新訳・ファイアーエムブレム新暗黒竜と光の剣F 作:朝比奈たいら
ベンソンの本隊に先駆けて進軍したマチス隊は、歩兵隊の状況を掴めないでいた。
それもそのはず、ベンソン軍とマチス軍には竜騎士もペガサスも居ない。
高空からの偵察を行う事が出来ない為、徒歩や騎馬の斥候を使うのは当然であった。
だがその斥候も、アリティア騎士団に発見されて追撃を受け、討ち取られていた。
マチス隊は戦況を把握出来ないまま、歩兵隊の援護として先行強襲を仕掛けざるをえなかった。
「全隊、止まれ!」
アリティア軍が遠目に見えるほどの距離で、マチス隊は陣形を整える。
陣形は矢印型の鋒矢陣形で、突撃による正面突破に適した陣であった。
この場合、指揮官であるマチスは矢印の下側に位置する。
彼は正面攻撃向けの魚鱗や鋒矢陣において、自ら先頭に立つという事が無かった。
それは指揮官のやるべき事ではないと考えていたし、何よりも軽傷を負う事ですら嫌がっていた。
しかし、そうもいかない状況が今である。
敵が何かしらの防衛策を用意しているのは明白であるし、
早く敵本陣を攻撃しないと東の歩兵隊が壊滅する。
この時点で歩兵隊はジェイガン達宮廷騎士団の攻撃で四散している。
マチスは斥候から連絡が無い事であらかた察していたが、それでも万が一というものがある。
もしも歩兵隊が少しでも生き残っているのにもかかわらず撤退すれば、間違いなく責任問題となろう。
ただでさえミシェイルの反感を買っているのだから、これ以上評判を落とすのは家の存続にかかわる。
なおこの場合の家とは我が家でも親でも血筋でもなく、自分の命こそだ。
「ベンソン卿には良くしてもらっている。
一当てすれば敵の騎士隊もこっちを無視出来ないだろ。
その後は橋でも落としてミネルバ様を待ちますか」
近衛兵に聞こえる様に、あえて口にするマチス。
この人はどうするつもりなのだ? という顔をする近衛隊長に、そっと耳打ちをした。
「俺が先頭に立って突撃をさせるから、お前らは後方に居ろ。
接敵寸前のドサクサで俺も後ろに下がる。
陣地が突破出来れば良し、そうでなければすぐに撤退だ」
「はっ」
近衛隊長は質問を返さない。
保身が大事な人間に何を言っても無駄であるし、
そもそもマチスが酷く自己中心的に堕落した馬鹿だとしても、戦術面では馬鹿ではなかったからだった。
マチス自身が先陣を切って槍を振るいながら、全軍突撃して死ぬまで戦え、
などと言わないだけで近衛隊長にとっては十分である。
マチスは陣形の先頭に立ち、槍を掲げる。
「我らの働きには、仲間の命がかかっている。
彼らを助ける事で、義理も戦功も得られるんだ。
これより我らは敵本陣へ突撃するが、抵抗が激しいのであれば一次後退して再度陣形を組み直す。
だが後退命令が出なければ、敵の本陣は我らが一直線に貫けるという事だ。
総員、並足にて前進!」
「おおー!」
マチス騎馬隊が進む。
最初はゆっくりと歩く並足。
次の合図で速度を速める速足。
アリティア軍の姿が徐々に大きくなってゆく。
敵が中途半端に組まれた馬防柵に隠れ、弓や槍をこちらに向けるのが見える。
過大評価だったか? という言葉がマチスの脳裏をよぎった。
確かにまったくの無防備ではない。
しかし自分の部隊だけならともかく、これではベンソン隊は止められない。
勝機はあるだろうなと感じ、マチスは息を吸う。
全軍が全速力で突撃する為、駆け足と叫ぼうとした。
だが、マチスはアリティア陣地から飛び立つ一騎のペガサスを見る。
伝令か何かだと思ったが、そうではない。
ペガサスは一直線にこちらへ向かってくるのである。
一体何の策があるのだ、とマチスに迷いが生じた。
そして味方の馬蹄と鬨の声に交じり、前方から高く美しい声がするのに気が付いた。
