臨海咲SS置き場   作:タコピー

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句読点を全体的に修正しました。内容は変わってないので読み直す必要はありません。一時的に消した次の話も句読点修正します(H28.1/25)H28.1/31追記


高校編三十二話四月回想2

 

薄暮の時間。青白く染まった空の地平線に、太陽が暮れなずんでいる。この時分にはしじまがよく映えるーーノートや教材の紙面を走るシャーペンのほかに目立った物音を立てるのは時計くらいの静かな部屋で、勉強机に向き合いながら外の景色に目もくれず咲は思いをよぎらせる。

 

帰宅してから現在の六時過ぎに至るまで、ほぼ日課となっている勉強を黙々とこなしていた。そして改めて感じ入る。

 

ああ、やっぱりこれが理想的な営みだ……と。

 

昨日。とくに帰り道の電車では気が急いて仕方なかった。練習を抜けて、懇意にしている相手のお願いを安請け合いして、あまつさえ街を遊び歩いて。尊んでいたはずの日常を助走をつけて飛び越えてしまった現実は、反動のように消化不能のもやもやをささくれ立った心に残していった。

 

自分から望んで同行しお願いを引き受けたのもすすんでの事だったのに変な話だ。けれどこうして一人考え込む時間が出来てしまうと、もやもやとした感覚がいっそう沁み込んでいく。目的に誠実であれなかったことへの不安、怯えに似たようなものまで入り込み、浸透してくる。

 

こんな思いをする羽目になる。それに薄々感づいていたのに。

 

結果得るもののない迷妄に苛まれている。握る筆記具に力をこめすぎて芯が折れる。

 

「あっ……」

 

間抜けな声を上げる。何をやっているんだろう。かぶりを振って雑念を追い払う。

 

目の前の勉強に意識を全集中しなければ。今この瞬間全ての精力をそれに傾けなければならない。

 

なのに。

 

ふと勉強の前に連絡し通話した母とのやりとりが反すうされる。

 

『……そう。私にも言えない、と』

 

『怒ってる?』

 

『怒ってはいない。ただ驚いてはいる』

 

沈着冷静が常の母。もし言葉通りなら相当の衝撃を与えたのか。

 

『あの、ね……言えないうえにこんなこと言ったらほんとうに怒らせちゃうかもしれないんだけど』

 

『何?』

 

母の催促は平坦ながらも穏やかだった。

 

『出資者としてのお母さんに迷惑がかかっちゃうかも……』

 

杞憂かもしれない。考えすぎかもしれない。ほかの人にならこんな赦しを望むような言葉は不安に感じていても決して口にしない。しかし母に対してはそのこだわりを捨てた。

 

『ふう――』

 

告白の返答は長い吐息だった。憮然とするような印象があった。

 

『心配はない、というと変な気を回す貴女のことだからはっきり言っておく』

 

引導を渡すような口調だった。

 

『問題はない。貴女ごときが何をしても私に被害と言えるほどのものは与えられない』

 

冷酷なようだが事実だ、と母は一貫して淡々とした調子で告げた。無理をしているのではないかなどという疑いを差し挟む余地がないほど母は厳然として平静だった。

 

『被害は迷惑と言い換えてもいい。貴女が理解すべき事実は貴女は自分が思うよりも無力だ、ということ』

 

それは影響力ですら無力ということだろうか。

 

『……』

 

『何か言いたいことは?』

 

突き放した話し方のまま尋ねられる。反論などなかった。あるとすれば反省の言葉くらい。妄念に囚われて母にこのようなやりとりをさせてしまう自分を恥じた。だから。

 

『ごめんね、家族にこんな話をさせちゃって』

 

心から、不明を詫びた。

 

『心地よいだけの関係が家族とは限らない』

 

それに対する母の返答は早かった。

 

『揺りかごのような環境を与えるだけでは精神の鋭利さは生まれない。そして、鋭利さを必要とする人間は貴女が考えるより世の中に多く存在する』

 

哲学めいた言葉だった。懸命に考えをめぐらせる。

 

『咲。私は貴女にもそれが必要だと考えている』

 

母の言う鋭利さというものがよく分からないので否とも応とも言えない。玉虫色の沈黙で返す。

 

『それでいい。ことこういう事に関しては拙速は望ましくない。ことあるごとに考えをめぐらせて、ようやく貴女の中に貴女なりの意味が生まれるでしょう』

 

心の中で肯く。電話の向こうから一息つくような息遣いが聞こえた。

 

『私が貴女に命じることがあるとすれば一つ。報告の電話の習慣だけは欠かさないこと』

 

『うん。わかった』

 

そこに関しては二つ返事だった。迷う必要がない。

 

母との電話はそれで終わった。いま思い返してみても息が詰まるような会話で堅苦しいやりとりだ。

 

咲が理想とする母とのやりとりはこんなじゃない。もっと気楽で、心が安らぐようなあたたまるようなやりとりがしたい。

 

本の世界……純文学では理想的なほかの家族はどんな風だっただろうか。ともかく自分自身がもっと精進しなければきっと望めないもので。

 

そうして壁を乗り越えてようやく望むやりとりができる。

 

一度でもいい、母を笑わせてあげたい……ずっと、子供のころからずっと思い続けて叶えようとしてきたことを、現実のものに出来る。

 

「……あっ」

 

ようやく脱線しすぎた集中に気づきまた間抜けな声を出す。

 

今私がすべきことはこっちだ。

 

芯が折れて以降すっかり止まっていた手を動かす。それからまもなくして没頭した。

 

 

 

 

 

 

往来する車のエンジンや排気の音。犬の鳴き声。

 

屋外から聞こえてくる雑多な音は閑静な高級住宅街といえど完全には避け得ない。

 

しかしふとそれらがぴたりと止んで、静寂の訪れた部屋に一定の間隔で刻まれる秒針の音が響く。そんな時間がある。

 

カチ、コチ……カチ、コチ……。

 

紙面を走る筆記具の音よりも目立つ物音が鼓膜に規則的な振動をもたらす。

 

今は八時ごろ。中断せずにずっと熱中していたから進捗は捗々しい。

 

その成果の対価にじんわりとした疲労が視神経に広がっていく。だがそれすらも心地よい。

 

部活、勉強、そして夜に行うことが多い牌譜の分析研究。これらに熱中しているとえもいわれぬ安心感に包まれる。

 

まるで意識が研ぎ澄まされていくような……そういえばある有名な作家も文章を書くことで精神統一のような感覚を受ける、と漏らしていたことがある。

 

何ごとによらず書いたり描いたり……肉体と頭脳を同時に駆使するような作業は精神に大きな効用をもたらすのかもしれない。

 

