副題 装甲悪鬼屑兄さん
1.
夢を見る。羊水の中で微睡む様に、高町なのはは夢を見た。
一人の男が居た。実直で物腰穏やかな、好青年と言うべき男であった。
世が世なら平穏無事に、人より恵まれた人生を謳歌出来たであろう青年だった。
だが、生まれた家が悪かった。櫻井と言う家系は、その初代である武蔵が生み出してしまった偽槍に呪われていた。
櫻井の当主は、生きたままに腐っていく。偽槍に喰われて、身体が崩れ落ちて行く。その果てに至るは蠢く死人。腐り果てて自我を失い、それでも死ねぬ生ける屍。それが櫻井の家系に伝わる呪いで、その呪いからの解放こそを男は望んでいた。
己の為ではない。自分は良いのだ。もう救いようがない程に腐っていると、そんな事は理解していた。
だがそれでも、認められない理屈がある。彼には一人、決して誰にも譲る事は出来ない最愛の妹が居たのだ。
自分が腐って死体となれば、次に偽槍が狙うのは妹だ。それはいけない。それだけは許せない。認められないのだと、狂おしい程に餓えて求めた。
願ったのは一つ。己が腐るから、己だけが苦しむから、どうか妹は腐らずに居て欲しい。全ての穢れを引き受けるから、この呪いよ終わって欲しい。
だからこそ黄金へと頭を垂れた。自分の代で何時かきっと、この呪いを終わらせる為にこそ、櫻井戒はそれだけを望み求めていたのである。
その願いは哀れに散った。彼を愛し、彼をこそ救いたいと願った戦乙女。そんな女との間に繋いだ情を利用され、櫻井戒は屍人に堕ちる。
トバルカイン。死しているのに蠢く死体。自我を失くして、操られるだけの腐った屍人。そう成り果てた男は守りたかったモノを守れずに、愛した女を己が手に掛けて黄金に飲まれた。
それでも、その願いは変わらない。全てが終わった果ての時代で、それでも彼の意志は変わらない。
嘗ては守れなかったからこそ、今度は必ず守り通す。己だけが腐るから、どうか大切な人よ健やかで在れ。
だから男は戦うのだ。この時代、全てが終わった果ての時代を繋ぐ為に、今度は必ず守ると誓って。それが男の全て。腐毒の王が真実の姿であった。
2.
クラナガンが湾岸地区。その周辺に生み出された、天魔・宿儺の安全圏に程近く。
彼の地にて、魔群が蠢いている。無数の蟲が散発的に襲撃を仕掛けて来て、避難民たちを乗せた装甲車を走らせるヴェロッサの妨害を行っていた。
「クソっ、こんな時にどうしてっ!!」
余裕の笑みなど疾うの昔に失って、避難民を乗せた大型車両を振り回しながらに舌打ちする。
この領域下では魔群も影響を受けているのか、その攻勢は激しくはない。だがされど、余裕がある程に緩くもなかった。
散発的に、数で群がって、少しずつヴェロッサ一行を追い掛け回す。
天魔・宿儺から距離を置いた場所に避難民を退避させた後、月村すずかの援護に回ろうとしていた。そんなヴェロッサは、それを妨害するかの様な魔群の行動に歯噛みした。
「不味いんだよ。危機なんだって、理解してくれよ。陰険女っ!」
車のハンドルを切るヴェロッサは、逃げ出す直前に触れていた。気になったのだ。女の勝算がどれ程にあるかと。
希少技術である思考捜査。人の内側に広がる内的宇宙に触れた事で、ヴェロッサ・アコースは理解していた。
「あのままじゃ負ける。必ず、だって言うのに」
月村すずかの勝率は零パーセント。そもそも彼女が頼りにする一つの要因が、既に機能していない。前提条件を間違えている。
故に負ける。必ず負ける。それを知らずに挑んでは、勝ち目などは欠片もない。だからこそ、彼女を一人で当たらせてはいけないのだ。
だと言うのに、それを阻む。同じ大天魔を敵とする、反天使と言う一団が、だ。
「一体何を考えているんだ!? お前達はっ!!」
付かず離れず牽制を続けるクアットロを見上げて、ヴェロッサは言葉を吐き捨てる。
そんな彼と同じ感想を抱きながらに、魔群の攻勢は尚も続く。身洋受苦処地獄において、吸血鬼の女と両面の鬼の戦闘に介入出来る者は未だ居ない。
