今回の副題 ユーノくんいじめ回。
魔法少女、始まりません。
1.
次元の海を渡る航海船。時空管理局の次元航行船。
とある遺跡より発掘された貴重品を運んでいるこの船の航海は、お世辞にも順風満帆と呼べる物ではなかった。
「はぁ」
金髪の少年は溜息を零して、仮眠室のベッドで横になる。
未だ十にも満たぬ若さで、遺跡の発掘責任者となった少年。
ユーノ・スクライアは、これまでの経緯を思い返していた。
スクライア一族。
次元世界の一部地方に暮らす少数民族である彼らは、彼ら特有の習俗故に次元世界に広く知られている。
それは遺跡発掘と遺物の回収。
古き文明から必要な物を見つけ出す事に長けた彼らは、次元世界においても特に名の知れた部族の一つであった。
そんなスクライア一族に生まれ、数度の経験を経て作業にも慣れ始めた頃。
一族の中でも今後を担うことになると期待されていたユーノは、そろそろ責任ある立場を経験させておこうと考えた大人たちによって、遺跡発掘の現場責任者に任命された。
無論、如何に低年齢化が進むミッドチルダ社会であれ、十に満たぬ幼児にいきなり一人での作業などを強制することはない。
経験豊富な一族の大人が付き添い、ミスをしても取り返しがつく状況下での仕事であった。
だが立て続けに起きた偶然が、彼の運命を大きく動かす。
連続して起きた不運が、彼の人生を大きく変える結果となった。
発掘作業中に起きた事故で、後見人として同行していた大人が彼を庇って大怪我を負ったこと。
その際に崩落した遺跡の中から、一族では手に負えないほどのロストロギアを見つけてしまったこと。
ロストロギア発見の報告をした相手である管理局が、手続きの為に責任者の同行を求めたこと。
結果、ユーノは慣れない船旅を余儀なくされる。
混乱する自身より幼い子らを宥め、意識のない大人を近くの病院へと運び、次元航行船で管理局本局へ向かうことになったのだ。
こうして始まった船路。転移魔法の応用技術を持ってすぐさま終わると考えられていたそれは、次元の嵐と呼ばれる自然現象によって妨げられた。
突如として発生した次元嵐。
それを訝しみつつも、さりとて自然現象には逆らえない。
直接の移動ルートが使えないと分かり、嵐が収まるのを待つ為に数日航行船は停泊することになったのだ。
ここ、第97管理外世界の領域内で。
「はぁ、何時まで掛かるんだろう」
ベッドで横になりながら、天井を見上げて呟く。
未だ何時動き出せるか分からない現状は、少年の心身に負担を強いている。
長期間の航海を想定していない小型の航行船には、当然客室などはない。
この2日ほどで見慣れてしまった船員用の仮眠室は、お世辞にも寝心地が良いとは言えなかった。
残してきた皆への心配や今後の不安。
遺跡発掘の疲れ等もあって、ユーノは心身ともに疲れきっていたのだ。
思わず弱音が口に出るが、彼の年齢を考えれば無理もないだろう。
「……寝て、起きたらまた頑張ろう」
それでも、そう呟けるのは少年の強さだ。
また頑張ろうと、少年が瞳を閉じたところで――轟音と共に船体が揺れた。
「何が!?」
慌てて飛び起き、部屋を出る。
船内は非常灯が点き、警報がけたたましく鳴り響いていた。
「っ、ジュエルシードは!?」
予想外の自体に唖然としてしまうが、すぐさま大切なことを思い出して正気に戻る。
ジュエルシードは、身内の大怪我と引き換えに得たような物。皆から託された、守り抜かなくてはいけないロストロギア。
そう考えるユーノは、故にジュエルシードの危機にじっとなどしていられない。
脳裏で船内の地図を思い浮かべる。
以前の遺跡で見つけたデバイス“レイジングハート”を手に取ると、着の身着のままに駆け出した。