不意に浮かぶとりとめのない思考を手離して再度意識を傾ける。

 

熱中のあまり進みすぎたきらいがあるが無理のない範囲であれば。それも構わないと母から事前に聞いてある。だから、このページが終わるまでは続けよう――そんなことを考えていたときだった。

 

――――ガタンッ。

 

意識の端でその音を捉える。この室内で立った物音ではない。室外、それも窓の外ではなく建物の中、マンションの玄関の方向から聞こえてきたもの。目立つ音だった。

 

――あ。ちっ、しまっ――。

 

続けて、途切れ途切れの声がか細く聞こえてくる。聞き違いでなければネリーのものだ。咲は、手に持ったものを離し席を立った。

 

「もしかして、うちに来たのかな」

 

昨日に続き今日も来ないと聞いていた。でも来るのなら歓迎だ。勉強を終えたら食事にしようとしていたところだったし。勉強もおろそかになっていないから懸念も大分と減っている。

 

それでも諸手をあげて歓迎とはいかない自分って面倒くさいな、と失笑しつつ玄関へと歩いていく。

 

「ネリーちゃん?」

 

そんな鬱屈した感情は玄関の扉を開けるころには押し込めて、扉を開けた先にいたネリーに声をかける。

 

部屋着には見えないラフな私服を着た彼女は玄関口から首を出したこちらを平然と見つめ返した。

 

「あ、やっぱり聞こえちゃった?」

 

目が合うと悪びれた風に顔をしかめてネリーが返事をする。それからやや口早に、急いでて扉の開け閉めをちょっと乱暴にしてしまったのだ、と弁明してくる。

 

「私は気にしてないけど……出かけるの?」

 

扉の開け閉めは施錠するためだったようだ。加えてネリーが履いているのは靴。咲の部屋に来るときなどは決まってサンダルのような履き物だったように思う。だから合わせて外出ではないかと推測する。

 

「ああ、うん。ちょっとそこまで」

 

「ふうん……」

 

「あ、自分のとこくるかもしれないって思った?」

 

悪戯っぽい笑みで指摘されて、うっ、と声をあげて目を逸らす。期待していたのは否定できない。そして外出だと肯定されてがっかりしたような声を漏らしてしまったという自覚はあった。赤面するほどではないが一方通行な期待の虚しさを感じてしまう。

 

「まあ今はちょっとむずかしいんだよね。お邪魔する側が言うのはあれだけど落ちついたらまた、ってことで」

 

一方、簡単に事情を説明するネリーはからかう雰囲気をさっぱりとひっこめ比較的真面目な調子で告げてくる。

 

ネリーは相手の心証に敏い感があるのでほどよくからかいをやめたのかそれとも単に急いでいて長話を避けたのか。

 

ともあれふと気になったのは今は……今の時期は忙しい、みたいな物言い。近場のコンビニで買い物して帰るというのとは違うようだ。もしかして。

 

「けっこう遠出する用事なの?」

 

「あー、そうなるかな」

 

考えついた可能性を質問してみると概ね肯定された。だが、どこにとか何の用事か、とかの言及まではしない。答えた後、何気なく合わせた視線を外して無軌道に宙に泳がせているあたり、言及したくなさそうにも見える。

 

言いたくないなら聞き出すという選択はとれない。自分がされたら嫌に決まっているのに、それを棚に上げて人にするのはひどく躊躇われる。どう反応したものかと暫し黙り込み思案をめぐらせる。

 

そのとき。

 

「うん……?」

 

虫の羽音のような振動音が、ネリーの脚にぴったりとフィットしたレギンス、そのポケットの辺りからあがる。怪訝そうにしたネリーも声をあげた。

 

マナーモードの着信。間を空けずポケットから未だ振動する携帯端末を彼女が取り出したことで確信する。

 

着信か何か来たのだろう。何の変哲もない出来事。何を思うでもなく咲はネリーの挙動を漠然と見守る。

 

だが。

 

「ん……」

 

彼女は携帯端末の液晶パネルに目を落とし心なしか忌々しそうな表情を浮かべた。

 

 

 

 

 

 

ビルの外壁に設置された巨大なスクリーンを見上げる。渋谷駅前。夜が更けてもなお洪水となって押し寄せる人波がスクランブル交差点にあふれている。

 

「サキ? 急いでるからいくよ」

 

「あ……うん」

 

ぼうっとして現実感のない返事をし、そばを歩くネリーと離れた距離を詰める。わずかに先に立って誘導してくれる彼女を追う。

 

夜の街は喧騒に満ちていた。きらびやかな光がそこら中に氾濫し、夜闇をグラデーションの要素程度にまで成り下がらせている。眩い繁華街では春の薄闇など飾りものであるかのように。

 

「手、握ったほうがいい?」

 

明らかに気後れしていてついていくのもやっと。はた目にもそんな風に映る咲を見かねてか、ネリーが気遣わしげに提案する。まるで小さな子供のような扱い。だが恥ずかしさを思い切って呑み込み、咲は「お願い……」と遠慮がちに手を差しだす。

 

「素直でよろしい」

 

やはり小さな子供を褒めるような言葉を「ふふん」と微笑み交じりに言われて伸ばした手がとられる。咲としてはやや情けない気持ちになったが、ここで強がっても滑稽だしはぐれて迷惑をかけかねないなと思ったので、文句などは口にしない。恥ずかしいという気持ちはたしかにあるが、さすがにこの程度なら忸怩たるとまではならない。

 

むしろ――目の前の彼女と、手をつなぐ口実ができてよかったかも。

 

手を繋いでも隣に並ばないであくまで案内するように後ろ手に咲をひっぱるネリーの背中を眺めながら考える。

 

「でもサキ、ほんとによかったの?」

 

手を繋いでから暫し無言で歩いていると急に尋ねられる。咲は苦笑した。

 

「うん……時間は大丈夫だし」

 

同時に心の中で失笑した。もちろん自分自身に。

 

咲は夜間外出するネリーに同道している。咲が申し出た。

 

昨日の今日、というかついさっき悔やむようなことをしていたのに懲りていない。ほんとう……自分には脳みそじゃなくワラが詰まっている。

 

このときばかりは忸怩たる思いを禁じ得ず、しかし決して外面には出さずに表面上は微笑を湛える。

 

ネリーはそんな咲を何が意味があるでもなさそうに見つめて、「そっか」と片づけると前を向く。一連のやりとりの間も足は止めていない。押しては寄せる人の波をネリーの導きですいすいと泳ぐようにかわして街中を進んでいく。

 

