リリカルなのはVS夜都賀波岐   作:天狗道の射干

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順番的に、今回は常世ちゃんに活躍させたかった。
     ↓
なら先ず、スカの攻勢から大逆転の黄金パターンだな。
     ↓
スカが自分の手番で全部持って行く。(何だコイツ)


第二十五話 失楽園の日 其之捌

1.

 夢を見る。羊水の中で微睡む様に、高町なのはは夢を見た。

 

 

 

 子供が居た。生まれながらに特別で、誰とも違う子供であった。

 異常な者を生み出すには、異常な者に親とすれば良い。そんな理屈で作られた、異常な子供。名をアイン・ゾーネンキント。

 

 彼は僅か二ヶ月で生まれ落ちた。彼は才に溢れ過ぎていた。彼は余りにも、異常な父に似過ぎていた。

 だから母は愛せなかった。この余りに異常な子を前に、腹を痛めた母が愛せなかったのだ。だから子供は、一人であった。

 

 子供は双子だった。異常に過ぎた兄のイザーク。平凡であった弟のヨハン。母の愛がどちらに向くか、想像するに容易いだろう。

 愛して欲しい。愛されたいのだ。必要として欲しい。だけど有能さを示す度に、母の愛は遠のいていく。自分は愛されないのだと、子供の心は乾いていく。

 

 まるで虚無を思わせる空洞。伽藍の穴が求めたのは、唯己を愛する父母の愛。母のそれが望めぬならば、子供は父にそれを求めた。

 恨んではいない。母もヨハンも家族であれば、どうしてそれを恨めよう。だから唯、恨まずに――それでも彼は、父性の愛を求めたのだ。

 

 黄金の獣。全てを等価に愛する怪物。それが彼の父だった。

 破壊でしか愛を示せぬ生まれながらの破綻者にして、当代の神を殺す為だけに生まれた自滅の因子。それが彼の父だった。

 

 確かに愛は与えてくれよう。獣は全てを愛している。全てを壊したいと願っている。

 だがそれは等価の愛。平等に愛すると言う事は、何も愛さぬ事と同義。特別にはなれぬのだ。彼が求めたのは、その特別となる事だったと言うのに。

 

 褒められたい。認められたい。愛して欲しい。その願いが示した結果は滅私奉公。父にとって都合の良い道具として、自分を殺して侍る事。

 母は駄目だ。彼女は父を恐れている。だから愛して貰える筈がなく、愛して欲しいと口にも出来ない。だから、イザーク・アイン・ゾーネンキントは生贄となった。

 

 魂を贄として、生きたままに城に組み込まれる。魔城を動かす心臓として、幼くしてその命を終えた。そうすれば、父の唯一無二になれると信じて。

 後に残ったのは中身のない肉塊。生理現象だけを起こす肉体だけが残されて、中身は永劫不死者の城に――地獄の底で夢を見る。夢見た願いも叶わない。

 

 全力の闘争。その歓喜に酔った父の手で、生贄にまでなったのに、邪魔だと言われて砕かれた。

 どうしてと涙を流して、それでも望みは変わらない。今も変わらず祈っている。イザークはあの日からずっと、父の愛だけを求めている。

 

 

 

 女が居た。生まれながらに特別な、誰とも違う少女が居た。

 彼女は即ちイザークの血統。贄となった彼の残骸。中身のない肉体を使って産み落とされた、太陽の子の末裔だった。

 

 彼女が生まれた理由は一つ。イザークと同じく贄となる事。

 彼女が愛された理由は一つ。イザークと同じく贄となる為。

 

 祝福された。誰からも求められた。獣をこの世に呼び込む為に、彼女と言う存在が必要だったから。

 故に少女は諦めながらに生きていく。己の運命に絶望しながら、日々を惰性で生きていく。そんな諦めた少女であった。

 

 だが、彼女は変わる。それは一重に、出会えた人との絆が故に。

 怒りの日の演者達。巻き込まれた友らの姿に、彼女は希望を捨てきれない。輝かしいその日々に、共に居たいと願ってしまった。

 

 それに答えようとした男が居た。彼女を救おうと願った男が居た。

 死を運命付けられた生贄の少女。そんな彼女を育てた義父は、彼女を救う為に謀りを掛ける。

 

 邪なる聖人は、己の主たる黄金を欺いて、ヨハンの血筋を贄に据えて、どうにか娘を救おうと手を尽くした。

 結局謀りは失敗して、少女は生贄として捧げられる。それでも、彼女は誰も恨まなかった。愛されていたと知るからだ。

 

 

 

 生贄の子供達。同じ血筋に連なった、愛されなかった子供と愛された少女。捧げた子供と、奪われた少女。

 邪神に敗れたその時に、彼女達の意志は一つとなる。目指した形は互いに違えども、抱いた想いは一つだけ。

 

 このまま終わってなるものか。故に彼らは一つとなる。

 それが子供達の全て。子宮にして心臓。大天魔の指揮官が真実の姿であった。

 

 

 

 

 

2.

 巨大な芋虫が身を震わせて、白衣の狂人は身を躍らせる。

 開いた門より放たれる悪魔の力。反天使の力が天魔を凌いで、打ち破る。それが先までの光景だ。

 

 だが此度は違う。既に奈落は失われ、反天使の力は奪われた。

 されば大天魔の威を前に戦士ではない唯人が抗える筈もなく、ジェイル・スカリエッティは空を舞う。

 

 まるで巨大な運搬車両に引かれた様に、空を舞って壁にぶつかり落ちる。ずり落ちる様に崩れ込んだ男は、激しく咳き込んだ。

 

 鏝で臓腑を焼かれる様だ。溢れる血潮の熱さに耐えかね、零れ落ちるは赤い固形物。

 青褪めた唇をどす黒い赤に染めて、何度も何度も男は吐き出す。布に染み込む様な速度で広がる血の池を、大天魔は冷めた瞳で見下していた。

 

 

「どうやら、マレウスがやってくれたみたい。どうにか、間に合ったと言えるかな」

 

 

 呟く天魔。彼女も無傷では居られない。高所に在って見下す彼女も男と同じく、既に満身創痍の身。

 攻撃に用いた神相の身体は所々に欠落し、己の半身の喪失に常世の魂は悲鳴を上げるかのように軋んでいる。

 

 後少しでも遅ければ、勝負の結果は明白だ。滅ぼされていたのは己であった。

 素直にそう認めながらに天魔・常世は、血の海に沈んだままに嗤っている狂人を見詰めている。

 

 その瞳に籠る感情は、侮蔑と冷酷さと――ほんの僅かな困惑だった。

 

 

「貴方の自慢の傑作達も、これで御終い。貴方の我欲と我執が生んだ妄想も、これで御終い。……なのにどうして、まだ嗤っていられるの?」

 

