臨海咲SS置き場   作:たこっぴ

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高校編二十八話

 智葉は二リットルのペットボトルを手にしている。先ほど告げた通り切らしたジュースの補充にいってきたのだろう。

 

 普通なら、ありがとうなり気楽に一声かけてもいい場面。しかし現実には沈黙が重苦しく広間を覆っており、皆一ヶ所に立って集まってやたらと深刻そうな表情を浮かべている。その上、視線の行方はこぞって智葉だ。

 

 智葉は不思議そうにした。

 

智葉「どうしたんだ? 何かあったのか」

 

ダヴァン「い、いえ……何かと言いまスカ」

 

 ようやくダヴァンが口を開くが口調は辿々しい。今実際多くに疑惑を持たれているのは智葉だが、その歯切れの悪さはダヴァンこそ弁明に回る下手人のようだ。

 

ネリー「サ、サトハ!」

 

智葉「ん?」

 

ネリー「犯罪はダメだよ!」

 

智葉「はあ?」

 

 ネリーの懸命な告白もちんぷんかんぷん。そんな様子の智葉が不自然に集まっている皆のところへ歩み寄っていく。何人かが智葉との間でネリーの手元に視線をさ迷わせていた。智葉がネリーの手元を覗き込む。

 

智葉「お前らいったい何を見てーーーーあっ」

 

 ぎょっとして間の抜けた声を出した智葉がペットボトルを落とす。

 

明華「智葉……これ落としませんでしたか?」

 

 床に激突する寸前、智葉は急いでペットボトルを受け止めて、明華の質問におそるおそる振り向く。

 

智葉「……それ」

 

 自分の衣服をまさぐる。慌てるあまりペットボトルを持った手とごっちゃになり、右に左に動いた容器が撹拌される始末。明確に認めずとも語るに落ちた状態だった。

 

 だが、そんな智葉に殺到する視線は冷たくはない。衣やハギヨシといった接点の薄い者は流石に警戒の感は拭えないが、咲を始め臨海のメンバーはただただ困惑している、そんな様子だ。

 

ネリー「サトハっ、これどういうこと?」

 

 ネリーが智葉の肩をつかみ、激しく前後に揺らす。

 

智葉「あ……いや、これはだな」

 

明華「智葉、正直に言ってください」

 

 目が泳ぐ智葉の手を包むように握った明華が真摯に訴えかける。

 

ダヴァン「イマなら引き返せマス。犯罪はダメ、ゼッタイ」

 

智葉「ま、待て、違う! 誤解だ!」

 

 手に持つペットボトルを落とさんばかりに狼狽えた智葉が顔色を悪くする。

 

智葉「それは手札というか……説得するのに必要な……」

 

ネリー「説得?」

 

智葉「ーーあっ、いやそうじゃなくて、その」

 

 言い淀み、言葉尻が萎んでいく。この状況で狼狽をあらわにする智葉に周囲の目は自然とひきつけられる。数秒間の沈黙。

 

智葉「…………それは……部員の体調管理の一環だ」

 

 喘ぐように智葉が弁明する。その言葉に聞いていた皆の顔に疑問の色が浮かぶ。

 

ネリー「体調管理?」

 

智葉「そ、そうだ、部員の体調管理は大事だろ?」

 

明華「ですけど咲さんに偏ってるような……」

 

智葉「案外咲は体調を崩しやすい、念のためだ」

 

ハオ「そんなに咲って体調崩してたっけ? 部活ほぼ皆勤ですよ」

 

智葉「うっ」

 

 苦しげに呻く智葉。実際、苦しい言い訳だった。見守る咲の瞳も不安げに揺れる。

 

 疑惑の趨勢を示すかのように数名が咲に寄って立つ。その中から一歩進み出たダヴァンが御仏のごとく慈悲深い微笑を湛え告げる。

 

ダヴァン「いいんデスよサトハ……この盗さーー秘蔵写真を眺めて、日頃の疲れを癒してると認めテモ」

 

智葉「ち、違う! ってそうだ、抽選会! 抽選会のことがあっただろ!」

 

 抽選会。わずかながら臨海の面々の間に理解の色が広がった。

 

明華「そういえば体調を崩してましたね……」

 

智葉「う、うん、私もあの時は驚いた」

 

 呟いて思い返すように明華は彼方を見やる。その脇で申し訳なさそうに目を伏せる咲。

 

 だが、理解されたのは体調不良の事例だ。虚ろな言葉を繰る智葉からは心中の焦燥が透けて見えた。だからだろう。とんでもない発言が間を置かず智葉の口から飛び出す。

 

智葉「だが仕方ない、生理だったんだからな」

 

『は?』

 

 何人かのつぶやきが重なる。その瞬間、智葉を除く誰もが意識を手離したように固まっていた。

 

咲「っ!?」

 

 咲の瞳が限界まで開かれる。他の面々の表情にも、少し遅れて驚愕が浸透していく。

 

ハオ「ああ……あの時の。……生理だったんだ」

 

明華「なるほど……それならしょうがないですね」

 

ダヴァン「ソレであの耳打ちを……」

 

 急速に広がっていく理解。しかし、それにつれてーー。

 

ネリー「……ねえサトハ」

 

 ネリーが口を開く。複雑そうに顔をしかめている。焦りと緊張で一杯一杯の智葉はその様子に息を呑む。

 

智葉「な、何だ?」

 

ネリー「理由はわかったけどさ、それ言っちゃってよかったの?」

 

智葉「ーーーーあ」

 

 ばっと咲の方を振り向く智葉。 咲の顔は、茹で蛸もかくやとばかりに紅潮していた。

 

咲「せ、先輩……ひどいです」

 

智葉「いやっ、これはだな……その」

 

 咲の頬はまだ赤くなる。赤くなる。赤くなる。赤くなってーー駆け出した!

