そんな警告だらけの今回で、神産み編も終了となります。
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1.祭祀一切夜叉羅刹食血肉者(神咒神威神楽)
3.Albus noctes(Dies irae)
1.
壊れていく世界の中で、潰えていく次代の希望。倒れたトーマ・ナカジマは、未だ立ち上がれていない。
突き付けられた三振りの刃。己を縛る黒影を、打ち破る事さえ出来ずに頭を垂れる。伸ばした手は、届かない。
何処にも届かない。何処にも届かせない。見下す瞳は冷たい色。
穢土・夜都賀波岐は許さない。此処で潰えてしまうなら、そんな希望は偽りでしかないのだから。
「ふ、ざけ、やがって」
握り締める。怒りを胸に燃やしながらに、乾いた土を握り締める。彼の心を満たすのは、理不尽な現実に対する憤怒である。
どうして救わせてくれない。どうして己から奪い去る。何故にどうして伸ばしたこの手を、横合いから出てきて払い落とすのか。
其処に如何なる理由があろうと、この怒りは静まらない。溢れる怒気が薪となり、魂の力を増幅させる。
百鬼空亡を救おうと共有していた。故にこの身を苛んでいた病は既にない。多少の傷など、エクリプスはすぐさま塞いでくれるであろう。
「お前らァァァァァァァァッ!!」
ならばこの展開は当然だ。故にこの展開は当然だ。膨れ上がる神威を妨げるモノは、既にない。
悪路の剣が押し返される。母禮の刃が弾かれる。彼を抑え付けていた奴奈比売の太極が、内側から引き裂かれた。
腐った男は当然と、その成り行きに納得する。燃え盛る女はそうでなくては困ると、その反抗を歓迎する。驚愕を張り付けているのは、身を引き裂かれた女ぐらいか。
三者三様、打ち破られた彼らを前にトーマは立ち上がる。その手に剣を形成して、怒りと共に構えを取る。背負う荷が失われてしまった今、トーマが彼らに劣る道理はない。
だが、怒りに身を任せて挑めない理由がある。今のトーマをして、真っ向からでは倒せない脅威が居る。
無言のままに不動を貫く最強を、まだトーマは超えられない。彼の終焉が全力攻勢に出たならば、対抗する手段が一つもない。
死を防ぐ異能がない。防御型の異能が足りない。停滞の理を、トーマはまだ引き出してはいないのだ。
故に情勢は甚だ不利だ。四方を囲まれた数の不利。内一方は太刀打ちできない最強ならば、敗北する以外に道はない。
されど、認められるものか。負けるしかないからはいそうですかと、そんな軽い怒りは持っていない。
故にトーマは剣を構える。傷だらけの身体と疲弊し切った精神を魂で支えて、何度だって少年は此処に立ち上がるのだ。
そして、少年は一人じゃない。この状況を前にして、彼の男が動かぬ筈がないのである。
「……来るか」
口にしたのは、天魔・大獄。其処に現れるのであろう存在は、最強である彼でさえ身構える必要がある反面。
言葉を聞いて身構える。悪路。母禮。奴奈比売。常世。彼らの表情は皆険しい。あの裏切り者が、此処で動くだろうと警戒している。
そんな彼らの懸念に答えを返すが如く、彼は大地を蹴って参陣する。
四方を五柱の天魔に囲まれたトーマの直ぐ傍に、降り立ったのは金髪鬼面の大天魔。
「司狼!?」
「よぉ、トーマ。……俺も混ぜろや」
黒き鎧の少年は、その姿に僅か驚く。それでも驚愕は一瞬で、すぐさま安堵と信頼の情へと変わった。
色々言いたい事は確かにあるが、この天魔は信頼できる。継承した記憶と己の経験。其処から確かに知っている。
天魔・宿儺は、決して己の目的を諦めない。どんな状況であったとしても、その策謀の成就を求め続けよう。
その為ならば誰であっても敵とする。その為にならば、どんな汚泥だって被るであろう。その程度の信頼は、確かに胸に抱いていた。
トーマは彼に背を預ける。黒衣の少年は鬼面と背中合わせになって、己達を囲む敵を睨んだ。
睨む視線を向けられた五柱は、警戒の念を一段上げる。流れ出そうとしていた神と、夜都賀波岐が誇る両翼の一。その両者を同時に相手取るならば、この布陣でも完璧とは言い難いのだ。
故にこそ、その男の行動に誰も反応出来なかったのだろう。ニヤリと嗤った両面宿儺は、
「がっ!? 司狼、お前ぇっ!?」
訳が分からない。意味が分からない。背中を預けた瞬間、襲い掛かった宿儺に誰もが反応出来ていない。
