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1.黄泉戸喫(神咒神威神楽)
1.
かつかつと音を立てて、階段を下りていく。
機械仕掛けの扉を超えた先にあったのは、場違い感に溢れる木造建築。
「……まさか、機械仕掛けの研究施設の奥に、この様な場所があるとはな」
管理局秘中の秘と言うべき研究施設の更に下層区画に用意されていたのは、まるで神殿を思わせる様な建築物。地下へと続く五重塔。
「この像。女性、ですか。……どうやら、碑文が刻まれている様です」
その中央に座する台座。其処に刻まれたのは女の像。
戦装束に身を包んだ美しい女は、何処か儚く脆い。余裕のなさを感じさせた。
「――その者、善を行う魂なれば、悪なくして生きられぬ。己を善なる者と信じねば、築き上げた屍山血河に圧殺されると恐怖するが故に」
「ロッサ?」
その碑文を読み上げようとしたシャッハに先んじて、目を閉じたままヴェロッサは諳んじる。
「我が討ったのは悪しき者。滅ぼされてしかるべき邪な者。ならば我は正当なり。罪の意識など持っておらぬし持ってはならぬ」
それは碑文に記された。この神の真実。
神に仕立て上げられた女が抱いた。自己正当化の為の世界法則。
「世には正義と悪がある。我が滅ぼしてよい邪悪が要る。人は二種のみ、でなくばこの戦乱を許容出来よう筈がない」
戦乱は凄惨だった。余りにも残虐で、余りにも救いがなくて、故に女は逃避する道以外を選べなかった。
「故にその者、天を二つに分断した。善なる者と悪しき者、光と闇が喰らい合いながら共生する宙を流れ出させた」
第一天・二元論。それが女に与えられた神の号。
座と言う遺物を最初に握った女であり、あるいは全ての始まりと呼べた法。
「これぞ始まりの理、始まりの座、初代の神が背負った真実の全てである」
驚愕を顔に浮かべたシャッハとザフィーラへと振り返り、ヴェロッサはこの碑文について、この場所についてを語った。
「こいつは、
「然り」
その言を認める様に、被衣姿の女は頷いた。
彼らの一歩先で立ち止まった女の表情は、目深に被った黒き被衣ゆえに見る事が出来ない。
「此処は
何処か古きに想いを馳せる様に小さく上を見上げて、女はそんな風に口にした。
「……そんなものは知ってるさ」
感慨に耽る女に対して、捜査官である男は冷たく返す。
それは監視と言う役割を負った彼だからこそ、知る事が出来た嘗ての真実。
「僕が誰の記憶を見続けていたと思っている。管理局の最高頭脳だぞ。……アイツの中身は最低だったけど、その分全ての叡智があった。此処に記されたであろう歴代の神格、その全てくらい当の昔に知っているんだ」
嘗て、御門顕明と最高評議会はスカリエッティに全てを語った。
嘗て、スカリエッティは全てを知らされる前から、管理局がひた隠しにしていた真実を全て調べ上げていた。
ならばスカリエッティの内面を読み取った彼が、この地を知らぬ訳がない。
「……貴女が伝える事が、
ヴェロッサと、彼の直属の上司であるカリムとクロノ。
真実を知らされた人数は少ないが、それでも全くの零ではない。
故に此処で今更語られようと、得る物など何もないのだとヴェロッサは断言した。
「そう結論を急くではない」
時間を無駄にしたくはない。
そんな焦りが見える青年の言葉に、屍人の如き女は静かに告げる。
「物事には順序と言う物がある。お前たちが知るべき事、それには当然、順序があるのだ」
唯口にしたとて、受け入れられない事はある。
あるべき過程を見せずして、結論だけを語っても意味がない。
そして、未だ男達の戦いは続いている。
此処より僅か上、研究施設の最下層区画にて争い続けている。
それに巻き込まれれば、彼らは更に戦力を失ってしまうだろう。
盾の獣はあの地獄の中では生きられず、残る二人は敵にもなれない。
故に、時間稼ぎは必要なのだ。
「付いて来るが良い。其方以外は知らぬ様だし、座を巡りながら暫し語らおう」
既に警戒態勢は解除されている。この施設における最高権限者である顕明が、侵入者の排除は為ったと偽りの報告を伝えている。
