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物事がうまくいかないとき、まず自分の行いを省みる。自助努力はすべからく前提とし、冷静に分析する。弥勒菩薩の下に救済が約束されているとしても、自分だって頑張らないといけない。
頼みとするところがなくなることは悲しいし、どうしようもなく不安になることだってある。けれど我慢しないといけない。人は誰しも自立して生きることを求められるところがある。
助けを求めてはいけない。救いを望んではいけない。友達でも、本当に大切なことは秘めておかないといけない。
何よりも。
自分の願いを誰かに託してはいけない。
一番ヶ瀬半兵衛の後家が救いの糸を垂らした神父にも病床の息子を託さず、ギルバート・ブライスが恋人に相応しくあろうと自らを厳しく律し続けたように。
できれば廃人同様のモルヒネ患者のように家の裕福さに価値観を毒されずに。
それが咲の理想なのだ。
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目覚めは良好だった。朝日が顔を出し、日中の蒸し暑さに比べたら幾分涼やかな寝室を後にして、冷房のきいた廊下に出る。
人気の少ない早朝の廊下はどこか静謐だ。東京でも指折りの高級宿ということもあってか、年季の入った板張りの廊下には風情があり、漆喰の壁も然り。
道中すれ違った老年の客に会釈を返す、若いのに早起きして感心だと誉められた。
咲もいつも早起きというわけじゃない。おそらく大会中の緊張や無意識下の興奮が絡んで偶然早くに目が覚めただけで、普段はむしろぐっすりと寝てしまうほうなのだ。
とはいえそんな説明をしても謙遜に受けとられかねないので、首から胸元に提げられたペンダントを見つけ、綺麗ですねと素直な感想を伝える。
するとその人は目を輝かせた。これは東京に就職して親元を離れた孫がくれたものなのだそうで、今日はその孫に誘われて観光がてら食事にいくのだ、と嬉々として話しだす。
頬を緩ませて話をするその老人の喜びようといったら遠足を楽しみにする子どものようで。少なからず共感した咲は微笑ましさに笑みを湛え、祝福する。
家族というものはいくつになっても、いや歳を重ねれば重ねるほど大事に、かけがえのないものへとなっていくのではないだろうか。
自分にとっての姉。自分にとっての母。自分にとっての父。
家族との好事を喜ぶ老人の姿が自分の家族や自分に重なり、より身近に感じられたのだ。
何より。
今目の前にいる人が嬉しそうに笑っている。それは正しいも悪いもなく常に善いこと。未来が祝福されたものであってほしいと願う気持ちは止められなかった。
とりもなおさず見知らぬ老人と談笑を交わす。そんなとき。
智葉「咲か?」
背後から声をかけられ、咲は驚いて振り返る。
その先にあったのは咲もよく知る先輩の姿。紫がかった優美な黒髪を下ろし、浴衣を羽織った出で立ちだ。
咲「先輩……」
智葉「何だ、会っていきなりトーンダウンか。ちょっと傷つくぞ」
咲「あっ、いえ! 違うんですよ、今のはがっかりとかそういうんじゃなくて!」
みる間にあわてふためく咲の姿に智葉はくすりと笑った。
智葉「冗談だ。わかってるよ」
その顔があまりにも不機嫌や不快から縁遠かったので、咲は脱力する。
咲「な、ならどうして罪悪感刺激するようなこと言うんですか……」
智葉「わかっててからかってるんだ」
咲「なお悪いですよ!」
衝撃の理由に愕然とし、吠えたてる。
智葉「なんだろうな……私たちの場合、ファーストインプレッションがアレだろ?」
咲「は、はあ……お世辞にも、いいとは言えませんけど」
入部当初の振る舞いは今となっては消し去りたい過去の思い出だ。
智葉「だから本能レベルでぎゃふんと言わせたい衝動が……」
咲「え、そうだったんですか……?」
そんな事情があったのか。ごめん被りたいものではあるけれど、元をたどれば自分の不始末。甘んじて受け入れるべきだろうか。
智葉「ああ、だから不意打ちで胸を揉んだりしても」
智葉「なめ回すように風呂場で視線を這わせたとしても」
智葉「ついでにうっかり先っちょだけ入ったりしても」
智葉「我慢してくれ」
咲「できませんよ!?」
とんだ暴論だった。
智葉「悪い悪い、これも冗談だから」
咲「大体なんの先っちょなんですか……いや冗談ならいいんですけど」
釈然としない気分で無駄に泰然と構える智葉を眺めていると、くすくすと笑い声が漏れ聞こえてきた。くだんの老人だ。
咲「あ……」
智葉「失礼しました、どうもこちらの彼女とは同じ学校のものです」
大した動揺もなくそつなく名乗った智葉はさすがだと思う。仲がいいね、と笑って言われ、咲は恥ずかしいやらなんやらで恐縮する。微笑ましいものを見つめるような視線だったからことさらにだ。
それから老人も交え二言三言交わして、頃合いを見計らった智葉が「では我々は朝食のあと練習がありますので」と切り上げ、その場をあとにする。
広間での朝食の時間が迫っていた。
▼
衣「わーい、朝食だー」
広間に用意された席につくと、当然のように衣がいた。
咲「衣さん、おはようございます」
衣「おー、おはよー咲っ!」
咲「な、なんかテンション高いですね?」
衣はいつにもまして上機嫌だった。何か喜ばしいことでもあったようだ。発言に合わせて動く身ぶり手振りがそれを物語っている。
衣「うむ、聞いてくれるか!」
どうやら気づいてほしかったようで、まさに満面といった笑みを浮かべる衣。
衣「大富豪で見事雪辱を果たしたのだ!」
咲「あ、きのうの?」
衣「そうだ、昨晩は広間で皆退屈していたからな!」