天衣無縫の拳を背に受け、その身を仰け反らせたトーマ。不用心なその姿に悪童が如き笑みを浮かべたままに、天魔・宿儺の腕がその身を貫いた。
〈きゃぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?〉
そして体内へと流れ込む自壊法。内なる少女との繋がりが壊れてしまう前に、咄嗟にトーマはリアクトを解除する。
其れこそ鬼の思惑通り。飛び出す少女の首を掴むと、その胸元に光る何かを押し付けながら、その胴体を思いっきりに殴り飛ばした。
風に吹かれた紙屑が如く、二転三転しながら吹き飛ばされる白百合。呆然としていたキリエを巻き込んで、彼女達は転がりながら大地に倒れた。
「悪いな。そういう事だ」
「……この、くそ、しろう」
体内に自壊の毒を流されて、内なるエクリプスが暴走する。それを必死に抑え付けようともがくトーマに、再び振り下ろされる鬼の剛腕。
疲弊疲労消耗と、予想外にも程がある裏切り。その全てが重なった今に、耐えられる道理はない。余りにもアッサリと、トーマの意識は断ち切られた。
そして、沈黙が場を支配する。困惑する四柱の大天魔を前に、宿儺はニヤリニタリと嗤い続ける。
意味が分からない。訳が分からない。それでも現状を如何にか噛み砕き、先ず最初に悪路が彼へと問い掛けた。
「一体、どう言う心算だ。ゲオルギウス?」
その言葉は、この場の誰もの胸中を代弁した物であっただろう。
怪訝な視線で見られた天魔・宿儺は、それでもニヤケタ笑みを欠片たりとも揺るがせない。
「おいおい。言っただろうが。……俺はお前らのこと、
平然とした表情で、ふざけた言葉を口にする。そんな両面悪鬼を前に、向けられる敵意は変わらない。
何を言っているのか。信じられると思っているのか。怒りさえも抱く天魔達を前にして、両面宿儺は素知らぬ顔だ。
事実、彼は何一つとして気負うていない。天衣無縫の技の冴えと同じく、その在り様を縛る事など誰にも出来はしないのだ。
「……正気か、貴様」
「遊佐君、貴方ねぇ。それで本当に通ると思っているの?」
悪路が冷たい瞳で、母禮が呆れた声音で、それでも両者共に業火の如き怒りを内に宿している。
そんな二人の言葉をその身に受けて、されど宿儺は怯みもしない。戯けるなと言う声に対して、彼が見せるは傲岸不遜な居直りだ。
「硬ったいねぇ、お前さんら。一度や二度の裏切り程度でグチグチ言うなよ。結局こうして戻って来たんだ。すぐさま許すが度量じゃねぇのか?」
「……うっわ、なんかすごい事言い出したんだけどコイツ」
何を企んでいるのか。一体どの様な心算で嘯くか。冷たい瞳を前にして、器量が狭いとせせら笑う。
両面宿儺のそんな言葉に、奴奈比売は呆れた様に言葉を紡いだ。真面に取り合う方が馬鹿を見る。まるでこれはそう言う手合いだ。
厚顔無恥で傲岸不遜。誰にも裏を取らせぬ悪鬼は、悪童の如くにヘラヘラ嗤う。
元より誇りなど捨てている。端から拘りなんて捨て去った。最初から最後まで徹頭徹尾、彼の望みは己が策略の成就だけ。
そうとも、この状況は宿儺の思惑通りである。此処までが全て、彼にとって都合良く動いている。
不味いと口にしたあの言葉。やばいと語った言葉の向いた対象は、天魔襲来ではなく少年の流出に対してだ。
両面宿儺が求めていたのは、流出可能な域に至ったその魂。されどこの場で流れ出す事を、彼だけは未だ望んでいなかった。
「ま、あれだ。最後には結局仲良しな俺達でしたって感じでよぉ。また流してくれや」
「…………」
やばい。アイツら間に合わねぇ。彼の零した独音が、宿した意味はそれだった。
故にこそ良くぞ間に合ってくれたと、冷たい視線を向ける仲間達を彼は本心から歓迎していた。
ここまでの全てが思惑通りと言う訳ではない。外れた意図も確かにあって、予想外など山とある。それでも、結果は思惑通り。
過程で幾らズレようと、結果良ければそれで良い。そんな鬼の記した絵図面は、もう既に完成している。仮に己の策略を暴かれようが、最早覆せはしない。
後は唯、皆が全力を出せば良い。穢土・夜都賀波岐が、トーマ・ナカジマが、今に生きる全ての者らが、全身全霊で事に挑めば鬼の策は成就するのだ。
「ほら、さっさと行こうぜ。早くしねぇと、トーマの純化が間に合わな――」
故にこそ、両面悪鬼の役目は終わった。ならばこそ、その男は此処で動いた。
次代を見極める鬼の顔に、次代を試す男の黒き拳が打ち込まれる。幕引きの一撃が、天魔・宿儺を打ち抜いていた。
