「……なるほど。借金取りから逃げてて、女子トイレに忍び込んだんだね。この人」
少しして。努めて冷静そうにネリーが話をまとめる。
内心もの凄く嫌悪があるのだが何とか今は押しとどめてやってる、というのがありありと顔に表れている。
「ギャハハハ、おいっ、とんでもないことしたなオッサン!」
「女子トイレっ……借金取りに追われて女子トイレの用具室に隠れるとかどんだけ切羽詰まってんだよ」
一方、付き添いの青年たちは明らかに面白がって物笑いの種にしている。
今は女子トイレの外。トイレを出てすぐの通路にネリー、咲、アフロ男、それと青年たちの合わせて五人がたむろっている形。
みっともない惨めったらしい醜態をさらす中年男の扱いに困りもたついたものの。何とか落ち着いて話せる状況になって、ひとまず女子トイレから出て、とりあえず話を聞こうか。そんな雰囲気になっている。
「いやー……ホントね、切羽詰まってたんですよ。何せこれ返さないと世界一周強制労働させられる船に乗せられちゃうもんで」
「それヤバいな!」
「何? 闇金かヤクザから金借りたんすか?」
だが、女性陣を置き去りにして男連中で勝手に盛り上がっているあり様で。本来主導権を握るべき被害者の女性のことなどまるで無視するかのようだ。
この現状がネリーは気に入らないようで腹立たしげに男連中を見ている。それはどういった理由からか……一番の被害者であるはずの咲は、何ら立腹しておらず男連中よりはむしろネリーの一挙一動が気になる。そんな素振りを見せていた。
「詳しくは言えないんだけどね、ヤバイとこに借りちゃったんだよね」
「あー、やっちまったなあオッサン」
「あいつらヤバいんだぜ? 首の回らなくなった債権者脅して犯罪だってさせるからな。二〇一〇年代から経済誌でも取り上げられるくらい問題になってたのに知らないのかよ?」
「マ、マジ? そんなのもあるの……」
というか、ネリーはともかく咲にはおっかない話になっていて割り込もうにも割り込めない。裏社会絡みの話なんて本来咲たちのような学生は知る由もなく、また迂闊に近づくべきでもないのだ。
……何だか安心してたけど、この探偵みたいなことしてくれる人たちもよく考えたらかなりグレーな人たちかもしれない……だったらどうしよう。
先ほどのある種極度に混乱していた状態から立ち直ってきて平静に近くなりつつある咲はふとそんな事を思う。
「ま、だから海へ強制労働? だっけ。その程度で済むならまだマシだって思っといたほうがいいぜオッサン」
「そうそう。もしかしたら割と人道的? な金貸しなのかもな」
青年たちはどう見ても二〇代そこそこの若者にしか見えない。そもそも年齢など聞いていないのだ。下手をしたら一〇代の可能性だってある。
一般的な感覚で言えば、社会の中では彼らは年輩者から『若造』や『青二才』と言われるような人たちのはずで。
それが、情けない姿ばかり見ているとはいえ、四十路はいってそうなアフロの中年男性にあろうことか講釈を垂れている。それも社会の常識のようなものをだ。
その光景は咲の目に異様なものとして映った。女子トイレに忍び込んだ変質者がどうとか、些末事として既に頭から吹き飛びつつある。
自分は……ネリーは、もしかして実態も知らずとんでもない人たちと関係してしまっているのではないか……。
――恐い。得体のしれない怯えが冷たい怖気となり背筋を滑り落ちていく。
「……ミヤガワ? 大丈夫?」
「……え?」
声がかかる。ネリーの声。
「……大丈夫、じゃないよね。顔色、凄いよ」
心配げにこちらを思いやってくれるような声。それは大げさかもしれないが、不可視の恐怖に暗くなりかけた視界に射した一条の光明のように感じられた。
「あ……」
「……何か恐い事あった?」
まるで揺りかごに揺られているような錯覚に陥る声だった。いつの間にか俯いていた顔をあげると、気遣わしげなネリーの表情、その青い瞳と、目と目が合う。
「……大丈夫。心配ないよ」
