リリカルなのはVS夜都賀波岐   作:天狗道の射干

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今回は鬱回。(多分、割と分類が分からぬ)


推奨BGM
1.AHIH ASHR AHIH(Dies irae)
2.To The Real(リリカルなのは)
3.AHIH ASHR AHIH(Dies irae)


第九話 擦れていく日常

1.

 何処に行きたいかと問い掛けて、行きたい場所を語られる。

 

 

「貴方の大切な場所」

 

 

 微笑む少女が口にしたのは、そんな言葉。

 

 

「貴方が得た刹那。日常の中で掴んだ輝き」

 

 

 少年が愛した世界を。その過ごして来た日常を。

 

 

「それを見てみたい。それに触れてみたいんだ」

 

 

 共に触れ合って見たいと言う、そんな些細な少女の願いは――

 

 

「それじゃぁ、まずは――」

 

 

 ノイズが走り、叶う事無く費えて消える。

 思い浮かべた筈の光景は、雑音交じりの砂嵐の中へと消えて行った。

 

 

「あ」

 

 

 流入してくる記憶の中に、擦れて消えていく確かな想い出。

 崩れ落ちていく大切だった光景。確かにあった筈な、失いたくない刹那の輝き。

 

 思い出せない。

 それが何一つとして、思い出せなかった。

 

 

「……っ」

 

 

 それは当然の話。家族の名前すら思い出せない少年が支払った代償を思えば、予想してしかるべき結果と言えよう。

 

 大切な人々の事さえ碌に覚えていないのに、どうして思い出の場所を覚えていられるだろうか。

 

 差し出した手を力なく下ろして、その拳を握り締める。

 自分は何処へも行けない。何処かへ連れていくことさえ出来ない。

 

 今居る場所の地名すら分からない己に、一体何を見せる事が出来るのであろうか。

 

 

「トーマ」

 

 

 そんな冷たい現実に歯を食い縛って耐えるトーマの手を、白魚の様な指先が触れる。傍らに寄り添う少女は、震える拳を優しく包んだ。

 

 

「リリィ」

 

「大丈夫」

 

 

 包む掌の温かさが、その想いを伝えて来る。

 

 

「私は知っている。貴方の生きた道筋を」

 

 

 触れ合う肌の温もりが、その想いを伝えて来る。

 震える少年の恐怖を解き解す様に、その優しい想いを伝えるのだ。

 

 

「私は知っている。貴方が過ごした日常を」

 

 

 例えトーマが覚えていなくとも、彼を見詰めていた白百合が覚えている。

 その日常を、彼が過ごした景色の色を、確かに少女は見て覚えていた。

 

 

「だから、その場所へ行こう?」

 

 

 その場所を共に歩こう。その思い出を共に振り返ろう。

 

 

「忘れてしまったなら、思い出していこう」

 

 

 アルバムを見て過去を振り返る様に。

 日記に記された記録を読み耽る様に。

 

 

「一つ。一つ。確かな思い出を、一緒になぞって歩いて行こう」

 

 

 忘れてしまった懐かしい話題を、思い出す為に語り合おう。

 一つ。一つ。振り返っていけば、思い出せる物はきっとある。

 

 未だ消えていない思い出も、流入した記憶に埋もれてしまった思い出も、きっと思い出せる筈だから。

 

 

「……でも」

 

「不安?」

 

 

 それで思い出せるのであろうか。

 そんな事で、流されてしまった記憶が戻って来るのであろうか。

 

 大切だった筈の光景を見て、本当に何も感じる事が出来なかったとしたら――その時自分は、前に進む事が出来るのであろうか。

 

 

「大丈夫だよ。トーマ」

 

 

 そんな風に考えて震える少年に向かって、白百合は優しく微笑んだ。

 

 

「私が傍に居るから」

 

 

 触れ合う手は離さない。

 確かな今の輝きがあるから、失われた物を取り戻す為に進めるのであろう。

 

 微笑む少女の姿に影を重ねながら、トーマは静かに頷いた。

 

 

 

 二人は手を繋いで、クラナガンの街を進んでいく。

 電車やバス。公共の交通機関を利用して街中を歩き回る。

 

 そうして、白百合に導かれたトーマはその場所に辿り着いた。

 

 

「ここは」

 

 

 頭上に表示される電子版の案内に従って、忙しなく行き交う人の群れ。

 待合所の椅子に座る人々は、着陸した飛行機から降りて来る待ち人へと笑顔を向けている。

 

 

「ここは、仕事帰りのお父さんを待っていた空港」

 

 

 臨海第八空港。そんな空の港へと、二人の子供はやって来た。

 

 

「見て」

 

 

 リリィが手にした葉書サイズの小さなバインダー。

 それは僅かな異変に気付いた彼の先生が、リリィに対して渡した物。

 

 

「これ、……この空港の入り口の写真?」

 

 

 其処に映るのは、白髪が混じった銀髪の男と青い髪を後頭部で纏めた女。

 そんな二人に挟まれて、はにかむ様な笑顔を浮かべた子供が居た。

 

 ザ、ザと砂嵐が渦巻く。

 脳裏にノイズ塗れの思い出が過る。

 

 

「そう、だ。……僕は」

 

 

 日勤夜勤を混ぜながら当直勤務をしていたゲンヤ・ナカジマ。

 そんな形で家を空ける事が多かった父に、トーマは最初人見知りばかりしていた。

 

 母の足元に隠れて怯えて、そんな子供にどうして良いか分からず男は顔を渋くする。

 そんな二人の姿に「家の男どもはダメダメね」と苦笑した母が二人を無理矢理に引き寄せた。

 

 

