親元を離れての都会暮らしを始めてから、半年以上が過ぎた。
都会は怖いよ。私の一人暮らしに、最後まで良い顔をしなかった母は、しきりに都会暮らしの恐ろしさを私に吹き込んだ。
新聞の勧誘が強引で、とっても怖いんだって。あんたちゃんと断れるの?
女の子一人で住んでるって気づかれたら、簡単に泥棒に入られちゃうんだよ。
ちょっとカッコいい男に声かけられても絶対についてっちゃ駄目よ。
あんた、ぼーっとしてるから、ふわふわしてる間に騙されないかお母さん心配だわ。
本音と冗談の母特製オリジナルブレンドを、受ける大学を決めたときから家を出るまで、耳からたっぷりと飲まされたものだ。
それでも、とうとう、私の意思を変えることはできなかったのだけれど。
我ながら、なぜあそこまで片意地を張って独り暮らしをしたかったのか、今となっては疑問だ。
憧れの都会での、一人暮らし。高校三年生の時にはあんなに夢見ていたのに、それが現実となった今では、どうも、あせている気がしてならないのだ。
そんな親不孝の私ではあったけれど、母特製のそれはそれなりに効果はあったので、一応気をつけるべきことはちゃんと気を付けていた。男物の服や下着をベランダに干したり、郵便のやり取りであっても、ドアのチェーンは欠かさない、とか。
ご近所の人間関係も当然のように希薄だ。同じマンションの住民、隣に住んでいる人のこともほとんど知らなかった。せいぜいが苗字や、顔だけだ。
けれど、もう、そんなことも言っていられない事態に今、私は直面している。
日曜日の昼下がり、私は隣の部屋の前でうろうろしていた。
決してある種の変態性に目覚めたわけではなく、なんというか、こう、タイミングを計っているのだ。大丈夫、とりあえずインターホンを押そう。多分日曜日だからいるはず。
とは言え、本当にアホなことをやらかしてしまったものだ。
私が自分のアホさをしみじみと噛みしめ、勇気を出して、ピンポン。
数秒後、ピッと電子音が聞こえ、『はい?』と、女の人の声。そう、確か女性だった。引っ越しの際の挨拶で、一度だけ顔を合わせたことがある。名前は確か、木下さん。
「とっ、隣の部屋の
しどろ、もどろ。多分、部屋に設置されたインターホンの画面には、私の間抜け面がアップになってるに違いなかった。
『…なんのことかしら』
ちょっと冷たい感じのする声だった。私は慌てて
「あっ、すみません、あの、ベランダの、仕切り戸、あるじゃないですか。非常時にはこれを破って隣に避難してくださいって書いてある」
『…それが?』
「で、でも、あれ、本当に破れるのかなーって思ったこと、ありません?」
『………』
勘が良いのか、洞察力が鋭いのか、私の隣人は言葉を切り、部屋の奥の方へ歩いていくようだった。
しばらくして、扉が開錠される。何とも言えないような表情を浮かべた女性が、扉を開けて顔を見せた。
思わずはっと息を呑む。女性―――木下さんが、それはとても綺麗な顔をしていたからだ。陶器のような白い肌に、大きな二重の目。鼻筋はすっとまっすぐに整っている。
私の隣の部屋に、こんな美人なお姉さんが住んでいたなんて。
木下さんの形の良い眉が少しひそめられ、呆れたように、
「…呆れた」
ホントに言われた!
へらり、と笑うしかなかった。
「…ご、ごめんなさい。試してみたかったんです…その、非常時に、備えて?」
「妙な音がしたと思ったのよね…」
木下さんは私をつま先から頭まで眺めると、小さくため息をついた。
「とりあえず、お上がりなさいな」
「えっ、あの、」
「怪我もしたのでしょう、太ももを擦りむいているわよ」
うっ、と私はショートパンツから伸びた自分の左足を見る。言われた通り、太ももに擦り傷がついていて、少し血も出ていた。
申し訳なさでいっぱいになったけれど、木下さんの無言の眼差しを受け、私は彼女のお部屋にお邪魔することにした。
「同じ部屋の作りだとは思えない…」
木下さんの部屋に招かれた私の第一声。2LDKのその部屋は、一人暮らしの女性にしてはシンプルな家具が置かれているだけで、異常に片付いていた。いや、異常と言うのはおかしくて、私の部屋のごちゃごちゃを本当は異常と呼ぶのであって、むしろ、理想の部屋と言った方が正しい。
ちり一つない。というか、この清廉なこの状況下ではもう、私の存在がちりまである。ルンバにゴミ認識されちまわー。
開け放たれたカーテンからおそるおそるベランダを覗くと、大穴の空いた仕切り戸が見えた。惨劇。
被告人、何か言いたいことはありますか。はい、私がやりました。出来心だったんです。
ベランダの植物に水をやっているとき、ふと思ったのだ。「これってホントに破れるのかなぁ?」
で、アホの申し子こと私は、ためしに跳んだ。軽く助走をつけての跳び蹴りだ。
結果、薄いパーテーションの板は、割と簡単に貫通した。
部屋の奥から木下さんが救急箱を携えて戻ってきた。恐縮したけれど、木下さんは実に手際よく私の太ももの傷を処置し始める。
「学生さんだったわね」
「あっ、はい。大学一年生ですっ」
「そう」
「はい!」
「…」
「…あっ、いたたっ」
「消毒なんだから。じっとして」
「あ、すみません!」
木下さんは丁寧にガーゼまで貼ってくれた。あまりに手際が良くて、私は木下さんがお医者さんか看護師さんかと思った。実際に聞いた。
「私、法律事務所に勤めてるの」
「えっ、じゃ、じゃあ、弁護士さんですかっ」
「ええ、まだまだ修行中だけれど」
すっごい。こんなに美人でそんなに頭も良いなんて。
私が「ひゃあ~」と間抜けな声を出して感嘆していると、木下さんはふっとほおを緩めた。あっ、笑ったら可愛い…じゃ、なくて。
「こっ、このたびは、お騒がせして大変申し訳ありませんでしたっ」
土下座っ!