 

咲「言わないでって約束したのにぃ!」

 

智葉「違うんだ咲ぃ!」

 

 智葉の呼びかけ、駆け去る咲の背中に向かって伸ばされた手も虚しく、咲は弾かれるようにその場を飛び出し、襖を開けてその向こうに消えていった。結果として伸ばした方の手にあったペットボトルが、やはり虚しく揺れただけだった。

 

『…………』

 

 突然の出来事に訪れる沈黙。とてつもなく気まずい。少なくとも、智葉は針の筵に座らされたかのような錯覚を覚えた。

 

 少しして閉じられていった襖が静かに開く。

 

咲「あ、あの」

 

 わずかに開いた隙間から、誰かが広間の中を遠慮がちに覗き込み声を出す。それは咲だった。

 

咲「信じてますから……写真をおかしなことに使ってないって」

 

 言い終わったと同時、ぴしゃりと襖が閉じられる。走り去る足音が襖の向こう側から上がった。

 

 再び沈黙のとばりが落ちる。

 

明華「……智葉、何か言うことは?」

 

智葉「ごめん……」

 

 沈黙はすぐに破られた。

 

 

 

 

 

 一部宿泊客での騒動もあったが旅館の夜は恙なく更けていき、咲たち臨海のレギュラー陣は広間で夕食をとる事になる。急遽逗留を決めた衣も一緒だ。

 

ネリー「んー、おいしーねサキ」

 

咲「そうだね……」

 

 直前の騒動があり、絶品の懐石料理に舌鼓を打つとまではできない心境の咲だが、ネリーの言葉に頷く。

 

衣「ふむ、これは美味だ」

 

衣「どれ咲、食べさせてやろう。あーん」

 

咲「あの……私も同じのありますから」

 

 食卓の雰囲気は明るい。直前の騒動が尾を引くかと思われたが、咲の意外な事に衣やハギヨシも気にした素振りを見せなかった。

 

明華「智葉、わかってますね?」

 

智葉「わ、わかってる」

 

智葉「ーーさ、咲っ」

 

咲「え?」

 

智葉「さっきはすまなかったな……口外しないという約束まで破ってしまった」

 

咲「い、いえ……いいんです」

 

咲「あんな状況でしたし先輩も混乱してたでしょうから」

 

咲「こちらこそすみません。思わず飛び出していってしまって」

 

 あのタイミングで飛び出してはまるきり智葉が悪者だ。困らせてしまっただろう。咲は反省していた。

 

智葉「咲……」

 

咲「も、もう話題を掘り返すのはやめましょう。やっぱり恥ずかしいです」

 

 和やかなムードで食事は進む。ダヴァンはというと相変わらずカップ麺まで食卓に添えていたが、もはや衣たちですら指摘しなかった。

 

ネリー「うぬぬ、ちょっと食べづらいかも」

 

ダヴァン「ハフッ、ハフッ」

 

咲「ネリーちゃんたちはお箸使うのにも苦労しそうだもんね。大丈夫?」

 

ダヴァン「ズルルル、ズルッ」

 

ネリー「だ、大丈夫。……でもあとでこの魚の骨とるの手伝って」

 

咲「あはは、わかった」

 

ダヴァン「ハムッ、チュルルルル……ズズ」

 

衣「ふっ、慣れていないとはいえ危なっかしい手つきだ。衣がやってやろうか」

 

ダヴァン「ズズズーーッ」

 

ネリー「サキにお願いしてるんだよ。チビスケはお呼びじゃない!」

 

ダヴァン「ズーーーーーーーーーーッ」

 

衣「なにをっ」

 

咲「ふ、二人とも喧嘩しないで……衣さん」

 

ダヴァン「モグモグ……」

 

衣「ん?」

 

咲「あ、あーん」

 

衣「っ! あーん、パクッ」

 

ダヴァン「ハムッ、ハフッハフッ」

 

ネリー「あ!! ずるいネリーにもしてよ!」

 

咲「は、はい、あーん」

 

ダヴァン「ズルッ、ズルルルルルルッ!」

 

ネリー「パクッ! ~♪」

 

ダヴァン「フウ……。ネリーはともかく、天江サン……スゴイなついてマスね」

 

明華「けっこう長い付き合いなんでしょうか」

 

智葉「癒される光景だ。ちまっこくて可愛らしい……」

 

ハオ「……うーん」

 

ネリー「サキって食べ方キレイだね。テーブルマナーのお手本みたい」

 

咲「え? う、うん、えっと行儀作法に厳しい家だったから」

 

衣「衣もテーブルマナーには自信があるぞ!」

 

 食事は和やかなムードのうちに終わった。

 

 

 

 

 

 

 衣服を脱ぎ、入り口を潜って浴室に入る。広々とした浴室。もうもうと立ち昇る湯煙の向こうには、檜で作られた大きな浴槽が目に入る。

 

衣「お風呂だー♪」

 

ネリー「サキー! 早くおいでよ!」

 

咲「う、うん、今いく」

 