女の声だ、とマチスは気づく。
「――さ――に――!」
マチスはびくりと肩を飛び上がらせ、慌てて前を注視した。
そこには赤い髪のシスターが、草原の風を浴びながら両手を広げていたのである。
「全軍停止! 止まれ、止まれ――っ!」
マチスは辺り誰彼構わず叫び散らした。
兵達は突然の停止命令に困惑したが、何とか速度を落とし始めた。
ここで手綱を全力で引く様な事があったら、それだけで多数の死人が出る。
指揮官のマチスが先頭を走っていたおかげで命令の伝達が間に合い、
マチス騎馬隊は突撃の停止に成功した。
何故止まったのか、と聞かれれば、単なる勘であった。
あのシスターが何らかの策略の種であると判断したのだ。
シスター個人についてはこの距離では顔の細かいところまで見えないし、
元々マチスは目や耳が良い方ではない。
障害と呼ぶまでも無い軽度のものであるが、常人よりは二度見や聞き返しが多かった。
だから前方に居るのが誰か、というのはまったく関係が無い。
そう、思っていたのだが。
アリティアのペガサスがシスターの傍まで来て、それを回収する。
ペガサスは何故か白旗を掲げつつマチス軍に向かってきた。
それを見てマチスはしまったと思う。
時間稼ぎの停戦をされたのならば、東の歩兵隊はどうしようもない。
今ここで停戦したとして、東の部隊に伝わるには時間がかかる。
停戦命令が間に合わずに歩兵隊を全滅させてしまいました、とアリティアは言うかも知れないと。
やられた、とマチスが歯噛みしている中、ペガサスの騎手は白旗を振りつつマチスの目の前に降下する。
「指揮官はマチス卿で合ってらっしゃるか!」
ペガサスの騎手が叫ぶ。
マチスはめんどくさそうに頭を掻きつつ、ぶっきらぼうな口調で返した。
「停戦の申し出なら、歩兵隊の安全を確保してから頼む」
正直なところ、マチスはベンソンに対しての義理などどうでもよかった。
確かにオルバニー城を拠点として住む所を上手く取り計らってくれたのは感謝しているが、
それ以外ではただの同僚でしかない。
最初からマチスに忠誠心やマケドニア軍に対する仲間意識はさほど無かった。
しかし、自分が敵に出し抜かれたという事実を嫌うくらいのプライドは彼にも存在したのだ。
不快そうな表情をするマチス。
そんな彼に、ペガサスの上から叱りつける様な声が投げかけられた。
「兄さん、私です!」
怪訝そうな顔で、天馬上のシスターを横目に見やるマチス。
その目はシスターが馬から降りて近づいてくると、ぱちくりと見開かれた。
「あれっ」
「あれっ、ではないですマチス兄さん!」
「……名前を述べよ」
「レナです」
「……だと思ったよ! よおぅレナ、何でこんなとこに居るんだ!?」
「顔と声で気づいてください……」
「いや、念の為だ」
「兄さんはいつもそういう事をする!」
ぎゃあぎゃあと喚き合う二人。
こうして、マケドニア貴族のマチスと、その妹レナは久々に再会した。
何やらよく分からない事が起きたなぁと、
マチス隊の騎士達とペガサス上で白旗を持つラゼルは苦い顔で目線を交わし合った。
これは拙かったな、と、近衛数名を連れてアリティア軍陣地に入ったマチスは理解した。
アリティア軍が用意していたのは馬防柵だけではなかった。
攻城塔(城攻めの際に使う移動式櫓で、野戦においても弓兵を載せて使われる事がある)があったり、
辺り一面に杭が打ち込まれているなどという事は無かったものの、
よく見ると陣の周囲には人の身長ほどの深さがある溝が掘られていた。
まだ未完成ではあったが、これに嵌まれば騎馬突撃の勢いは削がれる。
もしもマチスがあのまま先陣を切っていたら、間違いなく後続に押しつぶされて死んでいたであろう。
