[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

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「融和」-2

 僕が身を起こすと、武蔵は近づいてきてベッドの端、僕の右手側に腰を下ろした。そして布団の外に出していた僕の手に、彼女のそれをそっと重ねた。僕はできるだけ人と仲良くしようとするタイプの人間だから、その手を払いのけるようなことはしなかった。これから彼女に聞きたいことが山とあるのだ。僕の手に触れる程度で機嫌がよくなるようなら、安いものだ。心の中で六十秒数えてから、僕の手を撫で回すのをやめない武蔵に言う。「そうだな、人生は長い。好きなだけ時間を無駄に使えばいいさ」「お前の故郷では『久しぶりだな、会えて嬉しいよ』をそういう風に言うのか?」「まあそうだ」「ふうん、変わった習慣だな」そう呟いて笑い、やっと彼女は手を離した。それからにやついた顔で僕に言った。

 

「世界唯一の男性艦娘、第五艦隊旗艦、漂流からの生還者、そして絞首台に二度上がった男か。刺激的な人生を歩んでいるようで、結構なことだ。私は残念なことにそういった経験がないんだが……きっと二つ名を増やすのはさぞ楽しいんだろうな」

「そうだよ、死にかける度に生きる喜びを再確認することができるのさ。ところで、僕と楽しくお喋りしたくてあの収容所から助けたのか?」

「そういうつもりじゃなかったが、うーん、考えてみるとそれもいいな。そうするかい?」

「答える必要が?」

「ないだろうな……ふふ、元気なようで本当に安心したよ。腹は減ってないか? 私は小腹が減った。何か持ってこよう。少し待っていてくれ、久々に一緒しようぜ」

 

 呼び止める間もなく、身を翻して部屋を出て行く。再び一人になった僕は、これからどうするかを考えた。響のことも聞きたいが、まず現況の把握が最優先だ。ここは何処か? どうして融和派狩り専門の部隊の一員である武蔵が僕を助けたのか? この一年で戦況はどうなったのか? 知らなければならないことが沢山ある。くそっ、一年の休暇は長すぎたな。もっと早く出られていればと思うが、過去は変えられない。せめて今日から、一日たりとも無駄にしないようにしよう。

 

 とはいえ、僕はただの十八歳の青年だ。収監時にいわゆる「解体処分」を受けなかったので、まだ艦娘ではあるが、最後の出撃で艤装も失ってしまっている。そんな僕に何ができる? そう感じてしまって、憂鬱な気持ちになる。僕は英雄じゃない。これまでの戦績や行跡も、僕が小説やコミックに出てくるヒーローから遠く離れたところにいることを示している。あくまで僕は一兵士、一艦娘なのだ。そりゃ、融和派の艦娘や深海棲艦たちにとっては特別な存在かもしれないが、だからって戦争を止められるような力はない。

 

 教官に相談したかった。北上や利根と、砕けて打ち解けたやりとりをしたかった。隼鷹や響と飲みながら話し合いたかったし、不知火先輩に甘えたかった。だが彼女たちはもう僕の周りにいない。いるのは武蔵だけ。彼女は嘘を言わないが、信頼に値するかと言われると否定で返すしかない。つまり、今日、僕は一人だ。そのことを認識して、不安に襲われる。奇妙で、自分でもほとんど信じがたいことだった。

 

 あの収容所にいた頃、僕は孤独感を覚えたことなどなかった。それは、他の囚人たちがいた為ではない。するべきことをはっきりと理解していたからだ。やがて来るその日まで耐え抜き、生きてあそこから逃れること。それが僕の任務だった。僕はそれを果たそうと努力し、報われて、どうやら助かったらしい。けれど脱出を成功させ、追われる身ではあるだろうがとにもかくにも自由になってみると、僕の中には、そこから先何をするべきかとか何をしなくてはならないかという考えが存在しなかったのである。何とも間抜けなことに。そのせいで、これまで無視できていたものに捕まった訳だ。

 

 自分の弱さには嫌になる。肉体的な弱さもだが、特に精神的な弱さにはほとほとうんざりだ。何らかの手段で鍛えられたらと思わずにはいられない。悩んでいる暇はないのだ。戦争がまだ終わっていないと仮定しよう。それは放っておいても終わるだろう。あらゆる深海棲艦の撃滅という形で。ここで自分自身に対してはっきりさせておかなければならないのは、僕は融和派深海棲艦たちを救いたいと思っている訳ではないということだ。

 

 ああ、確かに彼女たちは人間を理解しようと努力していた。自衛以外で人類を攻撃したこともなかっただろう。これは好意的な想像だが、実際にそうだったとしたら実に結構なことだ。しかし彼女たちは深海棲艦なのだ。僕はまだ、そのことを切り離して考えることができない。彼女たちの同類が、僕の友人たちを殺したり、傷つけたりした。僕自身だって何度も死にそうになった。複雑な感情を持たずにはいられない。

 

 それでも、僕は深海棲艦の壊滅による終戦を阻止したいと思っている。もう一度明らかにしておくが、あくまで自分や自分たちの為にだ。深海棲艦たちを滅ぼせるようになったとしても、その為の戦いの最中に死ぬ艦娘たちの数をゼロにはできない。多くの艦娘たちが、僕の同胞たちが死ぬだろう。その中には僕の友人も含まれてしまうかもしれない。そうなる確率は小さいものではない。だがもし、もしも、深海棲艦全てを滅ぼすのではなく、人類と最後まで殺し合うつもりでいる主戦派の者だけを滅ぼすとしたら? 艦娘たちの死亡率は減りこそすれども、増えることはあるまい。戦争そのものの終わりもきっと早まる。

 

 無論、自分を騙すことはできない。このプランには無視できない欠点もある。深海棲艦を皆殺しにすれば、世界は元通り人類のものになる。深海棲艦との戦争が始まるまで、歴史的に見てもその通りであったように。僕らは時々愚かなこと(何処かに核を落とすとか、海を汚染するとか)をしながら、昔から営んできたような生活を続けていくだろう。でも深海棲艦を、彼女らの社会を滅ぼさずに残せば、世界は変わる。最早、人類という種は地球を手に入れた独裁者ではなくなる。人類は初めて、深海棲艦という自分たちと似ているが全く違う存在と、上手くやっていくということを学んでいかなければならなくなるのだ。

