1.
夢を見る。羊水の中で微睡む様に、高町なのはは夢を見た。
女が居た。容姿に秀で、器量も良く、恵まれた女であっただろう。
何処にでも居る。そう語れる程に平凡ではなかったが、探せばそれなりには居る程度。そんな女が、嘗て居た。
何が悪かったのか、そう問われれば時代が悪かったとしか言いようがあるまい。
他の誰かよりも秀でた程度の赤毛の女は、嫉妬と排他に足を引かれて沼へと堕ちる。
魔女狩りが一世を風靡した時代において、運が悪かった女は魔女の烙印を押し付けられた。
誰も庇わず、誰も守れず、誰もが裏切り、沼地の底へ。誰もが焦がれた空の星から、地の底でしか輝けない星へと堕ちた。
空の星から大地の星へ、泥の底から底の底へ。だから想う。だから願う。
魔女を望んだ貴方達。星を見上げて居られないから、足を引いた貴方達。皆々一緒が良いのだろう。ならば全て等価にしよう。――そうして女は、魔女になった。
空の星から大地の星へ、泥の底から底の底へ。だから想う。だから願う。
羨ましいのだ。輝く星よ。どうして己は堕ちたと言うのに、未だ貴方達は輝いている。それはおかしい。間違っているだろう。――そうして女は、魔女になった。
誰かにそうであって欲しいと望まれて、望まぬ役を押し付けられて、何時しか心の底から魔女になっていた。
そんな沼地の魔女はあの日に出会う。それは一人の輝く英雄。刹那の様に生きて、刹那の景色を愛して、刹那の内に燃え尽きた一人の英雄と。
追い付けなかった。刹那に過ぎ行く英雄の背中に、愛していたのに追い付けなかった。魔女は歩くのが遅いから。
そうして彼女は漸くに理解する。本当の輝きとはそういう物で、自分はきっと堕ちる前から違っていたのだと。だからきっと、同じ時間を生きる限りは追い付けない。
故に女は永遠を求めた。過ぎ去った刹那に追い付く為に、永遠の時があればきっと届くと想えたのだ。
沼の底から空を見上げる。泥の底から星を見ている。黄金の獣に頭を垂れて、何時か永遠を下さいと願い望んだ。
追い付きたかったから、それだけを求めた。何時しか魂が腐って衰え、その願いさえも忘れてしまった。そうして残ったのは――何の為に求めたのかも忘れてしまって、それでも永遠を求め続ける唯の魔女。
彼の星に追い付く時間を求めていたのに、何時しか足を引いて手元に留めるしか出来なくなっていた。
それでも諦めたくはなかったから、どんなに腐り果てても永遠だけを求め続けた。それが女の全て。沼地の魔女の真実の姿であった。
高町なのはは閉じていた瞼を開いて、たった今に見た記憶を振り返る。
追い付く為に永遠を望んだのに、何時しか忘れて手を伸ばすだけになっていた魔女の記憶。それを確かに、高町なのはは知っていた。
「これ、やっぱり――アンナちゃんの記憶だ」
アンナ・マリーア・シュヴェーゲリン。彼女に飲まれた嘗てに垣間見た、天魔・奴奈比売の記憶。あの日に見た物と同じなのだと理解して、高町なのはは周囲を見回した。
豪華絢爛と言うに相応しく、しかし華美に過ぎるとは言えない装飾品。黄金に輝く壁や天井。床には赤いカーペットが、何処までも続いているかの様に感じる回廊を彩っている。この場所は、高町なのはの記憶にない。
「……此処は、聖王教会――じゃ、ないよね」
確認するかの様に零した呟きが、黄金の輝きに溶けて消える。
此処は異質だ。素直にそう感じたなのはは、周囲の観察を続けながらに思考を進める。
宮殿か、城の内部か。先まで居た聖王教会も豪奢な城であったが、此処はそれ以上に威と輝きに満ちている。
明らかにあり得ない場所。あってはいけない場所であると理解して、高町なのはは自問する。自分はジェイル・スカリエッティに敗れた筈だと、ならば此処は死後の世界か。
そう考えて、不思議な納得と奇妙な違和を同時に感じる。確かに此処は死が満ちている。死後の世界と言われれば、確かにそうだと納得してしまう程に死が近い。