咄嗟に自壊の法を展開して、だがそれごとに砕かれる。時の鎧を必死に集めて、それでも纏めて潰される。
命の大半を一撃で磨り潰されながら、天魔・宿儺は殴り飛ばされる。夥しい量の血反吐を吐きながらに、悪鬼は崩れて大地に落ちた。
「テ、メェ、……くそ、甲冑。なに、しやが、る」
即死ではない。だが、半殺しなどと生温いレベルでもない。九割九分九厘は殺された。最早身動き出来ぬ程、一手で全て崩された。
正面から終焉の拳を叩き込まれ、鼻が折れて歯が砕けた鬼の顔。立ち上がる事すら出来なくなった宿儺は、恨み言を呟きながらに終焉を見上げる。
見上げられた終焉は、役目を終えた見付けるモノへと冷たい言葉を投げていた。
「お前の戯言に、付き合っている暇はない。……もう、黙っていろ」
両翼が争い合えば、穢土・夜都賀波岐は崩壊する。それは両者が健在であれば、と言う前提条件の下に成り立つ法だ。
今の宿儺はエルトリアと言う大地に居るが為に、その戦力値を大きく引き下げてしまっている。対して大獄は、何処で在ろうと決して変わりはしないのだ。
ならばこそ、この結果は当然だ。四柱が動揺している間にも、宿儺の隙を伺っていた終焉の怪物。その一撃は防げない。
虫の息となった両面は、恨み言を口にするだけで精一杯。倒れて血反吐を吐く怪物は、他に何も出来ぬまま、己が策謀の成就を前に沈黙した。
再びの静寂。僅かに飲まれていた常世は、一呼吸をすると意識を此処に切り替える。
時間がない事を思い出したのだ。故に何時までも呆けてはいられない。すぐさま次の動きに移るべきだろう。
「……予想外はあったけど、戦果としては十分、だね」
此度のエルトリア遠征。過程は予想外に過ぎたが、結果として見れば最上だ。
トーマは無事回収出来た。宿儺は此処に沈黙した。味方の消滅すらも予想していて、だが誰も欠落していない。
出来過ぎなくらいのこの状況。その全ての絵図面を描いた鬼に、僅かな懸念を抱いてはいる。
されど既に虫の息。放っておけば消滅する。如何にこの悪鬼であっても、これでは何も出来ぬであろう。
天魔・常世は倒れたトーマの前に膝を付く。大切なモノを抱き締める様に彼を抱き上げると、そのまま配下へ指示を下した。
「マレウス。お願い」
「はいはいっと、ま、正直気が進まないんだけどさー」
見詰める視線の先には、消え掛けている両面の鬼。此処で消滅されてしまえば、無間衆合の材料が不足する。
誰かが回収する必要がある。されど今の彼では、悪路や母禮の太極にすら耐えられないだろう。当然、保管の役を担える者は彼女のみ。
過去の体験故に多少は気が引けるが、彼女にしか出来ない消去法だ。多少の恐怖やトラウマなどは、飲み干して見せるまで。
「じゃ、Auf Wiedersehen、ゲオルギウス。彼が甦る時には使ってあげるから、それまで魂だけになって反省してなさい」
擦れて消えていく天魔・宿儺は、沼地の泥に包まれて行く。
停滞の理を持つ太極に飲まれながらに――それで宿儺は、確かな笑みを浮かべていた。
「それじゃあ、行こうか」
為すべきは終えた。そして次にやるべき事が溜まっている。この少年を浄化する為に、時間は幾らあっても足りていない。
故に最早此処に居る意味はない。夜都賀波岐の大天魔たちは次々に、この世界から立ち去っていく。崩壊するエルトリアを背に、彼らはもう振り向かない。
「トーマ」
倒れた白百合は、如何にか起き上がろうと手を伸ばす。それでもその手は届かない。
キリエと二人支え合って、如何にか立とうともがいている。それでもその瞬間を待ってはくれない。
「トーマ」
返せ返せ。それは私のモノである。それは私の最愛なのだ。
必死に伸ばす手とそこに籠った想いは、しかしその断絶を超えられない。
一柱、一柱、夜都賀波岐は消えていき、少女の手は空を切る。決してその手は届かない。
冷たい目で見詰める事すらせずに、夜都賀波岐は消え去った。白百合にとって最愛の、優しい少年を連れ去って――
「トォォォマァァァァァッ!!」
分かたれた絆を前に、少女は悲鳴にも似た絶叫を上げてその名を呼ぶ。
されどやはり届きはしない。消え去る最中に振り返った黄金の光は、鬱陶しそうに見下すだけ。
お前なんかに、渡しはしない。冷たい瞳で一瞥した後、天魔・常世も最後に消えた。
かくして、神の魂は夜都賀波岐が掌中に落ちる。
トーマ・ナカジマが消えた時、全ての世界は凍って止まってしまうであろう。
2.
