誰かが私を呼ぶ。
最初は全く気付かなかった。
だからいつこんなに溜まったのか、それが不思議でならなかった。
痛みが。
ひょっとしたら、無意識のうちに認識することから逃げていたのかもしれない。
さすがにもう無視できないほどの、痛みがいつの間にか溜まっている。
気付いちゃったな。どうしようかな。
傍にいた、小さな男の子に不思議そうな顔をされた。なんでもないよ、と頭をするりと撫でておく。
仕方がないのでそれを箱にしまうことにした。箱はすぐにいっぱいになった。
ほうら、私は、片付け上手。整理整頓が、得意なのだ。
目線が。
可愛らしい女の子が私を見上げている。私が見下ろす。箱の上に立つと、私はわりと背が高かった。
女の子がこちらにやってこようとして、躓いて、転んだ。泣き出す。男の子が慌てる。私は女の子を抱き起して唱える。
いたいのいたいの、とんでけ。
女の子は泣きやみ、嬉しそうにはにかんだ。男の子と手をつなぐ。
ところで誰かわたしに優しくしてくれはしないだろうか?
ううん、やっぱり、嘘。優しさなんて必要ない。でしょ?
いつのまにか私の周りには人が増えていた。
私よりも背が高い人がまだまだ大勢いる。
私はあんまり目立っていない。そうか、まだ足りないのかもしれないな。
男の子と女の子の背がちょびっとだけ伸びている。でも、君たちもまだまだだな。
何かが可笑しくて私はふふふと笑う。そう言えば最近笑い方を覚えた。
教えてもらったのだけれど、何だって、練習すればすぐに上手くなるのだ。
私は。
痛みが。
もっと、高く。
痛みを入れた箱は増え続け、ついにはこれで100個目だ。
周りの人間は、皆、馬鹿まる出しでぽかんと口を開けている。
私を見下ろす人は、見渡す限り、もう誰もいなかった。
どうだ、見たか。すごいでしょう。
褒めてもいいんだよ。私は笑うのは得意だからね。
ふふふ。
あんまり高いから、もう。
男の子と女の子の成長なんて、もう、あまりよく分からないほどだ。
あ。
痛みが。
今、女の子が、転んだように見えた。
痛そうだ。
私を見上げている。
なに?助けてほしいの?
良いけど、昔みたいにあんまり上手くいかないかもよ。
だって私、もう、王様だからさ。
どんどん高く積み上げたその高い塔の上に座って、私はとても愉快な気分だった。
まったく毎日が楽しくてしょうがない。
私は特別な存在なのだろう、と思う。
神様に選ばれたのだ。
まったく毎日が楽しくてしょうがない。
まったく毎日が楽しくてしょうがない。
まったく毎日が。
痛みが。
………。
箱を積み上げることは、止めない。
止められ、ない。
例え箱が雲にも届こうとも、止まらないのだ。
これで1000個目だ。ちゃんと数えていたから確かに1000個のはずだ。
私は整理整頓と同じくらい、計算も得意なのだ。
下の様子を見てみようと見下ろしたけれど、目眩がしてちょっと驚いた。
高いなぁ。
雲の上を吹く風が、かけていた梯子をかっさらっていく。
風はいつだって私の意思などまるで無視して吹く。まあ、あの小さな男の子や女の子と違って、あんまり気にしないけれど。向かい風に逆らっても仕方がないのだ。
あの男の子はそれがよく分かっている。だからバカなんだ。
あの女の子はそれを分かっていない。だからダメなんだよ。
憐れだ。
痛みが。
梯子が下に降りるときに必要なものだとしたら、あんまり必要のないものだったけれど、まあ、これで私は、一人だ。
もうこれで、誰もとやかく言ってこないだろう。
あれ。
私は、いったい、なんのために、積み上げてきたのだっけ。
思ったよりも、今は、あんまり、楽しくない。
まさか。
寂しいのだろうか。
気づいてしまった私は、目眩がするのも構わず下を覗き込んだ。
私は誰にも見えていないようだ。
私が誰も見ていないように。
怖い。
私は整理整頓が得意。
私は笑うのが得意。
私は計算が得意。
あと、なんだっけ。
だから、なんだっけ。
唄声が響く。
槌を振るう音がした、気がした。
途端、私の塔が、揺らぐ。
誰かが、私の塔を。
壊している。
何をするの。ここまで来るのにどれだけ頑張ったと思ってるの。
ふざけないで。
ハンマーソングは容赦がなかった。
積み上げた痛みが、ダルマ落としのように飛んでゆく。
ついに私は、しばらくぶりに、雲の下まで落ちてきてしまった。
久々に、周りの人間が見える。皆底抜けに馬鹿で間抜けな人間たちだ。
その、ゴミだめのような真ん中で、槌を振るう男の子がいる。
こんなに怒ったのは初めてかもしれなかった。
それでも私は冷静に諭すように語りかける。それが私の私たる所以だ。
何をするの、やめなさい。やっていいことと悪いことがあるよ。
男の子は私を見上げた。
ひどく濁った眼で見据えられ、私は心がざわっとするのを感じた。
痛みが。
男の子はやがて私から目線をそらし、また黙々と槌を振るい始める。
今度は本当に、腹が立った。
ありとあらゆる暴言を投げつけ、男の子を貶し、なじり、嘲笑した。
彼の存在を否定し、彼の意思を否定し、彼の望みを否定し、
しかし、彼は。
それくらいの事は慣れている、とばかりに。
「そんなことはどうでもいいから、そこから降りてきてくれませんか?」
槌を持つ男の子の周りには、皆がたくさんいた。
いつかの男の子と女の子も、いる。
そんなに背が伸びているなんて、知らなかった。
誰よりもきれいに澄んだ瞳の男の子はそうして、再び槌を振るい始める。
やめて。
痛みが。
やめて。
涙が両の目からこぼれる。
やめて、お願いだから。
私が私ではなくなってしまう。
痛みの塔は揺れ動き、私はてっぺんにしがみつく他なかった。
私は小さな女の子のように泣き喚き、駄々をこね、ただしがみついた。
痛みが。
その一打ちで、私は遂に塔から投げ出され、落下する。
かつてずっと上を目指していたはずなのに、今やどんどん下へと真っ逆様だ。
王様にまでなった、この私が。
まったく笑えない。
無様に落ちてきた私を、誰かが受け止める。誰?と思うけれど、どうでもよかった。
私の大切な男の子と女の子が、泣きながら、笑っている。
痛みが。
あれほど積み上げられた痛みの箱が、もうたった一つしか残っていない。
あーあ。
すみません、と小さく謝られた。
謝るくらいならしないでよ、と言った。
彼はそれから私の目を見て、首をかしげる。
あなたが泣いてるような気がした、と。
泣くわけないでしょ、この私が、と傲慢に笑う。
あの子たちの前で、私が泣くわけがない。でしょう?
あなたをいとおしく思う。
馬鹿ね、そんなの嘘よ。
二人が駆け寄って来る。
女の子が転ぶ。痛そうだ。男の子が困っている。
私は女の子を助け起こし、それから、男の子の頭をするりと撫でた。
あーあ。
残った一箱の痛み。
仕方がないので、私はこれから、その一箱を大事にしようと思った。
いたいのいたいの、とんでく必要は、おそらく、ない。
いわずもがな、今回の曲は「ハンマーソングと痛みの塔」でした。
彼女にも救いがあると良いな、と思って書きました。
邪悪とか言うなよ、怖いとか言うなよ。
まぎれもなく、小さな女の子だぞ。