[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

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「Home is the sailor」-2

 ()()が成功してから二日目に赤城に会った時には、手近なところにあった水差しを投げつけようとして響に止められた。三日目には彼女を無視した。幼児のようなみっともない真似だったが、僕が感じたものを発散する方法はそれぐらいしかなかったのだ。そうしながら何日か経つと、当初のような赤城への怒りは収まってきた。彼女が僕の頭の中で何が起こっているのか、何が起こりうるのか、何が実際に起こったのかを知っていたとは思えなかったからだ。

 

 僕のせいで天龍は二度も死ぬことになったが、赤城がそうなると分かっていて僕を眠らせ、そのまま「説得」とやら(僕は結局、離島棲鬼(自分の補佐)の影さえ見なかった)に駆り出したのではないのだろう。彼女は僕が休めるように眠らせ、直前の意思確認なしに深海棲艦たちと魂だか何だかを繋げさせただけだ。離島棲鬼は断りもなく僕の心を無数の深海棲艦たちに大公開しただけだ。その無数の深海棲艦たちはすんなり僕らを信じられなかっただけだ。それだけ。それで、天龍はほとんど自殺のようにして死ななければならなかった。いや、殺されたと言ってもいいな。手を下したのは僕だが、企んだのは沈んでいった艦娘たちであり、彼女たちにそんなことをさせたのはあの説得された深海棲艦たちだ。

 

 僕は、深い失望を感じていた。守りたかったのだ。友達、知り合いを、死ぬべきではない人々を守りたかった。天龍だって肉体は滅んだが、どのようにしてか()()()にいた。守るべき人だった。だが彼女は今度こそ死んだのだろう。守るべき相手だったのに。たとえ彼女が戦争の終わりを望んでいなかったとしても、だからと言って殺さなければならない相手では絶対になかったのに。僕と、あの誰かも分からない艦娘たちは同じ思いを抱いていて欲しかった。残念ながら、それは否定された。

 

 分かっている。現実的に考えれば、あそこで天龍を生かしておくことはできなかった。彼女がもし取引を破っていれば、僕じゃなくてあの艦娘たちが天龍をばらばらにしていたかもしれない。恐らく、彼女たちはやるだろう。それが必要だったならば。最初からそうしなかったのは、死んでしまった彼女たちではなく、現実に存在し、融和派に加わろうかと迷っていたのだろう深海棲艦たちと同じ、命ある生きた人間に手を汚させてこそ、こちらの本気を最大限に強調することが可能になるからだ。

 

 怒りは消えたが、破滅的な気分だった。何度か、僕は自分が他人に、特に艦娘に対して求めすぎているのかもしれないと考えた。自分の理想を他人に押しつけていて、そのせいでそこから外れたところにいる赤城や武蔵の人間性、人を騙したり、本当のことを言わなかったり、相手の意志を尊重しなかったり、それら全てがよくないことだと知っていても悪びれなかったり、そういう傾向に過剰な不快感を抱いてしまうのでは、と。でもその度に、いや、彼女たちの性根は捻じ曲がっていて、これはたとえ僕が迷惑なタイプの理想の追求者であったとしても変わることはない、と考え直した。

 

 三年間。たったの三年間だ。入隊してから今日まで、十年二十年の長い年月が経った訳ではない。だというのに、入隊までの十五年で出会った嫌な奴の全員を合わせたよりも、この三年で知り合ってしまった数人の嫌な奴の方がなおひどい。長門、提督、武蔵、赤城……特に後ろ二人だ。長門は自分なりにどうにかしようと頑張っていることを知っているからいい。提督は、余程のことをしない限りそもそも滅多に会わずに済むので我慢する。だが残りの二人は、やれやれ、会いたくもないのに現れて、人の人生をめちゃくちゃにかき回してくれて、お陰様で今のこの(ざま)だ。

 

 響だけがここでの生活の癒しだった。彼女はカウンセラーだけあって人に思いの丈をぶちまけさせるのが上手なもので、もし彼女がいなければ僕は赤城への悪感情をいつまでも心の奥底でくすぶらせていただろう。それは個人にとって不健康なことだし、グループにとってもよいことではない。僕は融和派にとって、今のところまだ、必要とされているようだ。そんな人物がグループの指導者と不和を起こしたら、赤城の指導力を疑うメンバーが出てくる恐れがある。よりによって、人類と深海棲艦が講和に至る為の最後の一手を打とうとしている、この時期にだ。それは避けなければならない。天龍の二度目の死を無駄にするなどという恥辱は、耐えがたいことだった。

 

