臨海咲SS置き場   作:たこっぴ

34 / 36
1/2 修正前のコピーで咲の中学の先輩の出身が大阪と書いたままだったので、関西に修正。あと文章読みやすいように適宜修正してます。出身地の修正のように解釈が大きく変わってしまいそうな修正はお知らせします。


高校編三十一話四月回想1

 

ひとめぼれというものがもし実在したとしたら、その人はどんなことを思うだろう。何もない場所で、なんでもない時に思い返して、胸が騒いで、もだえそうになって。そんな感じなのだろうか。春になると何となく体調が悪いとかざわざわ感があるだとか、そうなるのは季節の変わり目に自律神経のバランスが崩れるからだ。そういうこともある。

 

魂の片割れと巡り合うツインソウル、過去世のつながりを示すソウルメイト、心的な波長が合致するツインフレーム、多分に空想的な単語と想像が頭に浮かんでは消えていく。それらの単語にはいまいちぴんとくるものがない。まだ、恋とは電撃的なものだとか、恋は目で見ず心で見るだとか言われたほうがうなずける。

 

マンションの広い一室で咲はひとり机に向かっていた。

 

穏やかで春らしい陽気を人々に満喫させていた日も暮れ、あとにはうっすらと闇が空を覆う、夜にしては明るい外の景色と、この時間にもなれば少しばかり冷え込んだ夜気が流れ込む。それを、バルコニーへとつながる平べったい窓からちらりと覗き見て、感じとった若干の肌寒さに身体を震わせる。

 

もう結構な時間、机と向き合っていた。部活を終えてからまっすぐにこの学生マンションの自分の部屋に帰り、制服をハンガーにかけ部屋着に着替えて以降、ずっとその調子だった。

 

しかしそうしてやっていたこともひと段落して、綿密に立てられたカリキュラムのうち今日の分は充分に消化されたころ、咲の頭にはある懸念が浮かび上がっていた。

 

「おーい、サキいるー?」

 

緊張した面持ちで考え込む咲の耳に来客を報せるベルの音が届く。続けて、親しげにかけられるのんきな声。

 

――や、やっぱり。がらんとした部屋にその音が響いた瞬間、咲は腰を浮かせた。

 

「ネ、ネリーちゃん?」

 

ばたばたとあわただしく、けれどはしたない足音は極力立てずに玄関の前まで向かうと、おずおずと扉の向こうに声をかける。

 

「おー、いた。今日もあがってきたいんだけどいい?」

 

数瞬答えに窮した。躊躇して、でも面倒をかけている身で断るのはわるいな、と思い、提案からほどなくして扉をひらき迎え入れる。

 

開け放しになった外開きの扉から、民族衣装めいた独特の衣服でなく日本風のラフな装いをしたネリーが入ってくる。

 

「あ……」

 

「うん?」

 

――この頃、咲は生活に別段の不足は感じていなかった。自然に望みうるものすべてが揃っていたから。

 

東京に越してきたばかり。高校に入学して日も浅く、智葉との対局はすんなりかないそうにないものの都予選までまだまだ時間もチャンスもあるように思われた。それに、逆にいえば気がかりはそれくらい。

 

臨海で麻雀に打ち込み、切磋琢磨し、目的へと近づくため存分に腕を磨く努力をすることで彼女の欲求のようなものはおおかた解消された。あとは一人で部屋にこもって牌譜を調べたり、気分転換に本を読んだり、音楽を聴いたり、母親の勧めで勉強したり。朝になれば学校に通ったりした。規則正しい生活。学校で臨海の生徒とわずかな会話を交わすほかは、ほとんど誰とも話をしなかった。そしてそんな生活にとくに不満を抱くこともなかった。いや、むしろそれは理想的な生活に近かった。

 

しかしネリーという付き合いの浅い少女を目の前にすると、咲はそれなりに激しい心の震えのようなものを感じた。

 

「どうかした?」

 

「あ、ううん。なんでも」

 

ぽかんと口を開けて感じ入るような吐息を漏らすと疑問の声で返される。すぐに手を振ってごまかす。動悸を起こしたように心拍数の上がった胸を軽く押さえ、そよぐ風に乗ってただよう、普段とは違う彼女の香りに息を吸い込みほんの一瞬鼻をふくらませる。

 

「……今日もつけてる?」

 

「うん、ちょっとしたくせで」

 

この香りは、昼間ネリーから感じとれるような自然な匂いではなくふりかけた香水のものらしい。彼女の故郷にはスプラという伝統的な夕食会があって、彼女の場合身内の習慣の名残で夕食どきにこうして香りづけをすることがあるのだそうだ。咲はそう聞いている。日本の宴会のようなものらしい。

 

後にしったことだがつける日とつけない日があって、咲にもその基準はわからないのだが、あえて聞こうとはしなかった。単に気分の問題なのかもしれない。

 

「それで今日は……」

 

お菓子のような甘い香気を放つネリーを玄関の内側に招き入れて扉をしめると、先ほどまでいたリビングへと並んで渡り廊下を歩きながら咲は切り出す。並んでも渡り廊下にはもう一人分ほど並んで歩く余裕があった。なのに、来客用のスリッパでフローリングを歩く彼女は、内心気が気ではない相手の心境を知ってかしらずか、じゃれつくようにすり寄ってくる。そして「今日は夕飯と手紙かな」と答えた。

 

「だいじょうぶ?」

 

「来るって聞いてたから用意はしてあるよ。……でも、手紙?」

 

朝一緒に登校するために乗った電車で聞いてはいたのだ。部活のあいだにその話が出ないまま、別々に帰ることになったから確信が持てていなかっただけで。

 

「うん」見えない話に疑問を持った咲にネリーは肯くと、そばにあった咲の腕を抱え込み、早くいこうとでも促すようにひっぱって部屋の先へと導く。向こうで落ちついてから話すということだろうか。

 

会って間もない、思い返してみればまだ一〇日にも満たない付き合いだというのに、ずいぶんと距離が近かった。この手のいわゆるパーソナルスペースに関して咲は敏感だ。そのはずだ。人を寄せつけないように努めていた節もある。なのに咲は、どうしてか、嫌と口にすることもなく自身でもわからないことに胸を高鳴らせた。

 

 

 

下ごしらえしておいた材料を調理し、夕食をふるまう。菜の花やタケノコなどの春野菜を使ったツナちらしに、きゅうりとわかめとしらすの酢みそあえ、スナップえんどうのごまソテー、そして麩と春雨の吸い物。「おいしかったよ、ごちそうさま!」手ぬかりなく手抜きなくつくられた食事に舌鼓を打つネリーに「おそまつさまでした」と返事をした咲が洗いものを片づけた後、キッチンと隣り合ったリビングへと戻ってくると、ソファでくつろいでいる様子のネリーが目に入る。

 

自分の部屋でくつろぐ人の姿をみて、咲のうちには複雑な気持ちが生じていた。むろん自分の部屋でくつろがれていることに気分を害したとかそういうことではない。借りてきた猫のように縮こまられるよりはずっと楽だ。やりやすいし、心持ちとしても軽くなる。

 

ただ、中学時代を含めて家族以外の同年代の人間を家に上げる、ましてや自分の部屋に招いたことはなかったからだろうか。送り迎えや慣れるまで何かと一緒にいてもらう面倒をかける申し訳なさから断りきれなかったとはいえ、慣れない感覚に手こずっているのと。

 

姉に勝つという目的を掲げ、邁進しないといけないはずの自分が、こうして安穏とした空間にいることに茫漠とした焦りを感じているだけで。

 

姉に勝利し強さを証明することは何にも勝る望みだった。それが姉の願いにかなうと思っていた。

 

姉に勝てば仲をとり持つという母の言葉はあてにしていない。信用していないだとかあきらめてしまっているのとは違う。でも逆に、聞かされた当初からやめてほしいとは思っていた。咲がとれる手を尽くしても母をどうこうできそうにないのでやむを得ず断念するほかなかった。自分にできることをしよう。結果として、自分で解決すれば問題はないのだ。

 

「あ、サキ?」

 

自分の中で咲が折り合いをつけていると、ソファに座って足をぶらぶらさせていたネリーが歩いてくる咲の存在に気づき軽く手を上げ、声をかけた。

 

「お疲れさま。ごめんね、ゴショーバンになったうえに片づけもさせちゃって」

 

歩いてきて、ネリーとちょうど真向いの椅子に座る。ダイニングテーブルを挟みソファと平行に置かれた椅子だ。

 

「気にしないで。それより、難しい言葉しってるんだね」

 

「勉強したの!」

 

茶目っ気をきかせてえへんと胸を張るネリー。その意欲に咲の胸に感心の念が浮かんだ。それを表情に浮かべながら話す。

 

「臨海の留学生の人たちってみんな日本語上手だよね……」

 

「んー、基準あるのかな?」

 

あくまで学校の学習範囲程度にしか英語をしらない咲のような日本人からすれば、とても助かることだ。咲などは、外国人を前にすると何語を話す人なんだろう、日本語で大丈夫だろうかと慌てたり身構えたりしてしまうので、思わずほっとしてしまう。

 

咲は何気ないやりとりから少し様子をみて、相手が手紙――おそらく本題――について話し出す様子がないのを感じとると、

 

「そういえば今日は――」

 

留学生の繋がりで、今日麻雀部であった出来事のうち留学生に関係することを話す。

 

少しぎこちないやりとりが続いていた明華との間に読書という共通の趣味を見つけたこと、ラーメンをつくろうとしたらポットにお湯がなくてしょんぼりしていたダヴァンのこと、他の留学生たちの割と奔放な気風にハオがたじたじしていること。

 

麻雀部以外でのことは、あまり話さない。教室のほうで特筆することがないでもなかったが、たいていは通じにくい話になってしまうし、そもそも一般生徒側の話題に彼女はあまり興味がないようだと咲は感じていたから。気を遣ってくれているのかちゃんと聞いて相づちを打ってくれるのだが、そのあたりの機微を察するのは得意だった。

 

普通の会話。たわいないやりとり。頻繁に話す機会を持つと内容自体はとくに変わり映えするものでもなかったが、彼女との会話に咲はどこか新鮮味を感じていた。

 

中学では部に関する事務的なやりとりを除き私語を交わす相手など『クラスメイト』くらいしかいなかった。その彼女にしても、やりとりする際は重い雰囲気がどこかでちらついて、ときに、窒息してしまいそうな息苦しさを覚えることがあった。そういう意味で気負うところのほとんどない彼女との会話は気が楽だったが……。

 

――ひどい話。クラスメイトちゃんは機を見つけては積極的に声をかけてきてくれるのに。話もろくに聞かないで、うやむやにして、その場から逃げるみたいに、ううん逃げて立ち去って……。

 

咲は顔色ひとつ変えずに心中で呟いた。

 

「へえ、読書?」

 

麻雀部での話題で、ネリーが関心を示したのは明華との事だった。

 

「たしかにもの静かなとことか読書してそうな……んー、ネリーもやってみようかな?」

 

「読書のこと?」

 

「うん。日本語の勉強にもなるし」

 

日本語の勉強。ふと気になって質問を重ねる。

 

「もう今でも上手だと思うけど、何か上達させたい理由があるの?」

 

「あー、えっとね、実はそれが今日きた理由なんだ」

 

そう言って、持参した小ぶりのバッグから封筒を取り出す。

 

「それって……」

 

「うん。手紙なんだけど」

 

日本でよく見かける薄みがかった茶色の封筒だ。ネリーは手にしたそれの口に指を差し込むと、中からエアメール用の封筒を半ばまで取り出して咲に示す。

 

「手紙を書きたくて。ただ、話すのと違って書くのってむずかしいじゃない?」

 

たしかに漢字などはまた別の難しさがあるし、あるいは手紙の作法も日本のものに則るなら難関かもしれない。咲にもなんとなく言わんとしている事は分かった。

 

「日本語で手紙を?」

 

「サカルトヴェロの言葉と、それを日本語にしたやつ、合わせて二枚送ろうかなって」

 

エアメール、サカルトヴェロの言葉。故郷に宛てる手紙だろうか。けれど、もしそうなら日本語で書く意味はなんだろう。その理由が咲にはわからない。

 

「ええと、ネリーちゃんの国の言葉で書かれた手紙を原稿にして、また新しく日本語のものもつくる……その手伝いをすればいいのかな?」

 

思った疑問を口にすることはなかった。代わりにではないものの、齟齬が生まれてしまわないよう咲は手伝いの工程をともすれば冗長な表現で詳細に訊く。

 

「そうそう! そういうわけで……頼める?」

 

すると、喜色をにじませて肯定される。意図は問題なく汲みとれていたらしい。そしてここにきて、あらためて依頼。

 

実はこうして具体的な用件で夕食を共にとったあともネリーが咲の部屋に残るのを望むのは、一〇日足らずの付き合いで初めての事だった。ネリーが夕食を相伴に預かる機会は会ってから半々ほどだった。昼の弁当を含めればもっと高い頻度で咲の食事を口にしているだろうが、それはさておき。一緒に夕食をする半々の際はとくに理由らしい理由をつけず夕食のあとも咲の部屋でしばらく過ごしていった。自分の部屋などで時間を潰してしまっていいのだろうかと咲の脳裏に心配がよぎったものの、帰った方がいいとは言えなかった。今日は理由がある。

 

しかし、気のせいだろうか。座高の関係から見上げてくるネリーの無邪気そうな瞳、そこには相手が受け入れるという確信が宿っている。そんな風に咲は感じられた。

 

でもすぐに思い直す。思い過ごしだろう。ともあれ、手紙の書き方と漢字くらいならよほど凝っていて難解なものでなければ力になれそうだ。そう知って咲の気持ちは浮き立った。

 

「うん、私でよかったら手伝うよ」

 

「けっこう長い手紙だから、時間かかりそうなんだけど……」

 

咲は頭の中に時計を思い浮かべる。おそらく今七時かそれくらいだからまだ時間には余裕がある。終わらなくたって、明日以降に回せばいいのだ。相手さえよければそれもできる。実際に時計のほうに目はやらなかった。時間を気にする素振りに見えて気にさせてしまうかもしれないから。

 

「大丈夫。というか、手伝わせてほしいかな。お世話になってるし」

 

「ありがとう!」

 

華やいだ顔でお礼を言うと、ネリーは手元のバッグからペンや何やといった手紙を書くのに必要そうなものを取り出して、小さめのダイニングテーブルに並べていく。その最中。

 

「あっ、そういえばこの前みてた魚介のパスタあったよね?」

 

「レシピで?」

 

「そうそう、あれ今度食べてみたいな」

 

「でもあれ、イカかタコ入ってたような……」

 

「試しにね?」

 

「え、大丈夫なの?」

 

禁じられたりしていないだろうかと咲は思ったが、「ダメなのはユダヤの人だよ」とネリーは言った。

 

「イエスさんが新しく交わした契約でモーセさんの契約は旧いものになったっていうのがクリスチャンでは主流だからね。十戒は守るんだけど」

 

海や川の住民の中で、ひれやうろこのないもの。ひづめが割れていなかったり、反すうしないもの。そのタブーは多くのクリスチャンには当てはまらないらしい。

 

「大斎があったからかな? 魚肉がダメな期間があるから地中海のほうじゃむしろタコやイカの料理も盛んらしいよ」

 

「地中海……」

 

「こっち、ええっとネリーのとこには関係ないんだけどね」

 

「へええ。じゃあ今度試しにつくってみるね」

 

少し新鮮味が感じられた談義に花を咲かせていると、机のうえに筆記用具やなんやが出そろい、用意が整う。

 