 促され、駆け出して先に入っていったネリーの背中を追う。当然一糸纏わぬ姿だ。後ろから続々と入ってくるレギュラーの面々や立派な浴槽、真新しさのある板張りの床、と萎縮したように視線を巡らせていると、くすくすとネリーに笑われてしまった。

 

ネリー「もーまだ恥ずかしがってるの? 何回も一緒したのに」

 

咲「誰かとお風呂なんておね、家族とくらいしか入ったことなかったから……まだ慣れないよ」

 

衣「咲ーっ!」

 

咲「わ、わっ、いきなり飛びついてきたら危ないですよ」

 

衣「洗いっこしよう、洗いっこ」

 

ネリー「それはネリーがする!」

 

衣「お前は別の日にもできるだろうっ」

 

ネリー「ぐ……しょうがない、今日だけは譲ってあげる」

 

 目の前で繰り広げられるやりとり。ネリーは苦渋をにじませた呻きを漏らし、明らかに不満を託ちながらも、矛を収める。

 

 気を揉んでいたが、いさかいが起こりそうな気配が去ってほっと息をつく。

 

 二人は対面して以来、咲の前では張り合うように咲に構おうとする。不可思議な事に友好的な好意、あるいは執着を寄せる二人が、咲には実感が湧かず、不可思議な存在として映る。

 

咲「……」

 

 争うような話に発展するのは何とかしたいと思う。明確な気持ちが生じる。杞憂となった今回に安堵しつつ、咲の胸の裡に複雑な感覚を残す。

 

明華「何だか仲間外れになった気分です」

 

智葉「は? 普通に私たちといるだろ」

 

ダヴァン「ハハーン」

 

ハオ「明華って結構ネリーと咲好きだね」

 

明華「私ちょっと隅の方にいってきます」

 

 

 

 

明華「僕の憂鬱と不機嫌な彼女~♪ その心の中には、ぼくの知らない誰かがいる~♪」

 

 

 

 

智葉「……何で歌ってるんだ」

 

ダヴァン「ミョンファに歌う理由を尋ねるのはムダってもんデスよ」

 

ハオ「日本の歌も覚えたのか」

 

 見えない後ろの方でそんなやりとりもあったが、咲の耳にはろくに入っていない。とりとめのない考え事が遮っていた。

 

衣「よーし、洗うぞー」

 

 ボディタオルを持ち意気込んだ衣が咲の背後に回って身体を洗い始める。

 

 咲と衣が互いに背中を流した後、寂しそうにしていたネリーの背中も咲が二度洗いし、三人で浴槽に入る。

 

咲「ふー」

 

衣「あ、ふやけてる」

 

 つかるなり大きく吐息すると衣から言われる。

 

 実際、ふやけていた。リラックスする時間。腰砕けになる湯の気持ちよさに胸中の僅かなしこりまでも洗い流されていくようだった。

 

咲「んー、今日は色々あったから疲れちゃいました」

 

衣「そういえば咲たちは今日が二回戦だったか」

 

咲「それもあるんですけど……」

 

 今日はその後も色んなことがあった。

 

 渋谷の街で迷子になったことに始まり、いちごとの再会、はやりからの電話、咏を交えたキャンプの買い物ーーそして、宿に帰ってからのこれまで。

 

 結果として咲の心境は清々しい。悲観していた現実は現実とならず、騒がしくも楽しい時間がさらに心を軽くしてくれた。

 

 もの悩みの種というのはいくらでもあるものの、今考えて答えを出す必要というものはないように思える。ここ最近、咲を思い詰めさせていたものといえばーー二回戦でのパフォーマンスだった。

 

 だから、その憂いが晴れたことで咲の胸の裡から暗澹たる気持ちはもはや払拭されていたのだった。

 

咲「ーーってことがあって。かくかくしかじか」

 

衣「まるまるうまうま。ほー、ちゃちゃのんか。ちゃちゃのん音頭の人だろう!」

 

 ローカルアイドルといえど同年代の女の子、それも麻雀を志す共通点もあってか、かいつまんで今日あった出来事を話すと真っ先にいちごの話題になった。

 

 佐々野いちご。優しくて、東京バナナが好きで、おしゃれな女の子。衣も一目置いているらしくいちごの話題で盛り上がりながら、自分も会ってみたいと言う衣に咲はくすりと悪戯っぽく笑って返した。

 

咲「神社にいったら会えるかもしれませんね」

 

衣「神社?」

 

 不思議そうな衣に神社での縁を話す。初めて会った日も、今日の再会も神社だった。立場を考えれば街中や試合会場で見かけても不思議はないが、ふらりと立ち寄った神社での遭遇に奇妙な縁を感じる。

 

衣「はー、疲れたよー」

 

咲「衣さんも?」

 

衣「うん。トランプが効いた……あれは悔しかった」

 

 そういえば咲と衣はこてんぱんにされていた。自信を粉微塵に打ち砕かれた咲も地味にショックを受けた。衣は、でろーんと湯の中につかってぶくぶくと湯を泡立てている。

 

衣「まー能力を使えば敵じゃないけどなー」

 

咲「え?」

 

 思いがけない発言に咲は目を丸くする。

 

衣「うん? 咲だってあるよね能力」

 

咲「え、能力って使えるの……?」

 

衣「何を今さら」

 

 何を今さらという顔をされた。

 

 衣によるとトランプに能力を使えるらしい。

 

