[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

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「長門」-3

 体の揺れで、意識が覚醒する。天龍の真剣な顔が、すぐ近くにあった。彼女の顔の後ろに見える空は、遠くに昇りつつあるのだろう陽の光を受けて、郷愁を誘う赤に染まっていた。点々と残る雲の漂う部分だけが、夜の青を保っている。「あいつら、陸に上がって来やがった」と彼女は言った。それを聞いて、僕はまず長門の様子を調べた。呼吸、脈拍、どちらも安定している。体温はやや低いが、前よりは上がっていた。流石は艦娘、それも戦艦だ。生命力とでも言うべきものが、人間とは桁違いだ。もう暫く休めば、活動も再開できるだろう。

 

「何隻いる?」

「二隻。戦艦タ級と重巡ネ級だ」

「分が悪いな。撃ち逃げで何とかならないか」

「オレもそう思ったさ。でもな、自分の艤装チェックしたか?」

 

 そう言われて、僕は艤装を調べてみた。ひどい有様だった。最後の爆弾が効いたらしい。砲は右腕の連装砲一門を残して全滅していた。数本残っていた魚雷は、詳しく調べると信管や推進装置が壊れていた。これではヒット&アウェイなどできそうもない。

 

「悪いが、寝てる間にちっと見させて貰ったぜ」

 

 自分がそれに気付かなかったことに僕は驚いた。うとうとしているだけのつもりが、幾らかは眠れたようだ。天龍の話では、彼女の艤装は万全ではないにせよ問題なく動くらしい。長門のものはどうかと訊くと、こちらも(測位装置(GPS)を除いて)無事だった。ただ、長門は回復していても依然として目を覚まさないし、彼女の主砲の弾薬は残り少ない。空母棲鬼相手に湯水のごとく使ったせいだが、これは責められなかった。ああでもして敵の注意を逸らしていなければ、僕の接近はもっと早くに見破られていただろうからだ。

 

「それじゃ、どうする。水偵を飛ばして爆撃してみるか?」

「重巡がまだ生きてるってことを敵に教えるには、何とも気が利いたやり方じゃねえか、ええ? まあ聞け、お前は荷物を持って長門と別の島に移るんだ。あっちの方に行け、浜が近い……バレねえようにやれよ。その間、オレがあいつらを引っ張り回す」

「砲の威力なんかはこっちが上だ。逆の方がいい。君が長門を連れて行くんだ」

「ダメだ。陽動に火力なんて必要ないし、オレじゃ長門は運べないからな。これが最善手だよ。無線は常時繋げとけ。移動が終わったら信号二回だ」

「僕と長門は君らの護衛に来たんだぞ。僕らが君を守るんだ。逆じゃない」

「意地張ってねえで言う通りにしろ! 分かんねえのか? もうそんなこと言ってる場合じゃねえんだよ!」

 

 僕と天龍は睨み合った。僕は彼女を守りたかった。本当だ。彼女を一人で戦わせたくなどなかった。でも、天龍が言っていることは正しかった。これが最善だ。長門が死ねば、遅かれ早かれ僕らみんなが死ぬ。それを防ぐには、僕は天龍を見捨てるしかないし、天龍は彼女だけで深海棲艦の前に立ちはだからねばならない。長門を置き去りにして逃げ出す、という考えが頭を過ぎらなかったと言うと嘘になる。だが、僕はそのことに大きな誇りを感じるのだけれども、そんな考えを強く憎んでいた。天龍だって、そうだろう。

 

「……いいな? よし、すぐ取り掛かれ」

 

 彼女は僕の返事を待たずに、敵がいるのだろう方へと駆け出していった。止めることはできなかった。荷物をまとめ、長門に艤装を装着させ、その上からブランケットを使って彼女の体を覆った。ぼろぼろではあるが、彼女の上着や下着なども置いてはいけない。サバイバルキットから小さく折り畳まれた防水耐熱加工済の袋を取り出し、そこに全て放り込む。歩くのには邪魔な僕の脚部艤装もだ。長門を担ぎ上げ、袋を手にして、僕は歩き出した。走れなかったのは長門の重みのせいだけではなく、斜面を下りなければならなかったからでもあった。

 

