1.
第零接触禁忌世界、穢土。決して触れてはいけないと、何億年も前より語られ続けた大地。
地球に極めて酷似したこの世界。嘗て日本と呼ばれた土地の、されど地球には存在していない断崖。
近江の国。滋賀に当たる土地に走った亀裂は、淡海と呼ばれる巨大な要害。東と西を分ける海。
これを残す必要などはなかった。それでも残ってしまった。そんな嘗ての残照。海を越えた場所に、それは在る。
無数の屍。朽ちて錆びた刀と弓の矢。壊れた甲冑が立ち並ぶ、既に終わった戦場痕。
その先に、決して越えられなかった関がある。不和之関、或いは――不破之関。終ぞ超えられる事はなかった、穢土・夜都賀波岐の最前線。
この世界。全てが彼の器である。ならばそう、此処である必要などはなかった。
それでも、彼らはこの地を選んだ。先ず真っ先に先陣を切る。そう意志を同じくする兄妹が、この不和之関に控えている。
「ねぇ、兄さん。彼らは来ると思う?」
甲冑鎧の女は問う。口元を布で隠した金髪の女。死人の如き肌の中、禍々しく輝く緋色の瞳。
異形の女武者、或いは忍と言うべきか。炎と雷。二振りの剣を腰に差した天魔・母禮は、己の兄に静かに問うた。
それは問い掛けと言う形をしていたが、真実疑問に抱いている訳ではない。心の何処かで確信していた。
故にこそ、彼女が欲していたのは賛同だ。きっと来るさと言う保証を兄に求めた。そんな女の想いを察して、苦笑交じりに男は答えを返す。
「来るさ。来て貰わなくては困る」
死んで腐った様な冷たい肌を晒した男。先の折れた巨大な剣を背に負って、天魔・悪路は慈愛を浮かべる。
その赤く濁った瞳と、腐り切った身体は温かみなど残していない。それでも、愛する者に浮かべた穏やかな表情は、嘗てとまるで変わらない。
古きに敗れた英雄は、此処に答えを口にする。きっと来る。来て貰わなくては困るのだと。
それはこの兄妹。穢土・夜都賀波岐の先触れに、共に共通した感情。彼らは既に認めている。この今に生きる人々を、確かに認めていたのである。
「間に合うかしら?」
「間に合うだろうさ」
腐毒の王は確かに認めた。夢追い人と最悪の罪人。彼らの想いと向き合って、それが新世界の可能性だと確信した。
炎雷の剣士も確かに認めた。己に焦がれた炎の女。憧れた者に無様を見せるなと、叫んだ彼女の姿にその心を震わせたのだ。
最果ての地にて、起きた事象に落胆した。この程度かと、心の底から失望した。先の確信は、或いは間違いだったのか。
それでも、まだ期待している。我ら過去の残影を打ち破り、新たな世界を流れ出させる事を。そうとも、まだ期待出来ている。
「なら、為すべき事は一つだけね」
「ああ、僕らの役割は決まっている」
故にこそ、抗ってみせろ今の民。この敗残兵の群れを悉く、打ち破って乗り越えて見せろ新進気鋭。
そうでなくては納得できない。その程度をしてくれなければ、落胆の情は覆せない。故にこそ、為すべき事は一つだけ。
天魔・悪路は加減をしない。天魔・母禮は容赦をしない。全力で、全霊で、やってくる彼らを叩き潰す。
決して破れぬ不破之関。決して倒れぬ夜都賀波岐。決して終わらぬ無間神無月。その全てを以ってして、次代を此処に迎え撃つ。
「此処、不和之関は不破之関」
「決して破れない。我らが決して破らせない。それは数億年前より変わらず、誰も通しはしなかった」
天狗の時代も、この世界においても、常に不敗を誇った要塞。それが此処、不和之関。
破られた事など一度もない。この要塞を鼠の如く、隠れ潜みながら逃げ出した者が一人居ただけ。
此度はその様な抜け穴などは残さない。隠れ潜む鼠の形で、この領域の踏破などは許さない。
この城壁を打ち砕き、夜都賀波岐が先触れたる二柱を破る。それこそが、彼らが次代に求める最低条件。
「今度もそうだ。僕らは全力でお前達を潰しに行く」
時よ止まれ。時よ止まれ。時を止まれ。我らの永遠は終わらない。我らの黄昏は奪わせない。