渋谷。若者の街とも言われるだけあって人込みを構成する通行人の年齢層は若めだ。もう八時はとうに過ぎているというのに、ネリーや咲と同年代らしき少年少女もそれなりにいた。時間帯もあるのだろう。会社帰りのサラリーマンらしきスーツ姿の人もちらほら見受けられる。

 

「ねえ」とくに密集していた人込みを抜けたのを見はからって咲は声をかけた。すると振り向かずに「うん?」とネリーが返す。

 

「いく場所って決まってる、んだよね?」

 

言葉に詰まったのは決まっていないことはないだろうなと思ったから。ぶらぶらと街を練り歩くのも考えられなくはない。だが、待ち合わせ場所のようなものは少なくともあるはずだ、あの電話からして。

 

電話。はぐらかそうとするネリーと追及できない咲とで気まずい沈黙が訪れそうだったとき。

 

割り込むようにかかってきたあの電話を図らずも受話器越しに又聞きしてしまって。

 

『あっ、エルティさーん! 今渋谷のアソコ向かってるんでぇ~! 早めにお願いしますよぉ~!』

 

めったやたらに上機嫌な大声が、ネリーが耳に当てた端末から筒抜けになった。

 

まさかと言わず聞き覚えのある声。あの特徴的な話し方は耳に残る。河川敷で対面したあの青年の声に違いない。咲は聞いた瞬間確信した。

 

彼との通話を終えたネリーから後で聞いた話では酒に酔っていたらしい。「秘密保守っていったのに……あんな常識はずれな声だすなんて」と今にも舌打ちでも聞こえてきそうな苦々しい顔でつぶやいたネリーは、今思い出してもはらわたが煮えくり返ったのを何とか押し隠すようなあり様だった。

 

それから――、

 

「んー、小さめのファッションビル……ゲームセンターとかもテナントに入ってるとこで待ち合わせらしいけど」

 

少し前の出来事に思いを馳せているとネリーから返事がきた。人込みに巻き込まれないよう注意もしないといけないから会話しても顔は前を向いたままだ。

 

「ファッションビル……」

 

「あんまり馴染みない?」

 

「コンパクトなショッピングセンター……って考えたら」

 

何とかわかるかもしれない、と頭にめぐらせたイメージを咀嚼して浅い肯きを繰り返しながら答える。地方都市でも大型のショッピングセンターはそこそこ見かける。咲の場合、出不精のような中学時代を送っていたので同年代と比べて馴染み深いとは言えないが。

 

「ふふ、サキは田舎者だからね。都会のことはこのわたし様が教えてしんぜよう」

 

「……そっちも上京したばっかのくせに」

 

「お、生意気。いいぜ、この適応ライト浴びた並みに都会に順応したわたし様に舌を巻くがいい」

 

影で事件を操作する黒幕のような雰囲気を気取りながら鼻息を鳴らすえらそうなネリー。その背中にじっとりとした視線を送りながら咲は唇のあたりをもにょもにょさせた。

 

「なんかえらそう」

 

「えらいよ。サキが迷子になるかならないかはこの手にかかってるからねー」

 

繋いだ手を持ち上げて示し同時に後ろの咲を振り返ってにかっと笑う。春の陽だまりみたいな笑顔。咲は思わず息を呑んだ。

 

かわいい……小動物が精いっぱい強がるような感じがしてぬいぐるみのように抱きしめてしまいたくなる。

 

ネリーの笑顔を目の前にして咲は胸の鼓動を強くした。同時に目頭が熱くなるような感覚がこみ上げる。

 

小さな子供のような人を、自分はこんなに好んでいただろうか……思い出の中では幼いころの姉など家族の姿は目に焼きついて、姉には強い好意を抱いてはいるけど姉に関してはあくまで昔だから子供の姿なのであって、小さいこと自体にはこだわりはない……と思う。

 

いや、子供の姿でも……という思いもまたあるのは事実だけど主に映像や紙面に見る成長した姉の姿は誇張抜きにうつくしくて。そう感じるのはきっとひいき目だけじゃない。

 

脱線した。ともかく大人びた姉に今でも恋い焦がれるような憧憬を向けているように、どちらかというと自分は包容力を感じる歳上の女性などに好感を覚える、というのは薄々自覚していたけれど。

 

いまネリーに対して感じるときめきのようなものはそれとはまた一線を画している。蒐集する趣味などなかったから気づかなかったものの、本来ぬいぐるみをはじめとしたファンシーグッズや小物雑貨が好みなのかもしれない。高校生にして新しい自分の発見だった。

 

そんな感慨がむくむくとわいてぼうっとネリーの顔を見つめ返していると。

 

「うん? 今呆然とするとこあった?」

 

不可解な反応に映ったのだろう、困惑気味に指摘される。

 

「えっ、あ……」

 

感慨から我に返って目をしばたたく。まさかあなたに見とれてました、なんて言えない。恋に落ちた男女じゃあるまいに。

 

「あ、あー……」

 

「……?」

 

目を泳がせながらごまかしにならない声を漏らすと不思議と怪訝が入りまじった表情で見つめられる。

 

話題、別の話題……咲は思うように働かない頭を回転させる。

 

「あー……ファッションビル、どこらへんにあるのかな……?」

 

悩んだ結果話題を戻した。

 

「もうすぐだよ。目の前だから」

 

「もうすぐと目の前で重複してます。罰点」

 

「細かっ!」

 

動揺を押し隠すためにわざとらしく人差し指を立てて採点する教師を気取ってみる。案の定な反応で安心した。続けて、

 

「国語には厳しくいくよ」

 

「えー、外人なんだから甘くみてよ」冗談を口にするとブーイングが飛ぶ。律儀なことに「ぶーぶー」と効果音まで余念がない。

 

「獅子はわが子を千尋の谷に突き落とす……教え子にもびしばしいくから」

 

「いつ教え子にされたんだ……っていうかそのたとえ絶対間違ってるよ、人に当てはめちゃダメ!」

 

「しってる。でも人は失敗から学ぶこともあるから」

 

「自分のためかよ……それとわたし実験台なんだね」

 

モデルケースの導入には細心の注意を期さなければならないがやはり多少の犠牲は呑み込まなくてはならないこともある。

 

「カガクの発展に犠牲はつきものデース!」という言葉があるように犠牲者をなくすというのは難しいものだ。

 

「安心して。私はマウスにも愛情を込めるのがモットー」

 

「まずマウスであることを否定してよ」

 

そんなこんなでファッションビルへと向かう。話をうやむやにできた。そのことに淡い安堵を覚えながら。

 

――お姉ちゃんみたいに、振舞えたかな。

 

うきうきとしたネリーに手を引かれながら、先ほどした演技の細部を思い返して、咲はいつものように自身の立ち振舞いを採点した。

 

 

 