咲がネリーの部屋にお邪魔していたタイミングだろうか。おそらくめでたいことだ。衣は清々しくて仕方ないとばかりに頬を緩ましている。
咲「わあ、おめでとうございます!」
衣「くっくっくっ、きのうは満月だったからな。倍にして……いや、十倍返ししてやった!」
倍と十倍では相当な開きがあるが、たぶんドラマの引用だった。
満月の無駄遣い。咲の頭にふとそんな言葉が浮かんだが、水を差すのはやめておいた。
咲「私もリベンジ、できるかなあ……」
衣「何を弱気になることがある。咲なら余裕だ、けちょんけちょんだっ」
雑談している間に配膳されてきた食事をつまみながら、会話を続ける。
衣「そういえばネリーとやらの姿が見えないな」
咲「うーん、まだ寝てるんでしょうか」
さすがに起こしにいくのは憚られて、状況に任せたままである。
ハオ「ネリーならさっき見かけたよ」
斜向かいに座ったハオから教えられる。
咲「そうなの?」
ハオ「ここにくる途中でね。ちょっと外の空気吸ってくるっていうからそのまま別れたけど」
衣「起きてはいるのか」
なら、心配はいらないのだろうか。ダヴァンの忠告があって神経を尖らせている咲としてはやや不安が残る。
ネリー「おはよー」
そんなことを思っているそばからネリーが広間にあらわれ、のんきに挨拶を飛ばす。
ダヴァン「おっ、きましタカ。おはようございマス」
智葉「おはよう。今日は日中練習があるから入れとけよ」
明華「おはようございます」
噂をすればなんとやらで出現したネリーにぽかんとしたが、少し遅れて咲たちも挨拶を返す。
ネリー「ふあーい」
いつもの民族衣装めいた格好とは異なる浴衣の袖で寝ぼけまなこを擦りながら、ネリーが気の抜けた返事をする。
足どりもふらふらとし、見ている咲はやきもきしながら見守ったが、やがて咲の隣の空き席へと腰を下ろして食事を始めた。
ネリー「うーん」
ネリー「もぐもぐ……」
ネリー「うげー……魚だ」
何となくそのまま眺めていると、ネリーは香草焼きに目を止めてげんなりした顔をする。
紅白の混じった不思議な形状の帽子は健在で、そうしていると愛玩される動物めいた愛嬌があった。
咲「骨、とろっか?」
だから、ついつい世話を焼きたくなって咲は声をかけていた。
しかし。
ネリー「えっサ、サキええああうえあっ」
ネリーが思いもよらず奇妙な反応をして「え?」と声を漏らす。
ネリー「い、いたの?」
咲「最初からいたけど……」
ネリー「い、いたなら言ってよっ」
めちゃくちゃな文句だった。言っても何も、包み隠さずここにいるのだ。何を言えというのだろう。「はーい、咲だよっ」とか?
(っていうか……私の隣座ったの、私がいたからじゃなかったのかな)
ともかく、ネリーの行動が謎だ。とくに気になるのはネリーが席を選んだ基準……自分の隣だから、という理由ではなかったとすると。なぜだかむっとなり、もやっとした。
咲「もう……とりあえず骨とるからね」
強引に流れをやっつけて処理を始める。
ネリー「う……ごめんサキ、寝ぼけてた」
咲「別に謝らなくてもいいけど……」
考えてみれば、そんなひどいことをされたわけじゃない。存在に気づいてもらえなかったのは地味に傷つくが、無視されたわけでもない。
智葉「よし、皆食ったら打つぞ」
衣「衣も入っていいのか?」
智葉「ああ。こちらこそ頼む」
一方、他所では練習に関する話が決まっていた。
続いて襖が開き、監督が顔を覗かせる。
アレクサンドラ「皆、いる?」
入ってきて居合わせる顔ぶれを見渡していく。欠員がないことを確認し、ハギヨシを供につけた衣がいることも認めると、
アレクサンドラ「貴女が天江さんか。挨拶が遅れたけどいらっしゃい、臨海へようこそ」
薄く笑いかけて歓迎する。
衣「こちらこそ挨拶が遅れた。よろしく頼む」
恭しく返した衣は自分がここにいて問題はないかと尋ね、智葉たちを介して出した許可で問題ないと認められる。
アレクサンドラ「練習にも参加していってもらえるのかな? 前もって許可は出しておいたんだけど」
智葉「ちょうどその話をしていました」
衣「是非お願いしたいと思っていた!」
その話を聞くと監督は上機嫌に相づちを打つ。
アレクサンドラ「そう。それは有り難い。うちは選手の特性上、対外試合を組みづらくて困っていてね」
衣「他校との試合はしていなかったのか?」
アレクサンドラ「国内では、そうなるか……海外のチームとの交流で賄っていたけど」
そういえば、日本に限れば他校との合同練習などはなかったな、と咲は思った。
ネリー「んーむむっ……他校との試合とかなくてよかったよね。正直、めんどくさいし」
箸の扱いに苦戦しながら食事しているネリーが言う。
ハオ「こっちから出向かなくていいから?」
ネリー「うん!」
ダヴァン「私としテハ……出向いてみたくもありマスが」
ダヴァンがきりっと引き締まった表情で言う。勇敢な発言だが突然だ。心なしか、陰影が射して見えるほどの歴戦の勇士のごとき顔つきだった。
明華「ご当地のカップ麺が買えるからですか?」
ダヴァン「ハイ!」
智葉「……やれやれ」
二人共にらしい発言に咲は苦笑いした。
▼
朝食後、食休み程度の時間を挟み練習が始まる。
参加するメンバーは衣を含むレギュラーと、それに準じた実力を持つ日本人部員。合わせて十名ほど。データ収集も兼ねて他は観戦に出向く予定だ。
準決勝を明日に控え、引き締まった空気の中で卓が整えられていく。準備は部員総出で行い、瞬く間に終わる。
明華「そういえば咲さんはどちらで打つんですか?」
整った卓の前。そこで並ぶ格好になった明華にふと尋ねられ、ぼうっとしていた咲は数瞬反応に窮した。
咲「……え?」
明華「打ち方です。いつもの……嶺上開花を主体にしたものか、二回戦で見せた打ち方にするのか気になって」
