ワルプルギスの夜の打倒。数百年に渡って存在し続け、ある種災厄そのものとさえ表現できた最強の魔女を倒す。これは一つの奇跡と言っても良かった。最初はあまりに成した事のスケールが大きすぎて実感が湧かなかった者も多かったようだが、今は各々が各々の形で勝利の喜びを噛み締めていた。マミなどはメアリーアンにサインをねだっている。彼女はアーサー王物語のファンだったらしい。
ほむらはまどかの手を取って、細い体を震わせていた。彼女にとってこの今は、この時間軸に来た時には夢にさえ思っていなかった光景だった。感動するなと言う方が無理な相談であった。
とそこに、この場の誰にもお呼びではない者が現れる。言わずもがな、キュゥべえであった。
「みんな、ご苦労だったね。まさかワルプルギスの夜を倒してしまうなんて。もしかしたらと思ったけれど、本当にやってみせるとは凄いよ」
低い可能性として想定してはいたが、実際に針の穴を通すようなその未来を実現させるとは。キュゥべえは彼の種族としては珍しい”揺らぎ”といったものを感じていた。それは人間で言う驚愕の感情に近いものだった。
「どの面下げて来やがった、手前!!」
せっかくの感動に水を差されたと怒った杏子はソウルジェムから愛槍を取り出し、切っ先を白い小動物の鼻先に突き付ける。魔法の使者は相変わらず動じなかった。
「ご挨拶だね。僕は純粋に君達へと、賛辞の言葉を述べに来たのに」
インキュベーターは嘘を吐かない。だからこれは彼の本心だった。
「でも、これからどうするんだい? ワルプルギスの夜を倒しても、イブが自分以外の全ての魔法少女と魔女を救っても、最後に残った一人はいずれは魔女になる」
それがまどかかイブかは分からないが。
一人でも魔法少女が残るのであれば、結果は同じ事だ。それでなくてもこの地球に来ている無数のインキュベーター達はこの瞬間にも願いを叶えて、魔法少女を生み続けている。
キュゥべえの言葉には言外に風華やイブ、ほむらの行動には意味は無かったのだという含みがあった。しかし、
「そんな事は、先刻承知なのですよ」
いつも通りのドヤ顔で、イブが言った。彼女はこの時の為に残しておいた産地直送(とっておき)のリンゴを芯まで囓り尽くしてしまうと、まどかへと近付いていく。
「イブちゃん……?」
彼女の意図が掴めず首を傾げるまどかに、イブは手を差し出して自分の魔力を発現させる。するとそこに、拳大の輝く立方体が出現した。
「これは、僕がインキュベーターを”捕食”した事で得た魔法少女と魔女に関する全ての知識……それを、まどかさんに託すのですよ」
「……分かった、イブちゃん、お願い」
数秒ほどの時間を掛けて、彼女の意図をまどかなりに理解したらしい。頷き、了承が得られたのを確認すると、光るキューブはイブの掌を離れ、まどかの胸に吸い込まれて消えた。
イブが最強の魔法少女に託した記憶には、彼女の考えている意図も含まれていた。まどかは、それが自分が思い描いていたのとそれほど違ってはいなかった事を確かめてもう一度頷くと、弓に魔力の矢を番え、天空に向けて放った。高々度へと達した矢は空中で拡散し、天に巨大な魔法陣に思える幾何学模様を描き出す。
天空の魔法陣からは小さな魔力の矢が雨のように放たれ、殆どは地平の彼方へと消えていったが、いくつかはこの場に集った魔法少女達へと降り注ぎ、彼女達のソウルジェムを砕いていく。
「なっ!!」
マミが驚愕して思わず目を閉じるが、数瞬して、自分にまだ意識が残っているのに驚いた。彼女だけではない。杏子にも、ほむらにも同じ事が起こっている。ソウルジェムが砕けているのに、彼女達の命は終わらない。
まどかの、この魔法によってソウルジェムが砕ける意味は死ではない。むしろその逆。転生と言って良かった。魔法少女から、人間への。
