ところで、突然ではあるが東海道中膝栗毛という江戸時代の滑稽本を知っているだろうか。簡潔に述べれば二人の男が旅をしながら起こす面白おかしい失敗談を滑稽に綴ったものである。
その失敗談の中には初めて使った五右衛門風呂の床を踏み抜いてしまうという物がある。そしてルーミアはそれをやってしまった。ただ、彼女は原作であったような雪駄などは履かなかったが。
五右衛門風呂というのは要はドラム缶風呂であり底に足を付けると当然熱い。なので踏み板と呼ばれる物を入れておくのだが、木製なので当然浮く。
ルーミアはこれを蓋か何かと勘違いして退かしてしまい、そのまま入浴した。そして悲劇は起こったのだ。
そのままざぶんと飛び込み、ルーミアは真鍮でできた熱々の底に足を付けてしまう。人間としては当然「あち、あち」と言いながら足踏みしつつ脱出を試みるだろうが、ルーミアは妖怪でさらに力自慢であったのが災いした。
「ごめんなさい…」
ルーミアは風呂場でしょんぼりとした感じで正座をし、頭を垂れていた。その恰好はタオル一枚という出で立ちであり、目に毒という言葉がぴったりだろう。
しかし落ち込む彼女とは対照的に千太郎は「大丈夫だよ」と顔を背けながら言う。その顔はほんのり赤みがかっていた。
その赤い顔を見てルーミアは怒っていると勘違いを起こし、重ねて謝罪する。そうして事態は堂々巡りとなった。
が、その堂々巡りを打破する人物が現れる。
「おい千太郎ぉ、でっけえ音したけど大丈夫か?」
現れた人物は髭面でやや髪の色が薄く、筋骨隆々という言葉が似合う三十代後半くらいの男だった。そしてそれを見た千太郎は驚いたように名を呼ぶ。
「あ、保田のおっさん!」
そう、この人物こそ千太郎の話に出てきた力自慢の大工である。そしてその保田は千太郎とルーミアを見て、いやらしい笑みを浮かべながら千太郎に詰め寄った。
「おい千太郎ぉ、お前いつから女の子なんぞ家に連れ込むようになったんだ?それも金髪の別嬪さんをよぉ」
「そっ、そんなんじゃねーし!」
「照れるな照れるな、俺も若い頃にゃ女の子と遊びまわったからなぁ」
保田は肘で「憎いね色男」と云った感じで千太郎の肩をつつき、千太郎は顔を真っ赤にしながら猛抗議をした。それを見ていたルーミアはポカンと見上げるしかなかった。
その視線に気付いたのか、はたまた気まぐれか、保田のおっさんはルーミアに話の向きを変えた。
「そこの別嬪ちゃんよ、名前はなんていうんだ?」
「え?ルーミアだけど…」
「ルーミアちゃんね。俺は源次郎ってんだ、よろしく」
そう右手を挙げて元気よく自己紹介をする保田のおっさんこと源次郎。しかしルーミアの視線は泳いだままで、源次郎はその視線の先を追った。そしてそこに騒音と、彼女が正座している原因を見つける。
「おお、嬢ちゃん風呂の底抜いちまったのか?そりゃでっけえ音もするわな」
そして「よし!」と源次郎は自分のすねを叩き、ルーミアを慰めるように言った。
「明日直しといてやるからそう落ち込むな!千太郎だってこんなの気にしちゃいないだろうし、な?」
しかし話を振られた千太郎は顔を赤くしてそっぽを向いている。それについてルーミアが口を出した。
「でも千太郎、顔真っ赤にして怒ってる」
「んん?怒ってる?いやいや、あれは照れてんのさ」
「なんで?」
「そりゃ女の子の裸なんぞ千太郎は見た事ないだろうしなあ。あの様子じゃルーミアちゃんに惚れてんじゃねぇの?」
そう彼が言うと千太郎はバツが悪そうに後ろを向いてしまう。それはある意味肯定を示していて、それに気づいたルーミアの顔も少し赤くなっていく。
それを見ていた源次郎は「若いってイイねぇ」と腕を組んで笑っていた。
それからは済し崩し的に話が進んでいき、というよりは源次郎が話を一方的に進めて明日風呂を直しに来ることとなった。
そして「じゃっ!」と小気味よい挨拶代りの声を残して源次郎は千太郎の家から出ていく。残されたのは気まずい雰囲気の二人だけだった。
「えっと、とりあえず服着てよ」
「…うん」
逃げるように千太郎は風呂場から出ていき、ルーミアは体を拭いていった。
