[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

33 / 49
「洋上」-6

 港から自動車道の痕跡をたどって歩いていく。道はやがて川沿いになった。見る限り清浄な水のようだが、飲むなら沸騰させてからの方がいいだろう。腹を下したくはない。そのまま進むと、道沿いに小さな倉庫があった。僕らはそこに押し入り、倉庫にぽいと投げ捨てられ、置き去りにされていた箒などを使って埃を払ってから、腰を下ろした。倉庫は空っぽで、隅から隅まで探しても見つけられたのはバケツが二つと例の古ぼけた箒だけだった。

 

「火を起こすとしよう」

 

 反対者はいなかった。いたとしても無視された。薄暗い倉庫内を照らす明かりの為にも、飲料水の確保その他の為にも、僕たちはそれを必要としていた。火の起こし方などはみな分かっていたので、そちらは青葉と北上と利根の三人に任せて、僕と教官は地図を囲んだ。隼鷹は操縦士の面倒を見させておいた。彼女は既に落ち着いていたが、火を任せたいとは思えなかったのだ。

 

「ここは何処だと思う? 僕はここまでの移動距離や湾の形から、この島じゃないかと思うんだが」

 

 地図の一点を指で示す。そこには米粒みたいに小さな字で「エスピリトゥサント島」と書かれている。かつて存在したバヌアツ共和国の領土で最大の大きさを誇る島だ。ガダルカナルまではおよそ千キロほど離れている。ならショートランドまでは千五百キロほどか。教官は僕の意見に同意してから「上陸するべきではなかったかもしれないな」と僕の他には聞こえない程度の声で漏らした。「何故だ?」「見てみるといい、隼鷹や北上、利根、青葉……みんな、陸に戻って気が抜けている。ガダルカナル島まで残り千キロでも、海に戻れという命令を喜んで聞くとは思えない」「クソったれ」ぼやいて天を仰ぐ。言われた通りだった。見れば、北上たちは「後はゆっくり救助を待つだけ」という顔をしていた。僕だって旗艦じゃなきゃ、彼女たちより少しだけ余計に事態を把握していなけりゃ、そんな顔をしていたのだろう。

 

 無線で救助を呼ぶか? でも深海棲艦はこの島にも来ていた。生き残りが傍受して、襲撃を掛けてくる可能性は否めない。そうでなくとも、近隣の深海棲艦を呼び寄せることになる確率はある。こちらの通信を傍受したら、奴らは待ち伏せを仕組むだろう。救助に来る艦隊も危険に晒される。ショートランドの提督にもそれぐらい想像できる。だから救援要請を握り潰される恐れまであった。

 

 やはり、ガダルカナルまで行かなければダメだ。ここで休息し、然る後にあの島に行くのだ。そこで無線を使い、ヘリを呼ぶ。僕は決定した。艦隊員が文句を言おうと知るか。僕の仕事は艦隊指揮であって、彼女たちのご機嫌伺いではない。もし北上や利根が僕に文句を言ってきたとしても、僕は片眉を上げてから、「黙って言う通りにしろ」と言えばいいのだ。それで憎まれたり嫌われたとしても、結局は僕の判断が彼女たちを救ったとなれば、落ち着いた頃に僕らはまた友人に戻れるだろう。艤装をつけて研究所の外、海の上にいる間は、僕の命令には絶対服従して貰う。それは軍のルールでもある。

 

 僕は教官に声を掛け、一緒に倉庫の外に出た。そして、彼女に自分の考えを話した。教官は黙って聞いてくれていた。僕が話し終えると、彼女は頷いて言った。

 

「分かった。すぐに私から伝えよう」

 

 那智教官の反応には、肯定的な意見も否定的な意見もなかった。僕は彼女にすがりついて、問い掛けたかった。教えて欲しかった。僕の判断は正しいでしょうか? 僕は彼女たちみんなの命を握ってるんです、あなたの命もそこに入ってるんです、間違えることは決してできないんです──だがそうはしなかった。できなかった。もう僕は彼女の庇護下にある候補生じゃあなかったからだ。その逆に、僕が彼女たちを庇護する立場にあるのだ。口が裂けても「僕は正しいか?」などと聞ける訳がなかった。僕は教官の顔をじろりと見て、ぶっきらぼうに「頼む」と言った。

 

