咲「……っ!」
驚きに身を竦ませる。考えもしなかった相手だった。
とにかく出なければならないと思い、いつも通り苦闘の末に通話に移る。
咲「もしもし」
はやり『あっ、咲ちゃん? 繋がってよかった、はろはろー☆』
咲「いつも遅くなってすみません……」
はやり『それはもう折り込み済だから気にしないで☆』
咲「ありがとうございます。あの、どうしたんですか?」
大会の間は遠巻きな付き合いに終始すると思っていた。
インターハイで解説をする話は全国大会が始まる前から聞いている。全国の会場で一度出会った際も、特定の選手と長話してはいけないと言っていた。なら、対外的には電話で個人的に接触することも推奨されてはいないはず。
隣でぼうっと空を仰ぐいちご。
彼女があえて彼方に視線をやってくれているのを感じながら、電話口から聞こえる声に集中する。
はやり『うーん、何ていうか今から会える?』
咲「え?」
はやり『もちろん急な話だから断ってくれても大丈夫。ただはやりとしては、やっぱり来てほしいかな☆』
咲「……ええと」
どういう意図なんだろう。警戒や疑いではなく、咲は純粋に疑問を持った。
はやり『気が進まない?』
はやりとは、出場選手と解説者の間柄だから。
そう言って断ることは簡単だ。
電話ならいざ知らず直接会うとなれば情報を遮断するのは難しい。はやりが被害をこうむらないとは限らないと思う。
しかし、はやりの対外的な体面を心配する思いは本当でも、今の咲が迷う理由はそんな純粋なものだけとは言い難い。
はやりに対して誠実でありたかった。言えない事情があっても、明かしたくない過去があっても、力を貸してくれた恩に報いたい。そんな気持ちが混じり物の理由で断る事に対し二の足を踏ませる。
咲「……」
はやり『うーん、厳しいかなぁ……』
咲「あの……」
はやり『うん?』
聞き返すはやりの声。嫌な想像のピースが胸の裡にあった。つい数時間前にも同じ気配を感じた。
それはーー控え室に戻ったときの監督。
咲「理由を教えてください。
それは……会わないとはやりさんが困ることですか?」
はやり『……』
はやりは押し黙った。これは、どういう意味での沈黙だろう。
咲の頭には嫌な想像が組み上がりつつある。まさかとは思う。信じたくない。けれど。
悪い想像に囚われつつある咲は遅ればせながらはやりの名前を口にしてしまったことに気づく。失態だった。
隣にはいちごがいる。幾ら注意を逸らしてくれているとはいえ、あの瞬間に限って聞き逃すか。どう考えても希望的観測だ。
今からでも席を立つべきか。いや、名前を口にしてから離れてはもはや何を隠せるかわからない。
焦燥が募る。恩のあるはやりに被害をこうむらせてしまうことは恐怖だ。そんなことはあってはならない。胸の鼓動が早くなる。
咲「あ、あの」
はやり『試合、みたよ』
咲「っ!」
心臓が脈を打つ。先ほどまでの想像とは違う意味で瀕した驚愕に瞳を見開く。
はやり『どうして……やめちゃったの?』
はやりの声に悲しそうな響きが混じる。
はやり『あの打ち方、それに立ち振舞い……ううん、立ち振舞いは置いとく』
はやり『あの打ち方……昔咲ちゃんが打ってたって話してたものだよね。どんなものかは聞いてないけど』
はやり『あの打ち方には磨かれた深さがあった。あのそつのなさ……ヨミは一朝一夕じゃできない』
はやり『……そうでしょ?』
咲「……はい」
はやりの推察は当たっていた。咲は観念し肯定する。
はやり『あっちで打った方が……確かに強い、とはやりは思う』
その事実を口にする事に抵抗があるようだった。どうしてだろう。不思議に思ったが、淡い疑問は続く声に消し飛んだ。
はやり『でも』
はやり『私は……咲ちゃんにとって嶺上開花が思い入れのあるものなんだと思ってた』
はやり『私はこの打ち方をやめたくない。はやりにそう言ったのは嘘?』
咲「ち、違います……っ」
顔面が蒼白になった。はやりにそう思われたのだと認識したとき、凄まじい恐怖が全身を突き抜けた。
咲「違うんですっ、私本当に……」
躍起になって否定する。そんな自分ははやりの目にどう映るだろう。考えるのも恐い。
けれど一方で咲の心中には絶望にも似た諦めがあった。信じてもらえるわけがない。
咲が決め、咲が行った『パフォーマンス』は今まで築いてきたはやりとの関係、交わしてきた言葉を真っ向から裏切る。
あのとき……インターハイの予選が終わり、念願だった智葉との直接対決に破れ……にも拘わらず、団体戦の先鋒に抜擢された罪悪感に押し潰されそうになっていたとき。
咲ははやりに二度救われた。
呵責に曇る視界を晴らしたあの出会いが、あのとき見失いそうになった縁を繋いでくれた衝撃が、嘘になる。
吹雪の中に裸で放り出されたかのような寒気が襲い、意識が白く弾けたーー。
▼
ーー許されてはならない悪徳は、この世に二つある。
それは、忘恩と殺人だ。
咲「嶺上開花。4000オールです」
都内某所。白塗りの壁が清々しい雀荘。
同卓した三人の男に向けて咲は静かに宣言した。
「いやあ、相変わらず強いねえ」
「ははは、まったく。これだけ強い子もめずらしい」
対局中ながら気楽そうに話しかけてくる男たち。ノーレートの麻雀だからこそ彼らは何ら気負わずにいられた。
咲「……ありがとうございます」
感謝の言葉を返す咲。浮き立つ様子はなく落ちついたものだった。
ここ数日、咲は雀荘に入り浸っていた。無論賭け麻雀を扱うような店ではなく、法的に健全なサービスを提供するところ。
そこで咲は憂さ晴らしをしていた。認めたくない現実を前にして、部活が終わるとすぐに都内を練り歩いた。
「あ、咲ちゃんそろそろ帰る時間じゃないかい?」
咲は店内の壁にかけられた時計をみる。夜の九時半。咲が帰る時間だと言い出す頃合いだった。
咲「あ……そうですね。そろそろ帰らないと」
「もうそんな時間か。あーあ、また女日照りだ」
さざめくように笑いが巻き起こる。
「くくっ、女ならまた来るじゃないか」
「おいおい勘弁してくれよ。訂正、可愛い女の子日照りだ」
この雀荘では女性客は男性に比べれば少なく、咲のような若い女の子となると貴重だった。