許さない。認めない。消えてなるものか。無間神無月は終わらない。無間地獄は終わらせない。
「決して破れぬ不破之関。超えられると言うのなら、超えてみなさい機動六課」
時よ止まれ。時よ止まれ。時よ止まれ。我らの永遠は奪わせない。我らの黄昏は失わせない。
許さない。認めない。消えてなるものか。我ら無間地獄は終わらない。何時かきっと、我らが不要となるその日まで。
だから、どうか――今の民よ。凍った針を進めて欲しい。無間の地獄は、もう必要ないのだと。
故に彼らは待ち続ける。夜都賀波岐の兄妹は、その日を此処で待ち続ける。
彼らが信じた次代の民が、己達を討ち滅ぼして、この地獄を終わらせてくれる日が来る事を。
『我らは唯、待っている。この無間地獄が終わる日を』
第一陣は即ち此処だ。穢土の入り口。東日本の最南端。淡海を挟んだ先、滋賀にある古い城壁。
穢土・不和之関。その大地にて、二柱の天魔は待っている。天魔・悪路と天魔・母禮が此処に居た。
2.
其処は山間にある小国。古い作りの旅籠が並ぶ宿場町。其処を抜けた先にある城下町。
地球の日本で言うならば、長野県に位置する場所。城下町に聳え立つ巨大な城に、彼女は居た。
風がゆっくりと吹き抜ける。天守閣の天辺に、赤い瞳の女は腰掛けて大地を見下す。
本来の主が消えたこの国は、既に誰も居ない不毛の地。形骸こそ受け継いだが、中には何も残っていない。
「バビロンが居ないと、閑古鳥。此処も寂しくなったものねぇ」
鬼のいない里。一番優しい英雄が、死者を慰める為に作った箱庭。その世界を模倣して、しかし女はそう呟く。
誰も居ない無人の町。糸で繰られた傀儡すらも、此処には居ない寂しい人里。そんな空っぽの箱庭を見詰めて、彼女は一人嘆息する。
袖のない巫女服に、鮮血の様に赤い髪。同じく真っ赤な瞳が二つ。額に二つの結晶が、まるで四眼の如く輝く。
屍人の様に白い肌。真っ黒に染まった白目。人に非ざるその肉体は、紛れもなく大天魔。天魔・奴奈比売と呼ばれる女。
「ま、彼女が居ても人形劇みたいな場所なんだし、寂しいのは変わらない、か」
無人となった鬼無里の国。八人の英雄による物語を記した瓦版が、風に吹かれて飛んでいく。
風に吹かれる紙を手に取り、中身を見詰めて苦笑を零す。記された英雄の歌。それは彼女が作った創作だ。
嘗て死した人を慰める為に、何でもない事を記して号外と配っていた。
子供達に教える歌の内容を頭を捻って考え出して、上手く韻を踏めた時には我ながら素晴らしいと感嘆した。
そんな創作物。今更に見れば、何処か恥ずかしいと感じる物。そんな物を見る人すら、もう此処には誰も残っていない。
素直に想う。我らは余りに、長く生き過ぎてしまったのだと。必要だった。不要じゃなかった。それでも地獄が長過ぎた。
「正直、どうしたもんかしらねぇ」
今の自分だったらどう書くだろうか、添削しながら思考を進める。それは此処から、どう動くべきかと言う事。
最果ての地では同行したが、それはある種禊の様な物。失楽園の日に続く、迷惑を掛けた仲間への詫び代わりでしかない。
そして、もう詫びるのは十分だろう。己は然りと義理を果たした。そう言えるだけの自負がある。
ならばこそ、今更になって女は悩む。悩むのはこの世界の在り様などではなく、もっと単純でどうでも良い事。
「あの兄妹みたいに率先して動く気はない。ってか、私はもう認めちゃってるしなぁ」
奴奈比売はもう認めている。彼女がこの次代を認めたのは、きっと誰よりも早かったのだと自負している。
四人一緒に、あの友達と居た日々からずっと。彼女達が幸福に生きられる今があるなら、それで良いんじゃないかと想っていたのだ。
そして、本当の意味で認めたのはあの日だ。ずっと立ち止まってた己に似た少女が、高く飛ぶのだと叫んだあの日。
闇の書を巡る戦い。その果てに敗れ去ったあの日から、奴奈比売はもう敗北を認めていた。故に今更、彼らを試そうとも思えない。