固い雰囲気ではなく世間話でもするように気楽な問い。しかし咲にとってそれは、答えたくないほどではないものの重い意味を持つ。
咲「えーと……いつものじゃないほうでやるつもりです」
幾らかの逡巡を内に抱えながらも間を置かず答える。すると、
明華「そうなんですか」
浴衣から着替え、いつもの服装をした明華の顔にふわりと柔らかな笑みが浮かぶ。
明華「少し楽しみです。咲さんのあの打ち方は色々と興味深いですから」
咲「……」
するすると話が運ぶ。身構える暇もない。咲としても意外な印象に打ちのめされてしまい、呆けてしまう。
明華「? どうかしました?」
咲「い、いえ……」
歯切れ悪く取り繕う。不思議な気分だった。
ぽややんとした空気を発する明華を前にすると警戒心が働かないのだ。どちらかというと壁を作るタイプの咲が、あっさりと言いづらい話にも答えてしまうほどに。
奇妙なことだ。内にずかずかと踏み入られたとしても不快に思わせない。何かと調子を狂わされる。
ーー同時に、長らく覚えていなかった懐かしい感覚でもある。
掴みどころのない立ち振舞い。不思議な人柄。
明華のそんなところは少しだけ、思い出の中の、大切な人の面影に重なるのだ。
ネリー「サーキー、これ反対側持って~……」
両手で機材を抱えたネリーが横切り、救援の要請を飛ばしてくる。
咲「わ、……っとと」
ぐらついた先端を慌てて支え、反対側を持つ。
ネリー「助かったー、ありがとサキ」
咲「これプロジェクター? 一人で無茶だよ……って、キャスターなかったの?」
ネリー「なんか壊れてたみたい、ついてないよー」
ここまで一人で運んできたのだろう。その事実に咲は驚く。
お金も絡まないこんな運搬作業に精を出すなんて。
智葉か誰かが報酬に金銭でも提示したのか。いや、前日から疲労がたまっているというネリーに、勧んでこんなことはさせないだろう。
よくわからない疑問にぶつかる。明華の印象に思案する間もない。結局、軽く考えているうちに対局の準備は完了し、ネリーに大事ないならいいかと片づけて卓につく。
衣「久々の咲との対局、心が躍るぞ!」
ハオ「いきなり気が抜けませんね……よろしくお願いします」
明華「歌ってもいいですか?」
同卓者は衣、ハオ、明華。
咲「……よろしくお願いします」
咲は幾らかの緊張をもって強者がひしめく卓に臨んだ。
▼
幼い頃、咲はよく姉の後ろについて回った。
それは、家で共に過ごし遊ぶ機会が多かったからかもしれないし、父母が仕事に忙殺されがちな事からくる寂しさ、あるいは、二つながらも年長者の姉の大人びた雰囲気に憧憬を抱いていたからか。
ただ言えるのは消去法で慕ったのではないということ。幼い頃の咲は今ほど引っ込み思案ではなく、今よりも明るく社交的な性格をしていたから、友達だってそれなりにいた。当初、咲は生活を送る上で姉の庇護を必要としなかった。
だが、姉妹を取り巻く環境は変わっていった。中でも大きく変えたのは麻雀。それが家族の関係を一変させた。麻雀がなければ、悲しいことは起きず、今のように姉と離ればなれになることもなかった。
幼すぎた咲はそう勘違いしてあやまちを犯した。プラマイゼロ。決してやってはならなかったこと。
今の幼い咲にはそれがわかる。
ーーだから、知恵が足りないのだと思った。智慧ではなく、知識でもなく、知恵。ワラで出来ていて脳みそがないために何の役にも立たない、そんな自分を。変えなければいけない。中学に入る前にそう思ったのだ。
ネリー「やった、ネリーが一位~」
緊迫した勝負が繰り広げられる中、卓を囲んでいたネリーが勝ちどきを上げる。うきうきとしてご機嫌だ。
ダヴァン「無念デス……」
衣「む、届かなかったか」
対する同卓者はダヴァンと衣、そして咲。ちょうど今終わった対局は衣と咲が追い上げ、僅差でネリーがトップに立った。
それまでトップの割合は咲が大方を占めていた。今まで隠してきた打ち方をし、咲からは相手の打ち筋を見知っているのもあって優位に場が進んだ故の結果だ。
といっても咲が圧倒する展開は少ない。偶然が重なってたまたま大差をつけることはあるが、局面は一進一退、地力が高く能力を持った者も多いという顔ぶれのため、好き勝手もできない。
衣「くっ……慚愧に堪えないな」
調子が出ない様子の衣が不満そうに唇を噛む。夜にはほど遠い朝だからだろう。
十分すぎるほど脅威的な支配を発揮しているのだが、満月の夜に比べればなま易しいプレッシャー、あるいは想像する以上に歯がゆさを堪えかねているのかもしれない。
それでもほとんどの半荘で一位か二位につけているのは流石というべきか。それはともかくも。
ネリー「ふふーん、やったやった。ねねっサキ、見直した?」
咲「ホント強い……この打ち方で負けちゃうなんて」
今にも席を立ってステップでも踏みそうな調子ではしゃぐ。そんなネリーに静かな驚きをもって咲は答える。
実際、はやりも言ったように。この打ち方が普段の嶺上を主体にしたものより数段強いことを咲は自覚している。
そして。
衣との初対局を除けば家族麻雀以外でこの打ち方を披露したことがないとはいえ、勝とうとして勝てないというのは稀で。それこそ、姉や母、一部の限られた相手しか歯牙にかけないのだ。ネリーは間違いなくその一部の側に属していた。
衣「ふ、ふん、ようやくか。衣は一足先に咲に勝っていたぞ」
ネリー「今の対局は三位だったけどねー」
衣「うっ」
ぐっと押し黙る衣。二万五千点持ちの三万点返し、それもハコ下なしとなれば順位は時々で変わって当然、というのは皆承知の上だろうが、突かれて痛いには痛いらしい。
ネリー「ちょっとずつ慣れてきた! そろそろトップ率落としてあげるからね、サキ!」