 

 それがどれだけの混乱と苦難をもたらすか、僕には到底想像できない。僕と赤城たちが選んだ道は、軍が現在目指している「深海棲艦を全滅させる未来」より更に悪い、「人類と深海棲艦をまとめて破滅させる未来」に繋がっているのかもしれない。それについて恥を忍んで言おう。深海棲艦との講和が成立したとして、その後世の中がどう転がっていくか、僕には皆目分からない。だが僕は艦娘だ。ただの、守られるだけの人間ではない。自分で決断してただの人間であることをやめた、艦娘なのだ。たとえ解体処分を受けて体はただの人間に戻っても、心までは変えられない。もし世界がどうしようもなく間違った方向に進んでしまったなら、僕は全力を尽くして自分の属する社会と世界を守ろうとするだろう。そのことにどれだけの意味があるのかは考えないようにしながら。

 

 胃がきりきりと痛んで、僕は我に返り、それから自分がひどく空腹であることを渋々認めた。空きっ腹だと何を考えてもネガティブになるからいけない。そうだ、深海棲艦との講和が成立した後の世の中が、人類だけで世界を回していた頃よりも百倍よくなる可能性だってあるのだ。どのようにしてそれが起こるのか分からないが、そんなことは大した問題ではない。これからについて具体的な計画がないなら、せめて漠然とした希望だけでも持っておこう。人間には、いつでもそれが必要だ。

 

 そう考えたところでドアが開いて、深めの器が二つ乗ったプレートを持った武蔵が現れた。「ふっ、随分待たせたようだな。さあ、食事にしよう」中身は見えないが、湯気が立っている。器の陰に隠れて、柔らかそうなロールパンもあった。ということは器の中身はスープか。流石に粥とパンという組み合わせはないだろう。彼女はプレートを片手に持ち、もう片方の手に折りたたみ式のパイプ椅子を引きずっていた。武蔵はプレートをこちらに渡してから椅子を開き、腰掛けた。二つの器にはコーンスープが入っていた。どうやら、武蔵はまたしても僕と同じ食事を分かち合いたいらしかった。大怪我をしたり、消化のいいものを食べて体を休めさせなければいけない訳でもないのに。

 

 僕たちは僕の足をテーブル代わりにしてプレートを置き、いただきますの一言もなしに食べ始めた。スープとパンよりもしっかりしたものが食べたい気持ちはあったが、寝起きにそんな食事をするのは、かえって体に毒だろう。スープをすくって口に含むと、上品な甘みが口の中一杯に広がる。そういう味は、収容所では得られないものだった。

 

「おいしいな」

 

 素直な気持ちとしてそう言うと、武蔵は嬉しそうに笑った。「そうだろう、そうだろう。二杯目が欲しかったら言うんだぞ」分かった、と生返事を返して二口目を飲み込み、合間にパンを小さくちぎって口に放り込む。そこではたと思い当たって、恐る恐る僕は尋ねてみた。「これは君が作ったのか?」「うん? ああ、スープは私が作った。パンまでは手が回らんよ」大和型戦艦二番艦、武蔵。褐色長身白金髪の女丈夫。しかもこの武蔵は後ろ暗いところに所属している身だ。そんな彼女がエプロンをつけてキッチンに立って、スープ鍋をお玉でかき回す? 挙句、自分の料理を褒められて相好を崩すだって? 誰がそんなことを想像できるだろう。でも彼女が言うには、どうもそうらしいのだ。そして僕は彼女が嘘を言ったことがないと知っていた。

 

 彼女の意外な一面に触れた気がして、僕は毒気を抜かれた。そのせいか皮肉を言おうとしても、一言も出てこない。仕方なく、僕はもう一度「おいしい」と呟いた。僕らが食事中に交わした言葉はそれで全部だった。

 

 食べ終わると、武蔵はてきぱきと食器を片付けてしまった。何か手伝おうとする素振りを見せる時間もなかった。終わってから戻ってきた彼女に「今の仕事より、看護婦の方が向いてるんじゃないか」と食後の安堵と幸福感に浸りながら僕が言うと、武蔵は肩をすくめて「誰にでも同じように親切にできるならな」と答えた。確かに、それは重要な資質だと思う。えこひいきをする看護婦なんて、嫌なものだ。言うまでもなく彼女たちは人間だから、多少サービスに差があったとしても僕には咎められないが。

 

 こまごまとした家事がすっかり終わってしまって、僕らの間には真面目な空気が満たされた。武蔵はパイプ椅子に座って落ち着いた溜息を一つ吐き出すと、「何から聞きたい?」と言った。僕はすかさず「戦争はどうなってる?」と訊いた。彼女が冗談か当てこすりを言おうとしたのが表情の動きで分かったので、先手を打って「皮肉は後にしてくれ」と付け加える。それが気に入らなかったのか、武蔵は憮然とした顔で「続いている。人類がやや優勢だ」と短く答えた。つまり、戦況はそう大きく動いていないようだ。しかし何故? 疑問符が頭の上にでも見えたのか、武蔵は僕が追加の質問をする前に口を開いた。

 

「お前の艦隊がテストしようとした対深海棲艦用の通常兵器な……効果はあるんだが、何分費用がかさむ。しかも兵器かつ機密の塊だから、おいそれと他国に生産拠点を作る訳にもいかん。加えて一部の提督が導入に反対した。戦況に動きが小さいのは主にそのせいだな。もっとも、一番大きな障害だった政治的な問題(提督たちの反対)は既に片付いたから、近く大反攻が始まるだろうよ」

「提督の反対、か。費用のことはともかく、上層部は現場の足を引っ張らなきゃならないって決まりでもあるのか?」

「そう言うな。あくまで一握りだったし、新しい風を取り入れる時には抵抗があるものさ。反対した提督の全員が、既得権益の損失を恐れた訳ではないよ」

 