 足が痛む。脚部艤装は靴みたいなものだ。つまり、それを着用する時には靴下の上から履く。脱ぐとどうなる? 素足とほぼ変わらない。それで整備もされていない山の斜面を歩いている。地に落ちた枯れ枝、ごつごつした石、普段なら靴が守ってくれるあらゆるものから、僕の足は攻撃を受けていた。肩に掛かっている余分な重量のせいで、余計に痛い気もする。だが歯を食いしばって進む。聞こえるからだ。天龍の砲声と、敵の砲声とが。彼女は戦っている。僕と長門を逃がす為に、たった一人で、戦艦や重巡とだ。彼女が血を流し、命を懸けているというのに、足を止めるなどということは考えられなかった。

 

 斜面が段々と緩やかになっていく。(ふもと)が近いようだ。砲撃音は途絶えていない。僕は長門を安全な場所に連れて行ったら、天龍を助けに戻ることを決めた。彼女は別の島に移れと言ったが、その後のことについては「移ったら信号を二回」としか指示しなかった。そこで待機とは言わなかったのだ。

 

 無心で進む内、遂に地面は水平と思えるようになった。がくがくと足が震えるが、歩くのはやめない。日光できらきらと光る砂浜が、僕の足を焼こうとも、進み続ける。波打ち際で僕は長門を一時下ろし、脚部艤装を装着した。それから長門を担ぎ直し、近くの島へと移動を始める。全速力では音や航跡が目立ちすぎるので、巡航以下の速度に抑えなければならなかった。目指すのは、この島々のところに来た時に見た、建物のある島だ。生き延びたいなら、使えるものが調達できる場所を拠点に選ぶべきだろう。その点、廃墟となった町や村というのは、最適な場所だった。深海棲艦たちはここを待ち伏せ地点にしているのかもしれないが、まさか廃墟に住んでいる訳でもあるまい。

 

 降り注ぐ陽に汗を流し、長門を守る為だとしても逃げ隠れするしかない自分に毒づいていると、後頭部で呻き声が聞こえた。長門が目を覚ましたのかもしれないが、声を出すのははばかられた。何をするにしても、安全地帯に移動してからだ。

 

「仕方ねえよなあ」

 

 無線から、天龍がぼそりと呟くのが聞こえた。敵の砲声も、重なって聞こえた。僕の心臓の鼓動が、ますます早くなる。やられたのか? 怪我をしたのか? 僕は彼女を助けられないのか? 今すぐ引き返して一緒に戦いたかった。そんな僕を笑うかのように、天龍のこもった笑い声がノイズを伴って耳に届いた。「こんな風に終わる、なんて、思ったこと……なかったぜ、そうだろ?」僕は声を聞かれるかもしれない危険を犯し、天龍の名を呼んだ。愚かな行為だったが、それをしないのが立派な艦娘だというのなら、僕はいつまで経ってもそんな風にはなれないだろうから、艦娘なんかやめてしまった方がいいと思う。答えはなかった。恐らくは、無線の送信スイッチを入れたままにしているのだろう。だから、こちらの声は聞こえないのだ。

 

 ごほごほと、天龍は水っぽい咳をした。何かを吐き出す音も聞こえたし、彼女の息は浅く、荒いものだった。肺をやられたのだ。それは今の状況から考えると、致命的な負傷だった。彼女は呟き続けている。「タ級、タ級がいねえ……死に損ないは、部下任せってか。いい度胸だぜ、クソがよ」僕にはそれを聞いていることしかできない。無線を切ろうかと思った。天龍は撃たれた。彼女は死ぬ。もう助からない。戦友がゆっくりと死んでいくのを、耳元で聞かされ続けるのは苦しかった。しかし、これは彼女の最後の言葉なのだ。彼女が、より長く続く筈だったその生涯において発する、最後の思いなのだ。誰かが聞いていてやらなければいけなかった。誰にも知られないままに死んでいくなんて、悲しすぎる。そんな死は彼女には相応しくない。

 

「あいつ、もう逃げられたかな。もう、いいよな。一番最後の、お楽しみだ」

 