もう時間制限はない。故にこそ、彼女はゆるりと進んでいく。
三人の侵入者たちは複雑な感情を抱きながら、そんな背中を追う事にした。
ふと、ザフィーラは台座の横に刻まれた文字がある事に気付いた。
【以降、神座が奪い合いを常とするようになったのも、或いはこの神の呪いやも知れぬ。戦乱は無限に続く。始まりの座がそうした理を生んだのだから、この宇宙に真なる平和は訪れない】
まるで殴り書きの様に記された記述。
其処に記されたのは、全ての黒幕と呼べたかも知れない男の真実。
【その結末を見届ける為に、女と共にあった男は永劫の流離いを自身に課する。あらゆる宇宙、あらゆる座、あらゆる戦乱期の中枢に関わり続け、さりとて主演には決してならず、女に操を捧げたまま、不能者として物語を流れていく者】
戦乱が続く事を望み、女が遺した神座が続く事を望み、全てが終わる時まで観測を続けた流れ続ける一人の男。
【観測者。この男が現れた時こそ、当代の座が亡滅する兆しである】
「……コイツは、もう現れたのか」
「いいや――もう二度とは現れんさ」
ザフィーラの呟きに、御門顕明は首を横に振って返す。
「見届けるべき座を失くした以上、観測者に意味などないのだから」
観測者はもう二度と現れない。
彼の邪神に全てを砕かれた今、あれは存在する意味すら無くしてしまったのだから。
階段を下りた先にあったのは、まるで鮮血の様な赤に満たされた世界。
剥き出しの人間性を感じさせる赤き色の中枢に刻まれしは、軍神を思わせる壮年の男性像。
【その者、二元論における善側の王の一人として生まれるものの、完全なるその善性から、悪を滅ぼし尽せぬ己に悲憤を抱く】
それは悪の一掃を望んだ、一人の男の記録。
血反吐に塗れる程に、血涙を零す程に、どれ程に望もうとも叶えられない願いを抱いた男の記録。
【我と我が民たちは善ゆえに、縛る枷が無数にある。犯せぬ非道が山ほどある。それは戦において致命的な遅れを生むと分かっていても、善である以上は決行できない】
二元論の法下において、強制されるのは無限の闘争。故にこそ悪は善を滅ぼせず、善は悪を駆逐出来ない。両者は常に並び立って、善は悪に奪われ続ける。
【事実、善の側は開闢以来、常に劣勢へと立たされていた。善とはそうでなければならないと言う理のもと、世界の覇権を狙うのは常に悪。敗北の淵で足掻き続ける光こそが善なれば、男は常勝の王たり得ない】
それは、其処に生きる者にとってはどれ程の地獄であっただろうか。
誰かを守る為に戦って、されど神が定めた理が故に闘争は終わらない。守ろうとした誰かすら、無限に続く戦場の中では失われてしまう。
【民を守れぬ。兵を生かせぬ。善たる己が悪を一掃できずにいる。その不条理への憤りが有した重量は、始まりの理を凌駕した】
そんな理不尽を前に、男の怒りは極限を超えたのだ。
故に男は神座へと至り、闘争の果てに新たな神へと辿り着いた。
「我が民たちよ。悪を喰らう悪となれ、一つで良い、その魂に獣を飼うのだ――果たして、彼は如何なる想いで、そんな世界を望んだのでしょうか」
「さて、な。此処にあるのは事実だけだ。込められた想いなど、今を生きる我々には分かるまい」
碑文をなぞり疑問を漏らすシャッハに、ザフィーラは分からないと首を振る。
悪の根絶を望んだ筈の男が生み出した世界は、悪党たちの楽園へと成り果ててしまうのだから。
聖者の堕天――新たな理は、天下万民に刻み込められた原罪と言う形で具現する。
堕天した世界。原罪を皆が持つ世界。皆に牙を持たせれば、無謬の善性などはあり得ない。
悪と善が争う中で生きた男は、悪を排除する術を戦以外に知らなかった。故にこそ、皆に罪と言う牙を与えると言う結論に至ったのだ。
誰もが悪に堕ちる事はあれ、善になる事はない。その理の中で文明が爛熟すれば必然、世界は悪に満たされていく。
悪を喰らう悪と、唯の悪。それしかいない罪悪の世界。
悪の一掃からは掛け離れた罪に塗れた世界こそが、第二天・堕天奈落。