 これには僕も賛成した。ある程度以上に大きくなった組織の中で、百パーセントの人間に受け入れられるものを示すことは不可能である。計画にせよ何にせよ、誰かが文句をつけてくるのが普通だし、またそうでなくてはならないのだ。もしそうでなければ……批判的思考を一切持たない組織であるのならば、そこは腐敗しているか骨抜きにされているかのどちらかであって、そんなところからは即刻逃げ出した方がいい。

 

「僕の艦隊はどうなった? 艦隊員たちは?」

「第五艦隊か。お前が捕まった後、色々と揉めに揉めたようだぞ。艦隊員たちも投獄するべきだとか、懲罰艦隊に配置換えしろとか。だが心配はしなくていい、形式的な理由で一度解散したが、またすぐに今度は正式な戦闘捜索救難並びに即応支援艦隊として発足した。旧艦隊から人員変更もなく、旗艦は那智が務めている。お前が抜けた穴は宿毛湾から筑摩を呼び寄せて埋めたそうだ」

 

 うちの提督は他所の艦娘を引き抜くのが得意なのか? 僕は宿毛湾の提督に申し訳ない気持ちになったが、利根のことを考えると筑摩が来てくれてよかったとも思った。北上は大丈夫だろうか。隼鷹は、不知火先輩は、那智教官は? 知りたかったが、武蔵もそこまでは把握していなかった。代わりに新生第五艦隊の戦績を教えてくれた。那智教官は見事に彼女の艦隊員たちを率いているようで、僕が指揮していた頃よりも華々しい活躍を繰り返していた。一回の出撃で三つの艦隊を助けたこともあったという。多分、練度も一年前と比べて大違いになっているのだろうな、と僕は誇らしいような寂しいような気分になった。

 

 まあ……どうせ僕は戻れない。武蔵は僕が軍で書類上どういう扱いになっているかも教えてくれたのだ。驚きはなかったが、やっぱり戦闘中行方不明の死亡扱い、除籍待ちの状態になっていた。家族には遺族年金が満額払われているそうなので、僕が融和派だとは表沙汰にしなかったのだろう。できる訳がないか。世界唯一の男性艦娘が融和派だということになったら、海軍の面子は丸潰れもいいところだ。「これから僕はどうなる?」主な心配ごとの内の二つを聞いてしまったので、幾分か肩の力を抜くことができたが、僕はもちろん武蔵の次の答えを予想しておくべきだったのだ。最後に会った時、別れ際に武蔵はいつか僕が彼女を必要とする時が来たら迎えに行くと言った。

 

「どうなるかって? それはお前自身が決めることだ。それとも私に決めて欲しいのかい? 違うだろう? だが、私のオファーとしてはこうだ──私の班に来い。私の隣にいろ。戦争はじきに終わる。多少の不便はあるだろうが、私ならお前を狙うどんな敵からも守ってやれる」

「僕は根っからの融和派じゃあないが、軍はそう思ってる。その僕が融和派狩りの一隊に加わる? 無理だよ。個人的にも気が進まないしな」

「転向したってことにすればいい。どうせ、お前を死刑にしたがってたのは陸軍だ。海軍はお前を手元に置いて監視していられるなら、喜んで匿ってくれるさ。それに転向者ってのも実際、少なくないんだ……たまにはちょっとした研究やテストへの参加を要求されるだろうが、ひどい怪我をしたり、死んだりするかもしれないようなことには絶対にさせないと誓おう。どうだ、私を信じられないか? ん?」

「よく分かってるじゃないか。僕はまだ、君のせいで吊るされそうになったことを忘れた訳じゃないんだぜ」

「そんなこともあったなあ。懐かしいよ。そうだ、こうしよう。今度のことが一段落したら、またあの喫茶店に行ってお前の好きな、あの気分が悪くなる甘ったるい、何だったっけな?」

「クリームソーダ」

 

 淀みなく答える。収容所に入れられていた一年を抜きにしても、あの店には長い間行っていない。それも武蔵のせいだ。彼女と出会ってしまったあの場所が、僕にはどうしても縁起の悪いところに思えたのである。クリームソーダは惜しかったが、別にあそこじゃなくても食べられる店はある。僕は手を変え品を変え外出許可を申請して外を歩き回っては、短い間に数か所のお気に入りの店を見つけていた。中には隼鷹にしか教えていないような、隠れ家的スポットもある。

 

「そう、クリームソーダだったな。私にはあれの何がいいのか全く分からんが、お前は好きだっただろう、食べるがいいさ。それが終わったらステーキサンドだな。お前があそこで空軍士官に殴りかかってからもう一年経ってるんだ、出禁になってたとしたっていい加減解除されてるだろう」

「おい、あそこでの喧嘩のことを知ってたのか」

アフターケア(監視)も仕事の内でね。海上や国外では無理だったが、基本的に国内で陸上にいた間は、ずっと見られていたと思ってくれて構わんよ」

 

 嫌になって、僕はベッドに背中から倒れ込んだ。そのまま武蔵をじろりと睨むが、それで彼女の心にさざなみの一つでも立てられたとは思えなかった。何につけても意趣返ししてやれないことを、苦々しく感じる。見られていたのか。何処まで見られていた? 武蔵と別れてから、見られてはマズいことやものが沢山あった。たとえば、電から受け取ったデータ……そうだ、あれはどうなったのだろう。憲兵隊にはあのデータについて何も言われなかった。一年も経ってからそのことに気付く自分の間抜けぶりにはもう呆れる余地もないが、憲兵たちなら喜んで僕が持っているべきでないものを持っていることを責め立てただろうに、どうしてそうしなかったのか? それについて訊ねようとして、僕の視線と注意は武蔵の顔に、その右耳に注がれた。そこには何処かで見たことのある形のアクセサリーが輝いていた。

 

「そのピアスは?」

「散歩してたら拾ったんだ。嘘じゃないぜ」

「信じるよ。ところで、ひょっとしてだけど、僕の部屋は君のお気に入りの散歩コース上にあったんじゃないか?」

 

