じめじめとした梅雨の季節。
もう少し、あと少しで抜けるといった具合に晴れ間も覗いてきた近ごろだが、ネリーの心は浮かなかった。
ネリー「ねえサキ! 今日は一緒に帰れる?」
咲「ごめんね、今日もちょっと遅くなるんだ」
すげなく返された言葉に気分が沈む。まるで考える様子がない。
部活の練習中。あんまり喋っていると私語を禁じられるので大人しく引き下がり、黙々とよく知らない相手と卓を囲む。
何度目かの入れ替えで入ってきた明華がネリーに囁く。
明華「今日もだめそうですか」
ネリー「うん……」
とりつくしまもない。最近、気の抜けた麻雀を打ちつつあるネリーは、手に入れた牌をろくに理牌もせず打ちながら返す。
智葉「ちょっと出てくる」
一つ声をかけて智葉が部室を出る。このところ、放課後や休日に誰かを待つようにする智葉が多少気になるネリーではあったが、大して詮索せずに捨て置いていた。
ダヴァン「ココは一つ、趣向を変えてみてはどうでショウ」
ネリー「趣向?」
「ハイ」と答えたダヴァンがカップ麺を三つ出す。どこからともなくといった感じでまさしく手品めいた手腕だったが、ネリーの目は白い。
ダヴァン「例えば、例えばデスが、カップ麺を食すパーティのようなモノを開けば……」
ネリー「そんなのに釣られるのお前だけだよ!」
思わず突っ込む。どう考えても咲を釣れるとは思えなかった。「そうデスか……」としょんぼり立ち去るダヴァンを胡乱な眼差しで見送る。
ふう、と一つ吐息して落ちつく。少しだけ元気が出た。
そのまま部活が終わる。外に出た智葉は居合わせず解散となって、伝言板に伝える旨を書き残した。
明華「咲さんは帰ってしまったようですね」
ネリー「夕飯の時間には帰ってくるんだけど……心配だよ!」
帰りがけに声をかけてくる明華と話す。咲は部活が終わるなりそそくさと帰ってしまい、既に不在だ。
ダヴァン「しかし、サキも強情デスね……」
ハオ「もう一月近くこの状態です」
口々に混じってくる面子も決まっている。留学生組に智葉。咲と親交のある部員は基本的にこの五人だ。
ネリー「ううーもう! サキのバカ! サキのバカ!」
ダヴァン「ど、どうしたんデスか」
ネリー「きのうの夜一緒にごはん食べたんだけど、ほとんどお話してくれなかったの!」
校舎の外、留学生四人の集まる空間が静まりかえる。
咲と一番仲の良いとみられているネリーですら、そんな現状。由々しき事態だ。
明華「団体戦で共に戦う仲間として、見過ごせませんね……」
深刻な表情でつぶやく明華の言葉に、誰も返す言葉を持たなかったーー……。
▼
アレクサンドラ「先鋒、宮永咲」
それは、インターハイのオーダーが発表されたときのことだった。
アレクサンドラ「一部の人には疑問が残るだろうけど、これは最終決定。異論は認めない」
淡々と告げる監督の声。冷たい面差し。一瞬、聞いているネリーすら何かの間違いかと疑った。
対して、隣に立つ咲の変化は顕著だった。最初、何かを受け入れた顔で粛々と佇んでいた咲。
その表情が徐々に変わっていき、やがておぞましいものを垣間見たように手を口に添え、瞠目する。
一連の変化を見届けたネリーの顔に驚愕が浮かぶよりも早く、咲の顔がある方向に向く。
智葉だ。たったいまレギュラーを勝ち取った相手。揺れる瞳が捉えている。
咲「っ…………」
言葉にならない声が上がる。咲だ。
そのままネリーが反応を返す暇もなく走り去っていく。
一方の智葉は、事の成り行きを冷静に見守る。
ネリーには何が何だかわからない。混乱していた。
アレクサンドラ「あちゃあ、取り乱しちゃったか」
苦みばしった顔でそう言ったのは監督だった。
この場にいるのは留学生四人と智葉、先ほどまでいた咲と監督を含めて七人。誰もが何らかの理由で大なり小なり動揺している。
アレクサンドラ「……サトハ、頼める?」
智葉「わかりました」
即座に了承した智葉に頼んだ監督が面食らう。少しして「無理言っちゃってごめんね」と一言詫びる。
智葉はそれに頷くと、咲の後を追って走りだす。後ろ姿はすぐに見えなくなった。
ネリー「サキ……どうしちゃったの?」
沈黙が返される。しかしほどなくして監督の口が動いた。