 天龍の刀がちゃきりと音を鳴らすのが聞こえた。最早抑えられていない、子供のような笑い声も。彼女はやっと、苦しそうに叫んだ。「見てろよクソったれ! 天龍型一番艦、天龍、行くぜぇ!」雄叫びを上げ、ざくざくという足音を立てて、彼女は敵に向かっていったのだろう。無線は突然に途切れ、一つの事実だけが僕の精神を支配した。もう、僕と長門しか残っていない。死にかけている長門と、役立たずの僕しかいない。何が重巡だ、何が世界唯一の男性艦娘だ。僕は戦友を、同期を、守ることさえできなかった。一緒に死んでやることも許されなかった。生き延びてしまった。僕は僕が僕でなくてもっともっと強い誰かだったらと思った。涙が溢れ、視界がかすんだ。僕が日向だったら、妙高さんだったら、長門だったら、武蔵だったら、天龍を守れたかもしれない。彼女と共に戦えたかもしれない。龍田は姉妹艦を、親友を失わずに済んだかもしれない。あの浦風は旗艦を失わなくて済んだかもしれない。僕が、僕より強い彼女たちの内の誰かだったら。

 

 何度もまばたきをして、視界を確保する。嘆きは深く、僕の心は引き裂かれんばかりに痛んでいる。この苦痛を癒してくれるのは、仇の死だけだろう。僕は自分に尋ねた。理由は一人の女性だ。一人の艦娘だ。彼女は死に、僕が何をしようとも戻って来ることはないだろう。その彼女の為に、まだ生きている自分のこの柔らかな肉体を恐ろしい敵の前に晒して、戦う価値はあるのか? 僕は注意深く考えた。一時の感情に流されてはいけないと思った。そして結論を出した。天龍の死は奴らの血であがなわれるべきだ。この結論が正しかったかどうかなどということは、誰にも言えないだろう。僕自身も含めてだ。というよりも、これはそういう問題ではないのだ。僕がどう考えるか、というテーマと、その考えの正当性というテーマは、一切の関連性を持たない。

 

 目的地の島に上陸し、再び山へと上がる。山を下りたり、海上を航行している時には感じていた筈の長門の体重を、その時の僕は感じなかった。きっと、怒りが活力を与え、神経を麻痺させているのだろう。足を進め、木々の奥、海から見えない場所に立っていた朽ちかけの木造の小屋を見つける。一も二もなく僕はそこへと立ち入った。何もない小屋だ。劣化したガラス窓と触ったら崩れて落ちそうなカーテンがあるだけで、床などはところどころ腐っているという有り様だった。だが天井はあるし、風も防げる。海から直接見えないなら、火を使っても砲撃される恐れは少ないだろう。

 

 腐っていない部分を選んで、そこに長門を横たえさせる。もちろん、艤装を外してからだ。僕の艤装から壊れた砲塔をパージし、それを彼女の足の下に置くことによって、下肢を二十センチほど高くする。弾薬は抜いてあるので何かの拍子に爆発してしまうようなことはない。長門の呼吸など、バイタルを確認する。随分平常に近づいて来た。間もなく目を覚ますだろう。僕は彼女の服を近くに置いておき、小屋を出て、海から見られないように気を使いながら枯れ枝を集めた。

 

 火を起こすべきかどうか、まだ分からない。だが、用意をしておいて悪いことはない。火があれば多くのことができる。サバイバルキットの中の保存食を温めてから食べることも可能だ。体力回復には重宝するだろう。そんなことを考えてしまったせいで、ぐう、とお腹が鳴った。

 

 小屋に戻り、閉じていた扉を足で開けると、天地が反転した。背中から床に叩きつけられ、首に冷たい砲口が触れる。僕はなるべく落ち着いた声で「おはよう」と言おうと試みたが、様々な感情が入り混じってしまったように思う。僕を投げ飛ばした当の本人は、床に倒れている相手が深海棲艦ではないことに気づくと、残念そうに押さえつけていた右腕を離した。「ここは?」と立ったまま僕を見下ろして、彼女の服を着直した長門は言った。「天国に見えるかい?」と言い返してやるが、その程度では彼女の気持ちを傷つけられなかった。「状況はどうなってる」「君は片腕になった。天龍は」死んだ、と言おうとして、その言葉の持つ重みに僕は恐怖した。「やられたよ。敵はネ級とタ級。空母棲鬼は撃退した」長門は床に座り込み、吐き捨てるように言った。「なるほど、今度は私の番という訳か」彼女がこの海域で親友を失った時のことについて言及しているのだと、僕にも理解できた。長門はこちらを見て、力なく自嘲の笑みを形作った。

 

「こんな時に傍にいるのがお前とはな」

「同意しよう。沈みかけた君を引っ張り上げたり、気を失った君の濡れた服を脱がせてブランケットに包んで温めたり、天龍が命懸けで時間を稼いでいる間に君を安全な場所まで連れて行ったりしたけど、僕なんかいない方がきっとよかっただろうな。何しろ君の言うことなんだから間違いない。それで? 気分は?」

