一話目とは時系列が違います。
高校二年生の妹と弟の、帰り道の話。
よっしゃあ!
思わずガッツポーズしてしまう。隣の席でサッカー部の友達がうんざりした声を上げるのを聞き流しつつ、俺は窓の外を眺める。
灰色の空から、雨が落ちてきていた。
雨音をききたい
高校二年生になった俺の放課後は特に面白味もなく、塾のある日は塾に直行し、バイトのある日はバイトに直行と、およそ青春ラブコメからほど遠い位置にあった。
部活に入るでもなく、生徒会など何らかの形で学校に関わるでもない毎日は、まあ、灰色と言われても仕方ないかもしれない。けれど――――
けれど、ことに雨が降る放課後においては、ちょっと訳が違った。
ホームルームが終わると友人たちへの挨拶もそこそこ、教室を出ると一階の図書室の、生徒玄関が見える場所でスタンバイ。携帯をいじりつつ、目当ての人物が現れるのをそわそわ待つ。
俺と同じく放課後の学校に用のない生徒たちがわらわらと手に手に傘を持ち生徒玄関を出ていく。目当てのあの子はまだ来ない。いや、まだ焦る時間帯じゃない。のんびり待て――――
来た!ここからでも良く見える、透明なビニール傘を手に曇天を大きな目でひとにらみ。間違いない。
素早く立ち上がると、俺は「廊下は走らない」規則の限界に挑むかのごとくスピードで生徒玄関に向かった。
そのスピードを維持したまま玄関に到着、靴を履きかえ、傘立てから傘を引き抜き、正門に向かって歩いているその後ろ姿に大急ぎで、しかもそれを気取られないように声をかける。
彼女が振り向く。
俺の姿を認め、彼女は―――比企谷さんは猫のような愛くるしい顔に大きな笑みを浮かべた。
「や、大志君。今帰り?」
雨の中、ありふれた通学路を、歩幅を合わせて二人で並んで歩く。
比企谷さんとは中学生の時塾が同じで、共に今通っている総武高校を第一志望にしていた。で、去年、二人とも無事合格。去年は違ったけれど、今年になってクラスも一緒になることができた。
中学生の時からなんとなく馬が合って、姉の事とか相談したりするほどの、そこそこ気の置けない―――だと思ってる――――であってほしい―――関係である。
ちなみに俺とは違い、彼女は生徒会に所属している。快活で誰にでも明るく接することのできる、人望も厚いとても良い子だ。間違っても灰色なんかじゃない。
比企谷さんはややオーバー気味に溜息をついてみせる。
「やー、雨は嫌だねー。気分的にとかも勿論だけどさ、自転車に乗れないってのが一番の弊害だよ!」
比企谷さんは自転車通学だった。大抵は誰とも寄り道なんてせず、一人で颯爽と自転車で帰る。けれど雨の日は―――彼女の言うとおり、自転車には乗れない。
俺にとっては弊害どころか…弊害の対義語ってなんだ?恩恵?そうだ、まさに神の恩恵、恵みの雨。雨は古くから人間に恩恵をもたらしてきた。つまり雨は歓迎すべきものなのだ。
「今日は生徒会もないから早く帰れたのにさ」
「ああ、だから今日は帰り、早いんだ」
我ながら白々しい、と思う。とっくにそんなこと確認済みなのだから。
…笑ってくれていいよ。
はたから見たら、さぞかし滑稽に映っていることだろう。
雨が降る日を心待ちにして、天気予報を毎日チェックしたり。最早雨雲レーダーとお友達になったまである。
生徒会に入っている友達に生徒会の情報を逐一聞き出したり。そいつには俺は一色先輩のファンってことになってる。
同じクラスなのにも関わらず、あくまで偶然を装って声をかけたり。偶然は大概の場合必然だったりもするものだけれど。
全く俺も馬鹿な男子の一人だ。笑ってくれていいよ。むしろ笑ってくれた方が気が楽だ。
比企谷さんは俺の内心の葛藤などいざ知らず、あっけらかんと話し続ける。くるくると表情が変化し、比企谷さんはいつも楽しそうに話す。見ていて飽きないというかずっと見ていたいというか。…いや、今のはキモかったか。
「今日仕事がないのもさ、会長がまた一人でたったか仕事終わらせちゃったからなんだよね。可愛くて仕事もできるってもうさいきょーだよね!」
比企谷さんはビニール傘をくるくる回して、目をきらきら輝かせる。
「…ああ、うん、すごいよね、一色先輩って」
生徒会長の一色いろは先輩は、一年生の秋から生徒会長を務めている。一種のカリスマ性からか、下級生の間では男女ともにあこがれの存在だった。
「私が言うのもなんだけど、自慢の会長だよっ!」
にこっと擬音が出るような、明るい笑み。いつもならその笑みを見て心が浮き立つけれど――――でも、今日は、ちょっと違う。
でも、今日は、ちょっと違う。
…気づかれないように遠くで見つめてるような、そんな馬鹿な男子だからこそ、気づくことは、多少なりとも、ある。
「やっぱさ、私としてはいろは先輩には憧れるってゆーか理想ってゆーか…」
喋り続ける自分の横顔を俺が見つめているのに気付き、比企谷さんは、ん?と首をかしげた。
「なに?どした?」
きょとんと首をかしげるさまは、ぱっと見じゃいつもと変わらないようにも見える。
…たとえば。
たとえば、ここで、無難な相槌なんかじゃなく。
たとえば、ここで、一歩踏み出した台詞を言えたとするなら。
…や、まあ、どうせ言えないから、その他大勢の男子なんだけど。
でも、もし、言えたなら、俺は、比企谷さんの世界の、その他大勢じゃなくなるんだろうか?