「ども、昨日ぶりっす!」

 

顔を合わせた彼の第一声はそれだった。

 

ファッションビルの中に入り、もの珍しげに辺りを見回す咲をネリーがひっぱって移動していると、にぎやかなゲームセンターのフロアで彼、正しくは仲間らしき青年たちと合わせ三人、彼らとの対面がかなった。

 

往来の盛んな広い通路を周囲に気を配りながら歩いていたネリーと咲の顔を見るなり、おーいと親しげに声をかけて近寄ってきた。

 

そして合流した五人の中から金髪の彼が先陣を切って会話を始めた。

 

「……酒くさ。ほんと、酔ってるんだね」

 

「いやぁ~それほどでもないっすよぉ~」

 

なぜか謙遜するような物言いで、明らかに不機嫌なネリーの苦言めいた響きの言葉に彼は返す。

 

「褒めてないっての。むしろ怒ってるからね?」

 

それは、例の電話口で不用意に大声で話しかけて、結果咲にも筒抜けにしたことで言っているのだろう。

 

「あ~いや、その……ねぇ……スンマセン」

 

一目でそうとわかる赤ら顔の彼は途端に語勢をなくし最後には消え入りそうな声で謝罪する。

 

「はあ……落とし前はきっちりつけてもらうからね」

 

続けてネリーが言った言葉に彼はぎょっとした。そして竦んだように身を震わせる。

 

「お、落とし前?」

 

「ん? 違ったか、お詫び? とにかく契約か請け負う仕事になんかサービスしてもらわないと許さないから!」

 

「あ、あぁ……なるほど、そ、そういうことすか」

 

ネリーの意を得た、と一緒に勘違いが正されたのか安堵を滲ませながら金髪の彼がひきつった笑みを浮かべる。

 

「それはもちろん……料金なんか勉強させてもらうんでどうか、水に流してもらえるんであれば」

 

よほど堪えたのと謝意があるのだろう、金髪の彼はいつもの軽薄さを取り払ったうえで媚びるような笑みを浮かべて言った。

 

ネリーもそこまでされたら溜飲も多少は下がったようだ。むっすりとして腕を組みながらもそれ以上文句を口にしなかった。

 

他方、咲はというと一連のやりとりを傍観していたのだが、金髪の彼からただようアルコール臭に堪えかねてずっと口元を鼻を覆うようにして押さえていた。

 

「サ、……ミヤガワ、だいじょうぶ?」

 

「う、うん」

 

目に止めて心配げに声をかけてきたネリーに返す。口元は押さえたまま。

 

「もうちょっと離れてたら、大丈夫だと思う……」

 

「だいじょうぶそうに聞こえないね……」

 

ネリーの言葉は図星だった。ちょっと、堪えられない。

 

頻繁にアルコール臭を漂わせるような人との付き合いは皆無といっていいから、おそらく生来苦手なのもあってけっこうな不快感がある。父は朴訥なところもあるがのんだくれるような人ではないし、たとえそうすることがあったとしても娘の前で憚らず匂わせるようなことはしなかった。こう言うとひどいかもしれないが意外と、エチケットを守る人だった。

 

他に付き合いのある大人というと……親族くらいだが、彼ら彼女らの場合はますますあり得ない。幼いころは母に連れられて東京にある本家の屋敷に訪れた折、接する機会はそれなりにあったが……あの人たちは何というか浮世離れした人が多かった。

 

一般家庭の娘とさほど変わらない咲と比べれば雲泥の差で、海外では爵位を得た貴族という立場の人もいたから不作法というものとはほとほと縁遠かった。ほとほと、とは咲の心情を正しく表している。礼儀正しいとかそういう一般の物差しでははかり切れない佇まいをしていたから、幼い咲はいつも気後れしていた。

 

ともかく、そういう意味でわるい大人、あるいは不良グループといった集団とも縁がなく……純粋培養された面のある咲にはこういった異臭に過敏なところがあった。本人も今自覚した。二つ目の発見である。うれしくない。

 

「あ~……」

 

「ちょっと、口開かないで。ミヤガワがますます辛くなるでしょ」

 

いたたまれなさそうに口を開いた金髪の彼が、ネリーの辛辣な言葉を受けてますます身を縮ませる。

 

「くっく、情けないっすねリーダー」

 

「ああ、面白いもん見れたな」

 

それを見た連れ合いの二人が茶々を入れる。金髪の彼は酒に弱いらしく「そこらで飲むのはやめといたら……」という一緒に飲んでいた仲間の忠告を無視して飲みすぎた、仕事前に何やってんだか、と二人の仲間に呆れ交じりに笑われていたがすぐに帰っていった。咲としてはどういう流れで帰ったのかよくわからなかったが、ネリーから「仕事の用件を済ませたんだよ」と教えられて納得した。

 

「……で、そっちの二人が今日の付き添い、と」

 

残った二人の男を見ながらネリーが言う。先ほどまでいた金髪の彼は、咲がハンカチを取り出して口元に当て「大丈夫ですから」と言うと、言葉少なに「すんません……」と謝ってこの場を去ってしまった。咲は、気を遣ったつもりが悪いことを言ってしまったかなと思いながら、彼はどういう役割でこの場にいたのだろうと考えをめぐらせていた。

 

「はい。今日は俺らが」

 

「そっちも今日は二人なんすね」

 

二人の男が返す。

 

「そうだよ。こっちはミヤガワ。言うまでもなくプライベートの詮索はタブーだからね」

 

「了解っす」「はい」と普通に会話が進む。とくに険悪だったりはしない。金髪の彼が手早く仕事を済ませて、お詫びの約束を取りつけたのもあってかネリーも根に持っていないようだ。咲も今はハンカチをポケットにしまい、自然体で見守っている。

 

「それじゃ、いこっか」

 

言葉を切ってネリーが踵を回らせる。咲にだけ話しかけるように咲を見つめての言葉だった。咲は「え?」となった。

 

「あれどうかした?」

 

咲に振り返って小首をかしげるネリー。

 

「えっと……今さらだけど、どこにいくの?」

 

咲は、行き先を確認していなかった。ただ夜の街……それも渋谷にいくと聞いたので同行を申し出た。昨日河川敷で会った人たちを連れてという話で。「大丈夫なのかな?」と思ったのだ。河川敷の人たちへの他意はなく、単純に男の人と夜の街に出かける、と耳にして危なそうな気がした。東京のことは咲はよくしらないものの「大丈夫なのかな?」と危惧を覚える程度には聞き及ぶ情報がある。

 

「んー……あんまり当てはないかな」

 

今こうしている経緯を軽く振り返って状況を整理しているとネリーから返事が来る。そもそも何を目的にするのだろう。

 