「ひどい」

「そりゃよかった。僕はこれから食事をして、夜まで休んで、それから天龍を迎えに行く。君は寝てればいいさ。一日二日もすれば、天龍の駆逐隊が迎えを寄越してくれるだろうよ」

 

 寝っ転がったまま、今はもういない戦友と話し合った希望を、長門にも伝える。駆逐隊が無事に味方の基地に到着していればいいが……長門が言うには、少し待っても戻って来なかったら先に行くようにと指示を出していたそうなので、多分大丈夫だろう。まさか怒り狂った空母棲鬼に偶然出くわしたということもあるまい。

 

 立ち上がって、長門が脱ぎ捨てた僕の服を着直し、部屋の片隅に行き、そこで腰を下ろしてウェストポーチから保存食を取り出す。投げ飛ばされた時に散らばった枯れ枝を集めるのは後にしよう。食べて、体力を保ち、行動に相応しい時を待つのだ。ブロック状のエネルギー食は僕の口をぱさぱさにしてくれたが、高カロリーは保証されている。食欲の湧く味ではないが、贅沢は言えなかった。喉に詰まらせないようにしながら、胃へと押し込んでいく。水はない。あれこれと用意しておいて、水がないとは。何という愚かしさ! 生きて帰れたら、僕の「安心」に二キロそこらの追加をしなければならないな。

 

 食べながら、半径三キロ以内にいる唯一の生きた艦娘であろう長門を見る。彼女は左腕を失ったこともあってだろうが、意気消沈している。そんな彼女を見ると、僕はむかむかしてくるのだった。天龍が命を懸けたのは何の為だったんだ? 僕が必死で努力したのは、こんな、ただの女みたいな奴を助ける為だったのか? 僕の言葉が彼女に響くことはないだろうが、それでも何か言わないではいられなかった。僕は彼女を力の限り、あたかも彼女が敵であるかのように睨みつけて、刺々しい声を投げつけた。

 

「僕の実技教官は右腕がなかったが、僕を百人合わせたよりも強くて、堂々としていたぞ! 君はなんだ、めそめそと情けない!」

「お前に何が──!」

 

 すると彼女は、僕がびっくりして身をすくませてしまうほどの荒い語気で食って掛かろうとして、そこで言葉を止めた。僕は怯んだ体勢のままで次の言葉を待った。彼女は「おいおい嘘だろう?」という顔で、僕に尋ねた。

 

「その教官というのは、那智じゃなかったか? 顔に火傷痕のある奴だ、そうだな?」

「え? ああ、そうだ。僕の実技教官だ。何故君がそれを? いや、まさか、君の」

 

 彼女は、ゆっくりと首を縦に振った。「そうだ。私の、親友だ。守りきれなかった」「彼女の隊は全滅したって聞いてた」「違う。私とあいつだけが生き残った。丁度、今回みたいな護衛任務で、私とあいつが志願して、ここを通った時に……そうか。だからお前は、私たちの研究所に来たのだな。本当に、あいつの代わりだったのか」僕は黙っていた。長門の言葉から推測すると、那智教官が提督に口利きをして、僕を広報部隊から引き抜かせたのか? なら、僕があの岩礁での交戦を経験しなかったとしても、ある日転属命令を受領して、ということになっていたのだろうか。

 

 あの日、第二艦隊が僕のいた広報艦隊と合同の仕事をすることになっていたのは、それに提督が付いてきていたのは、全部、僕を──そこで考えるのをやめる。ここでそれを考えたところで何にもならないし、大体、那智教官が僕の為に手を打ってくれたというだけの話じゃないか。実力を評価されたんじゃなかったのか? などと思って傷つくほど、僕は子供じゃなかった。大事なのは過程じゃない。その最終点だ。僕は実戦部隊に配備された。那智教官の、言わばコネでだが、それがどうした。とにかく僕はそこの一員だ。構成員として恥じない仕事をしている限り、誰にも文句は言わせない。

 

 僕は突然、長門のことがじわじわと愛しくなってきていることに気づいた。恋愛的な感情ではない。彼女が那智教官と親しかったという事実を知って、どうしてだろうか、心が穏やかな気持ちになったのだ。那智教官のことを思い出したからかもしれない。僕は優しい声を出すように心がけ、長門に休息を勧めた。「ねえ君、ちょっと休んでいなよ」彼女は気持ち悪いものを見る目でこちらを見てから、しかし僕の気持ち悪さと発言の正しさは別のことと判断して、頷いた。一々癇に障る奴だ。