「僕にはエリクシルを介しての分解・再構築が限界だけど……まどかさんぐらいの力があれば、そんな面倒なプロセスを踏む必要は無い……直接魔法少女を人間に戻し、魔女の魂を解放する事が出来るのです」
風華のソウルジェムにもまどかの矢が突き立てられ、物質化した魂は形を失って再び彼女の中へと戻っていく。
魔法陣は数分に渡って光矢を吐き出し続け、そして最後の一矢がこの場へと下りた。魔法少女を人間に戻すこの魔法の対象となる者は、もうこの場には二人しかいなかった。
その内の一人、まどかのソウルジェムへと光の矢が命中し、彼女の魂もまた彼女の中へ、本来あるべき場所へと還る。
「これで、少なくとも現時点で魔女と呼べる存在はこの星から消滅し、魔法少女は一人しかいなくなったのですよ」
最後に残った魔法少女、イブが解説した。杏子は「どうして……」と疑問と抗議の声を上げる。まどかの魔法で彼女自身でさえ人間に戻る事が出来たのなら、イブだって戻れたはずなのに。何故そうしなかったのか。まさか忘れた訳でもあるまいに。
勿論、そんな間抜けなオチではない。これはイブと風華の計画通りの事であった。まどかはそれを忠実に実行していたのだ。
「杏子さん、良く考えるのです」
出来の悪い生徒に噛み含めて教える教師のような口調で、イブが言う。
「例えここで僕達みんなが人間に戻れても、魔法少女が生まれなくなった訳じゃない。インキュベーターが少女の願いを叶え続ける限り、同じ事の繰り返し、根本的解決は一切していないです」
「つまり、これからその根本的解決をするという事ね」
マミの鋭い考察にイブはにかっと笑みを見せると、自らの十八番にして専売特許である魔法(エリクシル)を発動させた。発生した血の霧は拡散せずに、彼女の肉体を包み込んで隠していく。
猛毒にして万能薬であるその魔法は、今は分解と再構築の内、分解の力を発動していた。イブの肉体がどんどん霧に溶かされ、消えていく。
驚いたほむらや杏子が飛び出して止めようとするが、風華とまどかが止めに入った。イブを信じて、黙って見ていろと目で制する。
紅い霧が晴れた時、イブの姿は何処にもなかった。彼女は自らの魔法に自分の肉体を溶かして、この場から消えていた。
だが、彼女はそこにいた。
肉体を失い、気配も、存在も何も無くなって、だが確かにそこにいた。
肉体という器、いやイブにとっては檻でしかなかったものから解き放たれた魂のみの存在、高次元の意識そのものがそこに立っていた。今の彼女は人間でもなければ魔法少女でも、無論魔女でもない。人間が持つ言葉で彼女を表現するのなら、相応しい言葉は一つだった。「神」と。
新しい次元に移行したイブが、語る。その言葉も声帯から出て空気を振るわせて耳に届くのではなく、魔法少女が使う念話に似て、頭へと直接声が響いていた。
「イブ……あんた、その体は……」
『僕や風華の望む未来の為には、僕がこの姿に移行する必要があったのですよ』
そう言って、イブはキュゥべえへと視線を向けた。
『キュゥべえ。君なら分かるのではないですか? 今の僕の姿が、何の為のものか……』
「それは……」
さしものインキュベーターも狙いが読めず、困惑したように首を傾げる。
肉体から解き放たれた事による、肉体の死に伴う精神の死の回避。更にそれによってもたらされる永い寿命、様々な外的要因に対する耐性。これは、まるで……
「イブ、まさか君は……」
少女は頷いた。
『僕はね、エリクシルによって得られた無限の叡智を束ね、それを更に発展させ続けていたのですよ。そして、見付けた。インキュベーターが開発したのとはまた違う、熱力学の法則に縛られないエネルギー、その概念を……』
それはエリクシルという”命”の魔法を司る彼女だからこそ、辿り着けた結論だと言えた。
『命は、命と命が交流する事によって生まれるのです。それは、誰しもが知っているです』