同卓したいと他の客から乞われることも多く、咲の場合、勝ちすぎるが目立った問題行動を起こすわけでもない。店側としても歓迎する雰囲気があった。
咲「ごめんなさい。あんまり遅くなると補導されちゃうので……」
「はは、本気にしなくて大丈夫だよ」
「そうそう。また打ってね」
咲「は、はい。私でよければ……」
咲は折り目正しく一礼すると同卓した彼らに別れを告げ、店をあとにする。
開けた天蓋に広がる夜空。繁華街の中程にあるこの辺りは夜になっても店や街灯の灯りで然程暗くなく、雨も降っていなかった。
家路を急ぐ。慣れた道を辿る足は早い。
臨海の学生マンションにはすぐに着いた。制服から着替えた普段着の姿で部屋の扉の前に立つ。
ネリー「あれ? 今帰ったの?」
するとちょうど隣の部屋から出てきたネリーと鉢合わせた。
咲「あ……うん。コンビニまでちょっと買い物」
ネリー「買い物袋は?」
咲「買い食いしちゃった」
ネリー「ふーん、サキが買い食いってめずらしいね?」
咲「私だってたまにはするよ」
適当なところで会話を終え別れる。ネリーは何だか首をかしげていたが、引き止めることはなかった。
今日は夕食を一緒に食べる約束もしていない。咲は安心しつつ部屋に入った。
一LDK。白塗りの壁に栗色のフローリング。清潔感のある淡い色彩の部屋。
臨海の学生マンションの中でも一際優れた物件であるその部屋に足を踏み入れる。
咲「……」
キッチンで立ち尽くす。
ひどい気分に見舞われていた。
咲の胸中に去来するのは強い後悔と、罪の意識。
オーダー発表直後、走り去った咲の元に駆けつけた智葉の言葉を思い出す。
智葉『気にするな……といっても難しいだろうが、気負う必要はない』
智葉『私には団体戦のレギュラーを目指す理由があった。今でもそれは変わらない』
智葉『最初、お前にレギュラーを譲ることはできないと思っていた』
智葉『だが……最近、お前の事が段々とわかってきた。それに変わったよ。最初から素のままでいてくれたらすぐにわかったんだがな』
智葉『だからいいんだ。私に遠慮する必要はない。咲ーーお前が団体戦の先鋒だ』
冷蔵庫から取り出した出来合いの食事を口にしている最中だった。
咲「うっ……!」
トイレに駆け込む。そして吐いた。
ここ数日何度もそうしたように、口にした食事は吐き出されていった。
咲「はあっ……、はあっ……」
やがて吐き出すものが胃液だけになる。咲はトイレから出て、キッチンに戻る。
水道から出した水をコップに入れて飲む。
テーブルに叩きつけるようにコップを置く。
咲「わ、私は……っ」
智葉から、他の日本人部員から、不当にレギュラーを奪った。
たった一枠しかない、智葉や一部の部員にとっては最後の機会だったそれを。
あってはならなかった。そんなことは。
涙が滲む。しかし、すんでのところで流すのは堪えた。
本当に傷ついているのは自分じゃない。目元を乱暴に腕でぬぐう。
その日、咲は食事をとらず入浴だけ済ませて眠った。
眠りは浅かった。
▼
咲「カン。……ツモ」
明くる日、咲は食事をとらず雀荘に通った。学校と部活にも。
咲「ツモーー嶺上開花」
明くる日、咲は食事をとらず雀荘に通った。学校と部活にも。
咲「カン……嶺上開花です」
明くる日、咲は食事をとらず雀荘に通った。学校と部活にも。
咲「……」
明くる日、咲は食事をとらず登校した。そして部活の時間になる。
ネリー「……サキ、きたよ」
咲「ネリーちゃん、いつもありがとう」
咲は笑った。自然な笑みだった。
ネリー「……最近、何だか変じゃない?」
咲「何が?」
ネリー「サキが」
咲「そうかな」
ごまかした。問題はなかった。
そのまま部活に出る。
智葉「……おい咲、ふらふらしていないか」
咲「っ……ご、ごめんなさい」
逃げた。問題はなかった。
咲「カン……ツモ、……嶺上開花です」
雀荘に通う。食事をとらず、水分だけを摂取する生活の中で感性は鋭くなっていく。麻雀の勘は冴え渡っている。
「あ、あちゃあ。また負けちゃったな」
「ほ、本当だな。ははっ……」
しかし段々と鬼気迫る雰囲気を発するようになっていく咲に、同卓する客は恐れを抱くようになる。
店側も腫れ物に触るような扱いになり、咲はそれらを敏感に感じとっていた。
咲「ダメだ……みんな私と打つのが嫌になってきてる」
最初は楽しんでくれていた。勝っても負けても気分よく同卓してくれていたから、咲としても気楽に雀荘を利用できた。
しかし今やそうではない。居心地の悪さを感じはじめていた。
咲「別の場所……探さないと……」
店がテナントに入っている五階建てのビルの階段を降りながら咲は別の場所を探すことを検討する。
憂さ晴らしするものは麻雀以外にも沢山ある。咲に限っていえば、麻雀がそれほど憂さ晴らしになるとは言い難い。
それでも麻雀にこだわるのは何かの糸口を掴めないかという思いが少しでもあるからで、実際こうして食を断ち麻雀に臨む事で研ぎ澄まされていくものがあった。
ただ、麻雀に強くなったからといってどうなると考えてしまう。智葉に勝る実力を示す場所はあの個人戦にあって今さら何をしようと卑怯でしかない。
そして、一度提出されたオーダーは早々変えられない。少なくとも、作戦の変更による都合のような理由では受理されない。
咲「どう、しよう……」
身体がふらつく。階段の段差を踏みしめる足がおぼつかない。
咲「っ……!」
あわや踏み外しそうになったとき、誰かに腕を掴まれぐいっと引き寄せられた。
「おい大丈夫か?」
咲の腕を掴んでいたのは若い男だった。雀荘で見た事がある。スーツを着た中肉中背の男だった。
咲「あっ……ごめんなさい」
咲は謝る。うっかりしていた。
あまり親しくない男性に接近されるのは智葉に助けられたあの出来事もあって恐れがあったが、それを態度に出すのは流石に失礼だった。緊張しながらも咲は咄嗟に頭を下げる。
「無事でよかった。危なかったぞ」
咲「は、はい、本当に……」
「どうしようっていうのは麻雀を打つ場所のことか?」
咲「ありが……え?」
目を丸くする咲。その反応に男はにっと笑う。
「何か麻雀を打ち続けたい理由があるんだろ?」
そうだった。打っていないと、打つ事で現実を見つめ続けないとならない、そんな強迫観念が今の咲の中に渦巻いていた。