 

 長門は壁に寄りかかって座り、言いにくそうに尋ねた。

 

「那智とは、親しかったのか?」

「実技訓練教官とかい? 当然だろ! 強盗と家主ぐらい親しい間柄だったさ……まあ、普通の関係だよ。彼女は僕を鍛え、僕はちょっぴり彼女を憎んだ。でも感謝してる。彼女はいい教官だ」

「そしていい艦娘だった」

 

 長門がまるで、かつてはそうだった、みたいな口調で言うので、「今でもな」と僕はすかさず訂正した。艦娘であることがどういうことか、僕は知っている。それは前線に立つかどうかが決めるのではない。性別や、所属する部隊や、普段やっている任務の性質が決めるのではない。実戦部隊でもろくでなしはろくでなしで、広報部隊でも艦娘は艦娘だ。脅威の前に立ちはだかる時、後ろに回した全てのものを守り抜くか、守り抜こうという試みの中で死んで行くことを謙虚に誇りとし、覚悟するという信念が、艦娘であるかどうかを左右するのだ。だから那智教官は今でも艦娘だし、天龍もまた、当然にそれだった。彼女にとっての艦娘の定義が何であったにしても、天龍は僕にとっての艦娘の定義を完璧に満たした女性だったのだ。

 

「長門と一緒にいた頃は、どんな感じだったんだ? 僕の知ってる那智教官は、常時不機嫌そうだったが」

「よく笑う奴だった。厳格な軍人みたいな顔をしている癖に、冗談と酒が大好きで、生真面目な他の艦隊員なんかをしょっちゅうからかっていた。加賀の矢があるだろう? 艦載機じゃなくて、普通の矢だ。あの馬鹿、あれの先に何だったか、とにかくとんでもないものを刺してな……それで激怒した加賀に尻を射られた上、悪戯の罰として入渠も禁じられて、一週間出撃できなかった。笑えるのはな、その間、寝る時は必ずうつ伏せだったんだ。尻が痛むから、って」

 

 想像できなかったが、想像しようとはしてみた。加賀が怒るところは何とかなったが、那智教官が加賀の矢に悪戯をして尻を射られるところは、どうやってみても無理だった。僕は一時、自分がどんな状況にいるかや、友達が辿った悲惨な運命のことを忘れて笑い、長門も笑った。僕ら二人がこんなに近くにいて、こんなに愉快な気持ちでいるなんてことがあり得るとは思いもしなかった。こんな日が来るとは。けれど得てして思いもしなかったことほど、何の因果か起こってしまうものなのだ。

 

 それから僕らは、協力して小屋の中で火を()いた。換気や、外から見えやしないかということに気をつけながら作った小さな火だったけれど、近くにいると暖まることができた。が、僕についてはかなりの時間、小屋の外にいなければいけなかった。見張り役を務めていたからである。長門は本調子ではなかったので、なるたけ早く万全な具合まで持っていく為に、見張りのようなキツい労働から解放してやったのだ。僕は指を噛んで寒さや眠気に耐えながら、見張りを行った。ただ海を眺めていたのではなく、敵が陸に上がってこの小屋に来た時の為に、罠を仕掛けたりなどもしていた。サバイバルキットの中のワイヤーなどが、ここで役立った。深海棲艦を殺せるほどの罠は無理だが、接近を知ることができるだけでも十分役に立つ。

 

 暗くなって来たので一度小屋に戻ると、長門は火の近くで何かを食べていた。「君の持ち物は希釈修復材程度かと」などと僕が言うと、彼女は「私とて備えはする」と言った。何処に隠していたのだろうか? 興味を覚えたが、教えてくれと言える仲ではない。僕は彼女の向かいに腰を下ろし、これから自分がどうするかを話すことにした。

 

「天龍を迎えに行ってくるつもりだ」

「友軍が来た時の方がいい」

 