世界が滅びる。空と大地が崩れていって、宇宙空間でさえも消えていく。
最後に残されたエルトリアの希望。ロクス・ソルスの艦橋にて、彼らは戦い続けている。
赤いランプが点灯し、警告音が鳴り響く艦内。滅びの時を前にして、誰もが必死に抗っていた。
「キリエ・フローリアン! リリィ・シュトロゼック! 回収完了しましたッ!」
「なら、もう待てませんッ! 緊急発進! エルトリアから脱出しますッ!!」
天魔達が去った後、命を賭けて動いた回収部隊。彼らの報告を耳にして、アミタは此処に決意した。
まだエルトリアの惑星内に、残った人々は居るだろう。だがもう助けに行く時間はない。リリィとキリエの二人ですら、限界寸前だったのだから。
故に脱出を。この惑星から離脱して、転移空間へと移動する。その為にも先ずは障害のない宙域へと、だがその判断が既に最早遅かった。
「駄目です! 大気圏脱出レベルまで、出力が上がりませんッ!」
度重なる龍の咆哮。落下の際の衝撃に、ロクス・ソルスの船体は既に多大な被害を受けている。
修復の為の時間はなくて、船体全てが軋みを上げている現状。自壊を防ぐ為のセーフティが起動して、船の出力が上がってくれない。
この出力では、大気圏外には脱出できない。惑星内で長距離転送は、余計な障害が多過ぎて難しい。
船を修復している時間はない。セーフティを解除している余裕はない。此処から転送魔法は使えない。ならば最早、詰みである。誰かが此処に悲鳴を上げて。
「っっっ! だからって、諦めないでッ! 余計な場所はパージしてッ! 少しでも船体を軽くッ!」
それでもアミタは諦めない。斬り捨てた者。背負った者。その重さが諦めを許さない。
艦の修復も制限解除も間に合わぬなら、船体自体を軽くする。低出力のままに脱出を、出来る出来ないではなくやるのだ。
余計な機能をパージする。不必要な区画を排除する。隔壁を降ろして、少しでも上へと。
設計時点の想定人数を、救出出来ていない現状が幸いした。誰かを犠牲にせずに、それでも出来る事が未だ残っている。
「やるべき事を、全部――例えやれることがなくなったとしても、生きている限りは進むんですッ!!」
同時進行で、制限解除と艦の修復も行わせる。間に合わないからやらないと、そんな理屈は通さない。
間に合わせるのだ。間に合わなくても、生きている限りは進むのだ。それが託された者の義務であると、アミタは確かに分かっている。
されど、どれ程に強く想っても、その現実は変わらない。
どうしようもない程に最悪な現実は、更に更にと悪化していく。
「エルトリア、消滅。……ロクス・ソルス、虚無空間に墜落ッ!?」
大気圏を離脱する前に、エルトリアが消滅した。虫食いが全てを飲み干して、何もない場所へと墜ちていく。
それは何処か虚数空間にも似た光景。何処までも何処までも底なし沼の如くに落ちていく、其処は何もない世界。
誰もが不安になった。誰もが恐怖を抱いた。それは生物として、根源的な恐怖である。
このままでは生きていられない。このままでは死んでしまう。誰もが理屈ではなく本能で、その恐怖を感じていて――
「総員ッ! 傾注ッッッ!!」
それでも、アミティエ・フローリアンは諦めない。
諦めずに戦い続けた英雄の背中を知るからこそ、諦めるなんて選択肢は端からないのだ。
「諦めないでッ! どんな時だって、前を見続けてッ!!」
前に進もうとして、本当に進めているかも分からない。
上に上がろうとしても、一体己達が何処に居るかももう分からない。
そんな虚無の底でも確かに、諦めるなと女は語る。諦めてしまえば、其処で全てが終わるのだから。
「全てを知る私達が生きなくちゃ、結局何も遺らないッ! だから、諦めちゃいけないんですッ! それは、絶対に絶対ですッ!!」
アミタは世界の真実を知らない。この世界がどの様に生まれたかを知らない。
それでも、分かる事がある。見た事もない怪物達がトーマを連れ去った。その事実を、誰かに伝えないといけないと言う事だ。
誰もがそれを知らないままに、彼女達が消え去ればそれこそ世界の終わりであるのだ。
誰にも知られぬままに世界全てが凍り付き、全ての可能性が其処で失われてしまうのだから。
だから、諦めるな。だから、進み続けよう。だから、命が終わる最期まで抗おう。