――体調はどうだ。学校は大変か。

 

 

 そんな慣れない子供に掛けるテンプレートな言葉に、おっかなびっくり言葉を返す。

 

 何を言ったかは覚えていない。

 大した事ではなかった事は確かで、そんな言葉に父はそうかと口にして。

 

 

――なら、良かった。

 

 

 慣れない手付きで頭を撫でた。

 その動きは乱暴で、御世辞にも心地良いとは思えなかった物だけれど。

 

 

「……父、さん」

 

 

 確かな温かさを感じた事を――思い出していた。

 思い出した光景の温かさに、一筋の熱が頬を伝う。

 

 そうして暫し立ち尽くした後、白百合の乙女は笑みを浮かべてその手を引く。

 

 

「次、行こう」

 

 

 足取り軽く歩く少女に導かれ、トーマは己の記憶を辿る。

 ミッドチルダの北部から東部へと、辿り着いたのは子供に人気を博した遊園地。

 

 

「パークロード。トーマのお母さんと一緒に、良く来たよね」

 

 

 写真に写るのは、青髪の女性に振り回されてる子供の姿。

 未だ家族になって直ぐの頃、全くと言って良い程に笑わない子供を心配して母親が連れ出した場所。

 

 

――よっし、今日は目一杯遊ぶわよ!

 

 

 絶叫マシンやお化け屋敷。体感型のアトラクションなどを回って遊んだ。

 何だかんだで連れて来た母が一番楽しんでいた遊園地。その当時は、まだ楽しいとか嬉しいとか、そんな感情が良く分からなかったけれど。

 

 

――何だ、良い顔で笑える様になったじゃないの。

 

 

 笑顔で楽しむ人の姿から、その時間が楽しいのだと学んだのだ。

 だから自然と表情は綻んで、無感動だった少年は楽しさを確かな己に刻み込んだ。

 

 

「母さん」

 

 

 忘れていた。そんな大切な事さえ忘れていた。

 

 もう忘れたくはない。この大切さを失くしたくはない。

 だから心に刻む様に、その写真を、その光景を、強く強く見続けた。

 

 

 

 パークロードからそう遠くない場所へと向かう。

 

 森の中にある小さなお店。

 其処から少し離れた場所にある、木漏れ日の差し込む湖のほとり。

 

 

「ここは、先生の家の近くにある森の中」

 

 

 手や膝は擦り剥けて、ボロボロになった子供が映る写真。

 疲労の濃い顔をしているが、反対に目はまるで星空の如く、きらきらと美しく輝いている。

 

 

――大丈夫。誰でも最初は出来ないのが当たり前なんだから。

 

 

 思い出す光景は、涙交じりに出来の悪さを嘆く姿。

 上手く出来ない事を恥じ入る己の頭を優しく撫でて、出来る様になるまで何時までも付き合ってくれた人が居た。

 

 

――ほら、さっきよりも良くなった。この調子で、一歩一歩進んで行こう。

 

 

 拳の振り方。身体の動かし方。教わった事はそれだけじゃない。

 キャンプやサバイバル。森の中での生活をしながら、命と直に触れ合って過ごした。

 

 

「父さん。母さん。先生」

 

 

 思い出した。思い出した。思い出した。

 溢れ出る想いが滴となって、頬を伝って流れ落ちていく。

 

 確かに大切な思い出は、この胸の中から溢れ出している。

 

 

「ここは、変人だけど面白いドクターが居た病院」

 

 

 ジェイル・スカリエッティが楽しげに笑う。

 道化を気取る彼と共に、先生やウーノさん相手に悪戯をして遊んだ記憶を思い出す。

 

 

「ここは、厳しいけど優しいレジアスおじさんが仕事をしている地上本部」

 

 

 何時もしかめっ面ばかりしているレジアスおじさん。

 母曰く父親の様な人。なら僕にとってはおじいちゃんだろうか。

 そう問い掛けた時の、苛立っている様な、嬉しそうな、そんな複雑そうな表情を思い出す。

 

 思い出す。思い出す。思い出せる。

 

 失くした記憶。流された記憶。

 神の力に押し潰された、零れ落ちた欠片達。

 

 だけどそれは、確かなトーマの記憶。

 トーマだけが持つ、彼が知らない日常の景色。

 

 

――両親であろうと何であろうと、顔も知らない人間の死を悲しむ事は出来ない。……それは薄情とか冷血とかいう問題じゃなくて、人間の心理……だと思う。

 

 

 嘗て人として生きた頃、彼はそう語った。

 神は二親を知らないのだ。ならば彼らに愛された記憶が、塗り替えられる事はない。

 

 膨大な量と質に押し潰されて、何処にあるのか分からなくなってしまったとしても、それでも心の何処かには確かに残っているのだ。

 

 だから、きっかけさえあれば甦る。

 何度忘れようとも、何度見失おうとも、何度だって思い出せる。

 

 

――ほら、何だっけか。お前の名言あったじゃん

 

 

 脳裏に走るノイズ。

 思い出そうとする思考を遮る様に、垣間見える幻想を振り払って思い出す。

 

 

――戻って来るモノに価値はない、か。

 

 

 取り戻そうと言う行為に意味はない。そこに嘗ての価値はない。

 そう告げる様にノイズは大きくなっていき、それでもと感じる想いも膨れ上がっていく。

 

 

――おお、それそれ。結構真理ついてると俺は思うぜ。百円落としてもまた拾う事はあるけどよ。百万落としたらそうは拾わねぇよ。そんな大金。

 

 

 幻影の中の親友が語る。

 今の自分の行いは、百円を拾い集めて支払った百万を取り戻そうとする行いだと。

 

 

――絶対それ、元の百万じゃねぇだろうに。

 

 

 思い出を取り戻せても、その時に抱いた想いは戻らない。

 確かに大切だと今感じる想いと、その時感じていた大切だと言う想いは、きっと違う物なのだろう。

 

 そうだとしても、そうと分かっても――

 

 

――掛け替えがないって事は、替えが効かないって事だクソ馬鹿!

