……昔々、ある所に、一人の男がいました。彼は外の世界からこの幻想郷に迷い込んだ、外来人と呼ばれる存在でした。
突然のことに、彼は混乱していました。気がついたら神隠しに巻き込まれ、自分とは違う世界に迷い込んでしまったのだから、無理もありません。
しかし、彼は幸運なことに、すぐに幻想郷の住人に出会い、彼らが住む人里に辿り着くことが出来ました。元いた場所とは全く違う環境、生活、人々に、彼は苦労しつつも、しかし一年も経つと、幻想郷での生活に馴染み始めてしました。幸運にも、心優しい老夫婦の営む飯屋で店員として雇われた事がきっかけで、少しずつ友人なども増え、忙しいながらも充実した生活を送るようになっていました。
そんなある日のことです。忙しい時間帯を抜け、人も引いた昼過ぎに飯屋の戸を女性が叩きました。そうして入って来たのは、大き目のリボンで髪を纏め、ぽっこりとしたスカートをはいた女性です。
いらっしゃいませ。そう彼は女性に声をかけました。少しばかり遅い時間帯でしたが、しかし昼食をとるのは不自然ではないという頃合です。ですから彼はそう思い、女性をお客さんとして招き入れました。
どうぞ、お好きな席に。そう言って、彼は彼女を適当なテーブルについてもらおうとしました。しかし、彼女は彼のその言葉に反応を示しません。ただ、店内に足を踏み入れた体勢のまま、彼の顔を見つめています。
どうかなさいましたか? 自分の顔に何かついているのだろうか。そう思いながら彼が声をかけると、ここでようやく彼女は彼が声をかけてきていたことに気付いたようで、はっとした後に、すみませんと軽く頭を下げました。その彼女の態度に、彼は引っ掛かりを覚えはしたものの、しかしその後はいつもの通りに対応を続けました。
いいですか? そう彼女が彼に声をかけてきたのは、彼が空いた皿を下げようとした時でした。
何でしょうか? そう彼が笑顔で問い返すと、彼女は何故かピクリと身体の動きを止めた後、すぐに慌てたように、この辺りのことについて教えて欲しいと言いました。
この辺りのこととは、どういうことだろうか。そんな疑問を抱いた彼は、その通りに彼女に問い返しました。何せ、人里はそう大きくありません。一年と少々しか経っていない彼ですら、人里にある大抵のものは把握しています。それなのに何を聞きたいのだろうか、そんな風に彼は思ったのです。
必要な物があるのでそれを買いに来たのだが、しかしそれを売っている店が分からない。だから、教えてはくれないだろうか。彼の質問に対し、彼女はこのような事を返しました。
ですが、その言葉にやはり彼は引っ掛かりを覚えました。返答の中で彼女が買いに来たものもついでに聞いたのですが、それを売っている店はかなり有名です。人里の住人なら、そのくらい知っているのが自然です。であるのであれば、この女性は人里の住人ではないのではないか。
彼は、もしやと思いました。もしかしたら、この目の前の女性こそが、音に聞く妖怪というものなのではないかと。
しかし、そんなことを思ったからと言っても、彼はそれを口になど出しません。単に人里の外で生活している人である可能性の方が高いからです。それに万が一、彼女が妖怪だったとしても、人里の中であれば安全であると、そんな風に聞いてもいます。
ええ、知っていますよ。ですから、彼は自分の中の推測など口に出すことなく、笑顔でそう彼女に返しました。目の前の彼女に、特に悪意のような物を感じなかったと言うのも、笑顔を浮かべられた理由の一つでした。
教えて欲しいと、彼女は彼の言葉に一拍を置いた後、そう言いました。いいですよ、と彼は返答をしましたが、しかし口だけで説明するには少々道順が面倒であったので、地図でも書いて渡そうと、彼は雇い主である老夫婦に声をかけました。
すると、老夫婦は言いました。どうせだから、貴方が道案内をしてきたらどうかと。もう店も落ち着いてきているし、少しぐらいいなくなっても大丈夫だから、と言ったのです。
その言葉に、少しだけ彼は迷いを見せたものの、最終的には彼女の方を向いて、案内をしましょうか? と声をかけました。
彼女も、彼の言葉に悩む素振りを見せた後、ややあってから、頼みます、と頭を下げます。その時の彼女の顔が、何処か嬉しそうに見えたことに、彼は不思議なものを感じました。
ありがとうございました。目的の店に着いたとき、彼女はそう言いました。それに対し、いいですよ、と彼は返します。
たいしたことはないです。さらに彼はそう続けた後、少しばかりの茶目っ気を見せたくなりました。どうしてそう思ったのかは、彼自身にも定かではありません。普段であれば、絶対に言わないような言葉を、しかし言いたくなったので、彼は思い切って言いました。
貴女のような美人のエスコートが出来て光栄でした、とそんなキザな事を言ってみたのです。