声が震えてしまわないか心配だった。だが震えなかった。それはひとえに……お姉ちゃんのお陰だ。もし素の私だったら……見せかけの虚勢すら張ることもできなかったろう。やっぱりお姉ちゃんはすごい。いつも頑張ってきてよかった、と心から思う。
同時に、
――悩んだこともあるけど……やっぱり、これをやめるなんて私にはできない。やめるべきじゃない。
強く、強くそう思った。
「……だいじょうぶ、そうだね?」
「うん。ちょっと……立ちくらみかな。心配かけてごめんね」
嘘をついた。真っ赤な嘘。けれどこれは意味のある嘘だ。詭弁かもしれないけど、そうすることが、自分のためにも、相手のためにも、良いことのように思うのだ。
「でさあ、そんときソイツらが――」
「ああ、そんなことあったあった――」
「ほおーう、なるほどね――」
狭窄を起こしていた視界が徐々に開けていく。周囲の様子を探ってみる。男性陣は飽きもせず、おそらくこちらの変調に気づくこともなく、話し込んでいる。話に夢中になっているのだろう。眼中にないようだ。
ふと、ネリーを見やる。すると。
「…………」
見たこともないような冷ややかな目で話し込む男三人を見つめていた。
その端整な双眸を持つ顔には何の感情も浮かんでいない。能面のような無表情。
「……ネ、……エルティ、ちゃん?」
淡白、というには無機質に過ぎるその表情。痛烈な既視感。それは……母が日常的に浮かべる表情と、あまりにも重なって見えた。まさか。ネリーに対して抱く印象がそれを錯覚として処理しようとする。
「……ね、ミヤガワ」
呼ばれる。優しげで穏やかな声。なんだか、違和感があるくらいに。
「……私、割と好きだよ。ミヤガワの事」
言葉を返せなかった。口を開きかけて、でも言葉にできない出所のわからない衝撃に圧倒され、立ち竦むようにその場に立ち尽くした。
▼
難題は意外なところから解決の糸口が見つかることがある。
けれど、その糸口を発想や直感で得ようとするなら。
そこに天賦や天稟といったものが要求されることもめずらしくない。
直感の中には情報に基づく閃きという考え方がある。その場合、後天的に蓄積されたものが重要になってくることもあるのだろうが、それは知識や理性に重きを置き、どちらかといえば直感そのものよりそれらに寄り添った見方のように咲には感じられる。
私には、知恵が欠けている。咲はずっとそう考えて咲なりにその知恵を補おうとしてきた。
そのための最たるものは……読書だろう。咲は読書そのものが好きだが、半面必要に迫られて読んできたという事情もあった。
本は……咲にたくさんの世界を、たくさんの見方を教えてくれた。
他人(ひと)の心なんてどうせわからない。そう匙を投げかけていた幼い咲の、押し潰されてしまいそうになる嘆きを和らげてくれた。
かけがえのないもの。本は咲の恩人のようなものだ。
――なぜ、いきなりそんなしかつめらしいことに思いを馳せているか。
答えは簡単、そうしないとやってられないからである。
「ぐ、ぬぬぬぬ……」
乙女らしからぬ唸り声が狭い室内に漏れる。ネリーのものだ。
先ほどまでいたファッションビルのテナントのうち、サービス業や飲食業といった店とは異なる、企業に貸し出されたテナントの一室。
普通の学校の教室の半分ほどの広さ。だが、幾つもの柱を作っている積み上げられたダンボールのせいで、随分手狭に感じられる。そんな部屋。
ネリーと咲は、そこで、なぜか部品を組み立てる作業をしていた。ずんぐりとした分厚い着ぐるみを着用して。
その部品の組み立てはよりによって精密さが求められるもの。着ぐるみを着た上でやるなどというのはぶっちゃけ正気の沙汰ではない。
あまりの難解さ、そこからのしかかる心身への疲労。そのせいでネリー……現在はた目にはアヒルを模したようなマスコットキャラクターに扮した中の人は、その可愛らしい着ぐるみのつくりに反して荒んだ顔つきが容易に目に浮かぶ威圧感を放出している。
「ああもうっ! おかしいでしょこれ!! 着ぐるみ着てやる作業じゃないよこれ!」