 

 分からない。分からない。理解が出来ない。今も尚、ジェイル・スカリエッティは嗤っている。

 奈落は崩壊し、魔人の身体能力さえも喪失した。男は既に死に体で、打開策など持ってはいない。

 

 死を目前としている。もう長くは持たない筈。この今に息絶えてもおかしくない。

 そんな状況にまで追い詰められて、それでもジェイル・スカリエッティは嗤うのだ。それがどうしても理解出来ない。

 

 

「どうして、か……くくく、それこそ、愚問と言う物だよ、大天魔」

 

 

 紫の髪が赤く濡れて、額にべたりと張り付く。その不快な感触も、彼の高揚を阻む道理にはならない。

 嗤っている。ジェイル・スカリエッティは嗤っている。狂った様に、狂っているから、嗤い続ける男の哄笑は止まらない。

 

 不快だ。理解が出来ない。気持ちが悪い。生理的に受け入れ難い害虫を見る様な瞳を向ける大天魔に向かって、嗤い狂う男は己の意志を此処に示した。

 

 

()()()()()()()()()()。良くぞ、ナハトを殺してくれた。ありがとう。礼を言うよ」

 

「……何、それ?」

 

 

 理解が出来なかった。これは一体何を言っているのか。

 思わず鸚鵡返しも同然の問いを投げ掛けて、そんな常世の姿に男は更にけたたましく嗤いを上げる。

 

 心底からおかしいと、どうして理解していないのかと、狂った男は嗤っていた。

 

 

「言った筈だよ。語った筈だ。何度も、何度も、何度も、何度も、私は何度も多くの者に語っていた。元より私の最高傑作は唯一つ。陰陽太極を置いて、他にはないのだと!」

 

 

 元よりこの男の望みは唯一つ。己が最高傑作によって、神を殺すと言う偉業を為す事。

 それだけが望みで、その為だけに生きて来た。だからそれ以外などはどうでも良くて、それに関わる事で一切の妥協など出来はしない。

 

 

「アレは駄目だ。ナハトは駄目だ。偶然に生まれた怪物が全てを滅ぼして、それの何を誇れと言うのだ」

 

 

 ナハト=ベリアルは傑作足り得ない。誰かの夢から生じた怪物などを、どうして我が至高と誇れるだろう。

 

 再現できない物体を偶然生み出したとしても、それは己の技術と誇れない。理論も実験も実証も、全てを零から積み上げてこそ意味がある。

 闇の書が見付けた夢界の技術。記録として残っていた第三天の模倣。それらは所詮は他人の真似事。己の粋とは口が裂けても言えないのだ。

 

 

「だがアレが強大なのは事実。私では滅ぼせなかったのは事実。放っておけば、世界全てを滅ぼすのもまた事実。だから君達に、滅ぼして貰ったのだよ。その為の揺り籠で、その為の奈落だ」

 

 

 偶然生まれてしまった怪物は、余りに強大過ぎた代物だった。生み出した狂人であっても手に負えない、だが美学も誇りも何もない空っぽな化外。

 無価値の悪魔とは良く言った物だ。アレに価値など何もない。アレは全てを無価値に変える。だからこそ、ジェイル・スカリエッティはナハト=ベリアルを認めない。

 

 自分が作ってしまったからこそ、アレを生み出した事は彼の汚点なのだ。

 それが神を殺せてしまえる程に強いからこそ、何よりもナハト=ベリアルこそが邪魔だった。

 

 最悪はナハトが世界を滅ぼす事。彼の汚点が、彼の理想を遂げてしまう事。それこそが彼にとっての悪夢である。

 ナハトの勝利はスカリエッティの求道の否定だ。無価値の悪魔で滅ぼせる程度が目指した理想だと言うならば、それが無価値以下であると言う証左となる。其れこそが最も、恐ろしいと感じてしまった事。

 

 故に失楽園の日の第二目標は即ちそれだ。ナハト=ベリアルの排除。あの怪物を殺させる事こそ、ジェイル・スカリエッティの目的だった。

 

 

「どうせ潰すのだから、戦力分散の為に囮になって貰った。分かっていても、アレは放置できないだろう。そういう類の怪物で、だからこそ私の思惑通りに君達は戦力を分散してくれた」

 

 

 そしてもう一つ。本命となるは、やはり陰陽太極だ。その完成の時を稼ぐ為に、排除したい怪物を囮としたのだ。

 

 ナハト=ベリアルは強大だ。奈落と言う弱点が無ければ、夜都賀波岐を全滅させる事が出来た怪物だ。そんなにも強大なモノだから、無価値であっても捨て置けない。

 必ずや必要戦力を削ってくれるだろうと判断し、そして男の想定通りに夜都賀波岐は戦力を分散した。両翼が動かずとも、残る天魔が全てスカリエッティの下へ来ていれば、質と量に潰されていただろう。それを封じる囮として、ナハトは十分に役を果たしたのだ。

 

 

「これで、間に合わない。君だけでは届かぬよ。君だけでは足らぬさ。他の者らにも敵は居る。正面の敵を放置して動く事など、流石に出来んだろうさ」

 

「……時間稼ぎ。それが目的だった」

 

「成長率が予想数値以下でね。こういう騒ぎでも起こさなければ、間に合わないと思ったのだよ」

 

 

 お陰で十分に時間は稼げた。黄金の槍との同調によって、太極の器は今にも完成を迎えようとしている。

 まるで羽化だ。蛹が蝶となる様に、それと等しい程の変化が女の身体に起こっている。胸の鼓動が鳴る度に、その魂は高められているのである。

 

 後、僅か。後、僅か。後、僅か。後、僅かで彼女は完成する。

 目覚めるそれは陰陽太極。正しく神々を超えるのだと、男が断ずる最高傑作――だが、その完成には未だ、後僅かの時がいる。

 

 

「そう。だとしても、もう無駄だよ」

 

 

 今にも羽化しようとしている。だが、まだ羽化には至っていないのだ。

 ならばそうなる前に潰してしまおう。蛹が蝶になろうとする瞬間こそが、その身は最も柔らかいのだから。

 

 それは決して、不可能ではない。この狂人は間違えたのだ。奈落を切り捨てる時期を、見誤った。

 今ならば取るに足りない。血に濡れた白衣の狂人も、羽化に至ろうとする陰陽太極も、共に踏み躙って潰してしまおう。

 

 

「ヨハンの系譜が目覚める前に、貴方を殺してそれで終わり。見誤ったね。狂った科学者」

 

 

 赤子の顔が泣いている。親を求める稚児が泣く。おぎゃあおぎゃあと泣きながら、無数の赤子の顔が生えた芋虫が蠢く。

 聖王教会よりも強大な、ミッドチルダにあるどの山よりも強大な、余りに強大に過ぎる芋虫が身を捩る。己の血に塗れたままに、常世の神相は大きく大地を薙ぎ払った。

 