 武蔵は笑って答えようとしないだけでなく、以前に紛失した、僕のものだと思われるピアスを外して返そうとすることもなかった。僕が彼女の態度でどうしても理解できないのは、その時々によって彼女が僕に好かれようとしたり嫌われようとしたりするところだ。親切さを見せたかと思えば、厚かましさや無礼さが目に余るような振る舞いを取ることもある。彼女が僕に執着する理由も分からない。深海棲艦たちと最後に戦ったあの海で、僕は自分にまつわる何個かの真実を知ることができた。それらは僕が知りたいと願っていたものと、そうでないものの二つに分けることができたが、前者の一つにどうして僕が初対面の多くの艦娘たちに嫌われるか、という理由として、申し分ないものもあった。証明はできないが、九割九分正答であろうと思う。ところが例外が数人いる。明石さん、吹雪秘書艦、不知火先輩、そして武蔵の四人だ。

 

 武蔵以外は想像できる。明石さんは長門と同じ成熟した大人であり、かつ艦としては戦艦長門ほどひどい最期を迎えなかった。なので、僕に対しても上辺を取り繕う余裕があった訳だ。そう考えると微妙にショックだが、明石さんから冷たくされなくて済んでよかったと考えるべきか。吹雪秘書艦は、そもそも彼女が死について嫌悪するとか怯えるところが想像できなかった。推測ではあるが、僕なんかよりも遥かに胸のむかつくものを見てきたんだと思う。彼女の人生の悲惨な一面には同情せずにいられないが、そのお陰で僕は秘書艦に特別憎まれるようなことがなかったのなら、秘書艦をそんな人物に仕立て上げたのであろう提督には、感謝するべきかもしれない。そして不知火先輩は……きっと僕が後輩だったからじゃないだろうか。僕が彼女を「先輩」と呼んだ瞬間に、彼女の中で後のことは全部どうでもよくなったのだ。そういうことにしておこう。そうしたら、僕の気分を少し和やかにすることができるからだ。

 

 だが、それにしても、武蔵は何なのだ? あの大戦で戦艦武蔵は沈んだ。その散り様がどうだったかとか、今僕の前にいる武蔵にとってどう感じられるかは脇に置いておくとして、戦艦武蔵は沈んだのだ。死を知り、それでも僕を忌避しないどころか、積極的に親しくしようとすることさえあり、あまつさえ僕を収容所から助けた。彼女の排撃班の仕事は融和派の抹殺であって、保護ではない。僕は排撃班の奇襲を受けた赤城たちのアジトで何が起こったかを垣間見た。あそこでなされたことを、正確に定義することは難しいだろう。けれど、あそこでなされなかったことについてはその逆だ。僕は百パーセントの自信を持って、それは楽しいホームパーティーではなかったと言える。

 

 僕がそれ以上考える前に、武蔵は彼女のオファーについての話に戻ろうとした。

 

「それで私の申し出についてだが、受けるだろうな? 融和派でないなら、私の班に来ることに異存もあるまい」

「時間をくれ」

「もう十分やったさ。こんな言い方はしたくないが、私はただお前に来て欲しいのであって、自分から来て欲しいとまでは望んでいない。選択の余地なんて与える筈がないだろう」

 

 嘘つきは嫌いだが、誠実すぎるのも困ったものだ。嗜虐的な笑みを顔に貼り付けたまま、武蔵は身を乗り出してきて、僕の手首を掴んだ。緊張から鼓動が早まる。答えなければへし折るぞ、というように武蔵は力を強め始めた。どうする? 手詰まりだ。僕は融和派ではないが、融和派狩りをしたいとも思わない。だがここで彼女の誘いを拒否したら、折られるのは手でなくて首かもしれない。彼女は予測不可能だ。思い通りにならなければ、僕を始末した後で死体を蹴って憂さ晴らしでも始めかねない。

 

 考える。何よりも優先するべきは、この場を切り抜けることだ。今だけは武蔵に迎合しておいて、機会を見つけて──見つけて──どうするというのだ? 突然、僕は深い無力感に襲われた。ここで従容と武蔵に従おうと、頑として勇敢に抗おうとも、そのことにどれだけの差がある? 荷が重すぎた。僕は十八歳だ。十五で海軍に入り、生き延びる方法を教わり、戦火を潜り抜けてきた。だから深海棲艦との戦い方なら分かる。けれどそれ以外のことについては、全く子供だった。だというのに、僕を取り巻く状況はいつでも僕に不慣れな、大きすぎる決断を強いてくる。一つや二つならやせ我慢もできようが、こうも続くと気が滅入る。

 

 僕は、武蔵に掴まれていない方の手を伸ばして、彼女の手に重ねた。それが意思表示の代わりになった。クリスマスの朝に枕元でプレゼントを見つけた子供のように、武蔵の顔がぱあっと明るくなった。「そうか、来てくれるか……ありがたい!」彼女は掴んでいた僕の手を引っ張って無理やり身を起こさせると、自分勝手な喜びのままに強く僕を抱きしめた。骨が折れるのではないかと気が気でなくなる力の入れ方に、僕は彼女がどれだけこの申し出を真剣に捉えていたかということの一端を見たように思えた。

 

 そうすると、僕に抱きついてくる彼女のことが、違った風に見え始めた。単なる喜びからではなく、まるで救いを求めて何かにすがるかのように、あるいは夢見の悪かった子供が父母にしがみついて、安心の暖かみによって悪夢の記憶を遠ざけようとしているように見えたのだ。武蔵はしきりに僕の耳元で「これで大丈夫だ」「どんなものからでも、私が守ってやるからな」と呟いたが、それも僕に聞かせるというよりは自分に確認している風に聞こえた。

 

 自分にしてはいっそ不自然だと断言してもいいほどの自然さで、僕は彼女の髪を撫でつけた。増していく彼女の膂力が僕の背骨を砕いてしまう前に落ち着いて欲しかったし、このような肉体的接触に対して何もせずに身をこわばらせたままでいるのは、幾分か無作法な行いではないかという恐れもあった。彼女の子供じみた態度が、僕の心理的な余裕を多少呼び戻してくれたのも理由の一つである。その余裕を以ってしても何が彼女をここまでさせるのか、僕に確信を与えてくれはしなかったが、とにもかくにも冷静になることはできた。