半分ほど乾いていたのですぐに体はふき終わり、彼女は自分の服を脱いだあたりに視線をやって着替えの服が用意されてるのに気付いた。それは小袖と呼ばれる女性用の普段着と言えるもので帯と共においてあった。
質素といった感じで綺羅びやかとは縁遠い感じではあったが、濃い墨染めのなかに一輪だけ咲く椿の色が何とも言えない美しさを醸し出している。
「わぁ……すごい」
ルーミアはこれを見た瞬間とても気に入った。そしてさっきまでのギクシャクした感じはどこへやらといった感じで袖を通す。そして一分もしないうちに帯まで付けてしまい、そのままドタドタと足音を立てて寝室へと向かっていった。
「千太郎ー!みてみてー、これすっごく気に入っちゃった!」
そして驚く千太郎を尻目に彼女はくるくると回る。そしてそれは千太郎の目から見ても大変似合っているように見えたので、呆けたようにじっと見ていた。
しばらく回っていたルーミアであったが先程の「惚れてんじゃねえの?」という源次郎の言葉を思い出して、「あっ」と声を上げその場に固まったまま顔を赤くしてしまった。
出来上がる男と女の見つめ合った状態。当然二人の顔は真っ赤だ。
しばしの静寂。そしてその静けさを取り払うようにポツリと千太郎は言った。
「その、すっごく似合ってるよ」
彼のその言葉を弾みに、恋愛の免疫が無いルーミアの頭はパニックを起こした。
「ひ…ひゃああああああああああ!!」
奇声を上げながらバタバタと両手を動かし、ルーミアは玄関から外へと飛び出してしまう。
うるさいぞ、ヤるなら静かにヤれ!と源次郎の声が聞こえたのは程なくしてであった。
────────────────────────
結局、ルーミアが千太郎の家に帰ってきたのは朝になってからである。
千太郎が家から出てどこかへ出かけようとしているときにルーミアを見つけて一声掛け、ルーミアは彼がどこに行くのかが気になってなんとなく同行する。
二人の間に沈黙が流れる。ただなんとなく気まずい感じがするのを二人は感じていたが、それに業を煮やしたのか千太郎が話を切り出す。
「なぁ、ルーミアねーちゃんってさ、寺子屋って行ったことある?」
それに驚きルーミアは戸惑うが、このまま黙り込むのもどうかと思い話に乗る。
「昔、ちょっとだけ」
「ホント?じゃあ一緒に行こうよ」
そう言って彼は手を差し出す。ルーミアは何故か気恥ずかしい感じだったが、その手をしっかりと握った。
彼女は自分の顔が赤くなっていくのを感じたが、千太郎も同じようなものを感じていたように見えて思わず頬がほころんだ。
しかしふと周りを見ると、道行く人たちの視線が自分たちに向いていることに気付いた。その視線のいずれもが微笑ましいものを見る目であり、気恥ずかしくなった二人の歩きは次第に速くなっていくのであった。
団子屋、蕎麦屋、謎の診療所などの隣を抜けてさらに少し歩いた所に寺子屋はあった。そしてその寺子屋の前には腕を組んで佇む青いワンピースを着た女が立っている。
彼女は上白沢慧音といい、人間としての見た目は十代後半から二十代半ばといった感じだ。というのも彼女は童顔で、かつ発育がいいために見た場所によって印象が異なるからである。
この人里では知らない人は居ないほどの有名人であり、そしてこの寺子屋の先生その人である。普段は厳粛を身の上とする慧音だが、千太郎が女の子と手を繋いでいるのを見て頬を緩めた。
「おはよう千太郎。お前にも『いい人』ができたのか?」
当然、慧音の言う「いい人」とは配偶者や婚約者、もしくは男女としての付き合いのある者を指すものである。対して千太郎は否定するでもなく顔を赤くして俯いてしまうが、一方でルーミアは「仲のいい人」的な解釈をしたようでキョトンとしていた。
しかし軽口を飛ばす慧音もすぐに態度を改める事となる。千太郎の後ろに隠れていたルーミアの顔が、彼が俯くことで慧音から見える形となったのだ。
「お前、ルーミアか!?」
「そうだよ。久しぶりだね慧音先生」
どうしてお前が人間と!そう叫びそうになったが、慧音はその言葉をグッと飲み込んだ。吸った息は代わりに大きなため息となって口から漏れていき、彼女の心情を代弁する。