「ムッツリ二人みたいに、知った事かってのも微妙だし。いっそ此処でのんびりしてようかしらね」
先触れたる兄妹の様に、我らを倒してみせろと言う気はない。だがかと言って、常世や大獄の様に他など知らぬと完結しても居られない。
ならば、この空いた時間をどうするか。残った暇な時間を如何に過ごすか。奴奈比売の抱いた悩みとは、そういう類の物。詰まりはもう、この女は次代と争う心算がないのだ。
故に思い付きで口にして、或いはそれが最上かも知れぬと思い至る。全てに決着が付く時まで、高みの見物と言う案だ。
理由がないのに、友と傷付け合うなど出来ない。常世はトーマの純化に集中していて、掣肘される事もない。そう考えれば、やはりこれ以上の案などないと得心する。
「全てが終わるまで、この場所で。鬼無里の城で、高みの見物させて貰お」
だからこそ、それが天魔・奴奈比売の選択。全てが終わるその時まで、城の天守閣にて観覧するのだ。
天魔が勝てば夜刀に逢える。例え消滅の間際、一瞬であろうと愛し続けた彼に逢える。ならばそれはそれで良い。
機動六課が勝るなら、次代はこの後も続いていく。自分は消えてなくなるだろうが、友が幸福ならばそれもそれだ。
故にこそ、奴奈比売は決める。もう自分は関わらないと。傍観者に徹するのだと。
彼女がそうと決めた瞬間に、それでは困る男が動く。女の腹の内側から、遊佐司狼がその声を上げた。
〈なぁ、姐さん〉
「――っ!?」
太極とは、天魔にとっては身体と同義。其処に飲んだと言う事は、体内に吸収したと言う事。
腹の中に収めて、封じ込めた筈の両面。それが内側から声を掛けて来た。そうと気付いた一瞬で、奴奈比売の顔は真っ青に染まる。
思い浮かべるのは、嘗ての死因だ。人であった頃の女は、喰らった遊佐司狼を消化できずに、内側から胃を引き裂かれて死んだのだから。
「右、居ないッ! 左、居ないッ! お腹、痛くないッ!!」
咄嗟に顔を左右に向けて、誰も居ない事を確認する。そうして直後に腹を擦って、痛みがない事に心の底から安堵する。
ほうと一息を吐いて、だがしかし油断は出来ない。自覚出来ない痛みがあるやもしれないと、自分の身体を念入りに確認していく。
そんな奴奈比売の情けない姿に、腹の内から見ている遊佐司狼は呆れた様に口にした。
〈……おいアンタ。俺を何だと思ってんだよ。流石に幕引きされて、腹引き裂くとか出来ねぇよ〉
如何に夜都賀波岐の両翼であっても、同格の攻撃を受けた後に平然としている事など出来はしない。
既に遊佐司狼に力などは欠片も残ってはおらず、奴奈比売より奪い取る事も出来はしない。そんな事実に、気付けないのかと呆れて告げる。
言われてハッと顔を変え、げふんげふんと咳払い。そうして余裕の笑みを取り戻した奴奈比売は、大物の風格を気取りながらに問うのであった。
「んで、何の用よ。今更アンタが声を掛けて来るなんて」
〈隠せてねぇよ。さっきの醜態、ぜんっぜん隠れてねぇからな?〉
「うっさいッ! 触れるなッ! ってかアンタが腹の中から喋るとか、すっごいトラウマなのよッ!!」
〈へいへい。分かりましたよっと〉
しかし余裕も風格もまるで戻ってなかったらしい。司狼に内から指摘され、触れるなと語る表情は女のヒステリー。
己の死因と言う核地雷級のトラウマを抉られて、目尻に涙を浮かべている。そんな同胞の姿に、彼はやれやれと肩を竦めた。
肩を竦めて頭を掻く。肉体なんてないと言うのに、面倒臭そうなその姿が画像として浮かんでくる。
そんな態度を隠しもしない司狼に向けて、頬をピクピクと引き攣らせながら、再び奴奈比売は問い掛けた。
「そんで、一体何の用? もう私は、これから先に関わる気がないんだけど」
〈んー? ま、そうだな。一人で暇そうだしぃ、ネタ晴らしでもしようかと〉
今更に声を掛けて来て、一体何の用なのだ。そう問い掛ける奴奈比売に、司狼は韜晦しながら語る。