 

 とうとう武蔵が身を離す。僕は彼女の眼鏡が熱心な抱擁のせいでズレてしまっているのを見つけ、指で元の位置に戻してやった。レンズは入っていなかったので、装備品の電探ではなく伊達眼鏡のようだ。彼女は恥じらいを隠す為にか、いつも浮かべている亀裂のような笑みをより一層大きくし、嘲笑的なニュアンスを色濃く匂わせながら訊いた。「急に優しくなったな、抱きしめられただけで情が湧いたか?」だが僕が「挑発は僕の手の届かないところでやってくれ。ベッドの上にいても君の頬を張ってやることぐらいはできるんだ」と返すと、その気配は消えて一方的な親愛の情の重苦しい雰囲気だけが発されるようになった。こいつに潰されてしまわない為にも、彼女と口先でじゃれ合うのはここまでにしよう、と僕は決めた。

 

「なあ、散歩道で他にも何か拾ったかい?」

 

 憲兵隊が電から受け取ったデータについて何も言わなかったのは、武蔵が処理してしまったからではないかという仮説を立てて、回りくどい言い方で尋ねてみる。武蔵は露骨な話題転換に不満げだったが、彼女の動物めいた理解できない感情の機微には、十二分に付き合ってやったと思う。彼女自身もそのことは分かっているのか、こと思い上がりや傲慢さという人間が生まれつき持っている病気の重篤さにおいて、これまで提督を除けば何物にも追随を許さなかったこの僕を上回る、極端な強引さを持ちながらも、それを使って再度話題を転換させようとはしなかった。

 

 彼女はただちに数点のこまごましたどうでもいいものを挙げた。何処かにやってしまったと思っていた本とか、飲み残した蒸留酒の小瓶とかだ。それ以外にはとなると、彼女の言葉は勢いを失った。言いたくないのではなく、思い出せないのだった。「何しろ、お前が捕まった時に部屋ごと回収したからなあ」と彼女は婉曲法をぽいと捨て、あっけらかんとした表情で言った。

 

「部屋ごと?」

「訂正する。遺書に書いてあったものについては、きちんと文面通りに分配した。家具も残してある。残りは段ボールに詰めて私の部屋だ。三箱ぐらいだったかな」

「でもそのピアスは」

「前に遺書を預かった時に書き換えておいた。書き直されていなかったから、これを私に遺すのはお前の意志だと思っていたが……おい、まさか本当に気付いていなかったのか?」

 

 心底驚いた、とでも言いたげに目を丸くして武蔵は聞いてきた。僕は元来舌の回らない方だ。言葉に詰まって、出てきたのは「最低だな」という、使い古されたつまらない悪口だけだった。武蔵がそれを贈り物のように気持ちよく受け取っていることは明らかで、僕の言葉は彼女を傷つけたり反省させたりするどころか、かえって彼女の機嫌をよくさせてしまっていた。何も思ったように行かないのは歯がゆいものだ。苛立たしいじゃれ合いをやめようとしたのに、結局踊らされている。僕は断固とした口調で、彼女に命令するかのように尊大な態度で言った。

 

「持ってきてくれ」

「ふむ、どうやら私はお前の頼みを断れないようだ」

 

 何が楽しいのかにやにやと笑いながら、武蔵は部屋を出ていこうとする。扉を開け、部屋の外に一歩出て振り返って戸を閉めようとしたところで、僕の頭に天啓のごとく一つのアイデアが下ってきた。扉は閉じかけていたが、武蔵が行ってしまう前にこれを口にしなければならないという義務感に駆られて、僕は急いで言った。

 

「もっとマシな壁紙はなかったのか?」

 

 段ボール三箱を持ってきた武蔵は彼女と再会してから最も不愉快そうな顔をしていた。僕は満足した。箱を一つ受け取り、ふたを閉じているテープを剥いで、中身を掴みだす。最初に取り出したのは、響の帽子だった。僕の胸が痛んだ。そうだ、僕は響のことを尋ねなければならなかった。どうしてそのことを後回しにしていたんだろう? 僕は心の中の響に詫びた。響、君とまた会って話をしたいという思いや、君への友情を疎かにした訳じゃないんだ。あんまり沢山のことが一斉にわっと僕に降りかかってきたものだから、その雨に目を遮られて、君のことを見失ってしまっていただけなんだ。

 

「武蔵、響はどうしたんだ? 君と一緒にいるんじゃないのか?」

「何だって?」

「響だよ。君より先に僕を助けに来てくれた、最高の友達の一人さ。絞首刑から抜け出して、林の中まで一緒だったんだ」

「そうか? ところで私の嫉妬をあおるのはいいが、その責任は取れるんだろうな」

「話をそらさないでくれ。僕にとって大事なことなんだ」

 

 武蔵は不真面目な表情を崩さなかったが、僕の最後の一言が功を奏したのか、その目には真剣に受け止めようとする色が見えるようになっていた。「分かった、話すがいいさ。聞いてやるよ」馴れ馴れしい物言いにかちんと来ながらも、僕は収容所での最後の数日間のことを話し始めた。武蔵は途中で何度か口を挟みたそうな顔をし、その度に、己の口を閉じさせたままでいる為の懸命な努力を尽くしていた。彼女の真一文字に引き結んだ唇の端がぴくぴくと痙攣しているのを見るにつけ、彼女が「聞いてやるよ」という自分の言葉を全身全霊で守ろうとしているのが僕にも分かった。僕は武蔵のことが好きになれないが、彼女のこういった自らの言葉に愚直なまでに責任を持つ、という姿勢について誰かが疑ったりけなしたりしたら、第一の擁護者として立つだろう。

 

 林の中で気を失ったところまで話し終わり、反応を伺う。「それで全部か?」と武蔵は言い、僕は頷いた。すると彼女は深く溜息を吐いて、口にするのもつらいことだが、と前置きをした。