敵方に妹が居ると知ったマチスは、一時的な停戦を受け入れて本陣にある天幕へ入った。
中ではマルス王子とその他幹部達が待ち構えている。
敵は私の兄です、とレナに言われたマルスが何を言うかなど、誰もが予想出来る事だった。
そして予想通りの言葉を返したマルスは停戦の準備を進めていたのだが、
レナが単身でマチス軍に向かっていった時は肝を冷やした。
慌ててラゼルのペガサスを向かわせたのだが、結果的に成功して安堵するマルス。
しかしこれからが彼の仕事である。
「アリティア王子マルスです。
マチス卿、シスター・レナからは兄だと聞いています」
「シスター?」
怪訝な顔をして傍らの妹を見やるマチス。
てっきり妹は貴族扱いされているものと思ったが、レナはそういう事をアピールする女でない事に気づく。
「各地を巡り、人々を助けて回っているシスター・レナはガルダでも慕われていました。
ご存知無いのですか?」
「妹は確かに修道院に送って、花嫁修業はさせましたよ。
なのにマケドニア王の求婚を断って家出したんで、私がこんな僻地に居るんです」
この話はレナとマチス以外、初耳であった。
ジュリアンが作業中でここに居なくて良かった、とラゼルは思う。
恐らくややこしい事になっていただろう。
一方でモロドフなどは、
王から求婚されるほどの貴族の名が自分の耳に入ってこなかった事を疑問に思っていた。
「失礼ですが、マチス卿はどこの都市の領主でおられますか?」
「私はしがない小貴族ですよ。
妹がミシェイル王の目に留まったのは、レナが良い女だったからです。
たったそれだけです。
だから今回もたった二百騎しかおらんでしょう?」
「ほう、それはさぞかし肩身の狭い思いをされているでしょうな」
嫌な奴だ、とマチスはモロドフに対して率直な感想を持つ。
「まぁそうですわな。
俺も、何も好き好んでこんなところへ来たわけじゃない。
なんでマルス王子、これより我が軍はアリティアに降ります」
「えっ、それはどういう事でしょう……?」
横目にレナを見やるマチス。
彼女だけでなく、その場に居た全員が驚いていた。
もちろん、マチスの近衛隊長すらも。
「なんてこたぁない、妹の居る軍と戦うつもりはありませんよ。
それに、ミシェイルの野郎は個人的に嫌いです。
このままあなた方と戦えばこちらが負けるのは明白だ。
俺は今死ぬよりも明日死ぬ方を、明日より明後日に死ぬ方を選ぶ。
ベンソン軍は俺が加わったとしても、間違いなく勝てない」
「僕としては願っても無い話ですが……」
マルスは戸惑いつつモロドフに助けを求める。
敵側から仲間入りを申し出てきたのは初めてだったので、どうにも判断がつかない。
仮に敵の策略だとしても自分は見抜けないと自覚していた。
モロドフは眉間にしわを寄せて、少しばかりおどけた素振りを取って見せる。
「ほう、マケドニアが負けると。
おだてて取り入ろうなどと思っていらっしゃる」
「それもありますが、実際に勝ち目が無いと言っているんですよ。
馬防柵だけかと思ったら溝まで掘っている。
それに陣の中に入ってみれば、ずいぶん良い香りがするじゃないですか。
兵卒達がこちらの歩兵隊を撃破した、とも噂してましたから、
アリティア騎士達も取って返してくるでしょう。
恐らく……北からまっすぐ南下してきて我らは側面を取られる」
モロドフは一瞬だけぽかんとした表情になり、すぐに真顔に戻す。
「マケドニア貴族が皆あなたの様に学のある者なら、アリティアこそ勝ち目がありますまい」
「舐めないでもらいたい、マケドニアじゃなく俺が賢いのです」
わざとらしく胸を反らして自画自賛をするマチス。
恥ずかしそうにレナが付け加えた。
「こんなのでも一応当主ですので……」
「こんなのとは何だ、かっこいいお兄ちゃんと呼びなさい」