やや遠回しなその言葉に、この場にいる元魔法少女達の何人かは顔を真っ赤にして、何人かは何も言わずに俯いてしまった。そう、彼女達の誰もが、彼女達の父や母が出会ったからこそ、ここにいる。
『生命、魂は、ただ生殖に関わる行為によってのみ生まれるのではなく、命と命が交流する時、そこにエネルギーが発生する事でも生まれる。そしてマクロな視点で考えればこの宇宙だって一つの大きな命であり例外ではない事を、僕は発見したのですよ』
「そうか、だから君は、その姿に……」
そこまで説明されれば、宇宙に関してこの場の誰よりも理解しているだろう魔法の使者は、得心が行ったという風に頷いた。後ろではさやかが「何? 何? どういう事なの?」としきりに説明を求めている。イブはにっこりと笑うと、結論に入った。
『だから、僕は旅立つのですよ。新しい宇宙へ』
永い寿命や外的要因への耐性は、過酷な宇宙を旅する為に必要なものだったのだ。
『かつて魔女だったみんなの魂と一緒に。彼女達にも、僕と一緒で幸せになる資格があるのだから、です』
イブがそっと手を振ると、彼女の周囲に光り輝く無数の球体が出現した。まるで、人魂か鬼火のように。その一つ一つが、まどかの魔法によって解放された魔女の魂だった。
「君の理論が正しければ、この宇宙と別の宇宙の間にも生命の交流が生まれ……そこにエネルギーが発生する事になる。そのエネルギーがどれほどのものかは未知数……計り知れないけど……成る程、確かにそれなら、僕達インキュベーターもわざわざこんな方法でエネルギーを回収する必要も無くなるかも知れないね」
キュゥべえの補足説明にイブは我が意を得たりと頷き、名残を惜しむようにこの場の元魔法少女達を一人ずつ見ていく。そして最後に風華で視線を止めた。永い時を共に過ごしてきた相棒に、風華はぐっと親指を立てて応じる。たったそれだけのジェスチャーだが、二人にはそれで十分だった。
『それじゃあ、お別れなのですよ。みんな……』
その言葉が最後だった。イブも、彼女の周りに集った数多の魂達も、もうどこにも見当たらなかった。
「イブさん……行ってしまったのね。導きの星となる為に……」
マミが呟く。これを永遠の別れだと考えた杏子やさやか、ほむら、まどかの顔には悲壮感が滲んでいたが、風華は違った。彼女の顔は、晴れやかだった。そこは長年のパートナーならではのものがあった。イブの事は、誰よりも彼女が理解していた。
「これは、別れではないわ……イブも、私達も……そしてこの宇宙の、新たなる旅立ちの時なのよ……」
「確かに、そうと言えるかも知れないね」
風華の言葉に同意を示したのは、以外と言うべきか順当と言うべきか、キュゥべえだった。彼はもうここでやる事は何も無いという言わんばかりに元魔法少女達に背を向ける。「何処へ行くの」と強い口調でほむらに尋ねられて、一度立ち止まって振り返った。
「母星に帰るのさ。これから忙しくなりそうだからね」
「え?」
「イブの理論が正しければ、この宇宙全体のエネルギー量にも変化がある筈。もしそれが僕達のエネルギー回収効率を上回っていたとしたら、僕達は魔法少女を生み出すよりも、そのエネルギーをどうやって回収して、宇宙の延命の為に役立てるかを考えなければならないからね」
キュゥべえはもう立ち止まらなかった。最後に彼は「じゃあみんな、お別れだ。二度と会わない事を祈っているよ」と言い残した。それは彼にとっては捨て台詞でも何でもないだろう。むしろ純粋な願望と言っても良かったかも知れない。インキュベーターと人類が再び出会わないという事は、彼等にとって自分達の目的が達成された事に他ならないのだから。それは同時に、少なくともこの場にいる元魔法少女達全員の望む所だった。
小さな白い体が見えなくなって、風華は全員に向き直って、言った。
「さ、私達も帰りましょうか」