「まあ、事情は知らんが……授業を受けるなら中に入れ。邪魔さえしなければ居眠りでも何でもしろ」
かなり投げやりな感じだったがルーミアは好意的に受け取り「お邪魔しまーす」と言いながら千太郎の手を引きながら寺子屋の中へと消えていった。
それを見ていた慧音は、心配事を一度にたくさん背負ったように眉間に皺を寄せるばかりであった。
さて、手を繋いだまま寺子屋に入った二人は子供たちの話題の中心となっていた。
ある男の子は「やるじゃねーか」と千太郎を褒め、またある女の子は「すごく綺麗な色の髪だね」とルーミアを褒めていた。中には妬みを持った男の子たちも居たが女の子たちの無言の圧力によって何事も起きることは無かった。
この浮ついた雰囲気は授業が始まっても簡単には収まらず、慧音の頭痛の種を更に一つ増やすことになったのは言うまでもない。まぁ、子供たちにはあずかり知らぬ事だろうが。
だがこの雰囲気の中でもルーミアは真面目に取り組む気があるようで真面目に授業を聴いている。ルーミアの気まぐれで来たのなら長続きはしないだろうし、毎日来るようでもそのうち騒がしさも収まるだろうという事で慧音はその件については目を瞑った。
やがて授業は刻々と進んでいき、放課後となった。慧音は当たり前のように千太郎と帰ろうとするルーミアを引きはがすように呼び止め、そして寺子屋にある空き部屋に連れ込む。
そこは机が一つと、それを挟み込むように配置された椅子が二脚あるだけの殺風景な部屋だった。慧音はルーミアを先に行かせると扉を後ろ手で閉じ、内鍵をかけつつルーミアに問いかけた。
「お前、どういうつもりだ?」
慧音の問いにルーミアは何の事を言っているのか分からないという事を首を傾げるという行為で表す。慧音は頭痛を堪えるように頭を押さえて、もう一度問いかけた。
「お前は千太郎をどうしたいんだ?」
「仲良くなりたい!」
今度の問いには即答だった。この回答で慧音は気分が悪くなったのかよろよろとした足取りで椅子に近づき、身体を投げ出すように座る。
慧音は両手で顔を覆い、呟くようにもう一度ルーミアに問いかけた。
「本当は覚えているんだろう?」
そして顔に張り付いた右手を剥がし、「それだ」と言いながらルーミアの頭を指さした。正確にはルーミアの頭にあるリボンのようなアクセントを。
はっと息を飲んだルーミアは自分の頭に触れようとして止めた。それを見た慧音は嘲笑を浮かべて言う。
「そうだ、それは触れないようにできている。何故かはお前が一番よく知ってるんだ……」
慧音は苦虫を噛み潰したような顔を隠すように右手を元の位置に戻す。そして「行け」と囁くようにつぶやいた。
ルーミアは言われるがまま外に出た。扉を開ける時に妙に大きな音がしたが、これ以上慧音と顔を合わせるのも気まずいと思いルーミアはそのまま立ち去った。
誰も居なくなった部屋で慧音は一人ごちる。
「変わってないな、まるで」
その部屋に残されたのは椅子が二つと机が一つに苦悩を抱えた教師が一人。そして開かれた扉とそれに付属していた内鍵の破片がいくらかだった。
────────────────────────
「見ーちゃった、見ーちゃったー♪」
千太郎とルーミアが帰ろうと二人が玄関に立った時、突然空間が裂けた。空間と裂け目の境目の部分に手を掛けて上に登るように先程の声の主が姿を現す。
「はぁい、ルーミア。いい服着てるじゃない」
声の主は道士服を着た、見た目二十歳前後の背の高い女性だった。長くしっとりとしたブロンドに、それと同じ色をしたゴールドの瞳。その綺麗な瞳がルーミアを射抜くように見つめていた。
名を呼ばれたルーミアは突然現れた女に驚きながらも、「誰?」と言わんばかりに首を傾げる。
「あ、覚えてないのね」
女は肩透かしを食らったように残念そうな顔をしながらがっくりとうなだれた。そしてルーミアに詰め寄りながらこう言う。
「ホラちゃんと私の顔を見なさい。紫よ、ゆーかーりー。今度はちゃんと覚えなさい」
紫と名乗った女はルーミアの額を人差し指で一突きした。「あう」と情けない声を出したルーミアを笑いながら彼女は千太郎に視線を向ける。