幾何学模様の宙の下、轟音と共に四つの砲門が火を噴いた。女物の着物を纏った金髪の鬼。
筋力の付いた男の硬い腕と、柔らかで丸みを帯びた女の腕。合わせて四つの腕には、馬上筒と言われる大型の銃器。
放たれる弾丸は、見た目通りのそれではない。轟音と共に迫るのは、戦車の主砲と見紛う程に圧倒的な破壊である。
人型から放たれるには、余りに過ぎた高火力。それを前に立つ紫髪の女は徒手空拳に、人より優れた身体能力を頼りに身を躱す。
明けない夜は使えない。不幸を齎す血染花を咲かせられない。それは頭上に広がる空が故。
無間・身洋受苦処地獄は自壊の法則。如何なる異能の発現も許さない領域で、特別な力など使えはしない。
それは異能だけではない。あり得ざる存在。夜の一族と言う血筋にすら反応する。
魔法生物の様に、領域下に入った瞬間に即死する程ではない。だがそれでも、月村すずかの性能自体が落ちていた。
背に冷や汗を掻きながら、必死に身を捻る月村すずか。今の女は人並みを、僅かに外れた程度の力に納まっている。プロスポーツのトッププレイヤー、その半歩先程度の身体能力しか引き出せないのだ。
故に銃弾を見てから躱す様な真似など出来ず、銃口の向きから予測して砲撃をギリギリで回避する。その程度しか出来ていないし、それ以上など出来よう筈もない。
四本の腕から放たれるのは、大砲の釣る瓶打ち。
そして起こる結果は正に鴨撃ち。この場において、狩る者と狩られる者は明確だった。
異能は使えず、素の性能差で挑めばこうもなる。そんな事は分かっていて、それでも月村すずかには確かに勝算と言うべき物があった。
それは己の内的宇宙。其処に今も眠るであろう白貌の吸血鬼。彼ならば格の差を限界にまで詰められる。一方的に封じられる己とは異なって、戦闘と言う形にはなる筈だと。
(っ、どうして!? ヴィルヘルム)
だが、その前提が破綻していた。そんな事実に漸くになって、月村すずかは気付いていた。
(どうして、貴方の敵が此処に居るのにっ! 答えてくれないの! ヴィルヘルム!!)
内なる声が答えない。この宿敵を前にすれば燃え上がる筈の、吸血鬼の闘志が感じられない。
居ない訳ではない。居ない筈はない。なのに存在が感じられないのだ。一体何処に居るのか分からぬ程に、ヴィルヘルム・エーレンブルグが弱っている。
一体何故なのか。この空の下で、存在すら出来ぬ程に何故弱っているのか。
疑問に抱いて、そして気付く。答えは簡単だ。解答なんて一つだけ、彼は疾うの昔に弱っていた。
敵の攻撃を前にして、ヴィルヘルムが一方的に敗れる筈なんてないのだ。彼は生存に特化した者。それが反骨の意志を宿して、燃え上がれば如何な太極とて一方的には潰せない。
故にその解答に至る。燃え上がる余力も残さぬ程に、元から追い詰められていたのだ。この身洋受苦処地獄に飲まれるよりも遥かに前に、ヴィルヘルム・エーレンブルグは外界に出れない程に消耗していた訳である。
それこそがヴェロッサが気付いた勝てない理由で、月村すずかが間違えていた前提条件。此処にやって来た両面鬼すら、見誤っていた真実だった。
(一体何時から、貴方は……)
胸の奥。己の意志で埋没すれば、微かに感じる小さな波動。
辛うじて消えてはいないが、最早表に出る事など出来ぬ程に、あの男は弱っている。
一体何時からだろうかと、砲撃の雨から逃れながらに思考する。
最後にその声を聞いたのは忘れもしない。夢の世界で、絶望の廃神と相対した時である。
それ以降は、声を聞いた事すらなかった。それでも己の容姿が魔に近付いていたが故に、まだ健在なのだろうと思考していた。
それこそが誤解だ。彼女が魔に近付いていたのは、内なる白貌を取り込んでいたからに他ならない。ヴィルヘルムはすずかに貸した力を、取り戻せては居なかったのだ。
だから夜を使う度に、彼はすずかの内面へと溶けていった。吸収に抗える程に力が残っていなかったから、今はもう掠れて消えそうな程に弱っている。