口にする内容は、彼が進めて来た策謀。此度は嘘偽りなどなく、全てを明かす心算で口にする。そうでなくては、意味がない。
〈俺が何を望んでいたか、知りたくねぇかい?〉
「……言ってみなさいよ」
〈何、単純だ。言葉にすりゃ、至極簡単な事。前提条件こそくっそ面倒臭い案件だが、狙った物は極めてシンプルな事なのよ〉
嘯く道化の言葉を前に、奴奈比売は警戒しながら問い掛ける。今更に何を言うのだろうか、そんな彼女の思考に嗤う。
今だからこそ、全てを明かすのだ。此処で奴奈比売に動いて貰いたいからこそ、彼女に全てを明かす必要があったのだと。
故にこそ、司狼は静かに、そして端的に全てを伝える。それは余りにも、彼女の予想に反した言葉。
〈俺らの大将を■■■■■■■■〉
「は?」
一瞬、疑問符が思考を埋めた。コイツは一体何を言っているのか、理解出来ずに硬直した。
そんな奴奈比売の様子に嗤って、司狼は補足説明を其処に加える。それもまた、理解出来ない筈がない単純に過ぎる言葉。
〈それも■■■■■で、だ。唯それだけが、俺の狙いさ〉
「……何よ、それ」
それは余りに単純な言葉だった。その思惑には一切の複雑性などはなく、分からない筈がない形。
故にこそ、奴奈比売は戸惑っている。その内心までも読み取れてしまったからこそ、その真実に唖然とする。
硬直し、混乱し、戸惑い続けて――漸くに口に出来たのは、そんな意味のない言葉だけ。
「アンタ、そんな事の為だけに?」
〈そうさ。そんな事。そんな事の為に、誇りも友情も、何もかもを全部捨てた〉
そんな事。司狼が狙った企みは、決して大それた事ではない。世界征服だとか、新世界の創造だとか、そんな大掛かりの事じゃないのだ。
本当に小さな事。その狙いは、其処までしなくてはならなかったのかと言える程、とてもとてもちっぽけな事。そんな程度と言える、余りに小さな目的だ。
その為に、彼は全てを捨てた。その為だけに、彼は友を裏切って、己の矜持を捨て去った。本当に小さな、そんな目的の為だけに。
〈下らねぇと、嗤うかい?〉
「笑えないわよ。笑える訳、ないじゃない」
だけど、その目的を聞いて、奴奈比売は納得してしまった。ああ、そうかと得心してしまった。
常識で考えれば愚かな事だ。明らかに支払う物と得る物と、釣り合いが全く取れていない。司狼は損しかしていない。
それでも、実に彼らしい。遊佐司狼に相応しい。小さいけれど、誰よりも夜刀の為になる。そう確信出来る企みだった。
「アンタ。馬鹿よ。端からそう言えば良かったじゃない。誰だって分かるわ。だって私達は彼を愛しているんだもの。だから分かる。……アンタが一番、正しいんだって」
その考えを知って、その至る先を理解して、奴奈比売は泣いていた。涙を流さずには居られなかった。
愚かが過ぎるだろう。余りに頭が悪過ぎる。きっとこんな事をせずとも、彼の望みに賛同する者は居た筈だ。だってそれが、一番主柱の為になるから。
だから、それを明かしていれば良かったのだ。最初から全てを明かした上で、ならばきっと手を取り合えただろう。夜都賀波岐の天魔達は、誰もが主柱を愛しているのだ。
故にこそ、この馬鹿者は余りに愚か過ぎている。必要ないのに矜持を捨てて、大切な筈の仲間を裏切り、後ろ指を指されながらも彼の為に、全てを捨てても友の為に、そんな馬鹿な男の為にアンナは泣いた。
〈そりゃ前提が違うぜ姐さん。今だからこそ、この状況だからこそ、だ。最初の段階で言った所で、馬鹿言うなって一笑に伏されて御終いさ〉
きっと誰もが賛同した筈だ。そう確信する程に、夜刀を想う結果に至る。そんな遊佐司狼だけの策謀。
それを聞いて、最初に言えと口にする。涙交じりの奴奈比売に、しかし宿儺は否定を返す。最初から言っていたならば、通りなどはしなかった。
これは余りに現実味がない策略。ずっと狙っていた宿儺ですら、絶対に不可能だと思っていた結果。