踏み締める床。輝く壁。赤い絨毯に輝きで照らす装飾ですら、全てが死で出来ている。踏み締める床、これは躯だ。眼に映る壁、これは人の死骸だ。全てが死んだ人間を材料にしている。此処は黄金に染まった地獄であった。
だが同時に感じる違和感は、此処に在ると感じる己の命。高町なのはは未だ死んでいない。確かな確信と共に断言出来た。
保証はない。確証はない。所詮自己の実感だけで、或いは錯覚と言われれば否定は出来ない。それでも、何故だろう。高町なのはは、自分が未だ生きていると理解していた。
「なら、私は異物? ……ううん。
此処は死人の世界だ。だが己は未だ生者である。己は生きている。だが死人の城へと飲まれていた。
違和を感じているのは其処にだ。此処は己が在るべき場所ではないと分かっていて、だが同時に
「誰かが見ている。……貴方は誰?」
眼差しを感じるのだ。見られている。その視線に侮蔑の色など一切なく、感じる情は唯一つ。見守る意志。即ち、それは――愛情だ。
愛情を持って、天上より見守る意志。死骸で出来た天蓋の先を見上げたなのはに、彼の者は僅かに笑みを零す。慈愛に満ちた表情で、彼は唯一つの言葉を告げた。
――卿らは、知らねばならない。
声が響く。知らぬ筈の声なのに、何処か懐かしさすら感じる男の声音。
見回す周囲に姿は見えず、だが確かに見られていると分かっている。愛されていると自覚した。
故になのはは戸惑わない。惑う必要はないのだ。この声の主は敵ではない。
そして声は語るのだ。邪気のない言葉で、知らねばならぬと告げている。これはきっと、無視してはならない言葉なのである。
あの後、何があったのか。今も現実の世界で、一体何が起きているのか。気になる事は余りに多い。
だがそれでも、声の主の言葉を無視する事は出来ない。そんな風に感じた女は、目の前に続く黄金の回廊をその目で見た。
「この先に、あるんですね」
何を見るべきなのか、問う必要などは何処にもない。先に見た“彼女の記憶”が示している。此処には彼らの真実があるのだ。
天魔・夜都賀波岐。八柱の神々が内、この地獄に囚われた過去を持つ者達。そんな彼らの真実が此処には在って、地獄の主は其れを知れと語っている。
知らねばならない。そうでなくては進めない。そう確信する様な色が、先の言葉には含まれていた。
そう認識したからこそ高町なのはは、一歩前へと足を踏み出す。知るべき事を知る為に、進むべき先を見る為に、今の民は歩き始めた。
目指すは一路。この回廊の先――黄金が座す玉座へと。
その道の最中で彼女は知るだろう。天魔・夜都賀波岐。そう呼ばれる神々の――人であった頃の記憶を。
2.
陰陽太極の器が、黄金の槍と共鳴を始めた。それを横目に確認しながら、スカリエッティは頭上を見上げる。
悠然と佇み、眼下を見下ろすは天魔・常世。穢土・夜都賀波岐の指揮官は天高くに座しながらに、嗤い続けるスカリエッティを見下ろしている。
そんな両者の対立を、父の背に隠れながらにクアットロは見る。不死身と語る彼女にとって、天魔・常世は決して相性の良い相手ではない。
夜都賀波岐の指揮官が持つ異能は、闘争の強制。黄金の槍に干渉する事で、誰も彼もを熱狂させる。敵味方の区別すら出来なくさせて、共食いを強要すると言う能力だ。
その異能は、数を頼りにするクアットロには覿面だ。如何に無限の数があるとは言え、半数ずつが共食いをさせられれば最悪は壊滅すらも起こり得る。
魔群は確かに強力だが、群ではなく個としての能力はエース級でも対処出来るレベルである。大天魔の異能を真っ向から弾ける域にはないのだ。故に天魔・常世に対して、クアットロ=ベルゼバブは恐怖を覚えている。
一体どれ程削られるか、そう思うだけで腰が引ける。最悪己も討たれるか、そう考えると逃げたくなる。クアットロは臆病なのだ。
(それでも、ドクターが居るのよ! だったら、退ける訳がないじゃないの!!)