 

「どう考えても現実とは思えん。響の戦闘中行方不明はお前のと違って本物だ。ただのイマジナリー、幻覚を伴ったサードマン現象、それとも受け入れやすいように、守護天使が降臨したとでも言った方がいいか?」

「だが……そうだ、幻覚は人を気絶させたりできないぞ!」

 

 勝ち誇って僕は武蔵に言ったが、彼女は全然こたえたようには見えなかった。確固たる自信を持った現実主義者の顔をしている。僕はその頬をつまんで捻ってやりたかったが、そうするよりも先に武蔵は頷いて、意外な提案をした。僕の話を再度聞きたがったのだ。同じ話を繰り返させることには意味がある。まず、聞く方が最初に気付かなかったり聞き逃した細部にまで目を向けることができる。それと、話す方が真実を話しているのか作り話をしているのか判別することもできる。真実なら、描写や内容が変わったりぶれたりすることはない。しかし作り話を何度も話していると、話し手も知らぬ内に描写が過剰になったり、内容が大小に変わってしまうことがある。

 

 疑われているのは気に入らないが、響の登場が突然すぎて現実感がなかったということについては否定できない。都合がよすぎる。それは認めよう。だから武蔵は何処までも公正に、疑問の芽を潰そうと試み続けているのだ。僕の言うことだからと盲信したりせず、いやまあそもそも盲信するような性格じゃないんだろうが、事実を求めている。人間としては好ましい態度だ。

 

「ああ。僕と響は狭い車庫にたどり着いた。僕は脇腹に刺さったナイフを引き抜いて、ダクトテープで止血した。それから響が車庫の面積をギリギリまで使って収容されていたトラックの下に潜り込んだ。僕は彼女が潜り込んだのに合わせて抜いたナイフをタイヤに突き刺し、そこで力が抜けてうずくまった。響はタイヤを見に下りてきた男たちを順番に気絶させてから、僕を引っ張り起こして、外に連れ出してくれた」

「うずくまっていたと言ったな。どんな風に?」

 

 僕は思い出して真似をしようとしたが、腕に繋がった点滴の管が邪魔だった。点滴袋は空になっていたので武蔵が針を外してくれて、それで僕はベッドの上でうずくまってみた。両膝を地につけ、腹を抱え込むようにして前のめりに倒れた恰好だ。再現してみた初めは「これでは響の姿が見える筈がない」と思って震えたが、体を少し傾ければ周りの様子も多少は見えることに思い至って安心した。やっぱりあれは、響だったのだ。

 

 どうして生きているのか、どうして僕があそこにいると分かっていたのか、武蔵と関係ないなら彼女が連れてくると言っていた助けとは何だったのか、聞きたいことはあるが、とにかくあれは響だった。それだけで僕の心は救われたようだった。うずくまったまま、「幻覚だったと断言することはできないようだ」という具合の返事が来るとばかり思いながら、「どうだ?」と僕は武蔵に尋ねた。彼女は言った。

 

「お前の友達が生きていると言ってやれないことは、とても残念だ。落ち着いて聞け、その姿勢でも周囲を見ることは不可能ではない。だが目の前にタイヤがあったなら、どうやってその向こうを見通せる? 何故そのタイヤの向こうで起こったことを、さも見たかのように知っているんだ? 音だけで把握したにしては、情報量が多すぎる」

「どうやってって、それは、けど武蔵、僕は間違いなく、響を」

「失血、酸欠、極限状況。幻覚を見るにはおあつらえ向きのシチュエーションだ。いいか、トラックの下に潜り込んだのはお前だ。男たちを絞め落としたのもお前だし、林までの道でずっとお前は一人だった。響なんかいなかった」

「でも僕は確かに、響が生きているのを感じたんだ。いたんだよ、あそこに、彼女は」

 

 響の手に体温を感じなかったことを思い出す。それでも彼女は生きていると感じる。その時僕は気付いた。もしかしたら、万に一つの確率だが、もしかしたら。深海棲艦たちと分かり合ったあの時、僕は深海棲艦の目で世界を見た。心と心の繋がりを見ることのできる目で、僕は自分の心が他者と繋がっているのを見たのだ。あの心が、あの糸が、響が何らかの理由で生きていて、彼女の心に繋がっているのだとしたら? あそこで僕が見たものは幻覚だったとしてもそこに彼女の生命を感じられたのは、艦娘でありながら、彼女たちの見方で世界を捉えることができたという意味で、深海棲艦にも近しい存在である僕が、響と僕の心の繋がりがまだ残存していることを、ひいては彼女が生きていることを感じ取れたからではないのか?

 

 それは仮説でしかない、響が現実に生きているという証明にはならない、と僕の理性が言う。感情は反駁して曰く「響が生きていると思わないなんて、お前には良心がない!」。その総合である僕は考える。収容所からの脱出に際して現れたあの響については、現実じゃなかったらしい。思ったよりも冷静にそのことを受け止められたのは、武蔵がひたすら沈着な態度で響の不在を論じてくれたからだろう。が、彼女が響を死んだものとして扱っていることについては、僕は異論を持っていた。響は生きていると信じていたのだ。かつて響は「ある種の事柄では、信じるのに証拠なんか要らないんだ」と言った。僕のこれだってそうだ。物的証拠なんかいらない。響は生きている。僕は彼女の命を感じたのだから、そうに違いないのだ。

 

 武蔵が何を言おうが、僕の確信を揺らがせることはできなかった。彼女は諦めるしかなかった。彼女は言った。

 

「この話は終わりにしよう」

 

 そうしない理由はなかった。彼女は言葉を続けた。

 

「点滴も食事も終わったんだ。ベッドから起きる気はないか?」

「このトイレみたいな壁紙から逃げられるなら何だってするよ」

 