それから手紙を書く手伝いがはじまった。ネリーが原稿を読み上げて、その内容を漢字を含む文章に咲が翻訳する。そして、四苦八苦してネリーが新たな便せんに書き直そうとする。噛み砕いて伝えようとした咲の努力の甲斐あってか、元々ネリーの漢字への理解が高かったのか、作業は遅々とするようなこともなく順調に進んだ。咲は机のうえに並べられている手紙を見比べた。筆を走らせるそれらの便せんは、可愛らしさとは無縁の無骨なもので飾り気に欠けている。咲にはそのように感じられた。

 

ふと、勤しむ彼女をながめる傍ら、とりとめのない思惟が咲の中に持ち上がる。文面から伝わる違和感。硬さやよそよそしさのようなものが感じられる。これは誰に宛てたものだろう。

 

頭語と結語はどうするかと尋ねた時、ネリーは『前略』と『草々』を選びとった。咲にもいまいち自信がなかったので日本郵便のサイトを参考にした。

 

前略と草々であいさつは省かれ、時候の言葉さえなく締めくくられる。それでいいのだろうか。咲にはちんぷんかんぷんだった。

 

「ネリーちゃん、これ誰にあてた手紙なの?」

 

身をこごめ、机にかじりつくように意識を集中させていたネリーは「うん?」と顔をあげ、左上に視線をすべらせると、宙にただよわせたそれを引き戻してきて咲の顔に合わせる。

 

とくに意識していないと人の眼は、左脳を働かせるときは左上に、右脳を働かせるときは右上に、黒目の部分が寄って視線が流れがちである。右利きの人の九九パーセント、左利きの人の約三分の二が左脳に言語野を持つといわれる。

 

そして、咲はとくに気にしなかったが、流れたネリーの視線は左上を向いていた。

 

「……お母さんかな。どうかした?」

 

「……お母さん?」

 

母親があて先にしては、と咲は思った。いや、頭語と結語が前略と草々なのはまだいい。ただ、いわば三大要素となる時候の挨拶、相手の近況や安否を尋ねる、自分の近況や安否をしらせる、というもので考えたとき、ネリーの手紙はというとちょっと平淡だ。自分の近況は一応書いてあるのだが、きわめて短く、簡素に綴られている。『とくに将来を不安視させるようなこともなく安泰だ』程度の、修飾や装飾のへったくれもない文章。

 

頻繁に手紙を交わして伝えることがなかったり、意外と近くに母親が滞在していたりするのかなと咲は思った。

 

頭語と結語は、そもそも女性のプライベートな手紙なら省くか柔らかい表現を代わりに使ってもおかしくないらしいから、頭語と結語は日本の感覚でいえばおかしいものではないのだろうし、ネリーの手紙はフランクともとれる。ただ外国の感覚でいったらどうなのだろう。咲は迷う。

 

手紙について何か言っていいのだろうか。外国の人との付き合いは、生まれてこの方ほとんどない。親族の人くらいだろうか。あの人たちは比較的国際色豊かだった気がする。外国の、伝統ある血筋や隆盛を誇る家からも血を採り入れて、一族の繁栄に努めるのがあの人たちの願いらしい。幼い頃、九歳のとき以来、疎遠になっているので今はどうか自信がないが、どっちにしても幼いときは勿論、今でも咲などに分かるのはごく限られた事だ。

 

それはともかく。親族との付き合いも浅く、親族に限らず他者とごく限られた交流しか持ってこなかった咲は、現在に至っても異国の人間には慣れていない。だから、作法に関して口を出していいものか判断がつかない。

 

「うーん」

 

思いあぐねて無難に流そうかと咲が考えていると。ネリーは書くのが大体おわったからか、作業を中断し、腕を組んで唸り声を上げた。

 

「どうしたの?」

 

「どうしてネリーだけこのマンションなのかなって」

 

咲は首をかしげる。どういう意味だろう。

 

「いやね、臨海じゃみんな学校が貸し出す物件に入るんだけどひとつの物件にはまとめないのかな?」

 

「え、どうしてそれを私にきくの?」

 

留学生の扱いなど学校が決めるはずだ。どことなく硬い雰囲気を纏っている。なんだか詰問されているようにも感じられた。ほのかにだが、いつもと違う雰囲気が彼女から感じられる。そんなことしらないよ。小心な気質もある咲は感覚としては涙を浮かべたくなる心境で、でもそれをぐっとこらえ、外づらはずっと平静にしていた。こうして弱さを隠すのが咲の日課である。もっぱら馬鹿らしいことのように他人の目には映るかもしれないが、腰まであった長い髪を切ったのも、どことなく悠然とした振舞いを心がけるのも、そもそもは半ばイメージでつくられた態度だった。

 

「本当に、しらない?」

 

いぶかしむように眉をひそめられる。納得いかなそうな声だった。なんとなく思い当たるようなことは頭の中にあったが、咲はできるだけそれを気にしないようにした。

 

ええと……話題を変えようかな。でも、うまい変え方が見つからないよ……どうしよう。

 

心情の一切を表に出さないまま、あれでもないこれでもない、と思いついた大して役に立ちそうもない話題を乱雑に並べ、とっかえひっかえして吟味していく。

 

これはどうだろう。ダメかもしれないけど……と、不安げに震える心境である話題を咲は選びとった。

 

実はとある名門麻雀部では、レギュラーや上位陣がなるべく寮で同室になるようになっているのだ。

 

「うーん、新道寺ってところが寮でレギュラーや上位陣の人がなるべく同室になるようになってるのはしってるけど」

 

「は?」

 

一瞬、息がとまった。

 

「……えっ」

 

なぜか睨まれた。もしかして凄まれたのだろうか。はっきりと、いつもとは雰囲気が違うのを、少なくともその瞬間はネリーが別人のように咲には感じられた。

 

「……え、ええっと」

 

「ああっと、ごめんごめん、いきなり話かわったからびっくりしちゃったよもう!」

 

「……そう? 怒らせちゃったらごめんね」

 

「だいじょうぶ。びっくりしただけだよ」

 

「よかったよ」

 

おうむ返しにきつく睨まれた直後、その瞬間がのど元を過ぎればすでに空気は戻り、つい驚いただけなのだとフォローされたこともあって、咲は胸を撫でおろす。実際にその仕草を無意識にとりつつ、ややあって少し緩んだ表情に気づいてはっと直す。おそらく自然にできたように咲は思った。

 

「ふーん。それで、シンドウジ? ってとこはなるべく同室になってるの?」

 

ネリーの様子はすっかり元通りだ。さっきのやりとりの後だと少し違和感というか、いたたまれないものを咲は感じたがそれは表情に出さず、「うーん」と考える風にして適度な間をつくる。

 

「留学生は……たぶんいなくて、部の中心メンバーがってことなんだろうけど」

 

「へー、みんな同じ部屋なのかな?」

 

「ペアとかで決まるんだったらネリーちゃんと私みたいだね」

 

「たしかにそうだね!」

 

元気よく返事をするネリー。そうしてから、その顔がほのかな疑問を持った風に思案するものになる。

 

「あ、そういえばそんなことよくしってるね? それってサキの地元……ええっと長野? の高校だったり?」

 

少し、考える。そうしてから、気まずい雰囲気にならないよう話題を続かせることを優先して咲は口を開く。

 

「高校の進学先決めるときに誘われたことあるんだ。すぐ断ったけどね」

 

「やっぱり臨海にいきたかったから?」

 

少しばかりの苦笑を浮かべて話すと訳知り顔でニヤっとするネリー。知っている風なのは臨海こそ新道寺に勝るとも劣らない強豪だというだけではなく、彼女の茶目っ気なのだろう。心中でそれを理解してから、ネリーの整った小さな鼻のあたりを見つめつつ、咲は再び「うーん」と悩んで唸った。話したくないこと、話してもいいこと、それらをきっちりと整理して間違えないようにしておきたかったから。

 

それをするのはいい。まったく問題ないというか、そうしないと困るし、知られたくないことがたくさん、ありすぎていつも話題がそっちにいかないか、いったらどうやって流したりうやむやにしようか、そればかりを考えているときもあった。

 

けれど、話題の向きはそこまで深刻ではない。少なくともほとんどの話は当たり障りない話でごまかせると思ったし、事実、ここ一週間とちょっと話したくらいでは、頻繁に接する機会があったネリーでさえ話す内容に困ることはなかった。大体、そこまで深く踏み込んでくる人などそういない。実際そうされたことはなかったし、フレンドリーなネリーとてそれは同じだった。いやがるような話になると話を流してくれる。

 

考えを固めた咲が口を開く。

 

「……そうだね。臨海がよかったから」

 

臨海の方が、勝ち残れる確率がより高いと思ったから。

 

「ふふん、このわたし様もいるんだから当然だねー」

 

冗談めかしたネリーの言葉にくすくすとした笑いが咲からこぼれる。確かに、臨海を選んでよかったのかもしれない、と思っていた。

 

――先鋒の座も打ち方の自由も、新道寺でなら保証されていたけど……この学校で、やっていきたいという思いも芽生えたから。

 

『――――あなたも、本がお好きですか?』

 

『――本を楽しむのは一人でもできます。誰を傷つけることもありません。誰を怒らせなくてもよくて、誰を悲しませなくてもいい。本を読むことは、私が心から好きだといえる、たったひとつのことです』

 

『――――――本を読むのは一人でもできます。でも……二人だからこそ見つけられる愉しみも、私はあると思うんです』

 

先日交わしたやりとりを反すうしながら咲が微笑みを浮かべていると、どうしてかじっとりとした目線がネリーから送られてきていた。

 

「今、だれ思いうかべた?」

 

不満そうな声。目が据わっている。

 

「くそー! ネリーがサキに先……サキに目をつけたんだからねー!」

 

「な、何の話……」

 

「――はっ」

 

ネリーがはっとする。

 

「今のオフレコね?」

 

「は?」

 

今度は咲が言う番だった。といっても、咲の場合は純粋に不思議そうにしただけだが。

 

「ふー……仕事したら小腹すいちゃった。これはカレーメ○だね!」

 

口止めするディレクター的な仕事だったんだろうかと咲が小首をかしげていると、ネリーはいきなり「やったぁーー!!ジャスティス!!!」とへんてこなポーズをつけて叫びだす。

 

「じゃ……ジャス?」

 

「もー、サキしらないの。日本人なのにだめだなー」

 

「???」と辺り一面に疑問符を乱舞させる咲だが、ネリーは立ち上がって謎の小躍りをしている。楽しそうだからそっとしておこう……なんだか可愛らしいので目を白黒させながらも咲は見守る。

 

そうすると、夜になり失せた穏やかな春の陽気が戻ってきた気がした。

 

彼女には独特の雰囲気がある。おもちゃ箱を開いたらオルゴールの音色が聴こえてくるような――――それは、空気をたちどころに変えてしまう。

 

「今度、カレーメ○ごちそうしてあげるね!」

 

ネリーの言っているそれが何なのか、さっぱり見当はつかない。しかし咲は、「うん。ありがとう」と本心からの喜びを込めて応えた。

 

「うわっ、とっと」

 

――そのときだった。立ちくらみを起こしたようにネリーの足がもつれる。その動きが、瞬間的に嫌なイメージを思い起こさせ、脳裏にはっきりとした映像を蘇らせる。

 

「だっ、大丈夫?」

 

カーペット以外とくに何もない場所でふらりとよろめいたネリーに椅子から立ち上がり、近寄っていく。「だいじょうぶ、だいじょうぶ」。症状を根拠なく予断する患者のような物言いだったのでかまわず手をとって様子を調べる。「大げさだよー」別段問題なさそうだったので、ネリーの声に従って手を離す。二人とも立ち上がった状態で、向かい合ったまま互いを眺めている。ふと、先ほどまでの自分が過剰に心配する様子をしていなかっただろうかと気にしながら、くりくりとした目を瞬かせて不思議そうにするネリーからゆっくりと視線をそらしていった。

 

その先は彼女が来るまで勉強に勤しんでいた机のほうだ。母が昔、日頃から自分に言いつけていたことを思い返す。軽挙妄動は慎まなければならない。その通り、なのだろう。つい先日も同様の事を母から念押しされたな、と考えながら、どきどきしている心臓の調べに気を落ち着かせようと試みる。大丈夫だ、問題ない。そこで、今まさに明らかに不自然な挙動をしているなと気づき、ネリーへと視線を戻す。

 

「……サキ? だいじょうぶ?」

 

顔を曇らせた彼女に「大丈夫。心配ないよ」と返す。声は震えなかった。

 

心配してくれている……んだろうな。『クラスメイト』や母、夢の中での姉、誰かに心配させてばかりだと分析しながら自分にきつく言い聞かせようとする。だが、怒りはわかなかった。自己嫌悪もない。――それは、自己嫌悪に陥る者の傾向からすれば不自然ではなかったかもしれないが、もし咲がその傾向を知っていても恥じ入る気持ちは消えなかったろう。恥だと思う心と怒りや嫌悪を抱く心、この二つは咲の中で分別され、違う意味合いを帯びている――。

 

「はー、びっくりした! 心配するサキのほうがよっぽどあぶなっかしいよ」

 

「あ、あはは。なんか動転しちゃったみたい」

 

笑い話にするように冗談めかして笑うと、「なにそれっ」とネリーはおかしそうにする。

 

――密着するような態勢にならなくてよかった。まだ、どきどきしてる……これはどっちなんだろう。

 

自身の落ち着かない心臓の鼓動が、果たして何に由来するものなのか。

 

「――ん?」

 

思案をめぐらせながら自問していると、ネリーが俄に声をあげる。見てみると、彼女の瞳は自分を映しているように見えて通り抜けている。そんな気がした。どこを見ているんだろう。思考を打ち切って視線の行方を追ってみると、それは自分を通り越して後方、戸棚のあたりに向かっているようだった。

 

「あそこ……あれ、オルゴール? ……あそこらへんに前からあったっけ」

 

「――えっ」

 

慌てて振り向く。ガラスで中のものが透けて見えるその戸棚には確かに昨晩まで置いていなかったオルゴールが雑多な収納物にまぎれ、中ほどにしまわれていた。その位置は、立っていれば自身の身長のちょうど腰あたりに来る高さだ。

 

「あっ……」

 

失態を認識し、不意を突かれた自分の喉から声が漏れる。忘れていた。今朝、学校に行く前ふと聴きたくなって音色を鑑賞してからばたばたして急いで安全な場所にしまい込んでから、そのままになってしまっていたのだ。人目につかないようにという意味合いも含めて厳重に保管しておく必要があったのに。

 

マドロナのコブ材で作られた、曲線形のフォルムのオルゴール。いつもならあの宝物のことを忘れるなんてあり得ない。そのはずなのに。

 

「……これって」

 

泡を食いながら視線を移すと、一方のネリーはこちらを気にする様子もなく。戸棚のほうへと歩いていく。ゆっくりとした歩みで、茶色いフローリングを踏みしめて。

 

その瞬間――いやそれよりも以前から、二人の間に何か溝が生まれてしまったような感覚が胸のうちにあった。まるで得体のしれないものが澱んだかのような。ぶるりと身を震わせる。呆然と眺めた先には、一〇日にも満たないこのわずかな期間いつも見てきたものとは真逆の、つめたい血の通ったかんばせ。

 

「リュージュ社の、オルゴール?」

 

戸棚の前までたどり着いた彼女は断りもなくそれを開き、中に入っているオルゴールを見つめる。その声は、名状しがたい色に震えている。ガラスの覆いがとり払われたオルゴールは彼女がつぶやいた言葉の通り、世界的に有名なオルゴール会社によるものだ。丸みを帯びたそれを飾り立てる花模様と、その白い百合の模様を縁どる筋。はた目にも高い質をうかがわせる上品な仕上がりをしているそれは、かけがえのない宝物だった。自分の宝物だ。なのに。