そんな艦長の言葉に、恐慌していた者らが頷く。阿鼻叫喚の地獄となる前に、彼らも確かに前を見た。
生きるのだ。生きて、終わらせないのだ。何時かエルトリアに帰る為に、今を確かに生き抜くのだ。
想いを新たに其々が己の役へと戻っていく。ロクス・ソルスに火を入れて、無駄となっても前へと進むのだ。
そんな、抗う意志を持ち続けたが為であろうか。彼らは人類史で初めて、生きて“外”を認識した。
「……え?」
「これが、虚無の、向こう側?」
虚無の空間が、唐突に途切れた。まるで薄い膜を抜けた様に、僅かな抵抗の後に其処へと墜ちた。
此処は彼らの世界とは別の場所。偉大な神が流れ出す前、虚数の向こうにあった世界。それを始めて、彼らは目にした。
「青い、星。水が、海があるのか!?」
瞬く小さな星々は、見上げた夜空と同じ物。星が浮かんだ暗い海の中に、宝石の如く輝く青い星。
誰もが思った。まるで宇宙空間から、エルトリアを見た時と似ている。虚無の向こうは、我らの世界と変わらぬのではないかと。
嗚呼、そんな想いは唯の甘えだ。本能が語る警鐘こそが正しい。此処は、彼らの宙じゃない。
故にこそ、その破綻は当然だった。ロクス・ソルスと言う方舟を舞台に、その破滅は幕を開いた。
「あ、あぁぁぁぁっ!?」
誰かが、叫び声を上げた。誰もが、悲鳴を此処に上げていた。
「腕が、消えていく」
「足が、俺の足がぁぁぁっ!?」
消えていく。消えていく。消えていく。キエテイク。誰もが魔力素に分解されて、その存在が消えていく。
腕が消えた。足が消えた。頭が消えた。人が消えた。ボロボロと、ボロボロと、次から次へと誰も彼もが崩れていく。
「皆、どうして……――っ!?」
叫ぼうとしたアミタは気付く。気付いて、絶叫を抑えるのが限界だった。
振り返ろうとした己の身体。その全身が薄ぼんやりとぼやけていって、ゆっくりと解ける様に消えていく。
唯、崩れる様に消えていく。誰も彼もが例外なく、この世界から消滅していく。痛みがない事が、何よりも恐ろしかった。
再び恐慌の中へと沈んでいく艦橋。今度はアミタも止められない。
誰も彼もが消えていく。消え去るのは人だけではなく、あらゆる全てが消えていく。
それは、ロクス・ソルスも例外ではない。この船も少しずつ、崩れ落ちる様に消え始めていた。
「……ここ、は」
そんな船の医務室に回収されたリリィは、この事態を誰より確かに認識していた。
「ああ、そうか。此処は、違う場所」
虚無の向こうにあるこの場所は、彼女達が生まれ育った場所ではない。
神の身体の外側に、偉大な彼の加護はない。だからこそ、彼女達はこの世界で生きられない。
今の時代の人間が持つ魂は、自分で自分を形成出来ない程に弱いのだ。
神の力で魔力を肉体としている彼らは故に、神の加護が届かぬこの世界では存在すらも許されない。
「私達が、生きていて良い場所じゃない」
神の内で生まれた彼女達は、魂の力である魔力によって創造されたモノ。
血も肉も、水や大気や大地でさえも、全てが魔力で成り立っている。この世界とは、そもそも法則が違うのだ。
この世界の大地は、魔力とは別の物で出来ているのだろう。この世界の大気とは、魔力とは別の物で出来ているのだろう。この世界の全ては、魔力とは別の物でしかない。
「だから、私達は消えるしかない場所なんだ」
リリィの腕も消えていく。その身体も崩れていく。零れ落ちる様に、何もかもが壊れていく。
手を伸ばしても届かない。己を形成すらも出来ぬ弱く儚い魂では、この外側で生きる事すら出来ぬのだ。
「トーマ」
リリィ・シュトロゼックが消えるまでに掛かる時は、他の誰よりも長いだろう。魂の質の差が、確かに其処に形となる。
それでも、違いはほんの僅かであろう。先ず最初にエルトリアの民が、次にフローリアン姉妹が、最後にリリィが消え失せる。
そうでなくとも、ロクス・ソルスが消えれば終わりだ。何もない宇宙空間に投げ出されて、何も出来ずに死か消滅を待つしかないのである。
「リリィ。諦めたの?」
だから、もうどうしようもないのだと。届かぬ手を窓に映る青い星へと向けて佇むリリィ。
そんな彼女に向かって、キリエ・フローリアンは問い掛ける。もう諦めてしまうのかと。
「キリエ」
「だったら、私の勝ちね。だって、私は諦めないもん」
その身は薄らいでいく速度はリリィよりも早く、それでもキリエの瞳は彼女よりも力強い。
