臨海咲SS置き場   作:たこっぴ

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高校編三十話

 

 暗幕を下ろしたような深い闇が目に浮かぶ。思い浮かべた記憶の真っ暗な光景はやがて淡い光に満たされていき、あるとき唐突に視界が開ける。

 

 そこは、子供の頃から慣れ親しんだ長野の家の中、だろうか。内部から見た内装の特徴がいくつか合致する。芳香を放つ檜の柱。すっきりとした居間の外観。

 

 そんな見覚えのある居間と寝室を繋ぐ廊下の、居間の入り口の扉の傍ら。そこに隠れるようにして咲は立っている。高校生になった今の半分より少し高い目線。水彩画に水を垂らして滲ませたようにぼやけた眼前の光景。

 

 その奥、居間の中ほどで、父と母が向かい合ってたたずみ話し込んでいた。

 

「照と咲は寝た?」

 

界「ああ、遊び疲れたんだろ。昼寝してるよ」

 

「そう。……ごめんね、あなたも忙しいのに」

 

 すまなさそうに母が声の調子を落とす。「いいさ」と父は鷹揚に笑う。

 

界「明日対局があるっていっても、朝早くからってわけじゃない」

 

「頑張ってね。応援してる」

 

界「ああ……お前も頑張れよ。ヨーロッパ、回らなきゃいけないんだろ?」

 

「うん。私は一族の事業のうちヨーロッパ地域を任されているから」

 

界「そうだな。……そっちのことは全然力になれないが、愚痴くらいは聞いてやれる。あんまりムリするなよ」

 

「問題ないよ。任された仕事は私の能力で充分対処できるし順調……それに、そっちに限らず今は……多くのことが良い方向に流れている」

 

界「そうだな」

 

「ただ、最近あの子の調子があまりよくないのが気がかり。私がヨーロッパにいっている間、気にかけてあげて」

 

界「ああ。わかった」

 

「あの子も……この家に来られるようになればいい。そうしたらきっと更に楽しくなる」

 

 会話の中にテレビのノイズのような音がずっと混ざり込んでいる。過去の咲は聞いていたかもしれない。しかし、思い出そうとしても一連の会話は全く記憶に残っていなかった。目の前の光景と同じように感触も、匂いも、咲には感覚の一切がおぼろげに感じられる。

 

「照がいて、咲がいて、あの子がいる……当たり前だけどかけがえのないもの、子どもの頃に思い描いた夢が現実になる」

 

界「おいおい、俺は入れてくれないのか?」

 

「あはは、もちろんあなたもね」

 

 ――――曖昧模糊としていた視界が、その瞬間、克明に像を結ぶ。

 

 鮮やかな笑顔。その瞬間の母は、笑っていた。それだけで人々に鮮烈な印象を与えるほど軽やかに。

 

 多くの場合人々の注意や関心を惹きつけるのは、静止した顔の善し悪しよりは、むしろ表情の動き方の自然さや優雅さだ。そしてこのときの母は、飾らない自然な魅力にあふれていた。

 

 だが、咲の記憶の中で物心ついてから今に至るまで大部分を占める母は、そつのない優雅な立ち居振舞いで印象を刻みつける人だ。泰然としていて、血の繋がった娘の咲でさえやや情緒に欠けて見えるほど淡白で。

 

 今や思い出の多くとは食い違う。冷悧な印象ばかり際立つ現在の母が、このときだけは明朗快活なはやりにも重なって見えてしまうほど、それくらい、別人のように感じられた。

 

 古い記憶を遡ると奥底でいつも説明のつかない問いに突き当たる。それは、物心ついた頃から長野の一軒家で暮らしている自分が、おそらくは物心がつく前に残していた記憶の断片。

 薄ぼやけたそのかつての光景では、やはり自分は長野の家にいて、覚えのある居間の一室で両親が会話する様子を扉の外からこっそり覗いている。

 

 高校生になった今では、そんなことが実際にあったのかどうか判断できない。それほどあやふやなものだ。しかし、その霧や霞のような記憶を反芻するたび考えてしまうのだ。

 

 宮永咲の母という人は、いったいどんな人なのだろうかと。

 

 優しい人だということは知っている。いろんなことを強いるように見えて意思を大事にしてくれることを知っている。

 

 母の愛情を疑ったことはない。だから、今まで考えないようにしてきた。

 

 知らなくても信じられる。今のままで不満はないから。

 

 そうだ――――今のままで、不満なんてない。

 

「照と咲が生まれ、私は実績を積み上げて一族内での立場を固め、そうしていずれはあの子も……」

 

「あと少し、あと少しで叶う」

 

「その時こそ私は勝利を掴む。仮初めじゃない、真の栄光が手に入る」

 

「桜花のように儚く舞い散るものではなく、永遠を約束する石の加護に極まった栄華が」

 

界「ああ……そうだな」

 

 薄ぼけた記憶の井戸で思い出したように会話が再生された。

 

 

 

 

 明華と協力して店内を物色する。回っているうちに買い物かごの中には段々と商品の山が築かれていく。

 

 薄力粉。だしの素。塩。カップ麺。醤油。酒。みりん。鶏卵。チキンラーメン。天かす。青のり。粉かつお。オタフクソース。ソース焼きそば。マヨネーズ。ポンズ。そして一リットルサイズのペットボトルに入った天然水――、

 

咲「あの……これ、なんなんですか?」

 

明華「はい?」

 

 プロセスチーズの袋を手にとって確かめていた明華が呼ばれて振り返る。

 

咲「買い出しですよね?」

 

明華「買い出しですよ」

 

咲「部の……買い物なんですよね?」

 

 買い物カゴを占領しつつある商品の数々にチラと視線を移し、訝しげに咲が訊く。すると。

 

明華「ええと実はですね、これは――」

 

淡「たこパだっ!!」

 

 今にも秘密の種明かしだという雰囲気を匂わす明華の説明が始まった途端、元気な声がして、二人の間にひょこっと淡の顔があらわれる。

 

咲「え?」

 

淡「ん、これたこ焼きの材料でしょ? たこパってやつでしょっ」

 

 天真爛漫な淡の言動につられて、表情に疑問を浮かべていた咲はもう一度かごの中身を見やる。

 

 言われてみればそうかもしれない。少しばかり違うものが紛れ込んでいるが、材料としてはお好み焼きの類いに近い。たこ焼きにもとれる。足りないのは肝心のタコくらいか。

 

咏「へー、たこ焼きパーティ? 楽しそうだねぇ」

 

 と思っていると、少し離れた場所で眺めていた咏が歩いてきて軽い調子で加わる。

 

誠子「お、おい大星っ、話の邪魔をするんじゃない」

 

淡「へっ?」

 

 だが同じく近づいてきた誠子は、目を離した隙に悪戯をしでかす我が子を見咎めた親のように駆け寄ってきて、淡の腕をひっぱる。

 

誠子「重ねがさね迷惑をおかけしてすみません。こいつにはよく言って聞かせますんで……」

 

明華「ああ、いえ構いませんよ」

 

 ぺこぺこと何度も頭を下げる誠子。この場で顔を合わせてからもう何度目になるだろう。気にしていない風に返す明華も少々苦笑い気味だ。

 

誠子「ええとそちらの……宮永さん? もごめんね」

 

咲「いえ……」

 

 謝りの言葉が咲の方にも入れられて、咲は萎縮したように会釈しながら思い返す。先ほどあったやりとりのことだ。淡は、店内に入る咲たちを目にすると出し抜けに声を上げ、素早く近寄ってこう言い放った。

 

淡「泊まってるとこいく前に会えちゃうなんてラッキー! これが飛んで火に入る夏の虫、いやサキだねっ!」

 

 そして彼女はどういう因果か「白糸台の控え室においでよ」と言い、誠子が「いや、控え室は……」と渋い顔をすると今度は「そっか、なら宿泊先! うちのホテルにきてっ!」と言い出し、それからしきりに誘いをかけてくるのだ。咲の手をとって。

 

 実際には自力で淡の手から逃れたり、明華が間に身体を差し込んだりするので厳密にいえば『手をとろうとして』だが、どちらにせよ少なからず咲たちが手を焼いたのは確かだ。

 

 腕を掴みひっぱり込んだ淡の頭にもう一方の手を置いて押さえつけた誠子は、そういった経緯を気に病んでいるのか終始謝りっぱなしだが、

 

誠子「大星もこの通り反省して……」

 

淡「フローズンドリンク飲みたい」

 

 両者の言動は真っ向から食い違っていた。「大星!」鬼の形相になった誠子が厳しい視線を飛ばす。

 

淡「えー、私はサキを連れて帰ろうとしてるだけだよ?」

 

誠子「それが迷惑なんだ!」

 

淡「ぶー」

 

 しかし叱咤を受ける当の淡は暖簾に腕押しといった具合で動じず、ふくれっ面を開けっ広げにさらしている。

 

誠子「お、おい分かってるのか、私がその気になれば……」

 

淡「できないでしょ?」

 

 猫のように目を細め妖しげな光りを瞳に宿した淡がニヤと笑う。傍観する咲たちには何を指すやりとりか不明だが、誠子は「ぐっ」と押し黙り、苦々しく顔を歪める。

 

誠子「早く戻らないとまずいって、弘世先輩にめちゃくちゃ怒られるぞ?」

 

淡「でね? そのとき私は気づいたんだ、人間は記憶を蓄積する装置であるだけじゃなくて、思考を発生させる装置でもあるって」

 

誠子「聞けよ、ってか何の話だよ! 恐ぇよ!」

 

淡「っべーだ」

 

 台詞に合わせて仕草を作り誠子をおちょくると、淡は咲のほうを向いてトトッと駆け足に歩み寄った。

 