輸送船の貨物室。其処へと繋がる一本の通路。
ユーノがその場所に辿り着いた時、辺りは噎せかえるような濃い臭いに包まれていた。
錆びた鉄の様な臭い。
周囲に満ちた赤い水に、それが血の臭いだと理解する。
視界に映る死体の山。管理局員だったモノが赤い水溜りの上にある。
吐き気が込み上げてくるのを耐えながら、ユーノは思わず駆け出しそうになる。
だが動けなかった。
倒れた誰かよりも、恐ろしいナニカが居るから動けなかった。
その先に、ナニカが居る。
この噎せ返る様な臭いさえ気にならなくなる程に、悍ましい気配を放つナニカが先に居る。
頭がおかしくなりそうな程の重圧。
まるで出口のない檻の中で、餓えた猛獣に睨まれているか様な錯覚。それさえ生温く思える感覚。
暴力的なまでに強烈な魔力を放つナニカが其処に居る。
見るな。見るな。今すぐ逃げ出せ。
本能が警鐘を発する。ガタガタと見っとも無く震える身体が、それを認識する事を拒否している。
(……こんなの、気のせいだ。怯えるよりも、ジュエルシードをっ!)
そんな風に己を誤魔化して、使命感を奮い立たせる。
本能が発する警鐘を使命感で捻じ伏せて、ユーノはその先へと目を向けた。
屍山血河の中、一組の男女が歩いている。
骸となった局員たちを踏み越えながら、彼らは血河の中を進んでいた。
「やれやれ、どいつもこいつも魔法、魔法か」
先頭を歩むのは金髪赤眼、頭部に鬼の面を付けた男。
細身ではあるが筋肉質な体を女性物の着物に包み、刺青の入った精悍な顔に嘲笑を浮かべている。
「そんなに魔法が大好きかねぇ、下らねぇ」
手にした質量兵器が局員たちの命を奪ったのであろうか。
その鉄に輝く銃口からは、僅かに硝煙が昇っている。
「ま、仕方ないんじゃない? 魔法とか便利だしさ、そりゃ頼りきりになるわよね」
男の後に続くのは、青みがかった黒髪の女。
女装した男とは対照的に、軍服にサーベルを携えた男装姿をしている。
「無限のエネルギー? 質量兵器とは異なるクリーンな力ねぇ。……そんなのある訳ないのに、気付けないのよね。その魔力の消費が、己の首を絞めることに繋がっている。遠回りな自殺だって言うのにさ」
口では管理局員の擁護をしているようにも聞こえる女の言葉だが、そこには隠しきれないほどに蔑視の色が濃く見えている。
真実、彼らは蔑んでいる。
世界の真実を知るが故に、二人の悪鬼は愚か者たちを見下していた。
「そんで、なんとかかんとかだっけ? そんなん役に立つのかねぇ」
「知ーらない。ってかあんた名前全く覚えてないじゃない。けどまあ、リーダー代行からの命令でしょ。一応持って帰るべきじゃない?」
「……ブッチしたら姐さん方が煩そうだしなぁ」
アレは何だ。
アレは何だ。アレは何だ。アレは何だ。
ただそんな疑問が頭を埋め尽くす。
そんな疑問で頭が一杯になって、彼らが何を言っているのかも分からない。
ユーノにも理解できる言語で軽口を交わす。
笑い合いながら、血に塗れた通路を横切る人の皮を被った怪物達。
余りにも不釣り合いだ。余りにも可笑し過ぎる。
そんな異常な気配を放つ人型のナニカが当たり前の言葉を使って語り合う事、それ自体が余りにも異質であった。
「う……あ」
足が震える。身体が震える。心が恐怖で震えていた。
あんな怪物、一秒だって見ていたくなどない。
だが目を離すのも恐ろしくて、物陰に隠れたまま唯々震えている。
無理もない。仕方ない。
そんな負け犬の言い訳が、その小さな心を占める。
絶対に見つかってはいけない、と恐怖に震える頭脳が思考して――
「ああ、目的の物はジュエルシードって名前よ。ちゃんと覚えておきなさいよね」
その言葉を聞いた瞬間に、恐怖も動揺も頭から消えた。