咲「……うーん?」

 

衣「とにかく次は目にもの見せてやる」

 

咲「でも使えるんなら何でさっきは使わなかったんですか?」

 

衣「……能力に頼るのはやめたんだ」

 

 考えるような間があった。秘めたものがあるのだろうか、咲にはその正体に見当がつかなかった。

 

衣「ところでさっきからやけに静かだな。ネリー……だったか? どうしたんだ」

 

 話題を体よく逸らされた気がするが、たしかに咲も密かな疑問を感じていた。全然ネリーが会話に加わってこない。どうかしたのだろうか。

 

 声をかけても反応がない。すぐ横で湯につかっているのに。ひたすら前方を見つめ、ぽけっと座っている。

 

衣「おい……大丈夫か」

 

咲「ネ、ネリーちゃん?」

 

ネリー「…………あー、うーん?」

 

 呂律の回っていない声が返ってくる。そして。ようやくしゃべったかと思うと、ゆらゆらと身体が揺れ出す。首も前後に揺れる。

 

衣「舟をこいでいる……?」

 

 もしかして、眠いのだろうか。

 

智葉「あー、疲れがきたか」

 

咲「先輩?」

 

 こちらの様子を見かねてか湯の中を歩いてきた智葉がつぶやく。

 

智葉「座談会のために夜遅くまで頑張っていたからな……」

 

咲「座談会?」

 

 なんだか優しげな表情の智葉。聞き慣れない言葉に咲は疑問を呈す。

 

智葉「咲は知らなかったな。来年あたりに聞くと思うがまあ定例行事みたいなものだ」

 

 曰く、座談会とは日本人部員の運用、時には留学生の運用も話し合われる場らしい。軽く説明してもらい、咲は満足した。

 

咲「それで……ネリーちゃんがその座談会に?」

 

智葉「ああ。雑用も手伝ってもらった」

 

智葉「それに……二回戦まで気を張っていたんだろう。ムリもない」

 

 後半の話が座談会とどう繋がるかわからなかったが、今聞き出すこともないだろう。急ぐべきはーー

 

智葉「よし、私が運ぼう」

 

 先に言われてしまい、咲は焦って立ち上がった。

 

咲「あ、あの、私も運びます」

 

 このままつからせておくのも危なっかしい。それにこんな状態のネリーを放っては落ちついて入浴などできないし、何より心配だ。

 

 咲の提案に智葉は視線を滑らせて思案げに唸る。

 

智葉「ん……そうだな、わかった。その方がいいだろう」

 

衣「衣も手伝おう」

 

 鷹揚に頷いてもらって安心していた矢先、咲は立ち上がった衣の提案に驚く。

 

咲「衣さんはゆっくりつかってていいんですよ?」

 

衣「力を貸すというほど役には立てないが少しは足しになるだろう」

 

咲「でも……」

 

衣「何、衣はさしあたり観戦以外に予定はない。気を揉まないでくれ」

 

 気を遣って無理をするような気配は感じさせない。ならいいのだろうか。断るだけの理由が見つからず、なし崩しに頷く。

 

 視線を転じるとネリーは相変わらず舟をこいでいる。早く休ませてあげよう。湯冷めしないうちに運ばないといけない。

 

 三人でせっせと運ぶ。途中、明華たちも上がろうとするのを止めたり、早々に寝ぼけだしたネリーがラッコのように咲にしがみつき離れなくなって苦笑したり、ということもあったが、無事服を着せて寝室にまで運び終わる。

 

 この後、時間を置いて準決勝を控えた他校の分析が始まるまで寝かせてあげることが出来そうだ。

 

 ーーこの時、咲は今後にさしたる憂いを持っていなかった。悩みは粗方解消され、姉との縁だって何とかなるかもしれない。

 

 現状に不満なんてほとんどない。物事に対する姿勢、人との関係。何もかも今のままでいいとさえ思う自分が大きくなっていく。そのことに疑問を挟む気持ちもなくなりつつあった。

 

 けれど。

 

 咲は失念していた。自分以外が抱える、自分に関する問題というものを。

 

 

 

 

  広間は緊迫に包まれていた。

 

 レギュラー陣の憩いの場として用意されたそこにはいま、臨海が誇る留学生に、智葉と咲、そして、飛び入り参加した長野屈指の打ち手である衣と、謎の多い華麗なる執事ハギヨシが輪になっている。

 

 立つ者、座る者、膝立ちする者。畳の上に佇む彼らの体勢は様々なれど、ただ言えるのは輪の中心に屹然とそびえ立つものに押しなべて目を奪われているということ。

 

智葉「……ついにこのときが来てしまったか」

 

 眼鏡をかけサラシを巻いて胸を潰した智葉がしゃがみこんでそれの開封口に手をかける。

 

 凛然たる決意に燃えた濃紫色の瞳。そこから読みとれる覚悟は堅固を通り越して峻烈。

 

 着替えたばかりの衣服が濡れてもいい! お風呂上がりでさっぱりしたものが更にその湯上がりたまご肌を投げ出してようやく得られる程の力!