 すると僕が予期し得なかったことが起こった。那智教官はじっとして立ったままでいる僕を置いて、先に倉庫内に戻ろうとして扉に手を触れ、それから開けるのをやめて僕の方を振り向いた。彼女の顔は懐かしい「那智教官」の顔だった。「第五艦隊二番艦の重巡那智」ではなく。あの訓練所で僕を鍛え上げ、今日まで生き残る最大の理由となってくれた、あの強く美しい女性の顔だった。那智教官は言った。

 

「念の為に言っておこうと思うんだが……貴様は、よくやっているよ」

 

 彼女が「那智教官」に戻ると同時に僕も半分だけ艦娘候補生に戻っていた。それで僕の心は「はい、教官」と言おうとしたのだけれども、旗艦の口が「早く行け」と突き放そうとした。だから教官が僕の答えを待たずにさっと身を翻して建物の中に戻ってくれて、本当に安心した。彼女に向かって何て言い草だ、と自分を責めずに済んだのだ。僕は倉庫の壁に身を預け、ずるずると座り込んだ。土の感触が服を通して肌に伝わり、ひんやりとしたが気にならなかった。目を閉じて空を仰いだが、まぶたを貫く明るさを厭って俯き直した。

 

 どれだけそうしていたか分からない。意識が飛んでいたから、眠っていたのだと思う。気づくと、隣に誰かがいた。僕はまだ目を閉じていたが、ほのかな汗の臭いと混じった個人特有の匂い、それから吐息の音から、その誰かとは隼鷹だと知れた。僕は目を閉じたまま言った。「どうしたんだ」漏れ聞こえてくる声で他のみんなは倉庫内にいると分かっていたし、寝起きで頭や体が怠さの影響下にあったから、それを悪用して先と違って僕は旗艦の仮面を被らずにいることができた。隼鷹は言った。

 

「悪いね、起こしちゃって」

「どうせいつまでも寝ている訳にはいかないさ。それで、質問にまだ答えてくれてないな。僕はどうしたんだ、って言ったんだぜ」

「答えたくないと思ってるとは考えないのかい」

「今更お互いに隠すようなことがあるのかね。僕も君も、一番みっともない姿を見せあった仲じゃないか」

 

 含み笑いをして、隼鷹は体を揺らした。

 

「それは否定できないねえ。例えばほら、初めて飲んだ時のこと……」

「覚えてる」

 

 僕は彼女が言い終わる前に答えた。「覚えてるとも。最悪の夜だった、主に君のせいだ。追い出されるまでは楽しかったけどね」「え? ありゃそっちが悪いんだぜ。お陰で二度とあの店には行けないと思ったよ」「でも後でまた行った」「そしたらあたしらを見た店員が──」「可哀想に、泣き出しちゃってな。キュートな女の子だった」くすくすと笑って、僕らは互いの肩を叩き合った。そして、店員に悪いことしたよな、悪いことしたよね、と同じことを言い合った。笑いが引き、目じりに浮かんだ涙の粒を指で拭ってから、僕は隼鷹が話してくれるのを待った。幸い、長く待たなくてもよかった。

 

「港で騒いでたの、さ」

 

 遠くで過去の隼鷹の声が聞こえた。わお、死んでるぜこいつら。すげえ。ばらっばらだ。吹っ飛んでるんだよ。いや吹っ飛ばされちゃったんだよって言うべきだね。ここでめちゃすごい爆発とか起こったんだぜ、きっと。

 

「あれ、あたしじゃなかったんだと思うんだよね。何て言ったらいいかな。あたしじゃなくって、誰かがあたしの中にいて、代わりにあれを見てくれた感じ。そいで、代わりにコメントして」

 

 彼女の言葉は末に近づくに従って、力を失っていった。最後の聞き取りうる音がかすれて消えると、僕は「ああ」と即座に相槌を打った。

 

「気にしないでいい。君は悪いことをした訳じゃない」

「うん。あたしは……違うんだよ、あれはあたしじゃなかったんだ」

「なあ、別のことを考えよう。そうだな、帰ったらワインでも飲みに行かないか?」

 

 この話題は隼鷹の注意を逸らす上で絶大な効果を発揮した。彼女はぼんやりしていた視線を急にしっかりとしたものにして、僕をすねたような恨めしげな目つきで、ひと睨みしたのだ。

 

「響の代わりにだろ」

「誘ったの知ってたのか?」

「断られたこともね」

「やれやれ、女の子に隠し事はできないな」

「違うね、あたしに隠し事ができないのさ」

 

 反論はできたが、僕はしなかった。その代わりに誤解を解くことにした。

 

「隼鷹、君を誰かの代わりになんかしやしないよ。僕はただ君と話したいだけだ。何を話すことになるか、今は分からないけど」

 