咲は戸惑いながらも頷く。男も満足そうに頷いた。
「だったらいい場所がある。いくら勝ってもいいし、時間だって補導が恐ければ車で送っていってやる。どうだ?」
男の話は落ちついて聞けばどこか怪しげだった。しかし、食事を断った極限下で咲はその違和感に気づかない。
咲「お、お願いします。お金なら……ありますから」
上京して以来、膨れ上がった母の仕送りがあった。気が進まず、また必要がなく手をつけていなかったが、最近雀荘を利用するのに咲はそのほんの一部を費やしていた。
「ははっ、そりゃいい。じゃいくか」
男についていき車に乗ると、黒塗りの壁が目につく雀荘へと連れていかれる。
「ここではお金を出して戦うんだ。最初は俺が出してやるよ」
それが賭け麻雀だということに咲はついぞ気づかなかった。
咲「カン……嶺上開花です」
勝ち続ける。低下する判断力に反比例するように麻雀の感性は鋭くなっていく。
今の咲は輪をかけて麻雀の腕に磨きがかかっていた。
勝って、勝って、勝って勝ち続ける。
種銭といわれるはした金だったものがとんでもない金額に膨れ上がっていることなど意識の端にもなく、いつの間にか咲をここに連れてきた男が躍起になって同卓していることにも気づかず、咲はひたすら和了し続けた。
咲「……」
「お、おい!」
咲「あ……次ですか? はい、すぐに……」
「く、クソッ! よくもやってくれたな!」
咲はきょとんとした。どうしてか男が怒り狂っている。
茫洋とした意識の中で彼が自分をここに連れてきてくれた男性だと認識した咲はにっこりと笑う。
咲「あっ……お陰でたくさん打ててます。えっと、どうしたんですか……?」
咲は気づかない。男がどういった意図でこの場所に連れてきたかを。
彼は最初の雀荘で何度か咲と同卓した男だった。
しかし何度も咲に敗れ、プライドを傷つけられていた。
彼は女が男より劣っていると無条件に考えている節があった。そして、男子のインハイを制覇する程度の腕が彼にはあったため、その偏屈なプライドに拍車をかけた。
彼が考えたのは、『自分が負けたのはノーレート麻雀だからだ』ということ。賭け麻雀でなら勝負勘に自信のあった男は咲を遊戯の麻雀しか知らない小娘と侮り、賭け麻雀に誘導した。
普段なら決して乗らない怪しい誘いだったが、咲は乗ってしまった。そして、知らないうちに幾度となく男と賭け麻雀をしていた咲は、何度も種銭を借りて挑んだ男を破滅させていた。
「ふ、ふざけやがって! お前のせいで、俺はっ、俺はなあっ!」
「失礼、時間です」
「あっ、クソッ離せ! 嫌だ! 地下は嫌だあああっ!!」
男が黒服の屈強な男性たちに連れていかれるのを呆然と見つめる咲。
「クソォッ、何が嶺上の幽鬼だ! この疫病神がッ!!」
疫病神。その言葉は智葉を始めとする日本人部員にとんでもない厄をもたらした咲の心に深く突き刺さった。
「失礼します、次の対戦の時間ですがよろしいでしょうか」
咲「えっ……あ、え……?」
その段階になって自分が何をしていたか気づき始めた咲は当惑の色を瞳に浮かべて黒服を見返す。
だが確認は形式的なものだったらしく彼はいそいそと下がっていく。
卓にはいつの間にか三人の男が座っていた。
咲「あの……」
「よろしくお願いします」
そう挨拶してきたのは真向かいに座るスーツ姿の男。
やり手の銀行マンといった風貌。蛇のように執念深そうな目つきが印象的だった。
咲の返しを待たず対局が始まる。始まってすぐ、咲の勘が違和感を訴えた。
「ほい」
「ロン」
「あちゃあ~当たっちまったか」
ノミ手。咲はカン材が揃えば倍満以上確定の怪物手。
次局が始まる。次局以降も、ここぞという場面で差し込み、見逃し、鳴かせたりといったことが相次ぐ。
そういったことに疎い咲でもしばらく打っていれば違和感の正体に当たりをつけていた。
咲「……」
「おや、どうかしましたか?」
手を止めた咲に話しかけたのは真向かいの男だった。
蛇のような瞳がぎょろりと咲の姿をとらえる。
咲「どうして……こんなことをするんですか?」
「というと?」
咲「……言わなくてもわかりますよね。どうして、そんなことしなくても……」
真向かいの男は咲をしのぐ実力を持っているように思えた。このような対局では推し量れないところがあったが、彼らは咲を負けさせる、その一点に心血を注いでいるように思えた。
「やりすぎたんですよ。君が大損させた人の中には敵に回しちゃいけない人間の息子がいた」
「警告はしたはずなんですがね……恥をかかせてはならない相手だと」
恐らくそのとき咲は無我夢中で麻雀を打っていただろう。耳に入っていなかったのだと思う。今になっても思い出せなかった。
咲「……負けると……恥をかくんですか?」
確かにお金を失ったのなら不快になってもおかしくない。しかし、考えが顔に出ていたのか、真向かいの男はくっと口角をつり上げて笑った。
「金銭的な問題じゃないんですよ。こういうのはね」
咲「……」
「わからないって顔だ。いいですね、純粋というのは」
「それだけに……これから君が辿る末路が残念でならないよ」
「これに負ければ君は持ち金を全て失うだけじゃ済まない」
黒服が何かを伝えるように真向かいの男の隣に立つ。
「わかりましたよ。無駄話はもうやめます」
「さあ、続きを打ってください。伝えたルールにある通り、五分以上の長考はチョンボですよ」
それだけ伝え口を閉じる。話は終わったようだった。
咲は、どこか夢心地だった気分が段々と醒めてくるのを感じていた。
自分は、何をしていたんだろう。認めたくないが違法行為を犯していたと考えざるを得ない。
咲「……」
賭け麻雀。そんなことに手を染めた事実が明るみになれば、事は咲個人の進退にとどまらない。
臨海女子の不祥事となる。自分が犯した過ちの重大さに冷や汗が流れた。
後ろからゆらりと忍び寄る、破滅の足音が聞こえる。
「どうなされましたか。チョンボとなるまで残り二分となりましたが」
咲「……」
黒服から声がかかる。咲は応えない。状況を整理していた。
対局は一半荘。残りは咲の親番を含む三局。点差は、トップと三万点差のラス。相手は結託している疑いあり。
それでも咲には勝算があった。不正行為になど頼らない、真っ当なやり方で。