 

智葉「それじゃ……開けるぞ!」

 

 

 ーープシュッ。

 

 捻る力を加えられたキャップは避難する暇もないほどあっさりと開いた。空気が抜ける音、次いで何かが競り上がってくる不気味な音。

 

智葉「お、おおー……おおう」

 

 止めどなく溢れ出る白い泡は意味を成さない言葉をつぶやく智葉の健康的な白い肌を駆け上り、容赦なく手元から手首、一部は二の腕までも達した。

 

ダヴァン「イヤー、お疲れさまデスサトハ」

 

明華「しっかり見てました」

 

咲「わっ、すごい泡」

 

ハオ「うわ……べたついてますねここ」

 

智葉「ふう、それじゃあ飲むか」

 

衣「わーい、ジュースだー♪」

 

 時は二〇五〇年八月九日ーー振りすぎた炭酸のペットボトルを開封する儀式は賑やかに執り行われた。

 

 

 

 

 

 広間から廊下に出ると、間髪入れず背後の襖が開いて衣が出てくる。

 

咲「あれ……衣さん?」

 

衣「いきなり抜け出してどうしたのだ、と聞くのは野暮か」

 

 神妙な口調。意図するところはわかっている、と言いたげだ。衣の方を向いて困った顔をする咲に衣は続けた。

 

衣「先の催しは中々に楽しかった。混ぜてくれてありがとう」

 

 話が変わっていた。若干固い表情を崩して話す彼女の深い色合いの瞳に咲はたじろぐ。

 

 先ほど行われたペットボトルの開封は特に深い事情はなく、度重なる振動で炭酸が危険な状態に陥ったペットボトルの処理を兼ねる遊びだった。

 

 智葉はケジメがどうとか落とし前がとか言っていたが、他の大半は面白がって見ていただけである。

 

咲「衣さんだけ別っていうのもなんですから」

 

衣「うむ、空谷足音」

 

 衣は嬉しそうに笑った。

 

衣「少しだけ、咲のいる臨海というチームがどういうところかわかった気がする」

 

 その言葉には好意的な意味合いが感じられて、咲も思わず相好を崩す。

 

咲「衣さんのいる龍門渕もすごくいいところですね。皆さんお元気ですか?」

 

衣「ああ。息災だ」

 

 それはよかった。彼女たちの姿は目にしていないが、そうでなければ衣は今ここにこうしていられないだろう。何かあればすぐに飛んでいくはずである。

 

衣「それで行き先はネリーとやらのところか?」

 

 また話が戻った。というより最初からその話に来たのだろう。歓談の場をわざわざ抜け出して、咲一人に礼を告げるというのも変な話だ。

 

咲「はい。ネリーちゃんの様子見に行こうと思って」

 

衣「ただの疲れだろう? 風邪でもない」

 

咲「でもネリーちゃんは留学生ですから」

 

 留学生のネリーにとって大会中の体調は人一倍重い意味を持つ。厳しい目を向けられる立場にあるネリーへの心配は絶えない。

 

衣「そうか。そうだったな。心配もムリはないか」

 

衣「ーーひき止めて悪かった。確かめておきたかっただけだ」

 

 気にしないでください、と言おうとしたが衣は止める間もなく踵を返し、開いていた襖の中に駆けていく。

 

 断りを入れず部屋をあとにした咲が気になって追いかけてきたのだろう。といっても、広間では皆思い思いに過ごしているから、問題はない。

 

 静かに閉められた襖から目を離す。ネリーの部屋を目指し、咲は各人の部屋へと繋がる廊下を歩き始めた。

 

 

 

 

 ネリーの寝室に足を運ぶとネリーはまだ寝ていた。

 

 敷き布団の上ですやすやと眠るネリーを起こさないよう布団の傍に腰を下ろし、何となく寝顔を見つめる。

 

 今日、色んなことがあった。いちごとの話、はやりとの電話と咏を交えた買い物、そしてーー二回戦。

 

 ネリーは他の皆と同様、咲の隠していた打ち方、奇異な振る舞いを受け入れてくれた。

 

 そればかりか……事情を話せない、話したくない咲の気持ちを察してくれた。

 

 前半戦と後半戦のインターバルに駆けつけられた時は何を言われるかと内心恐々としていた咲だったが、別れる時には感謝と嬉しさばかりが募った。

 

 しらず微笑みを浮かべネリーを眺めていた。それに気づき、気恥ずかしくなって時計に視線を滑らせる。

 

 時刻は七時を半ば過ぎたところ。他校の分析などをするミーティングは九時からだからまだ少し時間がある。

 

 こうして何もしないでいるのも特に苦ではないし、別段やることがあるわけでもない。練習は調整程度で済ませるつもりだ。

 

 だからここで時間を潰すのは問題ない。ただ、自分がここにいるということは誰かに伝えておいた方がいいかもしれない。

 

 立ち上がって寝室と居間を繋ぐ襖の方に歩いていく。一度ネリーの部屋から出ようと玄関に立て掛けてあった鍵をとる。木の札がついた真鍮の鍵。

 

ダヴァン「ああ、いまシタカ」

 

 廊下に出ると、すぐ外にダヴァンが立っていた。

 

咲「メグさん?」

 

ダヴァン「ネリーの部屋にいったとコロモから聞いたノデ」

 

咲「そうでしたか……じゃあ、私の場所を訊かれたらミーティングまでここにいると伝えてください」

 

ダヴァン「お安いご用デス!」

 

 快諾してくれたダヴァンにありがとうと伝え、笑いかける。

 

ダヴァン「ネリーのコト……頼みまシタ」

 

 その言葉が、妙に重く肩にのしかかるような言い方だったので、咲は首をかしげた。

 

咲「? えっと……はい」

 