 

「見誤った? いいや、それは君達に贈る言葉だ」

 

 

 迫る緑色の異形。教会本部がある山岳地帯を更地に変えながら、迫る異形を迎えて嗤う。

 ジェイル・スカリエッティは揺るがない。血反吐を吐いて嗤いながらに、見誤ったのはお前達だと静かに告げる。

 

 そう。誰もが間違えている。軽視していた。侮っていたのだ。ジェイル・スカリエッティの娘の一人、彼女が抱いた執着心を。

 

 

「君達は見誤っている。そうとも、誰しもが軽視し過ぎた。――あの子が生きる事に掛ける執着は、君達が思っている以上に強いのだよ」

 

 

 そうとも、此処までは予定の通り。ならば掛けた保険は此処に働く。

 切るべき手札のタイミング。あの女に戦闘を避けさせたのは、全てこの時の為である。

 

 魔刃も魔鏡も全て捨て駒。奈落は無論。そして己の命すら、捨て去る事も計画の一部。

 そんなスカリエッティの本命が高町なのはと言うならば、彼にとっての切り札は即ち――魔群。クアットロ=ベルゼバブに他ならぬのだ。

 

 

「クアットロ。予備システムと私を繋げなさい」

 

〈イエス、ドクター〉

 

 

 小さな羽虫が耳の穴から、脳に入り込む。頭蓋の中で魔血に変わり、男の内に流れる体液と同化した。

 

 グチャリと零れた血塊が、ジュウと湯気を立てて鉄をも溶かす。蠢く蟲の様に復元する筋繊維が絡み合って、傷付いた身体を繋ぐ。

 ゆっくりと立ち上がる狂人は、既に最早人ではない。魔群の血を取り込み“ベルゼバブ”へと成り果てた。そんな男は此処に今、()()()()()に繋がった。

 

 

「アクセス、我がシン」

 

「――っ!?」

 

 

 黒く濁った瞳が赤く輝く。狂気の嘲笑を前にして、咄嗟に身を退こうとするがもう遅い。

 門が開く。もう開いた。爆発する力の波は血風を纏って、神相と魔人、交差した両者は共に大きく吹き飛ばされる。

 

 風船の如く、破裂したのは常世の神相。吹き飛ぶ血潮は、彼の神だけの物ではない。

 先には無傷であった狂人はしかし、神たる女と同等以上の傷を負う。されど彼は嗤っていた。

 

 苦痛を感じていないのか。それ程に気が狂っていると言うのか。

 痛みに漏れそうになる苦悶を堪える天魔・常世は、けたたましく嗤い続ける狂人の姿に戦慄する。

 

 

「エリクシル。グラトニー。ベルゼバブ。ミッドチルダを初めとする次元世界群にこれら災厄を撒き散らしたのは、全てクアットロの独断だ」

 

 

 エリクシル。それは魔群の血。グラトニー。それは魔群の血。永遠を与えると言う名目で、他者を貶める魔の秘薬。

 エリオの裏切りから――否、其れ以前から、クアットロは率先して麻薬を流通させていた。彼女は様々な次元世界に、意図して毒を振り撒いていたのだ。

 

 その理由は富ではない。財貨などは求めていない。そんな現世の欲などは、肉体のないクアットロには何の価値もない。

 ならば、其処には別の理由がある。クアットロ=ベルゼバブが“ベルゼバブ”と言う薬物中毒者を増やしていたのは、彼女の保身が為だったのだ。

 

 

「実にあの子らしい。自分の血液で洗脳した人間の脳を、予備として使う予定だったんだろう。奈落が壊されれば廃神である自身も消える。それを避ける為に、と言う訳だ」

 

 

 奈落が失われれば、廃神は消滅する。それは肉体を失い、ベルゼバブと言う悪魔になったクアットロも同じく。

 彼女はそれを恐怖した。人々が夢から覚めただけで消え去る我が身に、あの女は酷く恐怖を抱いたのだ。故にこそ、彼女は一つを考えた。

 

 予備を用意しよう。保険を作っておこう。奈落が消えた直ぐ後に、己を夢見る者らを用意しておこう。

 その為のベルゼバブ。その為のエリクシル。その為のグラトニー。感染者が一人でも生きている限り、魔群は決して滅びはしない。

 

 そしてそんな彼らの夢で己を補強して、増やした蟲で眠りから覚めようとする人々を内に取り込んだ。奈落から解放されようとしていた命に、逃がしはしないと喰らい付いたのだ。

 魔群は全次元世界に満ちていた。彼女は何処にでも存在していた。そしてエリクシルが彼女の血ならば、魔蟲が即ち彼女の血ならば、予備を生み出す麻薬はそれこそ世界中に満ちていたのである。

 

 クアットロならば予備を作っている。確信に近い信頼が其処にはあった。だからこそ、あの女には真意を伝えなかった。

 大天魔と戦わせなかったのもそれが理由。如何にクアットロとは言え、奈落崩壊直後は動きが鈍る。その時点で駆除される事だけは、絶対に避けねばならなかったのだ。

 

 

「……それだけの規模がまだあったのは、正直予想外だった」

 

 

 全次元世界規模の夢界。それが囮に過ぎないと、ごくあっさりと使い捨てる。

 その思考が予想の外なら、すぐさま予備を動かせるのも想定外。神域級の人の集合体を次々に用意出来るなど、予想出来る筈がないだろう。

 

 だが、予想出来て居なかっただけ。予想の外と言うだけでしかなく、分かってしまえば対処は容易い。それは先の交差が、如実に示していた。

 

 

「けど、それでも、その程度。次元世界全土を包んだ先の奈落に比べれば、取るに足りない規模でしかない」

 

 

 先に展開された奈落では、常世はスカリエッティを傷付ける事が出来なかった。

 互いに武器を交わし合って、一方だけが傷付き押し負ける。それだけの力を齎すのが次元世界全土を包んだ奈落であった。

 

 だが今回は、双方が共に傷付いた。寧ろスカリエッティの方が、僅かに傷が重い程。その事実は、予備システムが先の奈落に劣っている証明だ。

 

 

「十分だよ。この程度」

 

「そうだね。この程度だ。だが、これだけ出来れば、上等だろうさ」

 

 

 奈落の崩壊と共に、場を満たしていた蟲の多くは消失した。全てが消えた訳ではなくとも、それでも多くが消え去った。

 維持できたのはベルゼバブが待機していた世界周辺。全人類を繋ぎ合わせたそれに比較してしまえば、予備システムの総量など全体の二割にも満たぬ物。

 

 規模が二割。五分の一になったと言うならば当然、戦闘能力も五分の一になるのが道理であろう。

 

 