お前が諦めるならば私の勝ちだ。そう恋敵に勝ち誇りながら、キリエは決して諦めない。その瞳は何処までも、前を見詰め続けていた。
「そうだよ。諦めるもんか。諦めて堪るか。私達は何時か、必ずエルトリアに帰るんだからッ!!」
消えていく。消えていく。消えていく。何もかもが消滅する最中に、それでも強き姿に心を打たれる。
雷鳴の如き衝撃に呼吸が止まって、そして思考は切り替わる。そうとも、諦めない。諦めたくない想いは、あるのだ。
奪われた愛しい人。浚われたトーマ・ナカジマ。彼と共に生きる世界を、リリィだって諦められない。
それはエルトリアに帰るのだと心に決めた彼女達の想いにも、勝るとも劣らない程の強き願い。ならばどうして諦められる。
出来る事がある筈だ。やれる事がある筈だ。消えるまでに、時間はきっと在る筈だ。
そう意識を改めて、自分の意志で立ち上がる。そうした瞬間、リリィの懐から何かが零れ落ちて来た。
「青い、宝石?」
コロンと音を立てて転がったのは、掌に納まるサイズの青い宝石。
小さな菱形の宝石は、リリィが見た事もない物で、どうして此処にあるかも分からぬ物。
いいや、一つだけ心当たりがある。リリィが知らないのにあるのなら、これはあの時に仕込まれたのだ。
「天魔・宿儺」
両面の鬼に殴り飛ばされる直前に、押し付けられた冷たい何か。
懐を漁る様に投げ込まれた物こそが、天魔・宿儺が穢土より持ち出していた願いの宝石。
ジュエルシード。人の想いを叶える願望器。高密度な魔力結晶体である。
「これが、貴方の企みだって、言うのなら――」
泥に飲まれて消え去る時まで、嗤い続けていた両面悪鬼が仕込んだ宝石。
恐らくこれも、彼の企みが一つであろう。此処でコレが必要になると、あの悪鬼は読んでいたのであろう。
その策略に乗るのは確かに業腹だが、それでも一つ言える事がある。それはきっと、この今に掴んだコレこそが最も大きな希望である事。
「ううん。そんなのは関係ない。これが、これだけが、生きて帰れる可能性なら――」
ならば、利用されている事など関係ない。その策謀に踊らされるとしても構いはしない。
皆で生きて帰るのだ。生きて明日を繋ぐのだ。その為に必要な物が彼の神格が企みで用意されているならば、寧ろ神様が保障してくれていると考えてしまえば良い。
故にリリィは石を両手に握り締め、己の願いを此処に託した。
「応えて、ジュエルシードッ!! 私達に、明日を――っ!!」
青き光が溢れ出し、リリィを、キリエを、アミタを、エルトリアの人々とロクス・ソルスを、全てを包み込んでいく。
生きたいと願う想いに嘘はない。帰りたいと思う心に否はない。何処までも純粋な祈りを前にして、欠陥品の願望器は確かに応えた。
そうして、青い光が輝いて、光は一瞬で消え失せる。その後には、船の姿も人の姿も何処にもなかった。
最後の希望を宿した方舟は、こうして世界の狭間で願いと共に虚無の向こうから消失する。
世界が終焉を迎える日を前に、方舟が希望を繋ぐ事が出来るのか。それは未だ、誰にも分からない。
3.
蠅の羽音がする。ブンブンと、死肉を漁る音がする。
夜空を照らす都市の灯りを見詰めて、少女を抱き締めた女は微笑む。
無作為転移の果てに此処に来て、漸くに見付けた人の営み。ほっと一息を吐いて、機械の女は問い掛けた。
「ヴィヴィオ。疲れてはいませんか?」
ウーノの言葉に返るのは、何も見てない胡乱な瞳。ぼんやりとした少女は未だ、命令なくば思考も出来ない。
故に首を傾げる彼女に、小さく苦笑しながら頭を撫でる。何処か気持ち良さそうに細まる瞳に、ウーノは一人安堵した。
この程度の情動は未だ残っている。ならきっと、この子は助けられる筈である。
幸せになって欲しい。救われても良いだろう。守りたいと、機械の乙女は初めてそう感じたのだ。
「先ずはあの街で一晩過ごして、ミッドチルダを目指しましょう」
「?」
「貴女のお母さんの下へ、一緒に帰りましょう? ヴィヴィオ」
慈しみと共に語る。所詮己の想いは代替の母性。ならば本当の母の下へと、彼女を届ける事こそ役目であろう。
優しく語るウーノの言葉に、ヴィヴィオは何処か怯える様に身体を震わせた。母、と言う言葉に反応しているのだろうか。だとすれば、きっとそれも良い事だろう。微笑むウーノは、もう一度少女の頭を撫でた。