「だが、其処に生きる者たちは、誰よりも人間らしかったのかも知れないな」
善と悪。相反する二つを抱えるからこその人。
堕天奈落とは、如何なる理よりも人間らしさに溢れた、そんな世界であったのだろう。
そんな結論を抱いて、彼らは更に先へと進んでいく。
続く神座は白き世界。だがそれは新雪の様な、と例える事など出来はしない。そんな病的なまでの白一色。
無理矢理に漂白された様な、まるで無菌室にも似た白の中。
其処に佇む神の像は、哲学者の如き若い男の姿をしていた。
【その者、ただ何処までも潔癖だった。他者は元より、己に宿る罪。それ自体が許せなかった】
誰もが原罪を抱いた世界。
其処に生まれ落ちた、世界中の誰よりも罪深い男。
【堕天の世は成熟と共に腐り始める。それは当然の事であり、故に破壊と再生こそが二代目の天が宿した法則】
極大の罪を宿して生まれた彼は、即ちその破壊を司る者。
傲慢なる者は与えられた役割のままに、世界全てを滅ぼして――そして極限を超えて悲嘆した。
【我はなんと罪深い悪なのだ。我の様な者を生んだ存在は、何と底知れぬ痴愚なのか】
一度目の過渡期にて、世界全てを焼き尽くす。
その己の所業に嘆きを抱いた男は、神座の略奪を決意する。
罪深き神を弑逆する。そして己こそが完全なる世界を産み落とす。
それは紛れもなく、傲慢の罪を抱いたからこそ選んだ所業。そしてその罪を拭わんと言う、何処までも悲想に満ちた祈り。
【罪を拭わんと言うその祈り、救済の嘆きをもって男は座を塗り替える】
男は作り上げる。
神に至る為に、神の力を奪い取る反天使を。
神に至る為に、神座への道を切り開く天使を。
己と同じく極大の罪を宿した者を利用して。原罪なき存在を作り上げて。
そうして男は座に至った。
【あらゆる罪業が駆逐された、穢れなき純白の天上楽土】
第三天・天道悲想天。
これぞ三代の座。この神の真実の全てである。
「過去三代。始まりの座より彼らは、善と悪の対立を続けていた」
そんな碑文の記録を誰もが読み終えた後で、顕明は静かに問い掛ける。
「お前たちは、善とは、悪とは何だと思う?」
善とは何か。悪とは何か。
そんな女の問い掛けに、零を背負った彼らは思考する。
「さてね。そんなのに答えは出ないだろうさ」
答えを出したのは、ヴェロッサ・アコース。
善とは何か、悪とは何か、そんな哲学的な問い掛けに、答えなどは出ないだろうと言う答えを返す。
「あるのは唯、この神様方みたいな極論か、それともう一つ、酷く現実的な答えくらいか」
その上で、彼ら三代は正しく善と悪の攻防であったのだと認める。
極論を突き詰めた様な思考であれ、彼らは常に善と悪を掲げ続けていた。
そんな彼らにしてみても、善とは何かとは極論染みた答えしか出せぬ問いであろう。
悪でない事。悪と対立する事。悪の敵は果たして善か。
それに是であると言う答えを上げたのが二元論なら、悪の敵として更なる悪を生み出した堕天奈落は否と言う答えを上げたのであろう。
悲想天の結論は悪性の完全排除だが、果たして悪を失くした人間は善人以前に人と呼べる存在なのか。
「善の定義は難しいけど、悪の定義は簡単だ」
善は分からぬ。されど悪は明確だ。
それはヴェロッサだけではなく、この場の誰もが抱いた結論。
「貴様や最高評議会。お前たちは超えてはいけない一線を超えた。それは紛れもなく、“悪”であるのだろうよ」
「……そうさな。我らは悪であろう。如何なる祈りを抱こうとも、それは決して揺るがぬのだ」
ザフィーラの告げる結論に、顕明は何処か寂しげに言葉を漏らす。
「だがな。最初から、そうだった訳ではない」
何時しかこうなってしまった己たち。
だが最初から、そうであった訳ではない。
「私達は、彼ら最高評議会は、決して、それだけではなかったのだ」
「…………」
「……それは、次の座を見た後で語るとしよう」
言って先に進む顕明の背を、誰もが何も語らずに追い掛けた。
次に辿り着いた部屋。其処は息苦しい青に満たされた世界。
ある種の閉塞感に満たされていて、何処にも出口なんて見つからない。