 天龍、一体、彼女はどうなったのだろう? 陳腐な言葉を使うことをあえてするとして、彼女と会ったあの場所が僕の精神世界だと仮定しよう。天龍は現実で死に、そこに移った。そして再びそこで死んだ。それが天龍の消失を意味するのか、それともまたあの世界に行くことがあれば、けろりとした顔の彼女に会えるのだろうか? 答えが知りたかったが、僕はその答えを知っているのが誰か知らなかっただけでなく、どうやったら自分でその答えを導き出す、あるいは突き止めることができるのかさえ知らなかった。拠点に居住しているという深海棲艦たちには会わせて貰えず、もっぱら僕が顔を見ることができたのは武蔵、響、そして赤城の三人だけだった。特に赤城は「説得」後、しばしば僕を彼女の部屋に呼びつけて話をしたがった。

 

 彼女は僕がこの油断ならない女に拭い難い不信感を抱き始めていることを悟ったのだろう。または、響からそれとなく、話すように促されたのかもしれない。流石に響が彼女の職務中に聞いた情報を、丸ごと赤城に語って聞かせたのだとは思えなかった。だって、あの小さな天使は、親友の僕の質問からさえ彼女のクライアントを守ったのだ。立派な態度だ。尊敬する。そんな彼女が、赤城相手だろうと職務上知り得た秘密を漏らすとは考えづらい。

 

 赤城が僕をどうしたいのか分からなかったこともあり、僕は彼女と二人になることは避けた。今度盛られる薬も睡眠薬だとは限らないのだ。二度と覚めない眠りに就かされることはないだろうとしても、もっとろくでもない薬を飲まされるかもしれないという疑いを払拭できない以上、信用できる誰か、つまり響か武蔵を伴ってでなければ絶対に赤城の執務室になど行かなかった。幸い、赤城も僕が誰か連れていくことにまで口出ししようとはしてこなかった。彼女は僕を再々呼びつけることについて、電が任務で拠点を離れたので、気楽に話せる相手が欲しくて、と言ったが、僕は信じなかった。それなら武蔵が君にとって一番気楽に話せるんじゃないか、と僕が言うと、赤城は彫像のように表情を動かさないまま、「私の部屋は尋問室ではありません」と答えた。

 

 天龍との別れからきっかり一週間経った日の晩、僕は響から赤城が呼んでいる旨を告げられた。しかし、今度は話し相手を求めての呼び出しではないようだった。武蔵を連れてくるようにとのお達しだったからだ。赤城にとって武蔵は、僕が連れていくのは我慢するにしても、自分から呼びつけて話をしたいと思うような人物ではないだろう。その話というのが、一般に尋問とか拷問とか呼ばれる類のものでもない限りは。まあ、赤城がどういう目的を持っているにせよ、雑談や何の意味があるのかも分からないやり取りの為でないなら、何でもよかった。僕は響に自分たちが行くべき場所を確認した。

 

「部屋かい?」

「いや、工廠だよ。案内しよう」

 

 僕と武蔵は響の後を歩いて工廠に向かった。廊下を歩いて角を曲がり、階段を上がって更に歩くと、音が聞こえ始めた。懐かしい工廠の音だ。人がいるのだろう。久々に赤城と武蔵、響以外の顔を見ることになりそうだ。得も言われぬ緊張がふと僕の体を縛りつけようとしたが、改めて響がいることを確かめると、それもすっと消えた。防音の分厚いドアの取っ手に細い指を掛けた響がこちらを振り返って、上品に笑った。「ここが工廠だ。さあ、どうぞ」戸を引き開けて、僕と武蔵に道を譲る。扉によって抑えられていた音の奔流が耳朶を打ち、僕はまるでまばゆいものを見た時のように目を細め、次いで耳を押さえた。いつまでも音漏れさせているとよくないので、さっさと中に入って何歩か進む。後ろでドアが閉まったが、その音は工廠で動作している機械や整備士たちの行き交う音にかき消されて、聞こえなかった。空気の流れで分かったのだ。

 

 艦娘たちの姿もあった──あっちでは阿賀野型の四人が手に手に魚雷を持って何か話している。別の方では、夕張が高雄型の二人に彼女たちの艤装について何事か実に熱の入った演説をぶっている。どうやら二人の艤装を改良したらしく、どのように強化されたかについて解説しているらしい。また違うところでは、金剛型の比叡と霧島が僚艦と思しき重巡や軽巡艦娘たちに艤装の応急修理のやり方を指導しており、僕も是非ともその講習を受けてみたいと思った。

 

