リリカルなのはVS夜都賀波岐   作:天狗道の射干

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クアットロハザード、開幕。


神産み編第三話 悪趣味な恐怖劇 上

1.

 偽りの空の下、星に照らされた暗闇の中に、赤い無数の瞳が暗く輝く。

 屍人の如く、或いは夢遊病者の如く、ふらつきよろけながらに歩く人の群れ。

 

 不死不滅の軍勢が迫る様は、宛らパニック映画のワンシーン。救いのなさは同等以上だ。

 守るべき人々が敵となる。言葉にすれば単純だが、その事実は非常に重い。命を狙う刺客と庇護する対象が同じなど、何と悪辣な策略だろうか。

 

 

(この場にすずかさんが居れば――って、ない者強請りをしても、仕方がないけどさぁっ!)

 

 

 胸中で罵倒の声を漏らしながらに、トーマ・ナカジマは拳を握り締める。

 有効な手などない。この傀儡の群れを前にして、トーマに解決出来る手段はない。

 

 ゼロ・エクリプスでは過剰火力だ。体内に流れる悪魔の毒を、その身体ごとに分解してしまう。生きている彼らの身体ごと、トーマの力が喰らってしまう。

 美麗刹那・序曲に意味はない。自己を加速させるだけの力に、誰かを救う効果などある筈ない。明媚礼賛・協奏などは論外だ。あらゆる要素の共有は、エリキシルと言う毒すら彼らと共有してしまう。

 

 月村すずかの様に、選んだ物だけを吸収する事は出来ない。魔力分解はそういう性質の力ではなく、なれば必然、トーマに出来る事は一つだけ。故に彼は、己の拳を握り締めたのだ。

 

 

「痛いと思う。苦しいとは思う。だけど、我慢してくれよっ!」

 

 

 ベルゼバブの弱点は、即ち魔力ダメージだ。不死不滅の彼らであっても、魂に対する攻撃は通用する。

 過剰なダメージを与えて、行動不能にする事。恐らくはそれが、それだけが、今のトーマに出来るたった一つの対応だ。

 

 だが、それは――

 

 

「待って! それは駄目っ!」

 

「――っ! 何だって言うんだ! キリエっ!?」

 

 

 握り締めた拳を振りかぶり、非殺傷設定でディバインバスターを放とうとしていたトーマ。

 そんな彼にしがみ付き、その行動を阻むキリエ。一体どうして、まさか彼女まで支配されていると言うのか。疑念を抱いて振り向くトーマに、キリエは必死の言葉を投げた。

 

 

「病人が居るの! 怪我人が居るのっ! 非殺傷でも、危険な人達が其処に居るのよっ!!」

 

 

 言われて気付く。薄い暗闇の中で目を凝らし、そうして漸く気付くその異常。

 先頭を進むベルゼバブは、その顔色が余りに悪い。身体の一部を庇っている者らや、中には欠損している者すら存在していた。

 

 この地、シエル村で療養していた人々。その中でも特に被害が大きい者達を、クアットロは前線に立たせていたのだ。真面に歩けぬ者らを酷使して、触れれば死ぬぞと嗤っているのだ。

 非殺傷の魔法どころか、その手で強く押しただけでも運が悪ければ死んでしまう。それ程の病や怪我を抱えた者達が、トーマ達を追っている。最前線の彼らを魔法で制圧しようとすれば、途端に屍山血河が量産される事だろう。

 

 いいや、そも非殺傷は救いにならない。仮に無傷のまま制圧出来たとしても、行動不能となった瞬間にクアットロは彼らを爆弾と変えるだろう。最早詰み。手遅れとは即ち、そう言う事なのだ。

 

 

「――っ! ならっ! どうしろって言うんだよっ!?」

 

 

 殺せない。傷付けられない。手を出したら、それでアウトだ。そんな手詰まりな状況に、トーマは走りながら吐き捨てる様に口にする。

 

 下手に危害を加えてしまえば、その瞬間に命を落とす襲撃者。無傷で捕縛出来たとしても、その瞬間に人間爆弾に変わってしまう人質達。

 彼らを救う事はもう出来ない。悪魔の策略を許し、外道に囚われた瞬間にもう終わっている。最悪とはそう言う事、エルトリアの民に残された未来は唯の一つ。

 

 苦しみ、もがき、涙を流し――その姿を嘲笑されて、摩耗しながら死ぬ事だけだ。

 

 

「でもっ! この人達はエルトリアの――だから、見捨てるなんて出来ないよっ!!」

 

 

 それでも、キリエは見捨てられない。見捨てられる筈がないのだ。

 彼女の戦う理由の半分は、傀儡となったエルトリアの人々だ。その想いを無価値にせぬ為、ならばこそ己の手で彼らの命を奪うなんて出来はしない。

 

 何か手段がある筈だ。何か解決策があって欲しい。それがキリエの選択で、その一念は揺るがない。

 きっと必ず見付けて見せる。だから絶対に諦めない。それがキリエの揺るがぬ想いで、なればこそ彼女達は輝いている。

 

 その不屈の意志は、確かに美徳だ。一筋の希望を諦めないと言う在り方は、どうしようもなく綺麗な物だ。

 だが、情を介さぬ者にとって、それは余りに分かり易い欠落。悪辣な悪魔の瞳には、明確な隙として映っていたのである。

 

 悲壮な表情で、それでも奪わぬと覚悟を決める。もう終わってしまった人々を、必ず救うと想いを定める。

 そんなキリエ・フローリアンの姿を見て、この場にいない女は嘲笑う笑みを浮かべていた。嘲笑する女の手によって、此処に悪趣味な合唱が始まるのだ。

 

 

「殺、して、くれ」

 

 

 誰かが、言った。苦しみ、もがき、涙を流しながら――誰かが言った。

 

 

「貴女、に迷惑を、掛けるくらい、なら」

 

 

 一つの言葉に触発されて、次の誰かが口を開く。そんな言葉に影響されて、同じく誰かが言葉を紡ぐ。

 人々は口々に、揺るがぬ瞳でキリエを見詰めながらに言葉を紡ぐ。こんな状況でも己達を救おうとする、そんな彼女に磨り潰される命が希う。

 

 

「何時か、魔群を。そう信じて、いる、ぞ」

 

 