 

 

 それでも、望んでしまうのはいけない事だろうか。

 

 

――大切なモノと釣り合う天秤なんかないんだよ! 大切なモノと比べちまえば、どれもこれもゴミだろうがっ!

 

 

 思い出した記憶は嘗ての黄金とは違っていても、それでもきっとゴミではない。

 ()()()()()()()()()は間違っているのかも知れない。

 

 

――ゴミを寄せ集めても、ゴミの山にしかならねぇ。黄金になんてなる訳ないんだ!

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 思い出せたから、取り戻したい。

 もう忘れたくないから、抱きしめた物を取り零したくはない。

 

 

――ゴミと釣り合うなら、それはゴミだ。戻って来るモノなんて、唯一無二じゃねぇ安物だろうが。自分の宝石の価値を、自分で貶めてるんじゃねぇ!

 

 

 戻って来るモノに価値はないのかも知れない。――けど、新たに得たモノまで無価値だろうか。

 

 この行動は大切な価値を貶めているのかも知れない。――けど、そうして拾い上げたモノは唯のゴミでしかないのだろうか。

 

 神の残照が語る言葉に振り回されて、それでも思い出したいと願ってしまうから。

 

 トーマはリリィと共に歩み続ける。

 

 

 

「ここは、おまけしてくれるお店が一杯の商店街」

 

 

 写真を巡る。

 記録に残った足跡を辿って、失くした想いを記憶に変えていく。

 

 これは日常の光景。忘れてしまった光景を、当たり前の日常へとはめ込んでいく。

 大切な記憶を辿って、時折混じるノイズを跳ね除けて、トーマはリリィと共に時間を過ごす。

 

 

「ここは、パンケーキが美味しいレストラン」

 

 

 時計は正午を大幅に過ぎていて、丁度良いからとリリィと一緒に昼食をとる。少女が頼むのは、お店自慢のパンケーキセット。

 

 一瞬、影が重なる。特大サイズのパフェを前に、悪戦苦闘する二人の女の影が映る。

 

 瞳を閉じて首を振る。

 彼女はリリィだ。■■■ではない。

 

 その甘い匂いに眉を顰めながら、苦い珈琲を口に含んだ。

 思い出した師の味に劣るソレに不満を感じながらも、思い出せた味に心を弾ませる。

 

 記憶の流入に慣れて来る。

 思い出した記憶が消えない事実に安堵する。

 

 だからもう大丈夫だろうと、何処かで思ってしまったのかも知れない。

 流れ込んでくる記憶に抗えると、何処かで思い込んでしまったのかも知れない。

 

 

「そしてここが」

 

 

 故に、それは必然と言うべき結末であろう。

 

 

「陸士訓練校に入る前、トーマが過ごした学校」

 

 

 新設されて未だ然程も建っていない校舎。

 それを見た瞬間に、これまでで最大級のノイズが脳裏に走った。

 

 

「トーマッ!?」

 

 

 衝動に駆られて、脇目も振らずに走り出す。

 止める呼び声にすら気付かずに全力で階段を駆け上り、そして屋上へと躍り出た。

 

 

――もう! 遅いよ!

 

 

 そんな声が聞こえる。

 屋上に居て、笑い合う皆の姿が其処に見えた。

 

 

――ったく、お前が遅いから、先に始めちまったぜ。

 

 

 それは今までのノイズとは違う。

 確かにあった事実ではなく、彼が望み続けた一つの景色。

 

 

――遊佐君ったら、お酒を持ってきてるのよ。綾瀬さんもノっちゃってるし、どうにかしてくれないかしら。

 

 

 何時か何処かで約束した。

 全部終わったら、打ち上げでもしようと言う細やかな思い出。

 

 

――と言いつつ、何気に酒を飲んでいる櫻井さんである。まる。

 

 

 笑いながら騒ぎ立てる何時かのメンツ。

 再会を祈って、されどもう一度出会えた時には――もう全てが終わってしまっていた。

 

 

「あ」

 

 

 太陽の女が笑っている。

 月の如く寄り添い続けた発起人は、その打ち上げを誰よりも楽しんでいる。

 

 自滅を促す悪友は笑う。連れ合う女とグラスを交わして、何時かのメンツで騒ぎ立てる今を楽しんでいる。

 

 

「あ、あぁ」

 

 

 紅蓮の女は呆れ交じりに、それでもきっと嫌そうにはしていなかった。

 素直になれない彼女は輪の中から外れて、チビチビと飲みながらも近くに居る。

 

 生贄の娘が見せるのは、何時もの独特な反応。

 己の運命に諦めていた女はその宿業から解放されて、感じる今を確かに大切にしている。

 

 

――ねぇ、愛しい人(モン・シェリ)

 

 

 傍らには、寄り添う彼女。

 霞んだ記憶に映る黄昏の幻影。

 

 

――そんな、果たされなかった約束を幻視した。

 

「あぁぁぁぁぁぁっ!?」

 

 

 胸を付く想いは止めどなく、溢れ出した記憶が全てを塗り潰していく。

 

 黄昏に抱かれた世界の果てで、何時かはと訪れる瞬間を待ち続けた。

 何時までも、何時までも、その日を楽しみに待ち続けて、結局叶わずに終わってしまった。

 

 故にその感情は余りにも重い。

 故にその記憶は、何よりも重いのだ。

 

 

「僕は――」

 

 

 トーマの全てが塗り潰されていく。

 余りにも重い感情に抗う事など出来ず、少年は意識を失った。

 

 

 

 

 

2.