「そうなの? じゃあとりあえずついていくね」

 

「うん。そうしてくれると助かる!」

 

話が決着し、まとまる。そういえば男の人たちはどうなんだろう。何をするのだろうか。そう思って彼らのほうに目を向けると、

 

「おおう……」

 

「ほおう……」

 

二人揃って感嘆するような言葉をため息と共に漏らしていた。

 

「エルティさんにまともな友達いたんですね」

 

「意外っすわ」

 

と次いで聞こえてきて咲は内心で眉をひそめる。どういう意味だろうか。

 

「それってどういう意味!」

 

「あっ、いえいえ」

 

「他意はないんすよ」

 

少しむっとした様子で抗議するネリーと彼らとの間でそんなやりとりが交わされる。

 

「はあ、まあいいか。サキ、それじゃいこう?」

 

彼らの態度はへつらう時のそれに近く、だからか不満を託ったようなネリー。しかし表面上は片づけて咲を呼ぶ。

 

「とりあえずは……このビルのテナントを適当に回ろうかな。ゲームセンターとか雑貨屋とか。会社のテナントで通行人じゃ入れないとこもあるけど」

 

「だいじょうぶ?」と訊かれたので咲は首肯した。とくに抵抗があるようなものじゃない。ゆったりとした心境で咲は聞いていた。

 

そんな咲を見て、ネリーは満足そうに口角を緩めて来たとき同様一足先に立ち歩いていく。その一歩後ろを歩きはじめる咲の後ろから、やや遅れて二人の青年が追ってくる。

 

何気なく夜の街を物色する平穏そうな時間が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

「あっ、ゲームセンター」

 

ビルの一角を占める活気づいた区画に入るなりネリーが口を開いた。

 

ゲームセンター。そこそこ人気のある、所狭しとゲームの筐体や何やが立ち並ぶ都内の繁華街によく見られるそれと似たような印象を受ける場所だった。

 

「ゲームセンター……」

 

「遊んでく?」

 

「ん……」と考え込んだ咲はまずネリーの顔を見て、それから後ろを付かず離れずという具合についてきている青年たち二人を一瞥する。

 

「私は……そんなに興味ないかな」

 

でも全くというわけじゃないから、ネリーが用があるのなら付き合うのは全然構わない、という風なことを咲は伝える。

 

「へー、めずらしいね? こういうとこって同年代の……日本の子なんかはみんな好きそうなイメージだったけど」

 

「うーん、活発な人ほど好きそうな感じだよね。私は……」

 

「あっ、サキって案外ぱっとしない子だし興味ない感じ?」

 

「そ、その言い方はぐさって来るけど……うん、大体そんなところかな?」

 

別に、野暮ったかったり根暗そうだったりしたらゲームセンターが好きじゃないって事はないと思うけど……そんなに心惹かれるものじゃないかな。

 

人込みや騒がしさが苦手な咲とてまるで興味がなくもないが、「ゲームしていきたい!」という熱は込みあげなかった。

 

「ふむふむ」

 

「どうしたの?」

 

やや大仰な仕草であごに手を当て納得した風にするネリー。咲が首をかしげる。

 

「サキってほんと見た目通りなんだなって。意外性ゼロだね」

 

「……ほっといて」

 

少なくとも褒められている気はしない。少し機嫌を損ねて咲はそっぽを向く。

 

「あはは、露骨にウケ狙ったキャラ作るよりは好感持てるよ?」

 

そもそもキャラを作っているわけじゃない。いや、でも作っていると言われても仕方ないような事はしてるか……と咲は内心憂鬱になる。

 

若干表情を陰らせた咲を見て、「あっ、ごめんからかいすぎた?」とネリーが謝る。はっとして咲は手を振った。

 

「う、ううん、さっきのやりとりは関係なくて……気にしてないよ」

 

「そう? でも何だかいつもとちょっと様子違うような……」

 

はたと気づく。装おうとするいつもの心がけがおろそかになっていたかもしれない。俄に心持ちが緊張味を帯びて表情が引き締まる。そうなれば装うのは難しいことじゃなかった。

 

「そうかな。変わらないと思うけど」

 

「……気のせいかな。失礼な事してたら言ってね。大体はわかるけどたまに気づかない事あるから」

 

それは日本の感覚に馴染み切れていないという事だろうか。さもあらん。咲がネリーの立場ならネリーほどにも馴染めない気がする。言語からしてこんなに流暢に外国語を話せない。

 

ただ咲が懸念を否定する以上、ネリーのその言葉も深刻というほどではなかった。咲はその言葉に肯く。

 

「うーん、ここの人に聞いてみようかな」

 

すると意図の捉えづらい言葉がネリーの口から出てくる。

 

どういう事かと咲が尋ねる前にネリーは手に提げていた小ぶりの鞄の口に手を突っ込み、ごそごそと漁り始める。

 

まもなくして鞄から出てきたのは、

 

「写真?」

 

一枚の写真だった。疑問をそのまま口にした咲に向けてそれの表面が掲げられる。

 

そして見せられた写真に写ったものを目にして、「えっ……」と咲が漏らす。

 

「……探しもの。見覚え、ある?」

 

「……オル、ゴール?」

 

写っていたのはオルゴール。それも咲の持つ宝物と……リュージュ社製のそれと、ぱっと見では思わず見間違えそうなほど似ている、非常に印象的な外見を持つものだった。

 

「……驚いてる? ネリーもね、あの日驚いたんだ」

 

「……あっ」

 

思い出す。つい先日の出来事。ネリーの様子が突然変わって困惑させられたあれ。間抜けな声を漏らしていると知りつつも、咲の口からはそれが漏れる。

 

失せもの探し。街での散策。そしてオルゴール。謎めいていたものがおぼろげながらも線で繋がりつつあった。

 

「その反応からして、サキが犯人って線は薄そうだね」

 

「……疑ってた?」

 

「ううん。冗談。大体、サキの持ってるのとすごく似てるけど細部は間違いなく違うしね」

 

それはそうだ。とても似通っているように見えるがディティールが異なる。咲の目にもそれは明らかで、だからネリーの言葉も確かに冗談だったのだろう。

 

ほっとする。疑いを向けられるのは良い気分じゃない。それも相手がネリーとなれば……どうにかして身の潔白を証明したいという確たる思いが咲の中にあった。

 

「似たようなの持ってるから疑わしい、ってしたら大体の人が何かしら怪しくなってくるし」

 

写真が傷つかないよう端をつまむ手先を器用に繰って、写真の表面を自分の側に向けるとネリーは「はあ」と息をつく。失せもの探し……オルゴールの行方を人を雇って探そうとしていて、今まで咲が得た情報から鑑みるに成果は芳しくないようだ。咲も思わず眉尻を下げる。