元より圧倒的優位になければ動けぬ女。常ならば既に、彼女は見っとも無く逃げ出していただろう。
それでも、父が居る。彼女にとって決して譲れぬ唯一無二がこの場に居ればこそ、クアットロは逃げ出せない。
ジェイル・スカリエッティは強い。個としての彼は今やクアットロよりも強力で、天魔・常世との相性も決して悪くはない。
相殺強制は格の差で弾ける。随神相が放つ狂気の波動は、既に狂い果てているが故に意味がない。冷静に考えれば、負ける要因などない程に高相性だ。
それでも、ジェイル・スカリエッティは戦士ではない。戦闘者ではないのだ。故に先の様に、格下にしてやられる可能性は十二分にあり得る事。
大天魔の指揮官も同じく戦闘者ではないが、あちらには億年を超える経験と言う強みがある。何をしてくるか分からない敵手に対し、戦闘が不慣れな男を一人残すのは不安が過ぎた。
故にクアットロは此処に留まる。弱者しか狙えない無限の軍勢は、譲れぬ一つの為に歯を食い縛る。
己の生命よりも至高と信じる彼が居ればこそ、魔群は決して退けない。クアットロ=ベルゼバブは情けない顔を晒しながらに、それでも不退転の意志を胸に宿して――
「下がりなさい。クアットロ」
その覚悟を決めた女に対し、ジェイル・スカリエッティ自らが逃げろと口にした。
「ドクター!? ですが!!」
思わず反論を紡ぐクアットロ。先の追い詰められた姿を知るが故に、彼女としても直ぐには頷けない。
そんな魔群の親を想う感情に笑みを返して、だがジェイル・スカリエッティの決定は変わらない。この場に魔群は必要ない。
目を細める狂人は、冷静に思考する。魔群がこの場にいても、邪魔にしかならないと。
天魔・常世の闘争強制に抗えないクアットロでは、居る方が厄介だ。何故なら常世の領域下では彼女の意志に反して、クアットロはスカリエッティの敵となってしまうのだから。
「……言っただろう? 君には君の役割があると」
その思考を声には出さずに、スカリエッティは別の言葉を口にする。
娘に対する思い遣りで本心を隠して、同時に口にするのもまた彼の本音。もう一つの策略だ。
「役割、ですか」
「ああ、そうだとも、君にして貰いたい事がある。君にしか出来ない事があるんだ。だから、今はそちらで動いてくれ」
「……分かりました。ドクター」
笑顔で語るスカリエッティの言葉に、不平不満を飲み干しながらにクアットロは承諾する。
彼女も理屈で分かっている。記録映像で知っているのだ。常世を相手にした時に、己が足手纏いにしかなれない事などは。
そして同時に安堵する。強敵に挑まなくて良いと言う状況に安心して、そんな浅ましさが嫌になった。
常ならば逃げる行為に躊躇いすらも感じない女だが、それでも父を置いて逃げ出す事に安堵する内心を嫌悪出来る程度の真面さが残っていたのだろう。
「それで、私は何をすれば?」
「なに、簡単だ。単純な事だよ。君に頼むのは、盤面の調整。浮き駒の足止め。想定外の排除。詰まりは――」
だからこそ、問い掛けた言葉に返る答え。スカリエッティと言う狂人が下した指示内容を、小物であっても正気であるクアットロは理解が出来なかったのだ。
「戦線から外れている者達。
「……え? 何を、言って、いるのですか? ドクター?」
クアットロに与えられた指示はそれ一つ。明確な敵と敵対している相手に、攻撃を仕掛けろと言う物。
この指示に従うなら、クアットロが行う事など唯一つ。本来倒すべき敵から逃げ出して、この状況では味方と言える相手の背を撃つ事。それは最早、大天魔への遠回しな支援とすら言えるだろう。
スカリエッティが見据える先。其処に映る景色が如何なるモノなのか、神ならぬ魔群には分からない。此処で潰すのではなかったのかと、考えるべきではない疑念すらも浮かんでくる。
一体何を考えているのか、そう困惑するクアットロ。そんな娘の頭を優しく撫でながらも、ジェイル・スカリエッティは壊れた笑みを浮かべていた。
「あらゆる札には、切り時と言う物がある。最も弱いスぺードの3が時にはジョーカーすらも下す様に、役に立たない札などこの世にはない。あるとすればそれは、唯単に切り時を間違えただけなんだよ」
唯の役なし札ですら、時にブラフの為の奇貨にもなろう。
ジェイル・スカリエッティはそう考えるが故に、
そんな狂笑を浮かべる男を見上げるクアットロは、しかしその表情に色濃く残る曇りを晴らせない。
理屈じゃないのだ。理由は理性ではなく感情である。故に彼女は愛する父の判断に、迷いを抱いてしまうのだろう。
それでも、ジェイル・スカリエッティの判断は変わらない。譲歩出来る面だけは譲るが、口にする決定は揺るがない。
「さあ、もう行きなさい。速く動かないと、移り変わる盤面の流れから置いて行かれてしまうからねぇ」
「……分かりました。ご武運を」
クアットロは仕方がないと、静かに項垂れ首を振る。彼女は納得した訳ではない。しかし諦めたのだ。理解する事を諦めた。