彼が弱ったその分だけ、月村すずかは確かに強くなっている。嘗ての彼に近い形で、すずか自身が強くはなっている。だがそれでも、両面の地獄に対抗出来る程ではない。
精神の在り様の違いだ。魂に焼き付く形で力自体は取り込めても、その精神性が違っている。
何が何でも生きるのだと、そんな意志を持っていた白貌の吸血鬼。彼の意志と比べて、月村すずかは脆弱に過ぎるのだ。
故にこそ、それを理解した両面宿儺は、詰まらなそうに呟いた。
「なるほどねぇ。持たなかった、のか」
口にして、それも当然だろうと納得する。あの全てが終わった日から、一体どれ程の年月が経ったのか。それを思えば当然だった。
この世界が流れ出すまで、天狗の法下で糞尿に塗れ続けていた。この世界が流れ出してから数十億年、気が遠くなる程の時間があったのだ。
夜刀に守られた夜都賀波岐でさえ、今にも自壊しそうな者らが居る有り様だ。
紅葉や母禮当たりはもう持たない。この今に自壊してもおかしくないと、天魔・宿儺は判断している。それ程に、流れる時間は長かったのだ。
世界が二度も変わった時間。超越者の守護すらない吸血鬼が、あれ程に力を使えば衰えるのは必定だ。
使った力を回収できずに、湯水の様に次代に与え続けていれば、消耗するのも当然だろう。何れ消えると、本人も分かっていた筈なのだ。
「まあ、無理はねぇ。俺らみたいな加護もなしに、お前らがそう長く持たないのは妥当だろうよ」
月村すずかが強くなっていたのは、カズィクル・ベイとの同調が上がっていた訳ではなかったのだ。
あの日に使用した力が、すずかの魂に馴染んで取り込まれた。だからあの日から先に、彼女が使用していたのは白貌の影響を受けて変質した己の力。
引き出していたと勘違いしていて、あの日を境にヴィルヘルムはもう沈黙していた。
だから事此処に至って、都合良く彼が復活するなどあり得ない。彼に力を供給する者などは何処にも居らず、ならば消え去るのが必定だろう。
天魔・宿儺が求めた敵は、もう何処にも居ない。
前の世界からの因縁の相手も、この世界で見付けた敵手も、両面鬼の前には立てないのだ。
「だが、まぁ。分かっても白けるわ」
それを理屈で理解して、それでも感情が白けてしまう。期待していたからこそ、梯子を外されて呆れてしまった。
そして同時に、怒りさえも抱いている。それは白夜の北極圏。同調した記憶の中に埋もれた何時かの言葉を、何故だか印象深く覚えていたが為であろう。
「生きるんじゃなかったのかよ。残り続けるんじゃなかったのか? 黄金の獣が居なくなっても、宇宙が壊れても、生き続けるんじゃなかったのかよ。馬鹿野郎が」
光の中で、天使になりたい。そう望んだ女に持って行かれた半分を、あの世界で取り戻したのではなかったのか。
だと言うのにこの無様。どうしてそれを許容できるか。冷めた目で見下す両面悪鬼は、目の前に居る月村すずかなど見ていない。
「これだと、あの姉さんも怪しいかね。お前らの魂に力は焼き付いているが、焼き付けた分だけ魂は衰え消滅し掛けって訳か」
そして遠く、同胞が戦う女を目に映す。生存性に特化したヴィルヘルムでこの有り様なら、ザミエル・ツェンタウアは更に不味い状態だろう。
次代の魂に力は引き継げている。その点で言うならば、彼らは既に役割を果たした。その末路を称えて見送る事はしても、死人に鞭を揮うべきではない。
そうと分かって、それでも思う。残念だと、そう感じる情を拭えない。
天魔・宿儺は嘗ての同士が消えていく現状をどうしようもなく嘆いていて、この今など見るに値しないと言外に断じていた。
「……ヴィルヘルムはもう、戦えない。表に出られない程に衰えて――だとしてもっ!」
カズィクル・ベイが居ないならば取るに足りぬ。そう見限られて、月村すずかは意志を示す。
力は確かに引き継いでいる。この自壊法に対抗できる程に発揮できずとも、それでも力を引き継いだのだ。
ならば己が為さねばならぬ。彼が決着を付けられぬと言うなら尚の事、己以外に誰が出来ると言うのであろうか。