震える心は何処かへ消えて、ユーノは己の意志で立ち上がる。
別に腹を括った訳ではない。
そんな気概も覚悟も、幼い少年は持ちえない。
ただ真っ白になったのだ。
その思考に空白が生まれ、怯えと言う感情が麻痺していた。
ただ渡してはいけないと思ったのだ。
多くの人命を嗤いながらに奪った怪物。
彼らにジュエルシードを渡してはいけないのだと感じていた。
そんな真っ白な思考の中で、ジュエルシードを渡してはいけないという理屈だけが頭に残っていて、ユーノは思わず飛び出していた。
「待て!」
「あん?」
「子供?」
突然飛び出してきた子供に驚き、その男女は足を止める。
誰かが見ていることには気付いていたが、それがこんな子供とは思わなかった。
そしてそんな震える子供がこうして姿を現すなど、彼らにしてみても予想の埒外ではあった。
そんな懐疑の視線を向けられた瞬間、再びの重圧がユーノを襲う。
先の錯覚など、比べ物にならない程に凶悪な重圧。
その錯覚に膝が崩れそうになるが、ユーノは己が意志を振り絞る。
何をするのか、何処か興味深そうに観察する両者の前に躍り出る。
その小さな身体で道を塞いで、両手を広げながらに宣言した。
「ジュエルシードは渡しません!」
結果を考えての行動ではなかった。
異様な空気に呑まれ、追い詰められて思考放棄した行動。
只々、ジュエルシードを守らなくてはと、その災厄の前へと姿を晒した。
無策にも無謀にも、恐るべき怪物の前に姿を晒した少年。
彼はそれ故にこそ、その無謀の対価を支払う事となった。
「退け」
「がっ!?」
虫を払うような仕草で、軽く振られた男の腕。
それがユーノの顔面にめり込み、彼をあっさりと吹き飛ばした。
さほど広くはない通路の宙を数本の歯が舞い、口から血を流しながら宙を飛ぶ。
壁に激突して止まったその身体は、前のめりに倒れて地面に落ちた。
「……うっ、げぇっ」
崩れ落ちた少年は、蹲ったまま沸き上がる物を吐き捨てる。
宙を舞い壁にぶつかり三半規管が狂ったか、少年は込み上げてくるモノに耐えられなかった。
四つん這いのままに、血の交じった嘔吐を繰り返す少年。
ゲェゲェと嘔吐するユーノを見下して、男は詰まらなそうに目を細める。
殺さぬ様に加減をして、尚これか。
そんな風に見下す化外の男は、その瞬間に少年への興味を失っていた。
「あーあ、可哀想。あの子、吐いてるよ」
「はっ、生きてりゃマシだろ。……大体、加減しづらいんだよ。あれだ、虫けらを潰さないように捕まえるのは難しい、ってやつ?」
何処か茶化す様に嗤う女に、男が合わせる様に言葉を返す。
彼らは何も見ていない。少年を話題に出しながらも、既に興味を失くした以上、彼を見てなど居ないのだ。
「うわー、すっごい悪役台詞。鬼ー! 鬼畜ー!」
「はいはい、そうだよ、ってか俺ら正真正銘鬼だろが、っと。……やっぱり、電子ロックかかってやがる」
「……うげ、このタイプかー。ちょっち時間掛かりそう。そこのデバイスとってー」
「あん? こいつか。ほらよっ」
痛い。痛い。痛い。
蹲る少年は、鋭い痛みに嗚咽を零す。
男女の嗤う声は聞こえず、唯々少年は口元を抑えながら、これまで感じたことのないほどの激痛に呻く。
痛みと吐き気に耐えられず、涙を流しながら蹲って震えていた。
どうしてこんな目に、そんな風に考えてしまう。
今すぐ逃げ出したい。そんな思いに身体を震わせる。
それでも、彼らはもう興味を失った。
ならば、このままこうしていれば、きっと見逃してもらえるだろうから。
(けど、それじゃぁ、ジュエルシードはどうなるのさ)
それでも痛みに嗚咽する中で、そんな思考が頭を過った。
