「……」
全身から汗が噴き出しているのが分かる。自分の身体自体が心臓になったかと思うくらい、鼓動が大きく聞こえる。
逃げろ…走れ…脳から何度も出ているはずの命令なのに身体が動かない。ヘビに睨まれたカエルとはこういうことを言うんだろう。
今の状況を正確に言うとクマに睨まれた高校生だが。
「グルゥアアアアア!!」
中学生と肩がぶつかったヤンキーのような雄叫びをあげ、クマが身体を起こし、こちらに向かってくる。ヤンキーと違う点は金銭では解決できずに、クマに絡まれたら確実に死が待っているところだろうか。てか、想像の2倍くらいデカいんですけど、このクマ。
「うわわわわわ!!?」
だが幸いそんな雄叫びを聞いたお陰か、今まで脳からの命令を一切拒絶していた両脚が動きはじめた。俺は震える足を精一杯動かし、目前にせまる死の恐怖から少しでも離れようとする。とにかく、とにかく逃げないと!
しかし、ここは森の中。そして俺が履いているのはただのスニーカーだ。対する相手は森の生態系の頂点に君臨するクマだ。俺がウサイン・○ルトでもない限り勝てるわけがない。
ウサイン・ボ○トがこんな木の根が張りだしまくっている森の中でもその力を発揮できるかは知らないが。
「痛っ!!」
余計なことを考えていたせいで案の定、俺は木の根につまずき地面に顔からスライディングしてしまった。痛ってぇ!!これ絶対鼻血出てるって!
鼻を押さえながら慌てて身体を起こし振り返ると、目前にクマが立っていた。荒く獣臭い息を感じるくらいに。これは……鼻血どころじゃすまないな、うん。
「グルルルゥ……グアァ!!」
一呼吸の間、俺を見つめていたクマだったが、すぐに牙をむき襲い掛かってきた。
ちょっ!今の間は何だったんだ!?油断させる作戦ならもうちょっと我慢しないと!
後ずさろうとした手に当たった木の棒で何とかクマに頭から齧り付かれるのを防ぐ。
クマの口が目の前に来ている。押し返そうにも力は確実に負けているだろうし、なによりこの棒が持たないだろう。
ここまでか……。
諦めかけたその時、ガサガサと右前方の茂みから何かがやってくる音が聞こえた。俺は最後の望みをかけ、叫ぶ。
「た、助けてください!クマに襲われてるんです!」
頼む、茂みの向こうにいるのが猟師さん的な職業の人であってくれ!いや、この際主婦とかでもいいから、せめてライフル銃的なものを持っててぇ!!
現代の日本に猟師さんはどれぐらいいるのか、またライフル銃を携えて森に入る主婦は存在するのか……そんな考えを頭から振り払い、俺は心の底から祈る。その間もクマは一切力を緩めようとしない。空気読めや、このアホグマ!!
ガサガサと茂みをかき分ける音が大きくなってくる。こっちに向かってきてくれているようだ。早く来てぇ!!俺の腕と棒が悲鳴を上げてるって!!
「大丈夫ですか!?」
高い声が森に響く。やってきたのは……金髪の女の子だった。年齢は俺と一緒くらいだろうか。手に大きなバスケットを持っている。ライフル銃は……持っていなさそうだ。
駄目だ。到底クマと戦えそうにない。それどころか俺を襲ったついでに襲われてしまいそうな感じだ。
「ごめん!やっぱり逃げろ!俺が時間を稼ぐから!」
ついさっき助けを呼んだ奴が何言ってんだという感じだが、しょうがないじゃない。まさかこんな女の子が来るとは思わなかったんだ!!
「そんな!い、今助けます!」
だが、そんな俺の叫びを無視して、女の子は震えながら足元に転がっていた木の枝を拾い上げた。
そして目をつぶって深呼吸をする。
まさか、それで戦う気か!?無理無理!俺の持ってる棒よりずっと細いじゃん!!耐久力3とかだよ!その装備!!