「だったら、私がっ!!」
出来ないと言う理屈は通じない。溶けて消えたと言う事は、溶けた分だけ自分が膨れ上がったと言う事。
嘗てのヴィルヘルムは、この空の下でも限定的な異能を使えた。その実力に追い付いていると言うならば、同じ事が出来ずに居られるか。
月村すずかは意地を見せる。己の内に闘志を燃やして、暗き夜は開かれようと――
「テメェじゃ無理だ」
しかし発動などは許さない。唯の意地など通しはしない。黄色の宙が、夜の帳を自壊させる。
幾何学模様の世界が吸血鬼の法を発動前に無効化し、そして両面の鬼は気怠い所作で銃弾を放った。
「っ!?」
「まだテメェ自身を受け入れてねぇ、そんな尻が青いガキには負けねぇよ。相手にならねぇ。遊びにならんさ」
大砲の様な号砲に撃ち抜かれて、月村すずかは後方へと吹き飛ばされる。
意地でも展開するのだと、一念に縛られていたが故に躱せない。すずかは痛みを感じる事も出来ずに、腹部に衝撃を受けていた。
それは最早、穴と呼ぶのも相応しくはないだろう。女の腹に亀裂が走る。
巨大な亀裂を基点に、女は身体を二つに引き裂かれる。上下に分かたれたその身体は、仰向けのまま崩れ落ちる様に地面に倒れた。
崩れ落ちた女の身体は、夜の一族の再生力すら発現できない。
血の海に浸かる髪が散らばり、赤く濡れた女は霞む視界で敵を見上げる事しか出来なかった。
見下ろす男は詰まらなそうに、倒れた女に理由を告げる。例え実力が追い付こうとも、彼女では勝てない絶対の理由を。
「俺の敵と見られてぇなら、先ずは垂れ流してるテメェの血を認めてから来い。それすら出来てねぇから、お前じゃそそらねぇんだよ」
強度が違う。意志の強さが違っている。格の違い以上の開きがあって、だから再生などは許さない。
少なくとも己の生まれを否定している限り、そんな自己否定の力などに負けはしない。負けられはしないのだ。そんな弱さには。
彼が求めた次代に、その弱さでは辿り着けない。両面の鬼が望んだ策謀。其処に至るにそれでは、強度が全く足りぬのだ。
故に、此処で加減などは要らない。する必要なんてありはしない。事此処に至って尚、加減しなければ生きて居られぬ戦士などは不要なのだ。
「興ざめだよ。じゃあな。お嬢ちゃん」
崩れ落ちたすずかに向けて、両面宿儺は無造作に銃口を向ける。
指で触れた引き金を、引かぬ理由は何処にもない。無造作に軽い引き金を引いて、轟音と共に弾丸が飛んだ。
3.
冷たい夜風は嵐の如くに、腐臭を吹き飛ばしながらに荒れ狂う。戦技はどちらも共に絶大。片や積み重ねた経験が故に神域に迫る程の純粋な武芸を揮い、片や人が抱いた恐怖そのものと言うかの如く魔性の動きを此処に見せる。
技巧が同等ならば、結果を示すのは力の差だ。地力の差で押し負けた悪路王は膝を付き、膝が崩れて泳いだ上体へと打ち込まれるのは焔を纏った漆黒の拳。時の鎧すらも貫いて、天魔・悪路はその身を大きく吹き飛ばされる。
大きく飛ばされた大天魔は如何にか追撃を避けようと、そんな動きを反天使は見逃さない。
空中で如何にか身体を捻って、態勢を整える天魔・悪路。前を向いた彼はその眼前に、ナハト=ベリアルの
「っ!?」
「くはっ!」
亀裂が走った様に嗤う悪魔の手が伸びる。燃え上る炎に焙られながらに、苦悶の声を如何にか飲み込む。
痛みに耐える悪路を見下ろして、未だ死なぬのかとナハトは嗤いながらに短く握ったストラーダを深々と突き刺した。
「アッシャー・イェツラー・ブリアー・アティルト――開けジュデッカッ!!」
そして、燃やす。数千メートルにも及ぶ炎の支柱が燃え上がり、悪路王の全身を隈なく燃やし尽くす。
常人ならば、いいや神格であっても数百、数千回は死ねる腐炎の壁。内側より燃やされながら、それでも天魔・悪路は耐え切った。
「っ!!」
「ほう」
そして己に突き刺さった槍の穂先を、己の身体ごとに切り捨てる。己が意志で臓腑を抉りながらに、半身を捨てると自由になった。
