リリカルなのはVS夜都賀波岐   作:天狗道の射干

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※2016/11/09改訂終了。

注意。今回も原作キャラに犠牲者が出ます。


副題 屑兄さんは仕事人。
   フラグの回収。
   夜刀様居ないとこいつらこうなるんじゃね?

推奨BGM『Letzte Bataillon』(Dies irae)


第二十一話 叫喚地獄の奥底で

1.

 堕ちてきたソレは、ただ其処に居るだけで場を支配していた。

 

 その身が放つ威圧感。腐臭に淀んだその気配。

 膨大としか言いようがない程の魔力の量だけでも、誰もが口を閉ざす程の脅威として映っている。

 

 そして無論、それだけではない。

 太極を開いていないとは言え、天魔・悪路とは腐毒の王である。

 

 その身、その全身。頭の天辺から足の指先まで、全てが腐毒の呪詛で満ちている。

 

 否、その表現は正しくはない。

 腐るという概念が人型を取った存在。人間の形をした腐毒の瘴気。

 

 それこそが、天魔・悪路であるのだ。

 

 その力は結界の内側にあっても、何ら制限されることはない。

 魔力で時間軸から切り離した程度では、この腐毒を防ぐ事など不可能だ。

 

 悪路を見たものは腐る。

 悪路に見られたものは腐る。

 悪路に触れたものは、皆例外なく腐って落ちる。

 

 それは太極という異界を発現していなくても、発現する事を避けられない現象だった。

 

 腐っていく、腐っていく、腐っていく。

 

 その踏み付けられた大地が、建材として使用された石材が、湧き出し続ける湯水が、全て例外なく腐っていく。

 

 表面に付いた細菌、微生物の腐敗。内に混ざった不純物の腐敗。

 それらのみに非ず、本来ならば腐らぬはずの物すら例外なく腐敗していく。

 

 物理法則など通じない。化学式など意味はない。

 無機物であろうと例外ではない。神格の力とは、腐敗すると言う概念は、そんな物では防ぐことすら出来はしないのだ。

 

 

「闇の書――そして、魔導師達」

 

 

 ぎろりと悪路はその瞳を動かして、その場に居る者らを見る。

 

 一人一人、確認するように、観察しているように。

 その憤怒と哀愁に満ちた赤い瞳で、少年少女らを目視した。

 

 

「っ!?」

 

 

 瞬間、高町なのはは、自身の身体を襲う違和感を認識した。

 

 

「何、これ……何で……」

 

 

 理解が出来ない。痛みは欠片も存在しない。

 だが、だからこそ、それがどうしようもなく恐ろしい。

 

 あらゆる身の護りを摺り抜けて、悪路の脅威は彼女の身体にも襲い掛かっていた。

 

 

「……指が、肌の色が、変わって、感覚が無くなっていく」

 

 

 見て分かる程の速度で、肉体の風化が進んで行く。

 指先から身体が変色を始めて、男と同じ異臭を立てている。

 

 腐っている。

 身体が腐って、崩れ落ちているのだ。

 

 目が合った。唯それだけで、その影響は生じている。

 瞳で見ただけでバリアジャケットもシールドも突き抜けて、少女の身体は腐っている。

 

 痛みはない。痛みではない。

 生きたまま腐るという感覚に、痛覚などは伴わない。

 

 痛みも何も感じぬ内に、全てが腐って塵となる。

 滅侭滅相。それが天魔・悪路に対峙した者全てが辿る結末だった。

 

 

 

 神の法には、大別して二つの種類が存在する。

 

 一つは覇道。流れ出すと言う意志によって、世界全てを染め上げる渇望。

 残るは求道。自らで完結した意志によって、己自身を作り変える為の渇望。

 

 悪路の法は、覇道ではない。

 彼の理とは求道であり、求道太極とは己の体内に他者を取り込むと言う行為。

 

 悪路王が願ったのは、大切な人が美しくあって欲しいと言う願い。

 生きたまま腐ると言う呪いを受けた家系に生まれた彼が、せめて妹だけはと祈って生まれた求道の渇望。

 

 誰かが穢れる必要があるならば、それは己が引き受けよう。

 己一人だけが穢れるから、愛しい人々よ、どうか美しくあって欲しい。

 

 この身は屑だ。天魔・悪路は腐っている。

 

 だから己は救われずとも構わない。

 どうか腐毒よ、この我以外を腐らせてくれるな。

 

 故にこそ、被害はこの程度で済んでいる。

 求道と言う内に籠った法則は、太極を開かない限りは多大な被害は生み出さない。

 

 求道の神にとって、太極を開く事とは、世界と同化すると言う事。

 目に映る世界の全てを己に取り込んでいないが故に、腐敗するのは悪路に干渉したものだけで済んでいる。

 

 見る。触れる。見られる。

 その手順を踏まねば、影響は受けない。

 

 万象全てを腐らせる呪風は、未だ生じていないのだ。

 

 だが、それだけだ。

 

 見られれば腐るのは変わらず、見れば影響を受けてしまう。

 悪路の触れた大地は腐り、彼の体に触れた大気は酷く淀んで毒を宿す。

 

 この狭い結界の内側が穢れによって満ち溢れ、彼の太極となんら変わらぬ異界と変じるのもそう先の話ではないだろう。

 

 そして、そうなる前に耐えられない者も当然いる。

 

 

「いやあああああああっ!?」

 

 

 悲鳴が上がる。絶叫が上がった。

 高町なのはは弾かれたように顔を上げ、声の主へと視線を向ける。

 

 その先にいるのは、今この場において最も守りの薄い者。

 最もか弱く無防備で、腐毒の呪風に耐える事も出来ない者である。

 

 それは歪みを持たない魔導士の少年(ユーノ・スクライア)ではない。

 それはデバイスがなく魔法を使えない歪み者(クロノ・ハラオウン)ではない。

 それは生まれたばかりの魂しか持たない騎士達(ヴォルケンリッター)でもない。

 

 彼らもまた危機にある。

 誰もが皆、例外なく危地に居る。

 

 最も軽いのが高町なのはで、それ以外は誰もが膝を屈している

 肌は爛れ、肉は腐り、今にも崩れ落ちそうな程に追い込まれていた。

 

 だが、そんな彼らよりも追い詰められた者がいたのだ。

 

 

「はやてちゃん!」

 

 

 それは、闇の書に魔力を喰われていた少女。

 戦闘での消耗分も加わって、彼女の身体に耐性など欠片もない。

 

 見る見る内に、腐って落ちるその身体。

 悲鳴を上げながら壊れていく、八神はやてと言う少女。

 