「でもマチス兄さん、部下の人達は?」
レナの言葉に、今まで絶句していた近衛隊長が正気を取り戻す。
「そうですマチス様! お……あなたが良くとも我ら兵士と、その家族が暮らす領地はどうなります!?」
「今お前って言いかけただろ。
そんなのはお前らが勝手にすればいい。
俺は俺に付いてくる部下と侍従とでアリティアに降る。
別にお前ら全員付いて来いなどとは言わんさ、勝手に帰ればいい。
だが今戦えば間違いなく負けるぞ。
お前はベンソン卿に報告して自分達の潔白を証明した後、
敗走なりなんなり理由を付けて兵達を連れ、ミネルバ様に連絡を取って本国へ帰還しろ。
領地は没収されるだろうが、ミシェイルとて領民を皆殺しにはすまい」
「そうは言ってもですね!」
「ちなみに俺はレナの方がお前らよりも大事だから、一人でも構わん。
しかし俺がアリティアと通じていたとなればお前らの立場も悪くなろう。
いやぁ、乱心した上司を持つと苦労するねぃ」
近衛隊長は歯噛みする。
実際問題、マチスと数名の近衛はアリティア本陣の内部に入り込んでいる。
陣地の情報は得られたから、敵対するとなれば有利にはなるはずだ。
しかしマチスが妹のレナに付いて行くと言った以上、マチス軍は二つに割れる。
近衛隊長はマチスに代わって軍を率いる責任も持ちたくないし、
逆にマチス自身からベンソン軍の情報が洩れるという事でもある。
自分はマチスの反乱とは無関係を装ってベンソン軍と共に戦うべきなのだが、勝機があるわけでもない。
ならばダメ上司の言う通り、敗走、撤退したと見せかけてミネルバ王女を頼った方が賢い選択のはずだ。
近衛隊長は数秒ほどかけて以上の結論に達した。
「分か……り……まし、た。
マチス様に従わない者を連れて帰還します」
「そうじゃないだろう?」
「はっ、くそったれの裏切り者、無責任バカ兄貴のマチスを討つべく、
ベンソン隊に報告した後にミネルバ様へ援軍を仰ぎます」
「うん……うん、ちょっと言い過ぎ」
「では、失礼します!」
そう言って近衛隊長は天幕を後にする。
残った面々はマチスの物言いに驚いた顔をすればいいのか、困った顔をすればいいのか分からなかった。
しかしただ一つ理解出来るのは、自分達はまた一人味方を得たのだ、という事である。
色々と解放されて気が楽になったマチスは、笑顔でマルス王子に向き直る。
「それで、俺の寝室には大きめのベッドを所望する。
オルバニー城に可愛い侍従も何人か連れてきているのでね、保護してもらいたい」
「――マチス卿が寝返っただと!?」
ベンソンは城の南にある橋を渡り、草原を一直線に進んでいた。
すると先行しているはずのマチス隊が、数を半数までに減らして現れる。
マチス騎馬隊は誰もが泥にまみれ、鎧を赤く染めながら満身創痍の状態でふらふらと戻って来ていた。
もう敗走したのか、と思い、ベンソンはどう慰めの言葉をかけようかとさえ思っていた。
それもマチスの近衛隊長から、
「犬畜生にも劣る逆賊マチスがベンソン卿を嫌ってアリティアについた」と聞くまでの話であった。
「マチスは我が隊が無防備なアリティア陣地に近づくと、突如裏切って味方を攻撃し始めたのです。
どうやらガルダ総督を約束されたベンソン卿を妬み、アリティアと密約を交わしていたらしく……
我々はアリティアの攻撃と指揮官の喪失で統制を失い、半数が討ち取られました」
近衛隊長が喋り終える寸前、一人の兵士が落馬した。
しっかりしろ! と周りの兵が助け起こすも、
その兵士は無残にも眼球を弓矢で抉られ、槍が腹に刺さったまま死んでいた。
その光景を見たベンソンは怒髪天を衝く勢いで頭に血を上らせた。
「クソが! 私があれだけ面倒を見てやったのに、何が妬みだ!