誰も何処へも行かせない。そんな男の情念が生み出した、永劫に回帰する宙の記録。
そんな空間の中央に、刻まれしは枯れ木の如き長髪の男。
病的なまでにやせ細った彼の人物は作り物の像だと言うのに、どうしようもない程に強烈な妄念を纏っていた。
【その者、特異な存在なり。三代の座にとって、この男は別の時間軸と宇宙から飛来してきた怪物に他ならない】
その男の真実は、余りにも摩訶不思議な事実の上に成り立っていた。
【原因と結果を入れ替えた事で発生した彼の宇宙は、歴代でも類を見ない程に摩訶不思議なものと化す。神座となった彼が、原因不明の既知感に苛まれたまま放浪すること幾星霜。その果てに出会った女へと、強烈なまでの恋慕の情を抱く】
貴女に恋をした。そう口にして跪く青き蛇。
黄昏の乙女は無垢故に、それの意味も知らずに無邪気な言葉を返す。
【我はこの女に殺されたい。この女の手によって、この生を終わらせたい。その刹那に、至上至高の未知が欲しい。男の願いはその一点。だが男がそんな願いを抱いたのは、世界の終焉。己が半身である黄金の獣に殺害された瞬間であった】
渇望とは、渇き餓える程に希う事。
全能の神として発生した男が叶えられぬ渇望を抱いたのは、己の死が目前に迫った刹那であった。
覇道神とは渇望を抱かねば至れぬ存在。
故に第四の蛇が神となったのは、己が死するその瞬間だ。
【神になる為にはまず流れ出さねばならぬのに、男は死んだ瞬間に流れ出す事で神として誕生する。意味が分からない。理屈が通らない。神でなければ座を掌握出来ぬのに、彼は生まれた時から座を掌握していて、死ぬ瞬間に神になるのだ。誰が見ても分かる程に、筋道として破綻している】
最初から破綻していた。それは宛ら
メビウスの輪の如く、始まりと終わりを失った無限にループし続ける神の法則。
【我を殺して良いのは彼女のみ。故に嫌だ。故に認めぬ。我はこんな死に方などしたくない】
その結論は永劫回帰。
同じ世界を繰り返す事で、何時か望んだ結末へと至ろうとする回帰の法則。
【爆発する恋情と悔恨が生み出したのは、万象遍く者が無限に同じ生を繰り返す回帰の理。男は理想の死に辿り着くまで、何度でも同じ生を反復する】
その理の世界において、人は死ねば己の母の胎内へと回帰する。
同じ人として生まれ、同じ様に育ち、同じ人生を過ごして、同じ死に方へと至る。
それは他ならぬ神とて変わらない。
愛しい女に出会う為に可能性を極限まで封殺するしかなかった蛇は、全く同じ生涯を辿って全く同じ結末を迎えるのだ。
【原因不明の既知感は、即ちそれが理由である。無限に繰り返す蛇は、同じ生を繰り返すが故に至高の幕へと辿り着けない】
もう嫌だ。もう同じ繰り返しなどしたくはない。
そんな風に感情全てが摩耗しても、それでも蛇は次こそはと繰り返し続ける。
【愛する女神よ。宝石よ。どうか慈悲を以って、この喜劇に幕を引いて欲しい】
願うはそれだけ。その結末が未来永劫やって来ないと分かっていても、永劫に回帰を繰り返す。
【その抱擁に辿り着く為ならば、森羅万象あらゆる全ては彼女を主役とした舞台装置。我が脚本に踊る演者なり】
これぞ四代目の天。第四の座が背負った真実の全てである。
「……なんと言うか、凄まじいですね」
無限に繰り返す生と死の狭間で、僅かな差異を積み重ねて至ろうとした。
そんな蛇の執念を知って、シャッハ・ヌエラはそう呟くしか出来なかった。
「知識じゃ知ってたけどね。愚行にも程があるだろ」
男の為した所業を愚かと断ずるのは、ヴェロッサ・アコース。
「同じ女と出会いたいから、世界が分岐する可能性を極限まで封殺して。……結果無限に振られ続ける。結局、コイツは何がしたいのか」
惚れた女に会う為に回帰を繰り返し、惚れた女に拒絶され続ける。
全能の力を振るえば容易いだろうに、それすらせずに同じ事だけを繰り返し続けて摩耗していった水銀の蛇。
その所業は、確かに愚かと言うより他にないのだろう。
「愛するが故に振られ続け、その果てに摩耗しようとも愛するが故に終われない、か」
だが、同時に何処までも純粋だ。