 

「それで……ここの人に聞くっていうのは?」

 

「ああ、それはね」

 

ネリーがオルゴールを失くしたのは渋谷の街中だという可能性があり、拙いながらも自分でも探している。勿論落し物の届けは既に出していて、人を雇って探して、それでも行方は杳としてしれない。ということらしい。

 

脇を通りがかっていく人がちらりと視界の隅に入るのを感じつつ、端折った説明を受ける。

 

「さて、説明が終わったところで」

 

写真を指先で弄びながらネリーがゲームセンターの中を見渡す。手持ち無沙汰そうな人を捕まえて話を聞くつもりのようだ。

 

咲もネリーに倣って見渡しつつ、

 

(ゲ、ゲームセンターにいる人って恐い人とかいないかな……)

 

と平静そうな表情を浮かべる内心びくついていた。

 

けれど、後ろにいる青年たちの存在を思い出す。

 

(あっ、付き添いってそういう意味なのかな……?)

 

夜の渋谷で少女二人で人を捕まえては話を聞く。伝え聞いている感じでは相当危ない事のようにも思える。昼間と比べれば柄の悪い人たちとも遭遇しやすいだろうし。ゲームセンターともなれば場所によってはいわゆる不良集団が溜まり場にしていそうなイメージすらある。

 

その辺りの事情を鑑みると、先ほどまで少し得体のしれなかった青年たちの存在が頼もしくも思えてきた。

 

探偵のような仕事を請け負う人たちの中から付き添いに選ばれているのだ。荒事にも多少は慣れているのかもしれない。

 

(そういう人たちを雇うのっていくらくらいかかるんだろ……?)

 

咲の聞いている感じではネリーが夜の渋谷にこうして出かけるのは今日に始まったことではないのだろうし、だからこそ咲は、「夜の街に出かけるのはやめておいたら……」とネリーに控えめに言って、幾らかの問答の末、聞き入れてもらえなかったのでネリーについていこうとしたのだ。

 

問答した際のやりとりが思い出される。

 

『その……夜の街って危なくないの?』

 

『そうだね。昼と比べたらやっぱり危なくないとは言えないと思う』

 

『そう、だよね。……あの』

 

『……うん?』

 

言いにくそうにした咲が何を言おうとしているかネリーは薄々察している風だった。その上で彼女は、少し面倒くさそうな顔をしていたように思う。

 

『その、今からいく用事って別の日……休日の昼間とかにはできないのかな』

 

『どういう意味?』

 

ネリーは、少し迷惑そうだった。咲も差し出口とわかっている。しかし言うのをやめられなかった。

 

『ほら……今日は木曜日だし。あさってになれば週末だから……そのときじゃ、ダメなの?』

 

そう。今日は木曜日。あさっては土曜日で……土日は部活も午前中で終わる。大会前以外はそうなのだと監督から説明があった。二〇一〇年代にもあった、部活動に適正な休日や活動時間を設けるという国の方針を汲んでの事らしい。適正な休日とは週休二日なのだそうだが、流石にそこまで削るのは難しかったのかそれでも土日の練習は午前中までとなっている。

 

閑話休題。だから今日と明日我慢すればわざわざ夜の街に行く必要はないのではないかと、咲は遠回しにそう言ったのだ。

 

まるで彼氏を過保護か束縛しようとするちょっと重い女みたい。

 

なんて事を頭の隅で思いつつ、それでも夜の街にネリーが出かけるのを止めようとした。

 

でも。

 

『ごめんね。心配してくれてるのかもしれないけど』

 

ネリーは迷う素振りも見せずそう言った。

 

『今日……今夜を使う機会があるのにみすみすムダにするなんてこと、ネリーはしたくない。時は金なり。できる事があるのにじっとしてるっていうのも、ネリーの性に合わない』

 

答えはにべもない。説得する余地もないように感じられた。

 

だから咲は……

 

「サキー?」

 

我を忘れて思索に耽っていると呼びかけられてはっとする。三度目だ。

 

「あっ……ごめん、ぼうっとしてた……」

 

「……もう、だいじょうぶ?」

 

心配してついてきた風な咲のほうが余程気がかりだと言わんばかりの雰囲気で返される。ネリーから見ればそうなのだろう。

 

「だ、大丈夫……ごめんね? いこう」

 

呆れさせてしまっただろうか。そんな事を気にかけつつ更に返す。ネリーは複雑そうに眉をひそめて少しの間押し黙る。

 

「……心配だな。気分悪そうなら、家に帰すからね」

 

それからややあってそう言われて、何としてもそうなるのは避けたいなと思った。

 

 

 

 

 

 

 

半時間後。咲はゲームセンター近くの通路の道沿いにある女子トイレの中にいた。

 

「はあ……私って頻尿なのかなあ……?」

 

そこそこ綺麗に清掃されたトイレの化粧直しなどもできる手洗い場。そこの鏡と向き合いながら、鏡に映る自分に問いかける。

 

ネリーが聞き込みをしている最中。尿意を催してしまい、咲は慌ててここに駆け込んだ。その直前今思い出しても顔から火が出そうなやりとりを咲はしてしまったのだ。

 

『ふーむ……やっぱ手当たり次第に聞いても情報なんてそう出てこないかなあ……』

 

『あ、あの……』

 

『うん? どうしたの』

 

その時、咲はもじもじするのを必死に我慢していた。あからさまにトイレに行きたいのだという風にするのは恥ずかしくて、でも今思えば内股を擦り合わせる仕草などはしてしまっていたか。

 

『えと……お手、お手あら……』

 

『何て? 声小さすぎて聞き取れない』

 

ネリーが真剣に聞き込みしているところにお手洗いに行きたいと言うのは何だか気が引けて。持ち前の引っ込み思案も災いして、ネリーが聞き取れなくても無理はない消え入る声で言葉を繰ってしまう。

 

『あの……だから、えっとね……』

 

『あの、何ていうかだいじょうぶ?』

 

『大丈夫! 大丈夫だから!』

 

『う、うん』

 

何が大丈夫なのか、むしろヤバイと思いながらも反射的にそう返してしまう。

 

『えと、えと……』

 

言うべき言葉が頭の中でぐるぐると回る。目も回りそう。静かに言葉を待つネリーが目の前に佇んでいる。

 

い、言おう。恥ずかしいけど……言わなかったら、もっと恥ずかしいことになる。

 

深呼吸。昂った気持ちを落ち着かせていく。

 

しかし。

 

ネリーの後ろ、大して離れていない場所に付き添いの青年二人の姿が目に入って、感電したように咲は瞬間的に硬直する。

 

『あ、あああっ、ああ……っ』

 

『サ、サキ?』

 

絶望する。今言ったら間違いなく、彼らにも聞こえてしまう。がくがくと膝を震わせながら咲は呻く。

 

い、今言うの……? あの人たちの……男の人の前で? む、無理無理無理!