「やめて。私はいいけれど…大家さんには連絡したの?」
「いえっ、まだです」
「大家経由で管理会社に連絡が行くと思うけれど、修繕費用は恐らく二、三万ほどかかるわね」
大変だ。
「にしてもあなた、なかなか大胆ね」
「後の事を少しは考えろとよく言われますっ」
「考えすぎよりは、多分ずっと良いわ」
木下さんはぽつりと言った。そうかなあ、と私は首を傾げる。
「で、でも、隣の人が木下さんみたいな人で助かりました!」
「…木下ではないのだけれど」
「…えっ?」
「
「…えっ」
かああっと顔が熱くなる。そんな私を見て、きの、じゃなくて、雪ノ下さんはこらえきれない、というように笑みをこぼした。
「よろしくね、郡上さん」
そんなこんなで見事なアホっぷりを披露してしまった私だったけれど、この事件で一つだけ収穫があった。
それは、雪ノ下さんと仲良くなれたことだった。一見冷たい美人と言う印象を持ちかねなかったけれど、実はとっても優しくて、博識だし、私のような小娘にも(同情半分かもしれないけれど)親切にしてくれた。
私はすぐに彼女に懐いてしまって、週末など、時々お部屋にお邪魔してお喋りしたり、ご飯をごちそうになったりした。
「雪ノ下さんの料理の腕前は本当に超絶メガすごいですっ」
「あなたの表現技法もなかなかだと思うわ」
今日も、木下さん改め雪ノ下さんの部屋で夕飯を頂いた。今日はイタリアン。ムール貝やらエビやら海鮮のたくさん入ったシーフードパスタで、もううっかり頬っぺたが落っこちそうだった。
ふと思い出して、私は雪ノ下さんにちょっと待っててくださいね、と言うと自分の部屋に帰った。
戻ってきた私が両手に抱えていたのは、
「…望遠鏡?」
「そうなんですよ!」
よっこらせ、とフローリングの床にそれを降ろす。三脚がついている、一万円前後の比較的安価なものだ。
初めて見た、と雪ノ下さんの興味津々な様子に、私は得意げに経緯を話す。
「大学の友達が天文部に入ってまして、そこの先輩のお古なんだそうです。その友達が持て余してたので、安く譲ってもらっちゃいました!」
「星が好きなの?」
「え?ああ、はい。てか、雪ノ下さんと見たいなーって」
両手で再び望遠鏡を抱えると、雪ノ下さんにベランダを開けてもらい、そこに三脚を伸ばして置いた。
「でも、なんか使い方がいまいちよく分かんなくて。で、雪ノ下さんならわかるかなーって」
「私は万屋ではないのよ…」
と言いつつも、雪ノ下さんはベランダへの入り口に腰かけると、望遠鏡のレンズを覗いて、ピントの調節ノブをいじりだした。顔の横に垂れた髪を耳にかける仕草が様になる。
私はベランダに出て、都会の夜空を眺める。明るい星ならやっと見えるというところだ。
私の地元ならもっときれいに見えるのにな、と少し残念に思う。
そもそも町は夜なのに明る過ぎて、お蔭で夜が夜じゃないみたいだった。
「どう、これで」
言われて、望遠鏡の横にしゃがみ込んだ。首を伸ばして、レンズを覗きこむ。
なんかきらきらしていた。
「なんかきらきらしてますっ」
何とか見える星に照準を合わせたのか、青白く光る星が見えた。
「見えるもんですねえ」
「そうね」
興奮している私の様子がおかしかったのか、雪ノ下さんは笑みを浮かべる。
「わ、私、あれ見たいです!なんて言ったっけ、ええと、なんとか彗星!」
私は望遠鏡をうろうろさせて、ピントを調節し始める。
「…ハレー彗星のことを言っているのかしら」
「そうそれです!雪ノ下さんは何でも知ってますね!どこにあるんです、それ!」
「…あのね、郡上さん。彗星と言うのは、簡単に言えば太陽の周りを周っている星なのよ」