だからこそクアットロは、父の指示に従い動き出す。ジェイル・スカリエッティが望んだ通りに、盤面の形を調整する為に蟲の群れは散って行った。
そうして立ち去る魔群を見送り、ジェイル・スカリエッティは振り返る。
高みより見下す天魔・常世は未だ動かず、その距離を埋めるのは並大抵の労力では足りぬだろう。
それでも、それだけだ。不可能ではない。しかし娘に語った様に、無理に攻め込む心算はない。
才能がないとは自覚したのだ。故に大地の底から見上げる男は、歓喜を浮かべながらに相手の出方を見る事にした。
「さて、待たせたかな?」
「……待ってない。待ってないから、さっさと舌でも噛んで死んでくれれば良いのに」
「ははは、やはり手厳しい」
観察をしていた天魔・常世は、忌々しいと舌打ちする。
理解したのだ。地力の差を。この距離を埋められたら敗北する。そうと分かってしまったのだ。
ジェイル・スカリエッティは強力だ。奈落と言うバックアップを受けたこの狂人は、既に大天魔の領域に至っている。
戦闘能力と言う点では下位でしかない天魔・常世では、頭一つ分以上に劣っている。二歩も三歩も後塵を拝しているのだ。真面に戦って、勝てよう道理は何処にもない。
故に見に徹した。魔群を暴走させようにも、今の槍に干渉したらどうなるか分からないと言う状況も足を引いている。
相殺の強制と発狂の波動。それを除けば、手足を振っての破壊程度しか出来ない非戦闘員。そんな天魔・常世では、力押しをしても押し負ける。故にだ。見に徹して、今も隙を探っている。
奇しくも互いが選んだ初手は同質。それも或いは、必然と言える結果であろう。
両者共に非戦闘員。闘争においては自他共に無才と断じるが故に、舌禍を交えながらに意図を読み合うのが当然だった。
「では、我が子らの為に弔いを――そろそろ始めるとしようか」
「……そんな事、思ってもいない癖に」
天魔・常世にとって、都合が悪い事とは何か。ジェイル・スカリエッティにとって、されたくない事は何か。
互いの視線が一点を映す。磔にされた
ジェイル・スカリエッティは退けない。この槍が結果を示すまで、時間を稼ぐ必要がある。
天魔・常世は退けない。この狂人を放置していては、槍に何をするか分からぬから、場が動くまで時間を稼ぐ必要がある。
「死んでしまったのは残念だけど、それはそれで仕方がない。結局貴方はそんなモノ。都合が良い理由が出来たと、寧ろ喜んでさえ居る。……気持ち悪い。理解が出来ない。それでも嗤う姿が怖くて怖くて、……本当に、悍ましい」
舌禍を交えて読み合う意図は、共に時間を稼ぎたいと言う同じ結論。
相手が及び腰であると分かったからこそ、両者は同時に動き出す。即ちそれは――攻めの姿勢だ。
「だから、消えて」
「アクセス――我がシン」
巨大な随神相が蠢いて、その巨体が大地を薙ぎ払う。それを前に狂人は、己の罪を介して門を開く。
相手が一歩を引きたがっているからこそ、両者は此処で一気呵成に攻め立てる。されたくない事をこそすると言う、それは戦術の基本であった。
元より知識が先行している両者。基本に忠実に、突拍子もない真似など出来ない。
ならば裏を掻こうとした読み合いに意味などなく、結局結果は力と力のぶつかり合いに終始する。
詰まりはそう。弱い方が負けるのだ。
「
「――っ」
神相の血肉が吹き飛ぶ。薙ぎ払う為に蠢いた巨体が、狂人が触れた瞬間に内側から弾けて飛んだ。
まるで空気を入れ過ぎた風船が破裂する様に、赤い血風となって崩れる神体。其は魔鏡に映る力が一つアルマロス。
たった一度の交差にて、両者は予想を確信へと換える。
如何に反天使の力とは言え、一撃だけで大天魔を葬れる程ではない。だがそれでも、その事実は変わらない。
天魔・常世は傷を負って、ジェイル・スカリエッティは無傷である。
互いに裏を掻き合っても、力のぶつけ合いにしか出来ない戦闘下手。故にこの差は、余りに大きいと言えた。
「成程、私が大きくなり過ぎたのか。それとも存外小さかったと言うだけか……思っていたより、容易いな」
嘗てはあれ程に強大と感じていたのに、今ではこの程度なのか。
その感想に感慨と寂寥を等しく感じながらに、スカリエッティは冷静に思考を回す。
気負いもなく、単純な事実として断じる。この程度ならどうにでもなる。
ならばこの今に一歩を踏み込む。それすら博打をする必要もない、安全に行える範囲の攻勢。
「では、続けようか」
全ての基点は揺り籠だ。奈落を攻略されない限り、ジェイル・スカリエッティに敗北はない。
それが示す事実は唯一つ。ジェイル・スカリエッティを殺せないと言う事は、彼より強いあの怪物を止められないと言う事でもある。
この失楽園の日に、夜の悪魔は誰にも倒せはしないのだ。
「失楽園の日は、まだ始まったばかりだっ!」
打った保険が無意味と終わるか、或いは先見の明として機能するか。どちらにしても構わない。
己の勝利は揺るがない。白衣の狂人は傷付いた天魔の指導者を見上げて、狂笑を浮かべながらに力を揮った。
3.