淡「よしわかった、サキの気持ちを尊重しよう!」

 

 ひしと手を握られて咲の身体が震える。しかし、一転して心情を慮る発言。その言葉をかけられて咲の心にはわずかばかりの安堵が生まれていた。

 

 姉と縁があり、初対面での出来事、そしてよりによって白糸台の本拠地へと引き込もうとする彼女の強引さに恐怖にも似た苦手意識が芽生えていたが、彼女とて何がなんでも力ずくではない。そう認識して、咲も混乱から回復し我を取り戻しつつあった。

 

 姉の知人友人を前に平静ではいられない。だが、一方的に避けるのは悪いと思えるくらいには余裕を取り戻せた。握られた手もすぐに離されたからか明華も口を出さない。静かに状況を見守っている。

 

咲「大星さんは」

 

淡「淡って呼んで、愛称でもオッケーだよ」

 

 思い切って口を開くと呼び方の訂正を求められる。

 

 いきなり名前で呼ぶ。内気で人見知りな咲には抵抗がある。愛称など、もっての外だ。

 

 とはいえ、無理をするでもなく相手が望んでいるようだし、ネリーを『ヴィルサラーゼさん』、明華を『雀さん』と呼びはしなかったように、異国の人間を相手にすると思って無理矢理意識を切り替える。

 

咲「淡……さん」

 

淡「淡さん? あははっ、なんか敬われてるみたい」

 

 呼称が琴線に触れたのか笑いこける淡。

 

淡「まずは好感度だね!」

 

咲「え?」 

 

淡「仲を深めてから誘う、そしたらオッケーの流れ。将を射んとすればまず馬!」

 

咲「あの、私たち買い出しの途中なんですけど……」

 

 表現の疑問には触れないでおき、とりあえず咲は自分たちの事情を伝える。

 まばらに通りゆく客、品出しする店員、彼らの視線をちらちらと感じながら冷蔵ショーケースがある一番奥の通路の端っこに直線状に並んで話し込む。その中心を陣取った淡は、藪から棒に奇妙なことを言い出した。

 

淡「ほら今日も暑いし? さっぱりしたくない?」

 

咲「はい?」

 

淡「でしょー!? ちょうどここにプールのチケットが二枚あるんだけど」

 

 淡がスカートのポケットから手早く二枚のチケットを取り出す。だが、掲げられたそれを見る咲の反応は素っ気ない。

 

咲「……」

 

淡「うん?」

 

 プール。あまり乗り気でないのもあるが、唐突に誘われても返答に困るというのもあり、咲は閉口する。

 

 訪れる沈黙。白や明るい色を基調とした店内の雰囲気がそれをより際立たせる。

 

淡「……あううっ」

 

 どう断ろう。咲が迷っているとそんな様子をどうとらえたか、弱り果てたように淡はうめき声を漏らす。

 

淡「わ、わかった、そっちの髪白? 銀? ええっと外国の人も連れてっていいから」

 

淡「――はい三枚、これでいい?」

 

 スカートからさらに一枚取り出すと元からあった二枚の上に重ね、差し出すように見せて示す。明華の分もあるのは好印象だけれど。咲の顔には苦笑が浮かぶ。

 

咲「ええっと、さっきも言ったけど部の買い出しの途中なんです」

 

淡「それ終わってから! パパっと決めて、パパっとみんなで買い出し終わらせたら、いっぱい遊べるよ!」

 

淡「すごいよー、東京でもいっちばん大きいレジャープールなんだから。長野からきたサキなんて腰抜かしちゃうよっ」

 

咲「ムリですよ。部の練習がありますし」

 

 つい先刻練習室から飛び出した身でと思いながらも口実に断ろうとする。

 

淡「まあまあ、息抜きも大事。大体大会始まってから練習練習ってやってもアレでしょ? 一日くらい」

 

咲「……あの、気になってたんですけど」

 

淡「ん?」

 

咲「まだ試合中のはずじゃ……?」

 

 咲たちが旅館の練習室でBブロックの二回戦が始まるのを見てから、まだ半刻と経っていない。それがあってか明華などは対面したときから怪訝そうにしていたが、咲も妙だとは思っていた。

 

淡「あー、ああーっそれね」

 

 疑問を受けて淡があらぬ方向に目を逸らす。そして、そのまま大したことなさそうに答える。

 

淡「うん、私は大将だからね、出番まではモラトリアムがあるっていうか」

 

 淡の背後で誠子が眉頭を押さえている。咲はひえっと息を呑んだ。

 

咲「そ、それ……まずいじゃないですか!」

 

 二回戦で試合を終えた咲が辺りをぶらついた比ではないくらいまずい。戦慄に身震いする。単純に問題だし、万が一姉のいる白糸台が敗退扱いになったら咲の僅かな望みまで断たれかねない。割と洒落にならない焦燥が襲う。

 

淡「だからね? サキがついてきてくれたらすぐ戻れるなーって」

 

咲「そういう問題じゃ」

 

淡「ほら、買い出し終わらせて会場きて私の勇姿拝んで、それでプール! 完璧ハナマルっ」

 

咲「いえですから」

 

淡「うるせえ! いこうっ!!」

 

 押し問答の末、「ドン」と出た淡の頭に誠子のゲンコツが落とされる。

 

淡「あだっ」

 

誠子「いい加減にしなよ大星、もう戻るぞ」

 

淡「……えー、どうせ大将の私まで回ってくるのは何時間か先だって」

 

 誠子が淡を捕まえようとするが猫を思わせる素早さでヒラヒラとかわされ、咲の背後へと隠れるように回ってしまう。

 

誠子「くっ、店内だから派手な動きができない……」

 

淡「ツーン」

 

誠子「ツーンとしたいのはこっちだ! ……宮永さん、そいつ捕まえてくれないかな」

 

 息もつかせない一瞬の攻防を呆然と眺めているうちにあっという間に後ろに回られて、流石に困惑する。だが心底申し訳なさそうな誠子にいっそ悲愴な顔で頼まれればやむをえず、咲は首をねじって後方をうかがう。わずかな隙に回り込んだ淡は、どうしてか咲の髪に顔を埋めていた。

 

淡「んーっ、やっぱテルーにそっくり。髪型も髪の長さもホーンみたいなクセも」

 

咲「……あの、どいてください」

 

 無遠慮に接近されて微かに不快な感覚を覚えながら咲が伝えると、名残惜しそうに咲の頭から顔を離す。淡へと突き刺さる明華の視線は心なしか険しい。

 

淡「ごめんごめん、つい」

 

咲「いえ……それより試合に戻ったほうがいいと思いますよ」

 

 こんなところで油を売っている場合ではない。そんなことは部外者の咲に言われるまでもなくわかっているはず。とはいえ、約束を取りつけようと粘り続けて一向に帰ろうとしない淡を見ていると、何を考えているのかわからず雲霞のような疑問が募っていく。

 咲は、淡と積極的に拘わろうとする気はなかった。淡との関係を通じて姉との関係が進展する可能性を考えなかったわけじゃない。だが、そういった理由で淡と関係を結ぶことに打算の後ろめたさを感じる以前に、咲はその選択肢を拒絶していた。善悪の判断と感情を抜きに、それは咲にとって最も忌避すべきことだった。

 

淡「んー、試合は大事だけどこっちも気になるんだよね」

 

 どこまでも淡は奔放に振舞っている。そんな悠長にしている間に試合の出番が回ってくる事態にもなりかねないはずなのに。大丈夫だという確信でもあるかのように余裕を見せる。本当にコンビニに買い物でもしにきたような気楽さだ。

 

 ふと気になったのは誠子と淡の力関係。淡は最初正座して謝っていたのに、今では誠子に対して居丈高だ。この二人、どういった関係なのだろうか。

 おもむろに誠子へと視線を送る。すると切実そうな瞳で見つめ返された。「淡を捕まえてくれ」目がそう言っている。

 咲もそろそろ買い出しを再開したい。むしろ手伝わない理由がなかった。誠子に協力し淡を捕まえようとすると、

 

淡「わっ、わわっ、何?」

 

 嫌な予感を察したのかするりと咲の腕をかわして距離をとられてしまう。

 

淡「あ、あれっ、プールの準備を気にしてる? だったら大丈夫、これ持ってきたから心配ないよ!」

 

 だが一度の失敗に諦めず近づいていく咲に、淡は焦った様子で、しかし陽気にそう言って手のひらにすっぽりと収まるくらいの小ぶりなビンを取り出す。

 

咲「えっと、それは?」

 

 錠剤の入った透明なものだ。プールの準備なんて見当はずれなことを言われたものの、気になって問いかける。

 

淡「ふっふーん、飲む日焼け止めだよ。すごいでしょ」

 

咲「え、それが……」

 

 飲んで対策するタイプの日焼け止め。モデルやヨーロッパなどの間で大流行し、シワやシミなどにも美容効果が期待できる垂涎の品だ。咲も寡聞には聞いていたが高価なこともあり、実物を見るのは初めてだった。

 

淡「どうだ、まいったかー」

 

咲「……えーと」

 

 予期しないアイテムの出現に思わず足が止まる。それを見てとった淡がますますふんぞり返る。一方の咲は気勢を削がれてしまって、会話など取り合わずさっさと捕まえてしまおう、という目論見が崩れていた。

 送るまい、送るまいとしていてもチラチラと小ビンに視線を送ってしまう。

 

誠子「み、宮永さん惑わされるな! そもそも水着がないぞ!」

 

淡「水着は私の貸したげるもーん」

 

 一方で興味を示した咲に危惧を抱いてか必死に呼びかける誠子と、余裕の表情の淡。だが実際のところ既に咲の関心は他に移っていて、ある矛盾に震えていた。

 

