「僕と契約しないかい?」
始まりはリンゴの木の下にいた少女に掛けられた、その言葉だった。
少女がその声に振り返ると、そこには白い体をした小動物がいた。赤い目をしていてウサギのようにも見え、耳の形からネコのようにも見えるが、どちらとも違う。特に耳から伸びている毛の束にも見えるものが、こいつが少女が今まで見たどんな生き物とも違う存在だと教えていた。
「僕と契約すれば、どんな願いだって叶えてあげられるよ」
「どんな、願いでもですか……?」
その誘いに、少女は明らかに心惹かれているといった仕草を見せた。彼女にも一つ、欲しいものがあったからだ。
だが……
「その代わりに、あなたは私に何をさせようと言うのです? 私は代わりに何を支払えばいいのです?」
その問いは必然だった。まだどんな願いであろうと叶えるという言葉が本当だと決まってはいないが、仮にそれが可能だとして、この白い生き物は自分に何かを求める筈だ。その対価は、自分の願いと釣り合うものだろうか?
だがその白い生き物は、予想外の答えを返した。
「特に何も」
「え?」
思わず、聞き返す。
「だから、君は特に何もしなくて良いんだ。僕としては君が僕と契約し、そして願いを叶える事それ自体が重要だからね」
「…………」
正直、この生き物の言葉は胡散臭い事この上ない。何の代価も無しに、奇跡を起こして願いを叶える。無意味に奇跡を配って、この生き物に何の得があると言うのだ?
「疑っているようだね」
心を読んだかのように絶妙のタイミングで白い生き物が発したその言葉に、少女はびくりと体を弾ませ、動揺を見せる。
「じゃあ、試しに君の願いを言ってみればいい。奇跡なんだから、叶わなくて元々、叶えばラッキーぐらいに考えれば良いじゃないか」
「…………」
「少なくとも君の願いが叶う叶わないに関わらず、僕は君に何の代償も求めないし、何を強制したりもしない。それは約束するよ」
そう言われて、先程よりも大きく心が揺らいだ。
言われてみれば確かに、そもそもこんな奇跡は有り得なかった筈のものだ。だったら、試しに言うだけ言ってみるのも良いかも知れない。
「僕は……僕は、あの人が欲しいです」
「お姉ちゃん……ねえ、起きてよ……お姉ちゃん……!!」
夕日が血の色に大地を染めるその場所で、その少女は地面にぐったりと横たわった、彼女よりも一回りほど年上に見える女性を揺さぶっていた。
二人の周囲には瓦礫が散乱し、その少女以外には猫の子一匹が動く気配すら感じられなかった。
「お姉ちゃん……!! お姉ちゃん!!」
先程からずっと揺さぶり続けているが、女性は反応を返さない。その全身には無数の傷が刻まれ、そこからは夥しい量の血液が流れ出ていて、瞳は固く閉じられている。
からり、と乾いた音を立てて女性の手から小さな黒い宝石が転げ落ちた。少女は何気なくそれに手を伸ばして掴み、そして地面に影が落ちている事に気付いた。影の形は明らかに人間のそれではない。思わず顔を上げると、そこには白い体をした小さな生き物が座り込んでいた。
「どうやら、君がこの星の最後の生き残りみたいだね」
「私が……最後の……?」
呆然と呟く少女。嘘だと言って欲しいとの言外の望みを、白い動物は次の言葉で簡単に切って捨てる。
「事実さ。この星で生きている人間は、もう君だけだ。後は全て、魔女に殺された」
「……そんな……」
少女はがっくりと俯いてしまう。その瞳から流れ出す涙が、乾いた地面に吸い込まれていく。
「……君には願いがあるかい?」
「え?」
「こうなったのは僕の……正確には僕達の責任でもあるからね。少なくとも原因の一旦は担ってる。だからもし君に願いがあるのなら……それを叶えてもいい」
「……本当に?」
少女は顔を上げ、涙を拭く。さっきまで絶望で濁りきっていた瞳には、今はかすかに、だが確かに希望の光が宿っていた。
白い動物が今の彼女を見て何を思っているのか、その紅い瞳からはうかがい知る事は出来なかった。
「どのみち、この星はもう終わる。君の願いを叶えても、多分……僕が僕の役目を果たす事は出来ないだろうね。けど、良いんだ。僕が契約する事の出来るのは、きっと君で最後だからね」
「……どういう事?」
「僕は、僕達の種族には極めて稀な精神疾患を……」
そこまで言った所で白い動物は言葉を切り、ふるふると首を振った。
「まあ、良いじゃないか僕の事は……それよりも君だ。君には、何か叶えたい願いがあるかい? 僕と契約してくれれば、一つだけそれを叶えてあげるよ」
叶う願いは一つだけ。それを告げられて、少女は今まで自分が歩んできた十数年の中で一番速く、頭を回転させた。この白い小さな生き物が嘘をついているという可能性は、彼女の中からは消えている。
お姉ちゃんや、家族の誰か、それとも死んでしまった誰かを生き返らせる?
いや駄目だ。例え生き返らせる事が出来ても、もうこの世界が終わるって言っているじゃないか。それなのに生き返っても、死の恐怖をもう一度味わうだけだ。
じゃあ、この終わろうとしている世界を終わらないようにしてもらう?
それも駄目だ。例え世界がこのまま続いても、生きているのが自分一人では……
ならばどうすれば? ほんの十数秒ほどの間が、これほど長く感じた事はなかった。そして口から出た願い事は、
「この世界が、こんな事になったのはどこかで何かが間違っていたからだと思うの……」
「うん」
「だから私は、その間違いを見付けたい。そして間違いを正して、新しい未来を創る、その為の力が欲しい!!」
皆が、続いていく世界に生きる。その為に考え得る中で、彼女はそれが最善の願いの筈だと信じた。
不意に胸に熱さを感じ、手をやって押さえる。力を込める中で、さっき拾った黒い宝石の硬さが掌から伝わってきた。少女の体から光が溢れ、その光はやがて握り拳ぐらいの、碧色の宝玉として具現化する。
「契約は成立だ。君の祈りはエントロピーを凌駕した。さあ、解き放ってごらん。その新しい力を!!」
どうやって? と尋ねる必要は無かった。どういう訳かは分からないが、自分はその力の使い方を知っている。
宝玉に手を伸ばして、封じられていた力を開放する。この場に緑色の光が溢れて、何も見えなくなり、
「さよなら、お姉ちゃん」
最後にその言葉が響いて光は治まり、少女の姿はもう何処にも見当たらなかった。残ったのは少女が縋り付いていた女性の遺体と、白い動物だけだ。
「……頑張ってね」
白い動物は大きく天を仰いでそう呟いて、そしていきなり電池の切れたロボットのように、ぱたりと動きを止めて、倒れた。
そしてその世界に、生きている者はいなくなった。