打ち方を変えるだけでいい。それだけでこの場はしのげる。
咲「……でも、そんなことしても……」
しかし、咲は現状を認識する。
咲は、臨海の不祥事となる重大な過ちを犯した。それも、智葉や他の皆に顔向けできないような、面汚しと謗られるようなことを。
もはや勝とうが負けようが関係ない。取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
なら、この場をしのいだところで何になるのか。
咲「……」
「……あの」
咲「……すみません。打ちます」
嶺上開花にさえこだわらなければ勝てる。そんな状況で咲は打ち方を変えず、対局を再開する。
瞬く間に二局が消化され、オーラス、咲の親が回ってくる。
咲「……照お姉ちゃん……」
もうしばらく会っていない人の名前を呟く。救いを求めたのではない、ただ気持ちを伝えていなかった事に仄かな後悔がよぎった。
▼
絶望的な戦局に挑む少女の姿を見つめる視線があった。
視線の主は……瑞原はやり。牌のおねえさんの別名で知られるタレント雀士。
はやり「……」
彼女は随分と長い間その卓を眺めていた。
無論、健全なアイドルである彼女に賭博麻雀のような後ろめたい世界と関わり合いはない。
夜の街で休みがてら少し麻雀でもみようと思ったら性質の悪い店に足を踏み入れてしまい、すぐに出ようとした。
しかし卓を見渡してみれば年若い少女がその中にいるではないか。
それもひどく相手に負けを込ませている。みていればその歳にしてはかなり高いレベルにあり、今度はやりも解説に呼ばれたインターハイの全国でも活躍が期待できるほどだった。
それにどこかで見たような気がする。
キャスケット帽や眼鏡などで変装していたはやりは近くにいた店の給仕を呼びつけ、少女について聞く。
話によると彼女はごく最近見かけるようになった客で、ひたすら勝ち続けているらしい。
この業界に詳しくないはやりにもそれがリスキーな行為だということは想像がつく。
縄張り社会といわれる裏世界で、外様の人間が好き勝手に振る舞えばどうなるか。危険は火を見るより明らかだった。
そして耳をそば立てていると彼女が次に持ち金全てを賭けた勝負に臨む事が伝わってくる。
対して、少女はあっさりと受け入れ……はやりは少女の様子がおかしいと思い始める。
はやり「……何だか心ここにあらずっていうか、憔悴してるような……」
対局が始まる。トビなしの二万五千点持ちの三万点返し。
はやり「っ……!」
始まってすぐ気づく。相手の三人が結託している。
それに少女の真向かいに座る男は並の打ち手ではなかった。ぱっと見た印象ではプロに迫るのではないかというほどだった。
少女が段々と追いつめられていく。
なのに、彼女の表情に悲壮の色はなくただ何かを堪えるようにしている。
はやりは席を移動しその卓の近くの空き席に腰を下ろす。麻雀も打たず観戦するはやりに店の人間が渋い顔をするのがちらりと目に入ったが、構ってられなかった。
牌のおねえさんとしてのはやりはみすみす子供の危機を見過ごせない。そして。
「どうして……こんなことをするんですか?」
「というと?」
「……言わなくてもわかりますよね。どうして、そんなことしなくても……」
近くに寄るとちょうど手を止めた少女が話している。
その姿をみて薄ぼんやりとした記憶がさらに刺激される。
「やりすぎたんですよ。君が大損させた人の中には敵に回しちゃいけない人間の息子がいた」
「警告はしたはずなんですがね……恥をかかせてはならない相手だと」
「……負けると……恥をかくんですか?」
「金銭的な問題じゃないんですよ。こういうのはね」
「……」
「わからないって顔だ。いいですね、純粋というのは」
「それだけに……これから君が辿る末路が残念でならないよ」
「これに負ければ君は持ち金を全て失うだけじゃ済まない」
「わかりましたよ。無駄話はもうやめます」
「さあ、続きを打ってください。伝えたルールにある通り、五分以上の長考はチョンボですよ」
はやりが傍観する間にも状況は刻一刻と変化していく。
少女はまだ考え込んでいる。黒服が注意しても気に止めていない、というより気づく余裕もないようだった。
「……でも、そんなことしても……」
少女が何事か呟く。意味はわからない、わからないが、はやりはどうしてかそれを見過ごしてはならない気がした。
「……」
「……あの」
「……すみません。打ちます」
少女がようやく応え、対局が再開される。
瞬く間に結託した三人により場が流されていく。少女に迫った危機が、破滅が目に見える。
そんな中ではやりは少女が時々手をとめ、何か違うものを見ていると気づく。
それは確率の偏りを意識して打つもの特有の癖。幾度となく同じようなタイプをみてきた経験がなせる知見。
「……照お姉ちゃん……」
少女は、茶色い髪を肩にかかるほどの長さにした彼女は、その偏りを無視して打っていた。自分でも気づいていないだろう、盗み見た彼らの手牌をみればその片鱗が顔を出している。
彼女は力を出しきらない。破滅が目に見えているにも拘わらず。
それを認識した瞬間、はやりは駆け出していた。
人間の性向には「ハムレット型」と「ドンキホーテ型」の二つのタイプがある。
ハムレット型は悲観的で行動よりも思案の傾向があり、
ドンキホーテ型は楽観的で、考えるより先に行動するタイプである。
はやりは考えるより先に決断していた。
はやり「その対局、ちょおっと待ったあっ!」
▼
「その対局、ちょおっと待ったあっ!」
明るい声が轟き渡った。
この場には場違いな、綺麗な透き通った声。
それは、オーラスに臨もうとしていた咲の意識を、この場に居合わせた人間全ての意識を縫いとめた。
「失礼、どなたでしょうか」
いち早く職分を思い出した黒服たちに脇を固められる。
「私は通りすがりのおねえさん! 未来ある子どもをこよなく愛するアラサーだよ!」
誰もが目を点にした。
脇を固めた黒服もあっけにとられていたが、やはりそれだけで引き下がるような生易しい相手ではなかった。
「……失礼、どちら様でしょうか」
改めて黒服が問い質す。
咲は突然出てきた正体不明のアラサーにどうかすぐ逃げ出してくれと願った。