まだ午前中、同卓者も立ち替わり違ってくるので一人に対し半荘二、三回ほどしか当たっていない。ただネリーは、わざわざ見学に回って咲を見ていた。そろそろ手の内も割れてきたようだ。
それこそ、靴下を脱がなければ仮初めの優位も保てないだろう。確信めいた予感がよぎる。
衣「……」
衣の視線が咲の足下に向く。
この場で衣だけは咲と靴下の関係性を知っている。だが、咲に脱ぐ気はなかった。
(昔の感覚にのまれちゃいそうになるから……あんまり脱いだ状態で打ちたくないな……)
あくまで練習だ。ただでさえ、この打ち方には忌避がつき纏う。ーーこの打ち方で打っていると思うのだ。自分が選んだやり方……二回戦で見せたような『パフォーマンス』が、果たして正しかったのか。どっぷりと思惟に沈んでいると、プロジェクターの画面がふっと瞬き、点灯する。
ネリー「あ、そろそろだったね?」
智葉が操作してつけたらしい。視界の端にリモコンを持った智葉が映った。
『第七十一回全国高等学校麻雀選手権、夏のインターハイBブロック二回戦、選手の入場が始まりますーー!』
不意打ちに耳に入ってくるテレビ中継。どくんと心臓が跳ねた。
衣「……ほう。始まったか」
『まずはこの高校! 北海道より初出場の有珠山高校ーー』
咲たちの卓はちょうど半荘が終わったところだったが、他も手を止めて画面に見入っている。一方の咲はそんな周囲を窺う余裕もなく、画面に釘づけだ。
京都、八桝高校。北神奈川、東白楽高校。
三校の紹介、当惑する咲の心境をよそに実況は滞りなく進み、最後の一校になってーー実況中継の向こうで、一際大きく歓声が轟いた。
『白糸台高校! インターハイ二連覇中の王者からはこの人、インターハイチャンピオン・宮永照選手ーー!』
画面の中で呼ばれた少女が、悠然と入場していく。それは、紛うことなく姉の姿、思い出の中の面影を残す凜然とした面立ち。
その横顔に見とれていた。入場が終わり、画面が切り替わったあとも未だ余韻に浸る。
わずかな雑音を残し静まり返った部屋で誰かが息を呑む音がやけに響く。
誰かの視線を感じて、振り向く。視線の主はネリーだった。
ネリー「……今のミヤナガテルってサキのお姉さん?」
咲「え?」
突拍子のない、まさかされるとは思わなかった質問に目をしばたたかせる。
知っていても遠慮するだろうという意味ではなく、知っていると思わなかった。
咲「……冗談で言ってる?」
ネリー「ううん、知ってて訊いた。お姉さんだよね……まさかあっちが妹とかじゃなくて」
おどけるネリーにも今は軽口を叩く余裕はない。
その会話は同卓していた者にも隣り合う卓のメンバーにも筒抜けだったから当然注目を買う。あちこちから視線が飛んでくる。
咲「知ってたんだ……」
驚きは大きかった。また、今さらながら隠していた罪悪感が首をもたげる。
ネリー「……隠してた?」
咲「うん……」
ごめんね、と小さく呟く。
ネリー「あの、ね……サキ」
咲「……」
ネリー「ネリーが言いたいのは怒ってるとかそういうんじゃなくて、その」
ふらふらとネリーの視線がさ迷う。
咲は何となくその言葉の先を予想していた。
だが、それこそ、知っていても言わないでおいてくれると思っていた。
ネリー「二回戦のあれって……あの人が関係してる?」
どうして。二回戦のときは訊かないでくれたのに。
頭の中でぐるぐるとその言葉が反響していた。聞き間違い、空耳、言い間違えーーいや、認めなくてはならない。
尋ねるネリーと交差したその瞳が風に煽られる蝋燭の火のように頼りなく揺れているのが印象的だった。
咲「ごめん……それは言えないよ」
部屋の静寂を打ち破る中継の大音声が上がる中、はっきりと咲はその答えを口にした。
▼
漠然とした疑問に囚われながら牌を打つ。
明華「それ、ロンです」
あえなく振り込む。上の空だった。我に返ってみれば、あり得ないミスで、止めていた待ち牌を自ら切っていた。
咲「あ……はい」
点棒を受け渡す。明華に妙な顔をされた。
明華「あの……大丈夫ですか。さっきから暗い顔してますけど」
咲「それはその……すみません」
笑ったほうがいい。少なくとも、沈んだ顔は隠すべきだった。
明華「そうではなく」
困ったように明華が笑う。
明華「ネリーも、何か言ってあげてください」
同卓するネリーに振る。残る一人である智葉はむっつりと黙り込んでいる。
ネリー「…………」
明華「困りましたね」
自分一人では手に余る。そんな様子で呟くが、智葉は依然として沈黙を守る。
明華「……続けましょうか」
ひっそりと息をついた明華が再開を促す。まもなくして対局の火蓋が切られる。
だが、勝負に熱がこもることはなかった。申告、宣言の他はひたすら沈黙が続く。
その間、咲はずっと考えていた。先ほどのネリーの言葉。そして自分がやっていることへの疑問。
大会を通して咲がやろうとしているのは姉との復縁だ。
姉とはもう六年会っていない。夢に見て会うなんて馬鹿らしいこともあったが、咲と姉との間には六年もの空白が横たわっている。
生半可なことで取り返せる年月ではない。六年もあれば。六年も会わずにいれば。思い出なんて少しずつ消えていって、環境を移した先で人間関係が一新される。
だから、興味を失われてしまった姉に振り向いてもらわなくてはならない。
仲を取り持つという母の言葉に甘えてはいけない。人任せにしてはいけない。そんなことはワラしか頭に詰まっていないカカシにもわかるから。
でも、咲がやっていることはーー。
意識せずとも思考が回る。鍋の中身を玉でかき回すように、ぐるぐるぐるぐる、勝手に回る。
明華「♪~ ツモ。……私が一位ですね」