 彼女は次の言葉を発さなかったので、それから隼鷹が立ち上がって倉庫に戻っていくまでの数分間、僕らは黙っていた。黙祷のような静けさが互いの間にあった。その行為が誰に向けられたものであるにせよ、神聖にして侵すことのできない、張り詰めた時間だった。僕は背中にかゆみを感じたが、その掻痒(そうよう)感が耐えがたくなってもまだ動かなかった。やっと彼女が僕の前から姿を消して、動いても誰に咎められることがないと分かっても、何となく身じろぎするのが後ろめたいことのように思われた。しかし背中はやたらと蚊に刺されたみたいにかゆかったし、日は雲の薄膜越しにさえ僕の肌を焦がすので、僕は背に手をやってかきむしってから、残り少ない敏感肌用日焼け止めを節約しつつ体の露出部に塗りつけなければいけなかった。

 

 昼食を取り、日が落ちるのを待ってから出発した。昼食の後、教官と北上が倉庫から少し離れて山に入り、二人で協力して野生化した小さめの豚、かつては人に飼育されていたのであろう先祖を持つ獣を一頭仕留めたので、夕食は自分たちが遭難中であるということを忘れそうになるほど豪華なものになった。味付けこそ貧相なものだったが、肉は僅かな余りを残して食欲旺盛な艦娘たちに食べつくされてしまい、僕はその余りを切り刻んで豚の血を混ぜてこね回し、腸詰にしてバケツで煮てから、港に戻って取ってきた海水で塩味を更に足し、いい加減な保存食にしてみた。やりようが悪かったのか血生臭さがどうしても取れなかったが、食料を増やすのは大事なことだ。寄生虫を殺し切れていなかったとしても、明日や明後日に何か引き起こすことはないだろう。

 

 夜、久方ぶりに空が晴れて、丸い月が姿を見せた。もっと早く晴れてくれていれば、と思わずにはいられなくて、僕は天空に浮かぶ無慈悲な女王を睥睨(へいげい)した。その無礼さによって彼女から顰蹙(ひんしゅく)を買ったのか、女王は彼女の映す光を遮ってしまわないほどの、雲というよりはたなびく煙みたいな薄布で、その丸顔を覆った。僕らはぼんやりとした星月の明かりの下で、島を出た。島に近づく時は昼がいいが、出るのは夜に限る。近づく際に事故を起こすことはあっても、離脱の際に事故を起こすことは少ないからだ。ただ今日までの数日間、夜と言えば何の光もない暗闇を意味したので、それに慣れた第五艦隊の生き残りたちにとっては、月や星やらが出ていると明るすぎて落ち着かないほどだった。

 

 ガダルカナルまで、千キロ。時速六十キロで進めば、約十六時間で到着する。容易いことではない。そこそこ休みを取れたとはいえ、体調も最高の水準にあるとは言えない。燃料はかつかつで、足りるかどうか計算してみても不明だ。海流や風、それに運が味方してくれれば、ガダルカナルに行けるだろう。いやはや、運か! あらゆるものが自分次第なのだ、と常々己に言い聞かせている身として、最後にはそれに頼らなければならないというのが口惜しかった。

 

 運とは、全く! 神様の加護も幸運も僕にはなさそうだというのに。大体、前者については僕以外の人々についても疑わしい。響を見てみるがいい、彼女ほど敬虔な信者はいなかったが、神は加護なんて与えずに彼女をお召しになった。それとも、何だ。神を信じながらその愛の教えに背いて深海棲艦たちを殺し続けた響は、最初っから神を軽んじて、時々こっそり彼を侮辱までしていた僕よりも重い罪を負っていたのか? それならいっそ、響を永遠にでも生きるように呪ってやればよかったじゃないか。ついでに僕のこともそうしてくれればよかった。

 

 ところが主は彼女を罪から解放してやろうなどと、おせっかいで周りのことを考えない行いに出やがった。こんな馬鹿な話があるか? 響は神を愛していた。響は娘が父親を愛するように彼を愛しており、神もまた彼女を、父親が娘を愛するように愛してくれているのだと信じていた。多分彼女の信じた通りだったのだろう。だからこそ主は僕ではなく、那智教官でもなく、隼鷹や青葉や利根や北上ではないあの響を、ことに彼女を選んで海に叩きつけたのだ。これはとても道理に合わないことだ。目も合わさないような他人ではなく、父と娘の間柄になったからこそ、その娘を打って殺すとは。