 広い六課の隊舎内。二人の少女が共に歩いていた。

 先頭を行く紫色はルーテシア。その背に続く桃色はキャロ。グランガイツ姉妹である。

 

 

「ったく、あの子。何処に行ったのよ」

 

 

 周囲を見て回りながらに、ルーテシアは愚痴を零す。

 緊急の任務に対する待機時間中とは言え、子供の相手を任されたのは不満があったのだ。

 

 

「六課広すぎワロエナイ。此処でかくれんぼがしたいとか、子供かっ!? ……子供か」

 

 

 その上、その子供。ヴィヴィオ・バニングスが望んだのは六課内でのかくれんぼだ。

 断ろうとしたり違う遊びを進めても泣き出しそうになる小さな子供に、仕方がないと付き合う辺りやはり善人なのだろう。

 

 そんなルーテシアは自分で言って自分に突っ込みながら、キャロの手を引いて六課内を進んで行く。

 

 

「ってか、キャロも探しなさいよ。鬼は私だけど、アンタも直ぐに見つかったんだからね」

 

 

 じゃんけんで負けたのはルーテシア。それ故に鬼になった彼女は、先ず真っ先にキャロを見付けた。

 何しろ長い付き合いの姉妹である。何を考えているか、何処に隠れようとするかは手に取る様に分かった訳だ。

 

 その反面まるで見つからないヴィヴィオの姿に、ヤキモキしながらルーテシアは手伝えと促した。

 

 

「う、うん。……だけどさ、ルーちゃん」

 

 

 そんな姉妹の言葉に頷いて、だけどとキャロは口にする。

 俯き加減の少女が口にした声は、彼女らしい自信なさそうな言葉であった。

 

 

「私達、こんな事してて良いのかな?」

 

 

 緊急の任務に対する待機時間。緊急事態がないならば、それは特に動きがないのと変わらない。

 何もしていないと言う事実に、キャロは引け目を感じているのだ。何しろ深い関係にあるスターズ分隊が、一言では言い表せない状況となっているのだから。

 

 

「トーマさんもティアナも頑張ってるのに、私達だけヴィヴィオちゃんと遊んでばかりで――」

 

「隊長も言ってたでしょ? 私達に出来る事はないってさ」

 

 

 ネガティブな発言をするキャロの言葉を、ルーテシアはバッサリと切り捨てる。

 グランガイツ姉妹に出来る事はない。ティアナに手を差し伸べる役者としては年齢不足で、トーマに至っては顔を合わせる事も出来ていない。だから出来る事はないのだと、ルーテシアは言われた通りに割り切っていた。

 

 

「待っていて上げなさいって言われたのよ。だったら、待っていてあげようじゃない」

 

 

 割り切った上で、ルーテシアはそう判断する。

 

 分隊ごとの作戦行動よりも、四人一緒の訓練時間の方が長かった。だからこそ分隊よりも思い入れは強くある。

 そんな風に感じるからこそ帰る場所となる事で、待っていれば良いのである。大切だからこそ、待つと言う選択が必要なのだ。

 

 

「それに、スターズが上手く動いてない所為で任務が多く回わって来る事になったんだから、休日くらい多くして貰わないと割に合わないっての。それなのに子供の世話って、あの堅物隊長め」

 

「ル、ルーちゃん」

 

 

 待つと決めつつも、きっちりと面倒事への恨みは口にする。彼らが復帰した暁には、奢りの一度や二度では済ませない。

 そう暗く笑うルーテシアの様子に引き攣った笑みを浮かべて、キャロは一歩距離を取るのであった。

 

 

 

 それにルーテシアの理由はそれだけでもない。

 待っているだけではなくて、もう一つ理由があるから子供の遊びに付き合っているのである。

 

 

「ま、それにさ。子供だもん。友達の一人はいないと寂しいじゃない?」

 

 

 ヴィヴィオは幼いが、その素性が未だ分かり切ってはいない。

 そして分かった事だけでも、無視する事は出来ない情報ばかりであった。

 

 故にまず間違いなく、この六課から外に出る事は出来ないだろう。

 ましてや同年代の友人を作る事など不可能だ。だから年が少し離れているが、自分が友となるのである。

 

 

「……そっか、そうだよね」

 

 

 そんなルーテシアの言葉に、キャロは確かにと賛同した。

 待つしか出来ない現状ならば、出来る事からやっていこう。

 

 一先ずは寂しい想いをしているだろう小さな子供。その子と友達になる事からなのだ。

 

 

「ヴィヴィオは私達より、小さいんだもん。なら、お姉さんとして、友達として、もっとちゃんとしないと」

 

「……キャロがお姉さん。ふっ」

 

「あー! ルーちゃん鼻で笑った! 私より年下なのにっ!」

 

「私がお姉ちゃんよ! 精神年齢が二人とは違うわー!」

 

 

 小さな掌を握って口にするキャロを、ルーテシアが鼻で笑う。

 姦しい遣り取りを続けながらに、グランガイツ姉妹は何処かに隠れたヴィヴィオを探し続けるのだった。

 

 

 

 

 

 一方かくれんぼをしていたヴィヴィオは、ふと聞き慣れない声を耳にして動き始めた。

 隠れた場所から抜け出して、既に遊びの内容を忘れた子供は壁に隠れて聞き耳立てる。気分はちょっとしたスパイである。

 

 