 言いながらベッドを降りて、体がちゃんと動くのを確かめる。ついでに自分が覚えのない服を着ていることを発見した。武蔵が囚人服を脱がせた後に着せたのだろうが、恥じらいを感じることはなかった。「どれだけ眠ってたんだ? 時間を知りたいんだが」「ん、まあ、二日は経っていないよ。時間はリビングに時計がある」両手首を見せて、武蔵は自分が腕時計をしていないことを示した。「仕事中によく壊すんで、支給して貰えなくなったのさ」「僕も腕ごと失くしたことが何回かある」奇妙な連帯感を共有しながら、僕らは僕の私物を入れたダンボール箱を持って、リビングに向かった。

 

 カーペットの上にソファー、テーブル、テレビ台と大きめの薄型テレビ。壁にエアコンと、午前一時を示す時計。リビングにあるものはそれだけだった。箱を横に下ろすや、どすんとソファーに座り込み、僕を引っ張って横に座らせて逃げられないよう肩を抱きながら、武蔵は「ここはセーフハウスだからな、殺風景なのは私のせいじゃないぞ」と言い訳をした。僕は「ああ、けど今僕が感じている窮屈さは君のせいだぞ、手を離せよ」と答えてから、私物の選定に取り掛かった。そう時間は掛からなかった。二十分か三十分ほどだ。それだって詰め込まれたあれこれの、電から渡された端末などを含む物品を一つ一つ取り出すのに手間取っただけで、これだけはというものを選ぶのには数分しか掛からなかった。響の帽子と、軍に入ってからこれまでに撮った写真が収められたアルバム、それから青葉新聞のコレクションだ。どうやら、僕が大規模作戦後に戦闘中行方不明になってすぐに部屋ごと回収したという武蔵の言葉は、文字通りのことらしかった。そうでなければ、提督は青葉新聞コレクションを私物化していたに違いない。

 

 箱の中に入っていた僕の私物の鞄にその三つを詰めておく。後のものはここに残して行ってもそう惜しくない。換えの効くものばかりだ。第五艦隊が全員揃っている時に最後に撮った写真も、写真立てからアルバムへと移しておいた。武蔵は選定の間ずっと僕にちょっかいを出してきてうるさかったが、そのアルバムを渡すと楽しげに見始めたので、僕はもっと早くそうしておけばよかったなと思った。

 

 アルバムを閉じるぱたん、という音が次に響くまで、僕は武蔵の腕から伝わってくる彼女の体温を感じながら、ソファーに座ってテレビでニュースを見ていた。戦争が始まって以来、二十四時間いつでも市民が情報(もちろんそれには「制限された」という枕詞が付くのだが)を手に入れられるように、どんな時間帯でも必ず何処かの局でニュース番組を放映するようになっている。それを見る限り、武蔵が言った通りに一年前と今日とで大きな違いはなかった。「戦況は人類有利、だが油断するな」と番組は市民たちに伝えている。海軍の情報を流す番組もあったが、深海棲艦用の通常兵器については触れられていなかった。まだ機密指定されているのだろう。

 

「この後はどうするんだ、武蔵?」

「待つ」

「何を?」

「時が来るのをだよ! ピザの配達を待ってるとでも思ったのかい?」

 

 武蔵は自身の口にした面白くもない冗談で笑った。僕は怒って彼女の首を絞めたりしなかった。こいつはそういう奴だと自分に言い聞かせるのに忙しかったのだ。僕の忍耐が限界に近づいていることを察したのか、彼女は一通り笑いの波が過ぎ去ると、打って変わって憂鬱そうに答えてくれた。

 

「五分後、一時半になったら私の車で移動する。班員との合流地点へな。そこでお前を紹介する。心配するな、悪い奴らじゃない。でもみんな死ぬほどお前のことを嫌ってるから、背中は見せないようにすることだ」

「嫌われるのには慣れてるよ」

「ああ、だが好かれるのには慣れてないみたいだな。初々しくていいぞ、いつまでもそのままでいてくれ」

 

 僕は彼女を無視して、外に出る準備を始めた。靴のことを訊ねると、用意してあるとのことだった。スニーカーは好みじゃないんだが、これから運動するかもしれないことを考えると悪くない選択肢だ。革靴よりはいいだろう。訓練生時代に履いたブーツなんかでもいい。行軍訓練は大変だった。サイズが大きすぎて、隙間から小石が中に入り込んでは足の裏を痛めつけるのだ。教官は「軍にサイズは二種類ある。大きすぎるか、小さすぎるかだ。自分で何とかしろ」と言って相手にしてくれなかったので、結局その時は靴下を何重にも履いてサイズ調整するという荒技で乗り切った。血の巡りを悪くしてしまって暫くの間は冷え性気味になったが、一歩進む度に尖った石ころを踏みつけるより、冷え性の方がいい。

 

 あっという間に五分が過ぎた。武蔵は懐から車のキーを取り出し、「さ、ドライブしようぜ」と言った。表現はともかく、移動しなければならないというならそうしよう。色々とあって荒んでいた心も、多少はマシになってきた。排撃班に入ることは避けられなくても、そこから抜け出す手がある筈だ。どうにかして赤城と接触し、僕のしなければならないことを果たすのだ。ちくしょう、しなければならないことであって、したいことじゃないぞ、絶対に、したいことなんかじゃない。正直、流されるままに生きてる方が楽だ。でも、僕はよりよく生きたいんだ。使命から、そして社会に対する義務から逃げたことを、那智教官に胸を張って言えるか? 隼鷹や北上や利根や響や不知火先輩に言えるのか? 水が低いところに流れるような決定は、愚かさそのものだ。

 

 那智教官は「問題なのはお前が、何の為に、何と戦うかということだ」と、「決して忘れるな。腐るな。お前の戦いを遂行しろ」と言った。何の為に、何と戦うのか、僕はその答えを覚えている。前に出した答えとは少し違ったものになってしまったけれど、出した答えを訂正するなと言われた記憶はないのでいいだろう。そして教官は言ったのだ、「腐るな」と。「お前の戦いを遂行しろ」と。彼女がそう言うなら、僕は僕の戦いから逃げる訳には行かない。したくなくったって、しなきゃならないなら、するんだ。嫌だけど。本当に嫌だけれども。不平不満を言いながらでもいいから、やるのだ。

 