座り込んでいた姿勢から勢いよく立ち上がり、我慢ならない、といった具合にネリーが騒ぐ。立ち上がった瞬間に手にしたものを床に叩きつける。本当なら心底そうしてやりたいのだという苛立ちやら鬱憤が伝わってくる。
「まあまあそうおっしゃらず。慣れですよ、こういうのは」
ネリーの気分をおもねるような言葉を投げかけるのはアフロ頭の人。
「そんなこというなら自分でやってみなよ!」
「い、いや私は事業主ですから……」
このやりとり何度目だろう。ネリーと同じく作業に従事していた咲は一旦手を止めて行方を見守る。
全く同じやりとりが繰り返されているわけではない。が、似たようなものだ。ものすごく不毛。どこまでも平行線。
「ならせめて着ぐるみ脱がせてよ!」
「それが大事なんですよう」
「なんですよう、じゃないよ! 猫なで声だすな!」
「うっ……」
着ぐるみのアヒルと、アフロの男が口論を繰り広げるさまは何というか滑稽な絵面だった。
咲もできる事なら着ぐるみを脱ぎたい。咲は猫だ。名前はタマ。
「でもそれ着てやってもらわない事には……」
「……この変態」
おそらく蔑んだ目でネリーがアフロを見やる。まるで、男ではなくアフロに罪があるかのような言い草だ。ネリーの視線はアフロを捉えて離さない。
「へ、変態って。別にその着ぐるみ卑猥だったりしないでしょ! 名誉棄損だ!」
「うっさい! 変質者!」
変態の称号は女子トイレの件で与えられたらしい。男もそれに気づいたか、ぐうの音も出ないような様子で「ぐうっ」と呻く。あまりのわざとらしさに咲は少しいらっとした。こんな事はめずらしい。
反ばくできない事実を指摘され、変質者のアフロはそれから「いやだって……ねえ?」とか、「仕方ないじゃんねえ?」などと、自分を正当化しようとしていたがやがて彼自身あきらめをつけたのか、「はあ……」と肩を落とす。
「はあ……はこっちのセリフだよ。ほんとに……」
「エルティちゃん、大丈夫?」
疲労した様子のネリーが気にかかって声をかける。咲自身相当に疲れていたがネリーのほうがずっと心配だった。
「ああ、ミヤガワ。うん。疲れてるけどまあだいじょうぶ」
「ムリはダメだよ。絶対に言ってね」
頻繁に虚勢を張る自分を棚に上げて咲は言う。絶対、などと普段あまり使わないようにしている言葉が思わず口から出るくらい心配している。
「……ミヤガワこそだいじょうぶ? 勉強のあとに来たんでしょ? そっちのほうがよっぽど疲れてると思うけど」
確かな事を言われ咲は「うっ……」となる。こんな事なら勉強していた事など話さなければよかった。失敗したと思った。
「……ふふん、図星でしょ。ミヤガワこそムリはダメだよ」
優しげに得意げに言われて、ずんぐりした着ぐるみの中で咲はうつむく。複雑な心境。内面を見通されて、嫌な気持ちもある半面、わかってもらえて嬉しさが込みあげる。
こんな経験、めったになかった。
隠したい心の裡を誰かに知られるのは……咲にとって恐怖だった。ずっと、ずっとそう思って、そう感じて、小学校でも中学校でも過ごしてきた。知られないためになら。自分でも弁護できない事も、ひどい事を、たくさん、たくさんしてきた。
もう嫌だ。
そう叫びたくなった事もある。泣きわめいて、泣きついて、助けてほしい、赦してほしい、そんな欲求を秘めて生きてきた。
なのに。
「……うん。少し、疲れたかな。この作業大変だね」
咲は、正直に弱音をこぼしてしまう。
ほんとうは作業のせいだけじゃない。あわや襲われるかと思った女子トイレの体験から、一連の出来事が尾を引いている。
とくに……拘束から解かれた直後の、あの奇矯な振舞い……あれが一番堪えている、疲労の度合いで言えば。
「あり得ないよこの作業! ……そもそも、ミヤガワは付き合う必要なんてないんだから、やめていいんだよ?」
着ぐるみを着ながらの内職じみた部品組み立て。ネリーと咲がやっているのはそういう作業。