アレクサンドラ「ここにいる人にだけ教えておく。今回のオーダーはスポンサーの決定だという事」
ネリー「お金をだしてる人たちが……?」
アレクサンドラ「サトハはそれを知っていた。だから冷静でいられた、というのもある」
言葉の意味はわかる、けれど何を伝えたいかまでは、ネリーには読み取れない。
恐らく他の面々もそうだったろう。
痛いほどの沈黙が落ち、場を包み込む。
そんな中でネリーは、咲を追いかける事をしなかった自分に疑問が込み上がる。
(なんだろう……すっごく嫌な予感がした……)
あのとき追いかけていたら。自分は、取り返しのつかない失敗をしていたのではないか。不可解な想像が脳裏を駆け巡る。それが、今も意識の端でちらつく。
どくどくと胸が騒ぐ不吉な感触。
幽玄な明かりを窓から射し込む月は、綺麗な真円を描いていた。
▼
あくる朝、ネリーは目覚ましの音で目を覚ます。決めておいた時刻にきちんと起きられた。
ただ頭が重く、鈍い痛みが続いている。
昨晩中々寝つけなかったからだろうか。
洗面所で顔を洗い、歯を磨いて、寝間着から着替える。
学校にいく準備が整う頃には体調も幾らかましになっていた。
マグカップに注いだ牛乳をベッドに座って飲みながら、考える。
サキ、もう起きてるかな……。
きのうあれから咲が戻ってくる事はなかった。
智葉にどんな様子だったか聞いてみたが、いまいち要領を得ず、現状はわからず終い。
直接会って確かめるしかない状況だった。
ネリー「サキー、起きてる?」
部屋の前に荷物を持っていき、控えめにノックする。
まもなく反応は返ってきた。
咲「ネリーちゃん……?」
咲「待ってて。すぐに用意するから」
言葉通り、一分そこらで準備を済ませた咲が姿をみせる。
そして「おはよう」と如才のない笑みを浮かべ、挨拶してくる。
いつも通りだ。安心する。
ネリー「おはようサキ!」
咲「いいお天気だね。あ、これ今日のお弁当」
「ありがとう!」と元気よくお礼をしながら弁当箱の中身を確認する。
献立は栄養のバランスがとれ、それでいてネリーの好物ばかり。
自然と気持ちが浮き立ってきて「わあ」と顔が綻ぶ。
ネリー「すごい……食べるのが今からすっごく楽しみだよ!」
咲「ふふ、喜んでもらえてよかった」
それからどうやってネリーの好物を見抜いたかを種にして話を膨らませつつ、学校に向かう。
咲「それじゃ私は授業があるから」
ネリー「うん! 授業がおわる頃迎えにいくね!」
咲「いつもごめんね。ありがとう」
感謝されるまでもない。望んでやっているのだから。
咲と別れ、単身部室に。
心配が杞憂だったと感じ、すっかり気を緩ませていた。
ネリー「なんだ、心配しなくても大丈夫だったんだ」
ネリー「そうだよね。選ばれなくて落ち込むんならわかるけど、咲は選ばれたんだし!」
ネリー「サトハには悪いけど、全国で咲と戦うの楽しみだな!」
部室に到着する。
まだ誰もいなかった。
この時間だと来るのが少し早かったらしい。しかし二十分も待てば他の留学生も集まってきた。
明華「おはようございます、皆さん」
ハオ「おはようございます」
ネリー「あれ、メグは?」
ハオ「ああ。電車でカップラーメン零したから掃除してるよ」
ネリー「またやったのかよあのラーメン狂い……」
たまには咲と登校させてやるべきだろうか。
乗り合わせた乗客が不憫でならなかった。
明華「メグちゃんのラーメン馬鹿っぷりはともかくとして……咲さんの様子はどうでしたか?」
ネリー「ふっふーん、教えてほしい?」
ハオ「その様子だと大丈夫そうだね」
ネリー「そっ! 心配して損しちゃったよ」
明華「くすっ、一番心配していたネリーが言っても照れ隠しにしか聞こえませんよ」
それから暫くは三麻をして、遅れてきたダヴァンも加えて卓を囲む。
ネリー「あー、疲れたー」
明華「もうこんな時間ですか。そろそろ昼休みにしますか」
ダヴァン「賛成デス。ラーメン分がもはやピンチでシテ」
ハオ「一日にどんだけ摂れば足りるんだ……」
ネリー「お昼! おべんとうだー!」
休憩する事が決まり、早速荷物から弁当箱を取りだすネリー。
明華「今日も咲さんお手製のお弁当ですか?」