 

異性との接触が極端に少なかった咲にとってこんな事態は想定外すぎた。いや想定していたって無理。咲はもはや正常を保てなくなりつつあった。

 

『うっ……、も、もう限界……!』

 

『ほ、ほんとにだいじょうぶ?』

 

故に――悲劇は起きた。

 

『おっ、おしっこ! おしっこいきたくて、あの、おしっこいってきていい!?』

 

『え……』

 

ネリーが唖然としていた。その後ろで青年たちが目を丸くするのも目に入った。

 

しかしそのとき既に咲は色んなものをかなぐり捨ててもわからなくなるほど混乱していた。

 

『い、いいよね!?』

 

『え、あ、うん……いいけど』

 

そして瞬きを繰り返すネリーを置き去りにする勢いで最寄りの化粧室に駆け込んだのだった。

 

「………………死にたい」

 

咲は化粧室の手洗い場の鏡と向かい合った。羞恥心のフィラメントが焼き切れた。もはや七二〇度回って冷静な状態で呟く。

 

未だかつてこんな類の羞恥を味わわされたことがあっただろうか……いや、ない。

 

こんな事にならないよう出かける前に一度用を足してきたはずなのに……どうして今日に限ってこんな事になるんだろう。

 

「もう嫌だ……なんもかんも政治が悪い……」

 

脱力して天井を仰ぎながらこぼす。

 

――そのとき。

 

――――ガタンッ。

 

「……うん……?」

 

意識の片隅でその音を聞く。何かをひっくり返したような物音。何か蹴飛ばしてしまっただろうか。

 

そんな事を思いながら足下に視線を落とす。しかしそれらしきものは見当たらない。

 

きょろきょろと辺りを見回すと、

 

「…………」

 

男と、目が合った。

 

いや、いやいやいや。そんなはずはない。

 

ここは女子トイレ。男子禁制、というのはわざわざ何かで示す必要もなく当然の事で。

 

「あは、あはは……気のせい、だよね」

 

目の前、おそらく掃除用具などを入れる個室なのだろう、その扉の前。

 

アフロ頭の、ひょろっとした身体つきの、無精髭を生やすような中年の男が。

 

にっこりと、謎の満面の笑みでこちらを見つめてくる男が。

 

こんなところにいるはずがない。だってここは女子トイレだ。化粧室だ。男の人がいるはずない。

 

「うん……いるはずないよ。何かの幻か――」

 

「くうっ、しまった……! この私としたことが、売り子に最適な声を耳にして思わず転がり出てしまった……! 借金取りから逃げてる途中だったのに!」

 

「……」

 

言葉を紡ごうとして開いた口が閉じる。声まで聞こえた。……え、本物?

 

「え、え……きゃ――」

 

「大声出されると困る」

 

思い切り悲鳴を上げようとしたところで口を何かで塞がれる。

 

男の人のごつごつとした大きな手だった。

 

「むぐっ!? もごもご……っ!」

 

「ちょーっと静かにしててね」

 

飛びかかるように踏み込んできたアフロ頭の男性に、そのまま背後に回り込まれて羽交い絞めにされる。

 

顔と言わず身体中から急速に血の気が引いていく。最悪の想像が頭をよぎった。

 

「むーっ、むーっ!」

 

「うわっ、暴れないで暴れないで」

 

暴れるに決まってる。どうしよう。どうしようどうしようどうしよう。

 

恐怖と混乱に意識が塗りつぶされつつあった。

 

 

 

 

人は抗いようのない惨禍……理不尽に度々見舞われる。

 

たとえば不運。占星術では大殺界とかいう概念があって、その時期はやることなすことうまくいかないものらしい。だから大人しくしているのが吉。そんな話をどこかで耳にしたことがある。

 

なんだろうか。今私って大殺界なの? 殺界どころじゃないのかな? どう思いますか?

 

「……はあ」

 

「ははは、ため息をつくと幸せが逃げていっちゃうぞ。元気出して」

 

憂鬱にさせている元凶たる野太い声の主がフレンドリーに励ましてくる。女子トイレで。

 

「あなたのせいですよ……元気がないのは」

 

「おっ、倒置法。いいね調子出てきた?」

 

「どういう基準で判断してるんですか」

 

場違いに明るい笑みを浮かべてへらへらして、大して面白くもないジョークを飛ばしてくる中年男を半眼で見据える。

 

あなたは同質効果というものを知っていますか? 気が滅入っている人には、同じように沈痛を装って接したほうが好感を抱かれやすいらしいですよ。いわゆる空気を読むというやつです。ぜひ活用してください。今すぐにでも。

 

「いや~参ったね。トイレに隠れてたら誰か入ってくるとは予想してたけど、こんな事になっちゃうなんてねえー」

 

「不正解。減点です」

 

中年男に対する好感度がさらに下がる。この期に及んで軽薄な調子で自分語りを始めるとは……「え、何が? 何の点数?」と間抜け面をさらす空気の読めなさ加減もいただけません。中学時代一目見た方の印象的な台詞を拝借するなら、すばらじゃない。

 

「いい加減、出ていったらどうなんですか」

 

「え、何が?」

 

またこれです。私はこんな口調ではないのにまるで先生になった気分です。ちょっぴり冷たい先生のイメージ。

 

でも……こんな素っ気ない対応も詮無いことだと思うのです。相手は女子トイレに忍び込んでいた変質者なんですからむしろ丁寧に扱っているほうじゃないでしょうか。

 

咲は、先ほど見知らぬ男に拘束されるという危機的な状況に陥りほどなくして解放されて恐慌状態からは一旦抜け出してからも、やや情緒が不安定気味だった。

 

それは年頃の少女としては無理からぬことで。日本のような治安など生活の水準の面で様々に恵まれた国の、一般的な中流家庭の娘同然に育ってきた咲にとって、本人のナイーブな気質を差し引いても到底笑って済ませられるような体験じゃなかったのだ。

 

なので、今彼女はかなりおかしい。宮永咲という人物を少しなりと知る人が見れば「誰コイツ?」となるようならしからぬ心情を垂れ流している。

 

「あの、すぐに拘束を解いてくれたし何か事情があるみたいなので通報したりはしませんが……」

 

「えっ、マジ? 通報しないの?」

 