 

 でも主が人を彼自身に似せて作り出したのだとすれば、道理に合わないからこそよく似ていると言えるのかもしれない。

 

 そんなことを考えるのは、こうやって冒涜的なことを思うことで、響の信じた彼が下りてきて、僕を苦しめてくれやしないかと願っていたからだ。僕も響と共に苦しみたかった。彼女が死を迎えるまでの短い時間に体験した苦痛は、僕が後六十年生きたってその半分も知ることのできないものだろう。彼女と苦しみたかった。彼女の経験を知りたかった。そのようなことは、響が生きている内に済ませておくべきだったのだ。僕は僕自身の臆病さや、「明日がある」型の根拠のない楽観論によってその機会を未来永劫失ってしまった。

 

 僕でなければ、助けられただろう。例えば僕の席に教官が座っていたら、響は彼女の腕の中にいたに違いないのだ。とにかく僕以外の誰かであれば、あのよき友人の命が浪費されるようなことはなかった。

 

 頭を振って、響に関わる思考を追い出す。今は自分を責めて悦に浸るよりも、やるべきことがある筈だ。僕が守れなかったものをこれ以上増やさないようにしなければいけない。何度もその言葉を思い浮かべて、決意する。響の次は僕だ。第五艦隊みんなが生き延びる為に必要な対価があるとしたら、それは僕が支払おう。たとえその対価というのが自分の命であったとしても──そんな自己陶酔に陥りそうになり、僕は拳を強く握って肌に爪を立てた。よしんばその通りになろうとも、自己犠牲などに酔ったまま死にたくはない。僕の膨れ上がった自尊心は、そのような逃げ道を許さないのだ。少年の心において大部分を占めるこの厄介な腫物は、あくまで立ち向かうことを要求する。その時が来れば、恐怖に糞尿を漏らし、がたがた震え、死にたくないと言いながら、それでも戦って死んでいくことを。

 

 夜が更けていき、やがて五度目の太陽の復活を僕らは見た。燃料はその不足が知られ始めた。脚部艤装は失っていたものの、艤装の全てを喪失した訳ではない者たちから、彼女らの燃料を貰っての行動も、最早限界が近かった。残念ながら、島に着く前に燃料は枯渇するだろう。そのことが影響してか、僕は考えを変え始めていた。島に着かずとも、どうしても切羽詰まったら、その時点で無線を使うのもいい。確実な死よりも僅かな可能性に賭ける方がいいというのは、誰もが賛成する論理だ。

 

「長くて三時間、短ければ二時間が限度だ」

 

 那智教官は疲れた顔を隠そうともせずに言った。何か気の利いた皮肉とか冗談を言いたかったが、思い浮かばなかったから「オールがあるさ」とだけ答えておいた。ガダルカナルまで残り四時間。悲観的に考えて二時間は機関を用いての移動が可能だとして、残り二時間分……つまり百キロそこらはオールや、天蓋を利用した帆走での移動となる。今日が終わる頃にはまた陸へ上がれることを祈り、僕は渾身の涜神として十字を切った。

 

 あるいはそれがよくなかったのかもしれない。冒涜から半時間と経たないで、主は侮辱への報復を実行した。水観が、僕らの進行方向に待ち伏せを発見したのだ。ヲ級、リ級エリート、ル級、三隻の駆逐イ級。この報告をしてきた水観は、とうとう戻らなかった。ヲ級の艦載機に発見されたからだ。以前の妖精たちとの取り決め通り、第五艦隊の位置を教えない為にその妖精は空で散ることを選んだ。けれども、その英雄的行為に関わらず、僕らは相変わらず危険に晒されていた。ヲ級が偵察機を出すに違いなかったからだ。それを防ぐには、方法は一つしかなかった。

 

 僕は救命艇を止めさせ、艦隊員たちを集めた。彼女たちの胸を打つような演説をしようと思えばできたろう。那智教官が涙を流すレベルは無理であるにせよ、じんと来るほどのものならできた筈だ。だが僕は彼女たちを無闇に感動させる為に集めたのではなかったので、端的に話すことにした。「ヲ級を含む敵が待ち伏せている。水観が発見され、撃墜された」反応はなかった。五人の艦娘たちは次の言葉を求めて僕を見ていた。「このまま放置すれば、敵は偵察機で以って我々の位置を突き止めるだろう。それは阻止されなければならない」隼鷹が小さく頷いた。「こちらから攻撃を仕掛け、混乱に乗じて離脱する」利根と北上の目に、ぎらぎらとした戦意の光が宿った。危なっかしい、破れかぶれの士気だった。「ただし」座っていた那智教官が、腰をふと少し上げた。

