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照「咲……大丈夫だった?」
記憶の中にある、幼い顔立ちをした姉が物憂げに咲を見つめる。昔、家族で一緒に暮らした家。姉妹の部屋で、咲は姉と向かい合わせに立っていた。
照「またあいつに何か言われたの。気にしたらダメだよ。あいつが悪いんだから」
剣呑に柳眉を逆立てる姉が喋りかける。普段とは違う窘めるような口調。それを咲は、もの悲しい気持ちで聞いた。
大好きな姉が悪し様に誰かの事を口にする姿はみたくない。仕方のない事だとしても、いつも笑っていてほしかった。
咲「あいつなんて……いっちゃだめだよ」
照「……」
咲「おかーさんと仲よくしよう? きっと、おかーさんだって」
照「……無理だよ。だってあいつは咲に……」
口ごもった姉がふいっと視線を逸らす。
照「咲は……辛くないの?」
突然だった。質問の意図を図りかねてきょとんとする。
照「昔から咲にあれやこれや言いつけて……咲、いつも我慢してるじゃない」
照「心配なんだ。いつかもっとエスカレートするんじゃないかって」
咲「えすかれーと?」
照「あ……えっと、もっとひどくなるんじゃないかって事」
意味するところを理解して、咲は頷く。けれど姉の言葉そのものには相槌を打ちかねた。
しかし姉の視線は険しい。
照「それにあいつはあの打ち方にまで口を出して……!」
その瞬間、姉の内に抱える憤りは、頂点に達していたのだと思う。
表情を怒りに歪め、忌々しげに言葉を吐き出す。それが筆舌に尽くし難い嫌悪を宿している。
けれど、その怒りや嫌悪がふっと和らいだかと思うと、話題は咲の思いがけない流れに移った。
照「ねえ咲、あの丘にいってみない?」
咲「え?」
照「今日は天気がいいしちょうどいいよ。覚えてるでしょ? 一緒にいった、あの丘」
咲「う、うん。覚えてるけど」
照「よかった。用意はもうしてあるんだ。まだお昼過ぎたばかりだし、たくさん遊べるね」
また膝に乗せてあげる。そう言って、姉は嬉しそうに顔を綻ばせる。
咲は笑い返す事ができなかった。今日はもう他の約束があったから。
咲「あ、あの、おねえちゃん」
目の前にはすっかり笑顔を取り戻した姉の姿。なのに、咲の気分は沈む。これから姉の気持ちが良い方向に動かないと半ば理解していたから。
照「どうかした?」
咲「えっと、あのね、それ明日じゃだめ?」
にこにことしていた姉の笑みが固まる。
照「え……どうして?」
咲「今日ほかの人と約束しちゃってたの……ごめんね」
照「……そ、そっか。ならしょうがないね」
なら明日にしよう。改めて約束をとりつけ、姉が笑いかけた。その笑顔はどこかぎこちない。
照「いってらっしゃい。気をつけてね」
見送る姉の姿が一瞬揺らいだ。
その場で姉と別れると、咲は靴を履いて外に出る。
噎せ返るような春の匂い。
約束に向かう道の途中に連なった満開の桜並木。
爽やかな風が通り抜ける。
そんな春爛漫の景色の中を、咲は浮かない顔で歩き続けた。
やがて約束の場所に着く。
桟橋。そこを一望できる自然公園の中に、探していた人のうしろ姿はあった。
背に届く長い髪。丈の短いワンピース。
その女の子は車椅子に乗っていた。
「あ、咲」
歩いてくる咲の姿を認めた女の子が振り返り、声をかけてくる。
咲「こ、こんにちは」
「あはっ、丁寧だ」
緊張して固くなった咲にけらけらと笑う。不思議な子だった。他人との間に張る壁を飛び越えてくる。なのにどうしてか不快さを感じない。
人見知りの気がある咲にも珍しい事だった。
「今日はどうした?」
咲「……やっぱり今日もおねえちゃん怒ってた……」
咲は意を決して口を開く。先ほどの姉の話をする。幼いながら特殊な環境に身を置く咲が心を開く対象は限られていたが、女の子には他の人にしない踏み入った話もできた。
母の事になると話を聞いてくれなくて悲しい事。
最近姉を前にすると萎縮してしまってぎこちなくなる事。
「そっか……大好きだからおねーちゃんにどう接していいかわかんないんだね」
「……うん」と答えたきり咲は沈黙する。しっとりと濡れそぼる空気。ほんの僅かな間静寂が訪れる。
「ねえ、今日はあそこの桟橋にいこうよ」
咲「え、ええっ?」
いきなり話が変わった。驚きのあまり素っ頓狂な声を出す咲に女の子は歯をみせて笑った。
咲「だ、だいじょうぶ?」
「だいじょーぶだいじょーぶ!」
咲「うーん、わかった」
「きりきり押すのだー」
咲はおっかなびっくりハンドルに手を添えると、乞われるまま桟橋に向かって車椅子をこぎ出す。
「あっ、ここまででいいよ」
咲「え? ここでいいの?」
「うん。ここから先は歩くから」
心配した咲が止める間もなく女の子が立ち上がり、よろめく足どりでひょいひょいと歩いていってしまう。
咲は慌てて肩を抱く。
「もうっ、大丈夫っていったのに」
咲「あぶないよっ」
「ぶー」
よろけそうになりながら歩く姿はみていて安心できるものじゃない。指摘すると片頬だけ器用に膨らませてぷりぷりとされる。
「咲は心配性だなー」
咲「そっちが危なっかしいの!」
「知ってた? ウォッカってロシア語で水って意味なんだよ」
咲「そうなんだ……ってだからなんなの!」
幾ら注意しても立て板に水、なのだろうか。咲は諦めきれず奮闘した。
「将来の夢は水族館を作ること!」
数分後、話題は原形を留めていなかった。
咲「お寿司屋さんじゃないんだ」
「わたし泳ぐの好きだったけど、今はもうムリそうだから」
「かわりにお魚さんに泳いでもらうのだ」
「水族館、できたら照おねーちゃんと見にきてね!」
てらいのない笑顔で語る女の子。うやむやにされて釈然としなかった咲もこの時ばかりは「うん!」と目を輝かせた。
「咲はなにかない? 夢」
咲「夢?」
「咲もね、なにか目標があるといいと思うな」
「なんでもいいんだよ。咲のしたいこと。このわたしが手伝ってあげる!」
咲「うーん、夢……」
考え込む。自分に何ができるだろうか。それはあまりにも少なく思える。
「自分じゃなんにもできないって顔してない?」
咲「わたし……とろくさいし……」
「とろくさくないよ。咲がそう思ってるだけ」
「咲は麻雀を極める可能性を持ってる」
「なにかを極めたらね、あとはそこからコツを掴めばいいんだよ」
「だから」
「ネバーギブアップ
ーNever give upー」
咲「……うん! わかったよ!」
「よし! わたしについてきて!」
この時、憂鬱な気持ちは吹き飛び咲に笑顔が戻った。
懐かしい顔を結ぶ像が揺らぐ。
水彩画に水を垂らすようにぐにゃっと歪んだ風景。
波が引く。不意に押し寄せたそれが意識を拐っていった。