願いの宝石を巡る戦いで、今を必死に生きる彼を見付けた。その瞬間に至れるかもと、初めて期待できた事だったのだ。
「そう。だから、アンタ裏切ったんだ。……ほんっと、馬鹿だ馬鹿だって思ってたけど、筋金入りね大馬鹿野郎」
〈そうさ。俺は大馬鹿野郎だ。だからこそ、最善だけを狙って来た。俺にとっての、アイツにとっての、最善をよ〉
己ですら、信じられぬ事。それを信じさせる程の弁舌を、遊佐司狼は持っていない。だからこそ、彼は裏切った。
全てを欺き、全てを裏切り、そうしてその策略の果てに、可能性を垣間見た。己ですら至れないと、そんな奇跡に彼は賭けた。
全ては唯、一人の為に。たった一人の親友の為に。他の全てを裏切って、漸くに此処まで来たのだ。
故にこそ、後悔なんてしていない。この今に、悔いなんて一つもない。彼が望んだ最善は、この先にこそ存在している。
〈この世界で、一番苦しんだのは誰だ? この世界で、一番努力したのは誰だ? この世界を、一番愛しているのは誰だ?〉
「決まっているわ。誰よりも嘆き、誰よりも苦しみ、誰よりも愛した。そんな存在は、彼以外に居やしない」
〈だからこそ、大将の為にさ。それが両面悪鬼の策謀よ〉
全てを斬り捨て、無数に積み重ねて至った今。それでも、後僅かに懸念がある。覆される可能性が未だ存在する。
彼の策謀を聞かされて、その懸念を彼女も悟る。何故にこの今、司狼が声を掛けて来たのか。それを漸くに奴奈比売は悟っていた。
〈そんな訳で、だ。姐さん。……俺と手を組まねぇ?〉
「そうそう。一緒に手を取り合って、み~んな躍らせてあげましょう?」
気付けば城の屋根の上、ニヤニヤと嗤う軍服の女が立っている。両面悪鬼の片面が、奴奈比売の直ぐ傍で嗤っている。
成程、それもそうかと得心する。此処までお膳立てをして、奴奈比売の気持ち一つで揺らぐ策など作るまい。ならばこそ、此処に札を伏せたのだろう。
あの兄妹が警戒している不和之関は超えられまい。ならば、最初から彼女は穢土に隠れていた。
派手に暴れた司狼が最果ての地で発見された瞬間に、恵梨依は穢土に戻って潜んでいたのだ。恐らくは、あの太陽の気配が残っている奥羽にでも。
「本城恵梨依。……はっ、アンタ。やっぱり素直に寝てる気なんてなかったんじゃない」
〈そいつはどうも。んで、どうするよ姐さん〉
これで詰みだ。天魔・奴奈比売は此処に詰んだ。彼女が何をしようとも、宿儺の復活は防げない。
本城恵梨依に負ける心算はない。だが勝ってしまえば、さてどうなるか。考えるまでもなく分かってしまう。
魂だけを保管しようにも、奴奈比売だけでは削り切れない。そうなれば、身体の中で宿儺が甦る。あの日の如く、腸を内より引き裂かれるだろう。
かと言って保管しないで消えるのを待てば、今度は最後の贄が不足する。恵梨依と司狼。二人合わせて宿儺であるのだ。どちらかだけでは足りていない。
勝利すれば先がない。だが敗北しても先はあるまい。当然の如く、司狼を回収されて宿儺が甦る。
こうして相対してしまった時点で、既に詰みとなっていた。奴奈比売は宿儺に勝利する事が出来ぬのだ。
「……良いわ。手を貸してあげる」
だから、手を貸す訳ではない。死にたくないから、協力する訳ではない。勝ち目がないから、屈する訳ではなかった。
「勘違いするんじゃないわよ。アンタの為じゃない。アンタに脅されたからじゃないの」
天魔・奴奈比売は遊佐司狼を吐き出す。投げ捨てられた彼を恵梨依が受け止め、そうして彼らは一つに戻る。
甦った両面悪鬼。その戦力値は全盛期の半分程度で、それでも策を進めるには十二分。そんな彼の瞳を見詰めて、奴奈比売は確かに告げる。
「それが一番、彼の為になる。癪だけど、心の底から腹立つけど――やっぱり、アンタが一番彼を分かってたんだもん」
天魔・奴奈比売としてではなく、アンナ・マリーア・シュヴェーゲリンとして遊佐司狼を見詰めて語る。