偏執的で、妄執に満ちて、恋情に狂った蛇は唯只管に純粋だった。
「……良く言えば純粋なのだろうが、やっている事は性質の悪い変質者そのものだな」
摩耗した果てに、それでも抱かれる事を夢見た。
その夢を現実の物としたいから、叶わぬと知っても繰り返す。
そんな蛇の恋慕の情は、決して誰にも否定できはしないだろう。
「摩耗する。摩耗するのは、この蛇の理に限った話ではない。長く生きれば、誰もが摩耗するものよ」
そんな彼らに対し、御門顕明は伝える。
それは先の問答の続き。最高評議会は単純な悪ではないと言う事実。
「最高評議会も古くは、己の役割に誇りを抱いていた。その意志は正しく善性の物であり、望んだのは唯争いなく人々が生きられる太平の世」
在りし日、近代ベルカが崩壊するその時に、幼き彼らはゆりかごを見た。
絶望に満たされた戦場の中で、尊く輝き全てを終わらせた。その至高の輝きを瞳に焼き付けたのだ。
故にこそ彼らは決意する。この輝きを絶やしてはならない。偉大なる聖王が守った世界は、我らが後に繋いでいかなければならないのだ、と。
「だが、そうするには時世が悪過ぎた。善だけでは、悪を為さねば、立ち向かうだけの力すら得られなんだ」
大天魔の跳梁跋扈。住まうべき世界は永く続いた戦乱に疲れ果て、ミッドチルダと言う世界は今にも滅び去ろうとしていた。
そんな世界を守り抜く為には、どれ程非道であろうとも手段などは選べなかったのだ。
「傷付けて奪う。犯して奪う。殺して奪う。己の所業を悪と認めて、そう為さねば滅びしかないから、だからその選択を選び続けた」
だから悪を為した。正義の志を胸に抱いて、善が救われる結末を夢見て、極少数の犠牲と引き換えに最善の成果を出し続けた。
「せめて少しでも犠牲を減らしたいと、だがその果てに積み重なっていく屍は余りにも重過ぎたのだ」
無数に散らばったロストロギアを集め、どれ程の人々を踏み躙ろうとも戦力を一点に集めて、遂には大天魔を撃退出来る程の勢力を作り上げた。
だがその時には、もう彼らは変わってしまっていた。
「人は慣れてしまう生き物だ。初めて為した悪を許されぬと受け止めても、次に同じ場面に出くわせば初めての時よりも軽い気持ちで犠牲を許容出来てしまう」
罪を為した。非道を為した。許されぬ悪となった。ならばそれに対する成果を。
これでは足りぬ。これでは足りぬ。こんな結末では足りぬのだ。
「そうしていくとな、何時しか雁字搦めになっていく。悪を許容したのだから、それ以上の結果を。この犠牲は許容したのだから、次の戦果の為にも同じ犠牲を。……後はもう、堕ちていくより他にない」
そうして積み重ねた楼閣が、終焉の怪物の前に砂上の如くに崩れ落ちた。
そうなってしまった瞬間に、あの老人たちは最早戻れぬ程に壊れ果ててしまったのであろう。
「若き日の彼らは、今のお前たちを見ているようだった」
誰よりも強く輝くエース。
悪を背負って尚前に進む事を決意した英雄。
そして存在しない数字を背負い、切られる事を良しとした者たち。
そんな彼らは、嘗ての最高評議会に良く似ている。
「理想に熱く、誇りを抱いて、何よりも民の為に生き続けた」
犠牲を出したのは、後に続く世界の為に。
悪を許容したのは、今を生きる民草の為に。
「そうでなくば、どうして肉体を失ってなお在り続ける。守ろうと言う意志すら紙細工だったならば、魂が腐り落ちていく苦痛に耐えられよう筈もない」
脳髄だけに成り果てても生きたのは、このままでは死ねぬから。
全てを投げ出してしまえば楽だろうに、それでも犯した罪に対する贖いの為に最高評議会は生き続けている。
「彼らは変わった。欲に溺れ、権力に溺れ、罪の重量に溺れ続けた」
壊れた彼らは我欲に溺れた。壊れた彼らは権力に溺れた。
守るべき民を独善と我欲の為に傷付け続ける今の彼らは、最早害悪としか呼べぬであろう。
「だがそれでも、彼らが望むのは救済だ。嘗て抱いた理想はどれ程に曇ろうとも、それでも揺るがずあるのだよ」
それでも、彼らは夢に見ている。嘗て己たちを救い上げた聖王の下、最早誰も傷付かぬ世界が訪れる事を夢に見ている。