いくぶん落ち着きを取り戻しつつある咲から、警察沙汰にはしない、そんな言葉が出てきてアフロの中年男……アフロは目を軽く見開いて嬉しそうにする。

 

「ラッキー!」と口に出さずとも高々と突き上げられた片腕が彼の心情を物語っていた。

 

そして彼……アフロはふっと頬を緩ませて優しげな表情を浮かべると、

 

「君……優しいね」

 

捉えようによっては口説き文句のような言葉をさも感慨深げに漏らす。

 

「お世辞はいいです。それに、関わり合いになりたくないだけですよ」

 

「いやわかるよ。君はこんな私にも同情してくれてる。いい意味での同情だ。同情って言葉のイメージが悪いなら、被害者感情に寄り添った姿勢……だとか言い方は何だっていい。大切なのは君の気持ちだ」

 

飾り立てる言葉など本質的には大した価値を持たない……という風なことを言いたいのだろうか。ますます口説き文句じみてきた。

 

咲に歳上の男性を特別好む嗜好はない。先ほどまでの軽薄な態度をすっぱりとやめて真摯に伝えようとする姿勢には比較的好感が持てたが、それは先ほどまでとの対比の問題で、総合的に見れば咲の中での印象は「変わった変質者」、その程度のものだった。

 

そこまでを胸の裡で振り返って咲は嘆息する。

 

「とにかくここは女子トイレなんです。あなたみたいに男の人がいたらいけないっていうのはわかりますよね?」

 

仮にも歳上の人間に対して慇懃無礼な言い方をするのはやはり「女子トイレに男の人がいる」その一点に尽きた。

 

咲は社会の常識やマナー、規範といったものを絶対視したり信仰するといった思想はないごく普通の中立的な女子学生に過ぎない。しかしそれでも。女子トイレに男性が入り込んでいる。それはどうしても嫌悪感があった。

 

「うーむ……」

 

だが警告めいた注意を受けている当の本人はと言うと何やら難しい顔をして、無精髭の生えたあごに指先を当てて考え込んでいる。こんな状況なのに終始恥じ入る様子もない。

 

どころか考え込んだ姿勢のまま、咲の事をためつすがめつ、不躾にもとれる遠慮のない視線で頭のツノからつま先までじろじろと観察しているではないか。一体、何を考えているのだろう。反省の色など見当たるはずもない。

 

「あの……」

 

非常識に見える男の反応に、辛抱強く接していた咲の堪忍袋の緒が切れそうだ。――そんなとき。

 

「よし、この子でいこう!」

 

唐突に男が声をあげた。こんな状況なのにはきはきと、あごに当てていた手を今度は握りこぶしに変えて胸の前で小さくガッツポーズ。

 

「君に決めた! 売り子……いや、妖精役も頼みたい! 君、お願いできないか!?」

 

「は……?」

 

あんぐりと口を開けてしまった咲の反応は至極当然の反応と言えただろう。意味がわからない。文脈がない。説明も不十分。

 

こんなのでまともな理解ができたらその洞察力は人並み外れている。

 

未だ呆然とする咲にアフロの男はびっと格好つけたポーズで指を突きつけた。

 

「まずその声! 大人気ノベルゲーム『Fake/stay あばろんっ』に出てくるヒロイン『トーサカ・リンチャンサン』にそっくり!」

 

「りんちゃんさん?」

 

「そう、マジカル八極拳の使い手……あかいあくまの異名を持つ、素晴らしい女性。――遠坂さんは裏表のない素敵な人です」

 

何だかすごそうな肩書の女性のようだ……でも、何で後半は褒めているのに死んだ魚のような目で棒読みなんだろう。咲は首をかしげる。

 

「次にそのファッション! 淡いピンクのカーディガンに青いワンピース……ボトムスは脚線を綺麗に見せる細身の紺色デニム!」

 

間髪入れず死んだ目から復活して抑揚のついた声で次の褒め言葉らしきものが切り出される。

 

「一見して普通の春の女の子の装いといった感じだが、ワンピースにこだわりがある……ガーリー系に見えない程度に所々フリルやレースが控えめにあしらわれたワンピース……目立たないがその縫製の質にも目を瞠るものがある」

 

彼が口にしているのは今の咲の服装そのものだ。大体合っているように思える。実際彼の言うように漠然とワンピースでの強調を意識していたし、実はこれはそこそこ有名なブランドの服で縫製の質に対する称賛も的を射ているように感じられた。

 

何よりファッションなどの嗜みに疎い自覚があり軽いコンプレックスも密かに感じている咲としては、服装を褒められるのはまんざらでもなかった。

 

そわそわとして意味もなく横髪を弄りだす咲。口元が少し緩んでいる。こんな状況なのに。ちょろい。

 

さらに、

 

「そして……やはりなんといっても! 一番の魅力! これがなくては君を見初めることはなかった!」

 

男は畳みかけるように言葉を重ねていく。どんなことを言われるんだろう。咲は無自覚に言葉の先を期待しつつあった。

 

――そして。

 

「君の最大の魅力! それはっ!!」

 

「ミヤガワー? なんか凄いうるさいけど何かあったー?」

 

今にも最後の言葉が放たれようとしたとき、化粧室の入口から誰かが話しながら入ってきた。

 

「あ……ネ、エルティちゃん」

 

ネリーだった。つかつかと歩いてくる彼女。当然、彼女の歩みを明確に阻むようなものなどなく、やがて中に入ってきて咲と……アフロ男の前に姿を見せる。

 

「……え、何こいつ。男……だよね」

 

となればネリーの目にも男が……変質者にしか見えない存在が視界に入るわけで。

 

昔の漫画に見られる「どっしぇーい」みたいな感じの古臭い仰天ポーズで固まっているアフロ男の姿は、やはりどこまでいっても社会的には変質者でしかない現実をまざまざと感じさせた。

 

「悪気はなかったんです」

 

「え、何こいつキモイ」

 

こうべを垂れていきなり悲愴っぽく釈明しだしたアフロ男をネリーが舌鋒鋭く一刀両断する。確かに気持ち悪い。

 

「ぐはっ……そんな、もうちょっとオブラートに包ん、で……オジサンにはつらいんだよその言葉……」

 

オジサンに限らず本気で言われれば大体の人が辛いだろうが、何となく哀愁を感じさせる台詞を口にしてアフロ男は膝から崩れ落ちた。哀れな姿だった。

 

「……ミヤガワ? ほんとに何なの、コイツ?」

 

「え……っと」

 

変質者から切られたネリーの目線が咲へと向けられる。

 

便所の床に膝をついた哀れな男に咲は目を向けた。

 

そして一旦視線を外して周囲の風景を見回してから、

 

「変態の人……かな」

 

一言、率直な感想を口にした。

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