あの男女が、ジュエルシードをどう扱うか分からない。それでも分かる事は一つ。
無理矢理奪い去ろうとしている強盗が、良い事の為にジュエルシードを使う筈がないと言う事だけは分かったのだ。
このままでは、ジュエルシードが悪用される。
そしてその影響は、スクライアにも関わってくるであろう。
自分が苦しいのは良い。良くはないけど我慢は出来る。
だけど、スクライア一族にまで悪影響があるのは看過できない。
自分よりも誰かを優先出来る少年だから、それだけは認められないのだ。
故に、震えながらも選択する。
この怪物達からジュエルシードを守り抜く事を。
そう決めたユーノは、怯懦に震える心を奮い立たせると、胸元にある赤い宝石を握りしめた。
(力を貸して、レイジングハート)
このデバイスは、ユーノでは使い熟せない。
それでも十分過ぎる程に、優れたデバイスである事は間違いない。
故に歯を食い縛った少年は、そのデバイスを頼りに一つの術式を発動した。
「広がれ戒めの鎖、捕らえて固めろ封鎖の檻!」
「あ?」
発動するのは、ユーノの持つ最大の切り札。
彼の手札の中でも、最も優れた拘束魔法。
使い勝手の悪い切り札だが、それでも今の油断した男に対してならば通る筈。
「アレスターチェーンッ!!」
両手に浮かんだ魔法陣から、無数の鎖が現れ男を狙う。
翠色に輝く鎖が音を立てて男へ迫り、その身を縛る檻となる。
大型の獣であろうと捕縛する。
捕らえた者を逃がさずに、即座に爆破するその魔法。
その力は、男の体を縛り付ける為に纏わり付き――その体に触れた瞬間に霧散した。
「……え?」
「今、何かしたか?」
まるで塵を見るような冷たい瞳で、鬼面の男が口を開く。
最大最高の切り札は、切った瞬間に役なし札に変わっていた。
起こった現象が理解できない。何をされたのか分からない。
そんな風に茫然自失とするユーノの前で、男は詰まらなそうに拳を握り絞める。
その拳に籠る力は、先よりも重い。
唯、羽虫を避ける為に振るうのではなく、明確な意志の下に振るわれる拳。
「ま、一発は一発だ。お前も男なら、やられる覚悟くらいはあっただろう」
「っっっ!?」
そんな呟きと共に、大振りの拳がユーノの顔面に突き刺さる。
異音と共に鼻が折れ、血が飛び、歯が砕け、抜け落ちた。
悲鳴は上がらない。
声を上げることすら出来ず、ユーノは地面に崩れ落ちる。
「うっわー。酷い有様。……せっかく綺麗な顔してたのに台無しじゃない」
「はっ、敵の前に立ちふさがるならこのくらい当然だろ」
局員の死体から取ったデバイスを使い電子ロックを開けようとしている女に、利き手を返り血で染めた男は軽く答えを返す。
「一発殴っても止めようとしてきた辺り、珍しく根性がある奴かと思えば、魔法なんてくだらねぇもんに頼りやがる。萎えるんだよ、クソガキが」
その声には薄く、失望のような物があった。
起き上がって来た彼の意志に期待したからこそ、男は確かに失望していた。
「って、あんたは要求が重すぎ。魔法使うなって、そんな子供に対して」
「別に俺と殴り合えって言ってるんじゃないんだぜ。取り合えず魔法抜きで二、三発は耐える根性が見たいだけでよ」
「山を崩す鬼の剛腕受けて平気とか、どこの化け物ですかねー。そーいうところが要求重いって言ってんのよ」
「人間、やりゃ出来るだろ。魔法なんて奇跡に頼るより、先に進もうって意志こそが人の輝きなんだからよ」
人間の輝き。
それを口にする時に、僅か寂しげに表情を歪める。
男は疑問に思っている。鬼面は確かに感じている。
この世界に生きる人間の中には、そんな輝きなんて残っていないのではないかと。
「……っと、それより扉なんかさっさと打っ壊しちまおうぜ」