それに至らせるのが己たちの責務であり、どれ程に苦しもうともその日が来るまでは死ねぬのだと。
「なら、何をしても良いって言えるのですか!」
そんな評議会の意志を告げられて、反発する様に口を開いたのは神殿の騎士であった。
「何時か救うから、今苦しめる事を許容する! 後の世界の為に、見知らぬ誰かの幸福を踏み躙る! 守らないといけない人まで苦しめる事が必要と言うなら、一体何の為に戦っているのかすら分からなくなってしまう!」
己が剣は、守るべき人の為に。
誰よりもそう誓った女だからこそ、その在り様は認められない。
手段が間違っている。過程を間違えている。
そんな間違いだらけの道を先に進んだとして、その結末に求める何かは本当にあるのか。
「いいや、悪いさ。彼らは拭い切れぬ程に、擁護出来ぬ程に悪であろうさ」
きっとない。手段と目的を取り違えてしまった最高評議会に、最早救いなどありはしない。
彼らが救いたかった人はもういない。
彼らが辿り着きたかった未来は、きっとそうではなかった筈なのだ。
他ならぬ彼ら自身が奪った。先の世の為に、今を生きる人々を殺した。
守ると誓った者を奪って、その果てに重ねた願いは既に破綻している。
欲しかったのは、守ると誓った彼らが笑顔で生きる太平の世。だがもう二度とは叶わない。
理想郷を築き上げたとしても、其処で生きて欲しかった人々はもういないのだから。
「だがな」
間違った。彼らは間違えた。目的の為であっても超えてはならない一線があると言うのに、結果だけを求め過ぎて間違えてしまった。だがそれは、彼らだけに訪れる末路ではない。
「忘れるなよ。お前たちは、何時でも第二の最高評議会になり得るのだと言う事を」
若き頃の彼らに良く似た次代の子らにも、同様の事は起こり得るのだ。
「一度悪を許容すれば、悪への抵抗は薄れてしまう。一度罪を背負えば、その重さ故に引き返せなくなってしまう」
既にその道を進んでいる。悪を許容し、荷を背負う事を良しとした。
背負ったモノが重くなり過ぎれば、もう引き返せない。
越えてはならない一線すらも、背負った重みと比較して軽くなってしまえば、あっさりと踏み越えてしまうであろう。
「お前たちは似ている。理想に燃え、誇りを胸に、結果の為に多少の悪を許容してしまうその在り様。在りし日の彼らと、悲しい程に似ているのだ」
「違う」
悲しげに告げる言葉に対し、ヴェロッサは熱を抱いて否定する。
「僕たちは、ああはならない。ああなって堪るものかっ!」
知っている。彼は知っている。
その読心にて古代遺産管理局の全員を覗き見たが故に、その胸に抱いた誇りを知っている。
その熱き輝きがあんな濁った色に成り果てるなど、彼が認める訳にはいかないのだ。
「……ならば、忘れぬ事だ」
そんな若き咆哮に笑みを浮かべて、御門顕明は伝えるべき言葉を口にする。
「始まりに抱いた願いを。越えてはならぬ一線を。どれ程に罪が重くとも、壊れる程に魂が軋んだとしても、迷いの果てに自害を望む様になったとしても、……間違った道を選んではいけないのだ」
間違えぬ為に、誤らぬ為に、忘れてはならない事が確かにある。
最初に抱いた原初の祈り。それを忘れる事さえなければ、きっと間違えずに居られるだろう。
「間違えるなよ。お前たちは善であれ」
悪を許容するな。例え罪を背負おうとも、為すのは正義でなければならない。
善を否定するな。例え綺麗事にしか聞こえずとも、それさえ否定してしまえば道を間違える。
「間違えるなよ。間違えた結果など、我らだけで十分なのだ」
その言葉は何処までも切実な想いを含んでいたから、誰もが無言で胸に刻んだ。
間違えない。
この道を進む彼らは、きっと間違えはしないのだ。
「次で最後だ。……本来の六層を用立てていないこの場所は、次の座にて終わりとなる」
告げるべき事を伝えて、御門顕明は身を翻す。
「見ると良い。古き世の守護者たち。その誰もが認めた美しき黄昏の世界を」
後に伝えるべきなのは、その美しい世界。
黄昏の流れを汲む彼らならば、きっと至れるだろう世界である。