 彼女の下に駆け付けようと、なのはは飛翔する。

 だがその最中にて、彼女以外の人達も限界を迎えていた。

 

 

「くっ、そ……」

 

「ユーノくんっ!?」

 

 腐毒の風に耐えられず、魔導師の少年が膝を付く。

 見るも無残に変わる姿に、なのはは一瞬どちらに向かうべきかと逡巡した。

 

 

「主っ!」

 

「はやてっ! 私達が何とかするから、しっかりしろっ!!」

 

 

 なのはが決心する前に、騎士達が主の元へと馳せ参じる。

 彼らもまた消耗し、魂の分だけ抵抗力が少ないが、それでも意地で己の役割を貫き通す。

 

 元よりはやてを庇っていたヴィータが、ザフィーラと合流して障壁を強化する。

 二人掛かりで如何にか被害を軽減した後に、障壁内にてシャマルが主を救わんと治療魔法を行使していた。

 

 その光景に、なのはは任せても平気だと判断する。

 今助けが必要なのは騎士に守られる彼女でなく、戦う力を持たない彼なのだ。

 

 

「ユーノくん!!」

 

 

 八神はやて程でなくとも、ユーノ・スクライアの身も危険である。

 

 ユーノは歪みを持っていない。

 歪みとバリアの二種の護りがあるなのはでさえ、手足の末端が腐りかけた程だ。

 そんな呪風を至近で受けて、魔法の技能しか持っていない彼が、ただで済む道理がない。

 

 

「っ、あ……」

 

 全身から腐臭を漂わせて、金髪の少年は蹲っている。

 その傍らへと飛翔して、なのはは大慌てで彼に駆け寄った。

 

 

「酷い」

 

 

 肌を露出した箇所。皮膚が腐りつつあるその姿に、なのはは息を飲む。

 それも一瞬。何とかせねばと思い至り、守護騎士らと同様障壁を展開することで対処を行った。

 

 高町なのはに、治療魔法は使えない。

 出来ないならば出来ないなりに、せめてこれ以上の被害を抑えるのだ。

 

 

「情け、ない……な」

 

「ユーノくんっ! 喋っちゃダメっ!!」

 

 

 身体を腐り落としながら、ユーノ・スクライアは無力を嘆く。

 言葉を口にするだけで、ボロボロと崩れ落ちる変色した皮膚を見て、なのはは大慌てで彼を止めた。

 

 現状は不味い。腐毒を防ぎ切れてない。

 なのはの障壁も、守護騎士二人の障壁も、全てを抜いて毒が浸食する。

 

 天魔・悪路は動いていない。

 ただ其処に佇んでいるだけなのに、それでこんなにも世界が変わる。

 

 大天魔の恐ろしさ。偽りの神の絶対性。

 それが今初めて、心身を震わせる恐怖と共に、理解出来ていた。

 

 

「……無事か。ユーノ。高町」

 

「クロノくん」

 

 

 空間を跳躍して、クロノ・ハラオウンが合流する。

 腐毒に身体を侵されながらも、慣れた事だと痛みに耐える。

 

 生きて帰れば、多少の傷なら如何にでもなる。

 肉体部位の欠損だろうと、プロジェクトFと機械化技術で代用できる。

 

 ならば、重要なのはただ一つ。

 手傷を恐れずに、此処から生きて帰る事。

 

 

「何時まで寝てる気だ? 泣き言を言う暇があるなら、死ぬ気で障壁を維持しろ、フェレット擬きっ!」

 

 

 蹲るユーノを叩き起こして、障壁を張れと命じるクロノ。

 その厳しさしか見えない対応に、なのはは反意を覚えて異論を唱えた。

 

 

「クロノくん!!」

 

 

 このままでは、ユーノが死んでしまう。

 そんな状況で、この少年は何を言っているのか。

 

 そう怒りを吐露するなのはに向かって、クロノもまた怒声を返した。

 

 

「高町だけの結界では持たないっ! 僕が使えないなら、お前が使うしかないだろっ!!」

 

 

 己への憤りを堪える言葉に、高町なのはは唇を噛み締める。

 誰も彼もが限界寸前で、けれど此処では死ねないから、生き残る為に算段する。

 

 そんな少年の怒声を耳にして、ユーノは唯無言。

 然し歯噛みして腕に力を込めながら、必死の想いで立ち上がった。

 

 

「スフィアプロテクションっ!!」

 

 

 如何にか足に力を入れて、霞む思考で障壁の魔法を展開する。

 何時倒れても可笑しくない身体をなのはに支えられながら、ユーノは意地で啖呵を切った。

 

 

「これで、良いんだろ! クロノ!!」

 

「ああ、上出来だ」

 

 

 今にも吐きそうな表情で、然し足手纏いにはなりたくないと、必死で障壁を展開するユーノ。そんな彼に、クロノは笑みを浮かべて返した。

 

 

「……さて、談笑している暇はない。気合を入れろっ!」

 

 

 三人の魔導師が、大天魔へと立ち向かう。

 冷たい意志を宿した瞳は動かずに、未だ魔導師達の様子を見ていた。

 

 

 

 天魔・悪路の出現に際し、三人の魔導師は対応した。

 主の身を護る為に、三人の騎士達もまた即座に動いた。

 

 それが全て、計六名が行動していた。

 この場にいる者の数は九。その内、僅か六人しか動かなかったのだ。

 

 八神はやてが動けないのは、ある意味当然の事だろう。

 苦しみもがく彼らを見下す大天魔が、座して動かぬのには理由があるのだろう。

 

 だがそんな両者とは違い、何故か動かなかった者が一人だけいる。

 死に瀕しているユーノやクロノが、先の戦闘で倒れ掛けていたヴィータとザフィーラが、傷を押しても動いている。

 

 だと言うのに、最も傷が浅い彼女だけが、何故か動こうとはしていなかったのだ。

 

 

「おい! 何やってんだよ、シグナム!!」

 

「…………」

 

 

 それは烈火の将。シグナムという名の女である。

 主を襲う異常事態に対し、本来ならば真っ先に動かなければならない将が不動であった。

 

 彼女が動かぬ事に、苛立ちを覚えたヴィータが吐き捨てる。

 ふざけるなと苛立ちながらヴィータはシグナムを見やり、そこで彼女の異常に気付いた。

 

 烈火の将は虚ろな瞳で、眼前に立つ天魔を見詰めていた。

 現れた彼が何であるか認識した直後、まるで糸の切れた人形のようにかくんと動きを止めていた。

 

 そう動かなかったのは、彼女の意志ではない。

 動けなかったのだ。彼女にはその役割が、設定されていたのだから。

 