 自分達を見捨ててでも、必ずやこの地を救ってくれ。此処で己達を殺してでも、全てを無意味にはしないでくれ。

 どこか悲しげな表情で、それでも一致団結する。そんな彼らの言葉。その悲壮な決意に、キリエは息を飲み手を握り締めた。

 

 その決意に心を揺り動かされた――だけではない。無論それも確かにあるが、傀儡たる彼らが口にした事こそが問題なのだ。

 本来ならば、彼らは口を開く事さえ許されていない。その精神まで犯されて、完全なる操り人形と化している。なればこそ、この言葉は果たして誰の言葉であるのか。

 

 確かに彼らの本心と、そういう可能性も確かにある。だが、魔群が騙らせている演技かもしれない可能性は零じゃない。

 悪趣味が過ぎる這う蟲の王。彼女が騙らせていたのだとすれば――悲壮の覚悟で彼らの命を奪う直前に、その演技は明かされよう。

 

 勝手に言わされた悲壮の言葉に、覚悟など出来ていない人々。それが事実だとすれば、その瞬間に悪辣な光景が作られる。

 憎悪か、悲痛か、叫びか、絶望か――その命を奪った瞬間に、末期の顔は歪むであろう。そんな可能性が、確かにあるのだ。

 

 これが演技なのか、それとも身を切る程の真実なのか。トーマもキリエも判断付かない。

 その真に迫る苦悶の表情すらも偽りなのではと、そんな風に想ってしまう。間違いないと断言出来ないその事実が、どうしようもなく不甲斐なかった。

 

 

「……魔群、クアットロッ!!」

 

 

 魔群は嗤う。魔群は嗤う。嗤いながらに、人形達に言葉をカタらせる。

 それは語りか、はたまた騙りか。どちらであっても、何かが変わる訳ではあるまい。

 

 良いから撃てと、気にせず踏み越えていけと、傀儡と化しながらに語るエルトリアの民。

 それが真実であっても、今際のきわにクアットロは演技をさせよう。その意志を汲んで奪った瞬間に、彼らを操り絶望の表情をさせるのだろう。

 

 意味がないのだ。選択に価値がない。真実、どちらであっても関係ない。

 その言葉が真実善意の物であれ、悪魔の悪意による物であれ、聞いてしまえば意志が鈍ると言う事実は決して変わりはしないのだ。

 

 

「――っ! 私、は……それでもッ!」

 

「……一端リリィ達と合流する。抱えていくから、俺から離れるなっ!」

 

 

 選べない。偽りであれ、真実であれ、選んではいけない。彼らの温かさを知っているからこそ、この手に掛けるなんて道はない。

 そんなキリエの葛藤を前にして、トーマは一先ず結論付ける。悪辣な外道に怒りを感じながらに、しかしこのままでは何も出来ない。先ずは味方と合流しようと、そうと決めて動き出す。

 

 白百合がいなければ、今のトーマは全力を出せない。逆説、彼女が居れば今より状況は改善する筈だ。

 故に彼は拳を震わせるキリエを片腕に抱き抱えると、傀儡の集団から距離を取る。フローリアン姉妹の家を目指して、踵を返すと走り始めた。

 

 だが、そんな行動は予想の内。敵は小物であれ、いいや小物であるからこそ、悪辣で知恵の回る魔群である。

 手の内全てを潰された少年が仲間と合流を試みるなど、最初から想定しているのだ。ならば当然、その行く道を阻む布石はある。

 

 

「回り、込まれた」

 

「ったく、そう簡単には、合流させてくれないかよっ!」

 

 

 抱き抱える少年と、彼にしがみつく少女は息を飲む。ずらりと並んだ屍人の群れは、宛ら海の如くに隙間がない。

 一体どれ程に以前から、水場を抑えられていたのか。恐らくはこの今にシエルシェルターに残った全ての人々、誰も彼もがベルゼバブと化している。

 

 一人二人程度なら、飛び越える事は簡単だろう。十人二十人程度なら、多少の被害に目を瞑って駆け抜ける事も考えた。

 されど百に迫る数。傷付けてはいけない敵が、余りに多く居過ぎている。こんな人の波を掻き分けて、辿り付ける道理がなかった。

 

 故にトーマは駆け続ける。選択すべきは回り道。何処かに隙間がないものか、一縷の望みを託して駆けずり回る。

 しかし明確な隙などない。人の数に大なり小なり違いはあれど、合流を邪魔する位置には必ず居る。その道を阻む様に、守る様に、無数のベルゼバブが配されていた。

 

 突破は容易い。打ち破る事は容易い。だが、犠牲を出さぬ事は不可能だ。

 突破をすれば誰かが死ぬ。その包囲を打ち破ってしまえば、人質でもある彼らが死ぬ。犠牲を出さぬ事は、絶対に不可能なのだ。

 

 既に村を何周したか、疲労が溜まり始めたトーマは歯噛みする。

 クアットロの嘲笑が聞こえて来そうだ。そうは思えど、打開策など浮かばない。

 

 元凶はこの場に居ないのだ。ならば一体どうして、彼らを救う事が出来るであろうか。

 

 

「待って!? ……これ、もしかしてっ!!」

 

「何か、気付いたのかっ!?」

 

 

 打破する事が出来ない現状に、トーマが憤りを感じ始めた頃。キリエは其処で何かに気付いた。

 問い質すトーマに、もう一度村を回って見てと頼み込み。そしてキリエは確信を得る。それこそが希望に繋がる筋道だと、彼女は此処に導き出した。

 

 

「うん。やっぱり、おかしい。この配置、皆が一ヶ所に集まってる」

 

 

 それはベルゼバブの布陣である。彼らを合流させぬ為に、道を阻む位置取りは決しておかしくはない。

 されど追い掛けてくる数が少ないのだ。限られた閉鎖空間で数十周も、駆け回っているトーマ達に追い付けていない事がおかしいのだ。

 

 如何に速力差があるとは言え、此処は場所の狭い空間だ。限られた空間であればこそ、数を増やせば捕らえられて然るべきである。

 それでもベルゼバブは動いていない。追い掛けて来るのは一握りで、残る数は留まった場所から動こうとはしていないのだ。まるで、其処を守っているかのように。

 

 人々が在中し、警戒している場所は二ヶ所。その内一つがアミタとキリエの家ならば、もう一つは一体何か。

 村の地図を頭に浮かべて、キリエはその結論に辿り着く。魔群クアットロの細胞たちが護るのは、この事態の元凶と言うべき場所である。

 