「今の貴方なら、私の方が少しだけ強い。だから、……貴方の夢の結晶ごとに、此処で全て潰してあげる」

 

「確かに、私の方が少し劣るだろうか。だが、本当に、もう後僅かなんだ。ならば十分。持たせてみせよう。あと僅か」

 

 

 故に今ならば、己はお前に勝てるのだ。天魔・常世はそう断ずる。

 だがそれでも二割と残っていれば、時間稼ぎには十分だ。ジェイル・スカリエッティは静かに嗤う。

 

 援軍は来ない。邪魔者はいない。スカリエッティは全ての札を表にした。

 クアットロの妨害はなくなり、六課は自由となっている。彼らは必ずや勝敗が決した戦場へと介入するだろう。

 

 追い詰められた反天使と、追い詰めた大天魔。どちらを放置しては不味いのか、明確に分かる状況となっているのだから。

 

 

「さあ、続けようか。天魔・常世」

 

 

 伏せていた無数の札。その全てを此処に、スカリエッティは使い切った。

 最早伏せ札など何もない。切っていない札はなく、人事を尽くした。ならば後は、下る天命を待つのみだ。

 

 

「私が朽ち果てる前に、私の望みが果たされるかどうか――命を賭して試してみようじゃないか!」

 

 

 確実などはない。絶対などはない。だが絶対に成し遂げると確信する。

 己の望みの為ならば、己の命すらも捨て駒とする。そんな狂った求道者は笑みを浮かべて、襲い来る神相を迎え撃った。

 

 

 

 

 

3.

 襲い来る死者の群れ。絶えず溢れ蠢き踊る屍人たち。その先陣を切るのは雲の騎士。

 敵を打ち砕く鉄槌が襲い来る。敵を焼き尽す烈火が荒れ狂う。敵を抉り取る湖がその手薬煉を引いている。

 

 何もかもを叩き潰すのだと、語るかの如きその暴威。

 だがその実、彼女達は何も見ていない。見れはしない。思考する事が出来ぬから。

 

 次から次へと襲い来るヴォルケンリッター。その背に続く死者たちは、この地で命を落とした管理局は戦士たち。

 無数の歪みが、無数の魔法が、最前衛である彼女たちすらも巻き添えにしながら盾の守護獣へと降り注ぐ。その物量を前にして、ザフィーラは追い詰められていた。

 

 

「くっ! 敵に回ると、つくづく厄介だなお前たちっ!」

 

 

 後退しながらに舌打ちする。決定打こそ受けてはいないが、戦場は一方的だ。

 盾の守護獣に、この陣容を突破する事は不可能だ。彼だけの強みなど、何一つとして存在しない。

 

 共に展開するのは時の鎧。停止と停滞。四人の騎士は同じ守りを手にしていて、だが敵手の方が上を行く。

 ならば元の性能差がどうかと問えば、彼女たちは獣と同じく雲の騎士。素の性能は同等で、三人同時に打ち負かせる様な力はザフィーラには存在しないのだ。

 

 雲の騎士を相手取るだけで手一杯。だと言うのに、其処に味方を気にせぬ一斉砲火が加わっている。

 不死不滅であるが故に出来る攻勢。隙間なき絨毯爆撃を前にして、今のザフィーラは後退を続ける以外に術がない。

 

 否――一手だけ、打開の策は存在する。

 

 

(打開策は、一手ある)

 

 

 思考に浮かぶ起死回生。この状況を打破する術を、盾の守護獣は一手だけだが持っていた。

 

 それは機動力の差だ。紅葉が与える停止の鎧にはない力。停滞力場を広げる事で得られる速力加速。

 全速力で加速して、この陣容を抜けるのだ。そして指揮者である紅葉を、一刀の下に斬り伏せる。それこそ唯一無二の対抗手段。

 

 天魔・紅葉の肉体性能は、夜都賀波岐でも下位に位置する。時の鎧があるとは言っても、紅葉自身の性能自体は低いのだ。

 そしてそれだけではない。天魔・紅葉は最早限界に近い。彼女は元より死に掛けている。その事実こそが、ザフィーラが生き延びている理由であった。

 

 

「…………」

 

 

 ボロボロと足元から、崩れているその身体。限界を超えて尚も力を使う代償に、女は自死に向かっている。

 長く生き続けたこの時間。己の写し身にも似た友を殺して、その時点で限界だった。リザ・ブレンナーの精神は、何時砕け散ってもおかしくない。

 

 もう自ら動けないのだ。無理に神相を動かせば、それだけで自壊しそうな程に。滅ぶ己の死を殺せぬ以上、天魔・紅葉に自由はない。

 

 死者を糸で操って、躍らせるのが精々だ。自分がその支援に回る事など、最早出来る筈もない。

 故にザフィーラが全力を出せば、この大天魔は必ず討てる。何しろ彼女より強大な母禮を、一度は敗北の縁に追い込んだのだ。屍人の群れを振り切れるなら、天魔・紅葉を討てない理由など何処にもない。

 

 

(だが、これは……)

 

 

 だがそれは、後先を考えない場合の話だ。残った己の魔力を全て、攻勢に回して漸く得られる勝機である

 それを此処に使うのか。使い尽くして、己が憎悪を果たせぬ事を受け入れるのか。浮かぶ葛藤はそれ一つ。盾の守護獣はその葛藤を捨てきれない。

 

 故にこそのこの状況。中途半端な力では屍人の群れを突破は出来ず、嘗ての同胞達に追い詰められているのであった。

 

 

(しかし、このままでも……どの道、持たんな)

 

 

 今のザフィーラは、存在するだけで魔力を消費している。徒手空拳の姿で後退するだけでも、命を消費しているのだ。

 故にこの状況が続くなら、果たしてどうなるか。彼我が共に自滅を続けたその先に、勝利者などは生まれまい。結局彼は消滅する。

 

 それでは復讐を行う以前の話だ。何も出来ずに消える事など、盾の守護獣は認められない。

 

 

(ならば、止むを得まい)

 

 

 このまま無為に消える事は出来ない。だが全てを出し切る訳にはいかない。

 葛藤していた蒼き獣は此処に決断する。この天魔・紅葉を討ち倒す為に、己が命を削ると決めた。

 

 

「最小限の消耗で、この戦場を突破する!」

 

 

 膨大な魔力の迸りと共に、ザフィーラの姿が変わる。

 白き髪は血の様な赤に染まって、背には巨大な断頭台。全身に刻まれた文様は、停滞の鎧が真なる形で展開された証明だ。

 

 ギシリと軋む様な音を立てて、沈み込んだ足が大地を蹴る。

 速く、そして速く、何よりも速く。疾走する獣は閃光の如く、軍勢の只中を駆け抜けた。

 

 

「覚悟しろ! 天魔・紅葉っ!!」

 

 