恩を仇で返されるとは今回以上に適切な事があろうか!
生かしたまま捕らえてマケドニアバイキングの餌にしてくれる!」
マチス軍近衛隊長は冷や冷やしつつも、何とかなった、と内心ほくそ笑んだ。
倒れた兵士は偽物であり、アリティア軍から脱走したサムシアンである。
金品を持って逃げようとするところをアリティア憲兵隊に討ち取られ、
埋葬の手間も惜しく放置されていたところをマチスの案で替え玉とされたのだった。
頭を下げながら、近衛隊長はここからが肝心だと気を引き締める。
「ベンソン閣下、我々は主の汚名をそそぐべきでありますが、
このままではマチスの領土に住む我らが家族達がミシェイル陛下によって人質とされてしまいます。
その弁明の為、ミネルバ様の下へ行く事をお許し願いたい。
ミネルバ様であれば援軍も派遣してくれましょう」
ベンソンは顎に手をやって考え込む。
「ふむ……確かにそうはなる。
そなたらに非は無いが、ミシェイル……陛下、がそう見るはずもない。
良かろう、今そなた達をミネルバ隊へ転属願う事と、後詰の要請を文にしたためる」
「はっ、何から何までありがとう存じます。
我々騎士隊は、ベンソン閣下の御恩を忘れる様な事はありません!」
「そうあってほしいものだな。
まぁ、あの男ほどのクズはそうそうおるまい」
こうしてマチス隊の半数は戦場からの脱出に成功する。
マチス隊近衛隊長は帰還途中、
「マケドニアには良い馬鹿と悪い馬鹿しかいない」と部下に漏らした。
どちらがマチスでどちらがベンソンなのか?
部下に問われた近衛隊長は、沈黙で答えたという。
マチス隊を見送ったベンソンは、再度進撃を行う。
近衛隊長達によればアリティア軍の陣地は未完成であったとの報告だ。
しかしベンソン軍が接敵するまでにどうなるかは分からない、とも。
そこでベンソンはまず敵陣地の様子を見る事にした。
歩兵隊の安否も未だ知れず、援軍が来るにしても時間はかかる。
可能性があるなら少しでもアリティア軍を削っておきたいと考えていた。
朝に会議を行い、昼に出陣し、今はもう夕方になりつつある。
そんな中ベンソン軍は進軍を続け、アリティア陣地が見える位置に到達した。
ベンソンが見たのは、未完成の馬防柵と右往左往するアリティア軍だ。
好機、と見た。
「連中はまだ陣地構築が完了していない。
このまま突撃をかけ、出来るだけの損害を与えるぞ!」
ベンソンはそう言って、突撃隊形を取る。
自身を陣形の中央に置き、正面から一気に突っ込んだ。
ベンソン騎馬隊は鬨の声を挙げつつアリティア軍へ迫る。
アリティア兵の目が見えるほどの位置に来た時、それは起こった。
最前列が突如として転倒したのである。
後続も次々と玉突きに転倒し、中には放り出されて空中で一回転した騎手も居た。
ベンソンはギリギリで踏みとどまれたが、
彼の目の前では人の身長ほどの深さの溝に落ちて泥まみれになっている部下達がもがいていた。
いや、泥ではない。
ベンソンはそれが何かの匂いを放っている事に気づく。
ハッと顔を上げて敵陣を見ると、アリティアの弓隊が火矢をつがえているところであった。
「マチス、貴様――!」
放たれた火矢は溝に刺さり、嫌な音と共に赤く燃え広がった。
溝にぶちまけられていたのは穴掘りの際に生じた泥ではなく、油であった。
マチスが「ずいぶん良い香り」と言ったのはこの事である。
モロドフ卿が馬防柵だけでは間に合わないと判断し、草で偽装した溝に油を撒いて置いたのだった。
溝で突進力が殺され、油で更に打撃を与える。
マルスが好きな戦い方ではないが、火攻めは戦の常套手段、常識ですらある。