 

「ネリーちゃん?」

 

オルゴールを見つめる彼女の表情は筆舌に尽くしがたかった。普段の人懐こそうな印象はなりを潜め、彼女と自分、二人を明確に区分する境界が生じているかのように。まるで紺碧のうさぎと遭遇したような――そんな面持ちで呼びかけた声に反応する様子もなく、一心に見つめ続けている。

 

それから、長い沈黙のとばりが落ちる。話しかけられるのを拒むような雰囲気で黙り込む彼女に再び声をかけることもできず、静まりかえる部屋でただ沈黙を守って立ち尽くす。時間がひき伸ばされるような感覚を受けた。つい先ほどまで談笑していたのが信じられないほどの急激な空気の変化が鈍い衝撃となり、頭の中でずっと反響していた。

 

「ごめん。今日は帰るね」

 

ふいに、ひどく乾いた声で、彼女は静寂を破った。

 

「えっ?」

 

「……ごめんね、用事思いだしちゃった!」

 

言い直した言葉にはいつものはつらつとした元気が宿っている。どうなっているんだろう。まるで事態が呑み込めなかった。

 

あっけにとられるこちらを尻目に、せっせと荷物をまとめあげて、彼女は……ネリーは部屋をあとにしていく。

 

「じゃあまた明日、朝迎えにいくから!」とだけ言い残して。とり残された咲は、やっとの思いでうなずいて、しかし未だ困惑から立ち直れずにしばらくその場にたたずんだ。

 

 

 

 

「――宮永さん。はいプリント」

 

翌日。白昼の教室で前のクラスメートから順繰りに回ってきたプリントを手渡される。

 

「ありがとうございます」

 

外向けの硬い声で感謝を伝え、そのプリントを受けとる。

 

「もう、敬語じゃなくていいんだけど?」

 

すると、同級生相手にしてはかしこまった言葉遣いを指摘されて、咲の顔に苦笑が浮かぶ。

 

「こうするのがくせなので。気にしないでください」

 

「はあ……同級なのに?」

 

「同級でも、です」

 

強調して言い返すとあきらめたようで、「そっか」と愛想笑いをくれて首を戻し前を向く。そのクラスメートはあきれた風でもあった。

 

咲は、そのことを気に留めずプリントに視線を落とす。内容は別段気にする必要のない事務的な連絡事項だった。そう判断して教室内の多くの生徒がそうするように前を向く。

 

「はい、それじゃあ今日の授業はここまで。チャイムが鳴ったら昼メシにしていいぞー」

 

四時限目の担当だった現代社会の教師の投げやりな声で告げられた指示に教室内が俄に活気づき、皆堰を切ったように思い思いに私語を交わし始める。そんな周りの生徒を冷静そうに眺める咲も、実は解放感を覚えてわずかに浮足立っていた。

 

やがてチャイムも鳴り、教室の人込みも食堂や購買などを目指して散り散りになっていく中、我先にとごった返すところに割り込むのも気が引け、弁当箱を入れた包みだけ机の上に出して機をはかっていた咲は、「そろそろいいかな……」とごちて、大分と空いてきた出入り口を目に椅子からおもむろに立ち上がる。そのときだった。

 

「おー、宮永。ちょっといいか?」

 

「はい?」

 

教壇で日誌か何かをつけていた現代社会の教師がいつのまにか咲の近くにまで歩いてきていて、唐突に話しかけられる。

 

「あの……」

 

「ああいやいや、何か言いつけようとか叱ろうってんじゃない。警戒しないでくれ」

 

自分はそんなに警戒した風だっただろうか。もろ手を軽く上げて降参したようにするその教師に、咲は両端を持ち上げるようにして弁当箱の包みを手のひらに乗せたまま、目をしばたたかせる。

 

「それでご用は……」

 

「うん、まあ褒めにきたんだよ。感心したんでな」

 

「感心、ですか?」

 

要領を得ない咲の返答に「ああ」と教師はうなずくと、

 

「まあセンターの科目に現代社会を選ぶやつはあんまりいないからな。受験科目に採用している大学もほとんどない。たいてい、日本史か世界史になってくる」

 

続けてそう説明し、眉尻を下げる。

 

「日本の高校生で現代社会に注力して勉強する学生は少ないってことだ」

 

なんとなく、話が見えてきたので口を開く。

 

「経済学に興味があるならきちんと勉強したほうがいいですよね」

 

「そう! そうなんだよ!」

 

話に理解を示してくれたのがよほどうれしかったのか、教師は教材を抱えて両手が塞がった状態で身振り手振りして喜ぶ。予想以上だった。

 

「現代社会は経済学の基礎であるミクロ経済学とマクロ経済学を扱っているからな……重要な科目なんだよ」

 

科目でいうなら政治・経済もあるがあえて言わず、そうですねという意味を込めてこくんとうなずく。

 

「それなのに経済学部の受験科目ですらほとんどの大学が日本史か世界史を採用するもんだから……皆ちゃんとやらない。定期試験なんかのために勉強したとしても、右から左に忘れておわりさ」

 

「経済学部の受験科目として現代社会の方がふさわしいっていうのにな……」と、教師は皮肉げな笑みを自嘲ぎみにこぼす。

 

「その点、お前はなかなか見どころがあるぞ宮永。授業を受けていれば知っていると思うが、おれは担当する生徒たちから定期的にノートを提出してもらってそれを細かく見てる。そこでだ」

 

教師はそういって言葉を継ぐと、

 

「おれの一〇年の教師人生から言って、宮永、お前の学習意欲はぴかいちだ。理解も問題ない」

 

真剣な顔を少しだけ近づけながら言ってくる。ただ、そう褒められてもいまいちぴんとこない。そもそも、入学からまだ一〇日ほどで――事前の春期講習を含めれば数週間ほどにはなるが――そこまで、わかるものだろうか。

 

しかし疑問は口にせず代わりに嘘ではない思ったことを言葉にして返す。

 

「そう言ってもらえるとうれしいです。でも、私の場合はそれこそ、経済学を勉強していこうと思っているからで」

 

「ほう、そうなのか?」

 

「はい。それも母に勧められてやっているだけですよ」

 

教師は「ふむ」と咀嚼するように首肯して少しの間思案げにしたが、

 

「充分だと思うがな。親御さんの言いつけといっても、やる気のないやつはダメさ。多少あったところで嫌々じゃ効果もたかが知れてる」

 

「その点、お前のノートからは必死に勉強しようって『意思』が伝わってくる。いやな、感心したんだよ。本当に」

 

依然として手放しに称賛し、『意思』という言葉にアクセントまでつけてくるのを耳にしていると、流石に気が引けてくる。

 

「そんな立派なものじゃ……」

 

別にわざわざ否定する必要はなくて、早く会話を切り上げてもいいのに。どうにかして過大評価を改めてもらいたい。そんな気持ちが奥底にわきあがって言い返すと、教師は思いもよらないことを言い出す。

 

「謙遜しなくていい。いや……どっちかっていうとそれは卑下だと思うぞ」

 

「ひ、卑下……ですか?」

 

それは、大げさすぎるのではないかと思った。単なるノートの話がそんな広がりを見せてもはや戸惑いが顔を出す。

けれど教師はどうやらそうは思っていないようで、真面目な顔つきで見つめてきている。

周りの目だってある。こうして話し込む間にも少なくない視線を感じ縮こまりそうになるのを我慢して、戸惑い以外の平静をとり繕う。

 

「うん、言おうか迷ってたんだがな……」

 

にもかかわらず、好奇の視線を意に介した様子もなく教師は話を続ける。

 

「もっと力を抜いていってもいいんじゃないかと思うんだ」

 

「力……?」

 

「ああ、力……肩の力だ」

 

そう結論づけた教師が肯く。

 

「宮永のノートを見ていて思った。気負いすぎてる。なんていうのかな……教えられたことを一言一句たがわず覚えようって躍起になってる感じだ」

 

「そりゃ力を入れなきゃいけない期間ならそうしてもいい、むしろそのくらいの意気込みはあって悪いもんじゃない」

 

「だがな、そんな全力は長期的に見て長く続くもんじゃない。どんな陸上選手でも全力疾走をいつまでも続けられるやつはいない。構造的に不可能だからだ」

 

勉学に対する意識の集中と、人体の脚部を使った疾走を同列に考えていいのか。素朴な疑問は口にしなかった。類推的帰納法の危険性は、日本経済が昭和恐慌に見舞われたことで、経済再生は屈伸運動と似ているという理由から、両者を同列に論ずることは極めて危険であることを物語っているように、周知の事実だ。だが、国民に対して政府が屈伸運動のたとえを用いたのは国民の理解を得るための便宜上の説明であったろうから、それと同じで、目の前の教師も説得するためにそういったわかりやすいたとえを持ち出したのだろう、と納得する。

 

そこにあるのは、きっと純粋に生徒を心配する気持ち。敬意を抱くべきまぶしい感情。

 

だから、今自分がすべきことは反発することや疑問を呈することではなく、

 

「――ありがとうございます」

 

感謝。誠意をこめたお礼を、慇懃に頭を下げて伝えることだった。

 

その姿勢で、しばし動きを止める。そして充分に時間が経過してから、頭を上げて柔和な微笑みを浮かべながら告げる。

 

「肩の力を抜く……たしかに、力みすぎていたかもしれません。むやみに続けていれば息切れしてしまう……そのことを、しっかりと心にとどめて勉強に励むことにします」

 

――人間らしい生活を投げ捨てる覚悟で臨まなければ、たどり着けない境地がある。本心では、そう思っている。けれど本心はどうあろうと、そんな精神論は、この場で唱えるべきではないと思ったから。

 

目の前の様子をうかがってみると、鳩が豆鉄砲を食ったような教師の顔が目に入る。

 

悠然とした態度を心がけながら笑いかけてみる。すると、教師はますます当惑を深めたような顔をした。

 

「……あの?」

 

心配になって話しかけてみると、

 

「あ、ああ……そうか。わかってくれたならよかった、うん」

 

若干の歯切れの悪さと共に、返事が返ってくる。そして教師は、首の裏に左手を当てながら思い悩む風にして、しかし考えを打ち切ったのか、すぐに視線をこちらに合わせて言う。

 

「時間をとらせて悪かったな。昼メシだったろう?」

 

「いえ。今からでも充分間に合いますから」

 

お礼の言葉も改めて伝えると、世間話もそこそこに二言三言交わしてから、別れることになってその教師は教室の出口へと立ち去っていく。

 

その後ろ姿を見送ってから、何となしに漠然とした視線を周囲に向ける。

 

視線は合ったそばから逸らされた。そして、ひそひそと噂するような声。どうしてだろう。遠巻きに自分を眺めたり盗み見したりする生徒たちのまなざし。そこには、怯えや得体のしれないものに対するような色が宿っている。

 

それは、それらの目は、中学でも経験したものと同じ――どうしてそんな目で私を見るの――まったく同じものだった。

 

いたたまれなくなって急ぎ教室をあとにする。内心は表にださない。押し隠す。そしてそれはうまくいった。

 

退室する直前、胸の奥にたまった息苦しさをすぼめた唇から漏れる物憂げな吐息に変えて扉の向こうへと踏みだした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

青空に羊雲が群れていた。陽射しは穏やかで、渡り廊下を歩いている咲の顔をぬくぬくと照らす。

 

麻雀部の部室を目指していた。そのために、校舎から一度出て部室棟へ。部室で昼食をとろうと考えていた。日中ネリーが過ごすことの多いその一角で昼の休憩を過ごすのがルーティンとなりつつある。

 

道すがら、中庭を横切って走る渡り廊下から見える中庭の風景に目を止める。どきりとした。

 

見上げるような桜の木のふもとに、亜麻色の髪をした少女が背中を預けている。

 

明華だ。目を瞑って、何かに耳を澄ますようにその場に佇んでいる。不意の遭遇に咲の足が止まる。

 

「奇遇ですね」

 

瞑目した状態でどのように察したのかちょうど目を開くと、明華はすぐに話しかけてくる。

 

「こんにちは」

 

先ほど教室で向けられた目の余韻が残りぼうっと歩いていたが自然に返せた。内心ほっとしながら、渡り廊下越しに向き合うことになった明華を見据える。

 

彼女は桜の木に背を預けたままだ。林立した沢山の桜がその花弁を舞い散らす中、そうしている姿は一枚の絵画のようだった。

 

「こんにちは。これからお昼ごはんですか?」

 

挨拶が返され、質問される。

 

「はい。そちらはもう済ませましたか?」

 

「ええ。今日はさっぱり済ませました」

 

ざっと見渡すと、中庭には昼食をとる生徒たちがベンチなどに見かけられた。その数はまばらだが所々でにぎやかな雰囲気を醸している。すぐに視線を戻す。明華は、咲の手にある弁当箱に目を止めると尋ねてくる。

 

「咲さんはここで?」

 

「いえ、部室で食べようかと思っています」

 

「そういえばあっちは部室棟でしたね」

 

咲の行く先に視線を流して、また咲の方に。いつものように微笑みを携える彼女の瞳が咲をとらえる。

 

ロケーションを楽しんでいたのだろう。あまり長話するのも悪いと思って、それじゃあまた、と咲が口を開きかけると。

 

「よかったら、少しお話しませんか?」

 

「そ、……お話、ですか?」

 

機先を制されて、口ごもる。動揺はそれほどではない。今日にも放課後の部室で顔を合わせるだろうに、少し不思議に思っただけ。

 

「はい」

 

とくに表情のない目をした彼女が肯く。

 

「何を、というほどじゃありませんが、強いていうならこの風景……景色についてでしょうか」

 

フランスには日本に近い四季があるという。日本に比べると湿気が少なくからっとして、穏やかな気候をしているそうだが、この景色は彼女にはめずらしいのだろうか。視界に映る鮮麗な景色に、思いをめぐらせて咲は口を開く。

 

「桜は、お好きですか」

 

「はい。この小さな花びらが吹雪くように乱れ舞う姿はとてもうつくしい。いつまでも見ていたい……そんな気持ちになります」

 

答えた彼女の瞳が見つめてくる。あなたはどうかと尋ねるように。

 

「……私も好きです。満開に咲き乱れる桜を見ていると、言いがたい感慨に駆られます……胸の奥底からこみ上げてくるような」

 

「よかった。同じように感じられて」

 

柔らかな笑みを浮かべた彼女はそのまま言う。

 

「そろそろ教室に戻ります。次の授業は移動教室なので」

 

別れを告げる言葉。随分と早い雑談の幕切れだった。理由はもっともなもので疑る余地もないように思えたが、だとすれば明華は何を思って会話を持ちかけたのだろう。桜の話に共感を示してほしかった、とかだろうか。

 

「また、部室で」とおそらく放課後に顔を合わせることを考えながら咲は肯き、去っていく明華の後ろ姿を見送る。段々小さくなっていくその姿を追う。彼女の歩き方は頭が上下したり正中線がぶれることなく、堂に入っていた。

 

後ろ姿を最後まで見届けることなく部室棟への歩みを再開し、内心秘めていた緊張を吐き出すように咲はため息をひとつこぼした。

 

 

 

 

昼食どきの校舎内はそこかしこで混雑していた。といっても、足の踏み場もないというほどのところは購買や食堂の食券売り場くらいで、今咲がいるような部活棟へとつながる廊下などは比較的空いていて歩きやすかった。

 

リノリウムの床。足音を鳴らして歩いていく。遠くから聞こえてくるさざめきのような喧騒。

歩調は遅くもなく早くもなく。廊下の両端を教室の扉と窓とが規則的に立ち並び、窓の外には中庭の光景が広がる校舎の一角を、平常な心境で咲は歩いていく。

 