爆発的に広がる腐敗。腐った風が吹き荒れるこの場で、しかし支配者として君臨したのはこの太極の主ではない。
太極を開いた悪路王はその目にする。ほんの一瞬苦しみもがいた赤毛の少年が、直後に反転して哄笑を上げ始めたその姿を。
「ククク、クハハ、ハハハハハハハッ!!」
笑う。嗤う。哂う。ケラケラと、ゲラゲラと、腹を抱えて嗤うは誰でもない悪魔。
人々の夢より生まれた、“こうであって欲しい”“こうあるべきだ”と言う悪魔の偶像。ナハト=ベリアルはエリオを奈落に引き摺り降ろして、再び表層へと出現した。
「返さない。返さない。返さない。
返せ返せと、内で叫ぶ子供に語る。お前はもう逃がさないと、ナハト=ベリアルは嗤っている。
黒き翼が噴き上がる。溢れ出す余りに強大が過ぎる魔力は、この世界の主が圧だけで押し込められる程。
腐毒の風に満ちた太極の只中に甦った悪魔王。黒く反転した瞳を赤く輝かせる悪鬼羅刹は、この地獄に苦しむ姿を欠片も見せない。
いいや、否。苦しむ所か、寧ろ居心地が良いと嗤ってさえ居る。
万人を叫喚の底に突き落とす地獄の風ですら、ナハトにとっては春の微風にも等しい快適さを感じる物でしかないのだ。
「此処は良いな。天魔・悪路。実に良い。快適だ。こんなにも調子が良いのは初めてだぞ」
「……僕の瘴気を、喰らうか」
それは悪魔の持つ性質。瘴気を喰らい、活性化する。そういう質を有するが故に、悪路の力が糧にしかならない。
誰でもない偶像なればこそ、明確な個を持ったエリオに引き摺り降ろされた。そんなナハトが表に再び現れる事が出来たのは、正しく悪路のお陰なのだ。
彼の太極を食って、力を増した。活性化したから、エリオでは抑えられなくなった。この悪魔王が此処に降臨した理由など、たったそれだけの単純な物。
「嗚呼、実に美味だ。お陰で随分と楽になった。愛しく煩いあの子を、縛り付けておけるくらいにはね」
人の身には過ぎた穢れすら、悪魔にとっては甘露と同じ。ナハト=ベリアルは腐りはしない。
溢れ出す絶大な力と共に、悪魔の王は暗く嗤う。語ると共に腕を軽く振り上げ、薙ぎ払う様に圧を飛ばした。
「失策だったなぁ、夜都賀波岐。お前と俺の相性は最悪の様だぞ?」
轟。片手を軽く振るだけで、天が揺れて大地が裂ける。大極と言う神の器が、その一撃で崩壊し掛けた。
破壊の余波だけでそれだ。魔力の圧そのものは余波の比でなく、咄嗟に大剣を構えて受けた悪路はそのままに吹き飛ばされて膝を屈した。
「……受ける事さえ、真面に出来ないか」
僅か一合。その結果がこれだ。如何に強大なる神々とて、己より強大な相手と矛を交えればこうもなる。
太極の維持。直撃を避けるだけで精一杯。力と力のぶつかり合いとなれば勝ち目はなく、喰らい付けたとしてもジリ貧だ。
ましてや、ナハト=ベリアルは未だ本気ではない。
全力は出しているのだろうが、彼が持つ消滅の力を使ってはいないのだ。
それでこの様。勝ち目など何処にもない。そんな事、
「何だ? 今更に後悔しているのか?」
「……いいや、納得しているんだ。安堵している。やはり、僕が来たのは正解だった」
故にこそ、見下し嗤う悪魔の言葉に、天魔・悪路は立ち上がりながらに言葉を返す。
この判断は正しかった。己の決意に、後悔などは微塵もない。ナハト=ベリアルを相手にするのは、腐り切った我が身でなくてはならぬのだ。
「他の誰に任せられる。他の誰に押し付けられる。お前の様な、特大の穢れを――」
これは既に、嘗ての黄金すらも超えている。最強の大天魔ですら、消滅覚悟で切り札を切らねば話にならぬ。