咲「結構です……」

 

淡「え、何が?」

 

 咲の発言に淡が聞き返す。なるほど、藪から棒に言っても伝わらないかもしれない。深い谷底から這いあがる怨嗟のように陰鬱な声でニュアンスが伝わるという期待に見切りをつけ、咲は水着はいらないと伝える。「なんで?」淡が不思議そうな顔をした。咲は、屈辱に身を震わせる。

 

咲「入りませんから」

 

 咲が、淡の水着を着るには、身体のある一部分の厚みが足りない。おそらく、その水着を着ると余った布地を支える『力』が不足し、水着は重力に従って咲の胸を離れるだろう。――経験上、咲はそれをよく知っていた。

 

淡「なんで?」

 

咲「胸が、足りないからです!」

 

 なおもいたずらに長引かせられる残酷な話題に、咲は終止符を打った。

 

誠子「大星……お前、そんなことをするやつだとは思わなかったよ」

 

 咲の痛みを理解し境遇を同じくする誠子が非難する。人の道を外れた行いに失望をあらわにし、畜生道に落ちた罪人を見るかのようなまなざしで淡を見やる。明華も何か言いたそうにしているが、持てるものが心に届く言葉を口にする困難を悟ってかいたたまれなさそうに傍観し、遠巻きにずっと観察していた咏はこっそり爆笑していた。貧乳のくせに。

 

淡「あー……な、なるほどね」

 

淡「――あっ! もんで大きくしてあげよっか!」

 

咲「そんな幻想はいらないので帰ってください」

 

 めげずにコミュニケーションを図る淡に凍えるような声とまなざしが返される。にべもない。

 

咲「……帰らないなら好きにすればいいですけど私たちは買い物に戻りますね」

 

淡「あうっ」

 

 決別の言葉に淡が痛打を受けたように呻く。

 

淡「そ、それは困るっ」

 

 取りすがるように顔色を悪くして淡が慌てる一方、既に咲は買い物に戻ろうとしていた。お辞儀した後、明華に目線を送って踵を返し、買い物かごを持ち直してその場から離れようとする。明華も呼応してうなずき「じゃあ失礼します」と言って残る三人にお辞儀した。

 

淡「待たれいっ」

 

 背後から聞こえてきた謎の侍言葉にちょっとだけ反応しそうになったが、努めて無視を決め込む。

 そして、はあっと息をつく。

 心臓に悪い相手との別れ。咲はどこか安心していた。胸部の肉づきの話はちょうどいい口実になって振り切るきっかけになった。これ以上、彼女と話していたくない。彼女自身には何の他意もないが、咲の中でその気持ちは切実な欲求となりつつあったから。

 

誠子「はあ……ようやくいけるか。最後に臨海の人たちに謝ってくるから大星、そこで待ってなよ」

 

淡「……」

 

誠子「な、なんだその眼鏡。おいっ、どこいく気だ」

 

淡「サキのとこ」

 

誠子「もうこのへんにしとけって。誘うにしても今じゃなくていいだろ。試合終わってからでも」

 

淡「次はいつ会えるかわかんないもん」

 

誠子「いや宿泊先はわかってるんだから……」

 

淡「いってもメンゼン払いされたら意味ないじゃん!」

 

誠子「あっ、おい!」

 

 ……後ろから、もめるような話し声が聞こえてくる。バタバタと駆ける足音。

 

淡「サキっ、今度の私は一味違うよ!」

 

 まもなくして、明華と並び歩いている咲の前に後方から走って追い抜いてきた淡が躍り出る。

 

咲「あの……」

 

 短い別れから再会を果たした彼女は、先ほどまでなかったシャープなフォルムの赤縁眼鏡をかけ、自信にあふれた笑みを浮かべている。

 再三の接触にまた焼き直しかと困惑気味に口を開く咲。――しかし、すぐに思い知らされる。辟易した感を装って頑なに突き放そうとしても。本心では、単に彼女に怯えているだけで。

 眼鏡のブリッジを二本の指で押し上げてクイクイさせながら装っているようにも思える神妙な顔で切り出す淡の姿に、心が悲鳴をあげそうになっているのも、気づかないふりをしているだけなのだと。

 

淡「ねえサキ、私の話に興味ない?」

 

 どくんと嫌な高鳴りがした。そして、瞬時に悟る。目を背けようとするちっぽけな抵抗が虚しくなるほど自分は彼女の言葉を意識してしまっていて、その証拠に、極度の緊張をしらしめる断続的な鼓動が、思惑も何も無視して反響するように頭の中で鳴っている。不吉な存在感を示しながら。

 

咲「……はい?」

 

 とぼける返事をして、すぐさま平静を装う。だが、絶え間ない緊張が平常心を蝕む。砂の城に触れたように心の防波堤は脆くも崩れかけ機能を放棄しようとする。

 

淡「ああ、まだ私にはあんま興味ないよね。でも私って結構テルーと仲いいんだあ。――ねっ、私のするテルの話なら興味あるでしょ?」

 

咲「何を言ってるのか……」

 

 さっきまでのどこか軽かった雰囲気が遠い。あのやりとりは前座か様子見で機を窺っていたにすぎなかったのか。

 

淡「とぼけてもムダ。知らない仲じゃないどころか相当大きな存在だよね。たぶん、お互いに」

 

 また、胸の奥で唐突な鼓動がかき鳴らされる。嫌な音。見透かされているような、不安を煽られる感覚。どこまで知られていて、何をしようとしているのか。わからない。おそろしい。――そして、妬ましい。

 

咲「……もしそうだとして、何だっていうんですか……?」

 

淡「だからね? テルのこと教えてあげる。逆に、サキのこと、テルに教えてもいいし」

 

咲「…………」

 

 思考が錯綜する。ちかちかと視界が瞬く。興味なんてない――そうばっさりと切り捨ててしまいたい気持ちと裏腹に、混乱のるつぼに咲は囚われていた。

 気にならないはずがない。姉の近くにいて、姉と接して、姉の言葉を聞いて。代われるものなら代わりたい。そんな立場にいる彼女がうらやましくて、妬ましくて。

 踏み込む勇気もないのにおこがましい、同時にそんな気持ちを抱く自分を認めたくない自分がいて、怒りが込みあげそうになる。自分はもう充分恵まれているのに。不満なんて持ってないのに。

 何かを変えたいということは、何かが変わってしまうかもしれないということ。咲はその事実を深く意識に刻みつけて、今日まで自分をいましめてきた。

 

淡「――ねっ、どう?」

 

 だから――甘い言葉で惑わさないでほしい。大切なものを犠牲にするかもしれない夢を見させないで。

 

咲「なんなんですか……なんなんですか、あなた……」

 

 わなわなと唇が震える。感情がとめどなくあふれて、蛇口が壊れてしまったかのようだった。心配げに自分の様子を見守る明華の表情が、期待にも似た何か別の色を湛えているように錯覚するほど、冷静さという冷静さが抜け落ちていく。

 

淡「……ふふ、もう帰れって言わないんだね?」

 

 狙いすました顔で見透かすようなことを言う淡の口ぶりに、歯噛みしてきっと睨みつける。白昼の快適な店内で制服の下に隠れた肌がじっと汗ばんだ。

 

 

 

 

 

 その後、張り詰めた空気の中で一旦買い出す品の会計を済ませて咲たちはコンビニを後にした。白糸台の淡や誠子、そしてどうしてか咏も伴って。というのもコンビニを出ようとしたのは、

 

咏「いやー、そろそろ場所移したほうがいいんじゃない?」

 

 という咏の助言があったからだ。周りの好奇やあるいは端的に言って煙たがる視線が気になってきていた咲はその助言を採り入れ、明華の預かったメモにある品が買い物かごに揃っているのを確認してひとまずレジに持っていった。すると。

 

咏「話し込むならすぐ近くにちょうどいいカフェあるからさ、そっちいこうよ。お金は私が払うし」

 

 続けざまに咏の提案。と、ここらあたりになってなぜ咏が加わる流れになっているのか、最初顔を合わせたときによくわからないまま挨拶して以来、これといって言葉を交わしていなかった咲が疑問を呈すると、

 

咏「よくわかんないけど一応大人もいたほうがいいっしょ。大会のスタッフとして白糸台の子たちが戻るのを見届けないとだし、はやりさんの手前、咲ちゃんのほうも放っとけないしね」

 

咏「あっ、もちろんキャンプとか一緒するって誼もあるよ。私としても咲ちゃんのこと全く気にならないわけじゃないからねー、しらんけど」

 

 説得力があるようなどこか腑に落ちないようなことを言って、やや強引に咏が咲たちを先導していく。

 そしてコンビニでのやりとりから十数分した後、採光のよい広々としたカフェの奥の方に咲たちの姿はあった。

 

淡「ふうー、生き返るー」

 

 全面ガラス張りの窓に面した席で、咲は居心地悪そうに座りながら対面の淡を見つめる。彼女は届いた飲み物を赤いストローを介しおいしそうに喉を鳴らして飲み、たった今試験から解放されたような顔でのん気に感想を漏らす。

 

咲「…………」

 

 飲んでいるのは、大きめのグラスに入ったフローズンオレンジ。良質な宝石のように鮮やかな色をしている。

 開放的で清潔な雰囲気の店内――窓の外に広がる、繁華街に沿った賑やかな表通りの風景。咲の隣には窓際から順に頬杖を突く咏と折り目正しく座った明華が、淡の隣にはやや疲労した感のある誠子が保護者のようにぴったりとくっついている。

 横長の長方形のテーブルと椅子で、最もホール側に近い位置に咲はさりげなく座っていた。

 

