見つかる小さな古書店。知っている人は知っている。知らない人は見向きもしない。そんなおんぼろな、ええと、歴史ある店だ。
店同様、店長も相当なおじいちゃんで、一年ほど前に仕事中腰をやってしまったためバイトを募集したのだった。それに応募したのが俺。先輩は一年生の頃偶然ここを見つけて働き始めたらしい。今では店長よりも店に詳しいといってもカゴンではない。カビゴン。
比企谷先輩は少し長めの前髪をしきりにいじっている。
「いろはっちゃん、しょんぼりしてましたよ」
「え」
「しょんぼりしてカツカレー特大食ってました」
「それはな、富山。世間一般にはしょんぼりしてるって言わないんだ」
先輩と並んで棚の整理を行う。バイトに入りたての頃は古書独特の掠れた文字を読むだけでひと苦労だったけれど、今では大体慣れて、比較的スムーズに並べることができる。時折どこから出てきたんだ、というような本がひょっこり棚の奥から出てきたりして面白い。
「世間一般の話をしてるんじゃないですよ、いろはっちゃんの話ですよ」
「というか、いろはっちゃんってなんだ」
「じゃ、いろはにしますね。先輩、いろはになんか変な事言いました?」
俺が一色を名前で呼ぶと、先輩があからさまにムッとしたのが分かった。もっと正確に言えば、ムッとしたのを悟られまいと努めて平静な顔を作っているのが分かった。ろくでもない、先輩も、俺も。
「別に変なことは言ってないが」
「じゃあ、先輩が変なんですかね」
「えっ…ひどくない?」
「つうかまだ告ってなかったんスか」
「ばっかおまえ、常に告ってるよ…黒歴史を」
「そういうのいいですから」
「あっ、ハイ」
あの冬の出来事以降、二人の関係はさらに微妙なものになっていた。友達でもなければ恋人でもない。知り合いと言うには親し過ぎて、他人と言うには寂し過ぎた。
見ていてもどかしい。けれど、こういうのは他人がしゃしゃり出るものでもない。他人の恋を応援するなんて輩にろくな奴はいないのだ。当人からしてみればそう言うやつが一番面倒くさい。邪魔なのだ。ほっとけよ、って。
気が付けば俺は、先輩に二人の喧嘩の内容をこと細かく説明されていた。
「…んで、あいつが急に合コン行くとか言い始めて」
「いや、そこは止めましょうよ」
「いや、別に俺がそこでどうこう言う筋合いないだろ…」
「いや、明らかそれ、止めてほしいやつじゃないスか。先輩が悪い」
はたきで棚の埃をぱたぱた落とすのを中断して、俺は先輩にまっすぐ向き直る。
「あのですね先輩、その合コンで一色さんに言い寄る輩が出たらどうすんですか。てか絶対出ますよ」
「絶対とか軽々しく使うもんじゃねえ。責任取れねえぞ、絶対」
「うわーまたそうやって話逸らす」
先輩は俺がまっすぐ見つめると必ず視線を逸らす。
今も顔ごと逸らした。そのしぐさが誰かと重なって、俺は思わず、
「後悔してからじゃ遅いんスよ、絶対」
「…んなこと、分かってんだよ」
痛みをこらえるように眉をひそめて、先輩は返した。
―――――まあ、祐樹にそういうの、期待しちゃ駄目だって分かってたけど。
俺の中のコンポは停止ボタンが壊れていて、リピートは今でも止まらない。
勇気を出さないことが、時には人を傷つけることにつながるのだ。
「………まあ、その合コン、俺も行くんスけどね」
「…………お、おう」
「……………ぶはっ、なんスかその表情!写メって一色に送るんでそのままでおなしゃす」
「ヤメロ!」
店の外は日差しがまだまだ強い。最近は日が落ちるのも遅い。昼が長くなり、夜が濃くなる。こんな日はきっと、花火が綺麗だ。あるいは花火じゃなくても、ああ、まあ、蛇足。