お世辞にも嬉しそうには聞こえない宣言に意識が浮上し、現実を認識する。対局は終わっていたようだ。結果は、さんさんたる有り様だ。対局に集中できず悪し様に罵られても仕方ない腑抜けぶりだった。
咲「……すみません」
人には聞こえないよう口の中で呟く。謝っても空気を悪くするだけだ。しかし空言でも口にせずにはいられなかった。
咲にだってわかるのだ。山階左大臣が身なりの恥を知るように、競技者としてあるべき様から外れている痛烈な自覚は咲を打ちのめし、形だけ取り繕うことを躊躇わせる。
ネリーのことにだって見当がある。
もしかしたらネリーがあんな話をしたのは、今日になって踏み込んできたのは、何か事情があるのかもしれない。
昨日に知らされた疲労の蓄積が起因していたり、ダヴァンの仄めかした異変に何かしら関係していたり。
知りたい、という気持ちは雪が降り積もるように蓄積し重なっていく。だが、それだけは訊けない。
明華「ええと……次、打ちます?」
明華の控えめな問いが卓に座る三人に向けられる。咲は、誰か手の空いている人に入ってもらって席を立とうとした。個人的な心情に気遣わせるのはいい加減悪いと思ったから。
だが、思わぬ人物が機先を制した。ネリーだ。
ネリー「あ、あの……サキ」
おずおずと口を開く。その口を持つ小ぶりな顔がゆっくりと咲のそれに合わせられる。
ネリー「その打ち方ってさ、自由に変えられるの?」
ネリー「変えられるんだったら……ネリーは、前の打ち方のほうがいいな」
咲「え……っ?」
胸の鼓動が激しく跳ね上がった。
咲「……な、なんで?」
狼狽したように取り乱しながら尋ねる。あり得ない聞き間違いを願い、手に汗がにじむのを感じながら、苦虫を噛み潰したように言いにくそうにしたネリーが、口を開いていくのを見届けるーー。
ネリー「今打ってるそれは……なんか、嫌」
その言葉が、咲に与えた衝撃は甚大なものだった。三半規管を揺らされ平衡感覚が狂ったように咲を震撼させ、視界をも揺さぶった。
それは、否定の言葉だった。拒絶の告白だった。
『わたしね、本当は咲ちゃんにーーーー』
あのときと同じ、本心の吐露。また、同じことが繰り返される。呼吸が速くなる。血の気が引いていく。
今この瞬間、何よりも目の前の人が恐ろしかった。近づかれるのが怖くて、離れていくのが怖くて。どうしようもない感情が爆発し、頭の中に染み渡っていくーーーー。
「咲さん!」後ろから明華の声がした。
咲はその場から走り去り、逃げていた。中学に入学した年そうしたように。抽選会でそうしたように。
心が言葉にならない悲鳴をあげる。頭の中には恐怖だけがあった。
▼
無人の広間は広々とした間取りに伴って伽藍の侘しさが鎮座していた。
早足にここを訪れた咲は畳の上に転がっている自分の荷物を漁る。あるものを探しだし自室に引き返そうとしていた。
明華「ここでしたか」
不意に閉じてあった襖が静かに開き、来訪者が現れる。
咲「あ……明華、さん」
後ろ手にそっと襖を閉めた明華が呼びかけられて薄く笑う。目的のものを発見し握りしめた咲を見る目は穏やかだ。
明華「それ……魚のキーホルダーですか?」
咲「は、はい……頭を冷やそうと思って、その……これだけ持ってこうかなって、あのじゃあこれで!」
明華「おっと誰も練習を抜けていいなんて言ってませんよ」
咲「うわっ」
横を駆け抜けていこうとした咲の手がとられ、ぐるんと外回りに一回転させると正面から向かい合う形にする。舞うように鮮やかな手並みだった。
咲「えっ、えっ」
明華「うーん」
唸りながら、手を動かした明華が乱れている咲の髪を整えていく。
明華「はい直りました。よっぽど乱暴に走ったんですね、結構ボサボサでしたよ」
咲「あ、あの……」
明らかに状況が飲み込めずにきょとんとした咲の瞳が瞬く。
振りほどけそうにない力で掴まれたままの自らの手をチラと見やり、咲はわずかに数センチ目線の違う明華を見つめ返した。明華がことんと首をかしげて亜麻色の髪を揺らす。
明華「困惑中の咲さんに朗報です」
咲「……」
明華「買い出しを頼まれてきたので一緒にいきましょう」
咲「え……っ?」
咲の鳶色の瞳にこもる困惑がさらに深まった。
明華「お買い物ですよ、はりきっていきましょう」
咲「……え、えっと……」
明華「あ、今回のお釣りはファインプレーな私を称えてプチプチしたもの限定ですね、悪しからず」
どこまでもいつも通りのペースで言い切る。緊迫感などおくびにも出さない。咲は困惑が極まって泣き笑いのような顔になっていた。それも感極まったというより、見知らぬ場所に置き去りにされて途方に暮れたように情けない顔だ。
咲の手を引き、畳に転がる荷物のところまで歩くと明華はハンドバッグを手にとって中身を確認する。
明華「じゃ、いきましょうか」
相変わらず底抜けにのんきな声で明華は言う。有無を言わさず咲の手が引かれる。鼻歌が聞こえてきそうな陽気さでひっぱられ、心なしか咲はぐったりとして観念したようにされるがままになっていた。
明華「ネリーのこと、誤解しないであげてくださいね」
続く声に弾かれたように咲が顔を上げる。
明華「距離の測り方がわからなくなるときってありますよね」
明華「頭ではわかっていても……胸の奥から込み上げる衝動に逆らえない、そんなときも……きっとあるんです」
前を見て行く先に顔を向けたまま明華は言う。
明華「本当、突然ですね……」
言葉が重なっていくにつれてあるとき急に声のトーンが落ちる。だがすぐに暗い雰囲気は払拭されて、前を向いて見えなかった顔が一歩後ろを歩く咲のほうを振り向く。そこにはいつも通りの柔和な笑みが浮かんでいた。
明華「とぉーりゃんせーとぉーりゃんせー」
明華は笑顔を見せると前を向き、手を引いて歩き出した。
▼