力比べをしては勝てぬと知っているからこそ、己の身を削る事を選んだのだ。そうして腹に出来た傷を塞ぎながらに、両手に構えた大剣を振るう。
血反吐を堪えて振り下ろされた大剣を、ナハトは難なくと片手で受け切る。
視線が混じり合う。嘲笑う悪魔と苦痛に耐える天魔。どちらが優位にあるかなど、最早論じるまでもない。
「随分と耐える。中々持つじゃないか」
少しずつ塞がる傷口。未だ開いた病巣から中身を零しながらに、それでも攻勢を続ける天魔・悪路。
その全霊の一撃を片手に握った槍の穂先で受け切って、ナハト=ベリアルは暗く嗤う。生きているのが意外だと、それは偽らざる本心だ。
手を抜いた心算はない。嗤いながら語るこの今も、僅かにでも緩めば殺してしまおうと思っている。
それが出来るだけの性能差。圧倒的な違いがある。それだけの格の差があり、それでも悪路が生きているのは彼の資質だ。
耐性の有無、だけではない。生きる事。戦う事。その経験が、彼を生かしている。
絶殺の領域を踏破して、首の皮一枚で繋いで居るのは天魔・悪路の実力故の結果なのだ。
「故に解せない。お前ならば分かっているだろうに、愚策を何時まで続けている?」
だからこそ、分からない事がある。理解が出来ないのだ。こうも実力が高い者が、何故にこんな初歩的なミスを続けるのか。
問い掛けながらも、ナハトは踏み込む足に力を入れる。鍔迫り合いはそれだけで、ナハトが一転優位となる。
攻勢を仕掛けた筈なのに、気が付けば守勢に回るしかない状況へと。そんな形で追い詰められながら、天魔・悪路は小さく言葉を口にした。
「……何のことだ」
「何故太極を閉じないのか、と言う事さ。俺に力を与えていると分かって、無駄をしているとは思わんかね?」
じりじりと踏み込んだ足へ体重を移しながらに、追い詰める悪魔は嗤いながら問い掛ける。
解せないと、そう口にしたのは一つの事実。この太極がナハト=ベリアルを活性化させると理解しながら、どうして展開し続けるかと言う当然の疑問だ。
太極がある限り、ナハト=ベリアルは回復を続ける。借りに万が一如何にか手傷を負わせても、その直後には完全回復してしまう。
逆にこの太極を閉じたならば、高確率でエリオの意志が復活する。内側からと外側からと、両面から攻められればさしものナハトも多少は手間を取るだろう。
そんな事、少し考えれば誰にも分かる。当然、天魔・悪路も分かっているだろう。
故に何故そうはしないのだと、ナハトは疑念に思いながら問い掛ける。問い掛けながらも、どうでも良いかと頓着しない。
腕に力を入れる。足に体重を掛ける。じりじりと、少しずつ確実に追い詰めていく。
答えるならば良し。答えなくても良し。答える前に死んだとして、それはそれでどうでも良い。全てどうでも良いのだ。意味がない。頓着する価値もない。無価値でしかないのだから。
「……思わないな。
「ほう。その心、聞いてみたいな。興味がある。囀ってみせろよ。大天魔」
既に片膝を地に着く程に、残る片足も足首の半ばまで地にめり込む程に、全身で大剣を支えながらに悪路は口にする。
言葉では興味があると嘯きながらに、どうでも良いと冷めた表情で嗤うナハト。その誰でもない悪魔の笑みを見上げながらに、櫻井戒は己の理屈を口にした。
「大した事じゃない。唯単純に、太極を閉じれば自由になる奴が居ると言うだけの理由だ」
太極を開いた方が、閉じた状態よりも都合が良い。そう語る天魔・悪路。
彼の理屈は唯一つだ。それを何よりも分かり易い程に、何よりも分かり易い形で、此処に言葉として断言する。
「トーマ・ナカジマ。エリオ・モンディアル。この二人が今動けないのは、僕の太極が開いているからだ。逆説、これを閉じれば、彼らが動く」
「……詰まりは、なんだ。お前はこう言っていると言うのか?」
悪路の太極。全てを腐らせる叫喚地獄。これは足手纏いを巻き込む形で、トーマ・ナカジマを行動不能にしている。
腐敗の呪風。あらゆる万象を腐らせる地獄。それを使ってナハト=ベリアルを活性化させる事で、エリオ・モンディアルを封じ込めているのだ。