 だがもっと大事なことがあった。そこにいたのは艦娘だけではなかったのだ。阿賀野型四人の傍らで彼女たちの話を聞いてしきりに頷いているのは重巡リ級だ。発話はできなくても聞き取りと単純な意思表示はできるみたいだった。夕張の横には港湾棲姫……じゃない、港湾水鬼(水鬼なんて初めて見た。これが戦場だったら泣きを入れてるところだ)がいて、しばしば脱線する夕張を引き戻す役目を負っているようだ。そうして、金剛型たちの講習を受けている者の中には、北方棲姫が混じっていた。小柄な体を艦娘たちの間に突っ込んで、熱心に話を聞いている風に見える。

 

 これについては、素直に認めるしかないだろう。感動的な光景だった。決して、決して同じ空の下で生きていくことはできないと思われていた二つの種族が、こうして同じ場所にいて、通じ合っている、通じ合おうとしている。僕のいた場所では、殺し合うだけが人類と深海棲艦の関係だった。撃ち合い、憎み、殺したり殺されたりするだけが僕らと彼女らの間で起こる全てのことだった。それがここでは違う。そしてここから変わっていく。明日がらりと変わるという訳には行かないだろう。深海棲艦を許せないと思う者もいるだろう。深海棲艦の方だって、同族を愛するように人類を愛することはできないという者がいるだろう。だが、それでも、少しずつでも、変わっていくのだ。人類と深海棲艦は互いの手を取り合う未来を築いていけるのだ。それは幻ではない。誰にも否定はできない。何故なら、この僕の目の前に、その証明があるのだから。

 

「いい眺めでしょう? これが、私たちの目指すものです」

 

 振り返るといつの間にか、赤城が後ろに立っていた。忍び寄られるのは好きじゃない。僕は顔をしかめたが、彼女の言葉自体には賛同して頷いた。武蔵は赤城の動きに気付いていたようで、見れば僕と赤城の間に挟まる位置に、僕を守ろうとするかのように陣取っていた。礼を言うのは自意識過剰のようで恥ずかしかったので、目配せだけしておく。武蔵にはそれで十分だったようで、彼女は唇の端を小さく動かして反応した。「こちらへ」と言って赤城が歩き出したので、今度は彼女についていく。融和派のリーダー、元排撃班の班長、世界唯一の男性艦娘、人気カウンセラーの四人が一緒にいるというのは目立つものらしく、たちまち周囲から遠慮のない視線が注がれた。視界の端ではこそこそと内緒話をしている様子も見える。工廠の機械音でそれらが耳に届かないのが残念だった。自分の評判は気になるものだ。

 

 赤城は僕たちを工廠の一際奥まったところにある小さな倉庫まで連れて行った。そこには明石──無論、研究所の明石さんとは別の──がいて、僕を見て顔を引きつらせながら最低限の礼儀として会釈をした。それから僕を見ないようにしつつ、赤城に「整備点検、全て完了しました」と連絡した。融和派の指導者としての余裕を持った態度で赤城はその報告を受け、明石にこの場を辞することを許した。彼女はきっと、ほっとしたことだろう。明石が出て行くと、武蔵は痺れを切らして苛立ち混じりの声を上げた。

 

「それで、何の用なんだ?」

「艤装が届いています。あなたたち二人の」

「艤装が?」

 

 余程驚いたのか、褐色の大戦艦は鸚鵡返しにそう訊いた。赤城は頷くことさえしなかったが、そもそもその必要もなかった。彼女は倉庫の壁際に置いてある、不織布の掛けられた大きな二つの荷物を示した。僕が赤城に目をやると彼女は素っ気なく「どうぞ」と許可を出したので、その布を取り除くと、もう二度と見られないだろうと思っていたものが視界の中に飛び込んできた。僕の艤装、僕の装備だ。長らく使っていたものは海に沈んだが、提督は予備を用意することを忘れるような人ではなかった。その予備の一つなのだろう。大方、廃棄される時に掠め取られたのだろうか? 砲や魚雷も揃っている。挙句の果てに、砲塔から姿を現した妖精たちはあの顔馴染みの戦友たちだった。これには僕も仰天し、赤城の融和派グループが海軍内に一体どれほど浸透しているのかと震えずにはいられなかった。

 

 武蔵も彼女の巨大な艤装と、それに取り付けられた四六センチの巨砲を見下ろしていたが、やがて赤城に向き直った。「同じ戦場に出たら、誤射されないように気をつけることだ」「ご心配なく。その前にあなたを亡き者にします。たかが一隻で何様のつもりですか」このままだと僕の胃が痛み始めるだろうことが予測されたので、今度は僕が武蔵と赤城の間に割って入らなければならなかった。響は武蔵の艤装の、というか武蔵の四六センチ砲に興味を惹かれたらしく、二人がほぼ交戦状態にあることに気付いていないようだったから、僕がやるしかなかったのだ。でも思うのは、響は赤城たちを止めるのにそろそろうんざりし始めていたのではないのか、ということだった。一度試しにとことんやらせてみたらどうなるだろう、というのは、僕も響も同じく有するところの疑問だ。またこれは、好奇心で辺りを焦土にする訳には行かないので、疑問のままにしておこうと二人で約束したものでもある。