部室までもうすぐだ。人気がぱったりと途切れている様子に軽い幸運を感じながら最後の角を曲がる。

 

「おう」

 

「ひゃっ……」

 

曲がった瞬間、誰かの顔が至近距離に映し出されて咲の口から悲鳴が漏れかける。

 

「っ……辻垣内、さん」

 

突如として目の前にあらわれたのは辻垣内智葉、咲が越えるべき相手だった。

 

彼女は、立ちはだかるようにして今も咲と向かい合わせになっている。距離が近い。どちらかの身体が少しでも動けば相手の身体に触れそうなほどだ。

 

心臓に悪い登場をされて、また過剰に近い距離にいる誰かの存在に内心びくびくとしながら、咲は侮られないために虚勢を張る。まなこを鋭くして声や表情もなるべく毅然と。実際はた目にもそう見えた。

 

「ああ、驚かせたか。悪いな急いでたんだ」

 

「……いえ。ちょっと驚いただけですから」

 

先ほどの明華ではないが奇遇だと咲は思っていた。

 

「……あの、いかないんですか?」

 

ただ、急いでいるという割に智葉がその場から動こうとしないことには疑問を感じる。智葉を前にするのは苦手だ。いくなら早くいってほしい、と考えながら咲が言葉を投げかけると、

 

「おいおい、突っ込めよ。明らかにおかしかっただろ今の」

 

「はい……?」

 

意図の読み取れない指摘で返されて困惑する。

 

「いや、あのな」

 

「……?」

 

「……まあ、なんだ。驚かせようと思ってな。待ち受けてたわけだ」

 

先ほどの言い分とは真っ向から食い違う話を智葉が始める。その顔は渾身の一発芸が滑って苦虫を噛み潰すかのような感じだ。

 

確かに咲はいつもこのくらいの時間に部室を訪れてここを通りがかる。毎回この角を曲がると決まっている。わずか一〇日ばかりの中で繰り返されたことだが、智葉はそこから察したのだろう。

 

「そう……なんですか? じゃあさっきの話は嘘ということですか」

 

「まあ、そうなる」

 

「そうでしたか」

 

咲は普通に返した。不自然に平坦な声になるではなく、表情や仕草で不満を訴えるわけでもなく。知っている人に朝おはよう、と言われて、おはようと返すような自然なやりとり。平然としている。

 

「ううむ……」

 

想像していた、もしくは期待していた反応とは違ったのか、智葉は唸る。どうしたものかと思い悩むようでもあった。

 

目の前の人との距離が近いな、と感じたのか咲は一歩下がる。そうするとほっとしたような顔になる。

 

「お前……最初の数日と今とでキャラ違わなくないか?」

 

ところが無情にも智葉はさらに一歩を踏み出してまた距離を詰める。やむを得ない。咲はもう一歩下がる。智葉が一歩詰めた。さらに一歩下がる咲。すかさず智葉が一歩踏み出す。咲はそれ以上下がらなかった。あきらめたのだろう。

 

「……キャラ、ですか?」

 

わずかに目を泳がせてから咲が返す。

 

それに智葉が「ああ」と肯いて。いぶかしむ、というよりは腑に落ちないといった感じで続ける。

 

「初日なんかはもっと食いかかってきてただろ。それがここ一週間ほど……いや、最初の数日だけ、か。あのときのやる気にあふれたお前はどこにいったんだよ」

 

智葉の言葉を受ける咲の顔には色濃い困惑が浮かんでいた。しかし、どこか理解の色があるようにも見える。

 

「あれは……ちょっと先走ってやりすぎただけです。まだ先は長いと思って力を抜いた。そういう感じで」

 

「なんかあやふやな言い方だな……じゃあまた、都予選なり近づいてきたらああなるってことか?」

 

「それは……」

 

言い淀む咲。その歯切れの悪そうな口ぶりは、どちらかといえば否定のニュアンスを接するものに感じさせた。

 

「ふう……まあいい。私とレギュラー争いする気はあるんだな?」

 

少しばかり疲労した感のあるため息を漏らしてから、智葉は凛然と表情をひきしめ、それだけは聞かせてもらう、といった調子で強気に尋ねる。

 

真意を問いただすように正面から目を見つめてくる智葉に対し、目をそらして少しの間押し黙る咲の姿は口を噤む可能性を想像させたが、やがてゆっくりと、見ようによってはおそるおそる智葉と目を合わせると、

 

「それは……あります。私は先鋒になりたい。そのために臨海にきました」

 

その言葉を口にする。そのときだけは、赤みがかった鳶色の瞳に強い意思がこめられるかのような力を智葉に感じさせた。そこに帯びる一種の悲愴さは、聖職者が一心に祈りを捧げる姿をも想起させる。

 

無意識に解き放れたのだろう、麻雀の才気とも呼べる威圧的な力が空気を軋ませるかのような感覚を呼び起こす。その力はともかく、強靭な意思を感じさせる瞳と、その瞳の、色こそ違えど雲の上に広がる清浄な大気にも似た色合い、その二つは智葉の眼鏡にかなうものだった。

 

ただ、どう見繕ってもそこに敵意と呼べるほどのものは存在しない。その事実が、智葉の顔を曇らせる。

 

「ならいいんだ。私からみれば気迫が足りてないが、まあ相手をしてやる気にはなれそうだ」

 

だが智葉はすぐに表情を凛としたものに戻して、全身から立ち昇っている戦意すら声に滲ませて告げる。

 

「……はい。お手柔らかに、全力でお願いします」

 

「ふっ、お手柔らかに全力ってなんだそれ」

 

咲の言葉に鼻で笑って、智葉は固い表情を崩す。それでも真顔といって差し支えないものだったが、少なくとも臨戦態勢ではなくなっている。

 

智葉は、咲の手に乗った弁当箱の包みを一瞥すると、

 

「じゃあ、私は戻る。これから昼か? 時間をとらせて悪かったな」

 

「いえ……それじゃ失礼しますね」

 

短いやりとりを交わしてその場を立ち去っていく。泰然とした、本当の意味で洗練された足どり。映像やイメージに頼る、ある意味模倣しているともいえる咲には同じことは決してできないだろう。

 

そのことを意識したか意識しなかったかはわからないが、咲はその場で目を伏せて、うつむき加減になった口から吐息を漏らした。

 

 

 

 

 

 

 

部室に着くと、咲はいつも昼食をとっている部屋に向かう。休憩室のようなその部屋に入ると大きな机の上にだらんと上半身を倒したネリーがすぐ目に入った。

 

「あ、いらっしゃいサキー」

 

ネリーはそのままの姿勢で入口に顔が向いていたので咲の来室に気づき、気の抜けた声で出迎える。

 

彼女の手元、机の上には空になった弁当箱が置いてある。今日も残さず食べてくれたんだ。咲の口元に自然と笑みが浮かぶ。

 

入ってきて、机の周りに並べられた椅子の中から入口に一番近い席に咲は腰を下ろすと弁当箱を机に置く。まもなくして弁当箱を開いて昼食が始まった。

 

「五時限目ってなにー?」

 

「体育だったかな」

 

話を振ってきたネリーに、弁当をつつく合間を縫って返す。

 

愛想は良くなく悪くもなく。見ようによっては若干素っ気ないようにも見える、いつもの調子で咲は喋る。

 

「へぇ体育。何するの?」

 

「うーん、バレーボール……だったような」

 

「ははっ、あやふやだね」

 

さして興味がないから、曖昧な記憶なのだろう。上半身を横倒しにして、顔も咲に向かって寝返りを打ったような態勢のまま会話を重ねるネリーが笑う。

 

「そうだね、適当」

 

愛想笑い程度に咲も笑う。話の流れに合わせた。

 

「なんだ、バスケなら出てもよかったのになー」

 

「ネリーちゃん、得意なの?」

 

「こうみえても、中学の六年でたびたびバスケ部の助っ人を務めたのだよ」

 

「えへん」と声に出しながら誇らしげに胸を張るネリー。色々と、興味を惹かれる発言だ。

 

「そうなの? ちょっと意外かも……あと中学の六年?」

 

「うん? えーと、ネリーのとこは、日本でいう小学校が三年、中学校が六年……って言い方でいいのかな。その九年がギムキョウイクなの」

 

初等教育が三年、中等教育が六年……という解釈でいいのだろうか。高校からはどうなるのかとネリーに尋ねてみると『前期中等教育が六年』という風な答えだったので、中等教育に中期か後期があるのだろうと思った。

 

「へええ」

 

「あ、その相づちはけっこう興味ありげなときのあれだね?」

 

ネリーが得意そうにほくそ笑む。寝返りを打ったような態勢でそうすると間抜けた印象があって面白いな、と若干失礼な感想を咲は悪意なく抱く。

 

「うん、バスケの話も意外。その、馬鹿にするわけじゃないけどバスケって、背の高い人が強い気がして」

 

宙高く舞い上がったボールを大木のような大男たちが我先にと跳躍して手を伸ばしたり、それか、もっと単純にダンクシュートを決めたり。咲の中でバスケとはそういうイメージが強かった。

 

「ふふーん、サキはまだまだだねー」

 

しかしネリーはともすると侮る発言にも気にかけず、得意そうに言うと、やる気を見せるように机に預けていた上半身をがばっと起こして、

 

「ネリーには、これがあるから」

 

架空のボールを支えるような恰好をして、おそらくはバスケのシュートポーズをとる。まだわからない。どういうことだろう。

 

「ええ……?」

 

「えー、まだわかんない? スリーポイント、スリーポイントだよ」

 

わざとらしく機嫌を損ねたように眉をひそめて、一回、二回と実際にシュートするようにネリーが手を動かす。バスケの経験など中学の授業くらいでしかなかった咲にもそこまで言われれば、ある程度理解が広がってくる。

 

「ああ、そういうのあった気がする」

 

「わかった? ネリーみたく背が控えめだとたしかに不利なとこはいっぱいあるけど、これがあれば」

 

そこで言葉を区切って、ネリーは足の裏を椅子に乗せてその場で勢いよく立ち上がると、

 

「これは――――ネリーの翼だよ」

 

シュートの姿勢をとって、そのまま流れるように綺麗な動作で手の中にある架空のボールを放つポーズをとる。

 

「わあ……とっても上手そうに見えるよ」

 

「上手そう、じゃなくて上手いの! ドリブルだってお手のものなんだから」

 

「そうなの? 見てみたいな」

 

「今度みせてあげるっ!」

 

疑るでもなく本心から咲がそう言っているのを見てとったのか、すっかりネリーは機嫌をよくして、天真爛漫な笑顔を惜しげなく振りまいていた。その微笑ましい姿に咲もつられて笑みを浮かべる。

 

昨晩の別れ際、おかしな雰囲気で別れることになって、朝一緒に登校したときにはもうしこりを感じさせないやりとりができていたが、ここにきて改めてすとんと安堵の思いが胸に落ちる。

 

昨晩のあれは何か理由があったのだろう。でも、こうしていつも通りいられるなら大丈夫なはず。自分の中で密かに折り合いをつけて、忘れた頃に弁当をつまんでいくと、

 

「あ、ところで話は変わるんだけど」

 

会話の熱も冷めて椅子に座り直したネリーから、ふと話しかけられる。

 

「きのう頼んだ手紙、あるじゃない?」

 

「あ……うん、あったね」

 

「きのう勝手に帰っちゃってなんなんだけど、もうほんのちょっとで完成するから……あとで、手伝ってもらっていい?」

 

はきはきとした物言いの多いネリーにしては消極的な頼み方。昨晩の急な帰宅、ネリーはネリーで気にしているのだろうか。

 

こちらを見上げてくる青みがかった瞳は、つい昨晩の確信が宿っているように感じられた言葉とは対照的に、少し自信なさげに陰っている。

 

「もちろん。お昼ごはんもう食べ終わるからまずそれからやろうか」

 

「ほんと!? 昼休憩でできると思うしほんと助かるよー」

 

とくに、断るような理由はない。ましてや昨晩のことで気分を害したわけでもない。なら咲の返答は決まっている。

 

お世話になっている人の役に立てるのはうれしいことだ。もっと、何かしてあげたいと思う。

 

「じゃあ早くお弁当片づけないと……もぐもぐ」

 

「あっ、そんな急いできなこモチ食べたら……」

 

「――うっ!? ごふっ、げほ、ごっほ、げっほ!」

 

咲はむせた。

 

「だ、だいじょうぶ?」

 

慌てて席から立って近寄ってきたネリーが背中をさすりながら言う。

 

「っていうか、なんできなこモチ? ネリーのには入ってなかったけど……」

 

ネリーのその言葉には、どうしてお弁当にきなこモチを、というようなニュアンスも込められていた。

 

「……も、貰いもので……」

 

息も絶え絶えな口から説明を入れる。

 

「貰いもの?」

 

小首をかしげて言うネリー。誰からの、と不思議がるようでもあったが、咲はそれ以上口を噤んだ。

 

智葉からの貰いものだった。咲にもなんだかよくわからないのだが、軽く話していて、気づいたら一箱ほど貰うことになっていたのだ。

 

渡す際、智葉の口元がこっそり三日月のように弧を描いていたような気がしたが、咲にはそれが何を意味するかわからなかった。

 

「ま、まあ、きなこモチは残したほうがいいよ? お弁当にミスマッチだし……せっかくのサキの料理がおいしくなくなっちゃうよ」

 

「う、うん……また時間を置いて別に食べることにするよ」

 

息苦しさも大分と和らいできたので、きなこモチをどうするかを決め、他のおかずを選んで食べ進めていく。きなこモチを捨てるという選択肢はなかった。

 

「でもサキのむせる姿ちょっと面白かった」とネリーが面白がる一方、咲はきなこモチでつまずいてからは順調に食べ進めて、やがて完食する。

 

「ごちそうさま。……ネリーちゃん、手紙の方、今からでも大丈夫?」

 

時計で時刻をみてみると、昼の休憩はまだ二〇分ほどはある。

 

「だいじょうぶだよ、ええと……じゃあはい、これ」

 

と咲が弁当を片づけている間に準備しておいたのだろう。部屋にある大きな机に昨晩同様、手紙を書く道具が並べられていく。

 

そして、手紙を書く……日本語に書き直す作業が始まると、互いに熱中して進めていく。

 

昨晩、咲が見たときもほとんど作業は終わっていると感じた通り、残りは昼休憩を使い切るまでもなく片がつきネリーも満足する出来になったようだ。

 

「サキ、ありがと! ほんと助かった」

 

「ううん、こういうのも新鮮で面白いね」

 

てらいのない笑顔で咲がそう返すと、ネリーはほんの一瞬きょとんとして、次いで朗らかに笑った。

 

「さて、それじゃあとは手紙だしてくるだけっと」

 

今から出しにいくのだろうか。授業が免除され望まない限り出席しなくてもいい立場にあるから、やろうと思えばできるのだろう。

 

しかしネリーは「ううん、今からちょっと用事あるからあとでかな。今日中には出すけど」と答えた。

 

「ちょうど部活の時間と重なるかも。たぶんだいじょうぶだけど、もし部活に遅れたらそのこと伝えといて!」

 

ネリーに頼まれる。こういうとき、遠慮がちに『~してもらってもいいかな?』とある種迂遠な訊き方をしないのはネリーらしさが出ている気がする。こういった話し方にはさっぱりとした印象があって、咲としては話しやすい。

 

「わかった、もし遅れたら監督や辻垣内さんとか……上級生の人に伝えとくね」

 