 その速度に反応出来ず、鉄槌が、烈火が、湖が敵を見失う。

 無数の目でも捉えられぬ程に、それ程の速力に天魔・紅葉が追い縋れる筈もなく。

 

 手を伸ばす。断頭台が起動する。その首を断ち切ると、殺意を以って動き出す。

 伸ばせば届く位置にある。大天魔の首級。それを縊り落とさんと、ザフィーラはその意志を突き付けて――

 

 

「……舐められたものね」

 

 

 その直前で止められた。まるで空中に縫い付ける様に、彼の動きが僅かに止まる。

 視えない何かが邪魔をする。獣の疾走を止めていたのは、設置されていた捕縛魔法。

 

 

「設置魔法!? だが、この程度――」

 

 

 身体を縫い止める。設置魔法の力で立ち止まるのは一瞬だ。

 断頭台を振るえばあっさり壊れる程度の強度。そんな捕縛魔法一つで、盾の守護獣は倒せない。

 

 たった一秒。稼いだ時間で紅葉は動く、その神体を顕現させて、遁甲より一手を打つ。

 されど一秒。その一瞬さえあるならば、呼び出された彼にとっては十分だと言えるのだ。

 

 断頭台の刃を、巨大な絡新婦が此処に受ける。その爪はあっさりと切り裂かれて、しかし首には届かない。

 ほんの一瞬の足止め。そうして止まったザフィーラの背後、黒い影が躍る。紅葉の遁甲より現れたるは、何処かの誰かに良く似た姿。

 

 黒衣を纏った魔導師が其処にいる。僅か止まったザフィーラの背後から、己の杖を突き付けていた。

 

 

「ブレイクインパルス」

 

「――っ!? がぁぁぁっ!!」

 

 

 右腕に感じる熱。齎された結果はあの日と同じ。

 主を守れず敗れかけたあの日と同じく、守護獣の腕が鮮血と共に空を舞う。

 

 時の鎧は機能している。こうなったのは、互いの効果が相殺されているが故。

 隻腕となったザフィーラを、クライド・ハラオウンは冷たい視線で見下していた。

 

 

「最小限で突破ができる。その侮りが、敗北の理由と知りなさい」

 

 

 後先考えずに挑んでいれば、倒せていた。全力を発揮していれば不完全な神相ごとに、女の首を落とせていた。

 そうならなかったのは、男の無様な葛藤故に。最小限の消耗で倒してみせると、後の為に力を僅かに温存した。その判断が間違いだったのだ。

 

 

「スティンガーブレイド・エクスキューションシフト」

 

 

 故にその判断ミスの代償を、ザフィーラは此処に支払う事となる。

 

 紅葉を前に立ち塞がるクライドに無策で挑めば、あの日と同じ結果に終わろう。

 降り注ぐ無数の剣を回避しながら、腕を失くしたザフィーラは後退を余儀なくされた。

 

 

「轟天爆砕! ギガントシュラァァァァクッ!!」

 

「翔けよ隼! シュトゥルムファルケンッッ!!」

 

 

 当然、後退する彼を雲の騎士は見逃さない。退避に動いたその身に向けて、放たれるのは全力攻撃。

 巨大化した鉄槌を抱えて接近するヴィータ。弓に矢をたがえ、狙いを定めて放たんとしたシグナム。両者の攻撃を最早、ザフィーラは防ぐ事も出来ない。

 

 それらは時間停滞の力場を中和して、必ずやザフィーラを射抜くであろう。

 中途半端な力の行使が、その敗北を決定付けた。共に崩壊を続ける中ならば、先に死を覚悟した方が勝るのは必然なのだ。

 

 ザフィーラには最早防げない。耐える事すら出来はしない。故に――それに対処したのは彼ではなかった。

 

 

「斥力発生。崩します、烈風一迅!」

 

 

 少女の身体の数十倍。余りに巨大な質量が、反発する力で大きく浮いた。

 異様な圧力を受けて浮き上がったグラーフアイゼン。上体を崩したヴィータの胴体に、打ち込まれるのは鋭い一打。

 

 聖王教会が誇る近代ベルカの騎士は此処に、手にした巨大なトンファーを振り抜いていた。

 

 

万物は流転する(ΤΑ ΠΑΝΤΑ ΡΕΙ)――吹き飛べぇっ!」

 

 

 女が鉄槌を打ち砕いたならば、烈火の放った一矢を跳ね返したのはこの男。

 血に塗れた将官服に、装飾された軍用外套。黒い瞳の青年は、風を操りながらに死者を蹴散らす。

 

 砕かれ、射抜かれ、崩れ落ちて――それでも甦る死者の群れ。

 立ち上がる屍人の中に見知った顔を幾つも見つけて、彼は忌々しいと嫌悪を顔に浮かべていた。

 

 

「……貴方達は」

 

「シャッハに……お前か、ハラオウン」

 

 

 聖王教会が騎士。シャッハ・ヌエラ。管理局機動六課指揮官。クロノ・ハラオウン。

 クロノの万象掌握による転移を利用した彼らは、予兆の一つも見せずにこの戦場へと介入した。

 

 

「……何故、此処に来た」

 

 

 ザフィーラは視線も向けずに問い掛ける。どうして此処にやって来た、と。

 

 此処よりも危険な戦場は幾つもある。此処よりも向かうべき戦場は、他に幾つもあるだろう。

 揺り籠に残された少女達。砕かれ敗れた吸血鬼。そしてクロノにとっての怨敵が、彼の家族を追い詰めているその戦場。

 

 危機を救われたザフィーラが何を言うかと言えるだろうが、それでも此処に来た理由が分からない。

 隻腕となった傷口を片手で抑えながらに問うザフィーラに、クロノは一瞥だけをする。そして感情を殺した静かな口調で、彼はその答えを此処に示した。

 

 

「決まっている。此処が一番、可能性が高いからだ」

 

 

 スカリエッティの目的は一つ、神殺しの誕生だ。

 大天魔を呼び出したのはその為に、故にこそ優秀な戦力を排除する筈がない。

 

 クロノは殺される事はなく、アストの力で封じられていたのだ。

 魔鏡の敗北すら想定通りだった男の意志に沿う形で、この局面にて自由を取り戻した。

 

 そんなクロノが、先ず行ったのは現状把握。

 己がどう動くのが一番効果的なのか、下した結論が即ちこれだ。

 

 

「先ずは紅葉。お前を拾って、次は母禮。メガーヌを確保した後に、返す刀で悪路を斬る」

 

 

 恐らくはこれも、あの狂人の思惑通り。それを不快に思って、しかし他に術もない。

 最も勝算が高いのはこの場所だ。ザフィーラと天魔・紅葉の戦闘。此処に己達が加われば、一気呵成に押し切れる。

 

 