〈ロッサ。六課にはもう慣れた?〉

 

「ん。まあ昔馴染みも多いからね。カリムが心配する程の事でもないさ」

 

 

 人通りの少ない通路の端で、デバイス越しに通信を行っている緑髪の男性。

 白いスーツ姿の若い男は、ヴィヴィオが偶に見掛ける人物。機動六課に所属している査察官だ。

 

 その男。ヴェロッサ・アコースは秘匿回線を使って、自らの姉へと連絡を取っていた。

 

 

〈それは良かった。ロッサの役割を考えると、色々と無理をさせてしまっているから〉

 

「だから気を回し過ぎさ」

 

 

 会話口に立つのはカリム・グラシア。次期教皇と見做されていた人物だが、幾つかの事情によって見送られた人物だ。

 そしてこの男。ヴェロッサ・アコースにとっては血の繋がらない姉であり――そして何よりも大切な人でもあった。

 

 心配する姉に、苦笑交じりに返す弟。

 そうとしか見られていないと自覚しながらに、ヴェロッサは一つどうしても口にしたい言葉を口にしようとした。

 

 

「それよりさ、スカリエッティの脳を浚ってみた時に分かったんだけどね。医療魔法技術、また進展したらしいよ」

 

〈ロッサ〉

 

 

 その先に何を言う気なのか、予想が付いたカリムは止める為に義弟の名を呼ぶ。

 名を呼ばれて、止められていると気付いて、それでもヴェロッサはその言葉を口にした。

 

 

「だからさ、カリムの背中の傷も今なら――」

 

〈何度も言うけど。良いのよ。ロッサ〉

 

「良くないっ!」

 

 

 何度も言われた否定の言葉。それに対して、こうして反抗したのはこれが初めてだった。

 驚きで目を見開くカリムの姿に、気不味さを感じながらもヴェロッサは己の思いを口にするのだった。

 

 

「僕の所為だ。カリムが傷を負ったのは、僕の所為だ!」

 

 

 嘗て、ヴェロッサは許されない事をした。他の誰が許しても、彼自身が許せない事をしたのだ。

 その自責。その悔恨。それが今になって噴き出したのは、先に言った医療技術の発展も理由の一つであろう。

 

 だがそれ以上に強い理由は、カリムが出世コースを外れたからだった。

 その理由の一端を担ったのが自分だとつい先日になって知って、だからこそ彼の自責は強くなったのだ。

 

 

「あの傷が原因で、カリムは婚約破棄されたんだろ! 背中に酷い火傷があるからって、結婚が上手く行ってたら今頃は聖王教会の教皇にもなれたのに――」

 

 

 カリム・グラシアには婚約者が居た。両家の子弟、それも次期教皇候補の女である。婚約者の一人も居ない方が不思議であろう。

 その男の家は聖王教会でも歴史ある家系であり、その婚姻を以ってカリムは教会の頂点に立つと言う話が内々に決まっていたのである。

 

 だが、その男がカリムの傷を知り、それ故に女を拒絶した。余りに醜い背中の傷に、これは無理だと漏らしたのだ。

 

 

〈これで良かったのよ。ロッサ。私は傷の一つで想いを変える殿方を愛せないわ〉

 

 

 グラシア家より相手の家柄の方が高い事も相まって、一方的に破断に持ち込まれた。

 家と家の繋がりが険悪な物になった事でグラシア家は、名家としての力を僅かに衰えさせた。

 またカリムが管理局に手を出し過ぎている事も今更ながらに問題として提議され、教皇就任の話は一先ず流されたのであった。

 

 姉の出世と婚姻の邪魔をして、恩のある家に害を為した。

 そう思うヴェロッサはだからこそ自責している。だからこそ、その傷を消して欲しいと頼むのだ。

 

 だがカリムはそんな義弟を優しく見詰めたまま、静かに首を振る事で答えとした。

 

 

〈それにね。此れは貴方との絆みたいな物。だから、このままで良いのよ〉

 

「カリム」

 

 

 カリム・グラシアは、その傷を嫌っていない。その傷があったからこそと、受け入れてすらいる。

 だからこそヴェロッサには何も言えない。如何にかしたいと願っても、本人が望んでいない限りは、彼の自己満足にしかならないのだから。

 

 

〈ロッサ。もう時期貴方達に仕事を頼むかもしれないわ。……多分、貴方達じゃないと出来ないから〉

 

「……分かった。また連絡する」

 

 

 あからさまに話題を変えた姉に、弟は力なく頷いた。

 そうしてデバイスのボタンを押す。通話状態を解除したヴェロッサは、天を仰いで溜息を吐いた。

 

 

「くそっ」

 

 

 上手くいかない。そのやるせなさを口にして、右手を強く握り絞める。食い込んだ爪が肉を傷付け、ほんの僅かな血が零れ落ちて行った。そんなヴェロッサの直ぐ傍に、小さな影が近付いていく。

 

 

「……痛くない?」

 

「っ!?」

 

 

 急に声を掛けられて、ヴェロッサは慌てて振り返る。振り向いた視線の先には、小さな金髪少女の姿。

 ヴェロッサの直ぐ傍に近付いていたヴィヴィオ・バニングスが首を傾げていた。

 

 

「っと、大丈夫だよ。大した傷じゃないさ。……って、なんというか、恥ずかしいね」

 

 

 聞かれていたのだろうか。だとしても子供で良かった。そう安堵の息を吐いたヴェロッサは、何処か恥ずかしげに笑う。

 常の飄々とした態度を浮かべようとしているが、先の遣り取りが響いていたのか失敗していた。

 

 

「いまの人、だれ?」

 