 武蔵の指示に従って部屋の電気をつけたままにして、玄関口へと向かう。二人で靴を履いていると、思い出したように武蔵が言った。

 

「そうだ、お前の番号を決めなければな。うーん、何番がいいかな……私はこれが苦手でなあ、いつも悩むんだ。大抵は人員補充だから、死んだ奴の番号を引き継がせるんだが、今回はそうもいかないし」

「番号って、君の『六番』みたいなあれか」

「覚えていたとは思わなかったが、そうだ。ちなみに何で六番か知りたいか?」

武蔵(むさし)だから以外の理由なら」

「ようし、お前の番号は一八七八二番にしよう」

 

 僕はその番号にすることによって発生する不都合を瞬時に七つ思いついたが、最初の一つだって武蔵に言ってやることはできなかった。いきなり彼女が僕を突き飛ばしたからだ。遠慮なしに本気だったらしく、僕の体はボールみたいに玄関前廊下に向かって飛び、フローリングの床に背中から落ちて一度バウンドし、とどめに壁に突っ込んだ。だが僕はそんな硬着陸の後でも、彼女に向かって「そんなに腹が立ったのか?」と訊く気にはならなかった、というか彼女が立腹して僕を突き飛ばしたのではないと分かっていたのだ。耳がきんきんと痛んでいて、重そうなドアが蝶番のところから外れて床に倒れており、武蔵がその下敷きになっていて、戸口に二人の帯刀した女──寸分違わず同じ顔の、白と黒で色違いだが同じ詰襟の服を着た、病的に肌が白い──が立っているのを見ては、僕は渋々武蔵が僕を助けたということと、もう一つのことについて認めなくてはいけなかったのである。つまり「何だか知らないが、面倒ごとだぞ、これは」と。

 

 ドアの下敷きになった武蔵は動かない。二人のあきつ丸の、黒い服を着ている方が無造作に戸を、その下の武蔵を踏みつけにしながらこちらに近づいて来ようとする。逃げようとしたところで、やっと武蔵が動いた。彼女はあきつ丸の一人が戸の上を歩くのを待っていたに違いなかった。鍛え上げられた彼女の力が、重い扉を持ち上げ、その上のあきつ丸の足をすくった。武蔵は地に倒れた黒服のあきつ丸に飛びつき、取っ組み合いを始める。奇襲に成功したこともあって武蔵は初め優勢だったが、二人を放置して僕を狙って動き始めた白服のあきつ丸をも抑えようとして失敗し、黒あきつに首を締め上げられる形になった。それでも、凍りついたように動かないでいた僕に彼女はかすれ声で叫んだ。

 

「逃げろ、陸軍の排撃班だ!」

 

 そんなものがあるとは聞いていなかったが、想像してみればあって当然だった。僕は弾かれたように走り出した。居間に飛び込み、壁の時計を外して、追ってきた白あきつに向けてフリスビーのように投げつけるが、避けられる。まあ当たるとは思っていない。一秒ほど時間は稼げたからいい。手当たり次第に投げつけながら、僕は間取りすら分からない武蔵のセーフハウス内を逃げる。白服のあきつ丸は無理に追いつこうとせず、僕が袋小路に自ら入り込むのを待つつもりらしい。

 

 陸軍で建造された数少ない艦娘である彼女は、純粋な身体能力こそ海軍の戦艦艦娘などに劣るものの、格闘訓練などは受けていると見ていいだろう。刀を帯びているから、その扱いにもある程度は習熟している筈だ。まともにやりあったらばっさり斬られて終わる。逃げるのも無理だろう。生き残るつもりなら、久々にまともじゃないやり方を取るしかない。考えは一つあった。一つだけでは頼りないが、これに賭けるしかない。

 

 トイレらしき場所があった。それが僕の「考え」だった。僕はそこに一目散に駆け込み、ドアを閉めた。あきつ丸が笑ったかどうかは分からないが、多分馬鹿にはしただろう。だが、さっきのあれを経験した後でまだドアが盾になるとは僕も考えていない。足音と、武蔵たちが辺りのものを壊しながら戦う音を聞きつつ、タオル掛けの金具を掴み、思いっきり力を入れて引き剥がす。軍刀の鞘を払う音がするや、脇腹に熱が走った。身をよじると、トイレのドアを深く貫いた刃が、僕の脇をかすめていた。刃を寝かせて突いたのだ。肋骨に引っ掛かることなく、臓器を壊す為に。当たっていたら危なかったが、直撃ではない。痛いが、耐えられる。

 

 棍棒代わりの金属製タオル掛けを振り下ろし、刀の腹を打つ。妖精が鍛えた刀なら弾き返したかもしれないが、このあきつ丸の刀はそうではなかった。耳障りな音を立てて、刀身が根元にかなり近いところから折れる。ドアの向こうで息を呑む気配がした。今こそ仕返しの時だ。ドアを蹴り破り、馬乗りになってあごや側頭部を金属棒で強かに打つ。筋力は鍛えられるが、脳を鍛えることはできない。白服のあきつ丸はぐったりとなった。武蔵ならそこから更に彼女の首を絞めるとか、喉に口を一つ増やしてやるとかしたのかもしれない。けれど僕にはできなかった。気を失ったあきつ丸の顔を見ながら、深海棲艦を殺すことはできるのに、どうしてだろうと自分でも思った。それから、考え直した。理屈じゃないんだ。

 

 玄関の方から物音がした。格闘の音は消えていた。黒服のあきつ丸かと思って僕は金棒を手にして顔を上げた。だが、姿を現したのは見慣れた褐色の大戦艦だった。彼女は肩で息をしながら言った。

 

「どうもお前は誤解していたらしいな? 私の『逃げろ』は『女にまたがって顔を殴れ』という意味じゃないぞ。そのまま『逃げろ』という意味だ」

「今から逃げるところだったんだ。そっちのあきつ丸は?」

「心配するな、あいつなら審判の日まで寝てるよ。さあ行こう、どうしても女にまたがりたいなら玄関の黒服を持ってけ」

「最低だな!」

「それと、語彙を増やせ」


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