淡「あ、それでさ~テルってば最近全然相手してくれなくて」

 

咲「……」

 

淡「もうなんでもかんでも生返事。おしゃべりしよーっていったら『ああ』、麻雀打とうっていっても『ああ』、お菓子食べる? っていったら『うん』ってそればっかり」

 

 癇癪を起こしたように「うがーっ」とバンバン机を叩くような仕草をする。そんな淡に、咲は反応に困って愛想笑いを浮かべながら静かに聞く。

 

淡「ひどいときとか、もう無視だよ無視。人を無視しちゃいけませんーって小学校でも習うじゃんねー?」

 

咲「そう……ですね。無視はいけないと思います」

 

淡「だよねー! いやーわかってくれてうれしいよー」

 

 同意を求められて、少し言い淀みつつも一般的な意見を言う。現実には場合によりけりだと思うが注釈を加えるほどの意義を見いだせなかったから。一方で、淡にはやたらと喜ばれたようだった。

 

淡「今の言葉、テルーに言っとくね! サキが言ってたって話したらきっと効果あると思うんだー」

 

咲「ええと……、どうぞ?」

 

 波濤の勢いで進められていく話に押され気味に返す。話が変に伝わってややこしいことにならないか。そういった心配が瞬間的に脳裏をよぎるが、今の咲にはここに来るまでの間に肝を潰した分の落差に対する戸惑いが勝り何もできない。――そう、咲は困惑していた。

 もっと緊張感のある話だと思っていたのだ。そしていま咲の心境は、何というか拍子抜けに脱力してしまっている。

 

 同時に、咲の中で淡を遠ざけようとする気持ちが少しずつ薄らいでいく。逼迫した警戒心がほんの少し緩み、覆いかぶさるようなクオリアから解放されて、いつも通りの、高校に上がってからのいつも通りに近い形へと意識が替わっていく。

 そんな中で、それとなく淡を見つめる。楽しいと感じているのだろうか。まるで気が合う級友とでも話を弾ませるかのように、にこにこと笑みを浮かべて人懐こく喋る彼女への疑問は尽きず、思い迷うばかりだ。

 

 何か、意図するところがあったのではないのか。今となっては無用になったとしか思えない警戒心を働かせて考えてみるも、今しているのはたわいもない雑談。咲には意味を見いだせない。強いていえば『最近姉や菫という先輩に構ってもらえなくてご立腹です』という不満をこぼしているくらいで、そんなことをいわれても困るというのが率直な心情だ。

 姉の話とは名ばかりの世間話。不満を吐き出させてあげる程度の軽い相談事。緊張して思い詰めていた自分がばからしい。とんだ道化だ、と弱音をこぼしたくなる。張り詰める必要なんてなかったのではないだろうか。

 

明華「……咲さん?」

 

 表情のこわばった印象が弱まり、柔和にも近い面差しに変わるのを見てとった明華の慎重に窺うような呼びかけ。「ちょっとだけすみません」、咲は淡に断りを入れて振り向き、いつも通りを意識した柔らかな声で尋ねた。

 

咲「さっきの話……本当に大丈夫でしょうか」

 

明華「……寄り道で遅れるという電話のことですか?」

 

 咲たちはこの喫茶店に来る前、買い物に必要ない余分な時間をかけてしまうので前もって連絡しようとした。そして結局は明華の携帯端末で連絡してもらった。というのも、その段になって咲は携帯端末が手元にないことに気づいたからだ。

 咲はやってしまったと思った。咲の携帯端末は高校に上がってから母の勧めで持つようになったため、持ち歩く習慣がしっかりと身についていないのだ。

 とまれ明華に頼んで連絡してもらい、遅れてしまう旨を申し訳なさと共に伝えたのだが。その際旅館の練習室に忘れていった携帯端末があると知らされて納得すると同時に、「佐々野いちご」と名乗る人から電話があったということを教えられたのである。

 急用かもしれないので携帯端末を取りに一旦帰り、確認してから淡との話に臨もうと咲は思ったのだけれど、

 

智葉「その電話は私がとったんだがな、『取り立てて用事ではないので大丈夫。折り返しの電話もいらない』そうだ」

 

咲「そう……なんですか?」

 

智葉「ああ、だからこちらも特に気にせずゆっくりしてきていい――」

 

ダヴァン「サキイィイイィッ! ごめんなサイ! ソーリー! 許シテ!」

 

咲「メ、メグさんですか?」

 

 そのときの電話でこんなことがあった。途中、電話口の向こうからでも聞こえる渾身の謝罪が入り込んで、どうやらダヴァンが何かしてしまったようなのだ。

 

智葉「……ああ。実は初回の電話はメグがとってな。意味のわからないことを言って電話を切りやがったんだ」

 

ダヴァン「ごめんなサイッ、ごめんなサイッ! ついうっかり慌てて切ってしまッテ……!」

 

智葉「……そういうことなんだ。すまないな咲、許してやってくれないか」

 

咲「え、ええ……メグさん、気にしないでください」

 

 いったいどういう切り方をしたのかいちごの心証が心配ではあったが、それでダヴァンを責めても始まらない。覆水は盆には返らないのだから、後はいちごと自分の問題である。それに、そもそも電話をとってくれたのも厚意だったに違いない。咲の中にチームメイトを疑う気持ちは誇張でなく微塵もなかった。

 それからまさに涙ながらといった様子で電話口から感謝と改めて謝罪する言葉が聞こえてきたが、咲は鷹揚に受け止めた。ダヴァンの感情表現が日本人と比べるとオーバーであることは四ヵ月あまりの付き合いで知っていたし、謝意はきちんと伝わっているから。

 

明華「大丈夫ですよ。智葉はムリな気遣いなんてしないと思います」

 

 そして現在の会話、咲の懸念を明華はやんわりと否定してくれる。

 

咲「……」

 

明華「佐々野さんという人のことも気になりますか?」

 

 惑う心のうちをすっぱりと言い当てられる。どきりとした。状況から察すれば想像はできるのかもしれないが、それにつけても明華の感の鋭さは人と比べて際立つ。そもそも、付き合わせてしまう彼女にだっていちごと同じかそれ以上に気になるし、散々迷惑のかけ通しで頭が上がらないのだ。なのに、咲の思い過ごしや思い上がりでなければ、いま彼女はあえてそれに触れないでいてくれている気がするのだ。

 彼女とは、ある事情で他のチームメイトにましても多くの言葉を交わしてきた。だからだろうか。時々、深いところまで見通されているような、不可思議な感覚に陥る。それが決して不快ではない、心地よい気分をもたらすことに咲は恐怖を覚える。だがそんな感覚を今は振り切って、言葉を紡ぐ。

 

咲「佐々野さんにはあとで電話しようと思います。今は……こっちで大ほ」

 

淡「淡っ!」

 

咲「……淡さんと、お話しようと思います」

 

 どうするかを決めて、淡へと向き直る。

 

咲「でもお願いがあります。私との話が終わったら、すぐに会場の方に戻ってくれませんか」

 

 淡の瞳を見つめて、真摯な態度で頼む。くりっとした淡のそれが、予期しないものに遭遇したようにパチパチと瞬いた。

 

淡「……いーよ。でも、私が満足しなきゃ終わらせないからね?」

 

 不敵な笑みで獲物を狙うかのように宣言する。なんというか、思わせぶりな態度をとる人だ。でもそれだけに、どんな思惑をしているのか気になりもする。それは混じり気のない気持ちだった。

 

 少しだけ。少しだけ、知りたいと思うようになっていた。妬みではなく、恐怖にかられた詮索でもなく。

 

 ネリーに抱いたような、明華に抱いたような――今のチームメイトみんなに抱くものと同じ。それはおそらく、純粋な興味。

 

『咲、大事なのはひた向きに相手をよくわかろうとする気持ちだよっ!』

 

 昔教えられた言葉と共に、大切な人の姿が脳裏に蘇る。たくさんの言葉、そしてたくさんの想いをくれた人。

 

 ――もう二度と、戻ってはこない人。

 

咲「わかりました。満足するまで付き合います」

 

 穏やかな顔の裏に苦い思いを噛みしめながらも、咲は微笑んで淡の言葉に答えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大きな湖が見える公園のプロムナード――青々とした芝生のうえに陣取って、車椅子に乗った彼女と、幼い自分とが向かい合って。思い出通りに会話が始まる。

 

『話にはね、イントロとサビがあるのだ』

 

咲『おうたの?』

 

『そっ。わたしは何かを説明するときになるべく「たとえ話」を使うようにしてるんだ。帰納法的っていうか、実例を使って質問に答えるなら例話法とか立体論法ってやつ』

 

『そこで今回は、会話を「カラオケ」にたとえて考えてみよー!』

 

咲『おー』

 

『だからね、今日はイントロとサビ』

 

咲『サビ好きだなあ』

 

『あはっ、あとでカラオケいく? ……ん? もしかして今のサビってワサビ?』

 

『それはそうと前にも話した通り、多くの人は会話するときに「伝えること」ばかり考えていて、「聞くこと」を意識してないの』

 

『これはカラオケにたとえると、「自分が歌うことばかり考えていて、他の人の歌を聞こうとしてない」って感じかな』

 

『他の人が歌ってるとき、聞くことよりも自分が歌う曲を探すのに一生懸命になってることってない? カラオケボックスの中を冷静に観察してみると、みんな歌うことばかり考えているのがよく見えて、なかなか面白いものだね。会話するときも、これと同じ状態になっているわけだよー』

 

『実は、会話ではもっとひどいことが行われてるの。他の人が歌おうとしている曲のイントロを聞いて、「あっ、この曲いいよね。わたしが歌いたい!」ってマイクをうばって歌っちゃったら、うばわれた相手はどう思うかな? 間違いなく腹を立てちゃうだろうね』