「ありがとう!」とすかさずネリーから感謝が告げられる。ぽんぽんと進むやりとりに咲は心が弾むのを感じた。

 

 

 

 

 

 

放課後は部活だ。部室には多くの生徒が集う。

 

「オーウ、サキ」

 

ぞろぞろと皆が何らかの目的を持って動き、ちょっとした喧騒が出来上がっていくなか、正面から軽く手を上げながらダヴァンが親しげに声をかけてくる。

 

ダヴァンはとくに気さくで、さらに言えばネリーとは違い頼れる歳上という感じがして、こうして声をかけてもらうと咲としてはうれしくなる。むろん、決して表情を緩ませたりはしない。

 

「ドブリーデン」

 

だが、続いてかけられたあいさつに咲は「え?」となる。実際口に出していた。

 

「ど、どぶりーでん……?」

 

「ハハハ、横文字が苦手なお年寄りやジャパニメーションの萌えキャラみたいな発音になってまスヨ」

 

いや、会って早々、そんなあいさつをされたら困惑しても無理ないのではないだろうか……。

 

そんなことを思っていると、

 

「いやいや、なんでドブリーデンなんですか。メガンってアメリカから来たんでしょう?」

 

ダヴァンの後ろの人込み、そこからハオが歩いてくる。彼女は呆れたような顔をしていた。

 

一方のダヴァンはいつのまにやら怪しげな雰囲気を纏っている。なぜか陰影のついた妙に味のある表情で語り始める。

 

「ククク……様々な属性のキャラが飽和する今の時代、単にカタコトの日本語を話すアメリカ人というだけデハ、個性が埋没するのは必至……つまり、他の欧米の属性を採り入れる、というコトが今の時代における……」

 

「キャラを見失ってるメガンは放っといて……宮永さん」

 

「はい?」

 

ハオに呼ばれて応える。見向きされていないのにうわ言のように語り続けるダヴァンは放っといていいのだろうか、と思いながらも緊急性はなさそうだと判断し、ハオの方に向き直る。

 

「よかったら今日一緒に打とうよ。ネリーじゃないとってわけじゃないでしょ?」

 

質問の意味を察して、目をしばたたかせる。

 

「留学生四人と辻垣内さん、私のメンバーで交代に卓を囲む練習があるんじゃ?」

 

「あー、そういうことじゃなくてさ」

 

手で頭を掻くような仕草をするハオ。

 

「咲と智葉以外の日本人部員を入れて打つ練習あるでしょ?」

 

臨海の麻雀部では、対局の面子の組み合わせを色々と変えながら打つのが主流で、留学生と一部のメンバーだけ固定して卓を回すといったやり方はとらない。

 

たとえば、留学生二人日本人部員二人の卓、留学生一人日本人部員三人の卓、時には留学生クラスの部員四人の卓、といったように様々な組み合わせで回していく。

 

中でも、現在の練習方針としては留学生クラスの部員二人にそこそこ実力のある日本人部員二人を加える、といった卓を比較的多く用意し、留学生のレベルアップに務めながら日本人部員全体の底上げにも目を向ける……といった練習法が採用されているのだった。

 

そして、留学生クラスの部員――その一人に咲は数えられている。他には智葉だけ。

 

「……はい。だいたい『上座役』の二人はペアを組む形になってますね」

 

上座役、というのは。一般の日本人部員が卓に入るとき、留学生クラスの部員を指してそう呼ぶ。

 

入学して間もなくされた部員一同を前にしての監督の説明曰く、留学生クラスの卓に入る一般の日本人部員は胸を借りるようなものだから、その卓の留学生クラスの部員を『上座役』と呼称する……これは長年の伝統とらしかった。

 

「うん、だから……よかったら私と組まない?」

 

ハオは辺りをきょろきょろと確認するように見回してから、

 

「ネリーは今日まだ来てないみたいだし、さ」

 

視線を戻して言う。咲は黙り込む。そして、辺りに視線をめぐらせてみる。

 

ネリーは見当たらなかった。手紙を出しにいって遅れているのだろうか。

 

「そう、ですね。わかりました」

 

今日はよろしくお願いします、とぺこりと頭を下げて言う。ややあって頭を上げると、

 

「……」

 

無言で見つめてくるハオと目が合った。

 

「あの……?」

 

なんとも微妙そうな表情を彼女はしていて、もしかしてしらない間に怒らせてしまったのだろうかと声をかけると、

 

「ああ、ごめん。大したことじゃないんだけど」

 

彼女は、はっとしてから断りを入れて、

 

「いや……同じ一年なんだし敬語とかそんなしなくてもいいんじゃないかってね」

 

同級生にも度々されてきた質問をしてくる。自分の表情がわずかにこわばるのを咲は感じた。

 

「そう……ですね、そうなんですけど、これがくせになってしまっていて」

 

ハオも、どちらかというと礼儀正しく分別をきっちり守るタイプのようだが、堅苦しさというのはあまり感じさせない。少なくとも、咲のような同級生に対しては割とフランクだしフレンドリーであるように思う。

 

他方、ほとんど全ての人に対して折り目正しく接しようとする咲は几帳面といっていいほどだ。ハオも同級生など大抵の人と同じようにそこが気になったのだろう。

 

勿論ハオの今の言葉も同級生と同様、糾弾する風ではなくたしなめるように言ってくれるものだが、これを変えたくない咲としてはそうしてたしなめる気遣いをさせるのも、付き合ううちに距離感を心配させるのも心苦しいものだった。

 

だから――あまり人とは関わらないようにしたい。

 

それが、人間関係について咲が出した答えだった。

 

「……ネリーとは、仲がいいね」

 

だから、躊躇いがちにハオが言った言葉は胸に刺さるものがあった。

 

「……」

 

「ああ、嫌みとか言いたいわけじゃないんだ。ちょっと不思議に思って」

 

実際、気にした風でもなくハオはそう話すと手にしたバッグからペットボトルを出し、それを飲んで唇をしめすと、水滴の残った唇から小さく息を漏らして何気なく咲を見つめた。

 

「あんまり気にしないで。咲がそうするってことは何か意味があるんだろうし」

 

ハオの言葉は咲の頑なさを受け入れていた。何かを押しつけるでもなく、関心を失ったようでもなく。

 

「それより誘いを受けてくれたのがうれしいな。断られるかもしれないって思ってたから」

 

そう笑いかけてくるハオの瞳は穏やかだった。その瞳は澄んでいて、その瞳に見つめられていると後ろめたいような申し訳ないような複雑な心境になる。

 

「断るなんて、そんな」

 

「まあまあ、思い詰めた顔しないで。今日は咲とたくさん打てそうで楽しみだな」

 

いろんな思いが胸に渦巻いている。しかし今それを気にするのはやめて、

 

「そうですね。私も楽しみです」

 

笑顔で、同意する。

 

「そういえばネリーはなんで来てないんだろうね?」

 

「たぶん手紙を出すのに……あっ! 誰かに伝えるの忘れてた!」

 

ハオの素朴そうな疑問に思いだす。遅れたら伝言を頼まれていたのだ。

 

どたばたと駆けだして、ネリーの遅刻の理由を伝えにいく。

 

「本当にネリーには気を許してるんだね」

 

その後ろで、微笑ましそうなハオの声が上がったが、咲の耳には届かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは部活が始まってから一時間ほどした頃のことだった。

 

「盗られたぁーーーーっ!!」

 

ハオと二人、同じ卓で日本人部員二人を相手にしていた咲の目の前で蹴破られるような勢いで入口の扉が開き、次いで絶叫するような大声が上がった。下手人はネリーだった。

 

今にもカンをして和了を宣言しようとしていた咲は一旦倒そうとした四枚の牌から手を離し、飛び込んできたネリーに目を向ける。

 

ネリーは憤懣やるかたない様子でずかずかと練習室の床を鳴らして歩く。どこに駆け込もうか見定めるように周りを見渡しながら向かった先は咲と智葉の卓が隣り合う、中ほどの場所だった。

 

「なんの騒ぎだ……盗られた?」

 

場を乱したネリーを見とがめるように険しい視線を送りながら、智葉が訊く。

 

対して、咲をはじめ部屋中の視線を浴びているネリーはそれを気にした様子もなく、

 

「手紙とお金が、盗られちゃったの! もう信じられない!」

 

依然として怒り心頭といった様子で捲し立てると、地団駄を踏む。

 

「手紙と金だ……?」

 

「故郷に送るエアメールと、現金書留だよ!」

 

やりとりを続ける智葉とネリー。

 

「……警察には届けたのか?」

 

「これから!」

 

ネリーはそう言うと、急に静かになって、考え込むような素振りをする。

 

一方、ずっとその様子から目が離せなかった咲は、

 

(故郷に送る手紙って手伝った手紙かな……)

 

盗られてしまったという手紙のことが頭にひっかかっていた。

 

「手紙、それと現金書留、か……金はいくらくらい被害にあったんだ?」

 

「……五〇万」

 

「……円か?」

 

「うん」

 

額面を聞いた智葉が表情を厳しくして黙り込む。一方、五〇万円という学生にはなかなか縁のない大金の話になって、周りの日本人部員たちの目の色も変わる。

 

「えー、五〇万だって」

 

「やばいね」

 

「そりゃあんなに騒ぎもするよ」

 

「うんうん」

 

色めき立つ部員たち。そのほとんどの声が大金を盗られたというネリーに同情的なものだった。

 

五〇万といえば現金書留の上限額ではないだろうか。本当に不運。

 

そんな声が所々で交わされて、練習室の雰囲気はネリーが入ってくる前と一変している。

 

「あっ!」

 

そんな中、ネリーが何か重大なことを思い出したように声をあげる。

 

「どうした?」

 

「正しくは、五〇万一六〇〇円だった!」

 

「はあ?」

 

出し抜けにそんなことを言われて、さしもの智葉も困惑気味に返す。

 

「手数料! 手数料の一六〇〇円もとられたんだよちくしょー」

 

またしても「むきーっ」と地団太を踏むネリー。

 

「ちくしょうって……とりあえず、盗られたのは手数料込で五〇万一六〇〇円……そういうことか?」

 

智葉が真面目な顔をしてそう確認すると、全く関係ない遠くの席で噴き出すような笑いが漏れた。

 

「おい、今の……」

 

不謹慎を咎めようとした智葉をよそに、また別のところで忍び笑いが漏れ聞こえてくる。

 

「せ、一六〇〇円て……」

 

「手数料は不意打ち……」

 

所々から笑いを堪えようとする空気が生まれ、忍び笑いが漏れ、かといってそれは嘲るようなものではなかったからか、智葉はかぶりを振って嘆息する。

 

「五〇万一六〇〇円がー……」

 

そして、畳みかけるようにそんなことを言ってどんよりするものだから、お笑いムードは拍車をかけ、部室の重苦しい空気はいくぶんとり払われていた。

 

それをみて、智葉も注意するのはやめたようだ。ネリーに向き直ると。

 

「それでネリー、今から警察にいってくるのか?」

 

智葉の質問にネリーが無言で肯く。

 

「警察に届けを出したあとどうする? 練習はしていくのか」

 

「うーん……やめとくよ。いいかな?」

 

「まあ……いいだろう。私事もいいところだが、故郷への手紙とあっちゃな。無碍にできん」

 

「ネリーが気にしてるのは五〇万だけどね」

 

「ふっ、そういうのは口に出すんじゃない。ま、お前らしいけどな」

 

会話を終えたネリーが、こちらに――咲の方に歩いてくる。

 

「はー、ついてない」

 

咲やハオや他の日本人部員二人がつく卓に、そのうち咲のところに来て、ネリーが落ち込んだ様子を見せる。

 

「災難だったね……」

 

「ほんとだよ」

 

咲が同情すると、ネリーが肩を落として言う。

 

「これから、警察に……?」

 

「そうなるかな。うーん」

 

「どうしたの?」

 

腕を組んだネリーが唸る。その悩ましそうな様子に咲が尋ねる。

 

「いや……ちゃんと戻ってくるかなって」

 

「……それは」

 

どうなんだろう。咲は、自信を持って答えを言うことができなかった。

 

二〇一〇年代から続く美徳で、日本人は落とし物をしっかり届け出をするので、日本で滞在する間に失せものをした海外の人間はその失せものが思いがけず戻ってきて驚く、といった話を聞いたことはあるけれど。

 

そもそも、盗られたという話だ。盗難では話が変わってくる。

 

「ま、なるようにしかならないよね」

 

言い淀んでいる間に咲の返答にあきらめをつけたのか、ネリーはそう結論づける。

 

「じゃ、とりあえずいってくるね!」

 

そして、行動は早い方がいいとばかりに踵を返して、駆けだそうとする。

 

「ま、待ってネリーちゃん!」

 

「へ?」

 

迷った末、声をかけた咲にネリーが振り向いた。

 

「サキ?」

 

「あ、あの……盗られた手紙って」

 

おずおずと声をかける。咲の中で、もやもやとした気持ちがふくらんでいる。

 

だが、一度意識してしまったら、無視することはできない。

 

「手伝った、あの手紙?」

 

「ああ」

 

尋ねるとネリーはばつの悪そうな顔をした。

 

「うん、その手紙。ごめんね、せっかく手伝ってくれたのに」

 

「あ、ううん。そのことは気にしないで」

 

変なことを気にさせてしまった。言いたいのはそんなことではなかったのに。少しだけ後悔する。

 

「そうじゃなくて……その、警察にいくんだよね。よかったら私もいっていいかな……?」

 

「え?」

 

ネリーの意外そうな顔が目に入る。自分でもおかしなことを頼んでいるな、と思った。でも、言ってしまった以上、言い切ろう。咲は口を開く。

 

「手伝ったから、なのかな。盗られたって聞いたら気になって……」

 

対するネリーはどうしたものかと思案するような様子だ。そして「うーん」と軽く唸ると。

 

「ネリーは構わないけど……練習はどうするの?」

 

今からいくんだよね、とは聞かなかった。今からいくに決まっているから。

 

「え……っと、その間は抜けよう、かな」

 

そう言って、同卓する部員たちをうかがう。日本人部員二人にハオ。勝手なことを、と叱りを受けるのも覚悟してそうすると、日本人部員は「ああ、そう」という感じで、残るハオは、

 

「あ、抜けるの?」

 

と、どこか呆然とした表情で見つめ返してきた。しかしすぐに立ち返ったように表情を戻すと、厚意だろう提案をしてくれる。

 

「なら伝えとこうか?」

 

「いえ、さすがに自分で伝えます。……ネリーちゃん、ちょっとだけいい?」

 

丁重に断り、ネリーに視線を移す。

 

「うん、智葉のとこでしょ? 一緒にいく」

 

そのままネリーと連れたって智葉の元に。

 

咲がネリーに付き添いたい、そのために一時練習を抜けたい、という話。

 

その旨を智葉に伝えると、彼女は顔をしかめた。

 

「心配なんだろうが……それでお前まで練習を抜ける、そう言っているのか宮永?」

 

厳しい視線が飛ぶ。咲はそれを正面から受けて、逸らさなかった。

 

「……はい」

 

「……別にダメとは言わんが」

 

そう言いながら、決して快いとはいえない表情の智葉。その瞳からは、どこか失望した色が読みとれる。

 

「そういったことで麻雀への集中をおろそかにするなら、お前への見方も変えざるを得ない。……いや、個人的な見解だ。気にせずいってこい」

 

淡々と告げられる。さすがに、

気にしないというのは難しい。智葉の私的な見解というのが、咲の理屈でいっても同じ答えを出したから。

 

姉に勝つという目的に向かって邁進する……邁進しようとしている自分にとって、この行動は熱意を中途半端なものにする。

 