それが、この太極を開き続けている意味。それが、ナハト=ベリアルを表に出した理由。詰まりはそう。天魔・悪路はこう言っているのだ。
「トーマ・ナカジマとエリオ・モンディアルよりも……
「事実。僕はそう言っているんだ。誰でもない悪魔」
舐めているのではない。侮っている訳ではない。揺るがぬ事実として、天魔・悪路はそう断じている。
彼らの対立。終焉の後の日より、彼らは全てを見続けていた。観察した日々の中で、確かにその輝きの階を感じていた。
トーマとエリオ。二人を同時に敵に回せば、ナハトを相手にするよりも危険だと感じている。だからこそ、彼はこの選択を選んだ。その事実に、後悔する事なんてない。
「意志を見た。輝きを見た。これが真実ならば、屑でしかない僕などでは届かない。そう思ってしまう、輝きの断片を見た」
櫻井戒は唯の屑だ。全身腐っていて、今尚腐臭は取れやしない。そんな事、誰より己が一番分かっている。
だからきっと彼は勝てない。あの対立する二人の魂に見た輝きが、真実誰よりも尊いそれだと言うならば、櫻井戒では二人を同時に敵に回せば必ず負ける。一瞬、心の底からそう思ってしまったのだ。
「未だ信じられない。きっと見間違いに違いない。唯の偽物で、吹いて飛ばせば消える物。そうは思うけれど、もしも本当だったなら――きっと、この屑でしかない我が身は敗れる」
信じられない。信じたくはない。この世界の民を信じて、その度に裏切られ続けたからこそ確かに思う。
今になってその階が、変わるかも知れない輝きが、視えたなどと信じたくない。信じる訳にはいかないのだ。
それでも、もしかしたら、そう思う感情を消し切れないのは――
「それは喜ばしい事だけど、今は未だ消える訳にはいかない。我らの永遠は、まだ終わらせられない。引き継ぐべき次がなければ、終わらせる訳にはいかない。……だから、
櫻井戒はそれを己の弱さと恥じている。恥じていながらも、心の何処かでそうあって欲しいと願っている。
終わらない。終わらせない。そう心に誓って、必ず果たすと決めた。その意志すら破られると言うならば、それはきっと屑では勝てぬ輝きがあるから。
ぶつかり合う両者の対立に、その断片を見たのだ。今は未だ小さくとも、何時かそうなるかもしれない魂の発露を垣間見たのだ。
今は未だ未熟だ。偽りや見間違いであって欲しいと思っている。それでも、それがこの感覚が本物ならば、彼らは本当の意味で輝く者に成れるかもしれない。そんな資質が確かにあると想えたのだ。
「輝く者は、恐ろしい。時に絶望すらも乗り越える程に――屑でしかない僕の目には眩し過ぎる」
理屈ではない。それでも、確かに言える事がある。
魂が輝く者は強いのだ。心に芯がある者は絶対に強いと断言出来るのだ。
それは絶望の只中ですら希望を信じ続けて、何時か本物の希望を齎してしまう様な者。
そうなるかもしれない資質を持った人間を、二人も同時に相手にする事は余りに怖い。二人が同じ方向を見れば、不可能だって可能にしよう。そんな風にも、思ってしまった。
「だが、お前は強いだけだ。我を想う我すらないから、塵屑以下の無価値でしかない。そんな誰でもない悪魔には、負けはしないさ負けられない」
対して、ナハト=ベリアルはどうだ。確かにコイツは強大だ。夜都賀波岐ですら、子供扱い出来るだろう。
だがそれだけなのだ。強いだけで、恐ろしいとは思えないのだ。夜風の冷たさも、恐怖を刺激し努力を嘲弄する言動すらも、全てが薄っぺらい作り物。
これは木偶だ。強いだけの木偶である。ならばどうして、恐ろしいなどと感じよう。
全身を使って漸く受け切れる。それ程の威を受けながらに、天魔・悪路はそう断じる。強い意志を持って、彼は手にした剣を握る。
「断言しよう。木偶の剣など届かせない。届かせる訳にはいかないんだ。背負う物があるから、負けられない。その想いすらないお前に、木偶と言う無価値なお前などに、櫻井戒は倒せない」