「早く……逃げろ!!」
クマを必死に抑えつけながら、俺は叫ぶ。自分を助けようとしてくれてる人の命をそんな簡単に散らせてしまうわけにはいかない。
「逃げろって!!」
女の子がパッと目を開けた。そして木の棒をクマに向け、口を開いた。
「ファイヤーストーム……」
この子……何をする気だ?もしかして魔法でも使おうとしてるのか!?君、俺とおんなじくらいの年なのにまだ厨二病にかかってるの!?
「スーパーエターナルネバーエンディングフォーエバーボルケーノ……」
「長いって!!しかも意味かぶってるし!ってうおぉぉぉぉ!!」
俺のツッコミに反応したのか更に強い力で齧ろうとしてくるクマ。腕の筋肉がみしみしと音を立てる。やばいやばい!ほんとに死ぬって!
「ファイヤボール!!」
女の子が勢いよく言い切る。ちょっと今それどころじゃないから!うおぉぉぉ死ぬぅぅぅう!……ってあれ?
クマからさっきまでの力が伝わってこない。ていうより……ただクマにのしかかられてるという感じだ。あれ……?
試しにクマの下から身体をのけ、押し返すのをやめてみる。
ズズゥン!
小さな地響きをたてクマは地面に倒れこんだ。そしてそのままピクリとも動かない。
あれ?死んでる……なんで?
よく見るとクマの背中から煙が上がっているのに気が付いた。そしてクマの背中の真ん中あたりが黒く、炭化したようになっている。
「何が起こったんだ……?」
俺が座り込んだまま呆然としていると
「大丈夫ですか?……はい、立てますか?」
先ほどの女の子が、心配そうに俺を見ながら白い手を伸ばしてきた。
「あ、ありがとう…痛!?」
女の子の手を借り、立ち上がろうとすると右足に痛みが走った。
さっきは必死すぎて気が付かなかったが足をくじいていたらしい。近くに女の子の家族がやっている病院があるらしいので連れて行ってもらうことになった。
「こ、ここはどこなんですか?」
女の子の肩を借りて歩きながら、俺は尋ねる。
「??ここは、チャリッジ村のはずれにある森ですけど……旅をされてる方ですか?」
不思議そうに首を傾げながら、女の子は答える。
茶利路?……聞いたことない土地だな。訊き方が悪かったのかもしれない。
「あ……旅をしてるわけじゃないんですけど道に迷ってしまったみたいで…ここは何県なんですか?」
「ケン?すみません、ケンとは何ですか?」
「……へ?」
「それに…貴方が着ている服は何で作られてるものなんですか…?見たことない服です」
ちょっと待ってくれ…「県」を知らない。それに、こういう服を見たことがない?普通の学生服だぞ?ここは日本じゃないのか?彼女の顔立ちや髪の色はどう考えても日本人のそれとは違うし……。いや、ならどうして俺の話が通じるんだ?
考えれば考えるほど、次々と疑問が湧いてくる。なかでも一番わからないことが……。
「あの」
「はい、なんでしょうか?」
「さっき、どうやって俺を助けてくれたんですか?」
女の子は俺の言っている言葉の意味が分からないというようにしばらく目をぱちくりさせていたが、納得がいったのか手をポン!とついた。
「あぁ!はじめてご覧になったんですね!攻撃魔法は!」
「…え?」
「ですから攻撃魔法を見たのは初めてなんですね、と言っているんです!」
「魔法って、あの魔法……ですか?」
「他にどのような魔法があるのかわからないので、よくは分かりませんが、こういうのです」
女の子はそういうと右の手の平を上に向け
「ファイア」
と呟いた。すると、手の上に握りこぶしくらいの火の玉が発生する。
「なんで……」
俺が呆気にとられた顔をしているのを、感嘆と受け取ったのか、女の子が得意げに説明を始める。だが、俺には説明に耳を傾ける余裕はなかった。
「なんで…」
「……一番魔法で重要なのは、詠唱、つまり技名で……どうかしました?」
「なんで…この火は燃えるものがないのに燃え続けているんですか!?」
「……へ?」
これが、俺と魔法との出会いだった。