…なんてことを想像する。
でも、比企谷さんのその笑みは。
やんわりと、しかし確実にそれを拒否しているような気がして、
―――――なんで、君は、何も言わない?
―――――やっぱり、聞いていたんじゃないのか?
喉まで出かかったその言葉を、飲み込ませるには十分だった。ちょっと笑って首を振る。
「や、なんでもないよ」
「ふーん、そう?」
比企谷さんは追求したそうな顔をしたけれど、すぐにやめて前に向き直った。
俺も話題を探そうと思ったけれど、頭が良く回らない。俺たちは黙って、ただ雨の音だけを聞いて歩く。
雨はしとしと、という擬音語がぴったりな具合に降っていた。
その音が、やけに胸をざわつかせる。
俺はまたくよくよと悩み始めた。もやもやと雨雲が俺の心の内にもかかるようだ。
あのとき、比企谷さんは俺と二人の女子のすぐ近くにいた。
だけど、あのときの購買は人も多くてがやがやとかなり賑わっていた。あの距離で話が聞こえていたかどうかわからない。
でも、もし、聞こえていたとしたら?
確認してみればいいのか?「今日昼休み購買にいたよね?」って?
「――――比企谷さんの、お兄さんってさ」
「うん?」
半ば無意識に言葉をこぼしていた。俺は慌てて取り繕う。
「あ、いや…えっと、比企谷さんのお兄さんって、確か、今、」
「…うん。千葉じゃない、遠い大学に行ったよ」
視線はまっすぐ前を見たまま、比企谷さんは少し困ったように笑った。それから視線をちょっと下に落として、うつむく。さらさらとした髪が比企谷さんの横顔を隠した。
「もう、帰って来ないかも…」
「…えっ?」
「なーんてね!そんなわけないじゃーん!」
俺の反応が面白かったのか、けらけらと笑い比企谷さんは俺の肩を軽く叩いた。
「いや、てか、むしろ帰って来なくてもいーよ、あんな兄はさ!ちょっと千葉から離れて鍛えられると良いんだよっ」
「そんな乱暴な…」
家にいてもしゃーないって!と言いつつ、比企谷さんはどこか楽しげな様子だ。やっぱり比企谷さんの中で、お兄さんの存在はかなりのパーセンテージを占めている。
「大志君は?お姉さん、最近どお?」
「あー、うん、すげー頑張ってるよ。バイトとか。ほんと。つかちゃんと大学行ってんの?ってぐらいしてる」
「あはは、いいなあ、働くお姉ちゃんって。ウチの愚兄に見習わせたいよー…ホントにね、あの兄はね………とおっ!」
比企谷さんは急に何かを振り払うようにジャンプすると、少し前へ着地した。どうやら歩道上の白色のタイルに飛び移ったらしい。
「ほら、大志君も!白色が踏んでいいタイルで、灰色はダメなやつね!」
「は?え?なに?」
足元のタイルを指さされて、俺は面食らう。
俺たちが歩いていた歩道は白色と灰色の正方形のタイルが敷き詰められていて、二色ともランダムにちりばめられている。いや、若干白の方が少ないのか?タイルは俺の足の大きさほどの大きさだ。
俺はやがて比企谷さんの意図を理解し、前方にあった白色のタイルに飛び乗る。
白いタイルのみを跳んで渡り、灰色は踏めないものとする。俺達の空想の中で、この歩道の足場は白色のタイルだけ。灰色のタイルは底の見えない落とし穴だ。
「ほら、いっくよー、先に落ちた方が負けね!あ、そうだ、ちなみにマンホールはセーフです!」
ぴょんぴょんとびながら、比企谷さんは無邪気な笑みを浮かべる。
それから俺たちは半ば夢中になってその遊びに興じた。高校生にもなって歩道でぴょんぴょん跳ねることになるとは思いもしなかった。まるで小学生の通学路だけれど、比企谷さんが跳ぶたびにスカート近辺が非常に気になってしまうなどの点においては男子高校生丸出しだった。あっ、見え…ない!微妙に見え…ない!
