「おはよー、パパ」
「おはよう、まどか。ママを起こしてくれるかな」
父、知久と朝の挨拶を交わして、先に行っている弟のタツヤと一緒に朝に弱い母、詢子を起こす。今日のリボンを選ぶのに少しだけ時間を掛けて、着替えた後は家族一緒に朝食を摂る。
あの一月あまりの時間の中でも同じやり取りは繰り返されていた筈だが、すっかり忘れてしまっていた。あの時はあまりにも色んな事が起こりすぎていた。
あれから三ヶ月ほどの時間が過ぎて、こうしたやりとりはおよそ百度は続いていたが、まどかはその一度一度に起こった細かい変化が全て分かるようになっていた。それだけではない。通学路での小鳥の鳴き声や、草葉の上の露に気付くようになった。
きっとそれは、あの一ヶ月があったからだとまどかは思う。あの時間を経て、自分は随分と変わったと思う。少なくとも、もう漫然と日々を過ごしてはいなかった。凄く良い方向に考えてみると、あの一ヶ月は今の自分に色んなものをくれたのだ。無論、だからと言って二度と繰り返したいとは思わないが。
あれからのこの三ヶ月は、毎日が祝福、贈り物のように思えた。
パパの作ってくれた料理もこんなに美味しかったのかと、毎日が新しい発見の連続であった。
「そう言えば今日は、最近業績を伸ばしてきた企業の所に挨拶に行くんだけど……」
と、詢子が口にする。これにもまどかは、まだこの時は「ママが朝食時に仕事の事を話すなんて珍しい事もあるな」と何となく思っていた。
「そこのトップは、若いけど大したやり手だって話だよ。私も見習って、本気で社長の椅子狙いに行こうかな……」
「前にまどかが言ってたみたいに」と締めくくる。まどかにしてみれば朝の整容時のほんの世間話だったが、ひょっとして自分はとんでもない事を言ってしまったのではないかと、ちょっと怖くなった。
そんな風に考えていると、テレビのニュースが過日のスーパーセル被害(と、一般には認識されているワルプルギスの夜と魔法少女軍団との戦闘被害)からの復興状況を知らせるものから、別のニュースに切り替わった。
<本日、深雪カンパニーCEOの深雪風華氏がアフガニスタンの戦災孤児救済NPOに10億円の寄付を行う事を発表いたしました>
懐かしい人の名前が聞こえた気がして、まどかのフォークを動かす手が止まる。ややぎこちなく顔を動かしてテレビを見ると、そこにはやはり同姓同名の別人ではなく、戦友の元魔法少女の顔が映っていた。
「ああそうだ、この子だよ。今私が言ってたのは……まどかとそんなに年も変わらないだろうに、世の中には凄い子もいるもんだ……」
<深雪カンパニーは3ヶ月前に設立されて以来、驚異的な速度で業績を伸ばしており、特にロケット・航空・宇宙開発部門ではその高い技術力を評価されており、各国の企業から提携の申し出が……>
感心したように言う母親の言葉も画面の中にいるキャスターの台詞も頭に入らず、まどかは気持ちを落ち着かせようと口にした紅茶を気管に入れてしまい、激しくむせかえった。
「まどか、見た? 今日のニュース」
いつもの通学路では、いつも通り親友のさやかと仁美が待っていてくれていたが、今日のさやかは呆れたような笑顔を浮かべていた。多分彼女もテレビを見て自分と同じような状態になったのだとまどかが思い至るのに、さほどの推理力は必要なかった。
「風華さん、しばらく連絡くれないと思ってたらあんなコトしてたなんてね……」
「あら? 鹿目さんや美樹さんはあのCEOの方とお知り合いでしたの? 私、今度父に連れられてあの方と会食を行う予定があるのですが……どういったお知り合いなのですか?」
何も知らない仁美は答えに困る質問をしてくる。まどかもさやかもまさか「元魔法少女の戦友です」と答える訳にも行かず、「以前電車賃を貸してくれた」と誤魔化した。下手な言い訳だったが、良くも悪くも箱入りな仁美には通じたらしい。「ロマンチックですわね」と頬を赤らめる。
通学路の途中ではまた三人、見滝原中の制服を着た少女達が待ってくれていた。ほむらとマミ、そしてあの後すぐ転校してきた杏子である。そう言えば深く詮索した事はなかったが今日風華の動向が分かったのでついでに気になって聞いてみると、天涯孤独の彼女に学費や生活費を出してくれているのは他ならないあの若きCEOだという事だった。
「ピノキオは人間になれました。お話の中ならそれでめでたしめでたしのハッピーエンドだけれど、現実では人間になってそれから先の人生をずっと生きていかなければならないからね……深雪さんはあの時、既にここまで考えていたのね……」
感心する他は無いという表情でマミが言う。彼女の隣を歩くほむらは、ばつが悪そうな表情だった。風華の深謀は、まどかを救えれば後はどうなっても良いとある意味捨て鉢になっていた自分とは、比べ物にならない。彼女はずっと、未来を救うと同時に自分も救うつもりで戦っていたのだ。
「いくら彼女が数千年を生きてきた魔法少女でありその経験があるからと言って、三ヶ月で何もない所からあそこまでの事は出来ないわ……きっと、十分な元手を用意していたのね……」