秋の夕暮れ。一面の稲穂畑の如き金色。
階段を下り終えた彼らを迎え入れたのは、何処までも優しい黄色に満ちた部屋。
その中央の神座に座すは、優しげに微笑んだ少女の像。見ただけで分かる程に、慈愛に満ちた女が刻まれていた。
【その者、神に改良された神座なり。第四天の後継者となる為に、喜劇の主演に引き立てられた】
水銀の蛇が恋した女神。
彼の治世の主演に選ばれ、喜劇の舞台を歩いた女。
【ある意味で最も神に嘲弄された存在だが、彼女に憤りや嘆きはない。何故ならその生涯において、他者と関わる事が一切出来なかった存在であるが故に】
罰当たりな娘。血を望む少女。
無垢なる魂を抱いた女は、何も為さぬままに生きて死んだ。
【強固な呪いを宿して生まれ、触れば首を刎ねてしまう。ならばこそ誰も触れ得ぬ宝石として在り続けたが、その本心では他者との触れ合いを切に願っていた】
その在り様に魅せられた神が、彼女の為に首飾りを作り上げる。
己の血を宿した戦神。その男を番として、無垢な女に世界を教えた。
【先代が見出した喜劇の中で立ち回る日々が、彼女を溶かして変えていく。愛する男と共に過ごした刹那の中で、失ってはならない輝きの尊さを知り、真に完全なる神へと変貌する】
誰にも触れられない宝石は、触れ合う肌の温かさを知った。
生前では終ぞ得られなかった輝きを、死した後に得た女は極大の祈りを抱く。
【抱きしめたい。包みたい。愛しい万象、我は永久に見守ろう】
愛する男の生きる刹那を、誰もが当たり前に生きる世界を、この万象を永久に見守ろう。
【世に悲劇や争いはなくならない。だが、異なる物を排斥する事は選べない。故に女神は抱きしめた】
大丈夫。私が皆を抱きしめるから。
【善も悪も何もかも、悲劇を失くす事は出来ない。けれど、輪廻の果てには誰にも救いが訪れると信じて、その時が来る日まで遍く全てを抱きしめ続けた】
それは単純な救いにはならない。直接的に誰かを救った訳ではない。
安易に救いの道を与えるのではなく、何時か訪れる救いの日まで頑張れる様に、優しく抱きしめて背を押していく祈り。
共にあって、抱きしめて、もう大丈夫だよと伝え続ける。
そんな母の愛に満たされた世界こそ、第五天・輪廻転生。
【遍く全てに降り注ぐ慈愛の光は、抱きしめると言う母性愛。優しき母を嫌う事など出来ぬ様に、彼女の下には彼女を守ろうとする神が集った】
永劫回帰。修羅道至高天。無間大紅蓮地獄。
その時代を生き、その手を神座まで届かせる事が出来た神々は、誰もがその祈りを尊いと認めた。己の掲げる至高よりも、守り抜かねばならない祈りであると確信したのだ。
【荒ぶる戦神達も、彼女の慈愛に抱かれればその矛を収める。その愛を尊いと知り、故に守る事を誓った三大の神が居る限り、女神の治世は揺るがない】
これぞ第五の天。黄昏の女神が真実の全てである。
「最悪の邪神に滅ぼされる迄、この世界は優しさに満ちていた」
最悪の法下に生まれた女は、その優しき世界で生きた子らの末裔へと言葉を掛ける。
「お前たちは、その時代を生きた子らだ。この世に生きる人々は、その黄昏の末裔なのだ」
それは神代より続く願い。
古き世に滅び去った者たちの、後に託すべき祈り。
「無間大紅蓮地獄――夜刀殿が守りし子らよ。お前たちは、この輝きを取り戻さねばならない」
黄昏に生きた子らの末裔よ。
お前たちは、黄昏の残滓たちが納得できる結末に至らねばならない。
「これと同じか、これを超える様な、そんな結末に至らねばならない」
この尊い輝きに並び立つ程に、美しい世界を目指さねばならない。
「でなくば、誰も報われない。余りにも救いがない結末となるだろう」
そんな言葉は何処までも寂しげで、だからこそ激情を返す者は居なかった。
「私達に、出来るのでしょうか」
「出来ねば、誰もが抱いた祈りが無為となるだけよ」
シャッハの迷いに、顕明は冷徹に告げる。
「無茶振りにも程がある」
「それでも、為さねばならぬのだ」
ヴェロッサの口にしたボヤキに、顕明は済まぬなと小さく呟いた。
「この神座の裏を見ると良い」