 

「この先は――地下浄水場の入り口だっ!」

 

 

 結論に至ったキリエは、その瞳を光輝かせる。全てを救う為に、一縷の希望を見出したのだ。

 間違いない。あの場所には何かがある。そうでなくば、態々人を動かす理由がない。守る必要がないのだから。

 

 

「……ベルゼバブは、地下浄水場を守ってる、のか?」

 

「きっとそうだよ! 何か、何かあそこにあるんだッ!!」

 

 

 直接の面識は殆どないとは言え、仲間達と共有した記憶によってトーマは知っている。

 クアットロの悪辣さ。鬼畜外道の策略が、甘くはないと知っている。故にこそ、彼は見付け出せた打開策に懸念を抱いた。

 

 まだ何かがある。偽りの希望を見せ付けて、ここぞと言う場面で奪い取るくらいはやって来よう。クアットロ=ベルゼバブと言う怪物は、正しく悪逆無道であるのだ。

 

 

「けど、他にないんだッ! だから、あると信じて――私は貫くッ!!」

 

「あ、おいっ! 待てよっ!!」

 

 

 されどキリエにしてみれば、この希望を見逃す訳にはいかない。他に術はないからこそ、道を信じて駆け抜けるしか選べないのだ。

 

 少女は己を抱き抱えるトーマを軽く突き飛ばして離れると、即座に加速装置を使って駆け始める。

 アクセラレイター。機械の身体に取り付けられた加速装置。その力によって己の速力を強化すると、彼女は地下道の入り口を目指して走り出した。

 

 

「ああ、もうっ! 美麗刹那(アインファウスト)序曲(オーベルテューレ)っ!!」

 

 

 ここでまた分断されるなど、冗談にもなりはしない。故にトーマは己の疑念を棚上げすると、此処に加速の理を発現する。

 白百合が居ない事で消耗は常より大きいが、だからと言って使わない訳にもいかない。己の体感時間を加速させると、トーマは光となって駆け抜けた。

 

 

「無茶しないって、言った矢先から君はっ!」

 

「御免ッ! 後で謝るけど、だけど今は無茶をするべき時だからッ!!」

 

 

 地下水道の入り口前に屯する人の群れ。どう突破すべきかと、足止めを受けていたキリエと合流する。

 立ち止まっていた少女に向かって手を伸ばしながらに、トーマは此処で神の渇望を片手で維持したまま、もう片方に己の渇望を上乗せした。

 

 美麗刹那と明媚礼賛。全く異なる力の同時発動に、己の身体が悲鳴を上げるが歯を食い縛って貫き通す。

 出来る筈だ。不可能ではない筈だ。神たる嘗ての彼は、世界を凍結させながら自分が加速すると言う二重発動を可能としていた。ならばトーマにだって、それは不可能なんかじゃないのだ。

 

 

「明媚礼賛・協奏っ!」

 

 

 瞬間、己の身体に掛かる負荷が爆発的に増加する。異なる渇望の同時発動は、理屈としてそも無茶がある。同時に全く別の事に集中する。そんな矛盾だらけの行動だ。

 その無茶を我意で貫き通して、その矛盾を意志の力で捻じ伏せて、それでももって数秒だろう。それを過ぎれば、一体どんな後遺症が残るであろうか。ならばその刹那の内に、この包囲網を突破するしかない。

 

 

「もうこうなったら、とことんまで乗ってやるっ! 駆け抜けるよっ! キリエっ!!」

 

「了解ッ! モーレツな勢いで、行くわッ! アクセラレイターッ!!」

 

 

 美麗刹那による加速を共有し、其処にアクセラレイターを上乗せする。重複する加速能力を共有し、得られる速度は先程までの比ではない。

 肩を合わせて加速する。同じ方向に向かって光の如く、駆け抜ける閃光を魔群の傀儡は認識できない。圧倒的な速力差は、気付かせる事すら許しはしない。

 

 守っていた扉が砕ける音に、漸く彼らが気付いて振り返った時にはもう遅い。

 雷光よりも速く、全てを置き去りにする二人はもう其処にはいない。少年少女は、こうして地下水道へと突入した。

 

 

 

 暗い暗い暗闇の中、閃光が闇を切り裂き進む。淀んだ臭いの暗闇を、少年少女は駆け抜ける。

 縦横無尽にトンネル内を駆け抜けて、途中途中に見える人影にやはりここがとキリエは確信する。

 

 きっと何かがある筈だ。きっと如何にかなる筈だ。絶対に如何にかして見せる。

 走り、走り、走り続ける。そうしてその果てにある浄水施設。大きな機械を前にして、彼女は確かにそれを見付けた。

 

 

「目標、発見ッ!」

 

 

 それは黒い人影だ。地下に流れる腐った水を浄化して、生活水へと変える設備を前に人影が立っている。

 その手から、流れる滴は赤く輝く。滴り落ちる血液が、流れる先にあるのは水だ。徹底した浄水が為された水に、飲用されるその水に、己が血液を流し込んでいる。

 

 

「アレは、一体――」

 

「考えている時間が無駄よッ! 一気に切り込む。桜花舞い散る銃剣撃を、食らいなさいッ!!」

 

 

 その余りにもあからさま過ぎる光景に、トーマは戸惑い立ち止まる。

 明らかにおかしいと再び懸念を口にするが、それを聞いている余裕が今のキリエにある筈ない。

 

 加速状態のまま駆け抜けるキリエは、その手に握ったヴァリアントザッパーをヘヴィエッジで展開する。

 重厚な両手剣となった刃を柳の如く流したまま、走り続ける少女は此処で更にと加速する。放つは一つ、彼女が持ち得る最強の術式。

 

 

「スラッシュッ! レイブッ! インパクトォォォォッ!!」

 

 

 巨大剣による切り上げから、流れる様に続く超加速状態での連続斬撃。

 止めとばかりに撃ち込まれる巨大な魔力弾が、空に浮かんだ黒き影を叩き落とした。

 

 抵抗は愚か、反応すらさせぬ内に叩き込まれた最大火力。

 当然、黒き影も対処出来る筈はなく、その人物は腐った水へと墜ちて行く。

 

 落下する途中で漸くに、敵の接近に気付いた黒い影。そんな先手を譲った元凶は――罠に掛かった獲物に向けて、悪辣な嘲笑を浮かべていた。

 