 長門の助言は、常に彼女がそうあろうとしているように、正当かつ説得力があった。友軍は来るだろう。明日か、明後日か、それは分からない。だがその頃に天龍の体がどうなっているか、これは分かる。彼女は死んだ。彼女は世界にとって、今や新鮮な肉の塊だ。山と土の住民たちは、こぞって彼女にたかるだろう。そんなことを許してはおけない。僕は彼女を取り返す。彼女の葬式の時に、棺の覗き窓を開けられないような状態にしたくないのだ。動物に食い荒らされた愛娘を見て、親はどんな反応をする? 彼女の戦友や親友はどうだ? 激しく損傷した遺体でも復元してくれる技術者たちがいるのは知っているが、そもそも損傷させない方がいいに決まっている。

 

 僕がそういうことを言って反論しようとするのを、長門は右手を突き出して止めた。「だが、私もお前の立場なら、同じことをするだろうな。一人で大丈夫か?」この質問には、一見僕を気遣うようなニュアンスが見て取れる。だが実際は、単なる確認だ。もしここで僕が手伝ってくれと言ったら、彼女は手伝ってくれるだろう。大丈夫だと言えば、小屋で大人しくしているだろう。どちらがいいか? 僕は考えた末に、助力を頼んだ。彼女は頷いた。

 

 外に出ると、早々と真っ暗になっていた。なので天龍の最期の地となった島まで、攻撃を受けることなく僕らは移動できたが、個人的には残念な気もしていた。もし連中が仕掛けてきていたら、仇討ちできたかもしれないのに、と僕は思っていたのだ。その仇討ちというのが、天龍に再会することになる危険性をたっぷりと持っているということは、意図的に無視されていた。長門を担いで上がった、あの砂浜に立ち、進む。途中で足元に光るものがあり、拾って見てみると、僕の水筒だった。ありがたいことだ。僕はそれを定位置に戻し、戦闘の痕跡を探した。それはすぐに見つかった。

 

 声を出さず、足音もできるだけ出さないようにしながら、折れた木や着弾の痕を辿って歩く。途中、僕は根っこか何かに足を引っ掛けて転びそうになって、近くの木に手をついた。その手がべとりとしたものに触れた感触がしたので慌てて見てみると、誰かの、恐らくは天龍の血にまみれていた。負傷して、体を支える為にそこへ押し付けたのだろう。血は乾きかけ、固まりかけていた。次の痕跡を探そうとして、見当たらず、足を止める。それから僕は天龍になったつもりで、血塗れの木に背中を預けた。

 

 僕は撃たれ、出血し、疲労している。希望はなく、一人だ。下を見る。どちらから追われている? 砂浜のあった方からだ。僕の目的は逃げることか? 違う。敵を引き寄せることだ。なら、素直に逆方向に逃げる。砂浜から遠ざかるように歩きながら、地面を注視していると、天龍の血痕が残っていた。それを道案内にして進む。やがて、目的地に着いた。僕はハンドサインで長門を止め、恐る恐る、黒い人間大の物体に接近した。暗すぎて、もう離れたところからでは天龍かどうかさえも分からなかった。手で投光部を押さえながら、電灯をつける。それを近づけて、ようやく彼女が死の間際に何を成し遂げたかを知った。

 

 天龍は前のめりに倒れ、凄惨な笑顔のまま、かっと目を見開いて息絶えていた。その両手は刀の柄を固く握っており、その切っ先は彼女が押し倒したネ級の胸に突き刺さったままだった。傷から察するに、天龍は刃を上にして腹を刺した後、胸まで切り上げたようだ。隻眼の少女の左脇腹は砲の直撃を受けてか、いびつな円形にえぐり取られたかのようになっており、内臓の一部がネ級の傍らにこぼれていた。少し、糞便の臭いもしている。だがそんなことで気後れするようなら、そもそもここまで戻っては来なかった。

 

 ネ級の死亡を確認し、二人の体を引き離す。天龍の凝り固まった手から刀を外すのには苦労したが、どうにかやり遂げた。それを彼女の腰に提げられていた鞘へと戻し、体を抱え上げる。そうして間近で見てみると、天龍の笑みは死に至るほどの戦闘への歓喜と、「陸で死ぬとはなあ」という皮肉げな感情が混ざったもののように思えた。そしてまたしても、那智教官が正しかったことを知った。

 

 彼女は以前、頭の三割近くを吹き飛ばされながら、自分に致命傷を負わせた深海棲艦を道連れにして逝った艦娘について語り、僕らも訓練所を出るまでにそうなると言った。天龍は、まさにその通りのことをやったのだ。弾を受けたのは頭ではなく腹だったが、自分一人では殺されなかった。手を伸ばし、戦友への愛おしさから彼女の髪の毛を撫でる。「とうとう、英雄になったな」と僕は呟いた。それが僕にできた精一杯の、力ない慰めだった。