「ええっ、じゃあ、見られる時間帯が決まってるってことですか!」
「じ、時間帯と言うか…ハレー彗星は76年周期だから、次にみられるのは確か、2061年、だったかしらね」
私はびっくりして望遠鏡から顔を外した。雪ノ下さんは若干憐れむような顔をして私を見つめていた。
「…私、雪ノ下さんと喋ってると、いかに自分がアホか激しく実感できますっ」
「…でも私、あなたの事、好きよ」
「あっ、私も好きです、雪ノ下さんの事!」
けれど、2061年とは。驚いた。あと4、50年経たないとみることができないだなんて。おばあちゃんだ。
彗星はいつもそこにあるわけじゃないんだ。
いつだって見ることができるわけじゃないなんて、なんだか、それは、まるで。
ずっと追いかけなきゃいけないような、そんな。
「彗星か…」
あんまり黒くない夜空を眺めながら、雪ノ下さんは言葉を零す。
雪ノ下さんがそうやって星を見つめているだけで、なにか絵画が出来上がりそうだ。もしくは写真を撮って、そっと飾っておきたいような。
雪ノ下さんは、何を思って空を眺めるのだろう。
誰かを想って、空を見上げているのだろうか。
「…私も、見たいわ」
「…え?なんですか?」
雪ノ下さんに見とれていて聞き漏らした私が尋ねても、雪ノ下さんはなにか誤魔化すように笑っただけだった。代わりに、雪ノ下さんは思いついた、と言う顔をする。
「郡上さん、今日明日、何か予定はある?」
「明日…は、土曜日ですよね、夕方からバイトがあるだけです」
雪ノ下さんは私の返事を聞くと、うなずいた。
「じゃあ、天体観測に行きましょう」
「…え?」
そうと決めたら雪ノ下さんの行動は迅速だった。あれよあれよと言う間に私は雪ノ下さんの運転するムーヴの助手席に収まっており、望遠鏡は後部座席に鎮座していた。
車持ちだなんて、やっぱり、弁護士って儲かるんだなァと無粋な妄想を膨らませる。
「町のはずれに高台があるの、知ってるかしら。そこならもっと星も見えやすいと思って」
そう言って雪ノ下さんは車を走らせた。
都会の夜の町はやっぱり明るすぎる。夜は寝るためにあるのに。
睡魔が私を襲い始め、それに段々と抗い難くなってきた頃、その高台につくことができた。車で登れるのか疑問だったけれど、ムーヴはまともに舗装されていない道路をすいすいと登る。雪ノ下さんは一度で一人で来たことがあったらしい。
外に出てみると、とっぷりとした闇が辺りを包んでいた。崖になっている辺りから、遠くの方に街の明かりが見えた。上を向くと、まるで夜空が近づいてきてくれたような印象を受けた。
「町のはずれってだけで、こんなに変わるものなんですねえ」
雪ノ下さんに言うと、雪ノ下さんは天体望遠鏡の設置に忙しいようだった。私が持ってきたものなのに、もう扱いは雪ノ下さんの方が手際が良い。ええい私のポンコツっ!
「あ、わ、私やりますよっ」
「私が見たかったんだから、いいのよ」
雪ノ下さんは倍率の調整に夢中になっていた。しきりに角度や倍率を調節をしながら
「倍率を高くしようとすると暗くなるのね…視野も狭くなるし」
「ああ、なるほど…見ようとすればするほど見えなくなっちゃうんですね」
雪ノ下さんはしばらく黙って倍率をいじった。なにか気に障ったかしらんと私が心配になった頃、接眼レンズから目を離し、私を何か観察するように見つめる。
その目は何か言いたげで、そして、ほんのり薄暗かった。
「見えないものは、どうしたって見えないのにね」
何かを揶揄するように、雪ノ下さんは口元に笑みを浮かべると、望遠鏡に再び向き直った。
見えないものはどうしたって見えないのなら、望遠鏡は何のためにあるんだろう?