 

「あっさり釣られて、バァァァカみたい」

 

「なっ!?」

 

 

 亀裂が走ったかの様に、黒い影が歪に嗤う。着水する瞬間に、その影は無数の群れに変わって飛び散った。

 蟲が湧き出す。蟲が溢れる。影の体積を無視する程に、余りに大量の蟲が湧き出し蠢く。津波の如くに迫って来る怪異を前に、キリエは咄嗟に動けなかった。

 

 

「キリエっ!」

 

 

 少女の身体が蟲の津波に飲まれる前に、即座に動いたトーマがその手を強く引き寄せる。

 力が抜けた身体を空中で抱き抱えたトーマは翼の道を作り上げると、三角飛びの要領で壁を蹴りながらに距離を取った。

 

 そんな彼らの耳に、纏わり付く様な甘い声が聞こえてくる。まるで熱湯を思わせる様に、大量の水が泡立ち煙を噴き上げていた。

 

 

「うふふ。ふふふ。うふふふふふふ」

 

 

 蟲だ。蟲だ。蟲だ。蟲だ。沸き立つ湯水の只中から、蟲が再現なく溢れ出す。

 一瞬にして空間を飲み干す程大量に、蟲の津波が此処にその猛威を振るっている。

 

 咄嗟に拳で磨り潰しながらに、だがすぐさま逃げ場を塞がれる。

 一寸先すら見えぬ闇の軍勢に飲み込まれて、構えたトーマは甘い女の嘲笑を耳にしたのだ。

 

 

「アハハ、アァァァッハハハハハハハハハハッ!!」

 

 

 溢れ返った蟲の只中。浮島の如くに取り残された少年少女は身構える。

 そんなトーマとキリエの前で、女はその身を形成する。魔蟲形成。大量の蟲が作り上げるのは、這う蟲の王クアットロ。

 

 

『クアットロ=ベルゼバブッ!!』

 

「お久し振りねぇ。とってもか弱い獲物達」

 

 

 名を呼ばれ、女は暗い愉悦に歪んだ笑みを見せる。

 余りに都合良く進んだ状況に、彼女は腹を抱えて嗤っていた。

 

 

「貴女達ってぇ、ほんっと頭悪いのねぇ。こんなあからさまな誘導だったのにぃ、のこのこ誘い込まれてくれるなんて、潰したくなる程に愛らしいわぁ」

 

 

 此処に、守るべき物などはない。解決する手段など、此処には何一つとして存在しない。

 既に終わった事なのだ。仕込んだ罠は牙を剥き、もうその効果を示した後。これを覆すと言うならば、それこそ過去の改竄くらいは必要だろう。

 

 一縷の希望は、偽りだった。差し伸べられた蜘蛛の糸は、元から切れると決まっていた。信じて貫こうとした道は、最初から間違っていたのだ。

 それを理解して、キリエは静かに身体を震わせる。拳を握り、震える小さな身体。見上げた瞳に抱える色はしかし、儚さなどでは断じてない。彼女は未だ、諦めてなどいなかった。

 

 

「魔群の、蟲。溢れ返る程に、これが罠。だと、してもっ!!」

 

 

 認めよう。気が逸っていた。罠に掛かってしまった。後手に回ったと認めよう。

 だが未だ諦めるには足りない。大量に溢れ返った蟲に追い詰められた現状でも、諦める理由はない。

 

 事態の黒幕が、此処に居るのだ。考えようによっては、これは好機。そう信じて、そう想って、貫き通せばそれで良い。

 

 

「はぁ? アンタ、ほんっとお馬鹿さんなのねぇ」

 

 

 そんなキリエの覚悟に、クアットロは泥を塗る。強く揺らがないのだと、誓う様な瞳に糞を投げ付ける。

 そうとも、この後に及んで諦めない姿が気に入らない。だからこそ彼女は見下す為だけに、その真実を告げるのだ。

 

 

「こんなのが本命だなんて、ある訳ないじゃないのぉ」

 

 

 大量の蟲で囲んで、逃げ場を完全に封じる。そうした上での圧殺などと言う単純な策略が、クアットロの本命である筈がない。

 この女はもっと悪辣だ。悪逆非道の鬼畜外道。それこそがクアットロ=ベルゼバブと言う女であればこそ、彼女が仕込んだ罠はもっと遥かにえげつない。

 

 

「一体、何を企んでいるっ! クアットロ=ベルゼバブっ!!」

 

「うふふ。大した事じゃないわぁ。こっちは、唯の囮よ。本命は――直ぐに分かるわ」

 

 

 クアットロを睨み付け、問い質すトーマ・ナカジマ。焦燥している彼の姿に笑みを深めて、クアットロは両手を引く。

 指揮者を気取る女はまるで大見得を切るかの様に、己の身を抱えていた腕を大きく開いて、その瞬間を此処に告げるのだった。

 

 

「はい。どっかーんっ!!」

 

 

 満面の笑みでクアットロが告げた直後、轟音が響いて大地が揺れる。

 シエルシェルターに強大な何かがぶつかって、此処に大地震と言う結果が訪れていたのである。

 

 

「――っ! 何をしたの!? クアットロっ!!」

 

「うふふ。ふふふ。うふふふふふっ!!」

 

 

 天が揺れる。地が揺れる。されど何が起きているのか、この地下からでは分からない。

 故に真剣な表情で問い質すキリエに、クアットロは笑みを深める。女は愉悦に浸る為だけに、隠す必要のない事実を伝えた。

 

 

「大した事じゃないわぁ。外から砲撃をぉ、このシェルターに撃ち込んだだけ」

 

 

 女が事実を伝えた瞬間に、二度目の轟音が鳴り響く。天地が再び激しく揺れて、頭上の一部が砕けて落ちた。

 被害は先の比ではない。同等火力の砲火が撃ち込まれ、二度目は防ぎ切れなかった。そして砲火は、二度では済まない。

 

 

「クリミナトレスちゃんの最大砲火。水爆の数十万倍以上と言うフレアの爆発に、一体何処までこの避難施設は耐えられるのかしらねぇぇぇぇっ!?」

 

 

 時間の流れが違うエルトリア。未来文明が脅威の技術力で作り上げたシェルターは、それこそ原子力爆弾の百や二百は耐えるであろう。

 だが威力が違う。大量の魂に押し潰され記憶が壊され尽くしたとは言え、アストの力は健在だ。クアットロの奈落に繋がり、彼女は嘗ての力を取り戻している。

 