 

『でも実際の会話では、こうしたことがよく起きてる。かくいうわたし自身が、マイクうばいそうになったからね!』

 

咲『マイクとっちゃったらだめだよぉ……』

 

『と、とってないとってない! だからセーフ、ギリギリセーフ』

 

『……ま、まあ、とりあえずその経験をお話するよっ!』

 

『わたしって結構SNSとか使うんだよね。疎遠だった人もいるんだけど、SNSとかを使って友だちと連絡を取り合うことがあるの』

 

『そうしてある友だちと再会したときにね、その人が「やあ、久しぶりだね。オレさあ、この間、高尾山に登ってきたんだよ」って話しはじめたの』

 

『突然だけど、咲は高尾山が「世界一の山」なのを知ってる?』

 

咲『世界一?』

 

『うん、高尾山は毎年二六〇万人以上が訪れる「年間登山者数が世界一の山」なんだって。まー、このことつい最近まで知らなかったんだけどね』

 

『年間登山者数が世界一ということは、ビジネスでいうと「世界一集客している」って表現できる。「東京都下にある五九九メートルしかない小さな山が、世界一集客している」っていうのはすごくキョーミ深くない?』

 

『実はわたし中小の企業と関わりがあるんだけど、なんとなく高尾山が中小企業を応援してくれてるみたいに感じられて、すっかりうれしくなっちゃってねー』

 

『この話を聞いてから「いいことを知ったぞ。どこかでこの知識を披露したいなあ」ってウズウズしてた』

 

『だから、友だちが「高尾山に登った」って話を聞いて、すぐに「しってる? 高尾山って世界一の山なんだよ」ってうんちくを語りたくなっちゃった』

 

『でも、そのときちょっとだけ我慢したんだ。なんでかっていうと、その友だちが高尾山に登ったっていうのがちょっと意外だったから』

 

『その人は、「元祖オタク」って感じのタイプで、学生時代は文化部所属。わたしがしる限り完全なインドア派だったんだよ。そんなその人が山に登ったことに違和感を覚えて、「へー? 山登りなんかするんだ。意外だね」ってちょっと話を聞いてみることにしたの』

 

『そうするとね、びっくりするような事実がその人の口から出てきた!』

 

『「いやー、実はオレさあ、『山ガール』とつき合い始めたんだよ」っていうんだよ』

 

『ちなみに、その友だちは独身でこれまで結婚歴もない。それどころか、今までに浮いた話を聞いたことがない。そんなその人が、こともあろうに若い山ガールとつき合いはじめたっていうんだよ。それでそのあと、その人はうれしそうに彼女のことを話しはじめた』

 

咲『へええ』

 

『ここまで聞いたらわかるようにその人がホントに話したかったのは「高尾山に登ったこと」じゃない。「山ガール」と付き合いはじめたこと」だったのだ!』

 

咲『え、ええーっ!?』

 

『あはー。どうだびっくりしたかー』

 

咲『じゃ、じゃあ高尾山はどうでもよかったってこと?』

 

『まー、どうでもよかったってわけでもないだろうけど』

 

『いうなれば、「オレにも春がきた!」って曲を歌いたかったわけだねーフフ。高尾山に登ったことは、その人が歌おうとした「イントロ」だったわけだよキミ』

 

『もしわたしが、高尾山に登ったってイントロを聞いて、「フフ、しってるかい? 高尾山って世界一の山なんだよ」ってうんちくを語りはじめちゃったら、どうなってただろうね』

 

『おそらく、その人の「オレにも春がきた!」って話は聞けなかったかな。これが、「イントロを聞いて、マイクをうばって歌っちゃう」ってこと』

 

咲『サビになる前にマイクをとっちゃったらだめなんだね……』

 

『まー、咲はとる心配なさそうだよねー』

 

『……あれっ、なら今の講義意味ないんじゃ』

 

咲『ありがとう――ちゃん! すっごくわかりやすかったよ!』

 

咲『――ちゃんのロンシ? は明快だね。お話が上手ですごいなあ』

 

『さ、咲ちゃん……』

 

『う、ううぅっ、最高だよぉ……咲ちゃんみたいな子をもてておかーさんしあわせだよぉ……』

 

咲『――ちゃんみたいなおかーさんもったことないよ?』

 

『あうっ』

 

『いいんだいいんだ、どーせわたしなんて……』

 

咲『……』

 

咲『その、えっとね。――ちゃんはおねえちゃんだよ』

 

『えっ』

 

咲『……いつもいろんなこと教えてくれて、ありがとね。おねえちゃんがとれーにんぐしてくれるおかげでわたし、自信がでてきたの』

 

咲『まだちょっとだけだけど……照おねえちゃんと、おかーさん……ふたりが仲よくなるようにできる気がしてきたんだ』

 

咲『だから――ありがとう。わたしをたすけてくれて、わたしと仲よくしてくれて、ありがとう』

 

咲『わたし、――ちゃんのこと大好きだよっ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから。淡と咲は多くのことを話した。咲が注文で頼んだラテアートの話から、インターハイの事、二人が住んでいる東京の事、学校の事、最近街中に広まっている噂の事まで話題は多岐に渡り、短い時間だが多くのやりとりが交わされる。最初はどことなくぎこちなかった会話も、いつしか小気味よく弾んで、身内を語り合うまでになっていた。

 

淡「それでさー、たかみ先輩っていつもお茶ばっかり飲んでるの」

 

咲「お茶、好きなんですね」

 

淡「好きとかってレベルじゃないよ。たかみ先輩のほう見るたびにお茶飲んでるし!」

 

咲「じゃあお茶とりあげられたら困っちゃいますね」

 

 「それはもう間違いないね」と犯人を言い当てる名探偵ばりに得意げな顔で淡が言う。咲はくすくすと笑った。

 

咲「弓に釣り竿にお茶……白糸台は個性的な人が多いんですね。楽しそう」

 

淡「テルーは竜巻だからねー、いやコークスクリュー?」

 

淡「常識的なのは私くらいしかいないなんてまったくどうかしてるよ」

 

 「ふーやれやれ」とでも言いたそうに呆れ顔で肩を竦める淡。するとそこに、

 

誠子「一番非常識なのはオメーだろ……」

 

 携帯端末に目を落としたまま、低く唸るような声で誠子がつぶやく。なぜそうしているかというと、わずかに漏れ聞こえてくる音から察するに試合の趨勢を確認しているのだろう。その育児に疲れた母親のような様子から苦労、とりわけ心労がしのばれた。

 

 だが強硬手段に出ることなく結果的に見過ごす形をとってくれている。少なくとも今は。咲は最初、淡と話し込む前に誠子に深謝した。協力するような態度をとっておいて淡のわがままに思える行動に加担することを。

 

 そして約束した。三〇分以内に淡を満足させて帰らせることを。

 

 三〇分であれば、タクシーに乗って会場を目指せばまず副将戦が始まるまでに到着するはずだ。中堅までが異常なハイペースで終わってしまえばその限りではないが、試合の情勢を確認している誠子の様子からして今現在その心配はないのだろう。

 

 無論、常識で考えれば有無を言わさず控室まで連れ帰るのが妥当だ。個人戦ならともかく学校単位、チーム単位で進退が懸かる団体戦で自ら不戦敗のリスクを侵すなど普通は考えられない。

 

 ただ、淡もまったく周りの迷惑を考慮に入れていないわけでない。と咲は思うのだ。確かな根拠に裏打ちされたようなものではないが、接して言葉を交わすうちに、淡の心根が邪だとも思えなくなってくる。咲としては初対面でのこと、そして今の状況もやはりこれはこれで完全には手放しに擁護できないというのもあって、苦手意識も相当にあるのだが。

 

淡「ふーんだ。サキと話すること認めてくれたのは感謝してるけど、あんまり調子乗らないでよね」

 

誠子「そっくりそのまま返してやるよ……お前、この後で覚えとけよ。お前のやったこと、包み隠さず弘世先輩に話すからな」

 

淡「うっ……い、いいもん。テルに守ってもらえば……」

 

誠子「ああそうそう、宮永先輩にも伝えなきゃな? 宮永さんに初対面でずいぶんなことやらかしてたみたいじゃないか」

 

淡「げえっ、なんでしってるの!」

 

誠子「あっちの雀さんから聞いた」

 

淡「ずっこい! それなし、それなし!」

 

 ……三〇分でとても終わりそうになかったら強制的に退出させられるという話を、淡は覚えているのだろうか。

 

 ボサノバが店内にBGMとして流れる中で言い合う二人から咲はさりげなく視線を外し、店内に巡らせる。にぎわっていて盛況の店内。白を基調とする爽やかな内観がそうさせるのか、それなりに混み合っている割に人いきれのような暑苦しさを感じさせることもなくすっきりとしている。内装も、木のぬくもりが感じられて好印象だ。買い出しで購入したものは荷物入れバスケットに入れられているので席も窮屈にならない。

 

 備えつけのおしゃれな容器に入れられた角砂糖を自分のラテアートに投入しつつ、窓の方へと視線を滑らせる。すぐ隣の明華、ではなくその先にいる咏を盗み見ようとしてのことだったが、

 

咏「うん? 私になんか用かい?」

 

 あっさりと目が合ってしまい、慌てて視線をひっこめる。

 

咲「い、いえっ、三尋木さんも時間大丈夫なのかなって」

 

咏「あー大丈夫大丈夫、こんなこともあろうかとあらかじめフリーだからさ」

 

咲「……そ、そうですか」

 

 爽やかなスマイルで咏は片袖を振りつつモカを啜る。ある意味、淡よりもわからないのが咏だった。明華など慎ましやかに胡乱な目で見ているし、咲だってたぶん同じ心境だ。

 