「カリム・グラシア。僕の姉さんで、命の恩人でもある女性だよ」

 

「背中に、傷あるの? あなたのせい?」

 

「……聞かれてたか。まあ、うん。そうだよ」

 

 

 そんなヴェロッサに、ヴィヴィオは疑問に思った事を問い掛ける。

 矢継ぎ早に聞かれる好奇心故の質問に溜息を吐きながら、良い機会かとヴェロッサはその胸中を明かしていた。

 

 

「僕はさ、昔からレアスキルを二つも持ってた。この今の時代において、そんな子供は随分と貴重だったんだ」

 

「?」

 

「ま、簡単に言えば、珍しいから必要とされた。……実の両親を殺してでも、ね」

 

 

 子供に聞かせる事ではない。だが子供だからこそ、理解される事もないだろう。

 独り言を呟く様に、ヴェロッサはもう遠く感じる過去を思い出しながらに独白し始めた。

 

 

「んで、人の心を覗ける僕はその事が簡単に分かってしまった」

 

 

 アコースの両親は、ヴェロッサが幼い頃に他界している。

 全てはヴェロッサが貴重なレアスキルを持って生まれたから、そしてそんなヴェロッサを引き取りたいと申し出た相手の悉くを拒絶したからだ。

 

 故に邪魔と目された夫妻は、当たり前の様に排除された。

 そうして一人残された子供は、里親希望者の間を盥回しにされたのだ。

 

 

「だから、利益の為に気持ち悪いと思いながらも近付いて来る他人が、両親を殺した連中が、どうしようもなく嫌いだった」

 

 

 引き取り先は、大体がレアスキルを用いて利益を得ようとする者達だった。

 犯罪に手を染めてまで回収しようとする輩だ。その悪事は一つ二つと言う規模ではない。

 ヴェロッサの思考捜査と言う脳内を覗くレアスキル。それを以ってすれば隠した事実を公にするなど余りにも容易かった。

 

「どうしようもない子供だったのさ。嫌いだから、嫌ってる相手の醜い所を暴いて晒して、もう二度と近付いて来れない様にしようってさ」

 

 

 少年を引き取った里親は、必ず悪事を暴かれ破滅する。

 そんな事態が数回に渡って続けば、如何に貴重なレアスキル所持者でも敬遠される。

 

 そうして望んだ通りに一人になった子供はしかし、それでも引き取ろうとしてくる善人達に出会ったのだ。

 

 

「そうして引き取り手が次々と減っていく中で、僕はカリム。姉さんのグラシア家に引き取られた」

 

 

 孤児院に居たヴェロッサに、話を持ち掛けたのはグラシア家。聖王教会でも名家とされる家系である。

 どの道何処に居ても誰も信用できないから、ヴェロッサはその家に引き取られる事にした。アコースの家名を残す事を条件に、どうせ何時か馬脚を晒すと冷めた瞳で見詰めながら。

 

 

「心を読んだ時、グラシア家の人達は今までとは何処か違っていた。でも所詮見せかけだけだって、僕は思い込んでいた」

 

 

 グラシア家は、今までとは違った。ヴェロッサのレアスキルを、無理に使わせようとはしなかった。

 望んだ時に、望んだ事の為に使えば良い。そう語る温かい家庭を前にして、しかし凍った心は溶けずに冷めていた。

 

 

「だから外出を禁じられた時、また軟禁されるのかもって反発して屋敷を抜け出した――あの人達は、僕の為に言っていたと言うのにね」

 

 

 ある日一日、外出の禁止を申し付けられた。その時になってやはりかと、やはりこの家でも軟禁されるのかと考えた。

 なまじ僅かに情を感じ始めていた事が故であろう。凍った心に痛みを感じながらも、少年は家を抜け出し泣きながら逃げた。

 

 それが勘違いだったのだと、知る事さえしなかったのだ。

 

 

「その日はさ、天魔が襲来する日だったんだ。聖王教会のある北部は戦地から離れていたけど、影響がない訳じゃなかったんだ」

 

 

 天魔が来る日だから、決して外に出ないで隠れている様に。

 そんな思い遣りすら勘違いして、逃げ出したヴェロッサには当然の如く罰が当たった。

 

 

「現れたのは天魔・母禮。その炎は抜け出した僕が居た場所まで、届いて来た」

 

 

 焦熱地獄の炎がミッドチルダを包み込み、極北にあったベルカ自治領にまで届いた。

 その熱は中心部からすれば火の粉にすら劣る小さな欠片に過ぎないが、人を焼き殺すには十分過ぎる炎であった。

 

 グラシアの屋敷を抜け出して、中心区へと向かっていた当時のヴェロッサ。少年は当然の如く、その炎に襲われた。

 

 

「飲まれる。そう思った瞬間に、気付いたら誰かに抱きしめられていた」

 

 

 もう死ぬのだ。そう理解した瞬間に、炎ではない熱を感じた。

 気付けば大地に倒れていて、柔らかい感触が自分の身体を包んでいた。

 

 抱き締めて微笑む金髪の少女。その背には、余りにも醜い傷痕が刻まれたのだ。

 

 

「倒れた僕を、気遣う姉さんの姿。その背中には、治らない火傷が刻まれたんだ」

 

「だから、ぼくのせい?」

 

「そうさ。言い訳出来ないレベルで、僕はカリムに恩がある訳。……って、僕は一体、子供に何を言ってるんだろう」

 

「?」

 

 

 それがヴェロッサの背負う十字架。あの日以来、義姉の為に生きると心に決めた。

 そんな感情を此処に口にして、今更ながらに子供に何を言っているのかと自嘲した。

 

 