彼女が手を貸す理由は一つ。この男こそが最も、天魔・夜刀を理解していた。そう納得してしまったのだ。
素直に認める。自分は彼に勝てないと。彼の考え通りに動く事こそが、何よりも愛する人の為になる。
そうと納得してしまったからこそ、足引き魔女は心に決める。両面の鬼と同じく、全てを斬り捨て裏切る事を。
「好きに使いなさい。この命、全部上げるわ。好き勝手に使い潰しなさい。共犯者」
「そいつは何より、それじゃ行こうか」
誇りを捨てる。仲間を裏切る。友を傷付ける。その全てを此処に、天魔・奴奈比売は容認した。
心を決めて覚悟を抱いて、瞳を炎の如くに燃え上がらせる。そんな彼女の姿に、天魔・宿儺も確かに笑う。こうなった彼女は、心強いと知っていた。
「俺らと姐さんで、どいつもこいつも躍らせよう。俺らが愛した、アイツの為によ」
第二陣は即ち此処だ。山間の町。主亡き鬼無里。東日本を北上して、長野の山中にある長閑な場所。
其処に待つのは裏切り者。唯愛する人の為だけに、全てを裏切った恥知らず。天魔・奴奈比売と天魔・宿儺が其処に居た。
3.
穢土の最奥。夜刀の神体がある土地。それは無間蝦夷と呼ばれた場所。日ノ本は北の果て、北海道の奥地である。
嘗て邪神との戦いで、敗れた彼は彼の地に堕ちた。故にこそ、蝦夷の地こそが彼らの領土。本拠地と言うべき場所。
だがこの今に、天魔・夜刀の神体は蝦夷にはない。
それは彼にとっての故郷。彼と言う神が始まった場所。全てを終わらせる土地として、此の場所以上に相応しい土地などありはしない。
故にこそ、神体を移動させた。天魔・夜刀と言う玉体を、この場所まで移送した。
此処は諏訪原。穢土・諏訪原。彼が生まれ育った場所で、愛しい女神と共に過ごした大地である。
「…………」
そんな諏訪原の中心地に程近く、建設された校舎がある。月乃澤学園と、嘗て呼ばれた建造物。
経年劣化と戦闘の余波。崩れて壊れた校舎の屋上で、一人の天魔が祈っている。目を閉じて、一心不乱に願っていた。
銀色の髪に、翠色の衣。黄金の瞳を持つ天魔の指揮官。天魔・常世は、寝食も忘れて、片時も休まず、一つの作業に打ち込んでいる。
そんな女の前にある二つの神体。黒い鱗を持った巨大な蛇と、蛇に絡み付く様に抱き着く芋虫。そしてその器に繋がれる様に、囚われた少年の姿があった。
トーマ・ナカジマ。神の魂を内包した少年。彼を正面にして、学園の屋上で祈りを捧げる。そんな彼女の祈りは即ち、一心不乱に打ち込む作業。
それは魂の純化。余計な記憶を排除して、彼を産まれる前へと戻す事。一つ一つと想い出を塵の様に投げ捨てて、彼の魂から雑念を排除しているのだ。
――形に影のそうごとく、たのしみ彼にしたがわん。
「これは要らない」
救えぬ星の化身が、喜びながら握り返した記憶。その想い出を此処に捨て去る。
学園の屋上から地面へと、何も気にせず放り捨てる。彼には必要ないのだから、頓着する理由なんてない。
――トーマ。君は強いね。
「これは要らない」
倒すべき宿敵が、焦がれる様な瞳で語った記憶。その想い出を此処に捨て去る。
学園の屋上から地面へと、何も気にせず放り捨てる。彼には必要ないのだから、頓着する理由なんてない。
――貴方が、
「これは要らない」
英雄に憧れていた少女が、恋する瞳で語った記憶。その想い出を此処に捨て去る。
学園の屋上から地面へと、何も気にせず放り捨てる。彼には必要ないのだから、頓着する理由なんてない。
――私は貴方と、そう生きたいよ。
「これは要らない」
恋を知った白百合が、戦場で伝えた想いの記憶。その想い出を此処に捨て去る。
学園の屋上から地面へと、何も気にせず放り捨てる。彼には必要ないのだから、頓着する理由なんてない。
――トーマ・ナカジマ。君は確かに、私の友の一番弟子だ。
――私はティアナよ。ティアナ・L・ハラオウン。アンタの相棒だから、また忘れるまで覚えときなさい。
――気にしなくて良い。先生は、そんなに柔に見えるかい?