 

「そうか、お前だったのか」

 

 

 そして悪路が動き出す。

 動きを完全に止めたシグナムが、探していたソレだと気付いて――

 

 

「見付けたぞ。夜天の安全装置」

 

 

 闇の書が作り出された時、同時に用意された“安全装置”。

 大天魔の襲撃に合わせて闇の書を回収し、逃走する為の最終機構。

 

 それこそが、烈火の将シグナムであったのだ。

 

 どんと音を立てて、烈火の将が飛翔する。

 鉄槌の騎士の制止も、八神はやての負傷も意識に入らない。

 

 三人の魔導士などには興味も向けない。

 否、そんなことを思考する余地が、今の彼女には残っていない。

 

 烈火の将は何かに操られるかのように、無言のまま全てに背を向けて闇の書を目指した。

 

 

「今更逃げられると、思っているのか?」

 

 

 その背を見詰めながら、天魔・悪路がゆっくりと動き出す。

 巨大な悪鬼の随神相が逃がす物かと、飛翔する将の背を見詰めていた。

 

 

 

 夜天の書が、闇の書に変じてから五百年。

 闇の書を追い続けていた大天魔達が、それに辿り着いたことは一度や二度ではない。

 

 五柱の天魔達は散り散りになって多元世界を探し回り、その過程で両手足の指では数えきれない程度の邂逅を果たしていた。

 

 魔力資質を持てば、それだけで主として認められる闇の書の転生機能。必ずしも、魔法の知識がある人物が主となる訳ではない。

 

 管理世界や魔法文明の数とその他次元世界を見比べれば、当然資質を持つだけの罪なき一般人が主となることが多いのは必然と言える事だろう。

 

 この世界の民。それも罪なき一般人を傷付けることに、抵抗を持つ天魔は多い。

 母禮や紅葉。彼女らがそうであり、故に闇の書を追う天魔達の中でも彼女らのような者達は、それほど闇の書に多く関わって来た訳ではない。

 

 彼らが迷うよりも早く、己こそが穢れれば良いと思考する悪路が先んじて行動していた。

 

 意識の一部が共有することが可能で、魔力のある場所になら何処にでも現れることが出来る。

 そんな性質を持つ彼らだからこそ、同じ天魔ばかりが襲撃を掛けるという真似とて不可能ではない。

 

 誰かが襲撃を躊躇ったならば、その瞬間に悪路が攻め入るのだ。

 最も多く闇の書に関わっていたのは、この天魔・悪路に他ならない。

 

 

 

 しかし、そんな悪路でさえ、未だ知らないことも多い。

 闇の書には他ならぬ、旧世界の技術が、神座世界(アルハザード)の技術が用いられている。

 

 それは彼の蛇の知恵。悪辣な第四天の叡智。

 永劫回帰の技術は明かし切れず、故に彼らであっても手を焼いていた。

 

 何度手を伸ばそうとも、届かないで幕を閉じる。

 後一歩と言う所で常に妨害されて、取り逃がし続けていたのだ。

 

 何故か後一歩に近付くと、闇の書は一目散に逃げ出すのだ。

 周囲に破壊を振り撒きながら、主を喰らい殺して即座に逃げ出す。

 

 まるで天魔が来ると分かっている様に、少しでも近付けば気付かれる。

 その理屈がどうしても分からなかったが故に、彼らは常に後手に回っていた。

 

 そうして今になって、漸くに理解した。

 恐らくそうだと予想を立てて、それが見事に嵌っていた。

 

 闇の書には安全装置が存在する。

 特定の条件が満たされた段階で、即座に動き出す機構がある。

 

 それが大天魔に気付いた時、闇の書は転移を開始するのだろう。

 全ての条件を整える前に、先ず彼らが表に出るならば、安全装置から壊さないといけないのだ。

 

 故に彼は、見に徹した。

 闇の書がこの場にない状況が、絶好の機会だったからこそ、誰がそうなのか判断する為に使ったのだ。

 

 

「滅侭滅相」

 

 

 そして見つけた。それは烈火の将だった。

 だからもう、決してその女だけは逃がさない。

 

 例え無関係な人々を脅威に晒そうとも、逃がす事だけはもう出来ない。

 

 

「誓うぞ――お前は生かして帰さない」

 

 

 纏う呪風を振り撒きながら、天魔・悪路はそう決めた。

 

 

 

 

 

2.

 悪路の随神相が、その巨体を振り回す。

 巨体という質量が持つ純粋な暴威から逃れようと、烈火の将は身を翻す。

 

 

(私は、何をしている)

 

 

 飛翔しながらに回避して、身を躱しながらに先を目指す。

 そうして前へと飛び続けているシグナムの残った意識は、混乱の真っ只中にあった。

 

 

(主の危機に、どうして書を目指している。はやてを護ると、そう決めたのに……)

 

 

 歯噛みする事すら出来ず、シグナムは内心でそう感じている。

 生まれたばかりの魂は防衛装置の命に逆らえず、マルチタスクが冷徹な答えを出している。

 

 大天魔が現れた。勝つ手段など何処にもない。

 彼らに永遠結晶を奪われたなら、全てが此処に終わってしまう。

 

 故に――八神はやてを此処で殺害しろ。

 

 

(一体、これは何なのだ。永遠結晶だと!? そんな物、私は知らないっ!!)

 

 

 守ると誓った人を殺す為に、勝手に動き続ける身体。

 騎士とは主を護る為に居る存在なのに、その主を殺して喰らえと命じる書。

 

 何かがおかしい。何がおかしい。

 分からない。分からない。分からない。

 

 混乱の只中にあって、シグナムは思考しか動かせない。

 闇の書には何か、自分達も知らない何かがあって、このままでははやてが死ぬ。

 

 

(動けっ! 動けっ! 今動かずにっ! 何時動くと言うのだっ!!)