何を考えているかはわからないが、彼女がひどい目にあうのは避けたかった。
「おうおうっ、黙ってみてりゃ卑怯なマネするじゃねーか! 悪い子はオシオキだぞっ☆」
「申し訳ありません、どちら様ですか」
「うっ」
アラサーが押し黙る。考えがあっての割り込み、ではないのだろうか。
未だに呆然とする咲を指差したかと思うと、彼女は高らかに言った。
「そっちこそ、この子をどなたと心得るっ!」
「は?」
「畏れ多くも宮永家の末娘、宮永咲ちゃんであるぞっ!」
咲はまた驚く。自分の名前を知っている。どころか、家の末娘であることまで。
「み、宮永、咲……?」
「おうそうだっ、ちょっとお前らのボスに確認してこいやあーっ!」
「ひ、ひいっ……」
何だかわからないうちに黒服も雰囲気に呑まれ、駆け出していってしまった。
卓が、場が、水を打ったように静まり返る。
咲「あの、あなたは……」
「うん? あっ、にゃはっ、にゃはははっ、大丈夫だった? 乱暴なことされてない?」
咲「さ、されてませんけど……」
何なのだろう。この人は。
咲は泡を食いながら返す。
「そっか、なら安心したよっ☆」
季節外れのマフラーを口元に巻いた彼女は少しの間それを取り、煌めかんばかりの笑顔を覗かせる。
咲「っーー!」
思わずどきりとさせられる笑顔だった。
冷淡で厳めしい顔つきが並ぶこの場に似つかわしくない、けれど心惹かれる表情。
この極限的な状況下にあってそれは、咲に理由なき安心感を与えた。
だが。咲は表情をひきしめる。
咲「あの……本当にどういうつもりで」
「はや、私としてはあなたみたいな子がひどい目にあうのを見過ごせないかなーって」
咲「……」
俄には信じ難い話だ。それだけの理由で強面が居並ぶこの場に踏み入ったのか。
口先で言えてもそうそう出来ることじゃなかった。
「バカヤローッ!!」
咲が絶句したそのとき、黒服が消えていった奥の扉が開き、怒号が届いた。
「貴様……宮永だと!?」
「ひっ、は、はい……」
「……ソイツは手を出しちゃいけない家の娘だ。今日本の裏社会で実権を握ってる大陸系の組織だって避けて通る……宮永はなぁ、決して敵に回しちゃいけねえんだ」
「しかも咲だと!? 貴様っ、それは直系の……当主の娘の名前だぞ!!」
「今すぐお詫びしろ……! 貴様の命で済んだらいいがなあ……!」
「ひいっ!? は、はひぃっ……!」
奥から出てきた黒服が先ほど駆け込んでいった黒服に怒鳴り散らし、命令を出す。
それからすぐに咲たちがいるテーブルに舞い戻ってくると、黒服は土下座せんばかりの勢いで腰を折り、深く頭を下げた。
「も、申し訳ありませんでした……! 宮永家のご息女と知らず大変な失礼を……!」
「卓はすぐに引き払わせます、賭け金もどうぞお持ちください!」
「ですから、ですからどうかご実家にこの事は……!」
黒服の勢いに押されて他の黒服も揃って頭を下げる。
先ほどまでの威圧的な態度は微塵もない。見事なまでのトップダウンぶりだった。
「はや、はややっ……これはいったい……」
見知らぬ女性が慌てている。彼女としてもこの展開は予想外らしい。
咲は空気が大きく変わったことを敏感に察し、交渉にうって出た。
咲「あの……」
「な、何でございましょうっ」
咲「お金はいりません。なので……あの、賭け麻雀……ですよねこれ」
「はい、その通りでございます……!」
咲「私が賭け麻雀していたこと……漏らさないようにしてもらえませんか?」
「は……」
黒服は返事に躊躇した。しかし隣にやってきた元締め風の黒服が彼に釘を刺す。
「おい……これで弱みを握ったなんて考えるなよ。あの家はな、そういった駆け引きの外にある連中が集まった家だ……」
「日本の暴力団が勢力を縮小していく一方、大陸から乗り込んで喧嘩を売った組織がある……そいつらがどうなったと思う?」
元締め風の黒服が凄絶な表情を浮かべる。
「全滅だよ……大陸じゃ裏社会の一角を担ってたそいつらは軒並み駆逐され、裏社会から放逐された」
「……バカな事は考えん事だ。奴らは表社会の象徴だが、実態は裏社会よりもえげつない」
黒服たちが押し黙る。見知らぬ女性も、咲すらも押し黙った。
咲は家がそこまでの事をするとは知らなかった。名前は聞くが、清い活動をすると思っていたからだ。
咲「あの、家にこの事は話しません……約束します」
咲は立ち上がり、礼節を示すように頭を深く下げた。
「……ありがとうございます。お嬢様が稼いだこちらの一千万はせめてもの迷惑料としてお持ち下さい」
そつのない所作で元締め風の黒服も一礼し、アタッシュケースに入った現金を開けて示す。
咲「え……」
咲は言葉を失った。
そんなにもらっても実家から離れて暮らす咲には手に余る額だ。
咲「お聞きしたいんですけど……このお金はえっと、大丈夫なお金ですか?」
我ながらこの聞き方はないなと思う咲だったが、他に思い浮かばなかった。恐らくニュアンスは伝わるだろう。
なけなしの勇気を振り絞り元締め風の黒服と目を合わせる。彼は慌てた様子で言った。
「も、もちろん……! きっちりと洗浄を済ませたカネです。この首をかけたって構いません」
そこまで言うなら大丈夫だろうか。咲は頷くと見知らぬ女性に向き直った。
咲「あの、よかったらもらってくれませんか?」
「えっ?」
咲「せめてものお礼です……お陰で助かりました」
それは状況的なものと気持ちの上での事、両方の意味でだ。
咲では実家を引き合いに出すことを思いつかなかったし、あの言葉、あの笑顔には正直救われた。
絶望に押し潰されかけた咲の心を繋ぎ止めてくれた。
咲「何だったらお金は実家に頼んで何の心配もないものに替えてもらいます。そっちのほうがいいですよね」
頭の中でどう頼もうか算段を立てつつ話す。
「うーん、気持ちは嬉しいんだけどそのお金はもらえないかなーって」
咲「えっ?」
しかし見知らぬ女性は固辞した。
「そのお金をもらっちゃったら咲ちゃんを宮永家の娘さんとしてみなきゃいけなくなる。だから……見返りはもらえないよ☆」
咲「そんな……」
だったらどうお礼すればいいだろう。咲は困惑しつつも、その無欲さに敬意を抱く。
「あーっ、断っちゃったよう……一千万あればお家のローンがどれだけ……うわー、うわーっ」