マルスやシーダはともかく、一般的な感覚では非道な行いでも何でもなかった。
「弓兵隊、火矢はもういい! 征矢をつがえて各個に射撃するんだ!」
アリティア軍弓兵隊長であるゴードンが檄を飛ばす。
火矢は敵を怯ませて突撃の勢いを削ぐ為だけに使い、次の矢は威力の高い征矢をつがえさせた。
弓隊は陣地内からベンソン騎兵隊に対して、さほど離れていない中距離から射撃する。
マケドニア軍が混乱したのを見計らい、天幕や物陰に隠れていたアーマーナイトが壁を作った。
溝を跳躍して突破した騎兵も槍衾に貫かれ、馬と騎手が悲鳴を上げて倒れ行く。
突進して来る敵が多くなると、アーマーナイトの陰に隠れていた歩兵隊が投擲武器で攻撃を開始した。
手斧や手槍などで馬から叩き落とし、オグマやナバール達が掃討を行う。
戦列を乱したベンソン隊前衛はほぼ壊滅状態にあった。
「おのれ……おのれ……!」
ベンソンは近衛兵に拡声器を用意させる。
この時代における拡声器とは漏斗の形をした道具であり、
主に戦闘前に敵兵を恫喝、挑発する言葉合戦や味方との連絡に使われる。
腕利きの魔法使いならば風魔法の応用で声を風に載せて届ける事も出来るのだが、
その技術は魔道都市カダインでも研究中の物で、一般的ではなかった。
ベンソンは叫ぶ。
「不義理な悪逆非道の忘恩の徒、外道マチスめ、聞こえているか!
貴様は祖国を裏切った!」
突如空を抜けんばかりの大音声が響き渡り、敵味方全員がベンソンに注目する。
「やれやれだ……近衛の奴、本当に言い過ぎたんじゃないだろうな」
頭を掻きながら、マチスもレナに持ってこさせた拡声器を手に取った。
彼はベンソンの話に付き合うつもりは無かったが、言葉合戦に勝てれば敵の士気も下がると踏んだのだ。
「き~こえてますよう、敬愛なる『敵方の総大将』ベンソン卿どの」
少しわざとらしく言い過ぎたか、と自分で思うマチス。
もちろんこれは挑発以外の何物でもなかったが、ベンソンには効いた。
なまじ生活を共にし、ミシェイル嫌いという共通点を持っていた為、
ベンソンの落胆と怒りはひとしおであった。
「敵! 敵だと、恥さらしめ!
私に対する敵意や悪意だというのならば、まだ私も我慢出来たであろう。
だがマケドニアを裏切るとは思いもしなかったぞ、逆賊め!」
「知りやしませんよ、そんな事。
何故自分の尻尾を追いかけるトカゲの様な国に忠誠を誓わねばならんのですよ。
マケドニアとは竜であり、マケドニアとは天馬であり、マケドニアとは天空に輝く盾である。
それを勘違いした人間が父殺しをして、帝国の犬となっては、それはマケドニアではございやせん。
我々は竜を使うのであり、竜に使われる民族ではありませんからね!」
隣でマチスを見ていたレナは、竜に使われる、という言葉にだけは真剣な声音が篭っていた事に気づく。
自分の兄とて貴族の端くれであり、愛国心はあるのだろうと。
しかしそれはミシェイル王に対してではなく、祖国そのものの話だ。
兄は故郷を好いていても、国を動かしている人間を好いてはいない。
それはレナにとっても同じ話であった。
だがベンソンは違った。
「ミシェイルの事はいい、ミネルバ様はどうする!
我々は形式上ミネルバ様の軍団に属する貴族であり、
あのお方ならばノブレス・オブリージュに基づく正当性を行う事確実である!」
「高貴なる者は義務を負う、それはよろしい事だ。
しかしあの方はミシェイル王の妹であり、今は傀儡に過ぎない。
仮に私が今マケドニアに戻ったとして、あの方は爽涼かつ炎の様に熱い瞳で私を許すだろう。
だけど、そんな事は私には関係ないのですよ!