「攻撃に参加するのは一名だけだ。そしてその役目は、僕がやる」

 

 予想と違って、誰も「ちょっと待てよ!」とか「そんなのって!」みたいなことを言わなかった。随分とあっさり受け入れられたことに拍子抜けしながら、僕は「利根、僕に代わって艦隊の指揮を執れ。二番艦と協力して当初の目標を達成しろ。復唱」「吾輩が一番艦に代わって指揮を執り、二番艦と協力して、当初の目的を達成するのじゃ」というやり取りを済ませた。

 

 救命艇を離れる前に、燃料を継ぎ足して貰った。敵の懐に飛び込んで暴れ回るだけの燃料もなければ、何の為に僕を一人で行かせるのか分からなくなる。隼鷹が作業を手伝ってくれた。彼女は言った。「持っていけるだけ持ってきなよ。じゃなきゃ、戻ってくる時に困るだろ?」「そしたら泳いで帰るさ。なあ、隼鷹」多分、ごく自然な口調で話を切り出せたと思う。

 

「何さ」

「ワイン……」

「いいよ」

「やった」

 

 用意が済むと、僕は残りの艦隊員たちに何も言わずに救命艇を離れた。だって戻ってくるんだもんな、と胸の中で呟く。なのに別れの挨拶をするなんて、筋が通らないじゃないか。艇はオールを使って迂回しながら進むらしい。利根と教官なら、上手くやるだろう。僕はそう信じた。

 

 一人きりで進んでいると、上空で警戒に当たらせていた最後の水観数機が、こちらに向かっている敵の航空機を見つけ、その方位を知らせてきた。僕はそいつを見つけると、あえてこちらに気付かせてから、撃ち落としてやった。きっとあれを放ったヲ級は、偵察機を僕の方に向かわせるだろう。そして攻撃隊を送りつけてくるだろう。全速力で進み続ける。水平線の向こうに、人の頭が見えた。艦娘ではない。ル級の頭だ。盾を持っている。イ級の姿も近くにある。リ級エリートもいる。ヲ級も。全員いる。歓迎会だ。僕は水観を収容した。

 

 それから未来位置に向けて魚雷を放ち、回避機動に入る。こちらに気付いた敵艦が、砲撃を放とうとするのが見えたからだ。僕のいた辺りに幾つもの水柱が立ち、ヲ級の頭上が彼女の艦載機で薄暗くなる。当てることではなく、気を引くことだけを考えて撃ちながら、蛇行して攻撃を回避する。心の中の天龍が色めき立って歓声を上げる。「やってみろよ、ほら、当ててみろ! 楽しいなあ、戦争なんだぜ!」だが僕の頭はいつものように「当たりませんように」一色で埋まっていて、天龍について考えている余裕はなかった。

 

 幸運が一つ舞い降りた。僕を撃ちながら追っかけるのに夢中になったル級の足に、魚雷の一本が直撃したのだ。彼女の細くてしなやかな足は、子供がたわむれに虫の足を引っこ抜いた時みたいに、やすやすとちぎれて海面に落ちた。彼女の体そのものも、足の残骸が着水するよりも先に水面へと放り出された。僕は笑ったが、ヲ級の艦載機が襲い掛かってくるのを見てその表情は凍りついた。すんでのところで爆撃を避け、お返しに対空砲火を差し向ける。一機、二機は落ちたが、焼け石に水どころか、溶岩流に霧吹きだ。艦戦からの機銃掃射が僕の体を捉える。咄嗟に体を捻り、それだけでなく手や腕を盾にして重要な臓器などの急所はかわしたが、撃たれたところの痛みは耐えがたい。聞く者もいないことだし、みっともなく痛みに喚きながら急いで希釈修復材を掛けて、傷を治す。

 

 さて、逃げてばかりでは、連中を引き留めておくことはできない。僕は大きく円を描いて敵と相対すると、最大戦速で突っ込んだ。集中が、針の先に糸を通す時のような集中が、僕を死から免れさせ続けていた。それだけではない。耳元で天龍が囁く気がするのだ。「見てろよ、次はあそこに落ちるぜ……ほら、あっちから魚雷だ!」実際に天龍の声が聞こえたとは思えない。爆弾の破裂や至近弾で、僕の耳はがんがんと痛んでいたからだ。それでも彼女の囁きは、僕がそれを考えているかのように頭に浮かんだのだ。そして、その助言は常に正しかったのだった。