咲「……」
しかし見ている前で後ろを向いて呟きだす彼女をみて、咲は唖然とする。
少しして、くすりと笑いが漏れる。失望したのではない、親しみを覚えた。
そして、はっとする。もう随分と遅い時間だ。壁にある時計をみれば夜の九時。
咲「ええと……黒服の皆さん、そろそろ帰らせてもらっていいですか?」
「は……え、ええ、もちろん。それでしたらお送りして……」
「あ、それだったら私が送ります」
呻いていた彼女がきりっとして口を出す。
「いこっか咲ちゃん、早くここを出ようっ☆」
咲「え、うわっ」
手を引かれ、たたらを踏む。
「お嬢様、お帰りですか?」
咲「へっ?」
手を引かれながら、声をかけられる。
真向かいに座っていたスーツの男性だった。
「驚いたな……ねんねだとは思ってましたが、本物のお嬢様だったとは」
咲「……」
「それであの宮永のご息女だというんだから……俺も歳を食っている割にものを知らなかったらしい」
そう話す男はどうしてか嬉しげに笑みを零していた。
咲にはその心中が理解できない。それは彼の歩んできた人生がどんなものか想像できないからだ。
「卑賤な身でこんな事を言うのは憚られますが……どうかそのままでいてください。きっとそれに救われる人間がいる。心の片隅にでも留めておいてくれたら嬉しい」
咲は何だかよくわからないままに頷いていた。手を引かれる。今度はその力に逆らわなかった。
「ねえ、お家はどこ?」
雀荘を出て街を歩き出してから女性が聞いてくる。
まさか身柄目的だとは思いたくないが、咲は思わず身を固くしてしまう。
咲「ええと……」
口頭で住所を伝える。
学生マンションは高級住宅街の一角に立っている事もあり、場所は問題なく伝わったようだ。
女性に手を引かれるままついていくと、時間貸駐車場に到着する。
そのまま車に乗り込む。白いワンボックスだった。
「ふう~、何とか抜け出せたね」
咲「そ、そうですね」
まだ心臓がばくばくとしていた。
絶望的な状況から抜け出したばかり、食事を断ち精神的には不調が続く中で咲の緊張はどこかネジが外れている。
臨海の不祥事という災いの種をなくせた一方で、これでよかったのかという気持ちがある。
咲「……」
「んっ、しょ……」
咲が考え込んでいると運転席からごそごそと衣擦れの音が聞こえてくる。
咲「わっ、あの……?」
みてみると、季節外れのマフラーなどの厚着や眼鏡を外し、その下からフリフリとしたヒラヒラの服が出てくる。
「あっ、気にしないで。これは変装だったの☆」
咲「へっ、え……?」
ついに季節に合った装いになった。こちらを向き白い歯を見せて笑う彼女。
その容姿に見覚えがあった。痛烈な既視感が襲う。
咲「み、瑞原はやりさん、ですか……?」
「あっ、知ってた?」
はやり「はやや~、だったらうれしいなっ☆」
煌めくような笑みを湛えてはやりが返す。
咲「……」
対する咲は開いた口が塞がらない状態だ。
車が走り出す。ゆっくりとした発進だった。
車窓に視線を転じれば都内の街並みが切るように流れていく。
はやり「ね、どうしてあんなところにいたの?」
走り出してから少ししてはやりが訊いた。痛いところを突っ込まれた咲は「うっ」と呻く。
咲「信じてもらえないと思いますけど……よくわからないんです」
咲はわかる限りの事情をはやりに話した。
ノーレートの雀荘でひたすら打ち続けた事、ある事情から食事をとっておらずそんな自分が発する異様な雰囲気から居づらくなった事。
今思えば怪しげな男性に誘われ別の雀荘を紹介された事、麻雀以外目に入らず無我夢中で打っていたらあんな状況になっていた事。
真剣な表情で聞き入っていたはやりだが、やがて眉をひそめた。明らかにそうしているとわかる仕草で、咲は直感的に信じてもらえなかったのだと思った。
はやり「ねえ咲ちゃん」
咲「はい……」
はやり「もうそんなことしちゃめっ、だよ?」
咲「……ふえ?」
ぽかんとした。予想と異なる言葉だった。
はやり「雀荘みたいなところには一人でいかないこと!」
はやり「これからずっととはいえないけど……そうだね、よおしっ☆」
信号待ちで一時停止した車内ではやりが両手で自身の頬を挟むように叩く。
はやり「はやりが連れていってあげるっ、仕事で都合がつかない時期もあるけど……そういうときはお友達に頼んで☆」
そんなことを言われる。咲は現在を含め今までの出来事が夢なんじゃないかと思い始めていたが、
はやり「返事はっ!」
咲「は、はうっ!」
勢いよく返事した。つもりだったが噛んだ。
はやり「はやや~」
悶絶する咲にはやりは困ったように笑う。
はやり「咲ちゃんは今日からはやりのお弟子さんだよ。雑務のない付き人ってところかなっ☆」
テレビでも見たことのある輝かんばかりの笑顔。
しかし状況だけに感激より戸惑いが先に立つ。
咲「そんな、瑞原さんにそこまでしてもらうわけには……」
はやり「はやりさん」
咲「あの」
はやり「はやりって呼んで」
咲「……はやりさん」
はやり「よし契約成立っ!」
咲「ええ!?」
はやりはまた笑いかけた。
本当に綺麗な笑顔。見られることを意識して磨かれた魅力的なそれに咲はただ圧倒されるばかりだ。
はやり「咲ちゃんははやりに一千万円くれようとした」
はやり「だからやっぱりはやりは一千万円もらったようなものなんだよ!」
はやり「それに後進育ててみたかったんだ~」
反論を許さずどんどん畳みかけてくる。
はやりの中で話はもう固まっているようだった。
はやり「っていうかまずは食事できないのをなんとかしないとねっ」
ぽんぽんと出てくる話についていけない。おろおろとする咲。
はやりはぴっと親指を立てると可憐に笑う。
はやり「よろしくね、咲ちゃん!」
咲「み、瑞原さん」
はやり「はやりさん☆」
咲「……はやりさぁん」
強引に振り回され続けてちょっと涙目になる。
咲「……きゅう」
はやり「さ、咲ちゃん!?」
というか空腹やら何やら色々といい加減限界だった。
急激に遠のいていく意識。自分の身を誰かに委ねるに等しい状況。
けれど。
はやり「咲ちゃんっ、咲ちゃんっ?」
咲「……ありがとう……ございます……」