ダヴァン「今日の二回戦……サキは気づかなかったかもしれマセンが」

 

ダヴァン「サキが帰ってくるまで、控え室のネリーは何だか様子がおかしかった」

 

ダヴァン「できたら気にかけてあげてくだサイ」

 

 真剣に告げられたダヴァンの忠告は寝耳に水だった。咲は驚きながらも神妙に頷く。

 

ダヴァン「ソレでは私はココでお暇しマス」

 

咲「あれ……帰っちゃうんですか?」

 

 ネリーの顔を見に来たのだと思っていた。

 

ダヴァン「様子を見に来ましたが、サキがいるなら安心デス」

 

咲「あはは……光栄です」

 

 そんなことを言うと、ダヴァンはくるっと踵を回らせて廊下を歩き出し、後は任せたと顔は向けないで軽く手を上げて去っていく。

 

 ダヴァンの後ろ姿が廊下の角に消えるのを見送る。忠告が気になりながらも咲は来た道を引き返し、ネリーの部屋に戻る。

 

 部屋は静寂に包まれていた。後ろ手に戸を閉め、玄関に入った咲は一つ息を漏らす。

 

咲「気を利かしてくれたのかな……」

 

 咲を一人部屋に残し、去っていった。そういえばネリーを寝室に運ぶ時、半分起きていたネリーを咲一人に任せていった智葉と衣。あれもお膳立てでもするようだった。

 

 まるで恋愛映画の男女を取り巻く周囲、仲立ちするかのようだ、と思うと苦笑が込み上げる。

 

 ネリーとーー女の子と恋愛関係になる。現実離れした話だった。

 

 勿論、他人事として理解はあるつもりだ。世界的に見れば同性愛に寛容な国が大半で、特に先進国、ヨーロッパでは受け入れられている。随分昔にキリスト教圏の大国で全国的に同姓婚が認められもした。

 

 だが、日本が少数派だとわかってはいても、日本で生まれ、日本で育ってきた咲としては恋愛は異性とするものという意識が強い。

 

 ーーって、そんなに深く考えることでもないか。

 

 ちょっとした作為的な振る舞いにおかしな連想をして思考が脇道に逸れてしまった。埒もない。

 

 ネリーはまだ寝ているだろうか。ミーティングの時間になったら否応なく起こさなければならない。そんなことを考えながら寝室へと足を運ぶ。すると、思わぬことが起こっていた。

 

咲「あれ、うなされてる……?」

 

 布団にくるまれているネリーが、苦しげに顔を歪めている。咲は慌てて、しかし物音はあまり立てないように駆け寄る。

 

 夏場にきっちり布団を被っているとはいえ、空調は適度に効いている。寝苦しいとは考えにくい。

 

 だが、今も苦しそうなネリーが絞り出すように呻き声を漏らしている。どうするべきかと面食らいながら咲が見守っていると、やがてネリーは「……ごめんなさい…………ごめんなさい……」と、ぽつぽつと寝言を口にし始める。

 

咲「ネリーちゃん……?」

 

 その場で膝立ちになってネリーの手を握る。柔らかい、咲よりも小さな手だ。

 

咲「もしかして……」

 

 先ほど受けた忠告はこれと関係しているのか。ふと思った。頭の中で瞬く間に嫌な想像が膨れ上がっていく。

 

咲「あっ、そうだ、熱……」

 

 遅れて思い至り、ネリーの額にすっと手を添える。幸い異常というほどの熱は感じられない。ほっとする。

 

ネリー「……ごめんなさい……ごめん、なさい……」

 

咲「……」

 

 だが、寝言は止まらない。悪夢を見ているのだろうか。手を握ったまま見守っていた咲の耳にふと、

 

「…………許して……」

 

 そんな声が聞こえてきた。懇願するような悲痛な声。

 何のことかわからずに咲は戸惑う。けれど、赦しを乞うネリーの言葉に、咲の脳裏にはある言葉が浮かんでいた。

 

 ーー人は誰でもまちがう。まちがえたら、反省して、もとの道に戻ればいい。

 

 いつのまにか、咲はそれを口にしていた。意味のない言葉。寝ているネリーに届くはずもなく、依然として苦渋の表情は消えない。

 

 とにかく、熱はない。うなされているだけ。

 

 頭ではわかっている。だから、そんなに重くとらえる必要はない。

 

 そうとわかっていても、理屈とは裏腹に胸中に広がっていく不安が止まらない。どうしたのだろう。胸騒ぎが止まらない。

 

咲「そうだ……」

 

 ネリーの手を包み込んでいた両手から片方を離し、スカートの中をまさぐる。探していた携帯端末はすぐに見つかった。取り出して、時刻を確認する。

 

 午後七時五十分。二〇五○年八月九日。

 

 目に触れるものーーネリーの苦しげな寝顔。

 耳から聞こえてきたものーー悲痛な響きを宿す寝言。

 心で感じたものーーネリーの悪夢をなくしてあげたいという願い。

 

 急いで数を採る。八卦の象意、大成卦から採った数を立卦し、判断する。

 

 これは何の道具も必要としない、特別なもの。梅の花を見てさえ答えが出る。

 

咲「…………無上甚深微妙法……」

 

 ーー無意識のうちに一言唱えていた。そんな自分に驚きながらも、咲は集中を切らさず、続ける。

 

 電撃的な閃きが駆け巡る。

 

『犯したあやまちを告白する』

 