 彼女が誇る最強火力は、核弾頭など比較にならない。ウリエルの炎に耐えられる物質など、この世の何処にもありはしない。シエルシェルターとて、例外などではないのである。

 

 

「そんな、シエルシェルターが……」

 

「くそっ! 一端、此処から脱出を!」

 

「逃がすと、思ってるのぉ?」

 

 

 呆然自失としかけるキリエに、舌打ちしながらトーマは一先ずの撤退を決心する。

 遠距離砲火を止めなければ、このシエルシェルターごと潰される。ならばこそ当然の選択は、故にクアットロに阻まれた。

 

 

「今の貴方は、一人じゃ何も出来ないくらいに弱いんでしょう?」

 

 

 湧き出す大量の蟲は足止めだ。此処に形成した魔蟲の身体は囮である。全ては此処に、トーマ・ナカジマを留める為に。

 今のクアットロは、トーマの事を恐れていない。彼の戦力を誤認しているからこそ、己を囮とする策を組み上げる事が出来たのだ。

 

 

「念には念を入れてぇ、白百合とも分断した。うふふ。これで十分。私の敗因は全て潰した。ならば勝利しかありはしない」

 

 

 それは確かに道化の愚行であるだろう。相手の戦力を読み間違えて、敷いた布陣は愚者の策。

 されどその脅威は本物だ。例え相手の力を読めていないとしても、用意された罠は十分過ぎる程の過剰戦力。

 

 真なる魔群は不死身である。天敵と言う例外を除いて、彼女を傷付ける術などない。

 今のクアットロ=ベルゼバブを傷付ける術を、トーマもキリエも持ってはいないのだ。

 

 

「良い声で鳴きなさい。嬲り甚振り殺してあげるわぁぁぁぁっ!!」

 

 

 悪辣なる魔群が牙を剥く。這う蟲の王がその悪意を此処に示している。

 時間制限が迫る中、無尽の敵に囲まれたまま――トーマは最悪の戦闘を強要されていた。

 

 

 

 

 

2.

 少女は一度、壊された。無数の魂をその器に押し込められて、生まれたての自我を押し潰されていた。

 故に白痴。記憶を失くして、言葉を失くして、何も出来ずに痴れていた。それが二週間と前の事で、今の少女は僅かに違う。押し潰していた元凶は、最早彼女の内にはない。

 

 されど、それで完治すると言う訳がない。原因が取り除かれただけでは、快癒するには程遠い。

 故に少女は未だ中身がない。押し潰され掛けていた魂が息を吹き返したとしても、その記憶は僅かにしか残ってはいなかった。

 

 

(帰りたい)

 

 

 己の心中で、少女は小さく呟く。ああ、私は何処かに帰りたい。だけど一体何処へ、帰れば良いのか分からない。

 微かに残った記憶の断片は、掠れて中身が分からない。残っているのは僅かな光景。小さな竜と、二人の子供と――そして、燃える炎の様に熱くて怖くて、それでも確かに優しい人。

 

 

「帰りたい」

 

 

 分からぬ想いを、一つ言葉に口から零す。膝を抱えたままに呟く少女は、主と任じる人に言われるがままに力を使う。

 何も分からぬ白紙の彼女に、悪意が吹き込んだのは一つの言葉。お前は私の為に生まれて生きて死ぬのだと、クアットロはそう告げた。

 

 その言葉に、返すべき物が何一つとしてない。否定する材料など一つもないから、無垢なる少女はそれを信じた。

 彼女の命令に従えば御飯が貰える。温かな寝床と衣服が保証され、だから逆らう理由が何もない。言われるがままに、アストは白き翼を羽搏かせた。

 

 

「……何処に、帰れば良いの?」

 

 

 今に不満はない。不満と思える程に、少女の自我に中身はない。その過去は霞んで消えていて、最早大して残っていない。

 

 それでもどうして、己は帰りたいと願っているのか。何処に帰れば良いと言うのか。それが分からず小首を傾げる。

 頬を伝わる滴の意味が分からずに、己が為している所業の意図も分かろうともしないまま、アストは再び言葉を紡いだ。

 

 

「アクセス、マスター。来たれ、太陽の統率者」

 

 

 新たなる主。魔群クアットロを通じて、彼女の奈落へと接続する。

 白く輝く翼を生やした、虹の光に輝く少女。その頭上に巨大な火球が姿を見せた。

 

 燃え上がる炎の弾丸。其処に何か記憶を刺激する物を感じる。

 熱くて、怖くて、それでも心が安心する。だからこそ、何故かアストはこの力が好きだった。

 

 ぼんやりとした思考で、綺麗だなと見上げたままに指示を出す。一度二度と繰り返しても、その想いは色褪せない。

 アレを燃やせと放つのは、都合三度目となるウリエルの炎。特に結果を考える事もなく、アストは巨大なシェルターを指差して。

 

 炎は飛翔する。全てを焼き払う為に、全てを焼き尽す為に、裁きの炎は此処に落ち――その直前に、異なる力がそれを射抜いた。

 

 

「誰、です、か?」

 

 

 弾丸はウリエルの炎を打ち破る程ではない。拮抗する程でもない。だが、誤爆させるには十分だった。

 頭上で花開く巨大な大火に、ぼんやりと綺麗だなと思いながらアストは問う。問われた少女は静かに銃を構えたまま、白痴の少女を睨み付ける。

 

 熱気を孕んだ風に揺られる髪は、燃える炎の如き赤。真っ赤な髪をおさげに束ねて、青の少女は両手の銃を握り締める。

 揺らがぬ瞳に宿るのは、信念と情熱の籠った色。奪われた者は憎悪も憤怒も籠らぬ瞳で、奪った一味の少女に向かって名乗りを上げた。

 

 

「アミティエ・フローリアン」

 

 

 瞳は揺るがない。声は震えない。想いは一つ、彼らに向けるべきは反骨心。憤怒も憎悪も薄れてなんていやしない。

 されどアミティエは、僅かに迷いを抱いている。シエルシェルターを襲う砲撃に気付いて、飛び起きた少女は此処に来て僅かに迷っていた。

 

 それは少女の涙を見たから。己の胸元にも届かない小さな少女が泣いているのに、我関せずと無視出来る。アミタと言う少女は、そんな女じゃないのである。

 