あーあ、楽しい。
あちい、と先輩が手で顔をあおいでいる。
「先輩、今年の夏は一緒に頑張りましょうよ。なけなしの勇気を振り絞って」
「やだよ、暑いし」
「花火行きません?」
「は?お前と?」
「俺、同じ学部で良いなって思う子いるんですけど、協力してほしいんですよ」
先輩がひきつった笑みを浮かべる。どうやら察したようだった。俺はへらへら笑う。
目の前の女の子のこと以外に、考える必要があることが他にあったっけ?なーんて、俺が言うのもなんだけど。激しいブーメランだ。
「“四人”で行きましょうよー、HANABI」
「めんどくせえ…」
しゃべってないで仕事しろ、と店の奥から店長がプリプリ怒っている。
自分の中のコンポを叩き壊したいと思うことは何度もあった。
叩き壊すには例のアレが足らない。
せめてぶっ壊れた停止ボタンを修理したかった。
修理するには例のアレが足らない。
俺には足りないものだらけでいい加減イヤになる。
コンポのフタを開けたんだ。そしたら、
その花火大会の当日と言えば、俺は一人で人ごみの中をフラフラと歩いていた。
河原に向かって、出店の間をぞろぞろと歩く人々。来る人来る人男女二人組で羨ましい限りだ。親子連れ、男集団、女二人、小学生たち、なんてのも見かけるけれど。やはり男女という組み合わせが一番目に留まる。
その中でふと、水ヨーヨーの出店の前にいる女の子に目が向いた。おかっぱ頭、さらに横顔の幼さから見るに小学生だろう。一、二年生あたりだ。可愛らしい水色の花柄の浴衣を着て、立ったまま真剣な様子で水ヨーヨーが入ったプールをじーっと見つめている。やろうか決めかねているのだろうか?鉢巻を頭にまいた出店のオッチャンが手持無沙汰な様子。
気まぐれで、人の波を外れてその子の隣に行った。オッチャンが無愛想にこちらをじろっと見る。勇気の使いどころと言うやつである。
「おねーさん、一人?よかったら一緒に遊ばない?」
人生でまさか自分がこんなセリフを使うことになるとはなァとおどけて声をかけると、女の子はこっちを見て、それから驚いたように少し目を見張った。あ、そう言えば俺、今金髪か。怖がらせちゃったか。
だがそんな心配は杞憂だったようで、女の子は相好を崩してうなずく。
「うん、いいよ!」
オッチャンと俺は慌てた。
「いや、あのね、そう簡単に…」
「ヨーヨーすくい、やろうっ」
「い、いいよ」
慌てたまま、財布から100円を出してオッチャンに渡す。オッチャンも慌てたままうなずいてこよりを一つくれた。
女の子はプールを観察している。俺もプールを眺めて、狙いを定めてこよりを投下した。慌てたせいか、俺のこよりはヨーヨーを引き上げるときにあっさり千切れた。根性を見せろ、根性を。
女の子はくすくす笑い、手持ちの巾着からがま口を取出して100円をオッチャンに渡した。
「わたしもやろうっと」
プールの前にしゃがみ込んで、こよりを慎重にプールに落とした。
それからというもの、女の子のこよりは鬼神のごとき働きようを俺とオッチャンに見せつけた。この女の子こそ、のちの水ヨーヨー世界選手権3連覇を成し遂げる水ヨーヨー絶対女王である。
色とりどりの水ヨーヨーが10個ほど強奪されたあたりで、いけないこれ以上はオッチャンが萎れてしまう召されてしまうと俺が女の子を止めた。オッチャンは慌てていた。
女の子は収穫した水ヨーヨーを2個だけ除いて、あとはオッチャンに返した。残されたヨーヨーは二つとも水色だ。両手に持ってパシャパシャと遊ぶ。微笑ましいのである。俺、変質者に見えないよな?