 

「それで、赤城。僕らをここに呼んだのはこいつのお披露目がしたかっただけなのか? それならもう終わったように思えるがね」

「もう少しの辛抱です。まずは、改めて感謝を。こちらへの合流まで暫く時間を要するとはいえ、離島棲鬼とあなたのお陰で戦力は整いました。離反した深海棲艦たちによれば、主戦派は大規模攻勢の用意を進めていたようです。私たちが戦力を削いだことで、攻勢は延期されるでしょう」

「稼いだ時間はどれくらいなんだ?」

「精々、一ヶ月ほどかと。これも深海棲艦たちの見立てですから、信頼してよいでしょう」

 

 どうやって算出したのか知りたかったが、今は知的好奇心を働かせる時ではない。その一ヶ月で何ができるだろう? とにもかくにも訓練が必要だ。何しろ僕が艤装を最後に装着したのは一年も前なのだ。それと、できれば深海棲艦たちと艦隊を組んで行動する練習もしておきたい。ぶっつけ本番でもやれと言われればやるしかないが、可能なら予行を行い、問題点や改善するべき点、その方法などを洗い出しておくべきだ。武蔵が僕を手助けしてくれるというのなら、彼女との協同も訓練しておかねばならない。彼女は大和型二番艦、一番艦大和を除くならば、まさに比類なき大戦艦である。艦としてのスペックだけを比べれば、長門でさえも一歩退かざるを得まい。だからこそなのだが、組んだ時の勝手が分からない。それでは困る。

 

 だが僕がぶつぶつ言いながら頭の中で訓練計画を立てていると、赤城は全然申し訳なくなど思っていなさそうな顔で「申し訳ありませんが、この拠点から出ることはしないで下さい」と言った。機密保持の為だそうだ。僕は武蔵よりも遥かに人目を引く無二の存在だから、衆目に晒すのはそれが必要な時だけにしたいらしい。残念だが、筋は通っている。となると、可能なのは艤装を装着する感覚の慣れを取り戻すことぐらいか。最低限、それだけでもしておかないと怖くて戦場になんか出られない。赤城も、それまで却下するような考えなしではなかった。しかし艤装をいじる為だけに工廠に一々来て欲しくもないらしく、彼女は部屋に艤装を持ち帰ることを許可してくれた。弾薬と燃料は入っていないので、武蔵が暴れ出しても鎮圧できると考えているようだった。これには疑問符をつけたい。

 

 武蔵は危険な女だ。那智教官が訓練所で作り出そうとした、理想の艦娘の姿そのままとは言わないが、それに近いところがある。生きている限り、彼女は彼女の敵にとって最大の恐怖になるのだ。もし、僕が武蔵と敵対するようになって、天の導きで彼女の両手両足をへし折れたとしよう。両目を潰し、耳を塞いでやったとしよう。それでも生きている限り、武蔵は僕を何がしかの方法で殺しに掛かってくる筈だし、多分彼女は僕を仕留めるのに成功するだろう。この武蔵は、そういう艦娘だ。

 

 僕と響、それに武蔵は協力して艤装を部屋へと持ち帰った。行き以上に目立っていたことは間違いないだろう。誰だって、四六センチ砲には視線を奪われてしまうものだ。そして部屋の扉を閉めるや否や、僕は早速脚部以外の艤装を装着した。砲を動かし、体に掛かる艤装の重みを感じ、歩き回ってその重みへの慣れを取り戻そうと努める。響は「大はしゃぎだね」と僕の様子を評した。その言葉には僕へのからかいが含まれていたが、武蔵の心に刺さるような、相手を傷つけようとするところのあるからかいとは違って、響の言葉は豊かな愛情に包まれていたので、僕は彼女に向かって微笑みを返すことができた。途中からは武蔵も艤装を身につけ、外見からだけでも伝わってくるその偉大さに響と僕とは感心するばかりだった。そんな風に体と感情のどちらも酷使されたので、その日は久々にあっさりと眠りに就くことができたように思う。

 

 けれど、目覚めは最悪だった。朝方、ノックもなしにドアが開かれ、赤城が息せき切って駆け込んできたのだ。彼女が何か言い出す前に、僕も武蔵も目を覚ましてベッドの外へ飛び出ていた。赤城が息を整える僅かな間に、僕たちは服を着替え、艤装を装着し終えた。準備万端、という様子の僕らを前にしてやっと、融和派のリーダーは、今までに僕が聞いた中で最もひどい前言撤回を行った。