 

 

 プログラム体と言う身体が、どうしようもなく憎らしく思える。

 何の為に生きるのかを決めたのに、この身が自由に動いてくれない。

 

 そしてそんな女の葛藤を、考慮する程に腐毒の王は甘くなかった。

 

 轟と風が吹き抜ける。溢れ出した腐毒の呪風が吹き抜けた。

 空を飛んでいたシグナムは腐りながらに吹き飛ばされて、その隙に悪路王が接近する。

 

 何時の間にか、前方から回り込んでいた人間大の悪路王。

 彼はシグナムの進む先にて跳躍し、手にした刃を振り下ろした。

 

 咄嗟にシグナム。

 否、闇の書の安全装置は、剣を盾として防ごうとする。

 

 しかし――

 

 

「無駄だ。木偶の剣では防げない」

 

 

 レヴァンテインでは防げない。木偶と化した将では耐えられない。

 書に行動を制御されたまま、シグナムと言う女は自由を奪われて、此処に命を落とすのだ。

 

 

(そんな、末路――)

 

 

 眼前に迫る腐毒の大剣。

 自らの命を奪う、偽神の一撃。

 

 それを前にしてシグナムは、このままでは終われぬと意志を示した。

 

 

「認めて、堪るかァァァァっ!」

 

 

 ギリギリの一瞬に、如何にか制御を取り戻す。

 動きの鈍った身体は腐毒を躱し切れず、大剣諸共に袈裟に斬られて、己の半身が腐って落ちる。

 

 

「がっ、ぐぅっ!?」

 

 

 最早、死は避けられない。もう消滅は時間の問題。

 冷徹な瞳をした大天魔は、生じた変化すら知らぬと剣を緩めない。

 

 生まれたばかりの魂と、憎悪にも近い憤怒。

 それによって僅かに自己を取り戻したシグナムは、己の最期に一つ為す。

 

 

「夜天の騎士達っ!!」

 

 

 限界を超えて尚、得られた時間は僅か数秒。

 最早生存は絶望的だからこそ、彼女はその数秒に言葉を残す。

 

 

「我らの主をっ! 八神はやてをっ!」

 

 

 再び迫る大剣。塵すら残さんとする瘴気。

 それを前にして、言葉は自然と口を吐いていた。

 

 

「護り抜けぇぇぇぇっ!!」

 

 

 言葉と共に、烈火の将は腐って落ちた。

 全てから主を護れと、それだけを言い残して彼女は死んだ。

 

 振り下ろされた刃に、纏わり付いた塵の欠片。

 それを哀れむ瞳で見詰めた後に、天魔・悪路は静かにその動きを止めていた。

 

 

「……残念だが、お前の願いは叶わない」

 

 

 女が最期に何に気付いたのか。

 女が最期に何を伝えようとしていたのか。

 

 それが分からずとも、一つ断言出来る言葉がある。

 

 八神はやては助からない。

 あの少女は必ず殺す。絶対に生かして残さない。

 

 

「何れ、全てが救われる。その日が訪れる時を、黄昏の果てに待つと良い」

 

 

 生まれたばかりの魂でも、彼女は確かに一つの個となっていた。

 夜天の干渉を退ける程に、確かな個我を獲得していたのだ。

 

 故に彼女もまた、輪廻の輪に還るだろう。

 何時か全てが救われた日に、平穏無事に生きられると願っておこう。

 

 

「さらばだ――生まれたばかりの、八神の騎士」

 

 

 彼女はもう闇の書の騎士ではない。

 彼女は決して、夜天に支配された騎士ではなかった。

 

 あの一瞬の彼女は確かに、八神はやてに仕える騎士だった。

 

 その事実を認めた上で、悪路はその名を心に刻んだ。

 

 

 

 そして烈火の将の死は、一つの脅威を曝け出す結果となる。

 彼女の死が切っ掛けとなって、その脅威はもう防ぐ事など出来はしない。

 

 この領域で起きた出来事を隠匿し、その被害を外部に漏らさない為に展開されていた封時結界。それを維持していたのは他ならぬ、烈火の将シグナムであったのだ。

 

 ならば必然として、彼女の死は結界の崩壊を意味する。

 この腐毒の瘴気に満ちた世界が、現実へと浸食するのだ。

 

 将を失った衝撃で、唖然としたまま動けぬヴォルケンリッター。

 全身を苛む呪風を前に、障壁以外の魔法を行使する余裕のないなのはたち。

 

 彼らの誰もが障壁を引き継ぐのに一瞬遅れ、故に当然の結果として赤紫色の結界は消失した。

 

 

 

 阿鼻叫喚の地獄が、レジャー施設に顕現する。

 人々の苦痛の悲鳴が溢れ出し、全ては叫喚地獄の奥底へと呑み込まれた。

 

 

 

 

 

3.

 死。死。死。死。

 ここには死が満ちている。

 

 腐る。腐敗する。腐食する。風化する。

 異臭と共に万象の末路が晒されて、誰もが悲鳴を上げている。

 

 休日の昼下がり、晴天の直下で賑わいを見せていたレジャー施設は、腐毒の呪詛によって一変する。

 

 人の善意が最悪を引き寄せる。

 海鳴の人の為にと用意された無料券が、確かに犠牲者を増やしていた。

 

 嘆いている。悲鳴が上がる。

 苦悶の声が響く。絶望が木霊する。

 

 現実に顕現した叫喚地獄は、毒々しい色で世界を染め上げている。

 大天魔は何もしていない。ただそこにいるだけで、人の世をどうしようもなく狂わせている。

 

 

「アリサちゃん! すずかちゃん!!」

 

 

 目の前に広がる地獄絵図に、一瞬飲まれたなのはは大切な友人を思い出し、声を荒げた。

 

 このレジャー施設に共に来た友人。

 結界が壊された今、彼女達もまた危険である。

 

 今すぐにでも助けに行きたい。助けに行かねばならない。

 

 だが、それなのに――

 

 

「……っ」

 

 

 その場に座して動かぬ大天魔がそれを許さない。

 

 彼は不動。彼は無言。

 ただなのは達を、怒れる瞳で観察しているだけだ。

 

 だがそれだけで、なのは達の挙動は制限される。

 甲羅に籠った亀のように、障壁の中に隠れていなければ、あっという間に死に至る。

 

 少なくともユーノとクロノの二人は、なのはが飛び出せば数分しか持たないだろう。

 

 二人の少年と親友の少女達。

 同数の友らを秤に掛ける冷徹さなど、幼い少女は持っていない。

 

 

「クロノくん!」

 

 

 故に動けぬなのはは、僅かな期待を込めてクロノの名を呼ぶ。

 彼女の期待することに気付いて、然し答えられないクロノは冷たく言い捨てた。

 

 

「不可能だ。人の数が多過ぎる。この中で魔力反応を持たない人間を探し出して転移させるなんて、僕の歪みでも出来はしない」

 

「そんな!? なら、二人は!!」

 

「祈れ! せめてこの毒素が届かない場所に居ることを!」

 

 

 救済は不可能だ。救助には動けない。

 自分達が確実に助かる術もないのに、どうして動く事が出来ようか。

 

 今の彼らには祈る事しか出来ない。

 それしか出来ることがないから、彼らは無力感に拳を震わせていた。

 

 

 

 そんな彼女らとは対照的に、即座に動き出したのがヴォルケンリッター達だ。

 