なにか誤魔化されたような気がしないでもないけれど、水たまりに足を突っ込んだ俺を見て爆笑する彼女を見ていると、どうも追求する気が起こらないのだった。
…だから?
だから何もしない?何も触れないまま、このままでいるのか?
そっとしておく優しさ。触れないでおくという優しさは、ある。
今日の昼休み、購買で、同学年の女子が、君のお兄さんの噂を―――ちょっと眉をひそめるような、嫌な感じの噂を―――していた。
あれ、きっと、君にも聞こえていたんだろ。君もそこにいたよね。
比企谷さんのお兄さん。もう卒業しているというのに、いまだに悪く言うやつはいる。最早噂レベル、話に尾ひれがついて都市伝説並の信用度、だとしても。
でも、比企谷さんにとっては大事な人のことのはずで、だから、それを。
俺がねーちゃんのことを悪く言われたら、なんて考えたくもない。それと同じで。
…やっぱり、自分から踏み出さなきゃ、何も変わらない。
なけなしの勇気を振り絞って、言うんだ。言葉にするんだ。
聞いてたかもしれないし、でも聞いていなかったかもしれない。
関係ない。
口を開け。
「比企谷さん、あのさ――――」
「あ、大志君あっちだよね?今日、塾あるんでしょ」
軽やかな声に遮られ、前を向くと、比企谷さんが交差点の前に立っていた。交差点の向こう側を見つめている。
いつの間にか俺達は、灰色と白色のタイルの歩道を抜けていた。
「私、あっちだからさ」
右を指す比企谷さん。
「あ、えっと」
目の前の信号は赤から青に変わり、俺をせっつくようにぱっぽぱと間抜けな音楽が流れだす。
何も言えないまま比企谷さんを見つめていると、彼女はぷっと吹き出した。
「なに?どうしたの?行かないの?」
「あ、いや…うん」
信号機と比企谷さんを交互に見つめ、俺は。
彼女は首をかしげる。
「…また、明日」
「うん、じゃあねー」
俺は比企谷さんを置いて、交差点の向こう側に渡る。
信号機の間抜けな音楽を背に、俺は密やかに溜息をついた。
比企谷さんに一言、尋ねるだけでいい。
でも、それでなにか事態が変わるのか?比企谷さんの回答なんて分かりきってる。それぐらい、俺にだって分かる。比企谷さんはそんな女の子だ。
比企谷さんは俺の言葉なんか多分、必要としていない。
比企谷さんの世界はきっと、俺がいなくても成立している。
その事実は少しさびしいけれど、でも、彼女はずっとこうして生きてきたわけで。
でも、そうやって彼女が誤魔化さない、「その他大勢の人」以外の人になりたいな、とか。
俺はそんなことを、わりと真面目に、考えていて。
世界の色を変えたいぐらいには真剣に、考えていて。
背中の信号が点滅し、青から赤へと、進め、から、止まれ、へと―――。
彼女は笑っているだろうか?
振り向く。
彼女はビニール傘をさしたまま、くるくる回して、マンホールの上に立っていた。
マンホールは、セーフ。
でも、その先には?
うつむく彼女の目の前には、もう、次のマンホールはなかった。
なにが優しさだ。臆病なだけだろ。
向こう側に彼女がいる。
比企谷さんは俺の言葉なんて必要としていない。
分かってるんだ、でもさ、比企谷さん。
雨はもう、とっくに上がっているだろ。
その傘が邪魔で、あなたの顔がよく見えないよ。
笑ってなくていい。
笑ってなくていいから、その顔を見せてくれたら、嬉しいんだけど。
比企谷さんの笑顔は好きだけど、実は笑顔以外も、ていうかそれ以外を見たいんだって。
もうすぐ、信号が変わる。
そしたら俺は、向こう側に歩いていけるだろう。
そこで待ってて。
今、水彩で描かれた世界の色が変わる。
前話よりだいぶ短くまとまりました。
BUMP OF CHICKENの六つ目のアルバム「COSMONAUT」に収録されている「ウェザーリポート」をイメージしたSSでした。高2の大志君と小町が下校するだけ。大志よ大志を抱け。
個人的に申し上げますと、ウェザーリポート、かなり好きです。「COSMONAUT」の中で一番最初に歌詞覚えたくらいです。