「何だろうね。この話しやすさ。……あの方のクローンとしての人徳なのか、それともこれが“反天使の対を為す者”としての資質なのか」

 

 

 何処かおかしい。どうして誰にも言った事のない秘密を口にしたのか。気の迷いだけでは説明できない。

 何か誘導された様な感覚を感じながら、これがこの少女の力なのかとヴェロッサは思考する。

 

 ヴィヴィオ・バニングス。

 先ず間違いなく聖王オリヴィエのクローンであり、そして――

 

 

「なまえ」

 

「ん?」

 

「なまえ、おしえて」

 

 

 思考を纏めようとしていたヴェロッサのスーツの裾を手で引いて、ヴィヴィオが顔を見上げている。

 言葉を返さないヴェロッサに対して何処か不満そうな少女の顔に、男は肩を竦めてから己の名を名乗った。

 

 

「ヴェロッサ。ヴェロッサ・アコースさ」

 

「ヴィヴィオ。ヴィヴィオ・バニングス」

 

 

 名乗るヴェロッサに、同じくヴィヴィオは名乗りを返す。

 バニングスと言う名を誇らしげに言う子供に、ヴェロッサはクスリと微笑んだ。

 

 そんな微笑むヴェロッサの前で、ぴょんぴょんと小さな子供が跳ねる。

 その手を男の頭に届かせようと、何処か必死に飛び跳ねるヴィヴィオにヴェロッサは問い掛けた。

 

 

「……この手は一体、何かな?」

 

「がんばってる人は、いいこだって、アリサママ、いってたの」

 

 

 届かないと諦めたのか、今度は右手にその手で触れた。

 流れる血に汚れる事も気にせずに、ヴィヴィオは小さな手で優しく撫でる。

 

 

「ヴェロッサは、おねえちゃんの役にたちたい。そのためにがんばってるから、いい子」

 

「……うん。気持ちだけ、受け取っておくよ」

 

 

 子供っぽい理屈で、そんな風に褒められる。

 良い年をした男はそれに気恥ずかしさを感じながら、苦笑と共にハンカチを差し出した。

 

 しかしヴィヴィオは首を傾げて、ハンカチを受け取らずに手に着いた血を舐めてしまう。

 そんな子供の仕草に下手をしたら病気になっているぞと、ヴェロッサは頭を抱えながらにその小さな手を無理矢理拭くのであった。

 

 

「しかし、ま、そうだね。やってしまった物はしょうがない。今後役に立てる様に、もう少し頑張っていこうか」

 

 

 小さな子供の頭を軽く撫でながら、ヴェロッサはそう口にする。

 やってしまった事は変えられない。だからこそ、その分これから変えていこう。そう決意した男の表情は何処か、晴れ晴れとした色をしていた。

 

 

 

 カリム・グラシア。未来を見る瞳は、背中に酷い火傷を持つ。

 果たしてこの情報が、何か意味を持つ日が来るのか。それは未だ誰も分からない。

 

 

 

 

 

3.

 ゆっくりと覚醒する。

 意識を取り戻した彼が、まず最初に見たのは彼女の笑顔。

 

 

「おはよう。マリィ」

 

 

 膝枕する少女へと優しく声を掛ける。

 されど帰って来たのは、悲しげな色に染まった儚い笑み。

 

 何故そんな顔をしているのか、誰かがそんな想いをさせたと言うのか。

 

 考えただけで頭が沸騰した。

 どうにかしようと、血気に逸って。

 

 

「どうしたんだ。何かされたのか、だったら俺が――」

 

「……私は、マリィじゃないよ」

 

「…………」

 

 

 そんな言葉で、正気に戻った。

 

 

「そう、だった」

 

 

 儚げに微笑む少女は黄昏とは異なる。

 その髪の色は彼女の黄金よりも白に近く、目の色も若干暗い色をしている。

 

 彼女はリリィだ。マリィではない。

 黄昏の女神ではなく、白百合の乙女であるのだ。

 

 それを確かに認識して、今日一日の記憶を想起した。

 

 

「確か、今日は」

 

 

 思い出す情景。交わした言葉。

 過ごした刹那を思い出しながら、楽しげに笑って口にする。

 

 

「諏訪原タワーに登ったんだったな。それで、望遠鏡にリリィが驚いて。……ああ、そうだ。その後は特大パフェを食べたんだよ。香純の奴、時間制限オーバーして金がないって、全く馬鹿だよな。バカスミだ」

 

「……違うよ。今日行った場所は、そこじゃない。食べた物も、それじゃない」

 

 

 それは塗り替えられた記憶。

 壊れた少年の思い出は、形骸だけを残して中身がすり替えられていた。

 

 

「…………」

 

 

 それを理解して、少年は沈黙する。

 

 

「…………」

 

 

 思い出せない。思い出せない。思い出せない。

 

 今日一日の記憶がそうでないと言う事は分かっても、それ以外の記憶が引き出せなかったのだ。

 

 

 

 少年は神の断片だ。その力を得た代償に記憶を失った。

 少年は神の半身だ。捧げた記憶は戻らない。空いた空隙に入り込んだのは、神が過ごした刹那の記憶。

 

 神が体験した事のない記憶は、心の片隅に残っている。

 押し遣られても消えていない。故にその記憶はきっかけさえあれば甦る。

 

 だがそれは逆も同じ事。

 流れ込んでくる記憶は、切っ掛けさえあれば彼自身の思い出を塗り替える。

 

 同じ様な体験が、同じ様な光景が、別の何かにすり替えられてしまうのだ。

 

 例外は、繋がっている少女だけ。

 彼女だけは、何が会っても忘れ去られる事がない。

 