それを聞いた彼女は、ポカンとした表情を浮かべました。調子にのってしまったかなと、彼が後悔を覚えていると、ふと彼女はにかむように笑いました。その笑顔に、彼は思わずどきりとしてしまいました。それだけ、魅力的な笑みだったのです。
黒谷ヤマメです。そう、彼女は名乗りました。それを聞いて、彼もまた自分の名を名乗ります。
また、会えますか? そう彼女は彼に聞きました。その質問に彼は、ええ、と大きく頷きました。
これが、彼らの出会いでした。
お久しぶりですね。さらに一年ほど経った後、再び飯屋を訪れた彼女に対し、彼は言いました。
覚えていてくれたんですか? 彼の言葉に、彼女は驚いたように言いました。一年ぶりの再会に、彼が覚えている訳がないと思っていたのでしょう。
貴女のような美人は、早々忘れられません。いつかのように、彼はまた茶目っ気たっぷりに言いました。普段の彼はそのようなことを決して言いはしないので、もう少なくなっていた、店内に残っていた常連たちが、目を丸くします。
貴女こそ、覚えていてくださったんですね。そう彼が続けると、彼女はまたあの時と同じ、はにかむような笑みを浮かべて言いました。貴方のような男性を、決して忘れることはありません、と。
その言葉に、今更ながら気恥ずかしさというものが顔を出したようで、彼は頬が赤くなっているのを感じながら、お好きな席にどうぞと、彼女を店内に案内しました。
また、今日も案内をお願いできますか? 注文が済んだ後に、彼女がそう彼に問いかけました。どうでしょう。彼はそう返して、厨房に注文を伝えに行きます。
行って来ていいよ。注文を伝えた後、老夫婦は彼に言いました。いいのですか? そう彼が聞き返すと、彼らは笑っていました。その笑顔に、彼は思わず頭を下げました。
後で、お付き合いします。注文の品を届けた時に、彼は彼女に言いました。ありがとうございます。彼女は嬉しそうに、彼の言葉に頷きます。その笑みに、やはり彼はドキリとしたものを感じたのでした。
それから、彼女は度々彼の元を訪れるようになりました。と言っても、彼の家を訪れているというわけではなく、彼の勤める飯屋に、客として訪れているというだけでした。それも決まって、お昼を過ぎた、人気の少ない時間帯です。食事を済ませ、そして何度かに一度、彼が人里を案内する。そんなことも、時折ありました。
そんな事をしていると、互いのことについても多少話題には上ります。彼は自分が外来人であるという事を隠していなかったので、そういう話題になったときは決まって外の世界のことを話しました。そうなると、彼女のなにかしらを話すのが普通であるのでしょうが、しかし彼女はあまり自分の事を語ろうとしませんでした。精々が、人里の外に住んでいるということだけでした。
貴女は何者なのですか? そう彼は聞いてみたいと思う時がありました。しかし、結局はそれを口に出すことはありません。ふと彼女が見せる、悲しげな表情に、思わずその問いをかける事を躊躇ってしまうからでした。
ですが、それでいいのかもしれないと彼は思っていました。必要なことであれば、彼女が話してくれるだろうと、そんな事を思っていたからです。自分が思いの外、彼女を信用しているということに、彼は自覚していませんでした。
そんな日々は、惰性的といえるほどに、長々と続きました。どちらも、それ以上深い付き合いになることもなく、気付けばもう十年近い時が流れていました。
どうだろうか? 老夫婦の問いに、彼は表情を曇らせます。考えてはみます。そう返すと、彼らは安堵したように息を漏らします。では、そのうちに。彼らの言葉に、彼は確かに頷きました。
見合いをしないか。そのように彼が問いかけられたのは、彼女との時間も終わった、ある日の夕方のことでした。知人から、見合いの話が持ち上がっている。そんなことを、老夫婦は彼に言ったのです。
どうして、と彼は問い返しませんでした。自分がもういい歳であるのは自覚していましたし、彼らが自分にこの店を継いでほしいと思っていたことは、何となく察していたからです。
あの女性には悪いけど。そこまで言って、彼らはもごもごと先の言葉を口に出しません。しかし、彼らが彼女の事を不審がっているのだと、彼にはすぐに分かりました。もう十年近くも経つのに、まったく容姿が変わることも無く、その上未だに何処の者かも分からない彼女の事を、老夫婦は疑いだしていたのです。
見合いの事を彼が了承したのは、彼なりに思うところがあったからです。と言っても、別に彼女のことを疑っているから、というわけではありません。ただ、彼女がこの店を、自分と一緒に継いでくれることはないだろうと、そんな風に思っていたからです。