勝機が無い。
勝機が無いけど死にたくはない。
俺は自分が生きる為なら国も捨てるし、部下も捨てる」
「お前はそれでも人間かッ!」
「誇りと愛国心をはき違えて、死ぬ為に戦っているのが人間ならば俺は犬で構わん。
だがアンタらも人間じゃない、俺と同じ犬さ!」
ベンソンは頭に血が上り過ぎて立ちくらみを起こす。
もはや自分がミシェイル王を呼び捨てにしている事も気づいていなかった。
マチスの言う事にも一理あったが、最後の台詞が説得の意を台無しにした。
マチスが思う以上にベンソンはマチスを買っており、
話し様によっては寝返るとまではいかずも休戦ぐらいは可能であった。
ベンソンはそう思っていたのだが、マチスの口が「俺と同じ犬」と発した瞬間、
休戦の気持ちは一瞬で吹き飛んでいた。
自分は貴様の様な裏切り者ではない、と。
「全軍っ、我に――」
続け。
ベンソンがそう言おうとした時、副官が悲鳴じみた声を挙げる。
「閣下、アリティア騎士団です!」
「ちぃっ!」
見れば、北側よりアリティア騎士の群れがベンソン隊の側面へ土煙を上げて迫って来ているのが分かる。
ベンソンは頭に上った血が、半分ほど引いていくのを感じた。
脳みその冷静な部分が、即座に撤退しろと告げている。
副官にそれを伝え、一時退却の合図を出させた。
一方でマチスはあちゃーと顔を片手で覆いつつ、
「もう少し遅ければベンソンを突撃させられたのに」と不満気に呟く。
「ベンソン卿、次はオルバニー城の牢獄で会おう!」
「違うな、貴様が断頭台に上がるのだ!」
最後にそう言い交し、ベンソン騎兵隊は踵を返す。
既にアリティア歩兵隊によって騎兵隊の三分の一ほどを損失していたベンソン軍は、脱兎の如く逃げ出した。
当然アリティア騎士団がそれを黙って見逃すはずもなく、追撃戦に移る。
マケドニアにおいて、騎兵とは主力である。
しかし新兵や練度に劣る兵全てに上質の馬をあてがうわけではない。
アリティアは義勇兵交じりの遠征軍であるものの、
テンプルナイツの軍馬はまだ疲労の極みには至らなかった。
主に古参騎士が積極的な追撃をかけ、次々とマケドニア騎兵隊に追いついていった。
一人の騎士が、ベンソンに追いすがる。
「我はアリティア宮廷騎士団、蛇骨のガル! いざ覚悟めされよ!」
騎士が銀の剣を繰り出す。
ベンソンは愛槍ナイトキラーを振るい、その刃を打ち払った。
「私とて騎士の端くれである!」
返す刃で、ナイトキラーはアリティア騎士の額を打ち砕いていた。
騎士はベンソンの斜め後ろを走っており、助走の勢いはアリティア騎士の方が上であった。
しかしベンソンは肉厚かつ円錐状の穂先にて騎士の頭蓋骨を貫くのではなく粉砕し、
後には主を失った軍馬が走るのみである。
「お前達は先にゆけ!」
ベンソンはやや速度を落とし、部下を先行させる。
その動きを見たカインが胸を躍らせ、ベンソンと並走した。
「アリティア宮廷騎士団、猛牛のカイン。
騎士の鑑たる貴殿に敬意を表して、お相手仕る!」
「ハッ、通り名だけで騎士が名乗れるか!」
ベンソンとカインは槍を重ねる。
上段の振りをカインが弾き、横薙ぎをベンソンが受け止める。
どちらかが槍を引けば突き、突けば引く。
フェイントを幾度も交え、腕の筋肉を引きつらせながら相手の喉元に喰らいつかんとする。
十数合ほど打ち合っても決着がつかず、両者は呼吸を荒げた。
その時、反対側からアベルが手槍を持って接近する。
「カイン、我らは戦をしている……!」
「なにっ、邪魔をするなアベル!」
アベルの放った手槍が、ベンソンの馬目掛けて飛ぶ。