その中で咲は不思議な安らぎを覚えながら意識を手放す。
眠りではなかったが。
今度のそれは深かった。
▼
引き伸ばしたように長く感じられる一瞬。
はやりからの返事を待つ。
恐怖に携帯端末を持つ手が震えていた。
はやり『そっか☆』
だから電話口からすっとんきょうな声が聞こえたとき、咲はそれがどういう意味の返答か判断しかねた。
いや、それは上っ面をとらえた思考だ。心の奥底ではご託はいいという意味に違いないと断定している。
絶望的な心境で咲はその声を聞いていた。
はやり『あっ、これだと誤解させちゃうかもしれないね。はやり信じるよ、咲ちゃんの言葉!』
咲「は……」
衝撃に息がつまる。陸にあげられた魚のように大きく口を開きながら言葉を咀嚼する。
信じられた咲の方が半信半疑だった。
咲「あの……」
はやり『うん?』
咲「本当に……信じてくれるんですか……?」
はやり『…………ふふっ』
間を置いて電話口から笑い声が漏れ聞こえてくる。
また悪い想像を膨らましつつ咲が固まっていると、はやりは「ごめんごめん」と前置きしながら続ける。
はやり『ね、やっぱり会おうよ咲ちゃん』
咲「は、はやりさ、あっ」
また呼んでしまった。咲は自分の迂闊さを呪った。
はやり『気にしなくていいよ。大丈夫だから』
咲「本当に……? ……いえ、とにかくわかりました。どこにいけばいいですか?」
はやり『今どこにいるの?』
咲「渋谷の……青山熊野神社です」
はやり『あ、えっとねそれじゃーー』
待ち合わせ場所を伝えられる。渋谷センター街にあるデパート。人目につきやすい場所に咲は少し不安になったが了承し、通話が終わりそうな雰囲気になる。
はやり『それじゃ』
咲「あのっ、ちょっとだけ待ってください」
はやり『うん?』
咲「私の……家のことは知ってますよね?」
はやり『知ってるけど、どうかしたの?』
咲はごくりと唾を飲み込む。
意を決しその問いを投げかける。
咲「うちの家から……何か言われてませんか?」
祈るような心持ちではやりの返事を待った。
はやり『あー……だからちょっと様子が変だったのかぁ』
はやり『うーん、それらしいことはないよ』
咲「そう、ですか……」
杞憂だった、のだろうか。
この点に関して疑り深くなっている咲の疑念は尽きないが、はやりの言葉を信用したくもある。
最終的に咲ははやりの言葉を信じた。
咲「変なことを聞いちゃってすみません。それじゃあデパートで」
はやり『……うん、待ってるよっ☆』
通話が切れる。
咲はすぐ隣に視線を移した。
いちご「むー……」
すると必死に耳を塞いでいるいちごが目に入る。
咲「佐々野さん……?」
呼びかけながら肩をちょんちょんと叩く。
すると空を見上げていたいちごの首がぐるんと回り咲の正面を向いた。
いちご「あ、終わったかのう?」
こくこくと頷いて視覚で伝えると、いちごは耳から手を外し、緊張から解放されたとばかりに息を吐く。
咲「すみません、こんな気を遣わせるなら離れた方がよかったですね……」
途中から周りを気にする余裕もなかった。
はやりといちご、どちらにとっても迷惑をかける形になって失敗を悟る。
しかし実際、聞かれていないなら咲の懸念は大幅に解消されるし、気持ち的にも楽になる。
いちごの心遣いに深い感謝を抱いた。
いちご「まーあれも途中から案外楽しかった」
咲「そうですか……?」
いちご「そうそう、宮永さんは気にしいじゃのう」
それは、否定できない。
ほどよく楽観的になれたらとは思うものの、いつも悪い方向に空回りする思考を抑えられない。
それだけならまだしも大抵相手に気を遣わせてしまうのだから忸怩たる思いに駆られる。
咲「やっぱり、考えすぎなんでしょうか私」
いちご「んーちょこっと接したちゃちゃのんがそう思うからのう」
やはり、人の目にそう映る。
はやりとの約束を気にかけながら咲は伝えたい事を絞った。
咲「この前相談に乗ってもらったことも考えすぎでした……みんな、受け入れてくれました」
打ち方を変えた上でのあの振る舞い、悪い想像ばかりを巡らしていた咲だったが、結局アドバイスの通り杞憂らしかった。
いちご「そうか!」
明るい返事が返ってくる。
いちご「安心した、本当によかったのう」
いちご「もう一人もそれを聞いたら語尾を伸ばしながら飛びはねそうじゃ」
元はといえばこの神社でふらりと居合わせただけなのに我が事のように喜んでくれる。
気恥ずかしく嬉しくもある気持ちにはにかみながら、咲は感謝を告げる。
咲「本当にありがとうございました……お二人の励ましがなかったら恐くて逃げ出してたかもしれません」
いちご「ん、それもまあお互い様じゃ」
咲「お互い様?」
いちご「さっき励ましてくれたじゃろ? 東京バナナもくれたし」
咲「そ、そこは愚痴も聞いてくれたしとかじゃないんですね」
東京バナナの価値はかなり高騰しているらしかった。
思わず笑みが零れる。他県民が喜ぶというなら咲だって長野県民だというのに。何だかおかしかった。
いちご「なあ宮永さん、携番交換せんか?」
咲「えっ」
だから不意に持ちかけられた誘いに驚きの声が漏れる。
いちご「なんかまずかった?」
咲「あ、いえちょっと驚いただけで。こちらこそお願いします」
電話番号の交換はすぐに終わった。電話帳に一つ増えた名前を確認してスカートのポケットに携帯端末をしまう。
咲「じゃあ……これから人に会うことになったのでこの辺で失礼します」
いちご「そうか、ちゃちゃのんはもうしばらくここにおるけど気にせんでくれ」
いちごと別れる。その足で咲は神社を出て、渋谷のセンター街へと向かった。
▼
はやり「やー咲ちゃん、こっちこっち!」
渋谷センター街の中程にある大きなデパート。
バスケ通りを急ぎ通ってきた咲は、今度は迷わなかったことにほっと息をつきながら手を振るはやりに振り返した。
咲「はやりさん、こんにちは」
はやり「うん、こんにちはっ☆」
行き交う大勢の客を避けながらはやりの元までたどり着き挨拶を交わす。
いつも通りフリフリのヒラヒラな服装。抜群のスタイル。
人気がある牌のおねえさんの姿は人通りの激しい大型デパートの中にあっても目立つらしく、通りすがる人がちらちらと視線を飛ばしている。
咲はそんな衆目が気になった。