 

 お陰で、回避のついでに何発かの砲弾をイ級たちに命中させてやることができた。それで二隻を沈めたが、あっちだって黙って撃たれてくれはしなかった。僕は左の肘から先を撃たれて失くし、右のすねに至近弾の破片を受けた。希釈修復材が間に合わなかったら、転倒して海の藻屑と化していただろう。深海棲艦たちは、僕の突撃で完全に頭に血が上ったらしかった。彼女たちは猛烈な勢いで撃ち始めた。ヲ級の艦載機も次々と爆弾を投下し、魚雷を放ってきた。直撃を避けても、その副産物は避けられない。小さな欠片が飛んできて、僕の右目を潰した。艤装の機関部が猛烈な爆風で歪み、燃料が僅かに噴出した。それは僕の服に掛かり、砲撃の熱で簡単に燃え始めた。

 

 手当をしようにも、修復材は尽きかけていた。もう戦うのは諦めて、逃げるしかなかった。その時、驚くほど大きな音が無線機から発された。それは雑音だった。ノイズだ。似たようなものを、訓練所の座学で聞いたことがある。ジャミングの影響下にある通信はこういうノイズを出す、と学んだ時だ。いや、しかし、どうして今そんなものが? 味方がいるのか、敵がいるのか。とにかく誰かがいる。僕は一も二も考えもなく、無線機に呼び掛けた。

 

「周囲に誰かいるのか? 誰だ?」

 

 僕の声は届いたようで、返事が来た。遠くなった耳で聞き取るには苦労を要したが、特定の方位に進むよう促していた。どうとでもなれ、少なくとも艦娘か人間だ。深海棲艦が待ち受けているということはあるまい。僕は最後の力を振り絞るような気持ちで、無線の送信者の指示に応じた。撃たれながら、水上を走り続ける。血を失いすぎて、意識が飛び飛びになってきた。一発の弾など、僕の頭のあったところをびゅんと飛んで行ったものだ──丁度その時、僕は失神しかけて膝をがくんとやっていたから、そこに頭はなかったのだけれども。

 

 だがそんな悪運も長くは続かなかった。奴らはとうとう僕を捕まえた。回避運動に入ろうとしたタイミングで、意識が薄れてしまったせいで、間に合わなかったのである。僕は最悪の感触を味わった。脚部艤装に砲弾が直撃し、右の足首から先の感触がなくなった。撃たれた足を上げ、修復材の最後の一滴までを掛ける。そして、体勢を崩して海へ突っ込んだ。ぐきりと音がして、右の手首が折れたのが分かった。妖精たちを艤装内部から退去させ、パージして、必死の思いで立ち泳ぎをする。右足首から先と左肘から先を失い、右手首が折れ、上半身の広範囲に火傷を負い、生きているのが不思議なほどだった。でもじきに、深海棲艦が不思議でなくしてくれるだろう。リ級エリートは僕の前まで来ると、ようやく獲物を仕留めることのできた喜びに口元を歪めた。それから砲を僕に向けた。目を閉じる。

 

 一瞬の熱を感じて、僕の現実意識は散じた。

 

「けれど、まだ君は死んでいない」

 

 そして夢の中で目を覚ます。響が僕の前にいたが、僕と彼女がそこにいるというのに、風景は存在しなかった。彼女は僕に後ろを見せて跪き、祈りを捧げていた。その恰好を保ったまま、僕に話しかけているのだった。

 

「何だ、これは?」

「夢だよ。本当にただの夢。深海棲艦も海も天龍も謎の声もなしのね」

「これが終わったらどうなる?」

「目が覚める。他に何があるって言うんだい?」

 

 響は僕に背を向けたまま笑って答えた。そして立ち上がって振り向き、僕を見た。

 

「ほらね」

 

 まぶたを上げると、半分の夕空が見えた。背中の下がごつごつして痛かった。顔は全体的にひりひりしていたし、体中じっとりと湿っていた。僕は陸地にいた。すぐに起き上がる気力はなかったが、無線が鳴ったので返事をしなければならないと思った。妖精たちがひょこりと姿を現して、無線機の送信ボタンを押したりするのを手伝ってくれた。何と言えばいいのか分からなかったので、一番最初に思い浮かんだ言葉をそのまま口にした。

 

「こちら第五艦隊旗艦」

「目が覚めましたか。助けた甲斐があったというものです」

 

 やや雑音混じりだったが、赤城の声だった。僕は随分苦労して、落ち着いた声を出した。

 