「クソッ」
ベンソンは咄嗟に脚を大きく振り、ふくらはぎで手槍を受け止める。
グリーヴを貫通し、手槍は脚に風穴を開ける。
激痛に歯を食いしばりながらも、ベンソンは絶叫と共にナイトキラーを両手で振り払った。
「おおおおおッ!」
円錐状の槍は横に振れば鈍器と化し、カインを馬上から殴り落としていた。
ベンソンはそのまま馬上で上半身を全力で捻り、
反対側で驚愕に目を見開いていたアベルをも叩き潰していた。
アリティア騎士団の双璧は馬と共に転倒し、草原に放り出される。
猛牛と黒豹が倒された事でアリティア騎士団は動揺し、追撃を止めて救助に入った。
「カイン、アベル、大丈夫か!?」
既に十騎ほどのマケドニア騎兵を討ち取っていたジェイガンが、慌てて駆け寄る。
両騎士は頭を振りながら身を起こし、自分や相方の身よりもまず馬の心配をした。
どんなに愛着を持っている馬でも脚が折れれば生きてはいけない。
人間とは違い、馬の脚の骨折を治すのは治癒魔法を以ってしてもほぼ不可能である。
馬を見やり、カインは愕然とした。
馬鎧を付けた軍馬が、横たわってもがいていたからである。
それが後ろ脚を捻じ曲げた愛馬だと、頭では解っても心が理解したがらなかった。
あまりの突然な出来事に、カインはそこが戦場だというのに頭の中を真っ白にして動けないでいた。
「……カイン」
アベルが呟くように言う。
彼の馬は何とか無事であった。
だが愛馬を失うというものがどういう事かは騎士であれば知っている。
カインの気持ちが手に取る様に解り、どう声をかけても意味の無い事だと、アベルは黙した。
馬とはいえ命が失われたのである。
他人が当事者たちにどうこう言えるものではないと分かっていた。
しかし騎士団長のジェイガンとしては、このままカインを呆けさせているわけにもいかない。
「現実を見ろ、カイン! 真っ直ぐ立ち、敵を見据え、槍を構えよ!
お前は私やアベルが死んでも同じ様にするつもりか?
人でも馬でも、誰の死を見ても自分の死は見るものではない!」
「は……はっ!」
カインは正気を取り戻し、槍を構えて辺りを見回す。
最も、そこは既に戦場ではなくなっていた。
周辺には倒れた敵味方しかおらず、生き残ったベンソン軍は草原の彼方に小さく見えるのみだ。
ジェイガンの意地悪ではない。
失敗を犯した部下はその場で叱らねばならない、というのは犬でも人間でも同じ事である。
事を起こした直後に身に染みて理解しなければいけないのだ。
「カイン、介錯をしてやれ。
それが騎士に出来る相棒への愛というものだ」
ジェイガンの言葉を聞いたカインは硬直する。
数秒ほど逡巡していたが、自分で自分の頬を両手で引っ叩いて決意を固めた。
カインは剣を持ち、愛馬に近づく。
横倒しのまま鳴き声を上げる愛馬に、カインは涙を流しながら剣を振りかぶった。
「俺の未熟さだ!」
カインは愛馬の首を突き刺す。
人間と同じくらいの拒否感を与える愛馬の断末魔に、手の力が抜ける。
それではいけない。
自覚したカインは再度力を込めて、愛馬の喉を抉った。
馬が事切れても、刺さったままの剣を握り続け、涙を馬の身体に浴びせ続けていた。
「まだお前達も、騎士としては半人前なのだ……」
アベルの肩に手を置き、ジェイガンは言う。
そうだろうなとアベルは思った。
テンプルナイツなどと言っても所詮自分達は若輩者である。
問題はこれを糧に成長出来るかだが、それは問題ないとアベルは考えていた。
こんな負け方をして成長出来なければ、そいつは騎士たる資格など無いと。
気づけば空は夕焼けに染まっていた。