「一人で来たの?」
「ううん、友達と電車で来たよ。でもみんなどこか行っちゃった!」
「きみが迷子ってことだよね、それ。何年生?」
「わたしは四年生だよー」
「えっ、二年生くらいかと思った」
つーことは10歳とかそこらか。
「若く見えますね、おねーさん」
「よく言われる」
至極真面目に女の子はうなずいたので、俺は思わず笑ってしまった。女の子はなぜ笑われているのだ、と言うように首を傾げて、それから水ヨーヨー片方を俺に差し出す。
「1個あげる」
「ありがとう。水色が好きなの?」
「これはね、空色なんだよ、ホントは」
「ほほう。空が好きなのかい」
「空は良いっ。広いし」
きっぱりと言う。綺麗だからとか、気持ちいいからとかなんて言う理由ではない点が、この子の長所だと思った。
「あと、花火とか見れるし」
にかー、と笑みを浮かべ、ヨーヨーをパシャパシャする女の子。女の子の浴衣の色が空色ならば、その柄である花は実は花火であるのだ、なんて。
「雷とか、流れ星も見れるし」
女の子はそれから刹那的なものを挙げ連ねる。俺の中のコンポが音を立てる。
「雷かァ」
「雷、嫌い?」
「昔好きだった女の子がさ、雷みたいだったんだ」
「へへ」
俺の突飛なカミングアウトに、何故か女の子は照れたように笑う。
「じゃあきっと、かっこよかったんだね」
「そうだね。俺はすっげえカッコ悪かったけど」
確かに、俺は憧れていたのかもしれない。女の子の言葉にうなずく。そして、小学生相手に何を喋ってるんだと我に返り、恥ずかしくなる。
それにしても、アキもトモちーもどこ行っちゃったのかなー、と女の子は人ごみの中をきょろきょろする。あ、一応、気にはしていたのね。
もうすぐ花火が始まる。先程からポケットに入れた携帯のバイブが鳴りっぱなしだ。どうせ先輩と一色が交互にかけているに違いない。さっきちゃんとLINEしたのに。液晶画面を確認すると、着信は「比企谷先輩」。通話ボタンを押すと、先輩のくぐもった声が聞こえてくる。
『…今どこにいんの。もう一色来てるんだけど』
「いやーすみません、ちょっと今ナンパ中なんで、先行っててもらって良いスか?」
『なにが難破中だ、海上にいるのかよ』
「やっぱこの夏、一人身はツラいものがあるかな、と」
くだらない駄洒落を言うゆとりはあるって?
『……つーかさ、気、回しすぎだろ。こんなベタな手ぇ使いやがって。なんなの?そういうのやめろっつーの』
ちょっと怒気がこもっている声だ。まあ、気にしないけど。あくびだ、あくび。
「勇気の使いどころですよォ、先輩。寂しいのもまぁ、大事ですけどね」
『一人でも寂しくねえよ、別に。俺はずっとそうやって…』
「じゃあ、二人なら寂しさ二倍ですね!」
俺の言葉に、先輩は押し黙る。電話の向こう側も、こちらと同じで騒がしい。
今、ちょっと先輩が笑った気がした。
一人は寂しいけれど、稲妻は決して消えずにずっとそこにある。
稲妻も、花火も、流星も、綺麗だ。
『…寂しさ半分、じゃねえのかよ』
「知らないですよ、試したことないんで」
先輩はちょっと黙って、それから電話を切った。試してみるんだろうか。
見ていてもどかしい。けれど、こういうのは他人がしゃしゃり出るものでもない。他人の恋を応援するなんて輩にろくな奴はいないのだ。当人からしてみればそう言うやつが一番面倒くさい。邪魔なのだ。ほっとけよ、って。
ただどうやら、俺はろくでもなく、一番面倒くさく、邪魔なヤツのようだった。
溜息。他人の形を、「こうあるべきなんだ」なんて思ったのは初めてだったのだ。
―――なんで私が怒ってるのか、祐樹、本当は分かってるんでしょ。
泣かせちまったあの子。俺が何にもできないばっかりに。