 

「攻勢が始まりました」

 

*   *   *

 

 どうも、僕たちは相手の数を計り違えていたらしい。一大攻勢に出るつもりでいた深海棲艦たちは、これまでにない戦力を整えていたようだ。それこそ、僕らの工作で多くの深海棲艦たちを離反させてもまだ、攻撃を行おうと思うぐらいには。もしかして、離反させたこともこの早まった行動の原因なのだろうか、と僕は考えた。現在の日本海軍は、対深海棲艦戦力として艦娘だけでなく、通常船舶をも運用可能である。それはつまり、単純な彼我の戦力比は人類側に大きく水をあけられている、ということだ。それにも関わらず、主戦派たちは戦力の充実を待たずして攻撃を始めた。彼女らは「離反されたことによって情報は漏洩する」「戦力を補充している暇はもうない」「ならば相手が用意を整える前に一気に叩くしかない」と考えたのかもしれない。

 

 赤城は僕と武蔵を彼女の執務室に集めると、部屋の中をぐるぐると歩き回り始めた。その表情は硬く、深く考えるまでもなく彼女の内心を察することができた。苛立っているのだ。しかしそれはこっちだって同じことだった。攻勢が始まった。なるほど、予想外だった。それで? 僕らは何をするのだ? 人知れず人類の手助けをして回るのか、傍観するのか、何かもっと違うことをやるのか。少なくとも、部屋の中で同じ場所を行きつ戻りつするよりは建設的なことをしていたかった。僕は我慢していられなくなって声を上げた。「なあ、赤城」「待ちなさい」ぴしゃりとはねつけられて、僕は開きかけた口を閉じた。赤城は待っているのだ。何を待っているのかは知らないが、恐らくそれは神の奇跡で攻勢が明後日の方角に行われるとか、突然霧や霞のように主戦派たちが消えてしまうことではないだろう。

 

 艤装を適当な場所に下ろし、壁際に立って赤城の望んでいるものが来るのを心待ちにしていると、脇腹に刺激を感じた。僕と同じく艤装を下ろした武蔵がつついていたのだ。言いたいことがあれば普通に言えばいいものを。攻勢が始まったと言われて吹き飛んでいた眠気が戻り始めていた頃だったので、僕は武蔵の指一本に非常な憎悪を抱いた。もうちょっと実際に即した言い方をするなら、大変むかついたのである。払いのけることは簡単だが、そうすると武蔵はもっと直接的かつ肉体的接触がより多い方法でちょっかいを掛けてくるだろうから、耐えるしかないというのも苛立ちを誘った。脇をつつかれながら、僕は人間の感情の強弱が数値化できればいいのにと思った。そうしたら、今の赤城と僕のどちらがより神経を尖らせているのか知ることができるだろう。

 

 とうとう武蔵の手が僕の脇腹を掴んだ。忍耐の限界だ。「僕に触るのをやめろ」自分でも驚くほど()()のある声が出たが、やっぱり武蔵には通用しなかった。彼女は僕が嫌がることをしている時が、自分の哀れな人生で唯一自由に味わうことのできる最高に幸せな時間だと信じ切っているらしく、何であれ僕が武蔵の行いに対してやめて欲しいと主張すれば主張するほど、興奮するという悪癖があるようだった。彼女はにやにやしながら言った。「悪かったよ、お詫びに私を触っていい。自分で言うのもなんだが、かなりのもち肌だぞ」悪かったと口では言ったものの、その間も彼女の手は盛んに僕を不愉快にする様々な接触を企てていた。

 

「もち肌? そりゃいい、すぐに杵を持って来よう。それから僕の気が済むまで触らせて貰うよ」

「おいおい、優しく触れてくれないと膨れるぜ」

 

 武蔵は頬をぷくりと膨らませて、許しがたいほどあざとい仕草をして見せた。このような彼女の冒涜的な態度は、正常な道徳心と正義感、そして人類が築き上げてきた世界秩序に対する崇敬の念の持ち主であれば、決して見過ごすことのできるようなものではなかった。指でぴしりと弾いて、空気を抜いてやる。それでも武蔵は嬉しそうに笑うので、僕は本当に嫌になって、げっそりとした。彼女を大人しくさせておける人がいたとしたら、僕はその人物に永遠の忠誠を誓ったって……いや、前に似たようなことを考えたら長門が出てきて後悔したな。このタイプの表現は封印しよう。とにかく武蔵をもう少しでも真っ当な人間にできるなら、その為に僕はできるだけのことはするつもりだ。

 

