――橙。それが、私の名前。藍さまにつけられた、大事な、大事な、私の名前。
でも、私を名前で呼ぶ人は、あまりいない。藍さまと、紫様と、そして、あの人の、三人だけ。あまり、知り合いは多くない。
でも、それだけで、十分だと思う。特に、あの人が呼んでくれるだけで、私は十分だと思う。
橙。
私が会いに来たときに呼ぶ声は、柔らかな声音だ。その日の初めてに聞くその声は、日に一度の贅沢で、また明日と気が早くなってしまう。
橙。
私の身体を撫でながら呼ぶ声は、いつも優しい声音だ。ずっと聞き続けていたい、ずっと撫でられていたいと思うくらい、あの人の声は優しくて、甘い。
橙。
私がイタズラをした時に呼ぶ声は、少しだけ困ったような声音だ。ごめんなさいと思うけれど、でもたまにまた聞きたくなる。そんな不思議な声だ。
……もっと、もっと。
橙。
私が家事を手伝うといった時の声は、どうしようかと悩む声音だ。頼りにしてとさらに言うと、しょうがないなと苦笑しながら頷いてくれる。
橙。
私がお掃除をした時に呼ぶ声は、なんだか驚いているような声音だ。普段丸まっている私からは想像出来なかったのかもしれないけど、その声のほうが私の想像外の時がある。
橙。
私がお料理をした時に呼ぶ声は、何処か心配そうな声音だ。台所の高さに対して、私の背が低いからか、料理中はずっと、そういう感じの声のままだ。
……もっと、もっと、名前を呼んで欲しい。
橙。
私が洗濯物を干している時に呼ぶ声は、いつもよりものんびりとした声音だ。日向ぼっこにちょうどいい青空の下だからか、その声は少しだけ眠たげだ。
橙。
私がうっかりをした時に呼ぶ声は、少し焦ったような声音だ。私は大丈夫かと、心配の混じったその声は、私に何処か誇らしい気持ちを感じさせてくれる。
橙。
私が物を壊した時に呼ぶ声は、少しだけ怒ったような声音だ。普段は優しいあの人が、この時だけは私を叱る。でも、そんな声も、たまに無性に聞きたくなってしまう。
……もっと、もっと。私の名前を、色々な声で、何度も、いつまでも、呼んで欲しい。
橙。
私がお皿を割った時に呼んだ声は、驚きと心配に満ちていた。私が怪我をしていないかと、まずお皿の心配よりも先に、あの人は私の身を案じてくれた。
橙。
私がお皿を片付けようとした時に呼んだ声は、何だか焦った声だった。不安に満ちた声のまま、あの人は私の代わりに片付けようとして、そして怪我をしてしまった。
橙。
私があの人の指を舐めた時に呼んだ声は、僅かに笑いの混じった声音だ。血の流れる指を舐めたから、くすぐったそうに身をよじって、血を吸う私の頭をポンポンとした。
………………オイシイ。
橙。
私が甘噛した時に呼んだ声は、不思議そうな声音だった。私の行動に首を傾げながら、あの人はとりあえず私の背を撫でるようにして叩いた。
橙。
私が噛み付いた時に呼んだ声は、焦りと驚きに満ちた声音だった。びっくりしながらも、叫ぶようにして呼ぶその声は、初めて聞いた声だった。
橙。
私が噛み砕いた時に呼んだ声は、もはや悲鳴と同じだった。初めて聞いたその声だけど、何故か無性に心地よくて、もっともっと聞かせて欲しい。
……アア、オイシイ……ああ、もっと、もっと、もっと。
もっと、私の名を呼んで。モットタベサセテ。いつもと違う声で呼んで。モットイッパイアジアワセテ。
橙。
橙。
橙。
橙。
橙。
橙。
橙。
橙。
橙。
――橙。
それが、私の名前。でも、この人は何故か、もう私の名前を呼んでくれない。動かない。喋らない。揺すっても、撫でても、舐めても、叩いても、動かない。まったく、欠片も、絶対に動かない。
どうして? どうして動かないの? 口をきいてくれないの?
聞いても答えてくれない。ずっと黙って、ピクリとも動いてくれない。おかしい。何で? 何故動かないの? 分からない。どうすればいいのか、私には分からない。
どうしたらいいんだろう。どうしたら、また私の名前を呼んでくれるんだろう。
呼んで欲しい。呼んで欲しい。もっともっと、呼んで欲しかったのに、今は呼んでくれない。
橙と呼んで。
また撫でて。
また褒めて。
また叱って。
また怒って。
また叫んで。
また叩いて。殴って。
いっぱいいっぱいして欲しいのに、いっぱいいっぱいして欲しかったのに、私の声に答えてくれない。私の名前を呼んでくれない。
……そうだ、藍さまに相談しよう。藍さまは私よりも賢いから、きっとどうにかしてくれるはず。藍さまなら、またこの人に、私の名前を呼んでもらえるようにしてくれるはず。
ひょっとしたら、紫様も手伝ってくれるかもしれない。うん、そうだ。頼んでみよう。この人の事を、精一杯頼んでみよう。そうすれば、そうすれば、また名前を呼んでくれるはず。
あの、柔らかくて、驚いていて、悲しくて、楽しそうで、そして、優しいあの声で、また私の名前を、呼んでもらおう。それが、私の、唯一つの望み。だから、呼んで貰うために、この人を連れて行こう。
――橙。
それが、私がこの人に、ずっと呼び続けていて欲しい、大事な、大事な、私の名前。
はい、橙回です。気分転換の為に発作的に書いてみましたが、まあ短いですね。最初から分かっていましたし、どうにかこうにか伸ばしてみましたが、やはりこういう形式だと文は稼げません。まあ、たまに書くぐらいはいいでしょう。
今回の橙ですが、原作よりも多分、無垢、無邪気、無知、として書いています。実際の橙は多分ここまでじゃないと思っていますが、まあこの辺りは二次創作ということで。内容自体にも補足しておくと、今回の橙ですが、途中から精神が壊れたというか、まあ自己保存のために事実を歪曲して認識している、というようなつもりで書いてみました。妖怪としての本能に従ってしまい、その結果から自分を守る為に狂っちゃったと、まあそんな解釈で結構です。何故そういう風にしたかですか? そういうアイデアが降りてきたからです、はい。名前を呼んでほしいキャラにしたのも何となくです。言いやすいからでしょうかね、分かりません。名前つながりでついでに言うと八雲姓をタイトルにつけていないのは原作準拠です。だから何となく締りの悪いことになっていますが、致し方なし。
次回ですが、まあいつものように、気長に待ってくださいということで。適当にアイデアが言語化できたらまた書いてみるつもりです。ではまた。