「ねえねえ、わたし、そろそろアキたち探しに行くね」
俺のズボンの裾を引っ張り、少女は言う。俺が電話を終えるのを律儀に待っていてくれたらしい。頭を撫でたくなって、けれど流石に思い留まる。
俺一人にできることは、案外、驚くほどに少ない。新しい装備を買うお金もないし、新しいスキルを身に着ける時間もない。このRPGを生き抜くには少々心もとない。
でも、寂しさはきっとみんな同じだから―――――
「じゃあ、俺も手伝うよ、探すの」
―――――空が好きな小さな女の子の手助けぐらいは、してあげようと思ったのだ。
コンポを開けたらCDが宝石になっていた。
車内の人口密度が高まり、華やいだムードが漂う。花火大会かぁ、いいなぁ、一人で行ってみようかしらん。それは流石に悲し過ぎるか…。
富山先輩はそれから何か考え事を始めたのか黙ってしまった。富山先輩はお洒落な赤色の眼鏡をかけていて一見軽薄そうに見えるけれど、実のところとても親切で優しい人だ。以前働いていた会社の上司に辞表を提出するとともにナックルパンチを喰らわせた経歴の持ち主とはとても思えない。
先輩が中途採用で入社した時期と、僕が新卒として入った時期は実のところあまり差はないのだけど、先輩にはずっと世話になりっぱなしだ。僕は先輩がいなければとっくに社会人をやめてフリーターになった挙句宇宙飛行士でも目指してしまっていたに違いない。
暇になり吊革で片手懸垂を試みたけれど、迷惑になりそうだったのでやめた。代わりに、富山先輩の後ろにいる女性に目を奪われる。濃い紫色の浴衣が、雪のように白い肌に映える。背筋がすらっと伸びていて、着物を着慣れている感じがする。びっくりするほど美人だ。
隣にいる女の子も浴衣を着ていて、こちらは少女と言った感じで可愛いらしい。おさげが似合う。にこやかに談笑する二人。年齢差があるようだけど、姉妹だろうか。多分一人は僕より年上で、もう一人は僕より年下だ。
急激に寂しさに襲われて、僕はぱちぱちと瞬きをした。
「花火、楽しみだなあーっ」
「そうね。私も実際に見に行くのはいつぶりかしら」
「花火も大事ですけど、夜店も外せないですよね!」
「私、実はあまりしたことがないのだけれど」
「ええ!?」
そんなバナナ、と僕より年下の方が悲鳴を上げる。
「それは損してますよ、絶対!楽しいですよ、水ヨーヨーすくいとか!」
聞こえてきた二人の会話に心の中で相槌を打つ。確かに、水ヨーヨーもそうだけど金魚すくいとか、あと射的とかもよくやったっけと思い出す。遠い夏の記憶だ。しみじみ、したくない…まるで大人じゃないか。
涼しげな水色の浴衣を着た女の子は、楽しそうに語り続ける。
「わたし、水ヨーヨー、得意なんですよ!」
ふと富山先輩を見ると、顎に手を当て、何やら難しそうな顔をしている。
「どうかしました?」
何か不安になって声をかけると、先輩は首を振る。
「いや、別に。手土産に水ヨーヨーでも持っていこうかなと」
「ああ、
先輩はうなずいて、それから、こらえきれないとばかりに吹き出した。えっ、えっ、なんで?僕、何か変なこと言った?
くっくっと笑いつつも、富山先輩は口に手を当て意味ありげにうなずく。
「勇気を使う時が来たのかもしれないと思って」
先輩のことは時々よく分からない。暑さにやられたのかな、とぼんやり思う。
ハッピーエンドには勇気を使う必要があるんだろうな。というわけで、「宝石になった日」でした。いや、いろはが会いに行ったとしても八幡はいろいろグズグズしそうだな、と思ったのでこんな感じに…や、でも意外とあっさり決断できるかもしれないからあるいは…何が言いたいかと言うと花火行きたかったです。
追記:9月4日、読み辛かった空白部分削りました。