 咲の頭の中には、未来のイメージが映し出されていた。

 

 

 

 

 

 ミーティングは予定通りの時刻に行われた。監督や智葉も交え、広間に集まった団体戦のレギュラー陣は他校の分析と対策の議論を行う。

 

智葉「Aブロックは千里山と阿知賀。この二校が上がってくることが決まっている。新道寺も含め、相手は問題なく絞り込めたな」

 

 各人が配られた資料に目を通しながら、議論していく。鋭く切り込んだ分析に時折議論が白熱することもあったが、最終的にはどれも一応の決着を見せ、対策は固まっていった。

 

ネリー「うーん……」

 

咲「ネリーちゃん、大丈夫? まだ眠い?」

 

 そんな中、畳に腰を下ろしたネリーと咲は話し合いから少し離れて体調の話をする。

 

ネリー「眠い、けど……まあ大丈夫……」

 

咲「ムリしないで。寄りかかったままでいいからね」

 

ネリー「……うん、ありがと」

 

 まだ眠気と疲労が抜けていないといった様子のネリーは、咲の肩に身体を預けるようにして寄りかかりながら、会話する。

 

 こうしたミーティングに参加するのは留学生の務めだ。普段の部活への参加が義務づけられるのと同様、少々の不調を押してでも出席しなければならなかった。

 

 とはいえ、咲の心配は尽きない。先ほどうなされていた姿を目にしたこともある。

 

 できるなら無理せず休んでいてほしいと思う。だが、ネリーが出ると決めた以上、あまり強くも言えない。

 

 咲にできるのはネリーが少しでも楽になるよう肩を貸してあげるくらいだ。

 

智葉「悪いなネリー、もう少し辛抱してくれ」

 

 他で議論を終わらせてきたらしき智葉が歩いてきて、複雑そうに顔をしかめて言った。

 

咲「あ、先輩……」

 

智葉「咲も見ていてもらってすまない。助かる」

 

咲「いえ……出席したっていう形が必要なんですよね?」

 

智葉「そういうことだ」

 

 事実、ネリーはミーティングが始まってから特に発言していない。気づいていながらも周りもそれに触れることはない。

 

 形式が重要なのだ。臨海の留学生は例外なくそれを求められていた。

 

智葉「ところで……どうだ、準決勝の相手は?」

 

咲「新道寺はさておき……千里山は思ったより楽に捌けるかもしれません」

 

智葉「阿知賀は?」

 

咲「……わかりません。楽に勝てるかもしれないし、苦戦するかも……」

 

 咲は、記憶に残る阿知賀の先鋒の顔を思い浮かべる。

 

 松実玄。抽選会の日に会った一学年上の人。

 

 和が暴走した際、仲裁に入ってくれたりと感謝している相手だが。何よりも大きいのは咲として会っているということだ。

 

 宮永咲を知る人にあの演技をするのは相当の覚悟がいる。やりにくいのは間違いなかった。

 

智葉「意外だな……千里山の方が格上だと思ったが」

 

咲「相性、でしょうか。打ってみないことにはわからないですけど、千里山の園城寺さんは私にとって相性がいい気がするんです」

 

智葉「一巡先を視る力……という噂だが」

 

 咲にしてみれば、それは力の多寡次第で簡単に打ち崩せてしまう能力だ。能力に頼らずとも高い実力を持つなら別だが、能力のみが武器だというなら。

 

智葉「努々油断はしないことだ。仮にも準決勝まで勝ち抜いてきた相手なんだからな」

 

咲「……はい。肝に銘じます」

 

 智葉は去っていった。これ以上の心配はいらないと判断されたのだろうか。

 

 肩に寄りかかる重みの方に視線を移すと、ネリーは大分と眠いようでうつらうつらと舟をこぎ始めていた。

 

咲「このあと……ミーティングが終わったらどうする?」

 

ネリー「んー……寝る、かな」

 

咲「なら私もついてってもいい?」

 

ネリー「……え? いい、けど……サキの予定は大丈夫なの?」

 

咲「大丈夫。特にやることもないし」

 

 暇人だと自分で告げることに苦笑を零しつつ肯定する。ネリーも断りの言葉は口にせず、受け入れるような雰囲気だ。

 

咲「あ、そういえば……」

 

 ふと思い立ち、配られた資料に目を落とす。

 

ネリー「どうしたの?」

 

咲「知ってる人の学校はどうなってるかなって」

 

 資料の中には生徒別のデータだけでなく、試合の勝敗も記載されている。今まで取り分けて調べようとはしなかったが、いちごのこともあり、知っておこうと思った。

 

 資料に目を通していくと、鹿老渡は……やはり一回戦で敗退している。

 

 クラスメイトや和のいる清澄、姉のいる白糸台は明日の二回戦の結果待ち。

 

 洋榎のいる姫松も二回戦の結果待ち。

 

 そして、もう一校ーー神社で会ったもう一人が所属する宮守女子。

 

咲「あ……」

 

ネリー「何かあった?」

 

 清澄、姫松、宮守、永水。

 

 明日行われるBブロックの二回戦、そのうち三校が知っている人のいる学校だった。

 

 そのことを伝えると、ネリーは「どこを応援したらいいか迷うね……」と微妙な顔をした。

 

咲「うん……」

 

ネリー「まあ、あんまり気にしすぎてもしょうがないよ」

 

咲「そうだね」

 

 その通りだった。資料を閉じ、笑顔を作って、努めて気にしていない風に装う。

 