「あんたがやったら中のジュエルシードごと消し飛ぶでしょ、あと少しだから待ってなさいよ」
「へいへい。……何して待つかねぇ」
「そこの子で遊んでれば?」
「……“遊び”、ね」
男がユーノに近付き、その顔を覗き込む。
血塗れの少年は怯えるように目を逸らし、丸まって体を震わせた。
「駄目だな、こりゃ。……もう遊び道具にもなんねぇわ」
心折れたユーノに男が告げたのはそんな言葉。
その言葉は、その態度は、少年の心に深い傷跡を残す。
それすら興味はないと男は視線を外し――瞬間、航行船を二度目の衝撃が襲った。
周囲を雷光が白く染め上げる。
それは二人の鬼にも想定外の事態。
次元跳躍魔法。
次元を隔てた別時空から放たれた雷光が航行船の側面を削り、保管庫を吹き飛ばしていた。
「おいおい、こいつは」
流石にそのまま回収は出来ないのか、あるいは別の理由か、保管されていた災厄の宝石は自然の法則に従い宇宙を流れ落ちていく。
真下に見える、第九十七管理外世界、即ち地球へと。
「あっちゃー。久々にやられたわね」
「……ああ、そうだな。してやられたわ。遊び過ぎたか?」
二人の鬼が揃って認める。
やる気がなかったとは言え、己が狙う物を掠め取った下手人に、してやられた事を認めていた。
「なぁ、おい。何処に落ちるか、とか分かるか?」
「ん? あー、ちょっと軌道とか計算する必要があるかもだけど、位置的に日本のどっかじゃない?」
「転移魔法とやらで追えるか?」
「……無理。魔力反応追えるように設定すれば近くには転移できるかもしれないけど、そもそも魔法自体私ら上手く扱えないし」
鬼面の男が問い掛けて、軍服の女が適当に答える。
その情報を吟味した男は対抗策を考えながら、その視線を怯えて震える子供へと向けた。
「近くに飛ばせるならそれで良いだろ。細かい場所を探す奴なら、ここにいる」
「あー。なる」
「そう言う訳だクソガキ。お前にチャンスをくれてやるよ」
鬼面の男がニヤリと嗤う。
その笑みに震える少年の意志など無視して、彼は己の思惑を其処に晒した。
「ジュエルシード、探してこい。探し物は得意なんだろう?」
神の瞳が見詰めている。
その記憶の底まで暴く瞳が、震える子供を見据えている。
男は局員の持っていたデバイスを起動させる。
発動させるのは転移魔法。
その魔法陣を起動させると、ユーノの髪の毛を掴んで引き摺り上げる。
そして震える少年を、魔法陣の中へと乱暴に放り投げた。
「少し時間をくれてやるよ。盗られたくなけりゃ死ぬ気で探せ。俺らが着く前に回収して逃げられれば、守り切れるかもしれないぜ?」
それは未だ、人の輝きがあると信じたがっている鬼の気紛れ。
僅かにだが見込みがあるかも知れないと思えた子供に、与えるのは身勝手な試練。
痛みで薄れる意識の中、涙に霞む瞳で男を見上げる。
怯えたまま震え続けるユーノは、彼らに向かって問いかけた。
「お……は一体…な…だ」
言葉は届かずとも思いは届く。
己に対する誰何の声に、二人の鬼は楽しげに笑って異名を告げた。
「天魔・宿儺だ」
「男女二人揃って両面宿儺ってね。コンゴトモヨロシク!」
驚愕に瞳を開く。
八柱の大天魔。その名を知らぬ者は管理世界の住人には居ない。
「じゃ、死ぬ気で足掻け」
「ばいばーい」
転移魔法の輝きに包まれながら、ユーノ・スクライアは恐怖に震える。
大天魔の恐ろしさを知識として知るが故に、そして僅かとは言え直接関わったことで、この男女がどうしようもない怪物なのだと理解出来たのだ。
八柱の大天魔が一つ、宿儺。
その神はあらゆる神秘の否定者。遍く奇跡を認めぬ者。
彼に対し、魔法を使ってはならない。
人を見定める両面の鬼は、奇跡に頼らぬ人間の輝きこそを望んでいるのだから。
2.