咏「ここ、いい店っしょ。気軽に入れてオシャレな割に味も悪くない。結構掘り出しなんだー」

 

 確かに、良い店だと思う。カフェブームで繁華街に乱立してさながら戦国の様相を呈すこの手のカフェだが、長野出身の咲には刺激の強い都市文化だ。もちろん長野にだって比較的都会といえる街はあるものの、東京や大阪と比べれば霞んでしまう。そもそも、インドア派の咲にとってはことさら刺激が強かった。

 

咏「いやー若い子と遊ぶのはいいねぇ、こっちも若返る気分だよ」

 

 そしてそれはともかく、咏の語り口は軽い。急流に磨かれた岩肌のようにつるっとしたカップから口を離し、何となしに咲たちの姿を眺めてはふむふむと納得したり吟味するように浅い頷きを繰り返す。観察に徹するわけではなく、こうして会話を求められれば闊達に舌を回らせる。

 飄々として手品師めいた雰囲気があるのだ。デパートでの買い物でもみられた軽口は健在で、それらが咲の中で色濃い印象を残すなりかたち。一言で表すなら軽妙。ただ気安いというのではなくたわいないが、気がきいていて滑稽みのある言葉を口にする人。

 

咲「あはは、そんなこというようには見えませんよ」

 

咏「ん? どういうこと?」

 

咲「すごく見た目が若々しいってことです。若返るまでもなく綺麗ですし」

 

 同時に、風貌に関しても彼女は謎めいた印象を持っていた。彼女は今年二四歳になるかと思うが、それに反して彼女の容姿には一〇代の少女が持つような瑞々しさが残っている。それでいて重ねてきた齢をうかがわせる雰囲気もどことなく漂わせ、異国情緒にも似たまれな魅力を作り出しているのだ。

 

咲「……」

 

咏「ははっ、うれしいねぇ――って、お、見とれてる?」

 

咲「あっ、……い、いえその、知っている人にも若作りの人がいるのでどうなってるのかなぁって」

 

 咲が思い浮かべたのは衣のことだった。彼女の場合、若作りがすぎて幼い女の子にしか見えないけれど年齢に比べて若い容姿をしているという意味では同じだ。

 そうでない人との違いを生み出している要因が気になる。食べているものや習慣が違ったりするのだろうか。

 

咏「なーんだ、残念」

 

 彼女はそっぽを向いて座り直し落胆したようにすると、大げさに嘆息してカップに口をつける。まるで意中の彼氏がよそ見をしてふて腐れる姿を演じるかのように。つまり、本気で機嫌を損ねたわけではないのだろう。

 

淡「サーキー、聞いてよセーコがー」

 

 一方、不毛な言い争いを繰り広げていた二人から淡が抜け出し、声をかけてくる。

 

誠子「だから呼び捨てはやめろっていってるだろ……」

 

 そういえば呼び方が変わっている。『亦野先輩』と『セーコ』では親しみも気安さもずいぶんと違うが、どういう意味での変化なのか。誠子が呼び捨てに釘を刺しているあたり、誠子の本意ではないようだが。同時に、呼び捨てにされて怒っているようにも見えない。

 

咲「どうしたんですか?」

 

淡「えっとね、セーコが」

 

誠子「だからやめろって。また一年の中で浮くぞ」

 

 ……どうやら、誠子の気遣いのようだ。

 

淡「むうー話の腰折らないでよ。それに、あんなやつらどうだっていいし」

 

誠子「またお前は……」

 

 誠子が渋面を作る。それは不快や苛立ちというより、心配の情感がこめられているように咲は感じた。

 

淡「だって麻雀で勝てないから文句いうんでしょ。あいつらは気に入らないとこを探して、ただ叩きたいだけ」

 

 相手する時間がもったいないよ、とたかってくる蠅を見たように嫌そうな顔をする淡。声にも佇まいのひとつひとつにも、ありありと嫌悪があらわれている。よほど嫌っていることが見てとれた。

 

誠子「そうはいっても三年間、付き合っていく仲間じゃないか。少しずつでも馴染んでいくしかないと思うぞ」

 

 ――裏を返せば、三年間で終わる付き合いということでもある。ふと咲は思った。そしてやんわりとした戒めの言葉をかけられた淡は、聞く耳を持っていないようだった。

 

淡「我慢して付き合うくらいなら無視でいいじゃん。どうせ三年。でも私にとっては貴重な三年なんだから、好きにやらせてよ。もうお説教はうんざり」

 

誠子「……」

 

淡「もー、セーコのせいでムダに空気重くなっちゃったしー。ねー」

 

 同意を求めるように咲の方を向く淡。

 

咲「……そうですね。三年なんてすぐですから、見ないでいたらいつのまにか過ぎてるかもしれません」

 

 視界の端で誠子の意外そうな顔が目に入る。咲は思うところを率直に言った。特に関わりのない人の隠れた趣味を見聞きした程度に目を丸くした誠子が困惑がちに聞き入っている。

 

淡「だよねー! やっぱサキとは気が合うなあ、もうサキの学校に転校しちゃおっかな」

 

 他方、図らずも同調されることが続いた淡の機嫌はたちどころに回復し、いかにもその場で思いついたようなことを口にしてすっかりご機嫌だ。

 ――だからそのとき、咲は転校だなんだという話を真に受けなかった。

 それは先輩への可愛らしい反発心の発露か、もっとわかりやすく会話にメリハリをつける何かで、その場限りの冗談だと思っていたから。

 咲はこれを血液のようなものだと考えている。心臓に供給される血液が常時入れ替えられ、それによって体の健康を維持するように、この手の冗談はやりとりに緩急を生み、円滑にする。あいまいな感情を表せる。そしてコミュニケーションという体の健康を保つことで日々の暮らしは彩られるのだ。自分のものも、他の人のものも。

 

 こういう冗談に振り回された経験が咲には何度かあった。ただ、それで機嫌を損ねたことは一度もない。なぜだろう。先に述べたような必要の正当性から仕方ないと考えているわけではない。中学時代、麻雀をするときの雰囲気をシューベルトの楽曲になぞらえて魔王だと周りで連呼されていたときも、罰ゲームで自分に告白するという同級生の悪戯を受けたときも――幼い頃、姉のサプライズまがいの茶目っ気に付き合わされたときも――内心にでも怒るということをした覚えがない。

 そういった咲の性質を前にすると、麻雀の際の印象で咲という人物像をイメージしていた人などは意外と『いい子』だという。しかし咲にはそれが、ちっともいいことだとは思えないのである。

 

 店内にゆったりとした雰囲気をつくっているボサノバの情緒的ながらも軽快なリズムの音楽とはちぐはぐな陰鬱さを秘めたその思案はひっそりと行われた。

 

淡「ね、サキはどう?」

 

咲「え?」

 

 淡から問いが投げられる。考え事にうつつを抜かしながらもただ単純にどういうことかと疑問を持った風に咲が答えられたのは偶然だった。礼を失した自らの態度を叱りつけて気を引き締めなおし、耳を傾ける。

 

淡「私としてはインターハイおわったら転校してもいいって感じなんだよね。テルいなくなるし、そうなったら別に白糸台じゃなくていいし」

 

 インターハイが終わったら、というのは国民麻雀大会や世界ジュニアなどその後を意識してのことだろうか。

 

咲「もしかして、お……照さんと戦いたいんですか?」

 

淡「おおっ、よくわかったね。やっぱそれなんだよ。同じ学校なのもいいけど本気で戦えないっていうのがあるんだよねー」

 

 わかってくれたか、とうれしそうにして続けざまに言う。

 

淡「やっぱりこう、大会とかじゃないと本気って出せないものじゃない?」

 

 確かに、そういうところはある。いくら全力を意識して、たとえば何かを賭けたとしても、練習では賭けられるものなどたかが知れているし、賭けるものが大きすぎればそもそも法律にひっかかりかねない。

 他方、大会に懸けられるものは人によれど人によっては非常に大きなものになる。「練習にはスリルがない」と淡は言った。咲自身はおそらくその楽しもうとする感覚を共有できないが、一定の理解はできた。

 

淡「ただそれだとやっぱリンカイ? じゃサキと戦えなくなるし。個人戦は問題ないけど」

 

 だが、なぜ姉ではなく自分なのだろう。

 

咲「……」

 

 もやもやとした感覚にさいなまれていると、

 

淡「サキは、私がきたらどう思う?」

 

咲「え?」

 

 尋ねられて心臓が跳ねた。今度はちゃんと聞いていたのだが同じ「え?」を繰り返したからか、淡はぷくっと頬をふくらませ「もう」、と注意して上目遣いにこちらを見上げた。

 

咲「ご、ごめんなさい」

 

淡「むー……いいけど、そんなんじゃ私を満足なんておぼつかないんだからね」

 

 少し不満そうにする淡からは「私、怒ってます」という訴えがダイレクトに伝わってくる。三〇分で満足させる。そう明言したからにはきっちりやってほしい。そんな心情が透けて見えた。

 

 こんなやりとりをするつもりはなかった。

 

 というのも、今まではもし機会があれば多少無理を押してでも話を合わせて帰らせ、後日に会ったら自然に謝ろう。そんな打算めいた思案をめぐらせていた。けれど。

 

淡「で、どうなの? 私がサキの学校いくのってどう思う?」

 

 咲はその質問の答えに窮した。意味が推し量れなかったのではない。自分がいくことになったら咲は、どう思うのか。そういう話。軽々とそんな話をするのはひとえに二人の学校が共に都内にあるからだろう。なぜそんなたとえ話をするのかという特に今大事とも思えない理由を考えながら――必死に嫌な可能性を頭から追い出し考えないようにして――絞り出すように答える。