 

 小屋に戻り、床に寝かせる。目を閉じさせ、表情を整えてやる。彼女の戦争は終わった。きっとあの世で、悔しがっているだろう。そして落ち着いたら、その場で彼女の新しい戦争を始めるだろう。僕は天龍が天国と地獄のどちらに行ったのかと考えた。どちらでもいいが、僕が行くのは彼女が行かなかった側にして欲しいものだ。

 

 天龍の服から土や汚れを払い、彼女の顔を見る。僕が見つけた時、彼女がどんな表情だったかを思い出す。彼女がどんな艦娘だったかを、その記憶の一つ一つをなぞる。はっきり言って、僕の知っていることは少ない。利根や北上との思い出なら沢山ある。隼鷹との思い出や、第一艦隊の友人たちとの思い出、武蔵との不愉快な関係のことなら、多くを話すことができるだろう。一方で、僕と天龍とは、親しい関係ではなかった。だからこそ、可能な限り明確に覚えていなければならなかった。彼女の最期を知ることを望む全ての人々の為に、いい加減な記憶では話せなかった。

 

 およそ、彼女について僕が想起しうるあらゆる記憶を呼び覚ました後、僕は艤装の整備点検に取り掛かった。整備点検と呼ぶより、応急修理と言った方がいいかもしれない。僕は壊れた砲塔から使えるパーツを取り外し、組み合わせることで、左肩の砲塔を復活させることができた。これで右腕と左肩の二門が使えるようになり、戦意も大いに湧いた。他にも、魚雷を慎重に分解して砲塔と同じ要領でニコイチ修理し、天龍が残した魚雷と合わせて、雷撃二回分の魚雷を用意した。これらを何に使うかという質問に対して、僕は既に答えを持っていた。

 

 タ級を始末するなら、今夜の内だ。でなければ救助隊が来てしまう。僕の復讐心もしぼんでしまい、代わって戦闘への忌避心が台頭するだろう。近づけるだけ近づいて、倒す。僕は天龍の刀を借りることにした。ナイフよりも長さがあり、重さもある。それに天龍はタ級に一泡吹かせることができなかった。奴が彼女を侮って、ネ級に任せたからだ。その侮辱への返礼としても、刀を持っていこうという気にさせられた。使わなくとも、邪魔にはならない。

 

「空母棲鬼に襲われて、護衛対象が全滅した時」

 

 小屋を出ようとすると、長門が呟いた。振り返る。彼女は僕に背中を向けて、火に当たっている。表情は見えない。

 

「奴の手駒を全員沈め、追い払ってやったが、那智は顔と右腕を怪我していた。腕は特にひどくて、ずたずたになっていたのを覚えている。希釈修復材が切れていたから、通常の止血剤で血を止めた。助けはすぐに来ると思っていた。だが、来なかった。捜索隊は出ていたらしいが、別の場所を探していたんだ。その内に腕が壊死を始めた。私はあいつを押さえつけて、腕を……切断した。止血剤も最初の手当てでなくなっていたから、焼いて血止めをした。それから、あいつの艤装の燃料を私の艤装に移し替えて、島を出た」

 

 開きかけていた小屋の扉を閉め、長門の隣に腰を下ろした。彼女の顔を見るつもりはなかった。ただ二人で、火を見つめていた。僕は彼女に訊ねた。

 

「親友を一人で置き去りにしたのか?」

「壊死を始める前に、話して決めていたんだ。助けが来そうになかったら、そうしようと。私は必死で研究所まで戻り、救援の部隊と共に那智の元へ向かい、山の中で倒れているあいつを見つけて、連れ帰った。だが那智の腕は私が施した血止めのせいで元に戻らず、顔の傷も全快しなかった。そうして、あいつは艦隊から除籍された」

 

 長門がどうしていきなり彼女の過去を話し始めたのか、僕にはまだ分からなかった。もしかしたら、それは懺悔のつもりなのかもしれない。無論、僕にそれを聞いてやる義務はないし、僕は神父でも父なる神でもないから彼女に赦しを与えることもできない。だが、僕がそこにいて、彼女が過去を語って、それだけで長門の気が楽になるなら、僕は喜んでその場にいることを選ぼう。彼女が背負っている何か重いものを、下ろす一助になれるなら。彼女の次の言葉を待つ。長門は火の脇に転がっている一本の枯れ枝を、小さな炎の中に差し入れた。