そうして、彼女は最後に託す物を次代の子らへと見せつける。
黄昏の女神の神座の裏。其処に置かれて居たのは、黒く輝く巨大な刃。
「……これは、ギロチン?」
「管理局が犯した罪の一つ。砕けた至宝の一つ。
所々に亀裂が入り、刃先が零れ落ちた断頭台の刃。
管理局が砕き、砕けた欠片を無限の欲望が利用し、そして最後に残った残骸が其処にあった。
「それを砕いた事は、彼らをして恐れる程の事だった。為した後になって、神を怒らせたのではと震え戦いた。故に、この場所で祀り上げたのだ」
神の愛する宝石を砕いた。その行為は、恐れるモノがないと思わせる最高評議会をして、罪悪感を抱いてしまう物であった。
神の怒りが堕ちて来るのではないか、そう懸念を抱いた彼らはこの五重塔を作り上げ、黄昏の御座の下に安置したのだ。
「触れれば首を立つ呪いは、未だ微かに残っている。だが、盾の守護獣ならば手に取る事も可能であろう」
これを手に出来る者は限られている。直接触れる事の出来る者は、数が酷く少ないのだ。
欠片となった原初の種ならば兎も角、断頭台本体に触れるのは極僅か。
嘗てこれを此処に移動させた全盛期の顕明と、神の力を引き継ぐザフィーラかトーマ。
顕明が真面に動けぬ今、これに触れる事ができるのは彼らしかいないのである。
「持っていけ。今の我らには最早不要な物だ」
故にこれを託す。
次代を生きる彼らへと、その至宝を此処で託した。
「忘れぬなよ。抱いた祈りを。間違えるな。至るべき場所を」
その至宝に魅入られる彼らの背に、女は最後の言葉を伝える。
「そして、……そうだな。皆に伝えて欲しい」
伝えるべきは一つ。
これから先を目指す彼らに、唯一つの言葉を伝えた。
「真に愛するならば、壊せ」
それは師より受け継いだ言葉。
本来ならば彼女が口にするのが相応しく、だがもう表に出て来れない以上は自分が伝えるしかない言葉。
「真に愛する者があるならば、世界を真に愛するならば――その愛を以って壊すのだ」
今の世は閉塞している。
故にこそ、破壊の果てにしか未来はない。
「……最早、お前たちに伝えるべき事はない」
全てを語った。最早語るべき事などない。
神座の歴史を伝え、与えねばならぬ助言を伝えた。
最高評議会の思惑も、彼らが引き摺り出したこの施設の情報記録の中に残っている。
故にこそ、最早此処には価値がない。
「この先に進んだ場所に、地上へ続く脱出路が存在する」
時間稼ぎも終わった。
研究施設の最下層で戦っていた男達も、もう決着が付いた頃であろう。
あの戦場の地は、ちょうど脱出経路の途中にある。その道を先に進めば、或いは青年を回収する事も出来るであろう。
「さあ、先に進むのだ」
断頭台を背負ったザフィーラ。
この施設の情報を全て抜き取った端末を手にしたヴェロッサ。
そんな二人を護衛するかの様に、シャッハは武器を構えながら先へと進む。
最早振り返らない。言葉も返さない。
知るべきは知ったから、最早振り返る意味などない。
だからこの邂逅を胸に刻んで、彼らは無言で先を目指した。
「――我らが至れぬ先へ、次代の子らよ」
腐臭を漂わせながら崩れ落ちていく身体を支えて、力を失くしつつある瞳でその背を見詰めた。
進んで行く彼らの背を見詰めながら、想うのは強念に至る程の感情だ。
まだ死ねない。まだ終われない。だからあと少しだけ、後一度だけ、持ってくれと祈り続ける。
この場より動く事さえ難しい程に消耗した女は、次代の可能性が芽吹くその日を夢見て息を吐いた。
この一手はきっと、起爆剤となるであろう。
至るべき結末は、最早誰にも読めはしない。
誰もが立てた算段は、誰もが予期できぬ程に狂ってしまっているのだから。
神座巡り。顕明の助言。断頭台獲得。
の三つで構成された今回でした。
ユーノがどうなったのかは次回。
それが終われば、次はホテル・アグスタを予定しています。
Q.顕明さん何で淤能碁呂島知ってんの?
A.多分御前試合の後、正式な婚約者になった冷泉が連れてった。(淤能碁呂島は中院冷泉の所領)
或いは穢土に飲まれた後、龍明殿の記憶でも見たとかそんな感じ。