この世全ての頂点と、嘯くだけは確かにある。これは確かに頂点だ。だからこそ、そんな泥を被るべきなのは己であるべきなのだ。
「この屑でしかない我が身に相応しい。お前の様な怪物を相手取るのは、僕の様な死んでも良い屑であるべきだ」
「ハハ、ハハハ。筋金入りだな
誰よりも己が汚れを背負うから、己以外よ美しく在れ。そう願った腐毒の王は、この穢れに立ち向かう事を良しとする。
何よりも穢れていると断言された悪魔の王は、そうと分かって己の相手を望むのかと、その性質を度し難いと見下しながらに嘲笑う。
そして、一歩を踏み出す。感じるだけで常人ならば命を落とすだろう程に、強大な魔力を放ちながらに前へと進む。
腐毒の風を喰らいながらに進撃するナハトの威圧に晒されながら、悪路は折れた大剣を両手に構えて揺るがずに敵を見た。
「……何、これで勝算もある」
「ほう。どんな手があるんだ?」
勝算はある。この行為は唯の自殺志願ではない。そう語り己を鼓舞する悪路。
瞬きするよりも僅かな一瞬で、距離を詰めたナハトは嗤う。どんな手があると嗤いながらに、槍を持たぬ手に焔を灯した。
「何をしようと、お前の力は俺の糧にしかならん。そして、俺の炎は――」
「くっ」
「お前じゃ防げん」
黒き炎が燃え上がる。無価値の炎。あらゆる存在を対消滅させる力が、天魔・悪路のその身を襲う。
物質界にある物は正の数字を持つ。この炎はその真逆、負の数字を内包した力。故に触れる物は全て、抵抗出来ずに消失するのだ。
「最悪の相性、と言う奴だよ。未だ他の連中の方が、可能性はあったかもしれないなぁ?」
故に防げない。燃え上がる炎は死人の身体を意図も容易く燃やし尽し――しかし消滅させはしなかった。
「……だが、他の皆では、僕程コレには耐えられなかっただろう」
「ほう」
無価値の炎は防げない。極大の負数と言う性質は、あらゆる物質の存在を許さない。
だが悪路の身体は、正常な物質からは外れている。他者が負うべき負を取り込んだ悪路王と言う存在は、その器が既に負数の領域へと到達している。彼の身体には元より、正の数値など一切残っていないのだ。
「これでも、痛みや苦しみには慣れている。生きたまま腐っていくのは、何時もの事だ。僕にとって
これ以上は腐らない。これ以上には腐れない。既に死人だ。腐り果てた死人である。
ならばそう。この黒炎を防げずとも、耐える事は出来る。痛みに耐えるは常であり、ならば彼にとって腐炎は唯の炎と変わらない。
「全て腐れ。塵となれ。我が身は既に腐り果てているから、もうこれ以上は腐れない」
焼かれるだろう。燃やされるだろう。抵抗できずに、一方的に押し負けるだろう。
だが即死はしない。これ以上は腐れないから、他のどの天魔よりも悪路王こそが、この腐炎に長く耐えられる。
遥か格上の即死能力持ちを相手に、生き延びて時間を稼ぐ事が出来る。それこそが、天魔・悪路の僅かな勝機だ。
「成程成程、それがお前の強みか、
腐炎の軽減。それこそが悪路が持つ最大の強み。彼らが時間を稼げると、そう判断した最たる理由。
それを理解してナハトは嗤う。所詮耐えられるだけなのだ。無効化出来る訳ではない。悪路の力は全て、ナハトに吸収される事実も変わっていない。
そしてそれ以上に、明確な違いが一つある。地力の差だ。
「だがな、地力に差があり過ぎるぞ!」
拳を一振り。それだけで崩れかける程に、双方の実力差は絶大だ。
天魔・悪路が全盛期でも、結果は変わらなかっただろう。それ程に、ナハト=ベリアルは単純に強いのだ。
腐炎ではなく、五体による攻勢。異様な程に滑らかで歪な動きは、背筋に怖気を催す夜風の闘技。咄嗟に剣を合わせた悪路を、その守りごとに押し潰す。ナハトの攻勢に、遊びはない。