「僕が狙うのは、何時だって全取りだ。長く続いた戦いに、此処で終止符を打つ。その為に参戦するなら、此処しかない」

 

 

 倒したい敵が居る。抱えたそんな憎悪は後へと回す。

 助けたい家族が居る。そんな私情を混ぜては、指揮官として失格だ。

 

 故に彼は決断した。未だ僅かに持つのだと理性で捉え、最良を掴み取る為に決断した。

 ミッドチルダを守り抜く術はこれしかない。大天魔全てを撃退する方法など、この順番しかないのである。

 

 

「……他の戦場は、どうなっている。俺達が行くまで、……あの子らは生き残れるのか?」

 

 

 そんなクロノの判断に、隻腕の獣は更に問う。揺り籠が落ちた瞬間を、盾の守護獣も確かに見ていた。

 恐らく今、一番危険な戦場はあの中だ。他の戦場とは異なって、時間稼ぎすらも真面に出来まい。迫る大天魔を前にして、取り残された少女達に抵抗の術など何一つとして存在しない。

 

 そんな事、クロノ・ハラオウンが分かっていない筈はなかった。

 

 

「案ずる必要はありません。揺り籠にも一人、頼れる人が向かいました!」

 

 

 足止めを受けていたのは、シャッハ・ヌエラだけではない。彼もまた、魔群の足止めを受けていた。

 予備システムの展開にクアットロが専念し、結果自由を取り戻した男が居る。そんな彼を万象掌握の力によって、クロノが既に送り出している。

 

 故に案ずる事はないのだ。確信と共に、シャッハ・ヌエラは断言した。

 

 

「故にこそ、我々の為すべきは一つ。此処で一秒でも早く、この大天魔を討つ事です!」

 

 

 天魔・紅葉を此処に討ち取る。シャッハの言葉と共に、クロノとザフィーラが紅葉を見る。

 一気呵成に叩き潰す。それが適うだけの戦力が此処に揃ったのだと、敵も味方も、誰もが確かに認めていた。

 

 

「これは不利ね。認めましょう。確かに私では危ういと」

 

 

 準天魔級の守護獣。教会が誇るベルカの騎士。そして、管理局史上最強の歪み者。

 これら全てを相手にすれば、天魔であっても楽にはいかぬ。ましてや夜都賀波岐でも下位に位置する紅葉では、敗北は最早確定事項。

 

 

「けれど退けない。もう逃げられない。だってそう。あの子が痛みに耐えているから」

 

 

 それが分かって、それでも退けない。逃げられない。我が子は今も戦っているのだ。

 己が此処で、管理局側の上位戦力を釘付けにする。それがあの子の助けとなるなら、その果てが死でも構わない。

 

 守るのだ。助けとなるのだ。今度こそ愛するのだ。我が子を捨てた女にとって、それが償いで義務である。

 

 

「何をしたって、突破はさせない。時間稼ぎに付き合って貰うわ」

 

 

 故に天魔・紅葉は、不退転の意志と共に不死身の軍勢を呼び出し続ける。

 次から次へと現れる死人たち。有史以来、大天魔に敗れた戦士達が此処に姿を現していく。

 

 これ以上に動けば滅びると、分かって己の神相を此処に動かす。

 鬼の仮面を被った巨大な絡新婦。死人を糸で操る巨大な怪異が其処に、その姿を確かな形で具現する。

 

 限界などはない。あったとしても、もう知るものか。罅割れていく身体を意地で支えて、彼女は立つ。

 己の制御を超える程に数を呼び出して、己の命を削りながらに神相を動かし、天魔・紅葉は立ち塞がるのだ。

 

 

「こっちにも、因縁はある。果たすべき筋と言う物が、確かにあるんだ」

 

 

 蠢く死者の群れ。その総数は最早、数える事も出来ぬ程に膨れ上がった。

 例え限界数があるのだとしても、認識出来ぬのならば無限と同じく。故にこれは無間等活――永劫死に続ける死人の太極。

 

 死者を冒涜する世界を前に、クロノ・ハラオウンは敵を見た。

 

 

「いい加減に返して貰うぞ。天魔・紅葉。お前の地獄に沈んだ彼らは――僕らの偉大な先人達だ!」

 

 

 その尊厳を取り戻す。その遺骸を取り返す。

 もう二度と、利用させはしない為に――天魔・紅葉を倒すのだ。

 

 

 

 

 

4.

 墜落を続ける揺り籠の内で、天魔・奴奈比売は静かに口にする。

 アストの敗北と共に異様な強度を失って、故にこそもう耐えられない。影の泥は染み込んで、奈落をあっさりと壊し尽した。

 

 

「さぁて、これで夢界も消滅。一先ずは安心って言った所ね」

 

 

 軽く口にしながらに、見下ろす視点が子供達を捉えている。

 反天使は崩れ落ち、たった今に奈落も壊れた。残すは取るに足りない彼女らだけ。

 

 無視をしても良い。放置しても良い。取るに足りないと断言出来て、だが少し不安が残る。

 崩れ落ちた反天使。罅割れた魔鏡の存在が、僅か不安を残すのだ。ヴィヴィオ・バニングスを見過ごせない。

 

 与えられた力とは言え、仮初の形とは言え、この少女は一度神域へと至った。

 故に魂は覚えている。内にあるヴィヴィオの魂は、恐らく誰よりも洗練されているのだ。

 

 切っ掛けさえあれば、この幼子は強くなる。この今の状態でも、器としてなら最良だ。

 質が良くて空っぽだから、使い道などそれこそ無数にあるだろう。あの狂人ならば、思わぬ使い方をしそうですらある。

 

 だからこそ、放置しておくのは危険が過ぎた。故にこそ、排除すると言う意志を明確にさせてしまうのだ。

 

 

「ゴメンね。アリサ。考えたんだけどさ、この子、見過ごせないわ」

 

 

 呟く様に口の中で、そんな言葉を躍らせる。

 誰にも届かせる事もなく、友に小さく詫びて――天魔・奴奈比売は奪う為に影を操る。

 

 

「此処で砕けなさい。魔鏡アスト」

 

 

 影の口が大きく開く。牙を生やした様に見える黒い影は、宛ら巨大な爬虫類。

 噛み砕き、飲み干す。唯それだけに特化した巨大な顎門が、女の指示と共にヴィヴィオに迫った。

 

 

 

 迫る顎門。襲い来る脅威。それを前にして、誰も彼もが震えている。

 無理もあるまい。仕方がないだろう。天魔の放つ威圧を前に、動ける様な力はないのだ。

 

 だからこそ――

 

 

「フリードっ!」

 

 

 悪夢に震えていた少女が叫びを上げる事が出来たのは、一体如何なる奇跡であったか。

 ガチガチと震える身体を無理矢理抑えて、叫びを上げたキャロ・グランガイツ。少女が意志を示したならば、応えるのは白き竜の責務である。

 