櫻井戒には、背負う者がある。それはトーマ・ナカジマも、エリオ・モンディアルだって持っている。だが、ナハト=ベリアルには何もない。
無価値の悪魔は異名の如くに、空っぽなのだ。誰もが願って、そう在って欲しいと、だからそう在る。誰もが祈って、そう在って欲しいと、だからそう在る。そんな空っぽでしかない。だから、そんなモノに負ける訳にはいかない。
崩れた膝に力を入れて、意志の力で立ち上がる。沈む足を前に進めて、見下す悪魔を押し返す。
数字を見れば、勝てる訳などない。異能で考えれば、相手になる筈もない。意志の差を思えばそう――櫻井戒が、苦戦する筈がないのだ。
「それが僕の、櫻井戒の魂だ。お前には無い、かくある自分の総てだよ」
踏み込む一撃に全霊の意志を込めて、これで倒れても構わないとばかりに刃を振り抜く。
全身に激しい虚脱と、傷が開いた痛みに意識を薄れさせながら――それでも櫻井戒の大剣は、ナハト=ベリアルを押し切った。
振り抜かれた大剣が空を切る。押し切られた悪魔は後方へと跳躍し、無傷で大地に着地した。
押し返した櫻井戒は満身創痍。既に何時倒れてもおかしくない程に、対してナハト=ベリアルは無傷のままに立って嗤う。
「フフ、フフフ、ハハハ……どいつもこいつも、嗤わせてくれるな」
二度目だ。眼中にないと、比較されてあちらに劣ると、この世界の最強種である彼に不適切なその罵倒。ナハト=ベリアルは怒りに震える。
確かに認めよう。ナハトは夢だ。夜と言う現象に対して、悪魔と言う概念に対して、人が抱いたイメージの具現。それを体現しているだけの存在で、だがそれでも強いのだ。
「自分がない。だからどうした? 負けられない。そんな意志一つで、一体何が出来ると言う? 此処に今、お前は無様を晒している。その事実は変わらない」
我思う、故に我在り。デカルトの思想一つで覆せる程に、ナハト=ベリアルは弱くない。
自己がない。それでも強い。負けられない。そんな意志など力だけで踏み躙れる。意志だけで弱者が強者に勝てると言うなら――それこそ、この世界は生まれてすらいない。
意志の強さ。誇りの在り様。魂の輝き。そんな物を、糞と断じて踏み潰した邪神が居る。絶対の力と言うのは、そういう物だ。
彼の邪神には届かずとも、ナハトも同じくそう言う精神論が通じぬ怪物。繋がっているエリオならば兎も角、負けないと言う意志一つで外の存在が勝てる様なモノではない。
「精々吠えろ。
「――っ!」
全霊を以って、押し切られた。成程良いだろう。ならばもう一度潰すまで。
意志の違いが力になる。ならば良かろう。その高まった力の全てを、無価値と見下し此処に駆逐しよう。
轟と冷たい夜風を伴って、ナハトは大きく跳躍する。
闇の翼を羽搏かせ、空から責め立てる姿はまるで猛禽類。
天魔・悪路も必死に抗うが、それでもその身は鳥に狙われた毛虫と然程変わりはしない。
「お前が塵なら、俺は差し詰め焼却炉さ」
詰まりは何も出来ていない。全霊を以ってして、押し切り返すが精々。それが天魔・悪路の限界だ。
対してナハトは、一撃離脱の戦法を此処に取る。頭上からの急襲と離脱。その繰り返しを一度押し返したとして、一体それが何時まで持つか。
潰れるまで、繰り返せば良い。対処能力を超えた時、ナハトの勝利が確定する。それが、力の差と言う物だ。
「掃除をした時、塵屑は集めるものだろう。集めた塵屑は、纏めて焼却炉だ。人間の営みって奴は、そういう物なんだろう? だったらそれに乗っ取って、無価値にしてやるよ。
赤い瞳が闇夜に踊る。腐った呪風の只中を、切り裂くように夜風が吹き抜ける。
少しずつ、少しずつ、だが確実に切り刻まれて落ちていく。これ以上には腐らずとも、これ以上は身体が持たない。
戦力が決定的に違っているから、悪路はこれで耐えた物。彼でなくば、これ程には持たなかったであろう。
他の夜都賀波岐も変わらない。例外は相打ちと言う勝機がある大獄だけで、それ以外の偽神達では此れより以前に死んでいた。