自分は本当に、中学で麻雀していた頃と違って、強くなるために全力を注いでいるか。

 

胸の奥から染みだした不安や迷いを振り払って、智葉に頭を下げる。慇懃に。

 

そして待たせていたネリーと合流して並んで練習室の中を歩いていく。

 

多くの視線を感じる。ネリーは言わずもがな、自分も注目されている。中学の三年のことが大きいのか、それとも初日からの智葉に真っ向から対抗しようとする姿勢のせいか、あるいは入部していきなり留学生と同等のような扱いを受けているからか、良くも悪くも関心が寄せられている気がした。

 

でも、それらは枝葉末節だ――――と言い聞かせる。

 

他人の注目、他人の好悪、それらは姉に勝つのに何ら関わりないことだ。間接的に影響するかもしれない程度。間接的な要因にまでいちいちかかずらっていたらきりがない。

 

だから、無視しなければ。無視しないといけない。

 

しかし、しかつめらしい考えをめぐらせればめぐらせるほど――、

 

「……サキ?」

 

思考が打ち切られる。歩いている途中、ネリーから呼びかけられる。

 

「え?」

 

「え、じゃないよ……顔色悪い。だいじょうぶなの」

 

足を止めて、咲の顔をのぞき込みながら心配げにネリーが言う。咲は平静をとり繕った。

 

「なんでもないよ。それより」

 

行く前に卓を囲んでいた人たちに謝らないといけない。智葉から許可を受けていくことが決まった以上、彼女たちには迷惑をかけることになる。

 

「それより?」

 

小首をかしげたネリーにそのことを告げて、一時、彼女の元を離れて同卓者に謝りにいく。他の二人は微妙な反応だったが、ハオは快く送り出してくれた。三人に等しく感謝する。

 

そうしてから、咲はもう一度ネリーと合流し、部室をあとにした。

 

 

 

警察への遺失物捜索願の手続きは滞りなく終わった。

 

近場の警察署に赴いたのだが、高校生の少女二人、とくにネリーは目鼻立ちはともかく服装が日本人離れしているので署内でも好奇の目を向けられることも多く、遺失物に関して手続きする際、担当に出てきた壮年の警察官も「あー、日本語は話しますか? Do you speak English?」と前に出たネリーに多少狼狽していた。

 

余談だが、この警官の『あなたは英語を話せますか?』という英語は正しい英文だ。和訳から考えるとつい『can』を使いたくなってしまうかもしれないが、『Can you speak English?』での『can』はこの場合『能力』の意味を指す。

そのため、人に対してこのように使うと『あなたには英語を話す能力があるか』という英文になり、場合によっては礼を欠いた表現となる。たとえば日本人に対して、母国語である日本語を話す能力があるかと訊くのは問題ないかもしれないが、一方で、外国人に日本語を話す能力があるかと訊くのは若干失礼だ。仕事で日本語を必要としない限り、話せなくても無理はないのだから。

 

だから、観光で日本に来ている外国人に対して日本語が話せるか、英語で尋ねるときは「can」ではなく「do」を使うのがベターだ。

 

閑話休題。ともあれ会話について日本語が堪能なネリーの直接の申し立てにより捜索願はつつがなく受理された。

 

「ええと、それでは現金書留の方は五〇万……」

 

「五〇万一六〇〇円! 一六〇〇円忘れないでよねっ!」

 

そう念押しするネリーが印象的だったが、悪く感じるものは咲の中にない。部室の部員たちではないが、いい意味で妙なおかしさがある。そう思った。

 

「は、はい、承りました」

 

手続きを終えて、署内をあとにする。捜査の進捗についてはインターネットの警察ウェブサイトの検索機能などで確認できるらしい。

 

見つかるのかな。見つかってくれるといいんだけど……目に映った署内で働く人々に咲は望みを託して、ネリーと並んで出入口の自動ドアを潜った。

 

 

 

 

 

 

 

「さーて、帰りますか!」

 

都会の喧騒あふれる街の表通りに出て、燦々とした陽射しにあたためられたアスファルトを踏みしめ、開口一番、ネリーが揚々と切り出す。

 

空は青く澄み、まだ太陽が高く昇る時間帯。

 

警察署の敷地から踏み出して雑踏する街角に身を投げ出せば、繁華街にふさわしい人いきれが出迎える。

 

「ちゃんと受理されてよかったね」

 

慣れない人込みに翻弄されつつも、何とかネリーの隣につけて歩く咲が話す。

 

「ほんとだよ。まともに取り合ってくれなかったらどうしようかと思った」

 

安堵したような表情を浮かべるネリー。機嫌がよさそうだ。

 

しかし一方で、咲は署内で聞いたある事情から顔を曇らせる。

 

「でもネリーちゃん、事件性……怪しい外国の人に突き飛ばされて持ってたもの奪われたって……」

 

「あー、それだ。ほんとついてないよね」

 

「う、うん」

 

ついてない、というか……と咲は思ったが口にするのはやめた。

 

黒ずくめのサングラスをかけた風貌の外国人。

 

ネリーはそんな怪しい風体の人間に横合いから突き飛ばされて、まんまと手紙や現金書留の封筒をかっさらわれてしまったらしい。

 

咲はその話を聞いたとき驚いた。

 

都会ではそんなことあるんだなあ……と長野とは勝手の違う常識に戸惑うばかりだ。

 

「くっそー、あの突き飛ばしたやつ、今度見かけたらギッタギタにしてやるー」

 

「あ、あはは、危ないからやめとこうよ……」

 

不穏なことを言い出すネリーをたしなめる。負けん気の強いところは咲からしてネリーの好ましくも可愛らしいと感じている部分だが、それでネリーがひどい目にあうのは嫌だ。

 

「そういえばサキ?」

 

ふと、話題を変えるように呼びかけられる。

 

「なに?」

 

「えっと、一緒にきてくれてありがとね?」

 

咲の顔を見つめてネリーが言う。咲は面映ゆい気持ちになった。

 

「どういたしまして……っていいたいところだけど、本当に何もしてないよ」

 

「それでも」

 

と、ネリーは強調して言うと、

 

「……なんだかんだ不安だったし、誰かがそばにいてくれてすごく安心して……気が楽だった」

 

しみじみと感じ入るように漏らす。口元にはうっすらとした笑み。はにかむような、いつもの活力を感じさせるそれとは違った、落ちつきのある笑み。

 

「だからありがとねっ」その声と同時に、咲の片腕に重みがかかる。ネリーの両腕がぶらさがるように咲の腕を抱えていた。

 

子犬にじゃれつかれてるみたい。咲は、重りのようなネリーを引きはがそうとしなかった。ネリーも、抱えた咲の腕を離さない。

 

そうしていると、あのお菓子のような甘い芳香とは違う、ネリーの自然な匂いが鼻腔をくすぐる。石鹸のような香りとスキンケアに使っているのだろう乳液のミルクのような香り、それに体臭が合わさった匂いなのだろう。

 

近くにいるのが不快ではなかった。むしろ心地よい、まどろんでしまうような感覚が包む。繁華街を歩きながら、世界が切り離されたような――、

 

「ねえサキ」

 

その感覚を打ち切ったのは他でもないネリーの声だった。

 

「これからちょっと寄るところがあるんだけど……」

 

先ほどまでの元気とは打って変わり、目を伏せて声のトーンを落とす。突然の話。咲は黙って言葉を待つ。

 

そこから、短くない沈黙があった。繁華街を進む足どりは変わらずに、少しずつ臨海女子の校舎へと近づいていく。

 

このまま会話が止まったまま歩き続ければ臨海の校舎に帰ることになるだろう。

 

しかし、

 

「サキも、きてくれる?」

 

ネリーはその誘いをかけた。俯きがちのまま、こちらを一瞥もせずに。

 

練習は――これ以上、抜けるわけにはいかない。その時間にどれだけ力を伸ばせるかどうかも大事だが、それ以前に。

 

矜持のようなものがある。他人の目にどう映るかではなく、自分の中で守り通したい、守らなければならない一線。咲にはそれがある。

 

ネリーのこの誘いを受けることは、それにまたひとつ、ひびを入れてしまう。

 

だから考えて、答えを出すのなら断るという結論以外にあり得ない。そのはずだ。

 

なのに。

 

「わかった。どこにいくの?」

 

私は――――馬鹿だ。

 

俯きがちだったネリーがばっと顔を上げて、透き通った青い瞳で見つめてくる。その瞳がうれしげな色味を帯びている。そうわかった瞬間、どうしようもなく胸が弾んだのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

未知との遭遇はいつだって緊張の連続だ。少なくとも、咲にとってはそう。

 

「よろしくしゃーす、捜索班のカズっていいます」

 

見るからに街の若者といった風体の少年が頭を下げてあいさつする。

 

頭を下げるといっても申し訳程度のもので、会釈といったほうがいいかもしれない。

 

繁華街の外れにある河川敷の広々とした敷地の中で、六人の男女が顔を突き合わせる。

 

その中にはネリーや咲もいて、咲からすれば都合四人が見も知らぬ人物となる。

 

「んじゃあ、大体紹介も終わったと思うんでぇー、次そっちいいすか?」

 

男子にしては長めの髪をオールバックにして、カチューシャで留めた青年が、こちらを向いて尋ねてくる。

 

金髪に染まった髪。シルバー系のアクセサリーをジャラジャラとつけて、いわゆるストリートスタイル。

 

カモ柄や迷彩柄のショーツやボトムス、マウンテンパーカー、中にはサングラスをかけたものがいたり、渋谷や原宿の街にいそうな顔ぶれだ。

 

そして、あまりに馴染みのない人たちを前にして咲は委縮して固まっている。

 

「……あのぉ~?」

 

「……呼ばれてる」

 

「えっ……私、ですか?」

 

ネリーに促されて咲が戸惑いながらも声をあげると、どうしてか、ぐるりと円になって囲む青年たちから流暢な口笛や拍手が飛び出す。

 

「いいね~初々しい感じ」

 

「なんかオジョウサマっぽい」

 

「俺らの付き合いだとあんま見ないタイプだよな」

 

言われている意味がいまいち頭に入ってこず、ますます混乱が深まっていく。

 

どうしよう、どうしたら、そんな言葉が先ほどから延々と頭の中で回っている。

 

そもそも、この人たちは何者なんだろう。そんなところから理解が追いついていない。

 

たしか……ネリーちゃんに連れられて、寄るところがあるって……それでこの河川敷にきたらこの人たちがいて……。

 

……意味がわからない!

 

「あの、この人たちは……?」

 

尋ねると、こちらを見返したネリーが難しい顔をして躊躇いがちに口を開く。

 

「えーと、お金で雇った失せもの探しバイトの人たち」

 

「バイト!」

 

咲が何か返すよりも早く、青年たちの一人が声を張った。

 

「バイトだってよ」

 

「はは、今まで知らなかったわ」

 

「まー言われてみればバイトだよな」

 

次々とやりとりが交わされ、さざめくような笑いが広がる。咲は目を白黒とさせながら、自分が今着ている――先ほどこの河川敷に来る前着替えたカジュアルな衣服の裾を意味もなく直したりして気をまぎらわせようとする。

 

お金で雇った失せもの探しバイト。それは、いったいどういうことなのだろう。表に出ていないが咲の混乱はかなりのものになっている。

 

「とりあえずさー、そっちの子、名前何?」

 

金髪をオールバックにした青年が軽い調子で尋ねてくる。

 

――これから会う人に本名、言わないで。ネリーを呼ぶときも偽名使って。

 

今は日本風のファッションに身を包み、いつもの日本人離れした特徴がいくらか和らいでいるネリーから、ここに来る前に繰り返し言われた言葉を思いだす。

 

「み、宮川……です」

 

み、と言いかけた元の宮永に、目の前に見える川の字で変えただけ。我ながら安易な名前だと思いながらも、即興で思いついた名前を告げる。

 

「へえ、宮川」

 

「なんかこの子ってさ、どっかで見たことあるよな」

 

「えー、どっかのモデルに似てるとかだろ?」

 

口々に反応が返される。見たことがある、という言葉にどきっとしたが、後のやりとりをみるに思いつき程度のあやふやな意見のようだ。咲はほっと胸を撫でおろす。

 

そしてあらためて、ネリーの方を見やる。するとネリーはいたたまれなさそうに表情を陰らせ、ぽつりと漏らした。

 

「あの……ごめんねミヤガワ、付き合わせちゃって」

 

なんと返すべきだろう。この場で話すのは二人きりの時とは勝手が違う。答えあぐねて、ただネリーと目を合わせる咲の傍ら、真っ先に反応したのはよく知らない人たちの一人だった。

 

「んん? なんかワケアリな感じ?」

 

金髪をオールバックにした人だ。彼は他の仲間らしき人たちと顔を見合わせて首を捻る。

 

「……ミヤガワにはムリを言ってついてきてもらったの。わたしと同じで、プライベートを詮索するのはタブー」

 

そんな彼らに向かって、ネリーは真剣な顔をして釘を差すように言う。ふざけているときくらいにしか変わらない一人称が変化していて、素性は隠したい考えをうかがわせた。

 

「わーかってますよぉ~! そういうのは最初にきっちりきっかり織り込み済みなんで! 心配はご無用っすよぉ」

 

対する彼らは、軽薄そうな口調だが基本的な考えや認識は一致しているのか、金髪の彼に賛同するような素振り――何度か肯いたり――を見せる。

 

咲はそんな彼らをそれとなく注意して眺めながら、一歩、ネリーのそばに寄る。

 

男性に対する特別な恐怖があったりするわけではない。ただ、どうしても拭えない一抹の不安が胸に残った。

 

気のせいだろうか。むやみに人を疑うのはよくない。男性との付き合いの希薄さ故にやはり猜疑したり警戒する心が強くなっているのかな。

 

そんなことを考えていると。

 

「あっ、それで、紹介がおわったとこで本題に入りたいんすけど」

 

思い出したように金髪の人がそう切り出して、マウンテンパーカーの懐から何か紙束のようなものを取り出した。

 

「潜り込んでいろいろ探ってみたんすけど、ダメっすね。今んとこ手がかりらしいもんは見つからないっすわ」

 

取り出されたのは、果たして紙の束だった。A4サイズほどの紙。

 

金髪の彼は、紙束を差しだすように突き出しながらネリーに歩み寄っていく。渡すつもりなのだろう。実際、目の前まで来て止まった彼の手からネリーの手に渡った。

 

「ふうん……望み薄か」

 

書面に目を落としながら、ネリーがつぶやく。少し冷めた感じだ。読むのに集中しているからだろうか。

今どういったやりとりをしているのか咲にはよくわからないが、今まで得た情報を統合してみるに、失せもの探しに関係する書類か何かをやりとりしているのだろう。イメージは探偵が調査依頼者に渡す書類だ。

 

「あっ、これはね、街の構造に詳しいこの人たちに探偵みたいなことしてもらってるの」

 

そこで、ネリーがふとこちらを向いて、説明を加える。いつもの親しげな口調だ。

 

「探偵……?」

 

「もちろん推理小説に出てくるようなのじゃなくてね」

 

「そう、なんだ?」

 

咲の頭に浮かんだミステリー作品の数々に登場する事件の呼び水みたいな人たちのイメージは即座に棄却された。ひと安心。

 

とりあえずわかるのは、自分に出番、というか力になるのは難しそうだということ。

 

(占いすれば役に立つかもしれないけど……)

 

占断する対象がわからないと厳しい。対象を具体的に絞ると自分ができるような占いは精度が増すように思うから対象をはっきりさせたい。

 

(でも、これは……)

 