「どうやって周波数を知った?」

「協力者は大勢います。しかも、何処にでもです。あなたのいる研究所、広報部隊、海軍本部、人間だけでなく深海棲艦だって。ご存知でしょう?」

「助けたとは?」

「方位を教えたでしょう。聞き取って貰えるか、それに従ってくれるかは賭けでしたけれどね。それに深海棲艦たちを航空攻撃で始末したのも我々ですし、何より沈みかけていたあなたをそこまで引っ張っていったのは、何も潮と波だけではありませんよ」

 

 ゆっくりと身を起こす。怒りを覚えるべきだと思った。僕は彼女たちに憎悪を抱いていたことを忘れていなかったからだ。彼女たちは、響の死について責任がある。しかし、それには疲れすぎていた。知るべきことだけを答えさせ、個人的な欲求は後回しにしようと思った。「ずっと付け回していたんだな」僕は半ば確認するようにそう言った。赤城はくすりともせずに「私自らではありませんし、墜落直後からという訳でもありませんが、概ねはそうです。護衛と露払いに随伴させた装甲空母鬼と会いませんでしたか? うっかり近づきすぎて姿を見られたと報告が上がって来ていましたが」と答えた。うっかり、か。彼女の姿を見た時、僕らがどれだけ怯えたか、本人に是非とも教えてやりたかった。

 

 僕はエスピリトゥサント島の港で不自然に死んでいた深海棲艦たちについても答えを得ることができた。それもやはり、装甲空母鬼の仕業だったらしい。僕らに先んじて島に航空機を送り、味方のものだと思って安心していた連中に爆撃を浴びせた。だから、抵抗の痕跡が残っていなかったのだ。「同族殺しをやるとは、親近感が沸くよ」と僕が言外に非難を込めると、赤城はすぐさま「それはよかったです。互いの似ているところを見つけるのは、誰かと仲良くなる為の秘訣ですよ」と返事をした。皮肉の交し合いをするのも億劫だったので、僕は口を閉じた。赤城がここぞとばかりに話を始める。

 

「お気づきかどうか知りませんが、私たちは多少の手管を弄してこの会話の盗聴を防いでいます。ですので、私以外の誰かに聞かれる心配はなさらないで結構。正直に答えて下さい」

 

 はいともいいえとも言わず、ビープ音を一回鳴らした。

 

「あなたはデータを受け取った」

「そうだ」

「何を読み取りました?」

 

 何も、と答えたかったが、青葉のことが気になった。少なくとも電や融和派から彼女を守ってやれるようになるまでは、赤城たちに面と向かって喧嘩を売るのは下策だろう。もちろん、歓心を買う必要もない。適度に答え、適度にはぐらかせばいい。

 

「鬼級や姫級の出現は艦娘配備後だが、軍が僕に教えたよりもずっと早かった。それと、深海棲艦の編成が六隻で一艦隊という今の形になり始めたのも、その頃からだな。後は……人型が占める割合が艦娘配備に伴って急増していたと思う」

「その全てについて、何故だと思いますか?」

「分からない。僕はそれについて考えるつもりがなかったし、今も考えたいとは思わない」

「ああ、あなたという人は!」

 

 突然、赤城は苦痛に満ちた怨嗟の声を上げた。僕は驚いて一瞬震えた。赤城はまるで、長年虐げられてきたがそれを鋼の自制心で以って耐えてきた女が、とうとう限界に達したかのような態度を取って、早口で言った。「どうしてそう頑迷なのですか、あなたは! 何処でそのような愚かしさを身につけたのです? それともあなたの小さな響の死がそんなに堪えているのですか? 考えなさい、どうしてもです、考えなさい! 考え、かつ想うのです! 分かりませんか? あなたに呼びかける彼女たちの声を聞き取ることができないのですか? だとしたらそれは、あなたが聞き取ろうとしないからなのですよ!」彼女の怒りの発作が収まるまでの間、僕にできたことは、身を小さくして耳を塞ぎ、息を潜めていることぐらいだった。赤城はたっぷり十分ほど、思いの丈をぶちまけていたと思う。それらの言葉には理解できるような部分もあれば、一向に意味の取れないところもあった。聞こえなかったのではなく、解釈を決めかねる言葉だったのだ。融和派というのは、多かれ少なかれ宗教家的な様子を呈するものらしい。僕を最初に引き込もうとしたあの男からしてそうだったではないか。

 