「押し潰してやろう。抗えるだけ抗って、無様に果てろよ。大天魔ぁっ!!」
結果は見えている。結末は決まっている。天魔・悪路では敵わない。
ナハト=ベリアルの猛攻を前に、大天魔が敗れるのは時間の問題だった。
太極の解放と魔力のぶつかり合い。その衝撃に吹き飛ばされて、大地に崩れ落ちた少年は遠く見る。
己を吹き飛ばしたあの場所は、今や激闘の中心地。夜風と言う冷たい暴風が、腐毒の呪詛を一方的に薙ぎ払っている戦場だ。
「っ、くそっ――エリオっ!」
〈落ち着いて、トーマ! あの中にはっ!!〉
「ああ、分かっている。分かっているんだよ。入れないって、実力が違い過ぎる。手加減されてたって、分かるさ。でも――」
吹き飛ばされて倒れるトーマは、起き上がって進もうとする。そんな彼に対してリリィが、それでは駄目だと口にした。
悔しいが、トーマにも分かっている。先にナハトの攻勢に耐えられたのは、相手が遊んでいたからに他ならない。今のトーマではナハトは愚か、追い詰められている悪路にすらも届かない。
正しく格が違うのだ。次元が違う規模での暴虐が、あの場所を中心に起きている。
無理をして立ち上がって、無茶をして踏み込んだとしても、それでどうにもならないと理解する事は出来ていた。
それでも、トーマの心は叫んでいる。このままで良いのか、良い訳あるかと叫んでいる。
宿敵との決着を、二度も邪魔されて怒りを覚えぬ理由がない。例え無意味に薙ぎ払われるだけに終わったとしても、此処で立ち止まるなんてあり得ない。
「例え路傍の石にすら成れないとしたって、それでも俺はアイツと――」
〈ティアナはどうするのっ!?〉
「っ!?」
だから前に進もうと、そう決めたトーマの意志を阻む言葉がそれである。己と同じくに飛ばされて、今も危機にある命が其処にある。
先のナハトの圧よりも、今は危険が過ぎるのだ。求道に似た性質を持つナハトと違い、この太極は無差別だ。巻き込まれているティアナの命も、そう長くは持たないだろう。
〈ティアナじゃ耐えられない。この太極は無差別だから――彼女を守れるのは、トーマしか居ないんだよ!〉
「――っ! くそっ!!」
宿敵との決着を望んでいても、それで味方の危機を放置する事など出来ない。
今に守れる力があって、ならば捨て置けないのがトーマ・ナカジマ。故に彼は歯を噛み締めて、ティアナを守る為に飛び出した。
腐毒の風と悪魔の魔力に、吹き飛ばされて腐り始めている少女。
大地に倒れるティアナ・L・ハラオウンを抱き抱えると、トーマは一つの魔法を使う。
ディバイドエナジー。他者に魔力を分け与えると言う力で以って、ティアナに魔力を供給する。
魔力とは魂の力。太極に対する抵抗力となる力である。故に十分に力が余っているトーマがそれを分ければ、ティアナでも叫喚地獄を耐える程度は出来るのだ。
それでも、それが限界だ。抵抗の為に魔力を消費していくティアナを、守る為にはその場に釘付けとなる。
先の激闘により消耗が故に、余った魔力も大量とは言えない。守りながらに戦えないから、もう見ている事しか出来ないのだ。
「見ているしか、出来ないのかよっ!」
〈トーマ〉
目の前で起きている天魔と悪魔の戦い。其処に参戦出来ず、見ている事しか出来ない我が身。
其処に悔しさを感じて、それでもそれしか今は出来ない。だからトーマは、歯が砕ける程に噛み締めながらに見届ける。
その激闘の果てに、一体どの様な結末に至るのか。決して眼を逸らさずに、少年は己が目で見続けた。
4.