ネリー「いいでしょ。サキは料理もすっごくうまいんだから!」
明華「羨ましいですね。私にも一口……」
ネリー「これはネリーのだから」
明華「そんな事を言わずに。咲さんからも言われてるんでしょう?」
ネリー「う……」
確かに咲からも分けてあげるように言われていて、おかずを少し多めに入れてもらっているくらいだ。
ネリーは、渋々弁当から摘ままれるのを許した。
明華「今日もおいしいです」
ハオ「本当に」
ネリー「うう……」
ダヴァンもカップラーメンを啜りつつ、箸休めに(?)弁当をつついていた。
昼の休憩を終えてまた麻雀漬けの時間を過ごす。
気づけば咲を迎えにいく時間になっていた。
ネリー「あっ、そろそろいくね」
いってらっしゃいと見送る面々を背に部室を出る。
生徒「宮永さん? 宮永さんならさっきどこかにいったけど」
しかし咲は不在だった。
ネリー「おかしいなー。いつもはいるんだけど」
手洗いにでもいったのだろうか。
ネリーは教室の外で少し待つ事にした。
すると数分ほどで咲が戻ってきた。
咲「あ、ネリーちゃん……。ごめんね、ちょっと出てたの」
やはり手洗いだったのだろうか。
そんなに待ったわけでもないので気にする事はないと告げた。
咲「ありがとう……今日もよろしくお願いします」
ネリー「そんな改まって言われると照れちゃうな。いこっ、サキ!」
手を差し出せば咲が握って、手を繋いだ状態になる。
いつもの格好だ。なんだか嬉しくなって強く握り返す。
ネリー「そういえば今日もサキのお弁当大好評だったよ!」
咲「そうなの? ふふっ、嬉しいな」
しかしどうしてか、咲の握る手の力はいつもより弱い気がした……。
▼
部活が終わり、真っ直ぐ咲と帰宅して。
部屋の隅にあるソファで寛ぐ。
普段と変わらない時間。代わり映えのしない行動。
あとは適当に時間を潰して、近場で見繕った店で夕食を済ましてしまえば。咲のところで相伴に預からない日としては、平凡な日となる。そうなるはずなのだ。
ため息を一つ。ソファを寝転がり、半身を起こす。妙な呻き声が突いて出た。
ネリー「サキ……どうしてるかな」
つぶやく。気になるのはやはり、依然咲の事。放課後、連れ立って部室に顔を出してからも、ネリーの意識の大半を占めていた。
如才のない闘牌。その合間に時折みせる、柔和な振る舞い。
他の留学生や智葉も、違和感を持たず自然に接していたようだし、咲の事は心配いらないように思える。
しかしその一方で。言い知れない不安がかま首をもたげる。もやもやして仕方ない。
そのもやもやの正体がわからないから、むしゃくしゃするのだろう。
これでは埒があかない。ネリーは思い切って隣人を訪問した。
ネリー「サキー? いる?」
戸を叩く。ここで予想外だったのは、扉の向こうから水っぽく啜る音が聞こえてきた事だ。
咲「…………ネ、ネリー、ちゃん……?」
そして。遅れて躊躇いがちに返ってきた声が、まるで涙に濡れたようなものだった事で。ネリーはついにぎょっとした。
ネリー「サキ……な、泣いてるの?」
予想外の事態。鬱々とした気分から一転、激しい動揺に見舞われる。咲からの返事がない。
扉を破って突入したい衝動に駆られながらも、寸前で堪え、断腸の思いで待つ。
何十分にも思える時間を待ったあと、返ってきたのは拒絶の言葉だった。
咲「今日は……帰ってくれない、かな……」
ネリー「そんな声聞いて帰れないよ! とにかく開けて!」
先ほどより勢いをつけてノックする。もし訪ねようと思わなければ咲のこの状態に気づかなかった。その認識が余計にネリーを意固地にした。
咲「っ……帰って!」
ネリー「サキ……」
咲「ごめん……明日からは普通にするから……」
そういう事じゃない。そうしてしまっては意味がない。ネリーは、どうしても咲と顔を合わせたかった。
しかし咲が開けてくれないのでは白旗を挙げるしかない。ネリーの粘りも虚しく、その日咲が顔を出す事はなかった。そして。
その日以降、咲は徐々に周囲を遠ざけるようになっていく。
それは梅雨に入り、梅雨が明ける直前になっても改善される兆候はなく。やがて、団体戦のチームメイトである留学生たちの悩みの種へと育っていくのだった。