 

「理由は分かりません。貴女達の事は許せません。……それでも、二重の意味で、貴女と言う存在は見過ごせません」

 

 

 目の前の少女は何故、泣いているのか分からない。それでも放置は出来ない。このままでは、この少女はシエルシェルターを破壊する。

 一体何時まで中が持つのか、それすら定かではない。白百合の少女を残したままに、一人でこの場に来たのだが、それが果たして吉となるのか凶となるのか。

 

 考える事は山ほどある。悩みの理由はそれこそ尽きない。頭を捻って首を傾げて、それでも答えの出ない事ばかり――だからアミタは、一端全てを棚上げした。

 

 

「泣いている子を、笑顔にするのもお姉ちゃんの役割ッ! 先ずはその為にもッ! ぶん殴ってからお話しですッ!!」

 

 

 やる事はシンプルな方が良い。特に余裕がない程に、追い詰められた現状ならば尚の事。

 鋼の身体に優しい心を。愛する人に与えて貰ったアミタであるから、その人達の愛を裏切りたくはないのである。

 

 殴って止める。力を奪って恨みを果たす。そうした後には必ずや、この少女の涙を拭って助けよう。

 アミティエ・フローリアンは己の心にそう決めて、ヴァリアントリッパーをその手に構えるのであった。

 

 

「?」

 

 

 その強い瞳に見詰められ、アストはコテンと首を傾げる。白痴と化した少女には、彼女が何を言っているのか分からない。

 妨害が行われたと言う事だけを理解して、故に彼女はマニュアル通りに行動する。邪魔者が現れた時は、それを排除するのがクアットロの命令だ。

 

 

「アクセス、マスター」

 

「させませんッ!」

 

 

 白き翼で空へと浮かび上がり、主のシンを介して奈落に繋がる。

 そんなアストが力を示すより前に、アミタはアクセラレーターによる加速で一歩を踏み込んだ。

 

 彼女は知っている。もう理解している。魔刃との戦いの中で、彼ら反天使には届かないと分からされていた。

 それでも退けない理由がある。踏み出すに足る理由がある。ならば敵が力を示すより前に、機先を制するより他に術がない。

 

 両の銃より魔力弾を撃ち続けながら、アミタは前へと駆け出し続ける。

 魔鏡アストの詠唱が終わるより速く、疾風となってその身を撃ち抜いてみせるとしよう。

 

 そんな彼女の考えは、しかし浅いと断言しよう。どれ程に速く動こうとも、彼女達では地力が違う。僅か数言の言の葉を紡ぐより前に、倒し切るだけの札がない。

 

 

「幸いなれ、癒しの天使。来たれ、エデンの守護天使」

 

 

 轟と風が吹き抜ける。荒れ狂う竜巻は次元の壁に穴を開け、虚数の世界を此処に生み出す。

 この世界からの永久追放。吹き付ける風に抗えずに飲まれれば、至る結果はそれ一つ。そしてその竜巻に、抗う手段はアミタにない。

 

 

「ぐぅっ!?」

 

 

 風に吹き飛ばされて、嵐に流されながら、世界に空いた穴の底へと。

 堕ちる直前に、少女は銃弾を撃ち続ける。銃撃の反動で少しずつ己の位置をずらすと、辿り着いた大地の岩に縋り付く。

 

 嵐に吹き飛ばされ掛けながら、如何にか片手で岩を握り続ける。

 抗えずとも耐え続ける。そんな少女をアストは、ぼんやりとした瞳で見詰め続けていた。

 

 

「……まだッ!」

 

 

 暫くすると風も止む。必死に耐え続けたアミタは、立ち上がると前へと駆けた。

 アミタの接近を理解して、停止していた思考が動く。接近を続ける少女に向かって、アストは次なる天使を呼んだ。

 

 

「幸いなれ、正義の天使。来たれ、天軍の指揮官」

 

 

 必死に耐え抜いたアミタの下へ、光り輝く裁きが墜ちる。膨大な力の奔流は、全てを破壊に導く物。

 躱せない。ならば防ぐしかないが、力の差は歴然だ。アストの力は、そう簡単に防げる物じゃない。強大に過ぎる魔力の流れに押し潰されて、アミティエは傷付きながらに大地へと――

 

 

「まだ、だッ!!」

 

 

 それでも、倒れる前に一歩を踏み込む。今にも壊れそうに煙を上げながら、アミタは此処に踏み出した。

 そうとも立ち止まれない理由がある。その背中には、守るべきモノがある。ならばこそ、限界などは知った事か。

 

 防御魔法を展開し、それでも防ぎ切れない威力に意地で抗う。歯を食い縛って必死に耐えて、もう一度前へと踏み込んだ。

 

 一歩近付くだけで精一杯。二歩近付くだけで命掛け。それでも三歩を踏み出すアミタに、アストが見逃す道理もない。

 彼女はその意志に首を傾げながらに、何でこんなに頑張るのかと疑問を抱きながらに、第四の天使を此処に召喚するのであった。

 

 

「幸いなれ、黙示の天使。来たれ、エデンの統治者」

 

 

 呼び出されるは、ガブリエル。告知天使の威容を以って、魔鏡は此処に裁きを下した。

 

 遥か天空に一条の光が過ぎる。光は少しずつ数を増やして、瞬く間に数千条へと。

 空から降り注ぐ白光は、邪悪を撃ち抜く流星群。目に映る荒野の全てを塗り替える程に、光の雨が降り続ける。

 

 躱す術はない。防ぐ事はもう出来ない。そも、最初の一撃を耐え切った時点でもうアミタは限界だった。

 それでも退けぬから、それでも守りたい者があるから――そんな少女の抱いた意志は、余りに強大な力を前に踏み躙られた。

 

 

「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 

 打ち抜く光は、標的の全てを蹂躙する。あらゆる神経系を破壊し尽くし、その身を大地へと貶める。

 隕石雨が降り注いだというのに、地面には全く被害がない。後に残るのは、中身を破壊し尽くされて壊れた人型のみである。

 

 アミタは此処に崩れ落ちる。既に限界は超えていた、ならばどうして耐えられよう。

 赤熱するフレームから煙を噴き上げて、伏して倒れた機械の少女。その姿をぼんやりと確認し、アストは一拍の呼吸が後に呟いた。

 

 

「標的の、沈黙を、確認」

 

 