青々と茂った林の只中で、少年は黒き獣と対峙していた。
Guooooooo!!
「っ! プロテクションッ!」
唸り声を上げ、襲い掛かる獣。
その獣の突進は、緑色の盾を破ることが出来ず弾かれる。
「其処だっ! チェーンバインドっ!」
そしてその隙を見逃さずに、金髪の少年は即座に行動する。
翡翠に輝く鎖に囚われた獣が、力尽くで鎖を引き千切る。だが、その対価にその身を構成する魔力を大きく失って地に伏せていた。
「はぁ、はぁ」
その攻防は少年の優位に進んでいた。
ユーノ・スクライアと言う魔導師には、確かに獣を封じるだけの力があった。
Guoooooooo!!
「っ! はぁ……はぁ」
鎖を引き千切って動き出す影の獣に、少年は翻弄されている。
性能では超えている。戦況とて悪くはない。なのに、ユーノは震えていた。
「はぁ、はぁ、……なんで、こんな」
息が荒い。足が震えている。
折られた心が、悲鳴を上げていた。
大天魔が彼を転送させたのは、墜ちたジュエルシードの直ぐ近く。
故に回復が間に合う前に遭遇戦が起きるのは、或いは当然の結果であった。
心が弱っている。身体が傷付いている。
そんな状態での遭遇戦。
少年の身体が、何時も以上に動かないのは道理であろう。
今優位に立っているのは、魔力がまだあるからに過ぎない。
だが、その魔力さえも無くなりそうで、それが恐怖を助長する。
この第九十七管理外世界の魔力が、彼の体には合わないのだ。
そんな環境では満足に魔力は生み出せず、消費する魔力の方が圧倒的に多い。
ならばいずれは魔力が底を尽きるのは道理であり、その末路が悲惨な物になるのは必然だ。
(怖い)
いずれ訪れるだろう未来を想像し、ユーノは恐怖に震え上がる。
思考に無駄が生まれ、心が揺らげば当然、展開される魔法は無様な代物へと落ち、消費される魔力も増えてしまう。
その事実は少年を怯えさせ、更に彼の魔法の精度を下げていく。
そんな悪循環が無限に続く事もなく、ならばその結末は当然だった。
「あ」
パリンとガラスが砕けるような音と共に、翠色の盾が砕ける。
少年にとって自慢であった防御魔法が、遂にジュエルシードの怪物に破られた。
直後に襲い来る衝撃。それはダンプカーの衝突にも匹敵する。
大きく吹き飛ばされたユーノは木にぶつかり、圧し折りながら地面に落ちた。
「あ、ぐ、が」
上手く呼吸が出来ず、呻き声を上げる。
四つん這いになりながらも顔を上げると、勝ち誇るように雄叫びを上げる獣の姿。
(痛い。怖い。嫌だ)
ガタガタと体が震える。
ガチガチと歯が音を立てる。
ゆっくりと近付いてくる獣の姿。
この先にあるだろう未来に恐怖したユーノは、震える足で立ち上がる。
「う、あああああああああっ!」
そうして、全速力で駆け出した。
迫り来る獣とは逆方向へと、少年は尻尾を巻いて逃げ出していた。
無理もない。ここで逃げた少年を、果たして誰が咎められよう。
幼い子供が、寝物語に出てくるような化け物と対峙し、傷が癒える間もなく猛獣に襲われたのだ。
大人であっても、逃げたくなる状況。子供の逃避は当然だ。
ここで逃げ出さないのは勇気ではなく蛮勇。
生存本能が狂ってしまった愚者だけだろう。
だが、逃げ出す事と逃げ延びる事は別問題だ。
逃走者の全てが逃げ切れるなら、捕食者に喰われる獲物などはこの世に居ないのだ。
Guooooooooo!!