 

「あんの、野郎ぉ。よくもシグナムを!!」

 

 

 怒りの声を上げるのは、騎士達の内でも最も直情的な鉄槌の騎士。

 鉄槌の騎士は家族の最期を目にして、その命を奪った天魔に怒りを抱いている。

 

 だが、そんな彼女とて飛び出しはしない。

 そんな感情一つで飛び出してはいけないと、確かに理解していたのだ。

 

 眼前に立つ怪物は、どうしようもない代物である。

 どこかで脳が警告している。忘れてしまった記録が叫んでいる。

 

 あれから逃げろ。そうでなくば全てを失うぞ、と。

 

 そして理由は、もう一つ存在していた。

 

 

「シャマル。主の容体は?」

 

「……簡易的な魔法じゃこれが限界。しっかりとした設備があればまだ何とかなるけど」

 

 

 苦い顔で口にするシャマルも、即座に判断を決めたザフィーラも、皆が確かに分かっている。

 

 彼らの将が最期に残した言葉。自分達が為したい事。

 それは敵討ちではなくて、唯一人しかいない主を護る事である。

 

 

「ならば、一先ず退くぞ。ヴィータも良いな」

 

「んなこと分かってるっ! はやてだけは、失う訳にはいかねぇんだっ!」

 

 

 怒りはある。嘆きはある。

 だがそれら全ては、事ここに置いては余分でしかない。

 

 救うべきは主はやて。

 守るべきはこの幼き少女。

 

 烈火の将の変容も、その死への嘆きや慟哭も、全て後回しにして彼らは撤退を選択した。

 

 

「あ、えっと。闇の書の回収は?」

 

「んなもん後回しだ! さっさとはやてを安全な場所に運ぶんだよ!」

 

 

 転移魔法で姿を消す守護騎士達とその主。その背を追う者は誰もいない。

 大天魔に睨まれて動けぬなのは達も、シグナムを殺した天魔・悪路も、その背を追う姿勢すら見せることはない。

 

 

(気に入らねぇ。アイツらどいつも、気に入らねぇ)

 

 

 ヴィータは歯噛みしながら、この地獄の底から逃げ出した。

 

 

 

 

 

 そして残された者らが、此処に来て相対する。

 縮こまって身を固めるしか出来ない少女達を、見定めるかのように観察していた悪路は静かに呟いた。

 

 

「……理解し難い指示だが、まあ一先ずは従おう」

 

 

 眼前の子供達。自身ら大天魔にはまるで届かず、然し守護騎士達を圧倒するだろう戦力を見て、悪路は判断する。

 

 この子らの実力を踏まえれば、踏み絵には丁度良い。

 裏で何を考えているのか分からぬあの魔女を、試す秤には相応しいだろう。

 

 そう内心で折り合いを付けた悪路は、その視線を上空へと向けた。

 

 

「……おい。何のつもりだ」

 

 

 その視線の先にある物を知り、その動きの意味を知るクロノは茫然と呟く。

 

 そんな彼に答えは返らない。

 天魔・悪路は無言で、ただ行動を持ってその意を示す。

 

 

「……やめろ」

 

 

 小さく呟くような言葉は震えている。

 その先にある光景を、嫌と言う程知っている。

 

 遮二無二、止めようと動き出そうとして――然し彼の動きは、悪路に対して半歩遅れていた。

 

 

「やめてくれ」

 

 

 手を伸ばす。手を伸ばす。手を伸ばす。

 

 万象掌握。その歪みの有効射程は五百メートル。

 どれほど手を伸ばしたとしても、少年の手では衛星軌道上に待機しているアースラまでは届かない。

 

 故に――

 

 

「さらばだ。管理世界の魔導師共」

 

 

 轟音を立てて、悪路の神相は跳び上がる。

 跳躍の反動で施設は崩れ去り、地球全土が衝撃で揺れた。

 

 地軸はぶれ、気候は変わり、大地は崩れる。

 

 そんな崩壊を反動に外気圏の更に先、宇宙空間へと飛び出した悪路の神相は、その巨大な刃を振り下ろした。

 

 

「やめろぉぉぉぉぉぉっ!!」

 

 

 絶叫は意味を為さず、宇宙に大輪の華が咲き散った。

 

 

 

 

 

 クロノの体内にある機械が告げる。

 アースラの設備と同期していた、内蔵機器が冷淡に告げていた。

 

 

「アースラが……」

 

 

 アースラが撃墜された。

 この今に爆散して、誰も生きては逃げられなかった。

 

 

「母さん」

 

 

 脱出者が居ない。生存は絶望的である。

 誰一人として残らずに、誰もが今の一瞬で死んだのだ。

 

 

「エイミィ」

 

 

 そう。それは無慈悲に、否応なしに分からせた。

 恋人も母親も仲間達も、誰も彼もをこの一瞬で纏めて失ってしまった。

 

 だから――

 

 

「天魔・悪路ぉぉぉぉぉっ!!」

 

 

 怒りと共に咆哮する。嘆きと共に絶叫する。

 

 冷静な思考などする余地はない。勝算なんてありはしない。

 唯、このまま死んでしまうのだとしても、何もせずには居られない。

 

 

「クロノくん!」

 

「クロノ!」

 

 

 二人の制止も届かない。そんな言葉は届かない。

 玉砕覚悟で障壁の外へと飛び出したクロノは、形振り構わず大天魔へと襲い掛かって――

 

 

「な、に」

 

 

 その拳は空を切った。

 

 悪路が居たはずの場所。そこには何もない。

 拳の先には何もない。その場所には誰も居なかった。

 

 

「そん、な……」

 

 

 威圧感が消えている。腐毒の呪詛が失せている。

 どうしようもない程に理解した。大天魔はもう、去っていたのだ。

 

 

「大、天魔ぁぁぁぁぁ」

 

 

 既に役を果たした以上。彼の大天魔がここに居る必要はない。

 クロノの怒りに付き合うこともなく、アースラを撃墜した直後に天魔・悪路は立ち去っていた。

 

 

「眼中にすら、ないと言うのか!!」

 

 

 怒りを込めた拳を振り下ろす先を見失い、クロノはただ大地を殴りつける。

 血が滲むほどに強く、怒りも嘆きも吐き出す程に強く、クロノ・ハラオウンは絶叫した。

 

 

「くっそぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

 

 

 何度も何度も、大地を叩く少年の姿。

 誰も何も言う事は出来ず、只々時間だけが流れ過ぎていく。

 

 

 

 その場にて生き延びた誰もが、己の無力さを理解していた。

 

 

 

 

 

 第九十七管理外世界。

 レジャー施設にて起きた天魔襲来事件。

 

 この出来事は関わった者全ての心に大天魔の恐ろしさを刻み込み、一般の犠牲者を多く出すという結果だけを残して終わった。

 

 後に有毒ガスの噴出による被害という形で決着付けられるこの事件。その犠牲者は、1000人を超える事となる。

 

 休日の昼下がり、無料券を持つ人々も多く賑わっていた大人気のレジャースポットで起きた痛ましい事件であった。

 

 

 

 

 

4.