ただ占いについて明かすことが躊躇われる。協力を惜しむ、つもりはないのだが、これについては家族以外に詳しく明かさない方がいい、という古い言いつけがある。その言いつけの内実は、元々は柔らかく諭す程度のものだったが、今となっては咲にとってその言いつけは絶対で、より厳しい意味合いに捉えられていた。

 

咲はその場で考え込む。

 

「うーん……」

 

でも、どうにかして力になりたい。まず、探偵稼業的な失せもの探しであれば必然的に力を発揮できる場も限られていて、そして自分はといえば身体能力はへなちょこだし、姉のように頭脳が明晰というわけでもないし……。

 

――ただでさえ、手紙の手伝い、とくに作法の事なんかじゃちゃんと力になれなかったし。

 

「どうしたのミヤガワ?」

 

「え?」

 

地理に明るくもなければ物探しのノウハウもないし、とも思ったところで、ネリーから声をかけられて顔を上げる。

 

我に返って周りをみてみると、男の人たちの視線も集中している。

 

「……すっごい悩んでたみたいだけど、何かあった?」

 

なんだか恥ずかしくなった。顔が赤くなっているかもしれない。

 

「あはは……ええと何か手伝えそうなことあるかなって」

 

ごまかすように笑って、その場をとり繕う。

 

きちんと成功していたかは定かではないが、

 

「……ミヤガワには、ついてきてもらっただけだから。できないことはしなくていいし、しようとしなくていいよ」

 

ネリーはよそを向いて思案げに、申し出には興味なさそうに言った。

 

いつもより素っ気ないような。少し寂しい。ただ、余計な事をして台なしにしたらいけないのはわかる。自分が頼まれたのはついてくることだけなのだ。

 

咲も気に病むような素振りは見せずに、

 

「そうだね。大人しくしてる」

 

頭の中からひっぱりだしてきたクールな受け答えで会話をしめて、そっとその場に溶け込んでみる。気分としては熱心な黒子。

 

――でもやっぱり、何かできないかなぁ……。

 

未練がましい本音は怜悧を意識した貌の下に押し込んで、やりとりの行方を見守る。基本的にネリーのことを注視する。

 

視界にあまり映らない金髪の青年や他の人たち、彼らの注目がこちらを向いていたような気もしたが、金髪の青年は話題を切り出す意思を示すように軽く咳払いすると、

 

「そんで、今日新しく伝えてもらった件なんすけどね」

 

ネリーを見て話を始めた。

 

「サングラスかけた黒ずくめの外人……でしたっけ。人探しになってくるとまた勝手が違うんすよね」

 

どきっとする。今日、それもついさっき遭った被害の話ではないだろうか。

 

「落とし物……失せもの? の方は質屋なんかで換金されたルート洗ったり、名の知れたコレクターとか、めぼしい人らから誰がどんなものを持ってるか、最近何を手に入れたか、とか聞き出したりってのが今俺らがしてることなんすけど」

 

「人探しは……グループの中で得意とする奴らが他にいるんで、そっち頼んだ方がいいかもしれないっすね」

 

彼の説明と助言にネリーが答える。

 

「紹介してもらえるの?」

 

「もちろん。身内紹介するだけなんでタダでだいじょぶっすよ」

 

「あははっ、いいね。タダは好きだな」

 

ネリーと金髪の青年、お互い陽気に話して話が弾んでいる。しかつめらしさ、辛気臭さなどはなく、気心の知れた友人同士が雑談するような雰囲気。

 

「そんじゃ、報告はこんなとこで」

 

そして金髪の青年は時分を確認するように空を仰ぐと、

 

「日暮れまでまだあるし、昼間にできることをやってきますんでぇ~」

 

ネリーに視線を戻して、報告の時より砕けた話し方でそう口にした。

 

「わかった。それじゃこっちも帰るかな」

 

「あっ、最後に一ついいすかエルティさん」

 

ここで初めて、ネリーの偽名が彼らの口から飛び出る。事前に聞かされていたからそうとわかったが、でなければ馴染みがなくてわからない。

 

「……うん?」

 

「そっちの……宮川サン? だっけ。その子、今日になって連れてきたのは何か意味が?」

 

話題の矛先が急に向いてびっくりした。報告の時に戻ったような真剣味のある表情で、金髪の青年が慎重そうに問いかける。仲間らしき他の三人は静観している。

 

「うーん、別に。けっこうなかよしだからね。たまたま一緒に来る機会があったんだ」

 

ネリーは、あまり考える様子を見せずに言う。あらかじめ考えを決めていたようにそつがない。

 

「エルティさんが誘ったんすか?」

 

「この子から。この子心配性なの!」

 

屈託なさそうな笑顔でネリーが明かす。でも話が違った。誘ったのはネリーだったはず。

 

「へええ~、親切な子っすねぇ」

 

感心したとばかりに金髪の青年が目を丸くして返す。

 

「ふーん、腹が黒いってわけじゃねーのか」

 

「おいおい、腹が黒い方がいいみたいな言い草になってる。あと失礼な」

 

見ていたうちの男二人がこちらを見ずに話をする。後の一人は見向きもせず黙っている。

 

「うん、じゃあ~それだけ聞かせてもらったら満足なんで! 今の、プライベートの詮索になってなかったすかね?」

 

「これくらいなら。基準はこっちが決めるけど」

 

「なるほど」

 

「もういいの?」

 

「オッケーっす。いや、すんませんね」

 

ネリーが気にするなと伝えるようにひらひらと手を振って言葉を返すのをやめる。会話をやめる意思表示みたいなものだろう。

 

それから、金髪の青年を含めた男たちは残るネリーと咲にそれぞれ会釈などをして河川敷の斜面を登っていった。

 

あとには二人が残る。

 

「じゃ、帰ろっか!」

 

「うん」

 

咲は迷いなく応えた。

 

 

帰り道、ネリーが言った。

 

「めんどうなことさせてごめんね」

 

「気にしないで。必要なことなんだよね」

 

電車の座席で横に腰かけたネリーに顔を向けて返す。

 

地下鉄を乗り継いでやたらと遠回りしながら二人で帰路についていた。気分は迂回している感じ。

 

「……えっとね、どこに住んでるかとか、あの人たちにしられたくないから」

 

数秒ほど逡巡した素振りの末にネリーが話す。

 

「そうなんだ。たしかにあんまりしられちゃうのは恐いね」

 

「おっ、一応用心するって考えはあるんだ」

 

「馬鹿にしてる?」

 

いかにもからかう感じにいやらしく笑ったネリーにくすっと返す。

 

夕暮れ時の地下鉄は沢山の乗客を乗せていた。女性専用車両に乗れたので混雑ぶりを味わわずに済んでいる。二人そろって、シートの上だ。

 

部活は……もうだめだろう。学校に帰って着替えたら顔を出しておきたいが。

 

「ふー、結局最後まで付き合わせちゃってごめんね」

 

「最後?」

 

「んー」

 

ネリーが唸り声を上げる。言葉を選んでいるのだろうか。

 

「時間、もうおわりがけだし」

 

「……しょうがない」

 

消化しきれないもやもやは残る。ただ、注意を促すネリーの指示を無視するわけにもいかない。ネリーにも考えがあるはずで、むしろこちらを思いやってくれたようにも思う。

 

日の高い時間から、河川敷の事があって、今の夕暮れ時になるまで街の表を回ったり時間を潰した。その間に、コインロッカーに入れてあった臨海の制服を回収したりもした。

 

尾行か何かを警戒するようだ。そんな印象を意識の片隅に持ちながら話す。

 

「気分転換になったから」

 

「かえって能率があがるかもしれない?」

 

言葉の先を予期したような返し。無言で首肯する。

 

それからネリーに誘導されるまま地下鉄を降り、学校に戻る。

 

部活はもう終わりかかっていて、ネリーと共に入っていくと、

 

「遅い」

 

こちらに向けたのだろう、智葉から言葉少なに叱られる。大半の部員からもいい目では見られない。特別扱いを受けている身で熱心に取り組まないのだから不愉快に感じられても文句なんて言えない。少なくとも、選んで臨海に来たのだからその視線を受け入れるのが当たり前だと思った。

 

 

部活後、マンションにネリーと一緒に帰りそれぞれの部屋の前で別れる。今日は上がっていかないようだ。そういった話も聞いていない。

 

生活上の雑事を簡単に済ませて今日の分の勉強を終わらせる。

 

報告するよう言われていた勉強の進捗を伝えるため、母に電話する。

 

報告のついでに今日あったことをかいつまんで話そうと思った。ネリーの事情には極力触れないように、人に付き添って部活を抜けてしまったというような言い方で簡潔に伝えよう。

 

寝室のベッドに腰かけながら、呼び出し音の鳴る端末を耳に当てて、待っている間ぼうっと虚空に視線を浮かべていると、まもなくして通話が繋がったので手短に話す。立場からしても忙しいというのは織り込み済みだから、余分な話は削ることにした。

 

しかし進捗の報告――合わせて、疑問に思ったところを打ち明ける――が淡々と終わり、

 

「あと……あっ」

 

いざ話そうかというところで問題が浮上した。

 

「どうしたの?」

 

「えっと、話があったんだけどちょっと問題があって」

 

ネリーのプライベートに関することをおいそれと口にできない。それは当然だが、『人に付き添って部活を抜けた』と言っても付き添った相手は一人しかいない。なら厳密に言えば間接的に明かしているようなものではないだろうか。

 

単に『部活を抜けた』といっても『なぜ?』という話になる。そうすると母の手前、娘の自分が理由も言わないわけにもいかない。母は出資者を束ねるような立場なのだ。

 

「……構わない。誰にも話すな、ということなら話さない。言ってみて」

 

「あ、うん……」

 

言い淀む。ネリーにも話していいか確認していないのだ。約束するような母の言葉は無条件に信じているが、とはいえ、それで確認もせず話していいことにはならない。

 

「……どうしたの?」

 

「うん……その、ごめんね。話していいかわからないから、また今度でいい?」

 

明日、ネリーに話してもいいか確認しよう。今からは……気が引ける。一日街を回ったりして疲れてるだろうし。

 

返事をすると、暫く沈黙があった。

 

「……わかった。言葉が少し抜けているように思うけど、大体の意味は汲みとれた。後日、話せるときに説明してくれればいい」

 

「ありがとう。また電話しても大丈夫?」

 

「時間は空けておく」

 

通話が切れた。

 

「……ふう」

 

耳から端末を離してベッドに寝転がる。やっぱり、緊張を強いられる。

 

「お風呂入ろっと」

 

入浴して、いつも通りの時間に就寝しようとする。

 

「あっ、きなこモチ」

 

直前、一人では食べきるのに苦労するほどの貰い物の存在がふと思い浮かぶ。

 

眠る前に食べるのは抵抗がないでもないが、合った弁当を作るのはなかなか骨が折れそうだし、ダンボールに大量の在庫があるので腐らせたりする前に食べよう。

 

思い立ち、目当てのものをとってきてリビングのダイニングテーブルに用意する。そして食べ進めていく。

 

「けっこうおいしい……」

 

今度、ネリーにも勧めてみようか。一緒に食べられたらもっと美味しくなりそうだ。

 

ーーただ。

 

「っ、ごほっ、ごっほ!」

 

よくむせる。むせずに食べるコツを掴むのはなかなか難しそうだった。

 

 

○▼

 

 

わたしの名前は宮永咲。小学四年生の女の子です。

 

わたしには夢があります。それは、みんなが悲しまないようにすることです。

 

 

 

 

 

 

 

長野で暮らしている家から飛び出して、電車を乗り継いで、乗り継いで、乗り継いで、駅員さんに呼び止められそうになって、逃げて、乗り継いで、わたしは東京の街にやってきました。

 

東京の街は喧騒に包まれています。たくさんの人で、あふれかえっています。

 

わたしは人がたくさんいる通りを歩いて人とぶつからないよう苦戦しながら、この街にきた理由を考えます。

 

おねえちゃんと、仲直りがしたい。

 

『私にはもう、咲のことがわからない』

 

そう言って、おねえちゃんはわたしの元を去ってしまった。

 

麻雀。プラマイゼロ。

 

わたしはやってはならないことを、大好きなおねえちゃんに、してしまった。

 

それだけはやってはならなかったんだと思う。

 

けど、わからない。麻雀は点数を競うゲームだから、勝っても負けてもいないようにすれば落ち込まないですむのに。悲しまなくてもいいのに。

 

なんで、おねえちゃんは怒ってしまったんだろう。

 

なんで、おねえちゃんは泣きそうな顔をしたんだろう。

 

わたしには……わからない。

 

入り組んだ道には入らないよう注意しながら歩いていると、やがて景色が変わります。

 

同じ表通りでも、ここは違ってみえます。

 

たくさん、たくさん人がいて、にぎやかな雰囲気は変わらないように思いますが、いる人が違ってみえます。

 

なんだか違う宝石みたいです。この街はたくさんの宝石が詰まった宝石箱です。

 

違ってみえる人たちの顔を通りすがる際、ちらりと覗きます。あまり気をとられていてはいけないので、ちょっとだけにしておきます。

 

おねえちゃんの家にいかなければなりません。おねえちゃんに会いにいかなければなりません。

 

あまり時間をかけていたら連れ戻されてしまうかもしれません。お父さんはお母さんよりわたしを見つけるのが下手ですが、お母さんに連絡されたらきっとすぐに見つかってしまいます。いや、お母さんに会えたらおねえちゃんにも会えるかもしれないけど、会わせてもらえないかもしれないのでやっぱり自分で会いにいきます。

 

いっぱい歩きました。いっぱい景色が変わりました。

 

おねえちゃんの家が見えてきました。ここがおねえちゃんの家だということは知っています。

 

呼び鈴を鳴らします。まだ日が高くて学校にいくような時間だけど、日曜日だから家にいたら会えます。

 

実は、家にいることは知っています。来る前にあらかじめ占いをしました。

 

お母さんがいないことも知っています。わたしがこの家に着いたとき、おねえちゃんはこの家にひとりでいると決まっているのです。

 

会える瞬間を心待ちにしながら待っていると、玄関についたインターフォンの向こうからくぐもった声が聞こえてきました。

 

「……咲、なの?」

 

インターフォンの向こうについているモニターか何かで察したのでしょう。カメラがついていそうなところに顔を近づけてみます。

 

「みえるかな? わたしだよ」

 

「本当に、咲?」

 

「わたしはずっとわたしだよ?」

 

考え込むような沈黙がありました。少し、不安になります。わたしは本当のことしか言っていないつもりです。

 

それから……考えるのが、億劫になったので結果だけ伝えます。おねえちゃんはわたしに会ってくれませんでした。お母さんを呼ぶから、そこで待っていてと言われました。

 

どうして、会ってもくれないの。

 

わたしはその場から逃げ出しました。こんなことならおねえちゃんがわたしと会ってくれるという未来が出るまで、占っておけばよかった。

 

逃げて、逃げて、逃げて、ろくすっぽ周囲も見ていられず街を駆け抜けていく。その間に景色はめまぐるしく変わります。

 

どのくらい走ったでしょう。息切れするほど走りましたが、元々体力に自信がありません。気分とは裏腹に大した距離は移動していなさそうだと思いながら、歩道の隅に立って息を整えます。苦しい。

 

涙がこぼれてきます。頬に涙が伝って、熱を持ったように顔が熱い。鼻がつんとする。

 

情けない泣き顔を周りにみせたくなくて、頭を低くして腕で隠そうとするけど、それでも道ゆく人から視線を感じて、嫌な気持ちになる……せめて泣き声はあげません。みっともないのはだめです。直さないと……。

 

でも、しゃくりあげるような声はどうしても漏れる。頭の中に焦りが募っていきます。同時に、悲しくてたまりませんでした。

 