 

咲「え……っと、どっちでも」

 

淡「えー」

 

 明らかに落胆した声。信じられないという顔をされる。それは、どっちでもいいという玉虫色の答えが期待にそぐわないことを表向きは軽い声色が示していた。

 

 「どっちでも、じゃなくてどっちか」とリスのように愛らしく頬を膨らませてせがむ淡の言葉が遠い。答えられなかった。本当に、咲としては否も応もない。淡に興味を持っているのは事実だ。けれど近しい存在になりたいかは……別だった。

 

 勝手に興味を持って、好感を持つのなら問題はない。そう思っていた。けれど、見誤っていたのかもしれない。面識の浅い自分にこだわる姿勢はあくまで姉に付随するもので、姉ありきのものだと思っていて。だから、その、仲がよさそうで慕っているように見える姉と並べられて話をされたら。どこまで本気で言っているか見分けがつかない。全部冗談だろうか。あくまで姉の話のついでだと考えておいていいのだろうか。わからない。

 

 知りたいのに、近づきたくない。その心情は矛盾していたが確かに混在している。

 

 そしてこの状況は、そう簡単に相手が自分に興味を抱くはずがないという思いからくる浅はかな想像が生み出したものだった。

 

淡「んん、これは困った……」

 

 ついに答えを引き出せないと悟ったのか、不満を主張するようにずっとふくらませ続けていたリスのような頬をやめ、淡は長考するように表情を固くすると、手元のグラスに浮く赤いストローを口に含み「むーっ」、これみよがしに音を立てて啜る。そうしていくらか飲み下してから口を離し、「私の麻雀しらないのかなあ」、ひとりごちるようにぼそりと呟く。しかしその頃には葛藤の念が強まっていた咲の耳にそのわずかな音を拾う注意深さは失われていた。

 

誠子「残念だったな、振られて」

 

淡「ふっ振られてないし! これから――わひゃっ!?」

 

明華「あぶない」

 

 そのときだった。興奮して手元を疎かにした淡が立ち上がろうとしてグラスをこぼし、倒れかけたそれを明華が即座に掴みとる。

 

淡「わ、わっ、……あれ?」

 

 甲高い破砕音やテーブルの上の洪水を想像したであろう身を守る姿勢で固まっていた淡の身体が動きだし、一足遅れて不思議そうな声をあげる。瞬きする鮮やかな忘れな草色の瞳は目の前で起こった事態を呑み込めず、当惑しているようだった。

 

咏「うわっ、すげえ」

 

 咏の声が誉めそやす。熱心に淡を心配せずそういう意味では他人事のようであったが、事実、脊髄反射的な速度でグラスを掴みとった明華のおかげで事なきを得たものの、そうでなければ確実に倒していただろう。明華の働きは一瞬ながら舌を巻くものだった。

 

淡「あ、ありがと……」

 

明華「いえ、気にしないでください」

 

 反応すらできなかった咲の耳にそんなやりとりが届く。驚いた余韻をまだ残した風でありつつも淡が素直に感謝を述べ、明華も険悪な雰囲気になるのを避けてか気さくに返す。

 

 ただ。

 

淡「うわ、濡れた……」

 

 倒れそうになった際、激しく揺れたせいで中身の一部が跳ね、水兵服のような制服の首元から胸のあたりにかけてを点々と濡らしていた。一応、テーブルにもこぼれていたがそちらは大したことなかった。

 

誠子「お前が受け止めた感じだな……拭いてもらったほうがいいぞ」

 

 「うん……」と、誠子の忠告にしょんぼりと返し、店員を呼ぼうとしてか淡は辺りをきょろきょろ見回す。盛況の店内。そこで、ある変化に気づく。

 

淡「な、なんか、めちゃくちゃ混んでない……?」

 

 淡の困惑した声が示す通り、いつのまにやら店内は大賑わいだった。テーブル席はひとつ残らず埋まり、昼時の購買のようにごった返している。咲などは話に夢中になるあまり変化に気づかず淡同様、呆然とするばかりだ。水曜日でまだ昼時にも遠い時間なのに。

 

誠子「ま、まあ、呼ぶしかないだろ。この後試合もあるし……」

 

 と誠子が言って慌てて店内に視線を巡らせるものの、顔色が悪い。どうしたんだろう。咲もつられて店員を探して声をかけるべく、視線のあとを追って、それからしきりに辺りを見回す。

 

 店員が見当たらないのだ。これだけ広やかな店内に客も大勢いる。店員が一人もホールに出ていないはずがないのだが、見当たらないのだ。

 

咏「あ、あれー、少数精鋭なのは知ってたけどなんでこんなスタッフいないんだ……やたら客多いし……」

 

 焦り顔で呟く咏の声が聞こえなくなるほど探し回った結果、ようやく一人見つけた。時間に急かされたビジネスマンでもそこまでじゃないのではと思うくらい忙しなくホールとキッチンを行ったり来たりしている、スカート丈のエプロンを腰に巻いた若い少女の姿を。

 

 だが。

 

「お、お待たせしました! アイスモカになります!」

 

「すみませーん、注文したいんですけどー」

 

「はっ、はい、ただいま!」

 

「このラテアートとーフローズンとー」

 

「注文したのまだですかー?」

 

「すぐお持ちしますっ!」

 

「――お待たせしました、ご注文の」

 

「あれ注文したのと違うんだけど」

 

「ええっ! わ……もも申し訳ありません!」

 

 頭の上に乗ったベージュのハンチング帽が落ちないのが奇跡的に思えるほどせせこましく歩き回る店員が、目を回して対応に追われている。そしてバッシングしてきた大量の皿やシルバーやコップ類をトレーに乗せて運びながら厨房に向かって歩いていく途中。

 

「どうしよう……どうしよう……」

 

「あっ、おかわり――」

 

「ああああああああっ、一人なんて無理ですよおおおおおおお!! ――あっ」

 

 わー、きゃー、どーん、がっしゃーん。ふざけた表現だが、まさしくそんな感じのコミカルな絵面が広がっていた。

 

誠子「あー……ありゃ時間かかるぞ」

 

 目を覆いたくなる惨状を目にした一同から誠子が諦観したようにつぶやく。わずかな間の出来事だったが、信じられないような衝撃と悲観的な現実をもたらしていた。

 

淡「シミが……」

 

誠子「……替え、あるか?」

 

 淡が首を振る。誠子と淡がどんよりと会話し、依然として軽快な音楽が流れる中、咲はスカートのポケットに突っ込んだ手をぎゅっと握る。――これを渡したら、何か意味が生まれてしまうのではないかと案じていた。咲は恐怖する。人ではなくものごとを疑い出したらきりがない。何度も、何度も考えて、未だに直らないこの癖が、淡との距離が一線を越えることを、今こうして逡巡していることを、拒もうとする。それは意識下を越えて無意識下の働きに達していた。

 

 けれど。

 

 淡はこの後試合を控えている。白い生地の制服にフローズンオレンジの鮮やかなシミがついた格好で、テレビ中継もされる場所に向かわせていいだろうか。人によっては小さなことと笑うかもしれない。でも。公衆の面前で女の子が身だしなみを気にする心境を咲は決して無碍にはできない。

 

 だからこれからするのは当たり前のこと。高校に上がってから触れあってきた人たちとの思い出が曇らせていた目を晴らす。そして心を決める。そうして覚悟した咲の前に、かつて抗えなかったその懸念は、どれほどの力も持たなかった。

 

 ごくりと唾を飲み込む。嚥下した舌の根が恐怖に屈して回らなくなってしまわないうちに、スカートの中から折り畳まれた布を抜きだして口を開く。

 

咲「あの、これ……使ってください」

 

淡「え?」

 

 驚いたような淡の声。それもそうだろう。咲が抜きだし、淡に向けて差しだしたのはハンカチ。ただのハンカチだった。

 

淡「使っていいの?」

 

咲「それは、はい……使わなかったら意味ありませんし」

 

淡「ラッキー! ハンカチ持ち歩いてるなんて女子力高いね、サキー」

 

 そういえば、他の人は持っていたりしなかったのだろうか。差しだすか差しださないか、自分にとっては究極の二択から解放されてようやくそんなことを考え出している咲は、鬱々とした様子など欠片も感じさせない淡がハンカチを受け取るのを見届けてから、ぐるっと他の同席者たちを見渡す。そして知ったのは、咲以外の誰もハンカチを持ち合わせていなかったということだった。

 

 

 

 

 

 場所は変わってカフェの化粧室。

 

淡「しってる? トイレって、アメリカならレストルーム、イギリスならトイレットっていうんだよー」

 

 他の飲食店と比べて清潔に保たれていそうな感のあるそこの大理石――おそらく人工――の床に淡と向かい合わせに立って作業していた咲は、唐突に豆知識を披露する淡の言葉に作業する手を止める。

 

咲「ならしってましたか? 人工大理石には、大理石の粉や成分は全く入ってないんですよ」

 

淡「へー、しらなかった! 大理石ってあるのに?」

 

咲「そうらしいです。ちなみに、私もしりませんでした」

 

 「じゃあ引き分けだね」、と淡がうれしそうな顔をする。咲も微笑む。

 

淡「ずばり、サキってけっこう勝負好き?」

 

咲「え? ……どうでしょう」

 

淡「またまたー、やっぱサキとはなんか気が合いそうなんだよねー」

 

 何ら意識せず流れ作業的に歓談していた咲は、途中よくわからない質問があって動かしていた手を再び止めて思案したが、結局は曖昧に答えてお茶を濁した。

 