少年が逃げ出すのが道理であるなら、獣が追い掛けるのもまた道理。
ここに対決は、捕食者とそれから逃れようとする獲物との追走劇へと、その様相を変化させた。
そして、少年は林の中で倒れ伏す。
逃げ延びたユーノは、見るも無残な姿で倒れていた。
スクライアの民族衣装は血と泥で赤黒く染まり、全身は擦り傷と打撲と骨折でボロボロになっている。
端正な容姿は涙と鼻水と血に塗れて歪み、黒き獣に噛まれた傷跡からは血が絶えず流れ落ちている。
月明かりの下、逃げ延びたユーノは恐怖で震え続けていた。
(……探さなくちゃいけないのに、ジュエルシードを、封印する、方法を)
今の自分では封印することすら出来ない。
それは先ほどの無様な結果が、明白なまでに示していた。
命の保証さえない。逃げ延びられたのはある種の奇跡だ。
ならば、どうにかする方法を探さなくてはならない。
このままでいれば遠からず、あの両面の鬼がやって来るのだから。
そう考えることは出来ても、傷んだ体は動かない。血を流し続け、徐々に体の感覚が失われていく。
動かない体から感覚が失われていく様は、少年の恐怖をより強く煽っている。
「助…て」
思わず、弱音が零れ落ちた。
少年の姿は、光に包まれて小動物のそれへと変じる。
少しでも命を長く繋ぐ為に、変身魔法で消費魔力を軽減しようとする。
〈誰か……助けて〉
それでも、このままでいれば助からない。
それが分かったから、念話で広く誰かに助けを求めた。
そうしてユーノは、眠りに落ちるのだった。
3.
「……変な夢を見たの」
可愛らしい小物の多い女の子らしい部屋のベッドの上で、寝ぼけ眼のなのはは先ほど見た夢を思考する。
不思議な夢であった。
傷だらけで泣いている男の子が、光に包まれるとフェレットに変わってしまう夢。
その夢に何の意味があったのかは分からない。
夢占いなんて分からないし、所詮は唯の夢だろうと思わなくもない。
だが――
「助けてって、泣いてたの」
それだけは強く心に残った。
だから、自分に何か出来るなら、その涙を止める為に何かをしたい。
そんな風にぼんやりと思考しながら、ふとベッド脇の目覚まし時計に目を映す。
女の子らしい部屋に似合わぬ、カメラや電子機器に囲まれたベッド脇の棚。
やや場違い感のあるピンク色の目覚まし時計は、当の昔に起床時間を告げていた。
「にゃ!?」
慌てて飛び起き、着替えを始める。
脱いだ服を布団の上に放り出してしまうが、忙しいから仕方がないと内心で自己弁護。
着替えが終わるといつも使っている通学鞄を、中身も確認せずに手に持ち、部屋を飛び出した。
「にゃぁぁぁぁっ! 遅刻するのぉぉぉ!」
人気のない家の階段を駆け足で飛び降り、居間を通り過ぎる。
母親の書置きと用意されていた朝食に目を通し、冷めたパンだけ掴み取り居間を出た。
「行ってきまーす!!」
鍵だけはちゃんと確認し、パンをくわえて走り出す。
その姿は良い子とは程遠いが、当たり前の少女のそれではあった。
20160811 大幅改訂。
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