どうして、会ってもくれないんだろう。この前、電話してきてくれて、いっぱい、いっぱい話して、大切なことを教えてくれたのに。

 

心配してくれてるんだと思った。だから、会いにいけばきっと会ってくれるって、そう思ってたのに。

 

その場に崩れ落ちて、わんわんと泣き出したくなります。でも、きゅっと唇を噛みしめて、これ以上涙を流そうとするのをこらえました。

 

わたしはつよくならないといけません。そうしないと、親族の人たちにも笑われてしまいます。ばかにされるのもつらいけど、そのせいで家族までばかにされるのは許せません。

 

――ちゃんはもういなくて、でも――ちゃんは言っていました。家族に手を伸ばすことをあきらめないで。その言葉がわたしの支えです。

 

「あの、どうして泣いてるんですか?」

 

その時、不意に声がかかりました。

 

「え?」

 

わたしは伏せていた顔をあげました。

 

「病院の前でそんな泣いていたら気になります……どこか、けがをしているんですか?」

 

そこには、白い女の子がいました。

 

白いワンピースを着た女の子がいました。

 

真っ白な病院を背にした女の子が心配そうに顔を曇らせます。

 

「ううん……あっ、いいえ……どこも、けがはしてません」

 

言葉遣いを間違えかけて、慌てて口調を変えます。

 

泣いていたせいでうまく舌が回ってくれなくて、途切れ途切れになってしまいましたが、女の子は気にする様子もなくうっすら笑うと、

 

「そうでしたか……なら、ひとまずよかった」

 

安心したようにそんなことを言います。

 

その姿をまじまじと眺めていると、

 

「その本……」

 

左のたなごころに握られた一冊の本に目が止まります。

 

「ああ、麻雀の本ですよ」

 

「麻雀、しているんですか?」

 

「ええ、つい最近はじめたばかりですが」

 

「へええ……」

 

「もしかして、あなたも?」

 

麻雀しているかということでしょうか。麻雀。今は、ちょっと複雑な気持ちになります。

 

だけどこの子には関係のない話でした。わたしは、顔に残った涙をごしごしと腕で拭くと、正直に答えます。

 

「うん……はい、家族としかやったことありませんけど」

 

「そうでしたか!」

 

すると女の子はうれしそうに笑みを浮かべました。そして、

 

「よかったらこれから一緒にやりませんか?」

 

そんな誘いを持ちかけてきます。

 

その頃には泣きたい衝動もいくらか治まってきていて、鼻にかかった涙声も、女の子との話に集中することでだいぶとましになってきていました。

 

「ぐすっ、いいですけど……勝っても怒らない、ですか?」

 

「当たり前です! 勝つか負けるかわからないのが麻雀……いえ、勝負というものですから」

 

女の子のいうことはよくわからなかったけど、勝っても怒らない、その言葉にちょっとだけ安心します。

 

「なら……やりたい、です」

 

「じゃあ、そこの病院でやりましょう!」

 

おずおずとしながら受け入れると、女の子は嬉々として言ってわたしの手をひっぱって導きます。

 

その先は真っ白な病院。わたしは、これからの期待と不安に胸をふくらませながら女の子に連れられてその病院へと入っていきました。

 

○▼

 

朝陽の光りがカーテン越しに漏れる寝室で、咲は目を覚ます。

 

「ううん、……朝?」

 

倦怠感のある身体をのそりと起こし、ベッドの先端に目を向ける。

 

頭に棚のついた宮つきベッド。

 

棚の上に乗った時計をみて時間を確認する。

 

いつもと変わらない時間だ。安心する。

 

起き上がって、身支度を始めた。

 

 

 

 

「おっはよーサキ。今日もいい天気だね」

 

身支度を終えて、登校するためにいつも通りネリーと合流する。

 

「おはよう。うん、いい天気」

 

朗らかに返す。顔を合わせ、互いの部屋の前で会話する。

 

ネリーの服は民族衣装めいたあの衣服だ。自分は、白を基調としてリボンなどに赤の入ったセーラー服。

 

「ふああ……」

 

何とはなしにネリーの格好を眺めていると、手で抑えて噛み殺した欠伸を彼女が漏らす。

 

「眠いの?」

 

「ううん……」

 

肯定とも否定ともとれる声が返ってくる。眠そうだ。

 

「……ん、だいじょうぶ。いこうか」

 

少し心配だが、学校に行って部室に着けば眠ることもできるだろう。

うなずきで返して一緒に学校へと向かった。

 

 

 

 

「ねえ」

 

通学するために乗った電車の車内。専用車両の座席で隣に座ったネリーから声をかけられて振り向く。

 

「うん?」

 

広げていた文庫本を脇に下げて言う。

 

「きのうのこと、誰かに話した?」

 

「あ、ううん。話しそうになったんだけど、話していいか聞いてなかったなって」

 

いくぶん緊張味を帯びたネリーの問いかけに答える。

 

「……そっか」

 

するとネリーはよかった、と安堵するような感じで返す。こちらも、一応用件だけ伝えよう。

 

「ちょうど聞こうと思ってたんだけど、話しても大丈夫?」

 

「ん……」

 

尋ねるとネリーは虚空に視線を滑らせた。熟考するような素振りだ。

 

「……ねえ。誰にも話さないでって言ったら、そうしてくれる?」

 

少しして、こちらの反応をうかがうようにしながら尋ねてくる。

 

「ん、……構わないけど」

 

誰にもというのはやはり家族も含むだろう。ということは……母にも、打ち明けられなくなる。

 

「家族なんかにも?」

 

「うん。ネリーちゃんが、そうしてほしいなら」

 

できるだけ自然に返す。事情はどうあれ家族にも隠し事めいたものを意識して抱える。あの頃のように。内心、反発する思いは小さくなかったが、こうもしおらしくネリーに頼まれれば聞き入れてもあげたくなる。

 

この選択は、正しいのだろうか。けれど――、

 

「……そっか! あの、ほんとにありがとね?」

 

隣に座った彼女から、心なしか潤んだような青い瞳で見上げられてうれしさが込みあげる。現金、なのだろうか。我ながら感情に振り回されている。俯瞰してそんな自分を眺めると奇妙でもある。

 

咲は、無言ながら柔らかな肯きで応えた。喜んでもらえたようだということが胸にぽっと灯りをともす。車窓から射し込む春の陽射しにも似たあたたかな心地だった。

 

 

 

 

 

 

放課後、部活の時間。それまでは授業を受けて、お昼はネリーと過ごして、入学してから短い日数の間での変わらない過ごし方だった。

 

念のためネリーに付き添ってもらって部室に向かう。適当に歓談しながら歩いていたら部室にはまもなくして到着した。

 

他の部員も続々と入っていくからか開いたままの入口の扉を潜って、ネリーと並び中へと入っていく。

 

中では、多くの部員が思い思いに歩き回っていたり、話していたりといった平穏な光景が広がっていた。そんな光景を目に、

 

「サキ、今日はネリーとペアね!」

 

決定事項であるかのように告げるネリーに「うん、組もうか」と微笑んで返す。

 

「よし、がんばろー」

 

すると独特の衣服のだぶついた袖に隠れた手を突き上げて、意気揚々とネリーが言う。

 

部活の時間の始まりだった。

 

 

 

 

 

 

日本人部員二人と共にネリーと卓に座って、準備の整った対局に臨もうとしていたときのことだった。

 

「グーテンモルゲン」

 

陽気にそんなあいさつをしつつダヴァンが入口の扉から入ってくる。

 

「遅刻だぞ」

 

「申し訳ナイ。カップ麺が切れたので至急補充にいってまシタ」

 

間髪入れず苦言を呈した智葉に向け、手に持ったレジ袋を軽く掲げて示す。

 

「連絡受けてたからわかるが、お前は一日何杯食えば気が済むんだよ……太るぞ」

 

ダヴァンは、智葉の忠告にもどこ吹く風といった様子でラーメンは別腹、などとのたまって割り当てられた卓に向かっていく。その先には、ペアの相手としてハオが待っている。

 

「グーテンモルゲン……」

 

そのハオは、昨日同様珍妙なあいさつをしたダヴァンに胡乱な目を向けて呟く。

 

「今日はドイツの気分デス」

 

「じゃあドイツ語言ってみてください」

 

「アイネクライネナハトムジーク」

 

「他は?」と訊かれるとダヴァンは鼻歌交じりに質問を無視して席につく。ボキャブラリーは一瞬で尽きたようだ。

 

「はー、変わんないね。あいつも」

 

そんなやりとりを咲と共に傍観していたネリーが憮然として言う。

 

「ダヴァンさんらしい、のかな」

 

咲も入部してから度々目にしてきた剽軽ぶり。愉快な人だと思う。

 

「まあいいや。対局始めよっか」

 

他の日本人部員共々、咲が呼応して肯きを返す。そして、対局が始まった。

 

 

 

 

 

 

「やったー、ネリーの勝ちだね!」

 

暫くして。半荘が終わって勝敗が決する。

 

持ち点二万五千点の三万点返し、ハコ下なしのルールでネリーが一位、咲が二位、そして日本人部員二人が続く結果となった。

 

「負けちゃった。おめでとう、ネリーちゃん」

 

「ふふん、苦しゅうない」

 

時代劇めいた言葉遣いでふんぞり返るネリーに、咲は微笑みを浮かべる。

 

「ネリーちゃんって本当に強いよね」

 

そして、本心からの言葉を口にする。

 

ネリーとは会ったばかりだし、能力の全容もまだわからないが、凄まじい強さを誇るように思う。現時点の印象で今までに咲が会った人の中でも上から数えた方が絶対に早い。もしかしたら、海千山千の留学生の中でも一際高い実力を持っているのではないか。咲はそう思うのだ。

 

「サキもいい線いってると思うよ。同じ歳でこれだけデキる子はそういないし」

 

そう言ってもらえると、咲もうれしくなる。他の留学生や智葉の本気がどれほどか察しかねるが、少なくともネリーには実力で及んでいない気がする。それだけ強い相手と毎日のように打てるのはきっと恵まれた環境なんだと思う。だから、もっと力を伸ばしたい。この打ち方で、もっと、もっと。

 

その日は、時間の許す限りネリーをはじめ色んな相手との対局を重ね、充実した練習を積めたように感じた。

 

 

 

 

部活が終わったばかりの部内は少し騒然としている。

 

皆が帰り支度をしたのち帰宅を始めていくなか、咲も帰り支度を済ませ、けれどすぐには帰らずに人を待っていた。

 

ネリーと一緒に帰るつもりだ。彼女は、留学生だけで集まるミーティングに参加している。だから、鞄を持って部室の隅っこで立っている。

 

もうすぐ来るかな、いやまだ時間かかるかな、とそわそわしながら待っていると、

 

「おーい」

 

肩に何か触れるものがあった。ちょんちょんと誰かに肩を叩かれているみたいな。同時に、すぐ近くで呼ぶような声。

 

なんだろう。振り向いてみると、そこには見知った人の顔があった。

 

「あっ……」

 

振り向いた先に立っていたその人は、中学時代の先輩だった。一学年上で同じ学校。そして、部内にいることは一応知ってはいた人でもある。彼女は、振り向いたこちらに手のひらを軽く上げて、

 

「や、覚えとる?」

 

と、親しげに話しかけてくる。

 

「は、はい……ご無沙汰してます」

 

「ははは、ここ最近は顔合わせとったやん。喋ったりはせーへんかったけど」

 

それもそうだ。現在は臨海の二年生である彼女とは、部内で顔を合わせることもある。今だってそうだ。

 

緊張にいつもよりさらに口調が硬くなるのを感じながら、朗らかに笑いかけてくる彼女を緊張の面持ちで見つめる。

 

「やー、同じ学校になるなんてなー、はじめて見たとき驚いたで?」

 

「私も……驚きました。東京の学校にいってたんですね」

 

中学の卒業後は関西に帰るような話を小耳に挟んでいた。

 

「ふむう、うちも関西に帰ろうかと思たんやけどな、いっぺん東京で暮らしてみんのも面白いかと思てな?」

 

「は、はあ……」

 

「宮永さんもそんな感じ? ってその反応からすると別っぽいな」

 

陽気におどけるような調子で話しかけてくる彼女に咲がたじたじしていると、

 

「あ、知っとる? 部長は長野いったんやってね」

 

「部長……」

 

「ああ、宮永さんが一年で、うちが二年やったときの部長な? ってか部長は地元なんやから、いったってのはおかしいか」

 

長野の高校に進学したんやってね、と彼女は言い直す。

 

「風越……やっけ。ほら、名門の」

 

風越女子。咲も、名前くらいは聞いたことがある有名な高校だ。

 

「風越……」

 

意外そうでもなくトーンを下げて呟く。一応知ってはいる。風越ほどの名門でも見劣りしない実力がある人だと知っているから、肯ける選択だとも思う。

 

ただ、長野に関係する話には苦々しいものを禁じ得なかった。それを絶対に表に出したりしないよう注意しつつ、この話題を流すことに努める。

 

中学の先輩はすぐに話を変えてくれた。おそらく、避けようとしているのに気づいている。

 

それすらも気づかせずに、知らせずに、話題を変えられる力があれば、と身勝手な願いを抱きながら先輩との話を当たり障りなく進めていく。

 

やがて、会話も熟してきた頃、

 

「おわったー!」

 

奥の扉から元気一杯のネリーが飛び出してくるのが目に入り、どきっとした。

 

「お、お戻りのようやな。そんじゃ宮永さん、お出迎えご苦労さん」

 

同じく見ていた先輩は、解放感からかはしゃいだ様子のネリーから目線を切って、咲に微笑みかけながら伝える。

 

「あ……お疲れさまです」

 

「ふふ、ごゆっくり?」

 

茶化すようにニヤニヤしながら言って、先輩はその場から静かに出口へと去っていった。

 

その後ろ姿がなんとなく気になって暫く追ったのち、なんとなく首をかしげて、そのまま沈思する。

 

「サーキ! 何してるの?」

 

「わひゃっ」

 

考え事に夢中になっていると、いきなり肩にのしかかるような力が後方からかけられて、あられもない声をあげる。それを自覚した瞬間、少し血の気が引いた。

 

慌てて後ろを向く。そこには、留学生が四人揃っていた。

 

「あれ、驚かせちゃった?」

 

のしかかって、すぐに離れていたのだろう、目の前にいるネリーが目を瞬かせる。

 

「ネリー、あれは突然すぎるよ」

 

「サキを驚かせてはいけまセン」

 

ネリーの後ろから歩いてきたハオとダヴァンがそれぞれ苦言を呈するように言う。

 

「む……たしかに、突然すぎたね」

 

するとネリーは悪びれたようにしかめっ面をした。

 

咲はすぐにフォローした。

 

「あ、気にしないで。考え事してたせいもあるから。戻ってきてたのは気づいてたから、そこまで驚いてないし」

 

鷹揚さを意識して柔らかな笑みを浮かべながら話す。

 

「咲、一度くらいがつんと言ってやったほうがいいよ」

 

苦笑するような目線を近くのネリーに送りながら言うと、ハオが足を止める。言葉面ほど、ネリーに業を煮やす感じではない。あくまでやんわりとした忠告だ。

 

ハオの近くで足を止めたダヴァンはそれ以上は口にせず、納得したように何度か浅く肯いている。驚かされた本人が言うのなら、という風に。

 

残る明華は――、

 

「サキはやさしいね!」

 

「あ、うん。じゃなかった、大げさだよ」

 

ネリーから話しかけられて、受け答える。

 

明華はよそに意識をとられていて、ぽややんとしたいつもの瞳を大きな窓の外に広がる景色に向けていた。興味なさそうに。

 

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。