 ざあと引いては返す波の音が響く堤防の上。

 黒髪の優男と言う風体の青年を前に、一人の幼い少女が立っていた。

 

 

「お疲れー、戒くん。いやー、助かったわ」

 

 

 無邪気に笑みを浮かべる赤毛の少女。アンナ・マリーア・シュヴェーゲリン。

 その言葉と表情を見れば愛らしい少女であるが、彼女の為した事を知る者が見れば途端に嫌悪の表情を向けるであろう。

 

 アースラクルーの殺害を命じたのは、他ならない彼女であった。

 そんな業が深い魔女が向ける笑みに対し、櫻井戒は視線を揺るがせずに応じる。

 

 

「無駄話をする気はない。答えて貰うぞ、マレウス」

 

 

 虚空より取り出したのは、先の欠けた黒い大剣。

 天魔・悪路が握っていた武器と同じそれを持つ男こそが、腐毒の王の人間体。

 

 まるで今にも斬りかかりそうな形相で、櫻井戒は魔女を睨み付ける。

 剣を突き付けられた魔女は理解が出来ないと、何の心算かと問い掛けた。

 

 

「これ、何のつもりかしら?」

 

「弁解を聞こう。マレウス。……でなくば、ここで果てると知れ」

 

 

 櫻井戒――否、天魔・悪路が詰問する。

 この意図を隠す同胞に、何を企んでいるのかと。

 

 

「……弁解? この私が?」

 

「無論だ。……何故、管理局の歪み者共を逃がすように命じた?」

 

 

 作戦参謀たる魔女。天魔の一角である少女。

 彼女の提案した行動に、明らかな不利益を感じている。

 

 あの場では一先ず従ったが、それでも違和を覚えているのだ。

 

 

「何故、ここで消し去ることを止める? あの場では従ったが、どうにも理解できない。故に問うている。答えて見せろ。……正当な理由なくば、僕がここで貴様を裁くぞ」

 

「…………」

 

 

 両者の間に緊迫な空気が漂う。

 アンナはその目と言動から、櫻井戒が本気であると理解していた。

 

 

 

 そう。櫻井戒は本気である。

 彼はこの世界において、三度の失敗をしてしまっている。

 

 故にこそ、もう間違えないと、余裕も容赦も一切を捨て去ってしまっているのだ。

 

 

 

 過ちの一つ。それはこの世界の民を守ろうとしたこと。

 他の大天魔たちと異なり、彼は最初はこの地の味方であったのだ。

 

 夜都賀波岐は敗北者だ。

 神々の争いに敗れ、この地に逃げ出した者達だ。

 

 世界を護る為に戦って、敗れた今となっては何も残らない。

 それでも確かに守った命が、こうして育まれて今を生きている。

 

 ならば過去の残骸が、必要以上に干渉してはいけない。

 主柱と同質の願いを持つ彼だからこそ、素直にそう感じる事が出来ていた。

 

 それでも、この地には未来がない。

 その先は閉じていて、このままでは神の死と共に滅び去る。

 

 救えないならば、何れ主柱の復活は必要となる。

 だがそれでも、ギリギリまでは可能性を信じて待とう。

 

 この世界の住人を信じて、今に生きる人々に期待した。

 必要ならば手を貸そうと、その日が来るまで守り抜こうと、悪路はそう思考していた。

 

 彼は嘗ては、天魔の中でも最も穏健な思考を持つ者だったのだ。

 

 だが、それも変わった。

 

 今の彼はあの日の期待を、過ちだったと感じている。

 この時代の人間達は救えない。殺し尽さねばならないと感じていた。

 

 そう変わるだけの切っ掛けが、確かに彼にはあったのだ。

 

 

 

 そして過ちの二つ目は、同じく彼の甘さが生んだ物。

 

 今は御門顕明と名乗るあの女。

 神座世界の生き残りを、殺さずに見逃した事。

 

 あの日、彼女を殺していれば、この今の苦難はなかった。

 

 あの日確かに、現行人類を殺してでも主柱を蘇らせようとしていた常世。

 彼女を止めずに協力していれば、これ程に犠牲は大きくならなかった筈だった。

 

 

 

 この世界に落とされた時、夜刀の身体が砕けて散った。

 広がり流れる法則は止められず、彼は世界となって自壊した。

 

 それから数億年。長い年月を掛けて、彼の欠片を拾い集めた。

 そうしている内にこの世界にも人が生まれ、気付けば文明を築いていた。

 

 彼の復活が可能となって、其処で夜都賀波岐の意見は真っ二つに割れた。

 

 一つはこのまま、天魔・夜刀を復活させる事。

 首領代行である天魔・常世。彼女が積極的に推し進めるその方策。

 

 それがなれば、生まれ始めていた人類は停止する。

 その発展は停滞し、誰もが年を経る事もなく、変わらぬ今日が永劫続く。

 

 それを素晴らしいと、誰もが賛辞する世界。

 生きとし生ける者が操り人形と化す、全てが凍り付いた世界。

 

 無間大紅蓮地獄。それはあらゆる可能性を閉ざす。

 元より弱った今の世界の民草は、永劫の奴隷と成り果てる。

 

 対して、天魔・悪路は人を信じようと口にした。

 

 今は未だ儚く弱くとも、彼らは何時か至れる筈だ。

 その可能性を此処で閉ざしてしまう事は、きっと夜刀も望まない。

 

 悪路の案には実現性が低く、されど常世の言は主柱の想いに反している。

 故に互いに妥協点は存在せず、夜都賀波岐の七柱は時間を無為に過ごしてしまった。

 

 積極的賛成と反対を掲げたのは悪路と常世。

 消極的賛成と反対を掲げたのが奴奈比売と紅葉。

 

 どっちつかずだった母禮に、我関せずとしていた宿儺と大獄。

 

 会議は踊り結論は定まらず、只々時間だけが過ぎた。

 

 そして気付いた時にはもう遅い。

 魔法が生まれ、発展してしまっていた。

 

 魔法によって、夜刀の魂は摩耗を始めた。

 彼らは幾度も警告したのに、それでも人は変わらなかった。

 