 邪なる者を討つガブリエル。邪悪に対する特効は、機械の乙女に然したる意味はない。故にこそ、五体満足で残っている。

 

 だが、それだけだ。アミタは邪悪な者ではないとしても、天使の裁きに耐えられる様な器じゃない。

 故にアミティエ・フローリアンはもう立てない。壊れた身体は煙を上げて、神経系を破壊されたが故に身体は動かず、その身は荒れ果てた大地に倒れた。

 

 

「砲撃、再開、を、始めます」

 

 

 そんな彼女を無表情に見詰めた後、暫し時を置いてからアストは再び行動を再開する。

 邪魔者の排除は終わったのだ。ならば次は最初の目的、シエルシェルターの破壊を為すのである。

 

 其処に迷いなどは入らない。感情などは紛れない。機械的に、無情のままに、ヴィヴィオ=アスタロスは全てを終わらせるのだろう。

 

 

「虚空より 陸空海の透明なる天使たちをここへ呼ばわん」

 

 

 言葉が零れる。機械的で感情の伴わない、そんな透明な言葉が小さな唇から零れ落ちる。

 壊れたアミタは、霞む視界でそれを見詰める事しか出来ない。地面に倒れたままに、少女がそれを壊し尽す光景を見ている事しか出来ていない。

 

 それで良いのか? ああ、そんなのは問うまでもない。良い筈がないのだ。認められない。其処には母が、妹が、皆が未だ生きているのだから。

 

 

「この円陣にて我を保護し 暖め 防御したる火を灯せ」

 

 

 魂が悲鳴を上げている。機械の身体に宿った命は、確かに愛された証である。その魂が悲鳴を上げている。

 それは苦しいから、ではない。確かに苦痛は激しく、身動きが出来ない程に消耗した。だがこの悲鳴は、それとは違う物なのだ。

 

 このままでは失う。何も出来ずに失うだろう。それを認めるなんてこと、断じて出来る筈がない。

 

 ならばそう、立ち上がれ。己の内で喝を入れる。無理とは言わせない。一体何の為の機械の身体だ。

 壊された内部神経を別の物で代用する。体内の魔力を制御して、疑似神経を作り上げる。脳の演算領域をフルに使用して、立ち上がる術を構築する。

 

 過剰な駆動に、脳が痛みと言う悲鳴を上げている。余りに負荷が掛かり過ぎる動きに、フレームがギシリギシリと軋んでいる。だがそれは、立ち上がらない理由にならない。

 

 

「幸いなれ 義の天使 大地の全ての生き物は 汝の支配をいと喜びたるものなり」

 

 

 掌を地面に付いて、その手に力を込める。壊された神経の代わりに、魔力で意志を伝達する。

 起き上がる途中で、傷付いていた右腕が己の重みに耐え切れず、ボキリと音を立てて圧し折れた。

 

 それでも、アミティエは立ち上がる。守るべきモノが其処にあるから、未だ失いたくないモノが其処にあるから、少女は必死に立ち上がる。

 

 

「さればありとあらゆる災い 我に近付かざるべし 我何処に居れど 聖なる天使に守護される者ゆえに」

 

 

 立ち上がって、一歩を踏み出す。下に躍らせる音は、加速を意味する八字の言葉。

 アクセラレイターの超過駆動に、今の己は耐え切れぬだろう。立ち上がったとして、何が出来るとも分からない。

 

 湖に投げ込まれた小石と同じだ。小石は波紋を立てるであろうが、湖は湖のままで何一つとして変わらない。

 アストの力を泉と例えれば、アミタは正しく小石であろう。何も出来ない程に力に差はあって――それでも、波紋を立てる事は出来るのだ。

 

 

「斑の衣を纏う者よ AGLA――来たれ太陽の統率者」

 

 

 立ち上がって、踏み込んで、加速したまま駆け抜ける。其処まで来て、漸くにアストは気付いた。

 左の手に握った銃はバルカンレイド。たった一丁の拳銃を頼りに、疾走する青の少女。それを前にして、アストの動きが僅かに止まった。

 

 それは、一体如何なる奇跡か偶然か。いいや、否。これは確かな意志が呼び込んだ必然だろう。

 

 今のアストは機械的だ。白痴と化した少女は真面な思考も出来ぬが故に、対策マニュアルに従う事しか出来ていない。

 故にこそ、その欠点が生まれている。彼女は行動の合間に、澱みが生まれている。予想外の出来事を前にすると、思考が停止(フリーズ)してしまうのだ。

 

 絶対に立てぬと判断した。既に沈黙したと認識した。その存在が示す不屈の意志に、アストの思考が戸惑い停止する。

 それでも、勝利する事は出来ない。思考の停止を含めても、アストの方が遥かに強い。思考が停止している内に、踏み込める距離は精々一歩だ。

 

 だが、一歩の距離を詰める事なら出来る。そして、今ある距離はそう遠くはない。

 ずっと進んでいたのだ。この攻撃の最中にも、アストの動きは鈍いから、距離を詰める事なら出来ていた。

 

 ラファエルの風を前にして、耐え抜き一歩を踏み込んだ。ミカエルの光を前にして、それでも一歩は進んでいた。ガブリエルの裁きをその身に受けて、しかし一歩も退いてはいない。

 三歩の距離を、稼ぐ事が出来たのだ。一歩の距離では届かずとも、三歩の距離があるならば――アミタの速度は届く。限界を超えた超過駆動で踏み込めば、ウリエルの火が墜ちるよりも僅かに速い。

 

 

「心に情熱ッ! この手に勇気ッ! 貫く想いは銃身(バレル)に預けて――私はこの道を、拓きますッ!!」

 

 

 近付いた。懐へと踏み込んだ。零距離から、アミタは手にした銃を撃ち尽くさんと連射する。

 近付かれた。懐へと入られた。想定外の事態を前に、アストの思考はまたも停止する。与えられる銃撃の痛みに、彼女の思考にノイズが走った。

 

 

「どう、して?」

 

 

 零れたのは、そんな言葉。無意識に口にしたのは、当たり前のそんな疑問。

 どうして、諦めないのか。どうして、此処で折れないのか。どうして、そんなに揺るがぬ瞳が出来るのか。

 

 アストではないアストが問い掛ける。白痴になった彼女では、自分が何を言っているのかすらも分かっていない。

 

 