蠅の羽音がする。ブンブンと、死肉を漁る音がする。
母は己を受け入れてくれるであろうか。そんな風に怯えるヴィヴィオの頭を撫でながら、ウーノは一歩を踏み出していく。
あの光の下へ、あの営みの下へ、この子だけでも暖かで幸福なあの場所へ。そんな女の願いは此処に、嘲笑う蟲によって踏み躙られた。
「あ、れ」
足が縺れる。膝が崩れ落ちる。蟲の羽音が聞こえてくる。
吐き気がした。喉元から溢れ出す何かを抑えられず、思わずヴィヴィオを突き飛ばす。
そうして、両手を付いたウーノは口を開いた。嗚咽と共に零れたのは、無数の足を持った節足動物。
不浄の蠅。無数の百足。這いずる毛虫に毒虫に、あらゆる汚泥が噴き出し溢れる。溢れ出した汚れが止まらない。
この汚泥が何か。この蟲が何であるか。ウーノは確かに知っている。
故にその名を、己までも喰らうのかと瞠目しながら、悍ましい女の名を口にした。
「くあっ、とろ。貴女、は」
もしも仮に、ヴィヴィオを届けに来たのがエリオだったならば結果は変わっていた。
イクスを念入りに殺菌したのと同じ様に、ウーノに仕込まれていた卵にも気付いて焼いていただろう。
だが、それは所詮もしもの話。成立しなかったイフの事象。この今に、生き汚い魔群は再び牙を剥く。
自分一人では生きられぬから、腐炎に焼かれて自我すら真面に保てぬから、それでも生きていたいから――此処に己の姉妹すらも喰らい尽くすのだ。
「オ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛、ア゛ァ゛ァ゛メ゛ン゛、ク゛ロ゛ォ゛ォ゛リ゛ア゛ァ゛ァ゛ス゛」
蟲の羽音がする。死肉を貪る音がする。命を喰らい尽くす音が響く。
聞き取り難い程に摩耗して、思考が出来ぬ程に消耗して、それでも生きていた魔群がウーノを内から貪り喰らう。
「ヴィヴィ、オ。逃げ、て」
縋る様に手を伸ばす。そんな女の全てを喰らう。血を、肉を、臓物を、魂までも糧とする。
それでも足りない。これでは足りない。まるで何もかもが足りていない。
腐炎によって予備が焼かれた。罠と仕込んだ卵は残っているが、それでも歪んでしまった魂を戻せる程の量が不足している。
少しでも多く、魂を補給しなければいけない。そうでなくば消えてしまう。
僅かでも良いのだ。誰でも良いから喰らわなくては、クアットロは死んでしまう。
生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。唯只管に想うはその一念。
帰りたい。帰りたい。帰りたい。帰りたい。外の世界は恐ろしい。我はあの箱庭に、父と過ごした白い家へと帰りたい。
だから、だから、だから、だから――
「オ゛マ゛エ゛モ゛ク゛ワ゛セ゛ロ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ッ!!」
「――っ!?」
溢れ出した蟲が、ボロボロの手を伸ばす。人型を形成しようとして、失敗している何か別物。
黒い黒い汚物の塊が、人の手に似せた棒を伸ばす。糞の塊の様な汚臭を前に、ヴィヴィオは確かに恐怖した。
ウーノの死に心を打たれて、溢れ出すクアットロの情念に威圧され、訪れる死を前に恐怖する。
それは確かに感情の発露ではあったが、此処に至っては最悪の要素。恐怖故に幼い少女は、腰を抜かして倒れてしまったのだ。
「あ、ああ」
起き上がれない。立ち上がれない。這って逃げる事すら出来ない。襲い来る悪霊を前に、涙を浮かべて震える事しか出来ていない。
起き上がらない。立ち上がれない。それでも這い摺りながら迫って来る。喰わせろ。喰わせろ。喰わせろ。喰わせろ。汚物の塊は、その手を少女に届かせて――
「Nihili est qui nihil amat」
闇が、汚物を包み込んだ。
「一体何ガ起きテルか、まるで何も分かりまセんけド、同胞ヲ傷付けルは、盟主とシテ許せませんヨ。クアットロ」
闇の一塊に包まれて、足掻き悶えるクアットロ。されどこの闇はたった一枚で、一日にも相当する壁となる。
脱出する為には、単純に時間が足りていない。故にこそ闇の牢獄に囚われたクアットロは、それ以上何もする事が出来なかった。
足掻いて、足掻いて、諦めたのか。力を少しでも温存する為に、蠢く事を止めた羽虫の群れ。