ネリーがやると言うから咲は付き合っている形。でもネリーだって好きこのんでこんな作業を引き受けたわけじゃない。
「一人で待ってても退屈だし……案外、やってたら慣れるかも」
本音だ。この苛まれるような作業にネリーが嫌々取りかかるのを傍観しているのはたとえ目の前にいなくたって嫌だ。したくない。
「帰るなら送ってくよ? ……それくらい、いいよね?」
アフロ男に顔を向けたネリーが脅すような口調に変えて言う。
「えっ、それは困……」
「は?」
る、と言いかけたのだろうアフロがぎろっと睨まれて押し黙る。怯えたように口に掌を当て震えている。
「帰れないって言うの?」
「ちょ、ちょっとコワイ……今どきの女の子コワイ……」
「帰れるの? 帰れないの?」
「か、勘弁してくださいよ」
年齢は親子ほど違いそうな二人の力関係が年功序列の理屈と相反している。
アフロからすがる目で見つめられる。助けを求めるかのように。
別に帰りたい意思があるわけじゃない。だから心の奥底に潜む咲は彼を助けてあげたいと思う。
だがその意思はなくとも咲はネリーの味方だ。それは、ダブルスタンダードを厭いながらも切り離せない、咲の内面をよく表す捉え方だった。
「宮川さんが重要なんですよ……彼女だからこそお願いしたんだ」
なぜ自分なのか、理由は幾つかあるらしいがその最たるところと聞かされたもの、咲にしてみればそれは不本意なものだ。
「この、ダイエット商品の宣伝や売り子、実演モデルにはスリムであることが求められるんです」
アフロが比較的真面目な顔で言うとネリーは不快そうに鼻を鳴らす。
「ネリーも同じくらいには痩せてるけど?」
「スリムなのは最低条件! 宮川さんには声や容姿といった武器がある!」
思わず咲はむっとした。頬がふくらむ。それでは、まるでネリーの声や容姿に魅力がないみたいではないか。
――私より絶対に魅力あるに決まってるでしょ!?
「エルティちゃんの何が不満だって言うんですか!」
怒鳴るような声をあげる。アフロとネリーが同時に振り向く。二人とも意外そうに目を丸くしている。
「み、宮川さん?」
「エルティちゃんはかわいいんです! 三国一です! いや世界一ですっ!」
宇宙一、と口にしかけて口を噤む。ほんとうなら事実を事細かに明らかにしてやりたいところだ。しかしこの勢いなら言わなくてもわかるはず。語勢同様咲の心情は暴走していた。
その影響は瞬く間に波及し、引き気味のアフロと、
「ミ、ミヤガワ?」
戸惑いがちのネリーという似たような反応を生み出す。
「あ……」
その反応……主にネリーのそれを見て、咲は我に返る。独り相撲だと気づく。
「……宮川さん。疲れてる?」
アフロ男が一転して心配するような事を言い出す。
「ほら! ミヤガワがおかしくなっちゃったじゃない! どうしてくれるの!」
一方ネリーは怒り出す。
――お、おかしくなったって……。
密やかに傷ついた咲だが顔や態度には出さない。
「い、いや、……大丈夫ですか宮川さん?」
ほとんど口答えせず丁寧に気遣うようなアフロ男。軽薄な態度ばかり見てきた彼にしてはめずらしい。咲はそう感じた。
結局、その日は二人揃ってそのまま帰っていいことになった。咲としては複雑な気持ちだ。
他の場所に行っていた付き添いの青年たちとはネリーの連絡で合流し、途中まで送ってもらった。
そして。
二人で歩く帰りの夜道、
「あ、そういえば」
咲が切り出す。
「ん?」
「今日は香水つけてないんだね」
ネリーが、硬直したように一瞬表情を固くする。
「ああ……今日はつけてないよ」
「へー」
「あんまり興味なさそう?」
相づちで関心の度合いを見抜かれたようだ。咲は苦笑する。
「うん。普段の匂いのほうが好きだから」
「……は?」
また、ネリーが固まった。今度は足も止めて硬直する。
「……あっ」
変な事を言ってしまったと気づく。これではまるで匂いに特別な嗜好でもあるかのようだ。
「……ふふ、面白い顔」
ネリーにからかわれる。よくある事。なのに。
「うう……忘れて」
すごく、恥ずかしかった。