だからこそ、彼は確かに己の意志を示したのだ。櫻井戒と言う
それでも、足りなかったと言う話。意志の力だけでは埋められない程に、力に差が開いていたと言うだけだ。だから、これは何も不思議な事ではない。
「終わりだ」
天魔が崩れる。悪魔が嗤う。勝敗は此処に、確かに決した。
大剣を支えに、倒れないだけの大天魔。未だ傷と言う程の傷も受けてはいない、嗤い狂う無価値の悪魔。最早、結果は揺るがない。
「じゃあな。詰まらなかったぞ。櫻井戒。……直ぐにお前の大事な者も穢してやるから、全てを悔やみ後悔しながら――唯、死ね」
槍を片手に、軽く握って前に突き出す。そんな単純な動作が異常な程に素早くて、疲弊し切った悪路は反応すらも出来ていない。
突き刺さる。槍の穂先が鎧に当たって、更に奥へ奥へと突き刺さる。失わせはしない。奪わせはしないと、急に強くなった抵抗。涙を流す赤き髪の残影。それすらも、今のナハトを阻むには足りない。
此処で、天魔・悪路は倒れて敗れる。ナハト=ベリアルは倒せずに、次は他の天魔が堕ちる。
そして最後、大獄を道連れにしてナハトは無価値となるだろう。この世の全てを異名の如く、悉くを無価値に変えて――
「な、に……」
驚愕は悪魔の口から、勝利の瞬間を前にして、ナハトの腕が震えている。
腕だけではない。足が、指が、頭が、心が、魂が――全てがぐちゃぐちゃに、引き裂かれる様に揺れている。その形骸を保てぬ程に、ナハト=ベリアルが崩れ始めた。
「馬鹿な。これは、俺が、崩れて、一体何故、何を――」
一つ、一つと覚める夢。一つ、一つと崩れる魂。二十万と言う魂の群体が、バラバラになって散っていく。
目の前の天魔が何かをしたのか。一瞬疑問に思うが、直ぐにそれを否定する。荒い息を整えながら、まだ立ち上がる事すら出来ていない天魔・悪路。男に何かが出来る筈がない。
ならばそう、理由は違う。別の場所にあるのだ。
そうと理解した瞬間に、その理由に辿り着く。答えは一つ。それしかなかった。
「一体、何をやっているっ!? アスタロォォォォォォォォスッ!!」
奈落の揺り籠が落ちたのだ。守護者であったヴィヴィオ=アスタロスが負けたのだ。それしか理由はあり得ない。
「相変わらず、遅いぞ。マレウス。……だが、助かった」
ゆっくりと起き上がる天魔・悪路。満身創痍の身体を剣で支えて、肩で息をしているその姿。
余りにも傷だらけで、今にも倒れそうな程。そんな身体で一歩を踏み出す大天魔に、意識を向ける余裕すらもナハトは持っていなかった。
崩れていくのだ。人が夢から覚めていく。墜ちたのは、聖王の揺り籠だけではない。
同化していたその中枢。反天使を支える奈落そのものが壊されたのだ。故に誰かが見た夢でしかないナハトは、その存在を保てない。
誰でもない悪魔は、結局誰にもなれなかったから、誰でもないままに終わるのだ。
「貴様、俺が、俺は、頂点、だぞ。それが、最強種が、こんな、ことで――」
形骸が壊れ、魂が崩れ、ナハトの存在が消えていく。それは悪魔を命綱とするエリオも同じく、解ける様に彼らは壊れていく。
膝から崩れ落ちて、砕けていく己を如何にか留めようと頭を掻き毟る悪魔の王。その眼前に立つ天魔・悪路は、ゆっくりと折れた大剣を振り上げた。
「さらばだ。無価値の悪魔」
そして、振り上げた剣を振り下ろす。絶殺とは程遠い一撃を、躱す余力など今のナハトにありはしない。
故に振り下ろした刃は止まらずに、少年の身体から血が噴き出す。天魔・悪路の一撃。その一押しが、最期の決め手となった。
「かくある己も分からぬままに、屑にもならずに消えていけ」
少年の身体が大地に沈む。中身の無くなった肉塊が、叫喚地獄の中に倒れたのだった。
かくして、事態は次なる展開へと進む。夢界の崩壊と共に最強の反天使は敗れ、状況は整理されていく。それでも……失楽園の日は、まだ終わらない。
奈落崩壊。ナハト消滅。エリオ巻き添え。
動揺するトーマを前に一息休憩入れた後、満身創痍の屑兄さんが攻撃を開始します。