 繋がっているが故に、少女はそれが分かる。

 それが分かるが故に、彼女は少年へと問い掛けた。

 

 

「ねぇ、貴方は誰?」

 

「……何を言ってるんだよ。リリィ。そんなのは――」

 

 

 伏し目がちに掛けられた言葉に、少年は答えを出せなかった。

 

 

「俺は、……誰だ?」

 

 

 分かっている。分かっていた。

 その繋がりを介して、少年の現状を分かっていた。

 

 

「何で、どうして、出てこない!?」

 

 

 自分の名前が出て来ない。

 そんな現状に錯乱する少年を、黙って静かに抱きしめる。

 

 

「俺は、僕は――一体、誰だ!?」

 

 

 そうなる事は分かっていた。

 こうなる事は時間の問題だったのだ。

 

 単純に重さの話。

 数億年と言う密度の記憶に塗り潰されてしまえば、少年と言う個我は残らない。

 

 故に、トーマ・ナカジマと言う人間が消え去るのは、時間の問題だったのだ。

 

 

 

 頭を抱えて錯乱する少年を抱きしめる。

 伏し目がちに見詰めたまま、彼に優しく囁きかけた。

 

 

「貴方はトーマ。トーマ・ナカジマ」

 

 

 トーマと言う自我は消える。何時か必ず消滅する。

 

 

「思い出して、今日の一日を。忘れないで、大切な事を」

 

 

 それでも、抵抗する事は出来る。

 その終わりを避ける事は出来なくとも、遠ざける事は出来るのだ。

 

 

「そうすれば、トーマで居られる。忘れなければ■■■にはならないから」

 

 

 だから、辛い指摘になるとしても問い掛けねばならない。

 忘れてしまう度に、失ってしまう度に、何度も何度も繰り返して問わねばならないのだ。

 

 そうしなければ、トーマ・ナカジマは直ぐにでも消え失せてしまうのだから。

 

 

「貴方は誰?」

 

「……僕は、トーマだ」

 

 

 問い掛ける声に、少年が返す。

 

 

「私は誰?」

 

「……君は、リリィだ」

 

 

 少年の答えに、少女が儚い笑みを浮かべる。

 

 

「なら、大丈夫。まだ、大丈夫だよ」

 

 

 一つ。一つ。確認していく。

 確かな今を認識させて、少しでも未来を遠ざけていく。

 

 今は大丈夫。

 今はまだ、大丈夫だから。

 

 

「ねぇ」

 

 

 その問い掛けに、リリィは言葉を返せなかった。

 

 

「僕は、一体何時までトーマで居られる?」

 

 

 少女の膝に抱かれたまま、零れ落ちるのは弱さ。

 己と言う存在が消えていく恐怖に怯える少年の慟哭。

 

 

「僕は、一体何時になったら、ツァラトゥストラ・ユーヴァーメンシュになってしまうんだろう」

 

 

 それは自分の選択の結果だ。

 己で背負わねばならない重みであろう。

 

 

「怖い。怖いんだ」

 

 

 だが、もう耐えられない。耐えたくなかった。

 

 

「自分が無くなっていく。自分が自分じゃ無くなっていくのが、どうしようもなく怖い」

 

 

 余りにも重いのだ。

 知らずして背負った重みは、己を押し潰す程に重かったのだ。

 

 

「嫌だ。嫌なんだ」

 

 

 何よりも嫌なのは、失う事。

 その耐えられない重さよりも、失う痛さの方が尚辛い。

 

 

「忘れたくない。失いたくない。だって、彼には父さんが居ない。母さんが居ない。先生がいない。……彼になったら、全部失くしてしまうじゃないかっ!」

 

 

 その日が来れば、トーマは欠片も残らない。

 抱いた想いも、重ねた絆も、何もかもが別のナニカに塗り替えられてしまうから――それが一番嫌なのだ。

 

 

 

 夕日に沈む学校の屋上。

 白百合の乙女の膝に抱かれたまま、少年は恐怖に嗚咽を漏らす。

 

 

「忘れない様に覚えていよう。忘れてしまったら、一つずつ思い出そう」

 

 

 頭を撫でながら言葉を重ねる。

 今出来る唯一つの事を、恐怖に震える少年に伝える。

 

 

「そうすれば、少しでも長くトーマで居られる」

 

 

 こんな事になるなら、この道を選ばなければ良かった。

 そんな風に零れそうになった言葉を、少年は必死に堪える。

 

 

「そうすれば、その日が来るのを少しでも先伸ばしに出来る」

 

 

 それは守り抜いた少女を否定する。

 そんな意味も含んでしまう言葉だから、それだけは言う訳にはいかなかった。

 

 

 

 優しく頭を撫でる少女を見上げて、少年は静かに呟いた。

 

 

「だけど、怖いよ」

 

「頑張ろう。それしか言えないけど、私がずっと傍に居る」

 

「だけど、辛いんだ」

 

「終わるまで、終わってしまっても、ずっと傍に居るから」

 

 

 感情を吐露する。

 壊れていく自我に恐怖し、嗚咽を漏らす。

 

 日が暮れるまで、白百合の乙女は慰める様にその頭を優しく撫で続けていた。

 

 

 

 

 

 崩壊は避けられない。

 一度始まってしまった以上、何れ必ず終わりは訪れる。

 

 

 

 その日を少しでも遠ざけながら、少年と少女は寄り添い続ける。

 

 

 

 

 

 




前回の引き的にデート回だと思ったか? 馬鹿めっ、介護回だ!

そんな具合で結構ヤバいトーマの浸食加減と、ティアナちゃん奮闘記を描いた今回でした。



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