「貴方、千太郎…だったわね?この子はこう見えて結構強引だから食べられないように気を付けなさい。あ、勿論ベッドの上での話よ?」
まくし立てるように言い放った紫の言葉に千太郎は顔を真っ赤にしていく。そんな彼を尻目に紫は「じゃあねー」と手を振りながら空間の裂け目に消えていった。やがて紫の消えた裂け目も消えてしまう。
おでこをさするルーミアとまだ顔の赤い千太郎が顔を合わせ、二人して「何だったんだろう」と声を合わせる。当然答えはなど返ってくる訳も無く、人気のない寺子屋の中に声が空しく響くばかりであった。
返ってこない返事を待ってもしょうがないので二人は寺子屋の玄関の扉を開ける。すると正面に腕を組んだ女性が立っていた。
「遅いぞセンタロー!私を待たせるとはいい度胸ではないか!」
「あ、スティルさん。ごめんなさい…」
「はっはっは、許す!」
この声の大きな女性の名はスティル。背はかなり高くおよそ六尺強、メートル法で1.8メートルほどだ。長羽織を身に纏い、茶色い髪は肩の上くらいで切りそろえている。目は鮮やかな赤だが、その瞳孔は猫や蛇のように縦に大きく伸びていた。見るからに妖怪である。
彼女はルーミアに興味があるようで、千太郎と挨拶を交わした後にじろじろと舐めるようにルーミアを見回し始めた。
「な、何?」
「いやー。お主、可愛いのう。センタローが惚れるのも無理ないわい」
その言葉にルーミアと千太郎の顔が赤くなる。それを見たスティルは「若いってイイのぉ」と腕を組んだまま笑った。そして。
「さあ、帰るぞセンタロー!ルーミアも来い!」
「えっ?」
ルーミアは問答する暇も与えられないまま右手を引っ掴まれた。スティルの方を見ると反対の手には千太郎の手が握られている。この状況の見た目は二人の地球人に捕らえられた宇宙人といった感じだ。地球人と宇宙人の配役が逆ではあるが…。
スティルもルーミアに負けず劣らずの怪力のようで、二人を引きずるように寺子屋から遠ざかって行く。ルーミアはこの強引さに呆れながらも不思議な大らかさと母のような温かさを感じ、仕方ないなと言った感じで大人しく引きずられるのであった。
さて、引きずられるままやって来たのは千太郎の家。ではなく、その隣の家であった。スティルが玄関の前に立ち、足で器用に扉を開け放つ。戸は勢い余って反対側の枠とぶつかり「ドカン」といい音を立てた。
「帰ったぞゲンジロー!」
スティルは相変わらずの大声で叫んだ。そしてその声に反応した源次郎が奥の部屋から顔を出す。
「帰ったかスティル。千太郎とルーミアちゃんもちゃんと居るな?じゃあ早速メシにするか!」
「よし、では早速晩餐に取り掛かろう!」
その一言を合図にして、千太郎とルーミアは解放された。
その後も「今日は豪華にいくか?」「酒もつけよう」「じゃあ濃い目の味付けで…」といった感じに源次郎とスティルの間でトントン拍子に話が進み、千太郎とルーミアは完全に置いてけぼりを食らった。
お勝手に消えていくスティルと源次郎を見送り、何が起こってるのかわかってない感じのルーミアを見た千太郎は落ち着いた感じで話しかけた。
「俺んちさ、親が居ないから保田のおっさんとスティルさんが面倒見てくれてるんだ」
「なーんでスティルは名前で呼んで俺の事を名前で呼んでくれんかねぇ」
話に食いついたのはお勝手から顔を覗かせた源次郎だった。年甲斐もなく唇を尖らしてわざとらしく不機嫌な顔をしている。千太郎は、はにかみながら「だってその方が慣れてるし」と口から漏らした。そして、でも、と話を続ける。
「ルーミアねーちゃんまで一緒に食べてってもいいの?」
「お前は女の子にひもじい思いをさせてえのか?」
「そんな訳ないけど…」
「じゃあ食ってけ!金は取らねえからよ」
源次郎はそう言って千太郎の背中をバシバシ叩く。そしてルーミアの方を見て問いかけた。
「ところでルーミアちゃんはどのくらい食べるんだ?」
「えっと、食べていっていいの?」
「良いさ良いさ、せっかく千太郎にも色が出てきたんだ。祝ってやんなきゃ、なあ」
源次郎の目配せで千太郎の顔はまた赤くなった。ルーミアはいまいち意味を理解できなかったが、しかし元気よくこう言った。
「私、たくさん食べるよ!」