それに溜息を吐いてから、黒い法衣に身を包んだ女はヴィヴィオに視線を移し、特徴的な口調で問い掛けた。
「アスト。貴女は知テますカ? 説明できまスか? 何故、こうなったネ?」
「………」
黒衣の女の問い掛けに、しかしヴィヴィオは答えない。答える事が出来ないのだ。
恐怖で言葉を失った少女は、既に壊れている彼女は、嫌々と首を左右に振り続けるだけ。
そんな少女の有り様に、黒衣の女は再びの溜息を吐いた。
「全く、これジャ契約違反ヨ、スカリエッティ。お前ノ目的に付き合テ我慢シたのニ、無限蛇が壊滅ジョタイじゃないでスか」
女はスカリエッティの協力者。彼と盟約を結び、共に闇夜で蠢くと助力し合った者である。
彼が掲げる神殺しの求道。それを成し遂げた後に、女の復讐に付き合う事。それこそが、両者が交わした契約だ。
されど、何時まで経っても彼らは合流して来ない。何処ぞへと消え失せたのか、この二ヶ月間まるで反応がなかったのだ。
そして女も、自由に動ける身ではなかった。反天使達とは異なる改造を施された女は、つい先日までこれ程の力を持ってはいなかった。
そんな女の力が、女にも分からぬ内に肥大化した。そうして広がった視野は、疑似的な天眼と化した。故にこそ、此処で彼女達を回収出来たのだ。
「マ、とりあエずは、クアットロに餌でもやリますカね。喰わセる塵ハ、山程アるヨ」
黒衣に繋がる頭巾の下に、隠れた瞳が蒼く輝く。浮かんだ蛇の刻印は、神に繋がる証左であるカドゥケウス。
彼女こそが四人目。トーマとエリオとザフィーラに続く、第四の神格接続者。スカリエッティによって、トーマの
トーマ・ナカジマが夜都賀波岐に囚われ、夜刀の神体へと接続された。
故にこそ、この女の力は高まっている。既に神格域に届かんとする程に、女に宿った力は原初の闇だ。
「待っててネ、火影。直ぐニ、全部、綺麗にするヨ」
黒い法衣が風に揺れ、女の素顔が月下に映る。暴かれたのは、アジア系の顔立ちをした美麗な姿。
だが、女は己の美貌を嫌っている。なまじ美しいかったからこそ、あの凄惨が過ぎる地獄に堕ちたのだ。
憎むべき場所。生まれ育った組織を抜けて、辿り着いた陽だまりの様な幸福な居場所。
9つの時には人を殺した。12の時には実父を殺した。そんな罪に塗れた自分を、それでも受け入れてくれた場所。
だが、あの場所はもう何処にもない。汚らわしい吸血鬼。夜の王を僭称する男によって、全てが蹂躙されてしまった。
家畜の道具として生き延びた女は、その尊厳を踏み躙られた。犯され、壊され、それでも生きた。理由は一つ、憎悪によって。
「吸血鬼は皆、殺ソウ。汚いモノハ、全部闇に沈めよネ。貴方がマタ、生まれてクる前に、ちゃんと世界ヲ綺麗にしておキまスよ」
香港国際警防隊の生存者。嘗て龍と呼ばれた組織で、生き抜いてきた一人の女。
憎悪に濁った瞳を蒼く染め、嗤う女の顔には蛇の入れ墨。抜け出して来た地獄へと、己の意志で戻る事を誓う証明。
己を貶めた、氷村遊はもう何処にもいない。それでも、まだその血族は残っている。
だから、故に、全て滅ぼす。あんな生き物が居てはいけない。だから全てを、この我が滅ぼし喰らうのだ。
「無限蛇の盟主――“闇”を得た私、
何処までも堕ちた女は地獄の底で、狂った様に嗤い続ける。
闇の牢獄に囚われた魔群と、壊れて動かなくなった魔鏡。二柱の反天使を従えて、狂気の復讐者は動き出す。
目指すは一路、第九十七管理外世界。其処に生きる夜の一族を、一人残らず殺し尽すまで――菟弓華の復讐は止まらない。
そんな訳で、無間蛇の盟主にとらハ1から魔改造キャラ登場。
ルートヴィッヒと化した菟弓華さんが、楽土血染花編でのボス敵です。
多分、二次創作で此処まで強化された弓華さんは他に居ないと思う。そしてこれ程酷い境遇にしたSSも存在しないと思う。
(そもそも原作不人気キャラだから、二次では出番自体がないとか言ってはいけない。出て来る作品が少な過ぎて、作者も口調とか忘れ掛けているのは秘密)
因みに虚無の向こう側は、普通の物質的な世界。形成能力を使える人間なら、生存可能な空間ではある。それ以外は死ぬ。
夜刀様が死亡すると全員纏めて其処に落ちる為、人類全滅と言う結果に終わる訳です。
後、クアットロはまだ虐め足りなかったので復活。腐炎と諧謔サンドの具材になっただけじゃ、全然まったく足りてないよねッ!