 先ほどからしている作業、というのはシミ抜きの応急処置のことで。ハンカチとティッシュと水があれば簡単にできる基本的なものだ。

 

淡「うーん、落ちそう?」

 

咲「フローズンオレンジはたぶん水溶性ですから……このあと、液体の洗濯洗剤と綿棒とタオルを使って本格的にやらないといけないかも」

 

 そう言って作業を再開しながら、一応、やり方を口頭で伝える。まず、シミの下にタオルをひき綿棒に洗濯洗剤を染み込ませたら――「うはあ」、説明が始まって早々、淡が奇妙な声をあげた。

 

淡「覚えらんない」

 

咲「音をあげるのが早すぎます」

 

 明らかに覚える気がない。咲はそう感じた。苦笑をこぼしながら「でも」、と継ぐ。

 

咲「応急処置でもはた目に目立たないようになってきましたから、あとはお洗濯でいいかもしれません」

 

 「もちろん、気になるならちゃんとしたやり方で細かく汚れをとったほうがいいですよ」、と付け足しながら、どうしてかぽけっとした淡を見つめる。なんだろうか。首をかしげる。

 

咲「どうしましたか?」

 

淡「ねっ、今の感じどう?」

 

咲「ど……どう?」

 

淡「だーかーらー」

 

 作業する咲の手を、向かい合っている淡の手がさっと伸びてきて掴み、強引に止める。

 

 リボンをといて露わになった淡の胸元。白い薄手の夏服、その汚れの部分に咲は手に持ったハンカチを当てて、その服の裏から水を含ませたティッシュで軽く叩く。そうするとハンカチに汚れが移る。両手を使ってのこの作業を咲は先ほどからしていた。そして、後は仕上げに水分をある程度とろう。そう思っていた矢先の出来事だ。

 

 これでは作業できない。その旨を訴えようと口を開くと同時、

 

淡「あたってるでしょ? 胸」

 

 悪戯っぽく言われて、咲の顔が赤らむ。気恥ずかしいから考えないようにしてたのに。咲は内心で愚痴った。

 

咲「確かに、時々柔らかい感触はしますけれど」

 

淡「なんか口調変になってるよ? あははっ」

 

淡「ふふーん、サキにはまねできないでしょー」

 

 暗に貧しい胸だと仄めかしてるのかな……。心中で呟く。幸運なことに咲たち以外には閑散とした化粧室の中で、淡の無邪気な声が響く。本当に悪気はないのだろう。からかうような――いや、まさしくからかわれているのだろうけど、とにかく今はさっさと作業も会話も切り上げて戻らないと。こんなところ誰かに見られるのは堪えがたい。

 

 けれど。

 

淡「どう? 興奮した?」

 

咲「あの、女同士でそんな話するのって虚しくないですか」

 

淡「あはは、たしかに!」

 

 淡は話をやめる気はなさそうだ。薄い望みに見切りをつけて、作業を邪魔する手をそっと押しのけようとする。すると案外抵抗もなく離してくれたので咲は満足し、てきぱきと作業を再開し、手早く手際よく進めていく。

 

 応急処置の作業自体はもうほとんど終わっている。当初、のっけから雑談が差しはさまれてはいたが、咲はこれといって気にせず作業に打ち込んだ。こういった事は得意だ。

 

 また、淡が頼んだこのやり方は、いつ誰が来るともわからない場所で服を脱ぎたくないからそのままやってくれという話だった。

 

 いよいよ応急処置が終わって、片づけにとりかかる。ハンカチの汚れを移した面を内にして折り畳み、スカートのポケットにしまう。

 

淡「はあ、サキが男だったらイチコロなのに」

 

 ーー仮定の話は、嫌いだ。自分に限っては、いくらでも弱音をはいてしまいそうになるから。

 

淡「よしっ、戻りますか」

 

 黙って聞いていると話題が変わって、陽気な調子の彼女に「はい」と肯いて歩き出す。

 

 しかし、淡が歩き出そうとしない。一歩、二歩と進んでそれを見てとった咲も足を止める。

 

 どうしたんだろう。声をかける前に先んじて淡が口を開く。

 

淡「ふう……戻るのだるいなあ」

 

咲「え?」

 

淡「セーコ……亦野先輩と顔、合わせづらい」

 

 結構、気にしていたのだろうか。振り向いた咲からはそっぽを向いて淡が言う。一変して気まずそうだ。

 

 咲としてはあまり気遣う態度もとれず、「そうですか」とただ困ったように返す。

 

 亦野さんも心配しているんですよ、なんて彼女をよく知りもしない私が言うわけにはいかないし、どうしようかな……。数秒沈黙が続いた末に、「ホントはね」うんざりしたようなため息をついてから淡は切り出す。

 

淡「私、二年にも目つけられてるんだよね。ネンコージョレツとかうるさいんだこれが」

 

 体育会系、麻雀をそういっていいのか迷うところだが、スポーツ的な面もあるこの部活では実際、体育会系の理屈で動いているところが少なくない。こういった部では伝統をないがしろにすることを避け、たとえば先輩と後輩に厳格な上下関係を求めることがある。

 

 安部公房はかつてドナルド・キーンとの対談で「(日本人は)型に当てはめないと気が済まないところがある」と語った。これは、いわゆる様式美、ステレオタイプの作品が好まれるのはなぜかという問いへの答えであったし、安部公房の生きていた頃とは時代もずいぶん進んだが、それ以外にもみられるところがある、現代にも通ずる部分がある、と咲は考える。紋切り型の理屈には一種の安心感をもたらすところがあるのだ。

 

 ただ、こういった話は日本に限られない。

 

 長幼序列といって一年でも年嵩の人を敬う風習がある。韓国ではこの考えが非常に強い。韓国の人はしばしば相手の年齢を気にするが、この風習の影響が大きい。

 

咲「上級生とも……ですか」

 

 これらの事から咲が導き出した結論は、安易に手を出してもかえって事態を悪化させかねないということだ。こういったことに付随する感情は非常にセンシティブな問題であり、ビジネスで政治主張や宗教の話題が基本的に好まれないように、よしんば正論であったとしても相手の感情を逆なでして事態を悪くしてしまえば目も当てられない。

 

 手を貸さず親身にしないことは淡と距離を置くひとつの判断だったが、咲の声は自然と重くなった。

 

淡「弘世先輩は実力主義的な見方も強くしておくべきだって言ったけど、テルは『そうすれば部員間で衝突が起きるし、ずっとケアしていかないといけない問題になる。私は先のことなんて確約できないから、協力できない』ってさ」

 

淡「まあ、今の三年が引退する頃には転校かなー」

 

咲「転校したとして……逃げたって言われるのはかまわないんですか?」

 

 反面、気負った様子のない淡に質問を投げかける。そんな咲のほうに、淡は虚空に移していた視線を向けて「ははっ」と笑う。

 

淡「雑魚相手に何思われても気にならないかな。自分が認めた相手にそう思われるのはシャクだけど」

 

 強いんですね……うらやましい。そんな褒め言葉は胸に秘めた。

 

 話すか話すまいか。秘めたそれはともかく咲は思いあぐねる。

 

咲「そういえば淡さん」

 

 考えて、結局話すことにした。

 

淡「ん?」

 

咲「臨海にきたとして……私とは仲よくしないほうがいいですよ」

 

 「どういうこと?」淡がいぶかって眉をひそめる。

 

咲「同じことになりますから。そうしたほうがいいんです」

 

淡「いや、意味わかんないし」

 

 はっきり説明してほしい。そう訴えるように淡がさくら色の唇を尖らせる。

 

 「うーん」今度は、咲が眉をひそめる番だった。

 

咲「……私は部内で疎まれてますから」

 

淡「へ? あの外国の人は仲わるくないよね」

 

咲「チームメイトくらいです。あとは大体嫌われてます」

 

淡「ふーん……じゃ私と一緒だね」

 

 はっとする。――虎姫。今年の白糸台のレギュラーチーム。

 

咲「い、いえ一緒とは……」

 

 誠子が副将ならチームメイトだし、姉や弘世という先輩も話した感じでは同じチームのようだった。失言だったと気づく。

 

淡「ぶー、なんで嫌がるの。満足させる気ある?」

 

 咲は沈黙する。今大体、タイムリミットの半分を過ぎたところか。困窮して平身低頭で帰ってほしいと頼む前になんとかしないとならないだろう。

 

 だが無理に話を合わせるやり方には抵抗がある今、ものごとを自然の流れに任せたほうがかえってうまくいくのではないか。

 

 無為自然ーーハオから教わった考え方だ。

 

 ただ、自分の中で体よく納得するために使うのはハオに対してしのびなかった。

 

咲「あります。ただ、うまくやり方が思いつかなくて」

 

淡「はあ」

 

 聞こえよがしにため息をつかれる。

 

淡「……ま、いいけどね。ムリに合わされたってつまんないし」

 

 「出よっか」、と後ろ手に結ばれていた手を離す。そして、そのまま歩きはじめる。咲もそのあとを追う。

 

淡「ねえ」

 

 先をいって背中を見せている淡から声がかかる。

 

淡「三年がすぐっていったのは、サキの経験?」

 

 続けて、問いかけられる。依然として淡は前を向いて歩いている。心なしか先ほどまでよりも真剣なトーン。咲も足を止めずに考えた。

 

 九歳から中学に入学するまでの三年間はあっという間だった。意識的で主観的な体験に過ぎないが、咲にとってそれは変わらない事実だった。

 

 ――なら一年なんて、もっと。

 

 楽しい時間は早く過ぎてしまう。大切にしないといけない。でも、いつまでもこのままでいたい。

 

 質問に答えずに歩く。淡のうしろをついていく。そのまま、会話が途切れた状態で二人は化粧室をあとにした。

 

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