二人が去った旅館の練習室。残る九名は練習を再開し、対局を続けていた。ネリーに智葉、ダヴァンとハオが同じ卓に座り、黙々と牌を打つ。
智葉「おい……大丈夫か、ネリー」
様子を見かねた智葉が気遣わしげに話しかける。ネリーは明らかに消沈し、花が萎れたような有り様だ。麻雀にもそれがあらわれ精彩を欠いている。
ネリー「あ……うん、体調にはまあ……問題ないかな」
智葉「なら精神的にはありそうじゃないか……休むか?」
ネリー「……いや、いいよ」
ダヴァン、ハオも休んだ方がいいとそれとなく伝えるが、ネリーは首を振って固辞する。
智葉「……無理には言わないが。あまり我慢して打っても実は少ない。元々伝えてあった通り、自主練習くらいに思っていいからな」
ネリー「うん……」
智葉「それはそうと」
そこで言い淀み、智葉は言葉を切る。言葉を探しながら、一旦はそのまま牌を打ち、様子を窺うように辺りを見渡していってネリーへと視線を戻す。
智葉「なぜ、聞いた? いや咲の反応もまあ予想外、というか予想以上だったが……」
ネリー「……」
智葉「……何か、焦っていないか」
何となくだが、智葉には心当たりがあった。いま口をつぐむネリーから先刻見せた焦燥の残滓らしきものが滲んでいるのもある。しかし、他にもある。それは、座談会のこと。
二日前、智葉はネリーに付き添い咲の母と対面した。サシ、ならぬ二対一で対峙することになった二人だが、話は一貫してネリーと咲の母の対談であるかのような流れで幕を閉じた。智葉が発言した回数など微々たるものだ。
今も思い出される。『トラウマ』の話があったあと、咲の母は最後の方にネリーの耳元で何事かささやいた。あれがおそらく三つ目の理由なのだろう。
その耳打ちをされて以来、ネリーは一段と余裕をなくした気がする。いや、一段どころではないかもしれない。『トラウマ』の話を聞いたときも相当な衝撃を受けていたようだが、それに比べれば生易しいとすら言えるほどだった。
そしてその影響は、後日の二回戦、控え室の中にまで引きずられていた。
だから智葉は輪をかけてネリーの不調を気にかけてしまうのだ。
あれはいったい、何をささやかれたのか。
ダヴァン「サトハ、そのへんで……」
ダヴァンがそれとなく諫める言葉を口にする。
智葉「いやしかし、放っておいてまた同じようなことが繰り返されたら事だぞ」
ハオ「……それは確かに。傷口を広げるのは避けたいですね」
三人が意見を口にする。そのうちダヴァンとハオは留学生で、残る明華も咲のフォローに回っている。実質留学生は皆少なからず関わっている。
留学生が傍観に徹しない。その光景を、不思議な感慨と共に智葉は眺めていた。今までの二年間めったに見られなかったことだ。留学生同士が互いのプライベートに口出しするとなればなおさらに。
ネリー「何か、事情を聞く方法ないかな……」
智葉「おい……」
だが、ふと漏れ聞こえてきたネリーの呟きに、智葉は頭を痛める。この期に及んで諦めていないらしい。その熱意は智葉とて認めないわけにはいかないが、順序があるのではないか、と思わずにいられない。特に咲のような根がどこまで続いているかわからない相手の問題には。
「無理やと思いますよ」
どうやって諫めようかと智葉が苦心していると、唐突に隣の卓から声が差し挟まれた。
日本人である。二年生で、この場に呼ばれるほどには実力を示している部員だ。
いきなりどうしたのだろうか。彼女は何かにつけて首を突っ込むようなタイプではない。智葉は不思議に思った。
ネリー「ムリ……って?」
「うち……あの子と同中なんですよ。でもあの子は、その……自分のことは話さへん。たぶん、絶対に」
推量する『たぶん』をつけはしたが、絶対という言葉を使うあたり、彼女には何らかの確信があるように思える。
ネリー「……同じ中学? でも、あのときは……」
「うちは、あの人らとは違います……」
智葉にはわからない会話が交わされる。
ネリー「……」
「宮永さんには返しきれへんものがあります……うちが頼んだことやないけど、あの子はうち、っていうか部のためにいろんなものを擲ってくれた」
「……中学のときの話ですけどね。あの子が友達とどう接してたか見てましたから、ちょっと気になって」
差し出口を挟んですみません、とあちらの卓で牌が打たれるのを見ながら付け加える。彼女の真剣な眼差し。少なくとも適当なことを言っている風には見えない。智葉を含め、話している当人たち以外は静観していた。
ネリー「中学……友達?」
「いやそんな恐い顔せんといてくださいよ。そら宮永さんにやっていますって。人付き合いに積極的な子ではありませんでしたけど……」
「っていうても一人しか知りません。仲良くしようとしてた子はおったんですが……それはともかく」
言葉を切り、牌を打つ。
「聞いてませんでした?」
ネリー「ま、まあ……そこはかとなく言ってたような気がしないでもないよ」
「……」
傍目にもわかる白々しさだ。部屋から全体的に呆れるような空気が漂う。誰も突っ込まないのが華だった。
「コホン、……ともかく、中学のときの話なんですが」
ネリー「う、うん」
「何ていうんかな……あの子は友達に秘密主義的な関係を求めてるんやと思います」
その話に智葉は得心する。確かに、そんな感じがする。何もかも頑なに話さないわけではないが、ある一線で壁を作って接している、時々そんな風に思えるのだ。
ネリー「ヒミツシュギ?」
「物事を他人には知らせないでおこうとするって考え方ですね。宮永さんの場合、全部ってわけやないし、むしろ大体のことは話すんですが……何かな、何が基準なんやろ」
見てきた以上のことは彼女もわからないらしい。彼女こそが思い悩んでいる本人であるかのように首をかしげ、唸り声をあげる様をみてネリーは不満そうにした。