 

「きゅくるぅぅぅぅっ!!」

 

 

 翼を奪われた白き竜は幼き少女の意志に応え、彼女を乗せて疾走する。騎竜が向かう先には倒れたヴィヴィオ。拾い上げて抱き締めようとしたのが、反射に近いキャロの判断であった。

 

 だがフリードの思考は少し違う。拾って、背負って、逃げ出して――それでは間に合わないと白竜は断じる。故にこそ、彼の選択は主でさえも予想外な物だった。

 

 

「え? フリード!?」

 

 

 小さな炎を生み出して、背負った少女と己を結び付ける鐙を燃やす。そうして主を背より振り落とすと、キャロとヴィヴィオに向かって突進したのだ。

 

 全力の体当たり。小さな身体を思い切りに吹き飛ばして、フリードは影の顎門に飲まれて消える。投げ落とされた少女らは、その脅威から逃れて影を見詰めた。

 

 

「っ、あ……」

 

 

 閉じる牙。グチャリ、グチャリと、磨り潰す音が玉座に響く。

 白き鱗は沼地に消えて、倒れた子供らを見下す天魔は嗤いもしない。

 

 

「邪魔をすると言うの? 貴女が? この私を?」

 

「……あ、あぁ」

 

 

 睨まれて、向けられる圧力が増す。それだけで全身が硬直して、手にした覚悟が砕け散る。

 

 赤い悪夢が迫って来る。四つの瞳が冷たく見ている。悲鳴が、鮮血が、記憶の中に甦る。

 怖い怖い怖い怖い。溢れ出す恐ろしさに涙が浮かんで、呼吸一つも満足に出来なくなってくる。

 

 自分の指示に逆らって、それでも護る為に潰れたフリード。その姿に、悲嘆と恐怖と絶望を等価に感じて――それでもキャロの心の中に、後悔だけは一つもなかった。

 

 

「それがどういう事だか、分かってやってる?」

 

「わた、私、は……」

 

 

 這いずる。動かぬ半身を、這って前へと彼女は進む。

 小さな身体で震えながらに、涙と鼻水で見っとも無い程に顔を汚しながら、キャロは縋り付く様にヴィヴィオの身体を抱き締める。

 

 竜の巫女の祈りは一つ。恐怖の中でも、彼女の意志は変わらない。もう何も為せないとしても、後悔なんて微塵もない。

 

 

「嫌だ。……見捨てるなんて、絶対に、嫌だ」

 

 

 悪夢を乗り越えた訳ではない。怖い恐いと、その想いは変わらずある。

 だがそれ以上に、失う方が怖かった。守ってくれた友達を、守れぬ方が嫌だった。

 

 だから必死に這って進んで、無様であっても道を塞ぐ。

 震えながらに両手を伸ばして、抱き締めて離さないのだと――そんな祈りは届かない。

 

 

「そう。なら一緒に死になさい」

 

 

 圧が強まる。威圧だけで、息も出来なくなる程に、身動き出来ない程の圧が更に強くなる。

 このまま威圧するだけでも殺せるだろうが、自然死を待つ時間などはない。故に影を再び操って、諸共に潰してやろう。

 

 再び迫るは影の海。押し潰さんとする津波の波濤。今度は躱すだけでは意味がない。故に――

 

 

「…………」

 

「ガリュー! 死ぬ気で死んでも、頑張んなさいっ!!」

 

 

 命を賭すのは黒き甲虫。最大出力の雷光を手に宿して、影の海へと単身飛び込んだ。

 それは全くの無謀な行い。マッチの火を片手に海に飛び込むかの様な、唯只管に無意味な行為。

 

 それでも、無意味な儘には終わらせない。終わらせる物かと、甲虫の主は叫びを上げる。

 

 

「ヴィヴィオは私達を庇った。だったら次は、私達の番。互いに助け合うのが、友達ってもんでしょう!」

 

 

 展開するのは補助魔法。デバイスのカートリッジを利用して、極限にまでガリューの存在強度を高める。

 今にも押し潰されそうな程に、視られただけで死んでしまいそうな程に、そうなった自分の弱さに歯を食い縛りながら、ルーテシアは己に喝を入れる様に叫びながら走り出す。

 

 

「ビビってんじゃないのよ! ルーテシア!! 腹に気合を入れて、身体を張るのっ!! それが、お姉ちゃんの役割なんだからっ!!」

 

 

 恐怖の中で妹は、それでも護ると言ったのだ。ならば自分が震えているなど、姉として出来よう筈がない。

 理屈じゃない。抵抗できる理由はない。あるのはそんな感情だけで、だけどその気迫を以って威圧に耐える。姉の意地で己を維持して、ルーテシアは少女らの眼前へと背を躍らせた。

 

 それでも、やはり両者の差は明確だ。大天魔に対抗出来る程に、彼女達は強くはない。

 ほんの数秒にも満たぬ時、それと引き換えにガリューは倒れる。僅かに止まった津波の脅威は、黒き甲虫の消滅と共に再び溢れ出していた。

 

 

「皆々仲良く水底へ、諸共に沈んでしまいなさい」

 

 

 最早止める術はない。気絶したヴィヴィオを、守る様に抱き締めるキャロ。そんな彼女を庇う形で、先頭に立つルーテシアは理解する。

 このまま影に飲まれて終わるのだ。フリードやガリューの様に、その牙に喰われて終わるのだ。そう理解して、彼女は恐怖にその目を閉じた。

 

 刹那に迫った死の終焉。その未来を前にして――だがその結末は、彼の意志によって打ち砕かれた。

 

 

「乾坤、一擲ぃぃぃぃっ!!」

 

 

 二体の献身が時を稼いで、彼はギリギリ間に合った。赤い悪夢を切り裂いて、やって来たのはベルカの騎士。

 攻勢に特化した歪みを全力で行使して、投げ放たれた無数の槍が迫る影を吹き飛ばす。大地に着地した男は、庇い合う少女達に背を向けて、沼地の魔女を睨み付けていた。

 

 

「あ……」

 

「……本当、遅いのよ」

 

『お父さんっ!!』

 

 

 陸士部隊の外套を風に靡かせて、背中を向ける男。

 両手に槍を構えて、天魔からは目を逸らさずに、ゼスト・グランガイツは言葉を紡ぐ。

 

 

「キャロ。ルーテシア」

 

 

 娘たちへ振り返らず、懐から簡易デバイスを一つ取り出す。

 それを投げ渡したゼストは重厚な声で諭す様に、彼女達へと意志を伝えた。

 

 

「もうじき、揺り籠が地上に落ちる。そうなる前に、その子を連れて逃げなさい」

 

 