 ミーティングは恙無く幕を閉じ、義務から解放されたネリーは咲を伴って自室へと帰っていった。

 

 

 

 

 

 

 

咲「起きてて大丈夫なの?」

 

ネリー「んー……ある程度寝たから今はすっきりしてる」

 

 午後十時過ぎ。咲はネリーの部屋の居間でネリーと共に座っていた。

 

 ネリーは、しばらく眠ったのち起き出してきて「サキに退屈させるのも悪いから」と居間に顔を出してきた。

 

 咲は慌てて止めたのだが、ネリーは今は寝ないと言って聞かず、結局は咲が折れて二人くつろぐことになっている。

 

咲「ムリはしないでね……身体に障ることしちゃダメだよ」

 

ネリー「わかってるわかってる」

 

 鷹揚に受け止めるネリーだが、咲の心配は拭えない。

 

ネリー「まーテレビでもみてヒマ潰そっか」

 

 テーブルの上に乗ったリモコンを手を伸ばして掴むと、ネリーは備えつけられたテレビに向かって突き出しながら電源ボタンを押す。

 

 最初に映ったのはニュースだ。といっても、長い尺のある番組ではない。番組と番組の合間にある数分程度のニュースコーナーだった。

 

 日経平均株価が連日高値を記録ーー。

 渋谷周辺に通り魔出没か、付近の住民に注意を呼びかけーー。

 南アフリカのヨハネスブルクにて犯罪率が150%を突破ーー。

 

 矢継ぎ早に報道が流れていく。

 

ネリー「犯罪率150%?」

 

 二人してついテレビの画面に見入っていると、ネリーが不可解だという顔をした。

 

ネリー「どういうこと?」

 

咲「ああ、それはね」

 

 海外の治安が悪い場所では、犯罪率が100%を超えることがある。

 

 これは、例えばヨハネスブルクの駅周辺半径20キロ以内で海外旅行者が強盗、追いはぎに遭う可能性が100%、

 

 その帰りにもう一回強盗、追いはぎに遭う可能性が50%、合わせて150%となる。

 

ネリー「へー、なるほどね」

 

 咲がそう説明すると、ネリーは得心がいったと頷く。

 

ネリー「でもよくしってたね?」

 

咲「えっと……ついこの間、私も教えてもらったんだ」

 

 ネリーがそうかと相づちを打ち、テレビの画面に視線を戻す。

 

 ニュースコーナーはすぐに終わり、その後はバラエティー番組が始まっていた。

 

ネリー「そういやあのリューモンブチの……コロモは?」

 

咲「衣さん? 衣さんならさっき龍門渕の人たちに連絡するって言ってたけど」

 

 それを聞いたのはミーティングが始まる前だ。時間が経っているから、今はどうしているかわからない。

 

ネリー「ふーん、リューモンブチか」

 

 ネリーが意味深につぶやく。

 

ネリー「リューモンブチはナガノで……サキもナガノからきたんだっけ。そういう繋がり?」

 

咲「え?」

 

 ぎくりとした。偶然出身地が一緒だが、実際ははやりを介しての紹介だ。

 

咲「……」

 

 言葉に窮して黙り込む。

 

 はやりとの関係は、咲にとってまだ明かす心の準備ができていないことだ。

 

 はやりとは出会った場所が場所で事情も事情だ。つまり、賭け麻雀に関することはまだ打ち明ける勇気を持てないでいる。

 

 それは、賭け麻雀に手を染めた事実が発覚することへの恐れというより、皆を巻き込んでしまいかねない恐れが心に影を落とす。

 

 団体戦のチームメイトは皆、留学生だ。もし仮に出場が危ぶまれることになれば、結果を求められる彼女たちへの影響は計り知れない。

 

 それにーーもし万が一、不祥事を表沙汰にしないよう臨海が動くとしたら。皆に隠す片棒を担がせてしまうかもしれない。

 

ネリー「?」

 

咲「あ、えっと……」

 

 押し黙る咲に何を思ったか、ネリーは言い淀む咲の姿を不思議そうに見つめる。

 

 何もかも白状してしまいたい気持ちもある。しかしそれは、どんな結果を招くにしても、このインターハイが、少なくとも団体戦が終わってからがいいのではないか。

 

 それからなら……皆に軽蔑されようと、嫌われようと、打ち明けることはできる。

 

ネリー「……話せない?」

 

咲「……ごめん、今は……」

 

 賭け麻雀の事があって以来、度々顔を出すよそよそしさに場の空気がぎこちなくなるのを感じながら、咲は身を縮こまらせる。

 

 言葉を弄せば幾らでも言い訳はつく。だが、隠し事はあっても、嘘だけはつきたくなかった。ネリーにも臨海の皆にも。

 

 沈黙が訪れる。お互い口を閉ざし、場違いに明るい音を垂れ流しているバラエティー番組に目を落とす。

 

 自分は何をしにきたんだろう。ネリーを心配してきたというのに。場の空気を悪くしていては世話がない。

 

咲「今日は……そろそろ自分の部屋に帰るね」

 

ネリー「……わかった! また明日!」

 

 自省し、心の底に深く沈澱するような後悔に苛まれながら、咲は場を取り巻く空気の悪さに先ほどミーティングで触れたある人物の顔を思い浮かべる。

 

 ーー愛宕さんと話すときも、いつもこんな感じだったな。

 

 

 

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