ネリー「むー、使えないなー。お金いる?」
「あはは……勘弁してくださいよ。お金はいらないんで」
ネリー「しょうがない、タダの情報ってことで許してあげる」
「お金もらってたらドツボやないですか……」
ネリーも、少し普段のおちゃらけた雰囲気が戻ってきたようだ。周りもほっとするような笑いを誘われるような雰囲気に包まれる。
ネリー「他はある?」
「他は……そうですね、その友達の名前はクラスメイトって子で、今は清澄高校ってとこにおるみたいです。ええと、団体戦の長野代表の」
ネリー「キヨスミ……」
ネリーがとてつもなく嫌そうな顔をする。コーヒー豆を直接噛み潰しでもしたかのようだ。清澄高校。何かあったような気がするが、思い出せなかった。
ネリー「そっか……助かったよありがとう」
「どうも。聞きたいことがあればまた聞いてください」
会話が終わり、ネリーは座っている座布団を座り直して改めて卓に向かい合う。
ネリー「よし、情報ゲット」
無茶な行動に移さないか智葉は心配だったが、水を差さずに置く。なんともやりにくい。
ネリー「そういやコロモー、お前なんか知らないの?」
衣「人にものを聞く態度じゃないな……」
ネリー「コロモお姉さんっ、お願いします!」
衣「そこまでいうなら仕方ない」
得意げに笑った衣が鼻を鳴らす。
衣「咲は……そうだな、家族に強い思い入れがあるようだ」
ネリー「ふーん」
衣「お前……露骨に態度が変わりすぎだろう」
口の端をひきつらせ、憮然とする衣。
ネリー「だってそれって何となく想像つくし」
衣「まあ聞け。……衣も家族に対する思い入れは一入だ。衣としては我が龍門渕に咲を迎え入れたいところではあるが」
ネリー「ちょっと」
衣「とりあえずは聞いてくれ。そしてこれは衣の直感だが……咲は家族を喪った経験がある。……まあ同じ穴というやつだ。信用してくれていい」
衣の言動に見え隠れする妙な威厳が説得力となって聞くものに疑いを薄れさせる。
衣「宮永照……衣も薄々感じていた口だが、二回戦の事、無関係ではないだろうな」
ネリー「……」
衣「……」
ネリー「え、それだけ?」
衣「っ!」
衣の目が泳ぐ。
ネリー「……」
衣「……」
ネリー「うん……ありがとう。いやこっちがムリに振ったからね」
あらぬ方向を向いて黙り込んだ衣から目線を切り、ネリーは再び佇まいを正す。座布団の上で姿勢を整えるその瞳は真剣な色を湛えている。
智葉「ネリー、一つ聞いていいか」
周囲の空気が緩み、ネリーの緊張感が持続しているのを見計らって、智葉は問いかけた。
ネリー「……うん?」
智葉「咲の……打ち方に言及したのはどうしてなんだ?」
智葉にはいまいちそれがわからない。
咲が隠していた打ち方を明かし、公然と打つようになったのに何かしら事情がある、というのは。
何となく察せられることだ。実力が智葉に及ばないことを思い悩んでいたあの頃の彼女の苦しみが、葛藤が、嘘であるとは思いたくない。あの頃でも引き合いに出さず、全く匂わせることがなかった隠し事。事情がないことはないのだろう。
だが、咲も今まで隠していたのだからそれ自体は非難されなくとも、話題が及ぶくらいは覚悟して然るべきだという向きもあるのではないか。なら、咲があれほど取り乱したのはなぜか。そして、ネリーの真意はどこにあるのか。
ネリーが押し黙る。考えているのだろうか。催促せず智葉は返答を待つ。
少しして、ネリーは明るさを装うように言った。
ネリー「サキ、あの打ち方だと練習に身が入ってないみたい」
ネリー「……だからね、カツを入れてやったの!」
元気を振り撒くような仕草。だが、何かを隠そうとするときに出る不自然さが端々から感じられたのは気のせいか。
智葉「渇って……それは、お前……言い方が悪かったんじゃないか」
言おうか迷った末に智葉は苦言を呈す。伝え方に問題があったように感じたから。
実際、智葉は今聞いて『ああ、なるほど』とならず、『そういう意味だったのか』と意外な印象をもて余している。おそらく咲にも伝わっていないだろう。伝わっていたらこんなことにはなっていない。
智葉「あの言い方じゃわからないと思うが……」
ネリー「…………そんなの、わかってる」
指摘を受けたネリーが俯きがちになり、何事か呟く。か細い声で聞きとれない。
智葉「今、何て?」
ネリー「そうだね、言い方を考えてみるよ」
智葉「……そうしてくれ」
取り澄ました顔で智葉は返す。質問を重ねたくなる衝動を呑み込んだ。
黒い雷雲が広がるような雲行きの怪しさーー密かにそれを心の中で感じながら、練習を再開すべく全自動卓に手を伸ばす。
刹那、機械的な電子音が鳴り響く。
智葉「うん……?」
突如として上がった異音に周囲が浮き立つ。智葉は首をかしげた。
ネリー「……?」
ハオ「あ、携帯かな?」
ダヴァン「アッチにありまスネ」
衣「あっちだ!」
視線を巡らせると電子音を流す携帯端末は皆簡単に見つけられた。
ぞろぞろと卓から離れて畳の片隅へ、何人かの荷物置き場となっている場所に落ちた携帯端末。
皆より一足早く着いたダヴァンがそれを拾い上げる。
ダヴァン「……着信してまスネ。通話デス」
ハオ「誰の?」
智葉「このデザイン、どこかで見たな……部員のものではあると思うが」
ダヴァン「ダレかこの携帯に心当たりありまマセンカー?」
振動し電子音を垂れ流す携帯端末が掲げられ、それを見たこの場にいる部員の反応は薄い。名乗りがあげられる気配はなかった。
ネリー「……ってことは、ここにいない人の?」
ネリーがそう言うとたちまち沈黙のとばりが落ちる。渦中の人物である咲か、明華か、はたまた観戦に向かった誰かというのもあり得る。