 結果として、穢土にある物だけでは復活は不可能となった。

 悪路の期待が無駄な時間を生み出して、手筋が一つ潰された。

 

 それでも彼は、まだ信じていたかった。

 時間は未だあるから、人々が協力してくれれば、輪廻に流れた彼の半分だって探し出せる筈。

 

 後少しで良い。信じたいんだ。信じさせてくれ。

 

 しかしそんな腐毒の王の願いも虚しく、穢れを払った筈の人々は彼の期待を幾度も裏切った。誰もが己の欲に堕ちて、紅蓮の地獄を恐れて、幾度も幾度も裏切った。

 

 それでも、まだ信じたかった。

 そんな風になってしまっても、きっと救いはあると思いたかった。

 

 されどそんな願いは、最低の形で壊された。

 穢土に残されていた至宝。彼の欠片と神座世界の秘宝。

 

 それが、盗まれたのだ。

 

 下手人はあの女。悪路が生かすと決めた御門顕明。

 彼女に協力したミッドチルダの面々と、そしてもう一人の裏切り者。

 

 

――なあ、これで意思統一は出来るだろう?

 

 

 にぃと悪童の如き笑みを浮かべた天魔・宿儺は、動揺する五柱の大天魔に向かってそう語った。

 穢土の情報を世界中にばら撒き、御門顕明を逃がし、彼女に穢土の秘宝三つを与えた両面の鬼は、何ら詫びる様子も見せずにそう語ったのだ。

 

 数億年もダラダラと話し合い続けるなど馬鹿かと、こうして敵を明確にしてやればお前らでも纏まるだろう、と。

 

 そう嘯く宿儺の姿に、怒りを覚えぬ天魔は存在しなかった。

 

 だが悪路だけは、宿儺よりも己に対して怒りを向けた。

 自分が反発していなければ、あの悪童が動き出す余地を与えることはなかっただろう。

 

 真っ先に御門顕明を殺していれば、こうも状況が切羽詰まる事はなかったはずだ。

 否、そもそもこの世界の生物など守ろうとしなければ良かったのだと漸くに気付いた。

 

 それこそが、己の為すべきことだったのだ。

 この世に生きる存在は罪深く、殺さなければ救われない。

 

 滅侭滅相。誰も生かして残さない。

 

 誰よりも今の民を信じていた穏健派が、誰よりも今の民を殺さんとする過激派へと変わった瞬間であった。

 

 それでもまだ、心のどこかで信じたいとは願っている。

 穢れ全てを払えば、何時か麗しい者達が戻って来てくれると願いたい。

 

 だから天魔・悪路は誰よりも苛烈で、誰よりも嘆いているのである。

 

 

 

 そして残る失敗。

 これが悪路にとっては、致命的とも言える失態であった。

 

 怒りと憎悪と嘆きを持って虐殺する。

 他の者らが罪悪感を抱かぬように、率先して我が身を汚す。

 

 そんな選択が、望まぬ結果を呼び寄せた。

 

 闇の書より永遠結晶を取り除くこと。

 それに必要なのは、繋がった者の憤怒と憎悪。そしてタイミングを計ること。

 

 それら全てを満たす為には主となった者の身近に潜む必要があるが、悪路が襲撃し過ぎた事がここで響いていた。

 

 どれ程上手く擬態しても気付かれる。

 取り入ることが、悪路では出来なかったのだ。

 

 故に闇の書の前に、姿を現した事のない母禮か紅葉しかいない。

 だが紅葉に子殺しをさせるという真似が出来ず、消去法で母禮がその役を担う事となったのだ。

 

 その役とは身内として友好を結び、そして最後の最後で裏切る事。

 絶望と憤怒と嘆きの中で八神はやてを殺害し、闇の書を覚醒させる事。

 

 主や騎士達を嬲り、心と体の双方を痛め付け、その果てに至らねばならぬのだ。

 

 ……そんな行為を、あの心優しい妹に出来るとは思えない。

 出来たとしても、きっとその心に大きな亀裂を残すだろう。

 

 

 

 今の夜都賀波岐にとって、精神面での動揺は命の危険を伴う。

 心に亀裂が生まれるという結果は、非情に危険な状況を生むのだ。

 

 元より神格とは、実存たる肉体を持たない。

 全平行世界という巨体を、己の魂と感情のみで支えている存在だ。

 

 偽神であり、本来自身の力のみで神格足れない大天魔達では、感情の揺らぎが存在の消滅に直結しかねない。

 

 本来、それに対処出来る存在は別に居る。

 消滅しかけの大天魔を、夜刀ならば修復する事が出来る。

 

 だがその彼が消滅寸前である以上、一度崩壊すれば後はない。

 己の精神に生じた傷が自身の魂を引き裂いて、大天魔が死を迎える。

 

 そんな危険に、愛する者を送ろうとしている。

 愛する妹が、己の生きる理由その物が、そんな危険を冒そうとしている。

 

 彼女自身が望んでいるとは言え、それ以外の選択肢を残せなかったのは、間違いなく己が不手際であったのだ。

 

 

 

 故に悪路に余裕はない。彼は誰より必死なのだ。

 なのに、それを知りながら、この魔女は理に合わぬ指示を出した。

 

 それを見逃す余裕はもう、彼にはない。

 

 

「今此処で答えろ、マレウス。其処に一片の利も見出せぬなら、先ずはお前を供物としよう」

 

 

 主柱の復活に必要な供物。

 夜都賀波岐の七柱とは、その為に必要な贄である。

 

 故に裏切りの兆候があれば、その前に殺害する。

 仲間殺しの汚名すら背負おう。その覚悟が彼にはあった。

 

 

「……全く、そんなことを聞いていたのね」

 

 

 緊迫した空気を変えるかのように肩を竦めて、アンナは己が策謀の一環を語った。

 

 

「ウサギと亀の話、はちょっと違うかな? ……追手がいないと獲物も怠けちゃうでしょう? 時間はそれ程ない訳だし、馬車馬の如く動いてもらわないと。その為に適度な相手が必要だった。それだけよ」

 

「……その言は理解出来なくもない。が、あれらが適当な相手だったと?」

 

「そうよ。目となる者達を潰せば、どれ程強力な手足であっても標的には届かない。寧ろ強力である方が都合が良い。怠ければ終わるとはっきり理解出来るんだもの」

 

 

 そう含み笑いをして答える魔女に、腐毒の王はそれを戯言だなと切って捨てる。

 

 

「論外だ。目など幾らでも替えが効くだろう。そうでなくとも、まぐれ当たりの危険性だって存在する。……お前の論を実践するならば、まずは手足こそを捥ぐべきだった」

 