捨てる。捨てる。捨てられる。大切な物が零れ落ちていく度に、トーマ・ナカジマが削られていく。
その度に魂は悲鳴を上げて、それでも純化の手は止まらない。彼が紡いできた過去を、表層から順繰りに捨てていく。
塵が次から次に溜まっていくが、振り返る暇などない。必要だってありはしない。
一秒でも早く、彼の魂を取り戻す。トーマ・ナカジマと言う不純物を消し去って、天魔・夜刀を取り戻す。
それが彼女の目的だ。それだけが彼女の目的だ。他の事など、心の底からどうでも良い。
生まれ落ちる彼に逢いたい。もう一度だけで良いから、彼に戦場を与えたい。愛する人が負けたままで、許せる理由が一つもない。
だから、だから、だから、だから――
「お願い。勝って」
身勝手に祈る。自分勝手に願う。恥知らずにも望み続ける。唯一度で良い、彼に完全無欠の勝利を。
その為に産み直す。己を捧げて、彼をこの地に呼び戻す。その為だけに、トーマ・ナカジマは邪魔なのだ。
故に壊す。その想い出を捨てて、彼と言う存在を壊していく。天魔・常世は止まらない。
彼女は決して顧みない。夜都賀波岐の指揮官は、子宮にして心臓は、愛する男を想うが故に、彼の想いに反し続けるのだ。
そんな指揮官の姿に、彼は何も思いはしない。夜都賀波岐の中において、彼らこそが最も純粋な者だろう。
決して揺るぎはしない。決して変わりはしない。他を顧みる事などせずに、己の役割を只管に遂行するのが彼らである。
「…………」
其れは崩れ落ちた塔。先が圧し折れ、途中で砕けている高い塔。諏訪原市において、嘗てはランドマークであった場所。
諏訪原タワー。市を一望出来る展望台は既に無く、無数の飲食店も残っていない。嘗て在った娯楽施設の、残骸として残った場所。
塔の入り口に、一柱の天魔が立っている。全身に黒き甲冑を纏い、虎の仮面で無貌を隠した大天魔。
最強の大天魔。終焉の化身。鋼の求道を歩く者。天魔・大獄と言う名の怪物は、諏訪原タワーの前で見詰めていた。
「…………」
何も語る事はない。何も思う事はない。唯無言。唯不動。変わらぬ求道の化身は、天魔・常世を見詰めている。
彼の役割は女の守護だ。彼女に危機が迫った時、その障害を取り除く。唯それだけで、最後の壁として在れるから。
元より、天魔・大獄に潰されるなら意味がない。天魔・常世を止められぬなら価値がない。故に、彼らは変わらない。
何も考える事はなく、何も悩む事はなく、何も語る事すらせずに――己が与えた己の役目を、成し遂げるだけなのだ。
最後の場所は即ち此処だ。怒りの日の舞台にして、全てが始まった街。穢土・諏訪原市。
待ち受けるのは求道の怪物。決して揺るがぬ完結者。天魔・常世と天魔・大獄が此処に居た。