衣「出ないと切れてしまうのではないか?」
ダヴァン「アッ……」
電子音はまだ鳴り続けている。だが、電話してきた相手が痺れを切らせば止まってしまうだろう。
ダヴァン「出てしまっていいんでショウカ」
ハオ「どうする? 出る?」
智葉「うーん」
ダヴァン「もしかしたら急用かもしれマセン! 出てミマス!」
智葉「あっ」
ダヴァン「ポチッとな!」
智葉が制止するよりも早くダヴァンはボタンを押していた。そして滑らかな動作で端末を耳に当て、
いちご『ーーあっ! もしもし、宮永さんの携帯で合っとるかのう?』
ダヴァン「……」
いちご『あれ……もしもし、もしもーし! 聞こえ』
ダヴァン「Do you pray to “MUGEN” of the ramen?」
いちご『え゛』
ダヴァンは通話を切った。
ダヴァン「……フウ、危なかッタ」
ハオ「いやアウトだから。宗教の勧誘みたくなってたよ」
智葉「おい、咲が変な人みたいに思われたらどうする」
ネリー「何してんだこのラーメンマン!」
ダヴァン「ハッハッハッ、いけマセンネリー、私は女ですからウーマンでスヨ。英語は正しく使わなけレバ!」
この瞬間、Megan Davinの命運が決まった。
ダヴァン「」
智葉「焦ったのはわかるがふざけすぎだ」
折檻され、ダヴァンがその場に倒れている。一連の馬鹿げたやりとりですっかり雰囲気が変わってしまった。
だが、妙な空気の漂う練習室に再び電子音が鳴り響く。
智葉「……またかかってきたぞ」
ハオ「どうしましょうか」
ネリー「……」
衣「次は誰がとるんだっ?」
ハオ「いやそういう遊びじゃないんですよ」
電子音を垂れ流す携帯端末が緊迫した練習室で存在感を示し続けていた。
▼
朝方の爽やかな空気にさっと肌を撫でられ、空を見上げる。晴れ渡った空が青々しい。旅館から近場のコンビニまでの道の途上。日傘を差した明華と連れ立って、咲は車道脇の歩道を歩く。
明華「LaLaLaーーあ、そっち危ないです」
咲「あ……どうも」
道の行く先の街灯を先んじて見つけた明華が注意を促す。朝からの練習で若干注意が散漫してしまっていたが、咲は余裕をもって避けることができた。
一方、明華は道中鼻歌やメロディーを口ずさむ。往年のジャズの名曲に始まり、今は人生を面白おかしく歌ったシャンソンを口ずさんでいる。
『変えられるんだったら……ネリーは前の打ち方のほうがいいな』
『今打ってるそれは……なんか、嫌』
思い返されるのは、対局の練習中にかけられた言葉。ネリーは何を思ってその言葉を伝えたのか。反射的に怯えて逃げ出してしまってから、ずっと気にかかっていた。舗装された地面に広がる、朝の光りに磨かれた敷石を漫然と眺めながら歩く。
明華「わっ」
そうしていると、いきなり明華に脅かされた。いつのまにか前に回り込んでいたようだ。ひえっ、と変な悲鳴をあげてしまう。
咲「えっ、え?」
明華「もう着きましたよ」
ほらあそこ、と指を差す先にはコンビニがある。
咲「あ……」
二車線の車道を挟んで向こうの歩道。その道沿いに建っている色んな店の中にあるコンビニを一目見て、
咲「す、すみません!」
慌てて明華のほうを向き謝る。完全に不注意だった。
明華「大丈夫です、どっちにしてもまだ信号待ちですから」
見てみればその通りで信号に足を止めている格好だ。自分が今そうしているのに気づかないほど混乱していた。横断歩道の向こうにある赤く点灯した信号にほっと息をついて明華を見つめ返す。
咲「それでも声をかけてもらわなかったら気づきませんでした」
すみません、ともう一度謝る。すると明華はむっと可愛らしく顔をしかめた。
明華「できたらありがとうございますのほうが嬉しいです。一点減点ですね」
確かに感謝のほうが気持ちいいだろう。何から差し引かれた点数か不明だが、納得して言い直す。
咲「そう、ですね……ありがとうございます」
明華「いえいえ」
笑顔で返される。満足してもらえたのだろうか。言ったあと、何か小さく聞こえたような気がしたが、口が動いていなかったので妙に思い、首をかしげる。
明華「どうかしました?」
咲「いえ」
雑踏に視線を移す。信号待ちの間、手持ちぶさたなので適当な雑談をして待つ。やがて信号が青色に変わった。
横断歩道を並んで渡る。その途中、あちら側の歩道、向こう岸に立ち並ぶ店先の中のあるものに目が止まる。
それはーーファンシーショップにあるぬいぐるみ。カジキマグロを抱えた熊、のように見えるものだった。ショーウィンドウの中、透明な硝子越しに魚を携えた熊が勇ましげな立ち姿を晒している。
少しの間釘づけになった視線を悟られることはなかった。もし立ち止まっていたときに目をやっていれば明華に気づかれただろう。そのまま横断歩道を渡りきり、コンビニに入った。
「イラッシャイマセー」
客入りの少ない店内が透けて見える自動ドアを潜る。入店を告げるお決まりの音楽を聞きながら、明華と並び店内に足を踏み入れる。
だが入った瞬間、咲は硬直する。普通のコンビニだ。今まで見てきたそれと代わり映えしない、本来なら驚くに値しない光景。
しかし、
誠子「いいか大星、私は弘世先輩の代理としてお前が暴走するのを止めなきゃいけない。わかるな?」
淡「はい……亦野先輩……」
咏「アッハハハハハハ、おっもしれー」
店内に入ってすぐ奥の突き当たり、ぽっかりと空いたスペース。そこにいる、床に正座したり、腰に手を当てて説教したり、腹を抱えて爆笑したりしている人たち。否が応にも目を奪われてしまう。
淡「……ああっ!? サキだ!?」
誠子「な、何!?」
咏「……おや」
そして、棒立ちになっていた咲は瞬く間に捕捉される。一直線に飛んでくる矢のような視線に射抜かれ、咲はその場に立ち竦んだ。