 渡したデバイスに、記憶されているのは転送魔法と浮遊魔法。そして僅かなカートリッジ。

 避難する為に必要な最小限。この太極の中から逃げ出す為に必要な物を渡して、彼は逃げろと娘に語るのだった。

 

 

「お父さん。だけど……」

 

 

 父の存在に、僅か安堵を抱いたキャロが迷う。逃げて良いのか、そんな当たり前の戸惑いだ。

 フリードが倒れた。ガリューも倒れた。今の己に出来る事など何もないと分かっていて、それでも迷ってしまう。

 

 それ程に、赤い悪夢は恐ろしかった。だが――

 

 

「……分かったわ」

 

「ルーちゃん、なんで?」

 

「私達が居ても、足手纏いだって言う事でしょ? また同じ轍を踏むのは、嫌よ。私」

 

 

 そんな妹の戸惑いを、彼女の姉は一蹴する。この場に居ても、己達は足手纏いにしかなれないから。

 それは先の戦いで、痛い程に分かっていた。召喚獣を失って、足掻く事すら叶わぬ己達。魔鏡アストですら、庇いながらでは負けたのだ。

 

 アストよりも弱い。そう断言出来るゼストでは、足手纏いを庇えない。

 それは口に出す必要もない程に明らかな事実であって、だからこそ残るなどとは口が裂けても言えなかった。

 

 

「……必ず、帰ってきてね。お父さん」

 

「確約は出来ん」

 

 

 キャロの不安そうな瞳に、返す言葉は無骨な形。

 彼女を背負いながらに魔力の強化を己に掛ける。そんなルーテシアは冷たい視線で、やれやれと文句を口にした。

 

 

「ホント、堅物だよね。お父さん」

 

「そうだな。……すまんが、後を頼む」

 

 

 背中にキャロを、腕にはヴィヴィオを、背負ったルーテシアは歩き出す。

 無骨に微笑む父の横顔に拭い切れない程の死相を感じ取りながら、彼女は外に向かって歩き始めた。

 

 

「……帰って来なかったら、一生許さないから」

 

 

 背中合わせにそんな言葉を娘と交わして、ゼスト・グランガイツは意志を定める。

 既に抱いた決死の覚悟。逃げ出したあの子達だけは必ず守ると、それこそ親の義務だと心に定める。

 

 

「そうか。嗚呼、それでは一生、許される事はなさそうだ」

 

 

 聞こえぬ様に呟く言葉。元より帰る気などはない。

 死力を尽くさねば足止めすらも出来ぬと言うのは、痛い程に分かっていたのだから。

 

 

「愁嘆場は御終い? それで、私が逃げる事を許すとでも?」

 

 

 立ちはだかるゼストと、必死に逃げ始めた少女達。その姿に目を細めて、沼地の魔女は嘲笑う。

 逃がすと思っているのか。逃げられると思っているのか。だとすればそれは、余りにも――甘く見過ぎだ。

 

 

「甘く見過ぎよ。纏めて、泥の底に落ちなさい」

 

 

 此処は既にして彼女の世界。黒縄地獄の底にあって、逃げ出す事など許さない。

 魔女の嘲笑と共に海は荒れ狂い、全てを飲み干さんと押し寄せる。この膨大な質量を、押し止める術などなく――否。

 

 

「……貴様こそ、甘く見過ぎだ」

 

 

 押し寄せる影の津波を、男の槍が貫き穿つ。その出力は、先の比などではない。

 それはあり得ぬ程に高出力。男の歪みが攻撃に特化していて、限定的ながらも天魔に通じる。そんな理屈があるとしても、余りに過ぎた高火力。

 

 あり得ない。ある筈がない。そんな異常な現状を、成立させる反則事項が存在する。

 それを天魔・奴奈比売は、嘗てに一度その目に見た。故にこそ今この男が何をしたのか、一瞬の内に理解していた。

 

 

「貴方、それ……」

 

「逃がしてみせるさ。何を対価にしてでも、それが、父の義務と言う物だろう」

 

 

 斬と槍の穂先が、男の背後を切り裂き線を生み出す。此処が阻止臨界点。此処から先には通しはしない。

 覚悟と意志を糧に燃え上がる魂は、既に男の限界を超えている。果てには自壊しかない程に、男が為したは正道から掛け離れた反則行為。

 

 

「何なのかしらね。今日は何だか、昔の焼き直しばかり見ている気がするわ」

 

 

 これは嘗て、クロノ・ハラオウンが為した行為の焼き直し。歪みの元凶から、力の根源を奪うと言う物。

 奴奈比売から力を引き出して、歪みの位階を強制的に最高値にまで引き上げる。誰しもが出来る訳ではない。己を限界まで鍛え上げた歪み者だけに許された、それでも自爆を前提とした特攻戦術。

 

 瞬く間に変質していく肉体。他者の魔力に汚染されて、異形に変わって行く男。残された活動可能時間は――あと僅か。

 

 

「貴方、死ぬ気ね? いいえ、死ねなくなる心算なのね?」

 

「……愚問だな。今更、確認する必要もないだろう。もう賽は投げられたのだから」

 

 

 この男は此処で終わる心算だ。帰る気など、毛頭ないのだ。それでは守れぬと知っている。

 ゼスト・グランガイツは助からない。あの日と違い、今は御門顕明も居ないのだ。クロノの様に、安定化などは望めない。

 

 娘たちを守り通す代価に、この男は必ずや物言わぬ肉塊へと成り果てるだろう。

 それを良しとした。だから此処に居る。後僅か、自我を保っていられる僅かの時間を、守り通す為に使い切るのだ。

 

 

「我が身に変えても――此処から先へは、決して通さん!!」

 

 

 これで終わりだ。ゼスト・グランガイツは此処で終わる。だがだからこそ、必ず守る。

 我が子を背にした獅子の如くに、男は此処で牙を剥く。天魔・奴奈比売を前にして、彼の騎士にとっての最期の戦いは幕を開いた。

 

 

 

 

 




〇奴奈比売からの過剰供給で、陰の拾になる方法について。

等級項目の陰と陽が共に捌以上で、尚且つ精神状態ガンギマリのエースストライカー級歪み者が、戦闘後に必ず自爆する事を条件に実行可能となる想定。その条件を満たしていないで行うと、供給受けた瞬間にユーノ君状態となる。

当作中で該当者はクロノとゼストのみ。切っ掛けと時間さえあれば、何時かは自然と拾になれる可能性を持っていた人間だけが使える特攻戦術。
(烏帽子殿がいれば暴走を抑えられるので、それを前提に考えるならば必ずしも愚策とは言えない。……ただし、烏帽子殿はもう活動不能)

短期的には凄い効果だが、実行後の暴走で最強クラスの戦力を確実に失うので、長期的にはあり得ないと断言出来るレベルの下策だったりします。



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