 

「私はするべきことをした」

 

 言葉尻は震えていたが、その声には揺るぎない信念が宿っているのが分かった。もし那智教官を救う為に、彼女の両手両足を奪わなければならないとしたら、長門はそれをやっただろう。あるいはいっそ、彼女を楽にしてやっただろう。しかし、その言葉には信念だけではなく、悔悟の念も含まれていた。それが震えとなって現れていたのだ。「するべきことをした、しようとした、だが守れなかった。前回も、今回もだ」視界の端に映った長門の拳が、きつく握られるのが見えた。拳は込められた力によって微動している。

 

「お前は、私が撃たれた時の、あの空母棲鬼の言葉を聞いたか?」

「『変わらない限り、何度でも繰り返す』だったか。あっちも君を覚えていたようだ」

「深海棲艦の言葉など、真面目に受け止める方がどうかしているだろうが……気づいたんだ。奴の言葉にはな、一つの教訓がある。それも確かなものが。変わらなければ、繰り返す。繰り返していては、変われない。違う結果を求めるなら、違う行動を選ばなければならない。分かるか?」

「その言葉の意味は分かるよ。君が何を言いたいのかは分からないけど」

「するべきことをして、二度続けて失って、ようやく私は悟った。遅すぎたが、それでも自らを正すのに手遅れというものはないだろう。いいか、よく聞け」

 

 彼女はこちらを向いた。僕は数センチほど後ろに退き、長門の目を見た。そこには今でも、僕への悪感情が揺らめいている。誠実さ、苦悩、必死さ、自分の気持ちを理解して欲しがっている様子も見て取れた。

 

「私はお前が嫌いだ。理由は知らないが、お前を見ている時にはそのことさえどうでもよく感じる。だがな、お前は……私にとっての救いかもしれないんだ。

 

 私が変わることのできる、最後の機会かもしれないんだ。私の失敗をなかったことにすることはできないが、自分がそこから学んだということを、自分自身に納得させられるかもしれない。その鍵になるのは、お前なんだ。

 

 運命だ。お前が私と出会ったのも、私と那智を襲った空母棲鬼が数年ぶりに現れたのも、きっと運命なんだ。そうじゃないか? 那智がお前を鍛えた。お前はそれに見事に応えた。だから那智はお前を私の艦隊に送ろうとした。だから私は、あいつの席に収まろうとするお前への嫌悪を高ぶらせた。だからお前と私はここに来た。

 

 提督は第二艦隊から一人を選ぶつもりだったが、私がお前との問題を解決しようとしているのを理解して、許可を出してくれた。天龍はよく知らない相手を、それも戦艦や重巡を二人も指揮するのは嫌だと言ったが、一人は同期のお前だったから仕方なく受け入れた。だから空母棲鬼を撃退することもできた。だから、天龍を失いながらも、まだ私たちはここで生きている。分かるだろう? いつでもお前だ、お前の存在が鍵になっているんだ!」

 

 彼女は彼女自身も知らない内になのだろうが、僕に詰め寄り、僕の左肩を無事な右手で強く掴んでいた。僕は何と答えるべきか分からなかった。運命、そんなものを信じたくはない。長門が僕を憎むことが、結果的に彼女を過去という苦しみから救うことに繋がるという運命となれば、尚更だ。それはちょっと、ひどすぎる。なので、僕は彼女の考えを肯定する気にはなれなかった。かといって、否定する気にもなれなかった。だから結局、僕が彼女の長台詞に返したのはたったこれだけの言葉だった。

 

「それで、どうしたいんだ?」

「するべきでないことをする。これまでしようとしなかったことを、やってみる。誰であれ、何であれ、私から三人目を奪わせはしない。……戦艦長門は、今夜、お前と共にある。共に戦いへと赴き、お前を守ろう。理屈だけで考えれば行くべきでないにせよ、私はそうしよう。それが私の、私が変わる為の第一歩だ。違う結果を生み出す為の第一歩だ。信じろ、私はお前を必ず守る。今度こそ守り通す。一人にはしない。何があろうとも。さあ、私の手を取れ、共に征こう」

 

 彼女は腰を上げ、僕を見下ろし、手を差し出した。

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