見えてるものすら見えなくなることが怖くて、私は空を見上げた。
自然のプラネタリウム、というほどではないにしろ、無数のきらきらした星が瞬く。ダイエットに失敗したような形の三日月が黄色い。今日は晴れていたから、雲が少ないのも良かった。
雪ノ下さんが丁寧に調節してくれたピントで、望遠鏡を覗き合った。多分一生届くことはないはずの星たちが、手を伸ばせばいともたやすく届きそうだと錯覚する。
やがて私たちは地面に座って、二人でぼんやりと高台からの景色を眺めた。私がするアホ話に、雪ノ下さんは付き合ってくれ、時々笑ってくれた。
「…それでですね、私は親に『可愛い子には旅をさせよ』って言うでしょ、って言ったんです。私を旅立たせないってことは、つまり私は可愛くない子ってことになるけど、私のこと、可愛いくないの?って」
「ひどい屁理屈ね」
雪ノ下さんは顔をしかめ、それから笑い声をあげた。
冷たい感じのする人だと思ったこともあったけれど、雪ノ下さんは意外にも、よく笑う。
「でも、両親はちゃんと大切にしなさいね。子が可愛くない親なんていないわ」
「はい!ちゃんと恩返ししますっ」
女二人だから、ある意味当然の流れではあるけれど、恋バナにも花を咲かせた。
「弁護士って出会いとかありそうですよね!」
「悪いことした人なんかには、しょっちゅうね」
「……あ、でも、事務所仲間とかっ!気になる人とかいないんですかっ!」
雪ノ下さんは頬に手を当て、小首をかしげる。
「気になる人……………」
そのままいつまででも考え込みそうだったので、私は雪ノ下さんの顔の前でぶんぶんと手を振った。
雪ノ下さんはアレだ、気になられる側の人だ!
「…あっ、ええと、あなたはどうなの?」
「ぐはっ、私ですか」
私から仕掛けた恋バナ、とんだブーメランだった!
ほんとならあんまり話したくなかった。
大学の友達にも話してない。
…でも、なんだか。
雪ノ下さんの隣に座ってなら、話せる気がする。
「…高校の時ずっと好きだった男の子がいたんですけど、卒業式の時に告白しようとして、でもやっぱりできませんでした、終わりっ」
早口で言いきった私は不思議な感覚に襲われる。高校の卒業式なんて数ヶ月前のことだったのに、なんだかひどく遠い昔の記憶のようだった。
雪ノ下さんは雪ノ下さんにしては珍しいくらい、少し困ったような顔で私を見つめていた。
私を見ているようで、私じゃない誰かを見ているような、そんな感じ。
その愁いを帯びたまなざしは、なぜだかあたたかく思えた。
私があといくら年を重ねたとしても、きっとこの人のようにはなれないのだろう。
「…な、なんだかなぁ、って感じですよね」
沈黙が妙に恥ずかしくて、私は再び口を開く。
「…?」
「いや、その、今考えたら私、結構テキトーに生きてますし、将来の夢とかなにもないし…」
「将来の夢、ないの?」
「もう全く思いつかないんですよ。小さいころは多分たくさんあったはずなんですけどね。分別して整理していくうちに、何も残らなくなっちゃってました。断捨離ですよ、断捨離。今の私はきっと、断捨離の果てですよ」
なにそれ、と雪ノ下さんが笑ったのが暗がりでもわかった。
「雪ノ下さんは、どうして弁護士になろうと思ったんですか?」
「…さあ、なぜかしら。何か理由がちゃんとあったと思うのだけれど」
いつのまにか記憶がだいぶ薄れている気がする。ここまで来るのがとても大変だったからかしら。雪ノ下さんはそんなことを、何故か少し楽しげに言った。
「就職してから今年で、五年経ったの。最初の頃は本当に忙しくて、寝る暇もないくらいだったわ。それが此処まで来て、ようやく少しだけ余裕が出てきたところ」
「でも…どうしても、そういうものって、薄れるものね」
「理想は現実には勝てないし、思い出は薄れていく。いい思い出も、悪い思い出も。正しさも…間違いすら」
少し、寂しいと思った。
それを口に出しても雪ノ下さんは答えなかった。その代わり、ゆっくりと立ち上がる。
「私は今でも、彗星を探し続けているのかもしれない」
白く綺麗な右手をそっと夜空に伸ばし、雪ノ下さんは雪ノ下さんだけの何かを、掴もうとしている。
星と星をつなげば星座ができるように、それがいつまでも軌跡を残すように。
「大丈夫。私の痛みは私だけのもの。絶対に、何年経っても、消えないから」
雪ノ下さんは静かな声で、誰かに言い聞かせるように囁いた。
今回イメージした曲は、「ray」と、BUMPの曲ではかなり有名な「天体観測」でした。
「ray」は初音ミクとコラボしたあれですね。最後の1フレーズがとても印象的です。
「天体観測」中ではあくまで天体観測は比喩で、実際に天体観測をしているわけではないんですよね。だから敢えて今作では実際に天体観測してみました。