「本当、とんでもない奴だよね。それにイブの方も、どうやら上手く行ったんじゃないか?」
ほむらの言葉に合わせるように、杏子が言う。この三ヶ月、ソウルジェムによる探知は不可能でも長年のカンから魔女が出現しそうな場所を見て回っていた彼女やマミであったが、二人が見た限り今の所魔女が現れた気配は何処にも、その残り香すら発見する事は出来なかった。
「せんぱーい!!」
学校近くに差し掛かって背後から掛けられた声に振り返ると、まどかとは少し違った風に桃色の髪をツインテールにした少女が、マミの腕に抱き付いてきた。
彼女は、かつてシャルロッテと呼ばれたお菓子の魔女だ。イブによって魔法少女として再生され、まどかによって人間に転生させられて後はやはり風華の援助によって見滝原中学に通っている。その中で、何故だかマミに懐いてしまいこうしたやり取りは毎日のように繰り返されていた。
「さ、遅刻してしまうわよ……急がないと」
溜息を吐きつつそう言ったほむらに促され、一行は学校の正門をくぐっていった。
ある筈の無かった未来が開けた。特にほむらにとっては魔法少女としてと、滅びてしまった未来そのものという二つの意味で。
今こうして皆でいられる事も、一つの奇跡。だがこの奇跡をただの奇跡では終わらせず、奇跡によって得たこの命を、どこまでも輝かせて生きよう。
言葉にはせずとも、そこに多少の齟齬はあっても、かつて魔法少女だった彼女達は全員がそうした想いを胸に、この時間を生きていた。
「ふう……」
窓からは周りにある殆どのビルの屋上を見下ろせるその部屋。深雪カンパニーのCEO室では、最高級の素材で作られた椅子にもたれかかりながら、風華が溜息を吐いた。
椅子と同じく豪華な作りの机の上には、決裁したばかりの書類が山と積まれている。彼女が呼び出しボタンを押すと、隣接した秘書室から彼女の秘書達がぞろぞろと出てきて、それぞれの担当部門の書類を受け取っていく。
彼女達はイブのエリクシルによって再生された歴代の魔法少女達だ。彼女達も人間に戻った以上もう魔法は使えないが、殆どの者には常人では想像も付かない修羅場をくぐって生きてきた経験がある。その時の覚悟を思い出せば、短い時間で秘書技能を身に付ける事もやってやれなくはなかった。
戸籍など勿論持たない彼女達にそれを買い与えたのも、風華だった。彼女は魔法少女であった頃から数千年を生きてきた知恵と知識を活用して元々は僅かであった資産を運用し、かなりの資金を保有していた。この会社の設立資金もそこから出ていた。
魔術師マーリンや楊貴妃、上杉謙信など伝記や神話の住人といった世界一贅沢な秘書達が退室すると、風華は煎れられた紅茶で一服し、窓から見られる絶景に目をやった。
深雪カンパニーが様々な事業の内、宇宙開発に特に力を入れているのには理由がある。あの後まどかから話を聞いた所、キュゥべえは彼女に「君達もいずれはこの星を離れて僕達の仲間入りをするだろう」と語っていたという。
インキュベーターは好きにはなれないが、彼等の発言それ自体には正当性のある物も多い。それは風華だけでなく、ほむらやマミといったある程度感情に流されず冷静な思考が出来る元魔法少女達も認める所だった(逆に杏子やさやか辺りには絶対に認められないだろうが)。彼がまどかに言ったその言葉もまた然りだ。
間違いなく自分が生きている間には不可能だろうが、いずれは人類もこの星を巣立ち、別の文明と触れ合う時も来るだろう。自分はその未来の為の、鎹(かすがい)となりたかった。その時に、人類がインキュベーターのようになっていない事を信じ、祈りながら。
「イブ……」
ふと、長い間連れ添った相方の名前が口から出る。今にして考えると、彼女は母星からの巣立ちどころか一気に別の宇宙への進出を果たし、自分が何百年後かを想定している段階を一足飛びに越えてしまった事になる。
歩みは遥かに緩やかであるが、自分も少しでもパートナーの背中を追いたい。それが、風華がこの会社で宇宙開発に力を入れているもう一つの理由だった。
「イブ……あなたは今、元気にしてる?」
少女の周りには、星のような数多の輝きが取り巻いていた。その光は一つ一つが魔女の呪いから解放された魂達だった。その魂達を引き連れた少女、イブは、眼下に渦巻く星雲を掴もうとするかのように、そっと手を伸ばす。
彼女達がいるのは宇宙空間のど真ん中。あらゆる生命の存在を拒むその場所であったが、真空も絶対零度も恐ろしい宇宙線も、魂だけの存在となった今の彼女達には無害な物でしかなかった。
イブは自分の周りの魂達に、優しく語りかける。
『見えるですか、みんな。ここが新しい宇宙。僕達の力を合わせて、この宇宙を生命で満たしましょうなのですよ』
彼女の言葉に賛同するように、周りの魂達がゆっくりと明滅した。
『そう、僕達みんなの力でこの宇宙を天国に……いや、楽園(EDEN)にしましょうなのですよ』