気になっている女性と、見ず知らずの自分を面倒見てくれた老夫婦。この時点の彼が、とるべきと思っていた相手は後者であったのです。
そんなこと話があって、とうとう見合いを明日に控えた、そんな日のことでした。
彼が、突然倒れました。
非常に重い病気です。そう彼を診た医者は言いました。伝染性の高い、非常に治療が難しい病気だと、そう診断結果を彼と、彼がお世話になっていた老夫婦に伝えました。
独りにして欲しい。彼はそう老夫婦に頼みました。彼らに病気を移してはと、そう思ったからです。どうせ老い先短い身だからと、老夫婦は彼の言葉に首を横に振ります。自分の息子のようなお前を、どうして見捨てられようか。そんな二人の言葉に、彼は思わず涙を流します。
ですが、それでもと、彼は老夫婦を説得し、それでも離れようとしなかったので、ついには友人たちに頼んで、彼らをどうにか自分から離してもらいました。ようやく独りになる事が出来たと、彼は咳き込みながら安堵しました。
しかし、すぐに彼を孤独感が襲いました。分かっていたこととはいえ、病にかかったその身は、猛烈に他者の存在を欲します。
それに彼は必死で耐えました。他人に迷惑をかけるわけにはいかないと、彼はたった一人で耐えてしました。
そんなある日、彼は老夫婦が亡くなった事を知りました。
その知らせから数日が経った頃でした。病は回復の兆しを見せず、そろそろもう終わりだろうかと、そんな夜のことです。
こんばんは。聞きなれたその声が、彼の耳に入ってきました。閉じていた目を彼が開けると、そこには見覚えのある顔がありました。彼の傍らには、彼女が座っているのです。
どうして? そう彼がかすれる声で尋ねると、彼女は何故か無表情で言いました。貴方の看病に来ました、と。
こんな夜更けに? そう彼は言おうとしましたが、口ではまったく別の言葉を紡ぎました。
貴女は、妖怪なのですか? 彼の質問に、彼女はピクリと眉を動かした後、はい、と小さな声で言いました。やはり、そうであったのかと、初対面の時から彼が思っていた疑問が氷解したのを感じました。
お願いできますか? 彼はそう彼女に言いました。彼の返答に、彼女は少し驚いたように言います。
怖くないのですか? 彼女の問いに、彼は力ない笑みを浮かべた後、怖いのは、自分の所為で誰かが亡くなることです、と言います。妖怪の貴女なら人の病で亡くなることは無いでしょうと、そうも彼は言いました。
私の元に来ませんか。長い沈黙の後、彼女は彼に言いました。それが目的だったのかと、彼は彼女の表情に察します。
分かりました。彼女の誘いを、彼は時を置かずに了承しました。もうここに、彼がいる理由は無かったからです。どうせなら、少しでも気が通じ合っていると、そんな風に思う相手と一緒にいたいと、そうも思ったからでした。
では、行きましょう。彼女は彼の手を取って、嬉しそうに言いました。
ええ、行きましょう。彼は彼女の手を掴んで、嬉しそうに言いました。
……それ以来、彼の姿を人里で見る者はいませんでした。必死に探す者、気にするに留める者、関心を示さない者と様々でしたが、ついぞ見つかることはありませんでした。
……彼は結局、自分が蜘蛛の糸に絡めとられた獲物だと、気付いたのでしょうか。それは決して、分かることではありません。
ですが、少なくとも、彼は末永く、彼女と共に生きたという話です。
めでたし、めでたし……………………?
はい、ヤマメ回です。久しぶりの投稿ですか、何となく今回は昔話風です。理由は半分気まぐれ、もう半分はヤマメの口調が私の中で定まらなかった故の策です。とある作品の所為で、どうも関西弁のイメージが強すぎるという……。それと締めが結構困りました。最後だけ会話文にしようかなあとか、考えて結局こんな風に。中々考え物ですね。割と素直にはかけましたが、しかし力があんまり入っていないかなあとも思わないこともない。
実を言うとヤマメのお話は、彼を食べて終わりみたいな奴を最初は考えていました。あれですね、蟷螂の奴をイメージしていました。ただまあ、何となく固まらなかったのでやめて、その発想は彼女たちの愛の輝夜の奴に持って行きました。で、こっちは病の話に。まあ、孤立をさせる事が目的でしたが、周りに被害をもたらす方向には持っていかず、彼自身にかける形に。理由はまあ、彼らの会話の内容を何処かで知ったからじゃないですかね? ちなみに、老夫婦のそれに関しては明言しません。どっちとも、お好きに考えてください。
次回は、さて、どうしましょうか。リクエストの後の方から消化しているので早いやつを考えるべきでしょうが、しかしどうなるのやら。まあ、パッと思いついたものを順不同で書くことになるでしょう。つまりいつも通りです。ではまた。
追記 活動報告に後書きの続きを投稿しています。良ければご一読を。