咲「あの……いらない心配だとは思うんですけど」
はやり「ん?」
咲「よかったんですか? 出場選手の私とこんな大っぴらに。大丈夫なのかなって」
はやり「あー大丈夫、何とかなるなる☆」
もちろん考えはあるらしい。そもそも、ガチガチに交際が禁止されているわけでもないのか。咲ははやりの判断に一先ず身を委ねた。
はやり「それでね、呼び出したワケなんだけど」
デパートの中を歩いて移動しながら切り出してくる。
咲は固唾を飲みはやりからの言葉を待った。
はやり「インハイ終わったらキャンプでもしようかと思っててね、咲ちゃんを誘いにきたのだ☆」
咲「へっ?」
はやり「あっその顔、いいね~。内緒で準備してた甲斐あったな」
咲「え、でも……本当にそれで? 何かの隠喩とかじゃなくて?」
はやり「あはは、深読みしすぎ」
いつものふわふわとした笑みを浮かべるはやり。
圧倒されていた咲も、変わらない様子に自然とリラックスする。
咲「わあ、キャンプなんて学校の行事以外でいくの初めてです」
はやり「それはもったいない。ふむっ、はやりお姉さんに任せなさい」
咲「は、はい。おまかせします」
はやり「手とり足とり教えてあげるね~」
咲「きゃーやらしい手の動きやめてください」
ふざけたやりとりをしているうちにフロアを幾つか移動し、キャンプ用品を取り扱うレジャー売り場に着く。
はやり「ん~」
咲「あれどうしたんですかはやりさん、探しものですか?」
レジャー売り場につくなりきょろきょろとしだすはやりに咲は首をかしげる。
売り物を探している割には通りゆく人を追って視線が動いているし、妙な感じだった。
はやり「あっいた、咲ちゃんこっちこっち」
咲「は、はい」
手招きするはやりについていく。
するとその先には。
「あ~また負けた。何がいけないのかねぇ」
携帯型のハードを手に、売り物の青いキャンプシートの上でゲームに興じる妙齢の女性がいた。
はやり「おーい、うたりーん」
「そういう君ははやりん」
はやり「山形県では語尾に『ッス』をつけると敬語になります」
「ハイッス」
はやり「準備はいい?」
「バッチリッス。ウス」
咲よりも一回り小さい振り袖姿の彼女はゲーム機をバッグに押し込むと、早足と感じさせない程度にいそいそと咲たちの方へ歩み寄ってくる。
歩きにくそうな格好に反して滑らかな足どりだった。
「やーやーお二人さんいらっしゃい。席は暖めといたよ」
咏「あ、そっちの子に自己紹介しとくね。私は三尋木咏、プロ雀士やってまーす」
咲「三尋木プロ……」
それは、世情に聡いとはいえない咲でも知っているプロ雀士。
所属チームを優勝に導いたのみならず個人でも首位打点王とゴールドハンドを受賞。
日本代表の先鋒も務め、堂々たる経歴を持つトッププロの一人。
咲「……あっ、は、はじめまして。宮永咲です」
ぼけっとしていたが我に返り慌てて頭を下げる。
咏「……ふーむ」
咲「……」
咏「ふむふむ」
咲「……」
咏「あーなるほどね、オッケーオッケー」
咲「……?」
頭からつま先までためつすがめつ観察される。下から覗き込んだり、背伸びして上から見ようとしたり。
顔のあたりを念入りにみていたが意味のわからない咲は疑問符を浮かべる。
咏「君って界さんの娘さんでしょ?」
ずばり言い当てるようにしたり顔で訊かれ、咲は驚いた。
咲「父のお知り合いですか?」
咏「まー知り合いっていうか」
咏「ほら私ってインハイの解説っしょ? 麻雀協会員でインハイスタッフに呼ばれた界さんとはいわば同僚なんだよねぇ」
フリフリと和服の袖を振りながら説明してくれる。
咏「界さんすっげー君のこと自慢すっからさ、会う前から見た目とか大体知ってたんだ」
咲「そうなんですか。どうりで……」
はやり「界さん? その人が咲ちゃんのお父さんなの?」
咏「はやりさんは会ったことなかった? まー裏方の人だからねぃ」
ヒラヒラと袖を振る。テレビでも見かけた仕草だが癖なんだろうか。異彩を放つ和服もさることながらそういう仕草は愛嬌を感じさせた。
肩肘張らない親しみやすい人柄ということもあり、咲の警戒心も薄れていく。
はやり「むむっ、どんな感じか気になるなぁ。似てた?」
咏「そんなには似てないかなぁ。母方の血が強いんじゃね? しらんけど」
はやり「はやや、むくつけきって感じだったらどうしよう。ねえ咲ちゃん」
はやりから父がどんな感じか訊かれる。大体の特徴を答えると横から咏が「やさぐれたオッサン」という印象を足す。
咲は思わず噴き出しそうになった。
その瞬間、店内にアナウンスが流れる。
『瑞原はやり様、お客様がお見えになっています。一階サービスカウンターまでお越しください』
はやり「はやっ、お客さん?」
はやりが首をかしげた。
咏「誰かが会いにきたんですかね?」
はやり「うーんマネージャーくらいしか行き先は告げてないんだけど……一応いってくるね」
ごめんと断ってはやりは一階へと向かっていった。
咏「……」
咲「……」
必然的に取り残される二人。
父という共通の話題があるので話は途切れないように咲は思ったが、はやりがいなくなってから、威圧するような空気が漂い始める。
出元は目の前の咏だった。
咲「あの……」
咏「……」
おっかなびっくり声をかける。無言で見つめられる。何か怒らせてしまったのか。刻々と咲の顔色が悪くなっていく。
咏「……」
咲「えっ、え、え……?」
状況は膠着していたかに思えたが、唐突に歩み寄ってくる咏。彼女が発す異様な空気に気圧され、咲は後ろ歩きに後退する。
じりじりと奥の棚に追いつめられていく。天井近くまでそびえる陳列棚が並ぶ一帯。この辺りは人目につきにくい。
そんな情報が脳裏をよぎってびくびくとしながらも咲は勢いに押されて下がる。
やがて商品が並ぶ棚を背にし、下がれなくなる。
最大級の危険を感じた。
咲「ご、ごめんなさいごめんなさい」
咏「ちょい黙って」
咲「はひっ」
人を襲うかのごとき迫真の表情で言い放つ。
そして、ぬっと伸びてきた咏の左手が咲の顔ーーその真横の陳列棚をしたたかに打ちつける。
咏「ちょっと聞きたいことがあるんだ。話してくれる?」
目と鼻の先にまで顔を近づけた咏が、怯える咲の瞳を覗き込みそう問いかけた。