 赤城は落ち着くと、丁寧な口調でだが短く謝罪した。僕は何も言わなかった。彼女は勝手に彼女の感じている気まずさを振り払う為にか、励ますように「そうそう、あなたの艦隊員は、あなたが目を覚ます数時間前に救助されたそうです。じきに軍の迎えがあなたのところにも来るでしょう」と教えてくれた。

 

「分かった」

「それでは。次にお話する時には、もっと打ち解けた間柄になりたいものです」

 

 無理だろうな、と僕は思った。そして横になり、短い夢で響にまた会えるのを願って、一眠りすることにした。

 

*   *   *

 

 本土に戻った後、一日だけ病院にいて診断と治療を受け、報告書を作り、その翌日研究所に戻って提督に提出した。心から望んだ通り、彼女は僕を許さなかった。彼女は報告書を読み、裁かれるべき点を(僕が報告書の中で自ら示したものも、見落としていたものも含めて)一つ一つ述べて、そのどれか一つだけを取ってみても僕が気前よく不名誉除隊にされるか、さもなければ軍刑務所での長く辛い人生を進呈されることが相応しいと言った。同感だった。だというのに、彼女が僕に思い切り投げつけて寄越し、そのせいで僕の額に小さな切り傷をつけさせたのは、ちゃちな木箱に入った勲章だったのだ。それは軍法上の規定で「困難な状況下で類稀な勇気を発揮した者に贈られる」ことになっているものだった。これはどんな罰よりも効いた。提督は錠剤を二粒まとめて音を立てて噛み砕くと「精々そのおもちゃを見せびらかすがいい」と言って、吹雪秘書艦に命じて執務室から僕を追い出した。

 

 僕は誰にも見られないよう勲章を懐に入れて、自分の部屋へ向かった。絶望的な気分と、それでも自分は生きているし、残りの艦隊員や青葉、操縦士を助けられたという喜びが混じって、吐き気がした。響の部屋の前を通り、自分の部屋に入ると、僕はこの地獄のような気持ちが風化してしまう前に、僕が殺した女性の両親へと手紙を書くことにした。何度も何度も書き直し、彼女がどんな艦娘だったか、苦しい時にどれだけ僕にとって救いになってくれたか、みんなにとっての救いであったか、僕の感じていた全てを一文字一文字に込めて書いた。そうして書き上がった時には、日付が変わっていた。僕はおぼつかない足取りで部屋を出て、響の住所を知っていそうな艦娘を探した。すると、僕の直後に退院した那智教官と廊下で出会った。「遺品整理をする約束をしたんだ」と彼女は言った。「手伝わせて下さい」と僕は頼み、教官はそれを許してくれた。

 

 教官が用意していた合鍵を使って響の部屋に入ると、彼女の甘い匂いがした。彼女と話をしたり、飲んだりする為に何度かこの部屋に入ったことがあった。家具やテーブルの上に放り出された読みかけの本は、響が最後にそう置いたままにされていた。那智教官はそれらを目に焼きつけようとしているかのように見つめていたが、僕にはとてもそんなことはできなかった。部屋の片隅で、僕は泣いた。もう聖書を読んで、僕のからかいに答えてくれるあの友達がいないことに耐えるには、涙に頼るしかなかった。僕が泣き終わるまで、教官は何も聞こえないふりをして待ってくれていた。

 

 精神が平静を多少取り戻すと、僕は教官に謝って整理の手伝いを始めようとした。だが思わぬところから制止の声が掛かった。響の部屋の扉が開いていて、そこには提督と吹雪秘書艦が立っていた。「お前ら二人」と提督は言って、杖で僕らを指した。「今すぐ出て行け。この部屋は誰にも触らせない。このままにしておくんだ」那智教官は何か言い返そうとしたが、結局僕らはろくろく何も整理しない間に部屋を叩き出された。だが僕は提督と秘書艦の目を盗んで、響の予備の帽子を取ってきていた。彼女のことを忘れない為に、一つだけでいいから形見になるようなものが欲しかったのだ。教官の立場を考え、僕は彼女にそのことを言わなかった。代わりに、響の住所について訊ねた。教官は今一つ僕が何を言っているか分からない、という顔をした。

 

「住所?」

「はい。ここに来る前の、実家の住所です。僕、僕は……彼女の両親に手紙を書いて、響がどんな艦娘だったか伝える義務が──」

「響には」

 

 那智教官は硬い表情になり、無感情な声で僕の言葉を遮った。

 

「家族はいない」

 

 僕は部屋に戻って、もう一度涙を流した。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。