「私は人の手によって作られた機械(ギアーズ)です。人の為に、それが存在理由だと――だけど、それだけじゃないんですッ!」

 

 

 答える意味はない。応える必要なんてない。それでも、アミタは己の想いを口にする。

 退けない理由。止まらない理由。前に進み続ける理由。アミタの胸には、抱いた熱が確かにある。

 

 人に作られた者同士。白く堕天した虹の聖王は分からずともに、それでも己の心を揺さぶる想いを聞いた。

 

 

「愛してくれた父が居ますッ! 愛を教えてくれた、人達が居ますッ!」

 

 

 銃撃を続けながらも、想うは大切な人達の姿。壊れた身体で前に進みながら、想い浮かべるのは大切な宝石たち。

 

 何の為に戦うのか、アミタの理由はたった一つ。何故此処で倒れないのか、その理由はたった一つ。

 愛を教えてくれた人が居た。機械の己を、心の底から愛してくれた人が居た。その想い、決して無価値になんかしたくない。それだけの、とても単純な理由である。

 

 

「優しく温かな母が居ますッ! 血の繋がりのない母親が、あの場所で待っているッ! 帰るべき居場所が、この背中にはあるんですッ!!」

 

 

 少女の言葉に、幼子の思考にノイズが走る。もう忘れた筈の記憶が此処に、悲鳴を上げて邪魔をする。

 血の繋がらない母親。愛してくれているあの人。思い出せないその記憶が、彼女の言葉が、アストの中で心を叩く。

 

 

――本当のママが見つかるまで、私が母親代わりをしてあげるわ。

 

 

 そう言ったのは、誰であったか。そう言ってくれたのは、一体誰であったのか。

 忘れたくはない。覚えていたい。ずっと一緒に居たい人。なのにどうして、己は覚えていないのだ。

 

 

「守るべき妹が居ます。大切な居場所があります。帰って来てと、言ってくれる人が居るんです。だから頑張んないと、お姉ちゃんはそう思うのですッ!」

 

――帰ろう。ヴィヴィオ。こんな場所に居るより、帰って一緒に遊ぼうよ。

 

 

 帰ってきてと、そう言ってくれたのは誰であったか。大切だったのに、アストはもう覚えていない。

 それが大切だったと分かるから、覚えていなくても大切だったと分かったから、アストの心が張り裂けそうな程に悲鳴を上げている。

 

 思考が止まる。行動が停止する。動けない。動かない。動きたくなんてない。

 

 

「分からない。分からない。分からない。分からない。分からないッ!?」

 

 

 目の前に居るのは、泣いている子供だ。分からない分からないと、分からない事が辛いのだと泣いている子供だ。

 負けられない理由がある。山ほどに理由があって、其処に一つ新たに加わる。泣いている子供がそのままなんて、絶対に良い筈ないのだから。

 

 

「――だからッ! 私は、貴方には負けられませんッ!!」

 

 

 アミタは此処に己の限界を乗り越えて、全力で加速し疾走する。

 手にした銃を刃に変えて、疾走からの連続斬撃。聖王の鎧を意地と刃でこじ開けて、空いた場所を狙い撃つ。

 

 無数の弾丸をばら撒いて、此処に放つはアミティエ・フローリアンの最強必殺。

 それは集束魔法に何処か似て、しかし異なる破壊の情景。力を集める場所は己の武器ではなく、標的そのもの。圧倒的な質量で、此処に我が敵を押し潰す。

 

 

「貫いてッ! エンド・オブ・ディスティニィィィィィッ!!」

 

 

 その力を前に、動揺するアストは対応出来ない。ちっぽけな力を前にして、混乱するアストは動けない。

 防御も回避も反撃も、何れも出来た筈なのに、咄嗟に何も出来ずに硬直した。圧倒的な格下の意地が、少女の力を超えたのだ。

 

 まるで逆さに引っ繰り返した針鼠。隙間一つなく埋め尽くされる砲火は、三百六十度全方向から。

 押し潰す様に迫る破壊の力を前にして、アストは頭痛に動けない。動けないまま、幼い聖王はその光に包まれて――

 

 

 

 しかし、その身を貫く事はなかった。

 

 

「――残念だけど、君の快進撃は、此処までだよ」

 

「っ!?」

 

 

 斬と、破壊の光が断ち切られる。切り裂いたのは、アストではない。

 其処に立つのは、まるで獅子を思わせる金色。異形の槍を手にした彼は、正しく最強最悪の反天使。

 

 

「君の全ては、無価値に終わる」

 

 

 今のアストが思考停止に陥るなど、クアットロは最初から知っていた。

 それ程に壊れているからこそ、己の奈落に接続する事を許した。己を裏切れぬと確信すればこそ、内に取り込み手駒としたのだ。

 

 故に最初から知っている。彼女は砲台として運用し、それ以外の用途になどは使えないと。

 接近戦は元から論外。踏み込まれた時点で、格下にすら敗れ得る。ならばこそ、彼女を守る護衛をクアットロは其処に用意していた。

 

 当たり前の如くにアミタの切り札を斬り伏せて、その護衛――エリオ・モンディアルはゆらりと立つ。 

 冷たい瞳で全てを見下し、その抗いすらも無価値と断じ、その想いは届かせないと明言する。そんな悪魔が立っていた。

 

 

「エリオ、モンディアル」

 

「僕が全て、無価値に変える」

 

 

 震える声で小さく、その怨敵が名を呟く。彼こそは、アミタとキリエにとっての絶望の象徴。決して勝てぬと思い知らされ続けた無価値の悪魔。

 

 

「抗うと良い。足掻けば良い。意地を見せたければ、好きにしなよ。――全て、無価値だ」

 

 

 未だ思考停止を続ける幼子の前に立ち、金色の悪魔は暗い愉悦に頬を歪める。

 乾いた風が吹き付ける荒野の只中で、既に倒れそうな程に消耗したアミタは今、最大の窮地を前にしていた。

 

 

 

 

 




今のヴィヴィオは、白痴モードの為砲台以外に使えない状態。
なので待機していたエリオ君。ヴィヴィオの危機に、満を持して参戦。


今回の対戦カードは

クアットロVSトーマ&キリエ
エリオ&ヴィヴィオVSアミタ

失楽園の日と同様に、普段はやらない組み合わせで戦闘。
魔群とトーマは、一度ガチバトルをさせてみたかったので、こんな形となりました。



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