砂塵が舞う。暗き空の下に広がる砂漠は、戦士達の闘技場。
硝子の壁に包まれた砂漠の中で、黒き甲冑が軋みを上げる。キシリキシリと揺れる鎧の音を、理解する思考すらも青年には残っていない。
此処は死人の世界。死が溢れる無限の砂漠。弱卒が紛れたならば、踵が地面に着いた瞬間に物言わぬ屍と化す。
そんな死に満ちた世界。其処に巻き込まれた青年は、正しく弱卒と言える者。何の力も持たず、決して特別などではなく――故に耐えられる道理がない。
死して当然。消え去るのが当たり前。この砂の一部となって、命を終えるのがユーノ・スクライアの末路であろう。
されど、そうはならない。それは女が許さぬから。愛する女との繋がりが青年を生かす。無理矢理に無茶苦茶に、汚染しながらに強制的に蘇生するのだ。
「がっ、げぇっ」
血反吐を吐き出し、肉体を歪めながら、歪な形に膨れ上がる。蘇生と共に意識が覚醒し、故に苦痛に苦しみもがく。
最早人の形骸すらも成してはいない。真面な思考も出来ぬ程に苦しみながら、どうしようもなくその身は終わっていた。
「……己の死すら、奪われた、か」
死を奪われたその姿。死ぬ事すら許されないその姿。感じるのは、嘗ての己と重ねる共感。
「哀れな」
見下ろす天魔・大獄は、唯々その姿を哀れに思う。死を奪われ、無限に苦しみ続ける程に苦痛に満ちた生が他にあるか。
至高の終焉をこそ求めたこの男にとって、彼の姿は他人事で済ませられない物だ。余りに惨いと感じる程に、故にこそ天魔・大獄の意志は正しく彼にとっての慈悲だった。
「もう、苦しむな」
拳を握る。僅かな動作で自壊しかけて、それでも己の死を終わらせる。
一歩を踏み出す。崩れ落ちて訪れる自死を遠ざけて、不断の意志と共に拳を振り上げた。
「せめて人の姿で、終わらせてやろう」
そして、振り下ろす。その命を終わらせる為に、幕引きの一撃を此処に振り下ろした。
青年の身体に生じた歪が、その一撃で消し去り終わる。人間の形からの変質を終わらせて、人型へと戻されたユーノはそのままに命を落として――
――終わらせない。貴方は絶対に、終わらせない。
女の情念がそれを許さない。幕を引かれた命の舞台。その幕を無理矢理にまた開く。決して終わらせる物かとしがみ付く。
ユーノ・スクライアは蘇生する。歪に変貌する形骸の変質に、悶え苦しみながらに蘇生して――其処に再び、幕引きの鉄拳が振り下ろされた。
「……俺は、終わらせると言ったぞ」
天魔・大獄の意志は揺るがない。彼は哀れに感じた青年を、此処に終わらせると決断したのだ。
故に終わるまで、その拳は止まらない。女の情念が男を生かし続けると言うならば、その情念ごとに全てを終わらせる。
甦った。拳を振り下ろした。甦った。拳を振り下ろした。甦った。拳を振り下ろした。甦った。拳を振り下ろした。
甦った。拳を振り下ろした。甦った。拳を振り下ろした。甦った。拳を振り下ろした。甦った。拳を振り下ろした。
甦った。拳を振り下ろした。甦った。拳を振り下ろした。甦った。拳を振り下ろした。甦った。拳を振り下ろした。
甦った。拳を振り下ろした。甦った。拳を振り下ろした。甦った。拳を振り下ろした。甦った。拳を振り下ろした。
甦った。拳を振り下ろした。甦った。拳を振り下ろした。甦った。拳を振り下ろした。甦った。拳を振り下ろした。
甦った。拳を振り下ろした。甦った。拳を振り下ろした。甦った。拳を振り下ろした。甦った。拳を振り下ろした。
終わらない。終わらない。終わらない。女の情念は狂気の域に、対する男の意志とて鋼の求道。
どちらも共に、退くと言う概念を知らぬのだ。ならばこの繰り返しは、どちらかが折れるまで終わらない。
「続けると言うならば、良いだろう。……終わるまで、繰り返すだけだ」
大天魔は拳を握り、そして振り下ろす。青年は命を落とし、女の情念に甦る。
それは宛ら等活地獄。活きよ活きよと苦しめられる。伝承にある八大地獄そのものだ。
黒肚処地獄の中にあって、異なる地獄の体現と化したこの砂漠。
振るわれる拳は至高の鉄拳。鍛え抜かれた武の極点。己の命を奪う拳を目に焼き付けながら、ユーノ・スクライアは死に続ける。
副題 黄金劇場開幕。
スカさん平常運転です。
主人公ポジが戦闘から除外されるのは、Dies先輩ルートからのお約束。
ユーノ君をボールに、キャッチボール! 超・エキサイティングッ!