 足音が聞こえてきた。未だに僕をつつくのをやめない武蔵の手を掴んで止めさせ、僕はその音に耳を澄ませた。音の間隔やその他の要素から推測して、響のようだ。急ぎ足で、時々ステップを踏むような足取りになっているところは、本当なら走りたいものをどうにかこらえているように聞こえる。彼女は執務室のドアの前で立ち止まった。深呼吸をして心を落ち着かせようとしているのだろう。赤城は響が来たことに気付いていなかったが、扉が開くと流石にそちらへ目をやった。その時の赤城の顔を見れば、彼女が待っていたのがこの有能なカウンセラーであることは余りにも容易に直観できた。

 

「報告が上がってきたよ」

 

 息は平生(へいぜい)と変わらなかったが、顔の火照りまでは隠せない。走らなかったのは執務室の付近だけだったようで、響の頬は(べに)でも塗ったかのように赤らんでおり、明らかに運動の結果と思われる乱れた髪と目の下に浮いた玉の汗の二粒三粒の輝きが僕の目を奪った。今が緊急事態でなければ、手櫛で響の髪を(けず)り、頬の汗を袖で優しく拭い、扇いで熱を冷ましてやっただろう。自立した立派な女性である響はきっとそんな人形めいた扱いを好まないだろうから、それは想像の中でだけ可能なことなのだろうが、それでもだ。

 

 響は手に報告書と思しきものを掴んでいた。握りしめていたせいでくしゃりと歪んでしまっていたが、赤城はそれを気にした様子もなく紙面に鼻をくっつけそうなほど近づけて読み始めた。彼女が動きを止めてしまったので、答えを求めて響を見ると、彼女は僕と武蔵の手を見ていた。「とうとう手を出したのかい」と言わんばかりのその視線に戸惑うが、理由はすぐに分かった。僕は武蔵の手をずっと握ったままだったのだ。手を離すと、武蔵はくつくつと笑って握られていた自分の手を、もう片方の手で撫でさすった。

 

「響、何があったんだ?」

「攻勢の話は聞いたろう? それで、敵の進撃ルートを調べさせていたのさ。ああ、私がじゃないよ。私はただの伝令みたいなものだ」

「マズいのか」

「報告書をちゃんと読んだ訳じゃないから断言はできないけど、かなり危険そうだ。世界各国に向けて、相当な規模の攻撃が向けられている。日本に向けても複数のルートから侵攻中らしい」

「複数のルートだって?」

 

 それは僕の知っている深海棲艦のやり方とは違っていた。彼女たちは勢力を多数に分けることは余りしない。囮で主力を引き離しておいて、本隊を手薄の本国に突っ込ませようとすることはあったし、少数の小型艦などを先行させてこちらの戦力を測る道具にする程度のことはしょっちゅうだが、こうはっきりと艦隊を分けて別の海路を行かせる、ということはなかった筈だ。どういうつもりだろう? 戦力の逐次投入、とはちょっと違うな。戦力の分散と呼ぶべきだろう。それは一概に悪手とは言えない。全体的に圧力を掛けて相手の処理能力を飽和状態にしてから本命を叩くのは、力技の王道みたいなものである。飽和繋がりで言えば、かつて人間同士の最終戦争が恐れられていた時代には、飽和核攻撃などという狂人のたわごとかと言いたくなる選択肢さえ大国の軍は有していたのだ。通常兵器しか使っていないだけ、深海棲艦たちは良心的なものだ。まあ、あんなものを使えば海が汚染されて自分たちも被害を受けるのだろうから、当然と言えば当然なのかもしれないが。

 

 響によれば各地の鎮守府や泊地、基地から迎撃の艦隊は出ているようだったが、海軍本部は急遽指令を下したのか、少なくとも赤城の部下が調べ上げた情報を信頼する限りでは、彼らの送り出した艦隊の数は質・量共に本来出すべき水準に達しているとは思えなかった。このまま放置していれば、明日の夜には悲劇的な報告が日本国内を駆け巡り、全国の艦隊が本気の連合艦隊を組んで、水際でこの攻勢を迎撃することになるだろう。僕は艤装を装着してこの場を飛び出し、海に出たい気持ちに駆られた。同胞たちをむざむざ死なせたくなかった。言うまでもなく、そんなことをすれば無駄死にする人間が一人増えるだけに終わっただろう。いかに間抜けな僕にだって、それぐらいは分かっていた。

 