「それじゃ、緊張感は出ないでしょう? 闘っても勝てる相手を残したんじゃ意味はない。それなりの追手は必要だったのよ。……替えの目だって、そう簡単には用意出来ないんじゃないかしら」

 

 

 ああ言えばこう返す。

 のらりくらりと答えるアンナに、悪路はならばと論点を変える。

 

 否、論点を戻すというべきか。

 元より悪路は、その真意を問い質したい訳ではない。

 

 これはあくまでも釘刺しである。

 彼女の指示に従ってあれらを残したのは、彼女への踏み絵も兼ねているのだ。

 

 

「知っているぞ、マレウス。僕が気付かないとでも思ったか?」

 

「何を、かしら?」

 

「貴様。あの結界が消える瞬間。少女を二人、退避させたな。影を使って、意識を刈り取ることもせずに」

 

 

 己が存在を暴かれるかも知れないリスクを得て、その結果がたった二人の人間の救出。

 

 まるで合理的ではない行動。

 理屈に合わない動き。言動と行動の不一致。

 

 それこそが、アンナ・マリーア・シュヴェーゲリンの歪な点。

 

 

「三人の娘達の一人。三人目があの前線に出ていたメンバーに居たな。……貴様。元よりあの少女の身の安全だけが目的だったのではないか?」

 

「…………」

 

「図星か」

 

 

 顔色は変わっていない。

 だがその饒舌さが失われていることが、何よりも現実を示していた。

 

 アンナは恐れていたのだ。

 前衛たる手足を潰すことで、高町なのはに被害が及ぶことを。

 

 クロノを殺せば、余波でなのはも倒れるかもしれない。

 ユーノを殺そうとすれば、なのはは身を挺して彼を庇うかもしれない。

 

 ごっこ遊びでしかなかったはずの相手に、真実情を持ってしまった。

 だからこそ、沼地の魔女は彼女を傷付ける覚悟が持てないでいる。

 

 そんなアンナの弱さを見抜いて、天魔・悪路は本来の目的を果たす。

 それを伝える為に、態々この場に残っていたのだ。

 

 

「マレウス。僕はお前と宿儺を信用していない。お前達は遊びが過ぎる」

 

 

 これは踏み絵である。これは最後通牒だ。

 

 お前の動揺。迷いが“遊び”であるのならば良い。

 それならばまだ、味方である事を認めよう。

 

 だが、そうでないとするならば……

 

 

「故に示せ。……僕はもうお前の尻拭いなどしない。闇の書完成に差し支えが生じた場合、お前自身の手で収拾を付けろ」

 

 

 天魔・悪路は語る。

 如何なる手段であれ、闇の書の完成を妨害させるなと。

 

 

「アレが邪魔になるなら、お前が殺せ。生かして帰したならば、それを敵対の意志と取る」

 

 

 故にこれは踏み絵であり、そして女に対する秤である。

 あの残した三人が全てを台無しにするならば、そうなる前に対処しろと悪路は冷淡に告げている。

 

 もしも、そんな事すら為さないというならば、その時は――

 

 

「裏切ると言うのなら、その時は覚悟しておけ。マレウス・マレフィカム」

 

 

 言葉を告げると返事も聞かずに、天魔・悪路は海鳴を去った。

 

 

 

 

 

 悪路が消失した直後、アンナは背に体重を移動させる。

 堤防に腰掛けていた赤毛の少女は、背中から砂浜へと落ちた。

 

 大きな音を立てるが、その身には傷一つない。

 砂浜をベッドに倒れ込み、大の字になったまま少女は呟く。

 

 

「……全く、貴方が居ないと纏まりすら付かないわね。私達は」

 

 

 ぼんやりと虚空を眺めながら、小波の音を耳にして思うのはそんなこと。

 

 元より夜都賀波岐は相性の悪い者が多い。

 不倶戴天の敵。因縁を持つ者も少なくはない。

 

 紅葉と常世。

 嘗て子を捨てた親と、そんな親に捨てられた子。

 

 奴奈比売と宿儺。

 男女双方を食い殺した女と、その女の腹を引き裂いて現世に舞い戻った男。

 

 母禮と今は亡き海坊主。

 弟子と師の関係であり、同時に女の兄と姉に殺し合いを強要した怨敵でもある男。

 

 宿儺と大獄。

 絶対的なまでに死生観が異なり、互いをどうしようもない程に嫌悪する両者。

 

 個人個人では仲の良い相手も居ないではないが、同時に怨敵・大敵と言える相手も仲間内に存在している。

 

 嘗ての因縁は清算したとは言っても、それで仲良しこよしに成れる訳ではない。

 誰もが内心に思う所を抱えていて、切っ掛けとなる意見の相違が生まれれば、あっさりと敵対する可能性を秘めている。

 

 そんな彼らが協調出来ていたのは、目的意識と利害関係。

 そして何よりも大きな理由となっていたのが、皆を愛する主柱の存在。

 

 誰もが信頼し、誰もを纏め上げることが出来た主柱。

 彼が居たからこそ、夜都賀波岐は分裂することなくあれたのだ。

 

 故に彼が健在でない今、夜都賀波岐はこうして分裂しつつある。

 

 意見は食い違い。望みは擦れ違い。

 状況次第では、血で血を洗う内乱が起きるであろう。

 

 だからこそ、故にこそ、こう思ってしまうのだ。

 

 

「……貴方に会いたい」

 

 

 それを彼が望んでいないと分かっている。

 

 彼が蘇れば、世界は地獄となる。

 人の世を愛する彼が、そんな事を望まないと知っている。

 

 そして、彼は常に抱きしめていてくれるとも気付いている。

 彼に愛されたこの世界で、共に終われるなら至高と知っている。

 

 それでも、顔を見ることも、声を聞くことすら出来ない

 

 だから――

 

 

「ねぇ、私の名前を呼んでよ。ロートス」

 

 

 狂おしい程に、どうしようもない程に、唯それだけを願っている。

 だからこそ、この世界を肯定しながらも、終わらせる為に動いているのだろう。

 

 一筋の滴が砂浜に落ち、少女は影に飲まれて姿を消した。

 

 

 

 

 

 




夜勤明けで頭回ってない中投稿。なのでその内大幅修正するかも知れない今回です。


今話でシグナム。リンディ。エイミィ。マリエル。アースラクルーが全滅しました。

クロノ君が暴走状態です。
ユーノ君が足手纏い病を再発しそうです。
アンナちゃんも屑兄さんに追い詰められました。

暫くはこんなノリで進んでいくと思います。

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