 赤城が復帰した。何か気味悪く呟いてはいるが、銅像みたいに動きを止めていた状態から多少は人間的になったと言ってあげたい。「十二隻……編成はどうするの? 電に連絡して、艤装の改装は済んでるわね……行けるかしら、いえ、私たちも今しか……そうね、今しかないわ」呟くなら聞こえないように呟いて欲しいものだ。こういう時、呟きの内容まで聞こえていると、聞こえているこっちはひどくいたたまれない。僕と響と武蔵は互いの顔を見合い、競って気まずそうな顔を作って赤城が正気に戻るのを待った。幸運にも、十秒ほどでそうなった。それから彼女は響に命令を与えた。

 

「響、電に連絡を。彼女たちの状態について尋ねて下さい。判明次第、報告を。私たちは工廠の小倉庫にいます」

Поняла(了解). ただちに取り掛かるよ」

 

 僕と武蔵は艤装を持って、全員で執務室を出た。響は別の方向へ行ってしまい、僕らは前日に使った道を辿って工廠へ向かった。その途中、速足で歩く一人の駆逐艦娘に出会った。陽炎だ。赤城は彼女を呼び止めると、懐から紙とペンとを取り出して、そこに何か書きつけて陽炎に渡した。彼女はびしりと決まった海軍式の敬礼をしてから、全速力で駆け出して行った。重要な命令だったのだろう。それについて尋ねて時間を無駄にすることなく、僕らは工廠へと急いだ。

 

 工廠は戦場のごとき騒ぎとなっていた。拠点にいた多くの艦娘や融和派深海棲艦たちが、最後の戦いに赴く時がきたとばかりにこの場所へ集まっていたのである。そこに赤城が僕や武蔵を伴って現れたものだから、余計彼女たちの炎に油を注ぐことになってしまった。だが赤城は僕や彼女たちが期待したような、いざ聖戦へといった勇ましい言葉の代わりに、部下たちに待機を命じたのだった。理解はできる。勢いだけで飛び出ても仕方ない。が、空回りした士気は不満を生む。僕は自分の背中に突き刺さる理不尽な視線を感じながら、昨日艤装を受け取ったあの倉庫へと入った。今日もそこには明石がいた。

 

「明石、二人の艤装を処理して下さい。音響機器は?」

「上手く行きました。テストは最低限しかしていませんが、十分実用に耐えると思います。……あの、使うんですか?」

「ええ。その機会があれば、ですが」

 

 僕は素直に明石の手押し車に艤装を乗せた。武蔵はやや抵抗があったようだが、最後には手放した。明石が出ていくのと入れ替わりに、響がまた駆け込んでくる。今度は息を整えもしなかったせいで、響は四つのセンテンスを発言するのに、毎度短い呼吸を差し挟まなければいけなかった。

 

「彼女たちは他より先に迎撃に出た、数は四個艦隊、およそ五時間ほど早く接敵の予定、電たちは所定通り!」

「分かりました。電に作戦開始の連絡を。私たちは準備を終え次第、すぐに出発します。あなたも急ぎなさい」

Есть(了解)!」

 

 伝令は忙しいものだ。響は深呼吸もできないままに、再び駆けて行った。そろそろ、説明が欲しいところだ。僕と武蔵は赤城に視線で圧力を掛けた。彼女はこちらをちらりと見て目を逸らしたが、結局は僕らの方を向いた。僕は言った。

 

「何か君から話があるんじゃないかと、僕は想像してるんだが?」

「計画を前倒しにして実行します。融和派深海棲艦と、人類を講和させる糸口を……今日、作るのです」

 

 軍を手助けすることによって、点数を稼ごうと言うのか? けれどそれは甘い考えのように思われた。彼らは話など聞きはしないだろう。僕らが手助けをしたとして、自分たちが窮地を脱したら平気でこちらを攻撃してくる筈である。軍とは根っからそういう組織なのだから、卑怯だとか何らかの道にもとるだとか言う方が間違っているのだ。まあ、赤城の話には続きが期待できたので、僕は拙速な批判を控えておいた。それは正しい判断だった。

 

「救援対象の艦隊群には、計画の成否に関わる三つの特徴があります。一つは、対深海棲艦用の武装を積載したフリゲート艦が二隻、配備されていること。もう一つは、あなたの友人である広報部隊の青葉が、彼女のスタッフと共に同行していること。そして最後に、彼女たちの所属は」

「私が当ててみせよう。第二特殊戦技研究所、だろう?」

 

 武蔵の割り込みに赤城は眉をひそめつつも頷いたが、そんなことはどうでもよかった。二特技研? 僕の古巣だ、僕の原隊(ホーム)だ! いや、しかし、どうして武蔵は当てられた? どうして赤城はそのことを“計画の成否に関わる特徴”だなんて……まさか。僕は天を仰いで、思いの全てを短い言葉に込めた。

 

「あのクソ提督……!」

「全くだ」

 

 排撃班班長としてのプライドが傷つけられたのか、武蔵は腕組みをして溜息を吐いた。僕は彼女ほど冷静ではいられなかった。提督は融和派だったんだ。だから武蔵と会った後に憲兵から呼び出された時、僕を逃がそうとした。逃げていればその先で救い主のように赤城が現れていたのだろう。だが逃げなかったから、彼女たちに情報を回して確保させようとした。間の悪いイレギュラーで別のグループに掠め取られることになりはしたが、結局は取り返した。赤城が僕の艤装を用意できたのだって、提督がこっちに付いていたって言うのなら、何の驚きもない。

 

 武蔵は「私や私の部下たち、そして恐らくは海軍の誰にも悟らせずに、どうやって赤城は陸軍と接触できた?」と前に首を捻っていたが、きっとそれも提督の手回しに違いない。赤城たちにばかり目を向けていた武蔵は、まんまと一杯食わされた形になる訳だ。響の部屋を片付けさせなかったのだって、響が生きていると知っていたからなのではないだろうか? 以前に赤城が暗号化された僕たちの無線に入り込めたのも含めて、提督のせいだとしたら何もかも説明がつく。それなら何で彼女は僕に勲章を投げつけたのかって話になるが、それはどうせ「一度でいいから勲章を投げてみたかったんだ」とかそういう類の理由だろう。

 

 それだけじゃない、僕を最初に引き抜いたのだって那智教官のコネよりもむしろ、融和派関連の理由からかもしれない。彼女が僕と会ったのは、僕が初めて深海棲艦の声を聞いた後だ。あの時に接触した深海棲艦が長門に殺される前に別の主戦派に回し、そしてその情報を融和派のスパイが得て、赤城たち経由で提督に伝わり──ダメだ、今は考えないようにしよう。論理が飛躍気味だ。これでは提督がやっていないことまで彼女のせいにしてしまいそうだ。それはしたくない。

 

 ふと疑問が一つ浮かんだ。提督が赤城たちの仲間だったというなら、どうして対深海棲艦用ミサイルの性能試験を、あんな危険な任務を僕の艦隊に任せたのだろう? もっと練度の高い、第二艦隊や第一艦隊でもよかった筈だ。大本営から特に第五艦隊と指示されたということもないだろう。それは伝統的なやり方ではなく、高級軍人たちは伝統を墨守することにおいて他の追随を許さない人々なのだから、実に奇妙なことだった。知っているかと思って赤城に尋ねると、彼女は微笑んで答えた。

 

「彼女はあなたが何にも気付かないことに痺れを切らしていました。そこに深海棲艦を撃破可能な通常兵器の開発に成功したという知らせが入ったのですよ? 彼女になったつもりで考えてごらんなさい」

「ああ、分かりたくないが分かった気がするよ。なあ、君があの時僕のところに来たのは、提督が位置を伝えたからか?」

 

 赤城は頷いた。僕は提督のクズ度合いを上方修正した。もしあの日、万事上手く行っていたら、ミサイル攻撃は恐らく赤城が提督に「あなたの言っていた座標に彼がいないのですが」などと連絡してくるまで差し止められていただろう。彼女は赤城を消し、融和派との繋がりを消し去るつもりだったのだ。けれど誘導に失敗したことでミサイル攻撃そのものが不可能になってしまい、また僕がようやく深海棲艦たちと意思疎通することに成功したから、そ知らぬ顔で赤城への協力を続けているのだ。とんでもない厚顔無恥なクソ提督だった。

 

 呆れ、脱力感を味わいながら武蔵に尋ねる。「どうやって分かったんだ?」「お前の艤装。赤城が私たちを追い立てるのに陸軍を使えたこと。ふん、ここに来る前から疑わしい点はあったんだ。研究所への艦娘着任の少なさとかな。というか、分からなかったのか?」僕は、提督が彼女の艦隊に迎える艦娘に対して慎重だったことを思い出した。僕が特に指定した北上や利根などはあっさりと入れたが、そういったある種の身元の保証がない相手については、提督は着任させるぐらいなら艦隊が欠員を抱えたまま出撃した方がマシだと考えているかのように徹底した考査を行ってから(大抵は)着任を見送っていた。

 

 クソったれめ。どうやら僕は、手の平の上でいいように転がされていたらしい。気に入らない、気に入らないが、畜生、それは後回しだ。赤城に、僕の古巣が彼女の計画にどう関わってくるのかを尋ねる。これは赤城たちに合流して以来、僕がずっと聞きたかったことでもあった。赤城はこれまで適当にはぐらかしたり、答えることを拒んだりだったが、ことここに及んではそうはさせない。話して貰おう。


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